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来月、大阪高松大司教区の六甲教会で講習会を行うことになりました。聖週間という盛沢山の内容なので、どれくらいのお話と練習ができるかわかりませんが、お時間の都合のつく方はぜひ、お出かけください。なお、大阪には2日の土曜日、お昼少し過ぎから5日の火曜日、お昼前まで滞在しております。
2024.02.02
髙田三郎氏の奥様 髙田留奈子氏が 5月11日101歳の誕生日に 帰天されたと お嬢様からのお知らせが フェイスブックに掲載されました。留奈子氏は『カトリック聖歌集』374番「野ばらのにおう」の作曲者でもあり 麻布教会の1954年4月13日の献堂式では グレゴリオ聖歌を指揮されました。留奈子氏のすすめもあり 三郎氏もカトリック教会の門を叩き 受洗されました。お二人とも 神の前で 一緒に賛美の歌を歌っておられることと思います。神に感謝。
2020.05.14
小教区では4週間に一回 オルガン奉仕をしていますが いつも気になることがあります。それは 祈りのテンポです。とはいっても 四分音符= というような 速さのことではありません。祈りの文言 テキストが長いものに関して どうも「歌い飛ばす」傾向が 多々聞かれることです。一番 気になるのは「回心の祈り」と「主の祈り」。「回心の祈り」は 普段から 唱えて祈るということはありませんが 「主の祈り」は ミサや教会の祈りでのように 旋律や伴奏をつけないで 唱える場合にも わたくしの感性からすると 皆さん 早口で唱えるように感じます。普段は口に出しませんが 「その速さで 祈りを味わって唱えていますか。その祈りのテキストの場面を 目の前の出来事として 実現できていますか」と 問いかけたくなることがあります。「主は皆さんと ともに」「また 司祭とともに」というような 対話句は テキストの文言が短いので 比較的歌い飛ばすことはありませんが テキストが長いものに関しては しかも 覚えてしまっている分 歌い飛ばす というよりも「祈り飛ばしてしまう」傾向があるのではないでしょうか。それが 特に目立つ(聞いているから 耳だつかもしれませんね)のが ミサの場合には「回心の祈り」や「主の祈り」というわけです。これらの祈りは 旋律もそれほど複雑ではなく 同じ音が続くことも 祈り飛ばしてしまう一因になっているのかもしれません。しかし 本当にそれでよいのでしょうか。例えば「回心の祈り」のテキストを見てみましょう。「告白します」の 次の「わたしは」ということばは だれでもない この「わたしは~~~罪を犯しました」という意味で しっかりと自分自身を見つめて思い起こして祈ることばですから 決して スラっと歌い飛ばすものではありません。ゆっくりと自分自身を見つめて丁寧に「わたしは」と告白を始めるものです。その先の「聖母マリア すべての天使と聖人」も ある程度の速さは必要ですが 今 わたくし(たち)とともにいてくださる 聖母マリアとすべての天使と聖人の実存を感じて 祈っているでしょうか。さらに その先の「そして 兄弟の皆さん 罪深(ふか)いわたしのために 神に祈ってください。」という 兄弟姉妹への祈りの嘆願を 心から頼んでいるでしょうか。主の祈りでも同じことが言えるでしょう。一番 陥りやすい「祈り飛ばし」は 最初の文章 父への呼びかけです。「天におられるわたしたちの父よ」という この呼びかけ ともすれば 祈り飛ばして 時には司祭の祈りの招きの倍の速さで始まることもあります。しかも 最後のリタルダンドがかからず 「ちちよーー」となってしまうことも。これでは 天の父にこの先の祈りを聞いてもらうためのものではなく 目の前にいる出来損ないのおやじの胸倉をつかんで怒鳴り散らすようなものです。本当に 天の父に呼びかけが届いているかどうかを確かめながら きちんと祈るならば 司祭の招きのことばと同じくらいかやや早めに初めて 最後は リタルダンドしながらディミヌエンドして 天の父の前に呼びかけが静かに届くように祈るものではないでしょうか。主の祈りの真ん中にある「わたしたちの日ごとの糧を 今日もお与えください」という文言も 今日も満足にわたしたちは食べ物を買うことができてありがたいです という意味ではありません。イエスの時代も また 今日においても 天の父が想像された 同じ 人類の兄弟姉妹の中には 特に 多くの小さな命が その日の糧を得られないで 息絶えて行っています。そういう 兄弟姉妹のことを もちろん 同じ地平に立って 同じ境遇になって 苦しみを共有することはできないとしても 彼ら彼女らのことを思い起こし 神の恵みと平和を祈っているでしょうか。わたしたちは どうしても 繰り返すことによって それが「習慣」や「常識」となり無反省に 行動することが多々あります。祈りの文言 テキストでも 慣れ親しんだ祈りほど 実は「習慣」になって そのことばを味わうことなく祈り飛ばしてしまう危険があるのです。だったら 祈る回数を減らせばいい ということではありません。祈りを歌うとき その祈りの文言 テキストを まずだれでもない「わたし」がしっかりと味わって 神との対話を深め その祈りにふさわしい 速さ 強さ 丁寧さをもって祈っていかなければ 祈りで口にする神のことばは 単なる音声で終わってしまい 本当に「神が語られたとは すべて実現する」ことにはならないのではないでしょうか。聖書のことば 神のことばは「すべて実現する」ものです。それは だれかが口にしたときに とりも直さずこの「わたし」が口にしたときに実現するものです。聞いた人が味わえるように祈ることは まず 自分がしっかりと味わって その祈りにふさわしい 速さ 強さ 丁寧さで歌って祈ることから始まります。わたしたちの祈りのことば 神のことばが目の前の出来事として実現するように。日ごろから 祈りのことばへの知的欲求 祈りのことばをふさわしく祈る品性と感性を磨いていきたいものです。
2020.02.16
本日は司祭不在の主日の集会祭儀だったのですが 代読するはずの主任司祭の説教文が届かなくて 福音朗読の後は しばらくの間の沈黙だけになりました。ところで 今日の福音朗読のたとえ 天国はこんなところで地獄はこんなで なんてそっちに興味が行ってしまいそうですが ここのところは あくまでも「たとえ」であって イエスが言おうとしていること 核心部分は 最後の一文「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞かないだろう」今日朗読された箇所の前のぺリコーぺの最初に「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った」(ルカ16:14)ことに対して発言したことの続きが今日の朗読箇所であり この核心部分。イエスが言いたかったことは「聖書のことばに耳を傾けない=聖書を正しく解釈して その道を歩まないなら 死者の中から生き返る者=復活する者がいても 信じもしないし その教えに耳をかたむけないだろ」 つまり お金に執着する君たちは きちんと聖書を解釈して守っていないんだし わたしがきちんとした聖書の解釈を話しても受け入れないんだから わたしが復活したって信じるわけはないし 復活してからも言うことを聞かないだろうから いうだけ無駄だよな。とまあ かなり辛辣な皮肉を言っていると思いますね。ちょっと言い過ぎかもしれないけれど そういうことなんですが 説教にはできないし 教話としても話すわけじゃないので。
2019.09.29
今日 年間第21主日C年の答唱詩編 132 主をたたえよう では 詩編の中で最も短い 117が歌われ 一緒に栄唱も歌われました。年間第21主日の解説では書いていませんが 実は この栄唱 きれいに美しく歌うのが最も難しいものの一つではないかと 常々感じています。普通に詩編唱を歌うときは 八分音符できちんと歌えていても 栄唱になるとえいこうは ちちとー子とー せいれいにー はじめのようにー いまもーいつもー 世々にー アーメン。と 紫にした部分をのばしてしまいがちになるのを よく 耳にします。このように 語尾をのばすと どうしても品がなく聞こえてくるのは わたくしだけでしょうか。語尾をのばさないで きれいに流れるように歌うには 自分の歌い方を客観的に聞けるようにするしかないのかもしれません。あるいは 録音して 何回も歌いなおすとか。もう一つは やはり きちんと聞き分けることができる人に 聴いてもらってアドバイスしていただく。これが最良の方法かもしれません。いずれにしても 栄唱を きれいに父と子と聖霊への賛美として歌うのは 難しいですが それを極めていくことを 大切にするのも 祈りを深めていくことなのではないかと思います。
2019.08.25
「聖書を聴いて」カテゴリー 第一回は 今日2019年7月28日 年間第17主日C年 の第一朗読 創世記を聴いての感想です。 「ソドムとゴモラの罪は非常に重い」と訴える叫びを聞いた主に対して アブラハムは主のみ前に進み出て 大多数の人たちの罪が重いからと言って 少数の正しいものを一緒に滅ぼしてしまうのかどうかを神に訴えます。アブラハムは人数をどんどん値切っていって ついには正しい人が十人いれば 滅ぼさないことを確約してもらいますが 最初の訴えのところ 創世記18:25のアブラハムのことばは圧巻です。「正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目にあわせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」赤で記した部分 アブラハムになりきって声に出して読んでみてください。いかがですか。正しい者を悪い者と一緒に滅ぼしてしまうこと それは 全くありえないこと それは 正義ではないのだ とアブラハムは神の前で言い切っている。聴いていたとき これって ことばが悪いけれど アブラハムは神に対して 神さまはこうあるべきでしょって決めつけて 少数の正しい人を救うことを確信をもって訴えていると感じたのですね。一般に日本では民主主義と言うと最大多数の最大幸福であって どう考えてもおかしなことでも そのことを支持する人が大多数ならば それが優先されるわけです。しかし この場合は違います。アブラハムは 神がどのような方なのかを知っているので 神がその正しさを行わないことはありえない たとえ 大多数が悪いとしても 少数の正しい人を一緒に(いわば十把一絡げで)滅ぼしてしまうことは 正しくない 神の正義に叶わないと強く訴えかけます。もしかしたら わたくしたちにはこの点が欠けているのかもしれません。神がどういう方であるのかを よく知っているのか そして アブラハムのように神の正義を知っていて その正義が実現するために 神に対等に訴えかけているのかどうか。「日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎ」(創世記15:17)神はアブラハムと契約を結ばれました。契約と言う概念 日本人にはなじみのないものと考えられていますが この場合 神とアブラハムは対等な関係で契約を結び もし どちらかが契約を破ったら 動物のように二つに裂かれることを承知する と言うものです。言い換えれば アウラハムだけが一方的に神との契約を守り 契約を破ったら 動物のようになる のではなく 神もアブラハムに約束したことを 守らなければ同様に自らを処遇する と言う意味なのです。その意味で神とアブラハムは対等なのであり アブラハムがこれほど強く訴えかけるのは 当然のことと言えるでしょうし 何よりも その契約が対等であり その契約を締結した神と言うお方が どういうお方なのか 神のことをアブラハムは知識だけではなく実存・体験としてよく知っているということもうかがえます。だからこそアブラハムはすべての民の父であるのではないかと思います。
2019.07.28
この数年間 以前のサイト「アトリエおおましこ」の記事をこのブログに移し 主日・主日に優先する祝祭日の答唱詩編などの解説も一通り書き終えて 更新をさぼって?来ましたが 今日から その日のミサの聖書朗読を聴いて味わって 素直に感じたことを書き綴る「聖書を聴いて」のカテゴリーを追加して書き綴ってみたいと思います。神学的聖書学的な考察をするわけではなく ミサのことばの典礼で聴いてこころに落ちた聖書のことばに感じたことを書き綴る感想文みたいなものです。聖書はまず読むものであることはもちろんですが 礼拝集会では聴いて味わうことも大切な味わい方だと思います。ある意味 読んでいると読み飛ばしたり 読み込んだりすることもありますが 聴くことによって 違った味わいがあるものです。
2019.07.28
