存生記

存生記

2006年07月08日
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「ジョルジュ・バタイユ ママン」を新宿で見る。すごい邦題だ。「ママン」だけではインパクトがないということで、バタイユの名前を前に押し出したのだろう。母親が息子に倒錯した性の世界の手ほどきをする話だが、母親役がイザベル・ユペール。「ピアニスト」でも鬼気迫る演技で年下の男を弄んでいた。演技力に定評があるということで抜擢されたのかもしれないが、「ピアニスト」でお腹いっぱいになったのでいささか食傷気味である。フランスにはイザベル・ユペールを雇わないといけない法律でもあるのだろうか。イメージ的にはもう少し綺麗な女優さんでお願いしたかった。老いや醜さを表現するためのキャスティングであれば文句はないのだが。死とエロスの関係を描こうとした作品と言えなくもないからだ。イメージではなくてリアルなものをということであれば、じゅうぶんにリアルな容貌である。

 レア役の女優がスナックのママさんみたいな酒焼けした声で下品な感じがよく出ている。アンシー役の人が若くて清潔感があるのが画面的には救いか。主人公の「憂い顔の騎士」はあんな感じだろう。とはいえ原作と異なる点も多い。映画ではスペインのカナリア諸島という設定になっている。ラストの場面などはバタイユの別の小説から引用している。原作に忠実に作る必要はないし、むしろ違っているほうが原作を知っている人にとってはおもしろいだろう。ピアフの「愛の賛歌」のシンディ・ローパーのヴァージョンやタートルズの「ハッピー・トゥゲザー」が流れるのも意外な感じだ。

 猥褻な描写という点であれば、映画館で上演する時点で限度がある。今回の上映でもぼかしだらけで興ざめであった。クロソウスキーの「ロベルトは今夜」の映画版でも感じたが、いわば宗教的エロティシズムというのを描くのは難しいし、日本人が見ても違和感がある。そもそもエロティシズムという忘我の営みを映画館で冷静に眺めている点で違和感は避けられないのかもしれない。冷静に見れば、エロティシズムというのはなんと滑稽なことだろう。だが、滑稽であっても完全に突き放すことはできない。完全に枯れてしまった人でないかぎり、大多数の人々は、日々、欲望に突き動かされながら生きている。フロイトではないが、そうした欲望を多元的に昇華しながら人間の体裁を保っている。

 エロティシズムというと獣性のイメージがあるが、突き詰めていけば、なんとも人間的と言うほかない倒錯へと向かう傾向がある。倒錯には技術と知性が関係する。先日も女装して電車内で性器を出して捕まった男のニュースがあったが、これなどは型にはまった倒錯の罠に陥ったと言えるだろう。型にはまらない極限のエロスを追求してゆけば、結局のところ死に近づいてゆく。「愛のコリーダ」でも描かれていたが、死に近づいてもそれはやはり滑稽と紙一重のもののようである。宗教の儀式もその信徒でなければ滑稽に感じることがある。宗教もエロティシズムも非日常という神々しい次元に身を投げ出そうとする傾きをもつが、この映画ではその両者が互いにスプリングボードとなりながら跳躍しようともがく人間を描いているけれども、映像としてうまく定着できたかと言えば疑問符をつけざるをえない。記憶喪失や白血病を使って純愛を描いたほうが遙かに楽な作業なのだろう。世俗化された21世紀においてエロティシズムはそれぐらい難しいテーマになってしまったのかもしれない。
maman





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最終更新日  2006年07月09日 01時18分35秒


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