ここいらで、自分の学生時代を振り返ってみようかな。
疑問、誤解、反感を覚悟で正直に申しますが、自分の小中高の学生時代を振り返ると、
自分の周りには、いわゆる「いじめ」や「スクールカースト」的な構造は無かったと記憶している。
正確には、あったのかもしれない。ただ僕が気付いていなかったのかな。
重ねて、疑問、誤解、反感を覚悟で正直に申しますが、
僕は、幼少の頃から自己承認欲求というのが極めて薄い人間だった。
ハッキリ言って、他人の評価など知ったことかと思って生きていた。
たとえ物質的に群れの中にこの身を置いたとしても、心はまったく別の場所を漂っていた。
心理学者アブラハム・マズローの「欲求5段階説」によれば、
人間の欲求には5段階あり、低次の欲求が満たされると、高次の欲求が現れてくるという。
①生理的欲求=基本的・本能的な欲求。食欲、性欲、排泄欲、睡眠欲など。
↓
②安全欲求=安心・安全な暮らしへの欲求。
↓
③社会的欲求=友人や家庭、会社から受け入れられたい欲求。集団への帰属を求める欲求。
↓
④自己承認欲求=他者から尊敬されたい、認められたいという欲求。
↓
⑤自己実現欲求=自分の世界観・人生観に基づいて、あるべき自分になりたいという欲求。
多くの人が、④の欲求を満たしては枯渇し満たしては枯渇する「自己承認欲求の餓鬼」と化し、
SNSという無限地獄で、広く浅い「いいね」を求め彷徨っていることが、昨今問題視されている。
しかし、このマズローの説によれば、自己承認欲求とは、
少なくとも食べるものに困らず、屋根のある家に住み、当然のように家族がいて、
学校があって、会社があって、仕事がある、という①~③の欲求は満たされた上での、
高次の欲求ということになる。
難民、被災者、戦禍の民は、当然自己承認欲求以前の欲求に枯渇しているわけだから、
自己承認欲求とは随分と贅沢な欲求である。良くも悪くも、置かれた環境が平和であることが大前提だ。
さて、僕のように自己承認欲求に飢えることのない人、あなたの周りにも稀にいるでしょう?
そういった人達は、何故日頃から欲求に淡泊でいられるのでしょうか?
その答えは実にシンプルです。
既に自己承認欲求が満たされきっているからです。
人によって食材はそれぞれだけど、常に何かでお腹いっぱいなので、眼前のケーキに惹かれない。
自己承認欲求が無い人などいない。ただし常に満たされている人は稀にいる。ここがポイント。
かつての僕にとって、僕の自己承認欲求を満たしてくれる存在、それは母でした。
今は妻のU子さん。
経験上、僕は自己承認欲求は、量より質だと思っている。
この世界にたった一人、自分のことを無条件に受け入れてくれる人がいる。
この事実は、何万件の「いいね」に勝る安心感、安定感、自己肯定感を人に与えてくれるものなのだ。
ちなみに、先の心理学者のマズローは、更に高次の⑤自己実現欲求の成功者に共通している特徴として、
「限られた人たちと深い人間関係を結んでいる」ことを挙げている。
多くの成功者たちの人間関係は、実は狭い。そして深いのだ。
僕の母は決して過保護ではなく、逆にややネグレストの傾向のある人だったし、
僕が母と殺人事件のニュースを観ながら「もし僕が人を殺したらどうする?」と質問したら、
「うちの子を死刑にして下さいと、裁判官に全力で訴える」と平気で言うような人だった。
それでも僕の心は、常に母で満たされていた。
この人は、勉強が出来たら認めてあげるとか、スポーツで一番になったら認めてあげるとか、
私の言う通りにしたら認めてあげるとか、条件付きで僕を認めようとしない。
この人だけは、無条件で僕という存在を認めてくれる。そんな染み入るような安心感があった。
母のことだから、もし僕が人を殺したら、本当に絶対に僕を死刑にしたと思う。
上手く言えんけど、それでも、最後は僕という存在を人知れず受け入れてくれるというか……。
そんな環境にいた僕が、他人の評価、周囲の目、同調圧力、いじめ、スクールカースト、
いちいち気になろう筈がない。
オヤとか、コとか、カゾクとか、何を定義としているのか、考えれば考えるほど分らなくなるけど、
ただまあ、僕も我が子にとって、かつての母や今の妻のような存在でありたいと思う。
もし自分の子供がいじめにあったら?
先ずはその子の置かれた今現在を、無条件で受け入れる。全てはそこからだ。
以上っす。
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