普段は ほとんど 東京カトリック神学院への授業でしか行かない東京ですが 昨日は 久しぶりに Te deum21Te deum21 という次世代の典礼音楽を考える方々のワークショップの講師として招かれて上京し 初めて六本木にある フランシスカンチャペルセンターへ伺いました。東京駅で 実家へ行っていたハニーと合流し 有楽町で日比谷線に乗り換えて六本木へ。日比谷線も東急東横線へ直通しなくなってから初めて乗り 赤い車体の電車が来た時には東急の車両かと思ってしまいました。 簡単にこの時の様子を書きますと まずは 最初に昨日の各年共通の集会祈願で祈りを始めましたが まず ここで皆さんにだめだし。そこから 講話を始めて テーマにした典礼の現在化とイメージについて さまざまな角度から お話と関連する聖歌の練習をしました。 参加された方は 普段 小教区で聖歌隊やオルガン奏者として奉仕されている方が多く もしかしたら もう少し 聖歌の練習に時間をとってほしかったかな と考えましたが どのように歌って祈るか どういう伴奏をするか を考えるためには やはり ベースとなる典礼や聖書に関する 基本的な理解 知識がなければなりません。そうでないと 単なる 習慣になってしまうからです。 わたくしにとってもあっという間の二時間でした。 聖歌や典礼に関する集まりで いつも思うのは 講話の中でも少し触れたのですが こういう学びは一部の信者が知っていればいいものではない と言うこと。教会も毎年 新しいメンバーを加えて若返っていくのですから 多くの信者の方 特に 若い方々に 教会や典礼についての基本的な理解や知識 それを踏まえての豊かな祈りとしての聖歌を体得する機会がもっとあれば そして積極的に参加していただきたいということです。なぜなら 「典礼は教会の活動が目指す頂点であり、同時に教会のあらゆる力が流れ出る源泉」(典礼憲章10)であり「典礼祭儀はすべて、祭司キリストとそのからだである教会のわざであるので、他にまさる聖なる行為」(同8)だからです。
2019.07.22
7月21日 日曜日に Te deum 21 のワークショップで講演と聖歌の練習をします。場所は フランシスカンチャペルセンター 時間は 15時から17時までです。会員でない方でも参加できるそうですが 参加費として 2000円をご用意ください。『典礼聖歌』は用意していただけるそうですが できれば ご自分のものをお持ちいただければ 書き込みなどもでき 後日の参考にもなります。
2019.06.17
25 栄光は世界におよび 【解説】 詩編97は「主は、王である」という信仰告白から始まる詩編です(典礼用詩編では主を神と言い換えています)。ギリシャ語訳とラテン語訳では「ダビデの歌 彼の国が回復したとき」という表題があるので、ダビデの王国が再興されることを願って歌われたとも考えられますが、教会的な解釈では神の国が最終的に完成する終末論的な意味が込められていると言えるでしょう。詩編の一節で歌われる「雲」「霧」「正義」「さばき」は主である神の現存を表すものを擬人化したものと言えます。このような主である神の支配のもとに神に従う民が、どのように神に従い、神に賛美をささげ、神の国の喜びにあずかることができるかが後半の7節以下で歌われます。 答唱句は冒頭、音階の第三音から、上行音階の、しかもユニゾン(すべての声部が同じ音)で始まり、四声に分かれる「世界」で、旋律は前半の最高音Cis(ド♯)に達しています。この間、バスは、「栄光は」から「世界」で、6度下降跳躍しています。これは、作曲者が「時間と空間を超越した表現」として用いる、旋律の6度の跳躍の反行にあたります。これによって、また和音の広がりによっても、神の栄光の世界への広がりが現されています。その後の「世界におよび」で、旋律は音階で属音E(ミ)に下降しますが、天におられる神の栄光が、世界(全地)に行き渡る様子が示されます。 後半、旋律は和音構成音で上行し、「かみ」で、答唱句全体の最高音D(レ)に達し、バスとの広がりも、2オクターヴ+3度という、原則として、もっとも広いものになり、神の栄光、神の偉大さが現されます。最後の「神は偉大」には「-」(テヌート記号)が付けられており、これによって、このことばが一音節づつ力強く歌われるようになっています。 詩編唱は、高音部のCis(ド♯)から力強く始まり、落ち着きと壮大さをもって、音階で下降します。 【祈りの注意】 解説にも書いたように、答唱句は全体、力強く歌います。しかし、冒頭のユニゾンの上行音階は、cresc. したいので、最初から f では、後が続きません。最初は、やや、弱め(ただし精神は冒頭から力強く)で歌い始めましょう。「世界に」で、前半の最高音になりますから、のどと胸を開いて歌いましょう。バスは、特に力強く、また、深い声で歌ってください。その後、旋律は、いったん下降しますから、少し、dim. するとよいでしょうか。「すべてを」からは、また、上行しますので「かみ」に向かって cresc. しましょう。最後の「神は偉大」は「-」(テヌート記号)がついていますから、答唱句の中では、もっとも力強く、地面を踏みしめるように歌いますが、一つ一つが飛び出したようになってはいけません。あくまでも、祈りとしてふさわしい、レガートの中でのテヌートであることを忘れないようにしましょう。 テンポは四分音符=66ですが、あまり、早くなると、せっかちに聞こえます。力強さを現すためにも、雄大さが感じられるテンポを考えましょう。だからといって、冒頭のユニゾンがだらだら歌われると、全体のしまりがなくなります。ここは、階段を一気に駆け上がる気持ちで歌うとよいのではないでしょうか。 主の変容の祝日は主日の場合は第一朗読でダニエルの預言が、第二朗読としてペトロの手紙が朗読されますが、主日に当たらない場合はどちらかを選択して第一朗読として朗読することになっています。いずれにしても、週末における神の国の完成を予告する朗読となっていますので、ギリシャ語訳やラテン語訳の表題にもふさわしいものです。 一節の第1小節では「神は王、」と読点がつけられています。ここは、詩編唱の歌い方としては例外の息継ぎとしての八分休符を入れます。とは言え、ここで祈りの流れを止めてはいけません。休符とは「音がない状態」ではなく「ない音がある」ところであり、そこは祈りが続いてゆく緊張感が満ち満ちています。【オルガン】 答唱句の性格からも、「創造主への賛美」という詩編の性格からも、明るいストップがよいでしょう。フルート系を基本にして、黙想の妨げにならなければ、プリンチパル系を加えることも方法です。 解説にも祈りの注意にも書きましたが、だらだらとした歌い方にならないためには、まず、オルガンの前奏が、最初のユニゾンの部分をふさわしいテンポをとらなければなりません。かと言って、早すぎてもいけません。本当に、この答唱句の祈りにふさわしいテンポを取るためには、何度も、繰り返してみることが必要になってくるかもしれません。根気よく、ふさわしいテンポを探してゆきましょう。音が簡単な分、なおさら、準備が大切になってきます。最後のテヌート記号がついている部分も、一つ一つが飛び出したようにならによう、延ばし方、切り方を考えてください。
2017.07.31
《A年》 38 神のいつくしみを【解説】 今日の詩編89は表題に「エズラ人エタンの詩」(列王記5章11節参照)とあります。実際にそれほど古いものではないにしろ、かなり昔に起源をもつ詩編と考えられています。全体は、ダビデ(ダビデの王家)に対してなされた神の約束の実現を求める祈りで、そこから、ダビデの子孫に連なるメシア=キリストに対する預言と考えられるようになりました。詩編集の第三巻の最後に置かれていて、53節は第三巻の栄唱となっています。 第一朗読の列王記4章は、エリシャの行った奇跡がまとめられています。今日の朗読を聞いて、アブラハムの妻サラに起こった出来事(創世記18章)やザカリアとエリザベトの出来事(ルカ1章)を思い出されたかたも多いと思います。第一朗読と答唱詩編、福音朗読の関係を見ると、ちょっと関係を想像するのが難しいかもしれません。特に福音朗読で語られるキリストのことば「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」。この中で語られる「小さな者」とはキリストの弟子を指しているのであって、キリストの弟子が誰かに水を飲ませることではないということです。そうすると、シェムネの夫人がエリシャに行ったこととの関連もわかりますし、神の人やキリストの弟子たちに行って神やキリストを受け入れた人たちが、神のいつくしみを知るようになるということができるでしょう。 この答唱句はまったく拍子が指定されていません。と言うのも、順番に、四分の三、四、五、三、四。と変わってゆくからです。ですが、歌うと、まったくそれを感じさせず、歌詞の意味どおりに、自然に歌うことができるから不思議です。冒頭は、75「神よあなたのことばを」などと同じく、オルガンの伴奏が八分音符一拍早く始まります。「とこしえに歌い」と「代々につげよう」では、Fis(ファ♯)が用いられ、伴奏でも、ことばを意識しています。答唱句の終止は、五の和音で、上のFis(ファ♯)が用いられているところは、五の五の和音(ドッペルドミナント)と考えることもできますが、旋律は、G(ソ)を中心に、上下に動いているので、教会旋法の第八旋法に近いようにも考えることができます。また、最初にもあげたように、拍子が指定されず、グレゴリオ聖歌の自由リズムが生かされています。「主のまことを」で、旋律が最高音C(ド)となり、和音も、ソプラノとバスが2オクターヴ+3度に広がります。詩編唱は、鍵となるG(ソ)を中心に動きます。答唱句の音域や、詩編唱の和音からは、あくまでもC-Dur(ハ長調)で、終止は半終止と考えるほうが妥当ですが、それほど単純ではなく、作曲者自身の、グレゴリオ聖歌から取り入れた独自の手法と言えるでしょう。【祈りの注意】 冒頭、オルガンの伴奏が八分音符一拍早く始まりますが、これを良く聴き、「かみ」のアルシスを生かしましょう。「神のいつくしみを」は、旋律が一端下降してから上行します。まず、「かみの」の「の」の八分音符を気持ち早めに歌います。その後、「いつくしみ」まで八分音符が連続し、特に「つくしみ」は同じ音が続きます。「の」の八分音符を気持ち早めに歌った勢いを止めずに歌いましょう。そうすることで、祈りが先へ流れてゆくようになります。前半は一息で歌いたいところですが、息が続かない場合は、「いつくしみを」の付点四分音符に、一瞬で息を吸ってください。最初は一息でいかないかもしれませんが、祈りの流れに、毎回、こころを込めると、徐々にできるようになるのではないでしょうか。最初から「無理」とあきらめずにチャレンジしてください。この「を」を、付点四分音符で延ばす間、少し cresc. すると、祈りが、次の「とこしえに」へ向かって、よく流れてゆきます。ただし、やり過ぎないようにして、最初の音の強さの中で、cresc. しましょう。「歌い」の後で、息をしますが、祈りは続いていますから、間延びして流れを止めないようにしましょう。この後、よく耳にするのが、「まことを」の四分音符を、必要以上、二分音符ぶん位、延ばしてしまうものです。「主のまことを、代々に告げよう」は一つの文章、一息の祈りですから、「を」は四分音符だけで次へ続けます。このようになるのは、おそらく、答唱句の最後で rit. することが背景にあるかもしれませんが、これは明らかにやりすぎです。rit. しても、四分音符は四分音符として歌います。 神の人、そして、キリストの弟子たちを受け入れた人が受ける恵みとでもいうべきことが詩編唱の歌わんとしていることです。その意味でわたしたちは「神の人」であり、いわんやキリストの弟子の一人であり、わたしたちをそのような者として受け入れ、神のことばを聞き、神とキリストを受け入れる人には永遠のいのちという恵みが与えられるのですが、わたしたち自身もまた、同じように何らかのかたちで神のことばとキリストの教えを受け入れたからこそ、教会共同体に受け入れられたことを忘れてはなりません。 【オルガン】 基本的にフルート系のストップ、8’+4’がよいでしょう。この答唱句では、前奏が祈りを大きく左右します。冒頭、オルガンの伴奏が八分音符一拍早く始まりますが、オルガンだけで前奏する場合には、ソプラノだけ、実際に歌うように弾くと、わかりやすくなります。次に、祈りの注意でも書きましたが、「神のいつくしみ」のところを、実際に歌うように、「の」を気持ち早めに弾き、「つくしみ」の八分音符を、その勢いを保ったまま、しかし、レガートで弾きます。この後も、旋律は同じ音が続きますから、歌うように刻みますが、その場合もレガートを心がけましょう。最後の、「まことを」の「を」もきちんと八分音符で弾くようにします。オルガンがここを、必要以上に延ばすと、会衆の祈りも間延びしたものになってしまいます。 答唱句全体は、一つの文章でできた(。が一つしかない)祈りです。オルガン奉仕者が、まず、この文章をきちんと味わい、ふさわしい祈りとして歌えることができなければ、会衆の祈りもふさわしい祈りにならないことを、よく、こころに刻んでおきたいものです
2017.06.11
《C年》 54 神のみ旨を行うことは 【解説】 この答唱句の元となった詩編40(答唱句は9節を元に作られています)は、元来、二つの異なる部分からできています。前半は2-11節で、病気から回復したことへの感謝の祈り、後半は12-18節で、そのうち14-18節は詩編70とほぼ同じもので、個人的な嘆願の祈りです。聖書《七十人訳》では、6節の「人々の集い」を「エクレシア」=「教会」の原語、10節の「告げ知らせ」を「福音を伝える」=後の「福音」の原語、と訳しています。これらは新約聖書をはじめ、教会ではなくてはならない、重要なことばとなっています。 答唱句の前半、従属文の部分は、「おこなう」が最高音(B=シ♭)を用いてことばを強調しています。続く「うことは」では、一時的に属調のF-Dur(ヘ長調)に転調することで、丁寧にことばを語り、行う決意を呼び起こします。後半は、すぐにB-Dur(変ロ長調)に戻り、まず、「わたし」が最低音のCから始まり、謙遜のこころを表します。「こころの」は、付点八分音符と十六分音符で、最後の「よろこび」は音価が拡大され(付点四分音符と八分音符)斜体の部分は最高音B(シ♭)によって、こころ(魂)が喜びおどる様子と答唱句全体の信仰告白の決意を力強く表しています。 詩編唱は終止音と同じ音から始まり、1小節1音の音階進行で下降して開始音Fに戻り、作曲者の手法「雅楽的な響き」の和音で終止します。バスのEs(ミ♭)は答唱句のバス(D=レ)とテノール(F=ファ)のオブリガートとなっています。 【祈りの注意】 答唱句全体の信仰告白は教会の母である聖母マリアが歌った「マリアの歌」(マグニフィカト ルカ1:46~)に通じるものです。いつも、この信仰告白の決意を持ち、神の み旨をわきまえることができるように祈りましょう。「神の」を心持ち早めに歌うことが、この信仰告白の決意のことばを生き生きとさせます。メトロノームのように歌うと逆にだらだらしますし、上行の旋律も活気がなくなります。「みむねをおこなう」は、現代の発音では同じ母音Oが続きます。どの声部も同じ音で続くので「み旨をーこなう」とならないようにはっきり言い直しますが、やりすぎにも気をつけましょう。 「ことは」の後で息継ぎをしますが、この息継ぎは「は」の八分音符の中から少し音を取って、瞬時に行います。ここをテンポのままで行くと、しゃっくりをしたようになります。この前から少し rit.すると、息継ぎも余裕を持ってできますし、何よりも祈りが深まります。 後半はすぐにテンポを元に戻しますが「こころ」あたりから rit. に入り、付点のリズムを生き生きと、また、力強く歌って締めくくりましょう。この時、先にも書きましたが、聖母マリアの心と同じこころで歌うことができればすばらしいと思います。なお、これらの rit. は、いつ始めたのかわからないように、自然に行えるようになると祈りの深さもましてきます。 第一朗読ではエレミヤの苦難の様子が語られます。エレミヤは神から告げられたことを正直に伝えたことで、かえって、役人たちの反感を買い、囚われの身となりました。神のみ旨を行うことは、あるときには、多くの人々の好むこととは反対のこと、人々にとって都合の悪いことを言ったり、行なったりしなればならないこともあるのです。その、最たる例が、主キリストだったのではないでしょうか。神から遣わされたひとり子は、父のみ旨を行ったがために、十字架に付けられました。しかし、神は、その人(主のしもべ)の祈りを必ず聞きいれ、いつも守ってくださるのです。今日の答唱句を歌いながら、わたしたちも、恐れることなく神のみ旨を行うことができるように、神からの助けと力を願いたいと思います。 【オルガン】 答唱句は、答唱詩編としての本来の役目である黙想と、窮地から救われたエレミヤの感謝、また、み旨を行う喜びを表すようなストップが用いられるとよいと思います。神の母聖マリアの祭日には、やや、明るめのストップをお勧めしましたが、今日の場合はフルート系のストップで統一してみたほうがよいかもしれません。とはいえ、み旨を行う喜びを表すために、4’は明るい音色のものを選んでもよいでしょう。会衆の人数が多いようでしたら、フルート系の2’を入れるのもひとつの方法です。人数とオルガンの規模に応じて、工夫をしてみてください。
2016.08.08
《C年》 46 神の注がれる目は 【解説】 その詩編の18節から答唱句が取られている、詩編33は、創造主、救い主である神をたたえる賛美の詩編です。6節の「星座」(ヘブライ語の原文では「軍勢」)は、天にいる神の軍隊のことで、神の栄光を示しその命令を実行するものです。6節には、「神(原文では「主」)」の他に、「ことば」「いぶき」という語句があることから、教父たちは、「ことば」=神のことばであるキリスト(ヨハネ1:1)「いぶき」=聖霊と考え、この詩編には三位一体の秘義が隠されていると考えました。 答唱句は8小節と比較的長いものです。前半は「神」と言うことばが三回出てくることや、神のやさしいまなざし=「目」を強調するために、旋律は高い音が中心となっています。特に「目」は最高音のD(レ)の二分音符で歌われます。二回出てくる八分休符は、次の「神」の「か」をアルシスとして生かすためのものですが、バスは八分休符ではなく四分音符で歌われ、どちらも精神を持続させながら緊張感を保ちます。後半の「希望を」では「きぼう」で旋律とバスの音程が2オクターブ+3度開き、バスのオクターヴの跳躍で、ことばが強調されています。 詩編唱はドミナント(属音)から始まり、同じ音で終止し、下一音(Fis=ファ♯)以外はすべて上方音というところは、グレゴリオ聖歌の手法が生かされています。答唱句、詩編唱ともに、最後は順次進行で下降し、落ち着いて終止しています。 【祈りの注意】 解説に書いたように、答唱句は8小節と比較的長いので、全体に緊張感を持って歌う必要があります。とは言え、早く歌う必要もないのですが、間延びすることのないようにしましょう。そのためには、まず冒頭の「神の」の「の」の八分音符が遅れないように、言い換えれば「かみ」の四分音符が長すぎないように、と言うことです。最高音D(レ)が用いられる「目」は、この詩編でも歌われるような、いつくしみに満ちた神のまなざし、十字架の上から、愛する弟子と母に向けた、キリストのまなざしを表すように歌ってください。高い音なので、どうしても、音を強くぶつけてしまいがち(「メー」)ですが、このように歌うと、怒りと憤りに満ちた音になってしまいます。高い棚の上に瓶をそっと置くような感じで、声を出すようにするとうまく歌えます。「ものに」はアルトが係留を用いているので、やや rit. しますが、これは分かるか分からないか程度のものです。決して「あ、リタルダントしたな」と思わせないようにしましょう。後半に入ったら、すぐに元のテンポに戻します。最後の「希望を」は、少しテヌートして「希望」をしっかりとこころに刻みましょう。最後は、rit. することはもちろんですが、やや dim. もすると安心して答唱句の祈りのことばを終わらせることができるでしょう。 答唱句のテンポは「四分音符=88くらい」ですが、冒頭はこれよりやや早めのほうがよいかもしれません。 第一朗読では、「知恵の書」が読まれます。ここでは、イスラエルの民にとって、最も大きな出来事となった、エジプトでの「主の過越」について語られます。「主の過越」は前もってイスラエルの民に語られました。それゆえ、イスラエルの民は、その長子を失うことなく、エジプトの地から脱出することができたのです。しかし、福音朗読では主の再臨について「人の子は思いがけない時に来る」と言われています。主の再臨もそうですが、わたしたちにとって、この世からの脱出=死も、思いがけないときにやってきます。ですが、死は、わたしたちにとって、復活への新たな門であり、ある意味では、希望と言うことができるでしょう。それゆえ、わたしたちは神が「天から目を注ぎ、いつも見ておられる」ことを心に刻みつけ、日々「神のうちにあって喜び、とうといその名により頼み」ながら、「主が来られる」のを待ち望みたいものです。 【オルガン】 答唱句は、どちらかと言うと、やや、明るいストップを用いたいものです。人数によってはフルート系で2’を入れてもいいかと思いますが、あくまでも答唱詩編なので、派手なものは避けるようにしましょう。前奏は、きびきびと、歌うテンポで弾くようにしましょう。オルガンが前奏をだらだらと弾いていると、それは、いつの間にか会衆にも伝わってゆくものです。答唱句の最初、「神の」の「の」をやや、早めに弾くことも忘れないようにしましょう。また、バスが四分音符で早く出る前の rit. とバスが出てから、テンポを戻すことなど、細かいニュアンスも、大事にすることが大切です。 さらに、途中の rit. やテヌートも、毎回、きちんと表現する(前奏でも、伴奏中も)ことで、会衆も次第にできるようになるはずです。
2016.08.04
《C年》 35 神に向かって 【解説】 今日の詩編唱で唱えられる詩編95:1-2から、この答唱詩編の答唱句が取られています。この詩編95は、神殿の神の前に進み出て礼拝を促す(2節)巡礼の形式で始まります。後半は荒れ野における歴史を回顧し、神に対する従順を警告しています。1節の「救いの岩」をパウロは1コリント10:4で「この岩こそキリストだったのです」と述べ、この前後の箇所では、イスラエルの先祖が荒れ野で犯した、偶像礼拝について記しています。またヘブライ3:7-11,15でもこの箇所が引用され、キリスト者も不信仰に陥らないように警告しています。 8節の「きょう、神の声を聞くなら、・・・・ 神に心を閉じてはならない」という箇所から、この詩編は『教会の祈り』で一日の一番最初に唱える「初めの祈り」の詩編交唱の一つになっています。「きょう」ということばは、ただ「昨日」「今日」「明日」という、連続した日の一つではなく、このことばによって、今、読まれる、あるいは、読まれた神のことばが、そのときその場に実現することを意味しています⇒《祭儀的今日》。ナザレの会堂でイザヤ書を読まれたイエスが「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ4:21)と話されたことを思い起こしてください。 答唱句は、冒頭、旋律が「神に向かって」で和音構成音、「喜び歌い」が音階の順次進行で上行して、最高音C(ド)に至り、神に向かって喜び歌うこころを盛り上げます。また、テノールも「神に向かって」が、和音構成音でやは り、最高音C(ド)にまで上がり、中間音でもことばを支えています。前半の最後は、六の和音で終止して、後半へと続く緊張感も保たれています。後半は、前半とは反対に旋律は下降し、感謝の歌をささげるわたしたちの謙虚な姿勢を表しています。「感謝の」では短い間(八分音符ごと)に転調し、特に「感謝」では、いったんドッペルドミナント(五の五)=fis(ファ♯)から属調のG-Durへと転調して、このことばを強調しています。後半のバスの反行を含めた音階の順次進行と、その後のG(ソ)のオクターヴの跳躍は、後半の呼びかけを深めています。 詩編唱は属音G(ソ)から始まり、同じ音で終わります。2小節目に4度の跳躍がある以外、音階進行で歌われますから、歌いやすさも考慮されています。また、4小節目の最後の和音は答唱句の和音と同じ主和音で、旋律(ソプラノ)とバスが、いずれも3度下降して答唱句へと続いています。 【祈りの注意】 答唱句は先にも書いたように、前半、最高音のC(ド)に旋律が高まります。こころから「神に向かって喜び歌う」ように気持ちを盛り上げ、この最高音C(ド)に向かって cresc. してゆきますが、決して乱暴にならないようにしましょう。また、ここでいったん6度での終止となりますし、文脈上も句点「、」があるので少し rit. しましょう。ただし最後と比べてやり過ぎないように。後半はテンポを戻し「うたを」くらいから、徐々に rit. をはじめ、落ち着いて終わるようにします。答唱句、全体の気持ちとしては、全世界の人々に、このことばを呼びかけるようにしたいところです。とは言え、がさつな呼びかけではなく、こころの底から静かに穏やかに、砂漠の風紋が少しづつ動くような呼びかけになればすばらしいと思います。 第一朗読の「コヘレトのことば」では「空しさ」だけが強調されますが、それは神不在の人生を言っていることを忘れてはなりません。福音朗読では、それを示すかのように、人間的な努力だけで富を築き、自分のために富を蓄えても、神の前に豊かにならない人にとって、その富は全く空しいものになってしまうことが語られます。このようのこと にならないためには=神の前に豊かになるには、まず「神の声に心を閉じてはならない」ようにし、「身を低くして(神を)伏し拝む)」ことが大切なのです。詩編の111にも、「神をおそれることは知恵のはじめ」と歌われています。この詩編を味わいながら、わたしたちは、常に、初心に立ち返る=神に心を向けることを肝に銘じたいと思います。 【オルガン】 答唱句は基本的なフルート系のストップ8’+4’でよいでしょうが、答唱句の性格上、明るめの音色がよいでしょう。人数が多い場合は、2’を加えることもできるでしょう。前奏のときに、最初の「神に向かって」がだらだらとしないようにしましょう。オルガンの前奏が活き活きとしていれば、会衆も活き活きとするはずです。後半では「喜び歌い」と「ささげよう」のそれぞれの rit. の違いがきちんとできればいうことはありません。最初、会衆全体がその通りにできなかったとしても、オルガンが辛抱強く rit. を続けてゆけば、会衆もだんだんと祈りが深まるような rit. ができるようになると思います。オルガン奉仕者がいつも、この答唱句を生きることが最も大切な祈りとなることを忘れないようにしたいものです。
2016.07.25
《C年》 101 しあわせな人(2)【解説】 詩編15は神殿の中での典礼を背景にした教訓的な詩編の一つ(他に、24,134)で、巡礼者が神殿に入るときの儀式が土台になっていると思われます。1節は巡礼者の問い、2節目以降が、祭司あるいはレビ人の答えと考えられます。人が神に受け入れられるためには、悪を行わない(掟を守る)だけではなく、隣人のことを大切にすることも必要で、キリストが教えた新約における愛の掟の序曲ともいえる詩編です。 答唱句は八分の六拍子で滑らかに歌われます。2小節目は4の和音から、後半、2の7の和音に変わりますが、これによって祈りを次の小節へと続けさせる意識を高めます。続く「かみを」では旋律で最高音C(ド)と4の和音を用い、次の「おそーれ」ではバスに最高音H(シ)が使われ、「神をおそれ」では、旋律が6度下降して(それによって母音の重複も防がれています)前半の主題を強調しています。7小節目後半の3つの八分音符の連続は、最終小節に向かって上行音階進行しており、終止の rit. を効果的に導いています。 この答唱句は、C-Dur(ハ長調)の主和音ではなく五の和音で終わっています。これによって、祈りを詩編唱につなげる役割もありますが、この曲はいわゆる長調ではなく教会旋法に近い形で書かれていることがわかります。G(ソ)を終止音とする教会旋法は第8旋法ですが、その音階は、D(レ)からd(レ)なので、この曲には該当しません。他にも36~40「神のいつくしみを」、130~135「主をたたえよう」などがこれにあたります。これらから考えると、この旋法は教会旋法を基礎に作曲者が独自の手法とした旋法であり「高田の教会旋法」と名づけることが出来るでしょう。 詩編唱も、答唱句と同様の和音構成・進行ですが、3小節目だけ冒頭の和音は答唱句で経過的に使われている二の7の和音となっていて、3小節目の詩編唱を特に意識させるものとしています。【祈りの注意】 答唱句で特に注意したいことは、「だらだらと歌わないこと」です。だらだらと歌うとこの答唱句のことばがまったく生かされなくなってしまいます。そのためにはいくつかの注意があります。 1=八分の六拍子は、八分音符を一拍ではなく、付点四分音符を一拍として数えること。 2=先へ先へと流れるように歌うこと。 3=「しあわせなひと」の「わ」をやや早めに歌うこと。 4=上の太字の三つのことばの八分音符で加速をつけるようにすること。 です。 また、2については、1・3・5・7各小節の前のアウフタクトのアルシスを十分に生かすことも忘れてはならないでしょう。このようにすることで、祈りが自然に流れ出てゆき、答唱句のことば「主の道を歩む」「しあわせ」が、豊かに表現できるのです。 前半の終わり「おそれ」では、やや、わからない程度に rit.するとよいかもしれません。答唱句の終わりは歩みが確固としたものとして、ただし、主の前を静々と歩むように、十分に rit. して、滑らかに終えましょう。 第一朗読では、アブラハムの天幕に神の使いが訪れ、サラの出産が預言されます。アブラハムの天幕は、神の幕屋ではありませんが、神の前に正しい人であり、神のことばを聞いて、カルデアの地・ウルから旅立ったアブラハムは、まさに「とがなく歩み、正義を行う、主の道を歩むもの」でした。福音朗読でマルタは「多くのことに思い悩み、心を乱して」いました。ですから、「心からまことを語る」イエスのことばに耳を傾ける余裕すらなかったのでしょう。わたしたちも、ついつい、普段の生活に追われて、一番大切な神のことばに耳を傾けることをおろそかにしてしまいがちです。いつも「神をおそれ、主の道を歩む」ことができるように、まず、神のことばに耳を傾けることを、もう一度、この詩編を味わいながら、心に刻み付けたいものです。 さて、最後に、いつも書いていることですが、詩編唱の字間のあいているところで間を置いたり、延ばしたりすることは絶対してはいけないことです。1小節が滑らかに歌われ、祈られるようにしてください。【オルガン】 前奏のときに気をつけなければならないことは、祈りの注意で書いた四つの注意点です。まず、前奏のときにこれがきちんと提示されないと、会衆の祈りは、活気のない、だらだらしたものになってしまいます。前奏の冒頭から、きびきびと弾き始めましょう。もう一つ大切なことは、オルガニスト自身が、ここで歌われている「しあわせな人」になっていなければ、よい前奏、よい伴奏はできないのかもしれません。ストップはフルート系のストップ、8’+4’で、明るい音色のものを用いるとよいでしょう。最後の答唱句は、うるさくならなければ、弱いプリンチパル系のものを入れてもよいかもしれません。
2016.07.14
【お知らせ】 上田教会聖歌奉仕グループを中心にした聖歌の練習を7月31日 年間第18主日 ミサ後 上田教会聖堂で行います。《主な内容》 〔聖母の被昇天のミサの聖歌〕 答唱詩編 55 神のみ旨を行うことは 入際の歌 371 しあわせなかたマリア 派遣の歌 アシジの聖フランシスコによる平和の祈り〔8月中の答唱詩編〕〔そのほか〕 209 感謝の賛歌 217 平和の賛歌 上田教会所属ではない方もお気軽に参加ください。 当日のミサは9時からです。
2016.07.02
《C年》130 主をたたえよう【解説】 この詩編66は大きく二つに分けられます。前半の1-12節は主語が「わたしたち」で全世界に向かってイスラエルになされた神の救いが呼びかけられます。後半の13-20節は主語が「わたし」となり、個人的な救いに対する言及とそれに対する感謝と賛美が語られます。この主語の対照は、巡礼者が集まる民族的な祭りが背景にあり、このような祭りでは、最初に共同体の感謝が行われ、続いて、個人的な感謝の奉献が行われたからだということです。 さて、この「主をたたえよう」は一つの答唱句で最も多くの詩編唱が歌われます。答唱句は、詩編136:1〔131〕から取られています。この詩編はグレゴリオ聖歌では復活徹夜祭に歌われます。八分の十二拍子の答唱句の冒頭は、トランペットの響きで始まります。なお、『典礼聖歌』合本では、最初、テノールとバスは、H(シ)ですが、『混声合唱のための 典礼聖歌』(カワイ出版 2000)では、四声すべてFis(ファ♯)-Dis(レ♯)-Fis(ファ♯)-H(シ)-Dis(レ♯)となっています。このユニゾンのほうが力強い響きに聞こえると思います。 「主をたたえよう」では、バスがGis(ソ♯)からFis(ファ♯)へ下降することで、ことばを延ばす間に、和音も二の和音から四の和音へと移り、さらに「主はいつくしみ」までE(ミ)からDis(レ♯)へと深まります。その後は、旋律も和音も落ち着いており、神のいつくしみの深さと限りないあわれみを穏やかなこころでたたえながら、答唱句は終わります。 詩編唱は、冒頭、最高音のH(シ)から、力強く始まります。主に、詩編唱の1節全体で、一番重要なことばが多い第三小節は、最も低いDis(レ♯)を用いることで、重厚さと、低い音への聴覚の集中を促しています。詩編唱の最後は、主音Fis(ファ♯)で終わり、そのまま、答唱句へとつながります。【祈りの注意】 答唱句の旋律は、主音:Fis(ファ♯)⇒旋律の最低音:Dis(レ♯)⇒主音:Fis(ファ♯)⇒旋律の最高音:H(シ)と動きますから、この旋律の上昇の力強さを、全世界への呼びかけの強さへと結びつけましょう。八分の十二拍子のこの曲は、八分の六拍子の曲と同様に、八分音符ではなく、付点四分音符を一拍として数えましょう。「主をたたえよう」の「た」を心持早めに歌い、続く八分音符への弾みとすることで、全体のテンポが引き締まります。 「たたえようーーー」と延ばす間、さらに cresc. を強めることで、呼びかけがすべての国に広がるでしょう。このとき、バスがGis(ソ♯)からFis(ファ♯)へ下降することで、和音が変わりますから、他の声部はしっかり呼びかけを続け、バスは地球の裏側にまで、この呼びかけを深めるようにしましょう。その後、八分休符がありますが、この休符は次の「主」のアルシスを生かすためのものですから、きちんと、入れてください。 「主」がアルシスでよく歌われると、このことばがよく生かされるばかりではなく、続く、滑らかな旋律の信仰告白が、ふさわしい表現となります。最後の「深く」の四分音符が、必要以上に延ばされるのをよく耳にしますが、それでは、答唱句の重要な信仰告白のことばが途中で途切れてしまい、答唱句全体のしまりもなくなります。ここで、ややrit. するからかもしれませんが、この rit. はことばを生かすためのものですから「その」に入ったらすぐにテンポを戻しましょう。あくまでも「ふかくーその」は八分音符三拍分の中であることを忘れないようにしてください。最後は「そのあわれみは」くらいから徐々に rit. して、答唱句を締めくくります。「えいえん」で八分音符を五拍延ばす間、まず、dim. (だんだん弱く=いわゆるフェイドアウト)しますが、きちんと五拍分延ばしてください。その間、作曲者も書いていますが「神様のことを」神のいつくしみの深さもあわれみも永遠であることをこころに刻み付けましょう。最後の「ん」は「さーぃ」と同じように「え」の終わりにそっと添えるように歌います。 この日の「ことばの典礼」では「平和」が主題となっています。第一朗読ではエルサレムにもたらされるイスラエルの回復と繁栄が語られています。イスラエルの回復、エルサレムの繁栄は、地上の国家としてのレベルではなく、すべての民へのしるしです。それゆえ、詩編唱の1節では「すべての人はあなたを伏しおがみ、み名をたたえて喜び歌う」と言われるのです。たびたび指摘しているように、教会は(イスラエルも本来は)、神と人類との親密な交わりのしるしであり、人類一致の道具(『教会憲章』1項参照)であって、それ自体で完結するものではないことをわたしたちは知っていなければなりません。 今日の詩編は、わたしたちに行われた神のわざを、すべての人が知る(体験する)ことで、神が、また、神のもらされる「平和」をすべての人がたたえることを促しています。わたしたちが互いに愛することで、すべての人が、神とキリストを知ることができるのです。詩編のことばを味わいながら、わたしたち自身、それぞれの共同体がそのような共同体になっているかを、改めて考えてみたいものです。 なお、今日の閉祭(派遣)の歌には同じ作曲者による「アシジの聖フランシスコによる 平和の祈り」をお勧めします。楽譜はオリエンス宗教研究所から発行されている「典礼聖歌 合本発行後から遺作まで」に所収されています。【オルガン】 前奏のテンポのとり方、模範が会衆の答唱句の祈りを左右します。上記の祈りの注意を前奏でしっかりと守ってください。言い換えれば、オルガン奉仕者の答唱句に対する、情熱が、前奏、伴奏を決め、それが共同体全体の答唱句のあり方を決めるのです。オルガン奉仕者が、ただ、オルガンを弾いていればよいというものではないことが分かると思います。答唱句の性格からは、鋭くないものであれば2’を入れてもよいでしょうか。あるいは Quint Terz といったストップを使う方法もあります。人数によっては、少し強い4’にしておくとよいでしょう。詩編唱も、力強く歌われますので、声量が豊かな人の場合には、フルート系の4’を入れて、Swell を閉める方法も考えられます。詩編先唱者の声量とのバランスを考えましょう。
2016.06.30
《C年》 98 しあわせな人【解説】 詩編16は元来カナンからイスラエルに移り住んだ人が、改宗ときに行った、信仰告白と思われます。詩編作者は主である神との一致が死よりも強いと感じ、まことの神との一致にこそ、しあわせと永遠のいのちがあると確信した美しい歌です。死に打ち勝ち、復活したキリストの父との一致こそ、この永遠のいのちをもたらすものに他なりません。それゆえ、使徒たちはこの詩編を詩編118(87「きょうこそ神が造られた日」)と同様に、キリストの復活のあかし・預言として用いました(使徒2:21-33参照)。 答唱句は冒頭から5小節目の「喜びに」までは、八分音符の細かい動きと四分音符+付点四分音符と八分音符(2小節目のバスとアルト、4小節目のテノールとアルト)のリズムで、神の豊かな恵みを受ける人のしあわせなこころの喜びを活き活きと表現しています。最後の3小節は付点二分音符や二分音符という、長い音価の音符を使ってこの恵みに生きる安心感が表されています。さらに、「喜びに」では旋律で最高音のE(ミ)が用いられて、強調されています。 詩編唱は最終音の2度上(一音上)のH(シ)から始まり、歌い始めやすくなっています。そして次第に下降しE(ミ)に至りますが、この音は答唱句の冒頭の音と同じです。なお詩編唱の最後の和音はE(ミ)-Gis(ソ)-H(シ)ですが、これは和音の位置こそ違いますが答唱句の最初の和音と同じです。ちなみに、この曲はA-Dur(イ長調)ですがこの和音は、主和音ではなく五度の和音です。答唱句が主和音ではなく五の和音から始めることで、次の「しあわせな」に向かう勢いを付けているのです。【祈りの注意】 上にも書いたように、冒頭は勢いを付けて歌われ始めます。最初の「し」はマルカート気味で歌います。冒頭の速度指定は四分音符=112くらいとなっていますが、最初はこれよりもかなり早いテンポで歌い始めないと答唱句の活き活きとした感じを出すことができません。この速度は、答唱句の終わりの rit. したテンポと考えてよいと思います。付点四分音符や四分音符の後の八分音符、すなわち「しあわせ」や「しあわせな」、「かみの」、「そのよろこび」が遅くなると、どんどんテンポが落ちてゆきますので注意しましょう。なお、続く連続する八分音符もきびきびと歌ってください。 「ひと」や「受け」の付点二分音符で旋律が音を延ばしているところは、しっかりと音を延ばし、一瞬で息継ぎをして次の四分音符を歌うようにします。この延ばしている間に「ひと」ではバスとアルトが、「受け」では、テノールとアルトが遅れてこのことばを歌います。ここでしっかり延ばすことでひとまとまりの文章である答唱句がひとつの祈りとして継続されますが、早く音が切れるとこの祈りが続かなくなります。答唱句の後半は「喜びに」から、徐々にrit. して終わりますが、いつ、rit. が始まったか分からないようにできれば最高です。一番最後の答唱句(歌い終わり)は、最もていねいに rit. しましょう。 ところで、この答唱句で歌われる「しあわせな人」とはだれでしょうか?実はこの答唱句を歌う、わたしたち、一人ひとりがしあわせな人なのです。わたしたち一人ひとりが「神の恵みを受け、その喜びに生き」ているのでなければ、この答唱句が活き活きと歌われないのではないでしょうか? 詩編唱は1から3節が歌われます。まず、技術的な注意ですが、答唱句が小気味よいテンポで歌われますから、詩編唱も早めに歌いましょう。1節の1小節目と2節の2小節目は、少し歌詞が長いので「ゆずり」と「おられ」の後で息継ぎをします。息継ぎをするときは、その少し前に、やや、rit. して、一瞬で息継ぎをし再び、元のテンポに戻して歌います。 第一朗読ではエリシャの召命が福音朗読ではイエスの弟子になる覚悟が語られます。神のしもべ、キリストの弟子になるためには、この世の中のものへのこだわりを取り去る必要がありますが、いったんキリストの弟子になれば、この世のものとは比較にならない喜びを受けることができます。キリストによって開かれた「道」を歩むわたしたちは、すでにその喜びを神から与えられているのです。それをかみしめながらこの詩編を祈りたいものです。【オルガン】 答唱句のことばや、主に従うという、ことばの典礼の焦点から、やや、明るめのストップを用いたいものです。基本的に8’+4’で、会衆の人数によっては、2’を加えてもよいかもしれません。前奏の時に一番気をつけなければならないことは、祈りの注意で書いたように、テンポが遅くならないことです。一般的に、会衆のテンポは、オルガンの前奏より、かなり遅くなりやすいので、しっかりと、テンポを維持できるようにしましょう。 詩編唱と答唱句のテンポのバランスも難しいので、詩編先唱者と一緒にきちんと準備をするようにしたいものです。詩編唱の時に気を抜いていると、音が変わるところや詩編の頭で、ずれたりすることがあります。 もう一つの注意点は、答唱句が四声または二声で歌われる場合、それぞれの声部とオルガンがきちんと合うようにすること。会衆が斉唱の場合も、オルガンの内声がきちんと聞こえることで、延ばしている長さが、短くならないようにすることです。
2016.06.21
《C年》 10 荒れ地のかわき果てた土のように【解説】 この詩編63は、150ある詩編の中で、最も親しく神に呼びかけます。一連の答唱詩編の答唱句は、この詩編の2節から取られています。表題(1節)には、「ダヴィデの詩。ユダの荒れ野で」とあり、ダビデがサムエルから逃れてユダの荒れ野にいたとき(1サムエル19章~)に歌ったとの伝承がありますが、実際にはもっと後代の作でしょう。 詩編唱の1節の4小節目にある「求める」の語源は「あけぼの」で古代語の訳では「朝早くからあなたはわたしとともにいる」と訳されたことから、この詩編は『教会の祈り』の「朝の祈り」(第一主日および祝祭日などの第一唱和)で用いられています。神から離れた生活を「水のない荒れ果てた土地」と歌う作者は、まさしくそのように神を慕い、聖所=典礼(礼拝)の場で神と出会い敵から救われます。6節=詩編唱の3節の3小節目「もてなしを受けたときのように」は、直訳では「髄と脂肪で」だそうで、動物の髄と脂肪は、当時最もおいしい部分と考えられていたそうです(個人的にはわたくしも最もおいしい食べ物です)。今流に言えばグルメでしょうか。 答唱句では、旋律、伴奏ともに音階の順次進行や半音階を多く用いています。これによって、荒涼とした荒れ地の様子が表されています。とりわけ「土のように」では、バスが最低音になり、荒れ地の悲惨さを強調します。後半は「かみよ」で旋律が四度跳躍し、神を慕う信頼のこころ、神へのあこがれを強めます。なお『混声合唱』版の修正では「あなたを」のバスの付点四分音符はC(『混声合唱』版の実音ではD)となります。 詩編唱はドミナント(支配音=属音)のGを中心にして唱えられます。どの節でも一番強調されることが多い、3小節目では最高音Cが用いられています。4小節目の最後の和音はF(ファ)-C(ド)-G(ソ)という「雅楽的な響き」が用いられていますが、バスが答唱句の冒頭のE(ミ)への導音となり、その他は同じ音で答唱句へとつながります。【祈りの注意】 答唱句、特に前半は、荒涼とした荒れ地の様子を順次進行や、特に半音階で表しています。レガート=滑らかに歌いましょう。「あれちのかわきはてたつちのように」で、太字の母音「A」は喉音のように、赤字の子音はかなり強く発音します。また「あれち」は、sf (スフォルツァンド)一瞬強くし、すぐに、弱くします。このようにすることで、荒涼とした荒れ地の陰惨さを、祈りに込めることが、また、この答唱句の祈りを、よりよく表現できるのではないでしょうか。前半は「~のように」と答唱句全体では従属文ですから「れ」以外p で歌います。和音も従属文であり、主文へと続くように、5度の和音となっています。 後半は、この答唱句の主題です。「かみよ」の四度の跳躍で、「か」の部分はその前の和音の続きで五の9の根音省略形、「みよ」はどちらも主和音で力強さが込められ、p から、一気にcresc. して神への憧れを強めます。その後は、f ないしmf のまま終わりますが、強いながらも神の恵み、救いで「豊かに満たされた」こころで穏やかに終わりたいところです。 関連する朗読は、ゼカリアの預言もルカの福音も、キリストの受難予告と復活の預言です。生前のイエスに従っていた弟子たちにとって、イエスご自身の受難予告は、全く理解できない以上に、あってはならないことでした。主のエルサレムへの道はイスラエルの国の復興のためであったと思っていました。しかし、イエスにとってエルサレムへの道は、栄光への道であることには変わりありませんでしたが、それは、十字架をとおしての栄光だったのです。これは、その後の弟子たちのみならず、キリスト者すべてが、何らかの形で通らなければならない、追わなければならない十字架の道ですが、その十字架はキリストがともに追ってくださるくびきでもあることを忘れないようにしたいものです。詩編唱も、神とキリストがともにいてくださるという、信頼のもとに歌われます。詩編を歌う方も、味わう方々も、この信頼をゆるぎないものとするために、詩編のことばをより深く味わっていただきたいと願います。【オルガン】 答唱句のことばからしても、フルート系のストップが妥当でしょう。基本的には8’だけ、会衆が多ければ、答唱句では、Swell の8’もコッペル(カプラー)でつなげて弾くか、深みのある、4’を加えても良いでしょう。パイプオルガンでは、「あれち」の sfを表現することは難しいですが(ペダルを使っている場合も同様です)、ペダルがないハルモニウム(リード・オルガン、足踏みオルガン)では、表現することができます。 手鍵盤だけで弾く場合、答唱句は、すばやい持ち替えや手を滑らすなどの熟練を要します。じっくりと考えて、時間をかけて練習しましょう。このような練習は、会衆の祈りがこの答唱句の信仰告白にふさわしくなるようにするためです。会衆が良く祈るためには、オルガンがよく祈らなければなりません。オルガンがよく祈るには、オルガン奏者が深く祈っていなければならないことを忘れないようにしましょう。 オルガン奉仕には、多くの試練、課題、困難があるかもしれません。準備の間、この詩編を何度も、歌いながら味わうことで、神への信頼のうちに、この、奉仕の務めを与えていただいたことを想い起こし、神と共同体への奉仕のために、勇気と知恵を与えていただくことができるのではないかと思います。
2016.06.12
《C年》 114 主は豊かなあがないに満ち【解説】 この、詩編32は、「回心の7つの詩編」(他に、6、38,51,102,130,143)の一つで、アウグスティヌスが好んで唱えた詩編です。詩編の類型としては、個人的な感謝の詩編で、罪の赦しを受けた人の感謝の歌です。詩編の表題には「ダビデの詩」とあり、バトシェバと姦通を犯したダビデが、預言者ナタンの叱責を受けて、自らに死刑宣告をした後、その罪を赦されたことに感謝して(サムエル記下12:1-15)歌った歌とされています。 答唱句は、詩編唱と同じ歌い方がされるものの一つ(他に「神よ あなたの顔の光を」、「父よ あなたこそ わたしの神」)です。バスは、常にD(レ)で持続しますが、この、答唱句の確固とした信仰告白を力強く表しています。 詩編唱は、第1・第3小節の終止音の四分音符(主に「、」)が、その前の全音符から、2度高くなっており、第2・第4小節では(主に「。」)2度下降しています。さらに、各小節の冒頭の音が順次下降しており(1小節目=A(ラ)、2小節目=G(ソ)、3小節目=F(ファ)、4小節目=E(ミ))、文章ごとのバランスをとりながら、ことばを生かしています。 この詩編唱は、当初、『典礼聖歌』(分冊第二集=31ページ)で、旧約朗読後の間唱として歌われた「主よ よこしまな人から」(詩編140)に用いられていました。現在、『典礼聖歌』(合本)で歌われる詩編唱の第3・第4小節が「主よ よこしまな人から」の答唱句として、第1・第2小節が、同じく詩編唱として歌われていました。「主よ よこしまな人から」が作曲されたのは、典礼の刷新の途上だったため、新しい詩編や朗読配分、などが確立したときに、この曲は使われなくなり『典礼聖歌』(合本)には入れられませんでしたが、新しい答唱詩編である「主は豊かなあがないに満ち」の詩編唱に受け継がれました。【祈りの注意】 解説にも書きましたが、答唱句は詩編唱と同じ歌い方で歌われます。全音符の部分は、すべて八分音符の連続で歌います。「豊かな」と「あがない」の間があいているのは、読みやすくするためです。また「あがないに」と「満ち」、「いつくしみ」と「深い」の間があいているのは、楽譜の長さ(答唱句と詩編唱の)をそろえたための技術的な制約によるもので、これら赤字のところで息継ぎをしたり、間をあけたり、赤字のところを延ばしたりしてはいけません。 答唱句のことばで太字のところは、自由リズムのテージス(1拍目)になります(*は八分休符)。 主はゆたかなあがないに満ちー*|いつくしみふかいー* 答唱句はその詩編のことばに対して「主はゆたかなあがないに満ち、いつくしみ深い」と答えます。詩編と同じく、八分音符の連続ですが「主・は・ゆ・た・か・な・あ・が・な・い・に・満・ちー」のように包丁がまな板を鳴らすような歌い方にならないようにしましょう。 詩編は解説にも書いたダビデに対するナタンの叱責の場面が読まれます。今日のミサのことばの典礼での朗読のテーマは、ずばり「回心」です。しかし、回心の第一歩は神のことばを聴くことです。詩編を歌う人も、まず、この日の朗読をよく味わって、自らの朗唱を深めましょう。なお、詩編唱の2節の3~4小節目ですが、「聖書と典礼」では読点(、)がなく、1行になっています。『典礼聖歌』の楽譜では、4小節目の冒頭=「おおって」が全音符の下にありません。ここは、詩編の特殊例で、この箇所は3小節目~4小節目を一つの小節のように歌います。すなわち、3小節目の「喜びで」を四分音符で延ばした後、最後の八分休符を省き「おおって」に続けます。つまり、 すくいのよろこびでーおおってくださるー (太字はテージス)となります。 冒頭は、きびきびと歌い始め、1小節目の終わりで、rit. し、ほぼ、そのテンポのまま「いつくしみ」に入り、最後は、さらにていねいに rit. して終わります。全体は、P で、最後の答唱句は PP にしますが、それは、この答唱句の信仰告白のことばを、こころの底から、深く力強い、確固としたものとするためです。決して、気の抜けたような歌い方にならないようにしてください。【オルガン】 詩編唱形式の答唱句ですので、前奏は歌う場合と同じ長さで全体を弾き、旋律が動く答唱句のように旋律を刻むことはしません。ストップは答唱句の内容からもフルート系の8’で、会衆の人数が多い場合は、鍵盤をつなげるか、落ち着いた音色の4’を加える程度にしたほうがよいでしょう。ペダルを使うのは答唱句だけなのは言うまでもありません。詩編唱の2節の3~4小節目のつながりを、詩編唱者ときちんと合うように、準備を怠らないことも大切です。
2016.06.07
《C年》65 神はわたしを救われる【解説】 詩編30は瀕死の人が重病から救われたことを感謝する詩編です。死は「死の国(よみ)、墓(穴)、滅び、ちり、嘆き、荒ら布」などと表現され、いのち(=神の)は「喜び、恵み、踊り、晴れ着」ということばで対照的にたとえられていて、神による救いが強調されています。ここでは、歌われませんが、5節では、詩編作者が自らの喜びを人々にも一緒に歌うように促します(「神を信じる人は神をたたえ、とうといその名をほめ歌え」)。死から救われて神の救いにあずかることは、個人的なことだけにはとどまらず、共同体的な喜びへと広がってゆくものなのです。 答唱句は、珍しくテージス(小節線の後ろ)から始まります。旋律の音は、G(ソ)A(ラ)、C(ド)の三つの音で、その他の声部の音も大変少ない音で構成されています。文末以外は、ほとんどが八分音符で、「すくわれる」と「たたえよう」で四分音符が用いられて、ことばが強調されています。とりわけ「たたえよう」では、アルトのAs(ラ♭)とテノールの最高音E(ミ)で、信仰告白のことばが高められています。さらに、テノールは冒頭から「いつくしみ」までC(ド)が持続して、神への信頼と救いの確信が表されています。 詩編唱は、3小節目でバスに臨時記号が使われ(Fis=ファ♯)、緊張感が高められますが、4小節目は5の和音で終止し、旋律も答唱句の冒頭と同じ音になり、落ち着いて終わります。【祈りの注意】 冒頭は、指定の速度の、四分音符=72よりやや早めで始めるとよいでしょう。八分音符が連続しますので、メトロノームで計ったように歌うと、歌はもちろん祈りになりません。変なたとえかもしれませんが、ところてんを作る道具で、最初に、一気に押し出すような、そんな感じで始めるとよいでしょう。2小節目の「救われる」でやや rit. しますので、「わたしを」くらいから、わからない程度にゆっくりし始めます。「その」のバスが八分音符一拍早く始まるところで、テンポを元に戻します。最後の「いつくしみを」から、再びわからないように rit. して、最後はていねいに終わります。最後の「たたえよう」は、こころから神をたたえて、祈りを神のもとに挙げるようにしたいものです。 この答唱句は「神はわたしを救われる」と現在形になっています。神の救いのわざ(仕事)は、かつて行われて終わってしまったのでもなく、いずれ行われるのでそれまで待たなければならないものでもありません。神の救いは、今もいつも代々に至るまで、継続して行われています。その、顕著なものが、やはりミサではないでしょうか。ミサは、キリストの生涯の出来事を思い起こす福音朗読と、その救いの頂点である受難-復活-昇天を記念=そのときその場に現在化するものです。このミサが世界のどこかで必ず継続して行われている。それをこの答唱詩編は思い起こさせてくれます。そのことを思い起こしながらこの答唱句を歌うことが祈りを深め、ことばを生かすことになるでしょう。 第一朗読の列王記ではエリヤとやもめの対話で話が進んでゆき、やもめが最後にエリアがどういう人かが分かったと書かれています。しかし福音朗読ではやもめのことばは一つも書かれていません。その代わりにその出来事を見ていた人々が神を賛美しています。この違いが実は、エリアの出来事とイエスが行われたことの大きな違いとなっていることを黙想することが大切かもしれません。単に死んでいた人が生き返ったということで終わらせてしまっては、エリアの出来事もイエスの行われたわざも、科学的に立証できない摩訶不思議な出来事で終わってしまいます。わたしたちにとって命とは何か、命を与えてくださった方とはだれか、命は誰のためにあるのか、そういった原点をしっかりと振り返る機会にしたいものです。【オルガン】 答唱詩編の基本である、フルート系のストップの8’+4’をもとに、人数によっては4’を弱いプリンチパル系にしてもよいでしょう。指揮者がいない場合、オルガンの前奏が、会衆の祈りを左右しますから、のっぺらぼうのような前奏をしないようにしましょう。最後の答唱句は、賛美の歌声を支えるために、少し、強いストップ(たとえばプリンチパル系の8’とかフルート系の2’)を加えてもよいかもしれません。
2016.05.30
《C年》159 門よとびらを開け【解説】 行列の詩編で95の前半と似ている詩編100はイスラエルの王・祭司としてのメシア(キリスト)について歌った詩編です。詩編95から、この詩編100までは、神の王権をたたえる詩編と言われており、詩編100はその締めくくりの詩編に当たります。表題にあたる1節には「賛歌。感謝のために」(『新共同訳』)、「感謝祭の詩。」(フランシスコ会訳)とあるように、感謝のいけにえの奉献の時に歌われたものと思われます。イエスがこの詩編の第1節を「ダビデの子についての問答」(マタイ22:41-46)の箇所で、自分自身への預言として述べていることから、教会は、栄光を受けたキリストに対する預言としてこの詩編100を引用してきました(使徒2:32-36)。なお、元来、すなわち旧約的な解釈では、表題に「ダビデの詩」(この場合はダビデに対する詩)とあるように、ダビデ王朝における王の即位のために作られ、用いられたと考えられています。「メルキセデク」は創世記14:17-20に出てくる「いと高き神の祭司であったサレムの王」(14:18)で、サレムは現在のエルサレムと考えられます。 答唱句はテージスから雄大に始まり、音階の順次進行で最高音Des(レ♭)に上昇し、門が開き、永遠のとびらがあがる様子が示されています。 allarganndo(次第にゆっくりしながら大きくする=rit.+dim.)によって答唱句はいったん「あがれ」で終止しますが、和音は、続く「栄光」で用いられる並行短調のf-moll(へ短調)の五度に当たるC(ド)-E(ミ)-G(ソ)で、門のとびらが開ききり、永遠のとびらがあがりきった様子と、その中を進もうとする栄光の王(すなわちメシア=キリスト)の輝きが暗示されています。 その後、旋律はもう一度、最低音のF(ファ)から和音内の構成音As(ラ♭)を含め6度上昇し、「おう」で再び最高音Des(レ♭)に至り、栄光を帯びた王の偉大さを象徴しています。詩編へと続く部分の終止は、f-moll(へ短調)からEs-dur(変ホ長調)に転調して、詩編唱の冒頭へと続きます。Lastのほうは「おうが」から、バスとテノールのオクターヴが保持され壮大さを保ったまま終止します。 詩編唱は、主和音から始まり、旋律の、一小節目から二小節目、三小節目から四小節目、が同じ音で続き、各小節の最後の音は、冒頭の音からいずれも二度上昇してゆき、四小節目の最後で、最高音C(ド)に力強く達して答唱句へと戻ります。【祈りの注意】 答唱句は雄大に歌われますが、決して、だらだらと歌ったり、乱暴に始めたりしないようにしましょう。表示の速度は四分音符=100くらいとなっていますが、最初はそれよりやや早くてもよいかもしれません。冒頭、テージスから始まりますから、最初の「門」の「も」(m)をシッカリと発音することが大切でしょうか。もちろんやりすぎはいけません。 旋律はいったん「門よとびらを」のC(ド)に下降しますが、いわば「あがれ」の最高音Des(レ♭)と allarganndo に向かう上昇のための勢いを付けるようにも感じられます。この上行が力強さを持ちながらも、快いテンポで歌うようにしましょう。このとき大切なことは、皆さんの前に、実際に、栄光の王が入る門・永遠の戸があり、その門の扉が実際に開き、永遠の戸が上がり、いま、そこで、栄光の王が入る、その場に皆さんがいて、この答唱詩編を歌っている、ということです。つまり、絵に描いたようにとか、映画を見ているようにではなく、皆さんが、そのときその場にいる(現存している)のでなければ、この答唱句を、本当にふさわしく歌うことはできないのではないでしょうか。なお、allarganndo の後は、テンポをやや、子戻しにして、さらに豊かに rit. すると、この答唱句の雄大さをふさわしくあらわすことができるでしょう。特に最後の、答唱句、すなわち Last に入るときは、allarganndo rit. をたっぷりとしてください。 詩編唱は第一朗読の、サレムの王、メルキセデクの供え物を思い起こして黙想されます。第一朗読にある、メルキセデクの供え物「パンとぶどう酒」、福音朗読にある「パンを取り、賛美の祈りを唱え、裂いて弟子に渡して」という記述は、いずれもミサに通じるものです。ちなみに、この創世記の朗読の部分の出来事は、ローマ典文と呼ばれる、第一奉献文でも思い起こされ(アナムネーシス)ます。今日、朗読される一連の出来事は、単に、物質としてのパンとぶどう酒(そこに現存するキリスト)をさすだけではなく、感謝の祭儀で記念される、受難・復活・昇天も記念されると言っても過言ではありません。それは、この詩編唱で歌われる、詩編100を見ても明らかでしょう。この詩編を黙想する間、これまで、復活節の間に、記念してきた、キリストの過越し全体をもう一度、深く、心に刻み付けられるよう、準備したいものです。【オルガン】 答唱句は雄大な呼びかけ、信仰告白ですから、しっかりとした伴奏になるようなストップを用いたいものです。できるだけ深みのある、音色を探しましょう。とはいっても、音が大きければよいのではありません。それがふさわしければ、手鍵盤にある16’を加えることも考えられます。 最後の答唱句では、力強い祈りを支えるために、8’や4’を重ねるのも工夫の一つです。各鍵盤にこれらが一つ、プリンチパル系かフルート系のどちらかしかないような時には、他の鍵盤をコッペル(カップリング)してみることも、考えられます。 短い答唱句で、allarganndo やrit. また、テンポの小戻しがありますので、オルガンの伴奏が、これをしっかり支える必要があります。この、バランスのとり方を、まず、オルガン奉仕者は身につけるように、祈りを深めてください。
2016.05.22
《C年》 48 神の名は 答唱句もこの詩編から取られている詩編8は、賛美の詩編です。冒頭=2節abと終わりの10節は同じ文章になっています。これらにはさまれるようにして、前半=2節c~5節では、天における神の栄光と人間のはかなさが歌われます。後半=6節~9節では、その人間が、神の似姿(創世記1:27)として創造されたきわめてよいものであり、ご自分の変わりに被造物をおさめるように定められた事を述べています。 詩編唱の2節で「神の使い」と訳されたことばは、ヘブライ語の底本では「エロヒーム」すなわち「神」(複数形)をさす一般的なことばですが、ギリシャ語訳(七十人訳)やラテン語訳(ヴルガタ訳)では「天使たち」と解釈されています。 ところで、人間が被造物を支配するとはどういうことでしょうか?よく、現代における自然破壊のもとは、キリスト教だという指摘がされることがあります。確かに、一時期のヨーロッパでは、キリスト教とそれに相対する人間中心主義の結果として、人間は自然を思うままに変えることができるという考えが広まったことは事実です。その意味では、キリスト教にもその責任があることは否めないかもしれません。 しかし、この詩編やこの詩編のもととなった創世記の記述から考えると、人間が自然界を治めるのは、神の似姿として創造された故のことであり、それは、歴史の完成に向かって歩む被造物を、創造者である神が望まれる姿に導いてゆくことを意味しているのです。ですから、人間が自然界を治めるときにもっとも大切なことは、人間が思うように自然界を変えることではなく、神がどのように被造物をキリストの救いに預からせようとしているかを考えて、歴史の完成に向かって、歩ませることなのです。キリスト教もユダヤ教も中心になるのは神であり、人間は、その神のみ旨を行って、被造物を導くのであり、決して、自分たちの意のままに変えてゆくことは赦されていないのです。 答唱句の最初の一小節「みの名はあ」では、八分音符が連続しますが、これが曲全体のテンポを決定する鍵となります。「あまねく」(漢字で書くと「遍く」)では、旋律が6度跳躍しますが、神の名が時間と空間を超えて普遍的に世界に輝くことを暗示します。ちなみに「名」とは、そのものの本質を表すもので、神ご自身そのものをさすことばです。(日本語でも「名は体を表す」と言います。)また、これは、バスのオクターヴの跳躍でも表されています。「栄こうは」の旋律は最高音C(ド)と付点八分音符で、また、テノールの「う」の三拍目も最高音C(ド)に上がり、神の栄光が天にそびえる様子が暗示されています。 答唱句全体は四分音符+八分音符が連続し、さらに、臨時記号による半音階でこの動きに活気が与えられ、ことばが生かされます。 詩編唱は最高音H(シ)から始まり、反復しながら下降してゆきますが、四分音符で表された反復部分のことばに注意がゆくようになっています。最後は、旋律の最初の音D(レ)で終わり、祈りを答唱句に続けます。【祈りの注意】 第一朗読で読まれる、箴言で語られる「神の知恵」とはキリストに他なりません。神の知恵=キリストは、天地創造の時から神とともにおられました。その、キリストに結ばれたものは「共に楽を奏し、共に楽しむ」(箴言8:31)ようになるのです。詩編唱は、天地創造の昔から歴史の完成(聖霊の派遣)までを黙想するような、壮大で深い祈りとしてください。 解説にも書きましたが、最初の小節線の後の四分音符「かみ」の次の「の」をやや早めに歌い、「名はあ」の三つの八分音符で、テンポに乗るようにします。八分の六拍子は八分音符六つを数えるのではなく、付点八分音符×二拍子と考えて歌いましょう。旋律が6度跳躍する「あまねく」では、時間と空間を越えて、神の名=神の存在そのものが世界に輝いている(現在形)ことを表すようにしましょう。胸を(声を)世界に広めるようにしますが、決して、罵声にならないようにしてください。「あまねく」の後で、人によっては息継ぎが必要になると思いますが、気持ちは、冒頭から「輝き」まで続けましょう。「そのえいこうは」では、付点八分音符を利用して、次第に rit. し、「天に」で小戻しして、最後は、ていねいにおさめるようにしましょう。それによって、壮大な神の栄光が天にそびえる様子を表します。 特に、最後の答唱句は、たっぷりと rit. して、祈りもていねいにおさめるようにしましょう。 解説にも書いたように、四分音符+八分音符、半音階進行、を生かして、祈りが流れるように、活き活きと歌ってください。冒頭から最後まで、気持ちは一息で続くようにすることが秘訣だと思います。【オルガン】 答唱句の祈りを活き活きさせるには、オルガンの前奏は大変重要です。オルガンの前奏が、重い石を引きずるようになると、会衆の答唱句が活き活きとした祈りになるはずがありません。前奏は、会衆がなれるまで、やや、アップテンポ気味でもよいのではないでしょうか。解説に書いた三つの注意1=拍子は八分音符6拍ではなく、付点四分音符×2で数える2=最初の小節線の後の四分音符「かみ」の次の「の」をやや早めに弾き「名はあ」の三つの八分音符で、テンポに乗るようにする3=四分音符+八分音符、半音階進行、を生かして、祈りが流れるように、活き活きと弾くことをよく心がけましょう。オルガンが毎回このように前奏・伴奏をしてゆけば、会衆もだんだんとついてくるようになるはずです。 ストップは、やや、明るめのものがよいでしょうか。ただ、プリンチパル系の高いピッチ(4’や2’)は、逆に祈りを妨げることもありますので、会衆の人数をよく考えて、組み合わせるようにしたいものです。
2016.05.16
《352 聖霊の続唱》【解説】 聖霊の続唱の基本構造は、A 先唱~1の終わり B 2+3=繰り返し=4+5 A 6 B 7+8=繰り返し=9+10の前半A’ 10の後半 です。 復活の続唱が、教会旋法(第7旋法)で書かれていたのと同様に、この聖霊の続唱も教会旋法の第2旋法に近い書式で書かれています。Bの部分では、ことばを生かすために、八分音符が効果的に用いられています。また、拍子もかなり変わりますが、これも、ことばを生かす手法で、204 栄光の賛歌 同様に、歌っていて全く違和感がありません。また、Bの部分は、作曲者も『典礼聖歌を作曲して』の132ページで「”Veni Sancte Spiritus"の旋律的特徴を遠く思い起こして作曲されています」と書いていますが、その冒頭の部分や中間の高音部も思い起こさせるものです。 この続唱も、聖霊降臨の祭日だけではなく、堅信式・叙階式・請願式等のミサでも聖霊祈願の賛歌として歌うことができます。復活の続唱と同じように、四旬節に歌う場合は「アーメン。アレルヤ。」を「アーメン。アーメン。」と歌うようにしてください。【祈りの注意】 冒頭の先唱者の先唱句は目には見えませんが、わたくしたちにいつも働きかけてくださる、聖霊に向かって力強く呼びかけましょう。その後、一同は、復活の続唱と同様に間髪を入れずに続けて祈ってゆきます。 冒頭も、その後も、四分音符=66~69くらいと比較的ゆっくりです。作曲者も書いているように(『典礼聖歌を作曲して』132ページ)「聖霊のさまざまな働きを、この歌の流れにのって、一つひとつ味わい、心に確かめ」かみしめながら歌ってゆきましょう。そして、その、一つひとつの働きを、いつも大切にしてゆけるようにとも願いましょう。 2=「貧しい人の*父」「心のー*光」「さわやかな*いこい」など「*」で表した八分音符のところは、ことばを生かすための八分音符です。この八分音符の部分では、決して祈りの流れ=音楽の流れを止めないようにしてください。このような、というよりも、休符というのは「音がない」のではなく「ない音が存在する」部分なのです。英語で言えば no body no man という表現と同じと考えてください。日本語では「誰も~ない」と訳しますが、厳密に直訳すれば「ない人が」となるでしょう。この、八分休符のところは祈りも音楽も音符の部分よりも、さらに緊張感を持って継続し、流れて行く部分であることを、しっかりとこころにとめておいてください。 復活の続唱と同じように、歌詞も音楽も長いですから、歌詞=祈りのことばをしっかりと覚えること、歌いなれて祈りなれることが肝心です。聖霊の働きを願って、こころに染み渡らせることができるまで何度でも歌い、口ずさむことができるようにしたいものです。そして、全体の祈りが身についてくると、自然と rit. をどこでするとことばと祈りが深まるかがわかるようになるでしょう。【オルガン】 基本的には復活の続唱と同じで、最初の先唱の部分は補助鍵盤だけで弾き、一同で歌うところは主鍵盤+ペダルで弾けるとよいかもしれません。ストップは、基本的にフルート系だけでよいと思います。人数が多い場合には弱い、プリンチパル系を加えてもよいかもしれませんが、あまり、派手なストップは避けたほうが祈りを深められると思います。バスとソプラノがかなり離れていますので、ペダルを使うとかなり楽に弾けると思います。
2016.05.05
主の昇天の祭日の答唱詩編 112 主はのぼられた と 聖霊降臨の祭日の答唱詩編 69 神よあなたのいぶきを の二つは、答唱詩編の冒頭のページでも触れたように、相互に関連があるばかりではなく、ミサの式次第とも深く関連付けられています。そこで、この二つの答唱詩編については、一緒に詳しく書き記したいと思います。 まず、二つの答唱詩編を対比させながら、見てゆきます。 主はのぼられた の答唱句の旋律は、D(レ)から始まります。これは、ミサの式次第の構成音の中で最も低い音で、地を暗示しています。最後の音、H(シ)は、式次第では用いられない音で、天上の神の国を示唆します。一方、冒頭、「主は」で一旦低いH(シ)へ旋律は下がりますが、これは、高いH(シ)の、天上の神の国と対照的に、主が下られた、陰府を暗示します。この世から死の国に下られた主が復活して天の国に昇られたさまが、旋律で表されていないでしょうか。 神よあなたのいぶきを は、B(シ♭)から始まります。この音はミサの式次第の中では、「司祭の音」すなわち「奉仕者の音」と言い換えることができます。聖霊の発出は、父と子がわたしたちのために約束してくださった、いわば、神による奉仕です。答唱句の最初の音が、主はのぼられた の答唱句の最後の音であるH(シ)よりも、半音低いB(シ♭)からはじまるのは、神がわたしたちの方に一歩踏み出して、聖霊を遣わしてくださった、つまり、神がわたしたちのために奉仕してくださっていることを示しているといえましょう。「神がわたしたちのために奉仕する」というと恐れ多いような、あるいは、語弊があるように聞こえるかもしれませんが、たとえば、ドイツ語で、礼拝のことをGottedienst と言いますが、これは「神奉仕」という意味で、ここには、わたしたちが神に奉仕するという意味と神が人間に奉仕してくださる、という二つの意味が込められています。答唱句の最後は、主はのぼられたの最初の音と同じD(レ)で、主がのぼられた地の表に、聖霊が下ってきた様子が暗示されています。 このように、これら二つの答唱詩編は、これらが歌われる、固有の祭日や答唱句のことばのみならず、ミサの式次第や典礼季節といった、神学を背景にして作られています。もちろん、それを知らなければ歌えない、というものでもありませんが、祈りを深めるためには、助けになることではないでしょうか。 112 主はのぼられた【解説】 詩編47は、詩編93や96-99と同じく、神の即位式、あるいは、契約の箱の行列の歌などで用いられたなど、学者によって解釈が分かれていますが、次の、詩編48とともに、神である主が全宇宙を治めておられることを歌った、王である神をたたえた詩編です。教会は、この詩編を、特に6節の「神は喜びの叫びのうちに、角笛の響きとともにのぼられた」を中心にして、キリストの昇天と結びつけ、主の昇天の祭日に歌ってきました。 答唱句は、まず、力強くバスとテノールの伴奏が、八分音符一拍早く始まります。上にも書きましたが、旋律はミサの式次第の旋律の最低音のD(レ)から始まり、上昇するための弾みをつけるように、あるいは、主が陰府に下られたことを象徴するかのように、一旦低いD(レ)に下降し、その後、喜びの叫びをともないながら最高音へと上昇してゆきます。「のぼられた」で、旋律とアルトが付点四分音符延ばす間、バスとテノールが八分音符一拍早く「よろこび」を歌いだし、しかも2度上がることで、上昇と喜びに弾みをつけています。「よろこびの」と「さけび」の間に、ソプラノとテノールでは八分休符があり「の」の助詞の表現と「さ」のアルシスを生かしていますが、同時に、アルトとテノールは休符分、早く「さ」を歌い始めることで、祈りの気持ちを継続させています。最後に、旋律は、最高音のH(シ)に達し、主が天(神の国)に昇られた様子を表しています。 詩編唱は、A(ラ)から始まり、一小節ずつ下降してきて、答唱句の冒頭の音=D(レ)に戻りますが、これは、弟子たちが、主が昇天されたオリーブ山からエルサレムへと降りてきた様子を象徴しているでしょう。 【祈りの注意】 解説にも書いたように、この答唱詩編は、主の昇天の祭日とばかりではなく翌週の聖霊降臨の祭日も考慮して作られています。 冒頭、旋律で八分休符になっているところにも、オルガンの伴奏がありますので、まず、このオルガンの力強い伴奏(主が力強く大地を踏みしめるような)をしっかりと聴き、その弾みを生かして、活き活きと歌い始めましょう。だらだらとした歌い方では、昇天(主が父の右の座に座られた)のよろこびがうせてしまいます。かといって、早すぎては、弟子たちから逃げるように聞こえてしまいます。指定速度を参考にしながら、答唱句の祈りにふさわしい速さにしましょう。途中の「のぼられた」で、わずかですが、いったん rit. してはどうでしょうか。ただし、次の「喜び」できちんと元のテンポに戻します。この場合、テンポを戻すところは、旋律の「よ」ではなく、バスとテノールが八分音符一拍早く始まるところであることを気をつけてください。ここで、きちんと戻さないと、どんどんテンポが遅くなり、祈りにしまりがなくなります。 答唱句の最後は「叫びのうちに」の「び」の途中くらいから rit. を始め、さらに、 dim. して、主が雲間に見えなくなった様子を表現したいものです。最後の答唱句は、さらに、これらをよく表現して、第ニ朗読や福音朗読ばかりではなく、聖霊降臨の答唱詩編、神よあなたのいぶきを にまで余韻が残るようにしたいものです。 詩編唱は、その内容と祭日のないようにふさわしく、力強く歌い始めましょう。そして、弟子たちがオリーブ山からエルサレムへ下りてきて、聖霊の派遣を待ち望むように、また、主の再臨を心の奥底で待ち望むように、わずかずつ音量を絞りますが、やりすぎにならないようにします。全体的には、mf の範囲内で行いましょう。音の良としては、力強く始まった詩編唱の終わりが、自然に答唱句の冒頭にバトンタッチできるとよいでしょう。しかし、詩編の精神的中心は、いづれの節も四小節目にあることを忘れないでください。つまり、精神的な力強さの頂点は、四小節目にあるのです。詩編を歌う方は、これらの、一見パラドクスに感じる表現を、しっかりと、よい祈りとすることができるように、この日の朗読全体を黙想してください。 最後に、何回も書いていますが、この答唱詩編は、聖霊降臨の答唱詩編と対になって作られていますから、この、答唱句の余韻が聖霊降臨の答唱詩編まで残るように、共同体全体がしっかりと準備をしたいものです。【オルガン】 答唱句の手鍵盤はフルート系の’8+’4、ペダルは’16+’8でよいでしょう。最初のバスの音には重々しさが必要ですが、プリンチパル系やリード管ではバスの音が大きすぎてしまいます。答唱句の最後は、主が天に昇られたように、バスも高い音ですが最後までペダルを使いましょう。最後のG(ソ)もペダルで十分に上昇感を出すことができます。人数が多い場合は、手鍵盤の’2、ペダルの’4は使わず、いずれも、コッペル(カプラー)を用いて、Swell をつなげるとよいのではないでしょうか。69 神よ あなたのいぶきを 【解説】 今日の答唱詩編で歌われる詩編104は、前の詩編103と同じく「創造」が主題となっています。また、はじめと終わりに同じ繰り返しのことばが当てられています。この詩編104は、ほぼ、創世記1章にある「創造物語」の順序に従って、神の創造のわざが述べられています。特に、31節は、諸物創造の後、神が言われたことば「神はそれを見て、良しとされた」(1:10他)に対応しています。その一方で、29節は、楽園物語における人間の創造(2:6、3:19)をも思い起こさせます。創世記1章2節を指す、この詩編の30節は、また、キリストの過越と昇天を通してもたらされた聖霊の派遣(ヨハネ14:15-31)=聖霊降臨によって始まった「新しい創造」と結び付けられて、この日の主題ともなっています。 ちなみに「創造」(ヘブライ語=バラー)と言うことばは、聖書では、必ず「主=神」が主語となっています。 再三再四書いているように、この神よあなたのいぶきをは主はのぼられたと対になっています。冒頭、旋律は主はのぼられたの最高音H(シ)より半音低いB(シ♭)から始まります。この音は、ミサの式次第では、司祭の音=奉仕者の音ですから、聖霊の発出は神がわたしたちのほうに歩み寄って=一歩降りて、奉仕してくださるものであること、神のいつくしみ深い被造物への配慮であることを表しています。伴奏の冒頭も、バスとテノールが省略されており、聖霊の派遣が、天からのものであることを伴奏でも表しています。 さて、旋律は徐々に下降し、最後は主はのぼられたの冒頭の音と同じD(レ)に降りて終わりますが、この音はやはり、ミサの式次第の最低音です。このD(レ)はバスの終止音でも同じ(旋律とは2オクターヴ離れています)で、これらは、神のいぶきである聖霊が、その派遣を約束された主がのぼられたのと同じ、地上に降りてきて、世界に広がってくださったことを表しています。 詩編唱は、ドミナント(支配音)であるA(ラ)を中心に、上下の音B(シ♭)とG(ソ)だけです。これは、あたかも「炎のような舌が・・・・・一人一人の上にとどまった」(使徒2:3)ことを思い起こさせ、また、暗示しています。答唱句も詩編唱も先の主はのぼられたと同じく、典礼暦年の流れを考慮して作られたものです。【祈りの注意】 答唱句全体を聖霊が降りてくる様子を表すようにすることは、言うまでもないことです。最初の「神よ」は、しっかりとした呼びかけとしましょう。ただ、その後の「あなたの~」が、だらだらすると、答唱句全体のしまりがなくなりますので、ここは、冒頭より、やや早めに歌うつもりで入ってください。そのためには「あなた」の前の八分休符でこのテンポをとるようにします。この八分休符は、テンポをとる上でも「あなた」のアルシスを生かす上でも大変重要な八分休符です。以前にも書きましたが休符は音がないのではなく、ない音がある状態です。中間部分は、インテンポのまま祈りが進みますが、「地のおもて」で、バスが八分音符早く出るあたりから徐々に rit. して、おさめるようにします。特に、最後のバスは、聖霊の広がりと深みを表すような声で祈れれば、この祈りにふさわしいものとなるでしょう。 詩編唱は、聖霊の派遣・発出、キリストによる新しい創造を深く黙想できるように、準備してください。なお、詩編唱の1節の1小節目は「主なる神」と、5音節ですので、かなりゆっくりと入ってください。そして、次の2小節目の「あなたは~」から基本のテンポにすると、最初があわてて聞こえるようなことがありません。ただし、2小節目も1小節目と同じ速さにしてしまうと、詩編唱がだらだらとしてしまい、祈りのことばを黙想できません。 詩編唱の特に、3節目は、神ご自身が「作られたものを良しとされた」こと、わたしたち自身が神のみ旨を行うことができるように、また、わたしたちのすべてが、いつも、神中心であるようにと祈るものです。これはまた、マタイ福音書「神の前に貧しい人(霊において貧しい人)」で始まる「真福八端」と共通しています。主の復活を力強くのべ伝えた、初代教会の先達たちと同じように、わたしたちは、いつも、神中心、神だけがよりどころであるかどうかを、この詩編によって、あらためて振り返ってみる必要があるかも知れません。【オルガン】 主はのぼられたと同じく、答唱句の手鍵盤はフルート系の’8+’4、ペダルは’16+’8でよいでしょう。最初のバスの音には重々しさが必要ですが、プリンチパル系やリード管ではバスの音が大きすぎてしまいます。人数が多い場合は、こちらも、手鍵盤の’2、ペダルの’4は使わず、いずれも、コッペル(カプラー)を用いて、Swell をつなげるとよいでしょう。
2016.05.01
《C年》 55 神のみ旨を行うことは【解説】 詩編67は、最初、豊作を求める祈りから始まり、収穫への感謝、神に祝福を求める祈りへと続き、さらに、すべての民と被造物への祝福を求める祈りへと発展してゆきます。祝福を求める祈りは、民数記6:24-26の「アロンの祝福」の式文(『典礼聖歌』遺作「主があなたを祝福し」参照)を言い換えたものです。イスラエルをとおしてすべての民が祝福を受けるという思想は《第二イザヤ》と同じで、パウロも「ローマの信徒への手紙」(12章など)で同様のことを説いています。第2バチカン公会議の『教会憲章』でも「教会はキリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具である」(1項)と述べられています。教会はその存在自体が目的ではなく、人類の救いのために存在するということです。実は、このことは『聖書』に一貫して流れている救いの本質です。 答唱句の前半、従属文の部分は「おこなう」が最高音(B=シ♭)を用いてことばを強調しています。続く「うことは」では、一時的に属調のF-Dur(ヘ長調)に転調することで、丁寧にことばを語り、行う決意を呼び起こします。後半は、すぐにB-Dur(変ロ長調)に戻り、まず「わたし」が最低音のCから始まり、謙遜のこころを表します。「こころの」は、付点八分音符と十六分音符で、最後の「よろこび」は音価が拡大され、斜体の部分は最高音B(シ♭)によって、こころ(魂)が喜びおどる様子と、答唱句全体の信仰告白の決意を力強く表しています。 詩編唱は、終止音と同じ音から始まり、1小節1音の音階進行で下降して、開始音Fに戻り、作曲者の手法「雅楽的な響き」の和音で終止します。バスのEs(ミ♭)は答唱句のバス(D=レ)とテノール(F=ファ)のオブリガートとなっています。【祈りの注意】 答唱句全体の信仰告白は、教会の母である聖母マリアが歌った「マリアの歌」(マグニフィカト ルカ1:46-)に通じるものです。いつも、この信仰告白の決意を持ち、神の み旨をわきまえることができるように祈りましょう。 「神の」を心持ち早めに歌うことが、この信仰告白の決意のことばを生き生きとさせます。メトロノームのように歌うと逆にだらだらしますし、上行の旋律も活気がなくなります。「みむねをおこなう」は、現代の発音では同じ母音Oが続きます。どの声部も同じ音で続くので「み旨をーこなう」とならないように、はっきり言い直しますが、やりすぎにも気をつけましょう。「ことは」の後で息継ぎをしますが、この息継ぎは「は」の八分音符の中から少し音を取って、瞬時に行います。ここを、テンポのままで行くと、しゃっくりをしたようになります。この前から少し rit.すると、息継ぎも余裕を持ってできますし、何よりも祈りが深まります。 後半は、すぐにテンポを元に戻しますが、「こころ」あたりから rit. に入り、付点のリズムを生き生きと、また、力強く歌って締めくくりましょう。この時、先にも書きましたが、聖母マリアの心と同じこころで歌うことができればすばらしいと思います。なお、これらの rit. は、いつしたのかわからないように自然に行えるようになると、祈りの深さもましてきます。 第一朗読の「使徒たちの宣教」では、改宗する異邦人(ユダヤ人以外)に割礼を施すかどうかが、論議されます。最終的には、肉の割礼が問題なのではなく、心の割礼が大切であることが確認されます。このことを決めたのは、使徒たちだけではありません。「聖霊とわたしたち」とあるように聖霊が一緒に働いてくださったことも思い起こしたいものです。このことによって、自分たちはユダヤ教の伝統を守ってきた、と考えていた人たちの中には、教会から離れていった人たちがいたかもしれません。わたしたちも、何が本当に「神の み旨を行うこと」なのか、日々、祈りながら神の示される道を歩みたいものです。【オルガン】 復活節の答唱詩編であり、答唱句のことばも考えると、いきいきとした、音色がほしいものです。常々指摘しているように、オルガンの前奏がいきいきとしていなければ、会衆の答唱がいきいきするはずはありません。だからといって、オルガンの前奏が、せかせかして聞こえると、祈りが落ち着きのないものとなります。良いテンポを保ちながらも、品位をもった前奏と、伴奏を心がけましょう。そのためには、オルガン奏者自身が、まず、日頃から、なにが神のみ旨なのかを見極める、信仰の目を養う必要があります。 もう一つ、「ことは」の後での息継ぎと、そのための rit. も、ふさわしく提示できるようにしてください。この部分だけでも、100回練習しても、少なくはあれ、多いことはないと思います。トーラー(律法)の学びのことわざにこういうものがあります。「トーラーを100回学ぶものは101回学ぶものに遠く及ばない」と。
2016.04.24
《C年》18 いのちあるすべてのものに 【解説】 この答唱句は、詩編から直接取られたものではありませんが、詩編145全体の要約と言うことができます。この、詩編145は、詩編に7つあるアルファベットの詩編(他に9,25,34,37,111,112,119。 詩編の各節あるいは数節ごとの冒頭が、ヘブライ語のアルファベットの順番になっている)の最後のものです。表題には「ダビデの賛美(歌)」とありますが、この「賛美」を複数形にしたのもが「詩編」(ヘブライ語でテヒリーム)とですから、詩編はとりもなおさず「賛美の歌集」と言うことになり、詩編はまさしく歌うことで本来の祈りとなるのです。 旋律は、ミサの式次第の旋法の5つの音+司祭の音からできています。同じ主題による123 主はわれらの牧者がミサの式次第の旋法の5つの音だけだったのに対し、ここでは司祭の音であるB(シ♭)が加わりますが、ミサとの結びつきと言う点での基本的なところは変わりません。それは、この二つの答唱詩編で詩編唱の音が全く同じであることからも分かると思います(⇒答唱詩編 のページ参照)。 冒頭の「いのちある」では旋律で、最低音のD(レ)が用いられ、バスは、最終小節以外は順次進行が用いられることで、すべての被造物に生きるための糧=恵みが与えられる(申命記8:3参照)ことが表されています。終止部分ではバスで最低音が用いられて、それが顕著になると同時に、ことばも深められます。一方、「主は」に最高音C(ド)を用いることで、この恵みを与えられる主である神を意識させています。この「主」の前の八分音符は、この「主」のアルシスを生かすと同時に、「すべてのものに」の助詞をも生かすもので、この間の、旋律の動きはもちろん、精神も持続していますから、緊張感を持った八分音符ということができます。なお「ものに」は、「の」にそっとつけるように歌い「にー」と延ばさないようにしましょう。 詩編唱は4小節目で最低音になり、低音で歌うことで、会衆の意識を集中する効果も持っています。【祈りの注意】 答唱句は、旋律の動きはもちろん、歌われることばからも、雄大に歌うようにします。いろいろなところで、聞いたり指導したりして感じるのは、1=答唱句が早すぎる2=のっぺらぼうのように歌うの二点です。指定された速度、四分音符=60は、最初の速度と考えてみましょう。二番目に指摘した、のっぺらぼうのように歌うことのないようにするには、「すべてのものに」を冒頭より、やや早めに歌うようにします。また「いのちある」を付点四分音符で延ばす間、その強さの中で cresc. することも、ことばを生かし、祈りを深める助けとなります。 後半の冒頭「主は」で、元のテンポに戻りますが、だんだんと、分からないように rit. して、答唱句をおさめます。なお、最後の答唱句は「食物を」の後で、ブレス(息継ぎ)をして、さらに、ゆったり、ていねいにおさめるようにします。この場合「食物」くらいから、 rit. を始めることと、答唱句全体のテンポを、少しゆっくり目にすることで、全体の祈りを深めることができるでしょう。 第一朗読では、パウロとバルナバによるアジア州への宣教の模様が読まれます。ここでは教会の宣教における二つの重要なことが語られています。すなわち、1=わたしたちが神の国に入るには、大きな苦しみを経なければならない2=(神は)異邦人に信仰の門を開いてくださったという二点です。わたしたちが「信仰」のゆえに人々にさげすまれ、のけ者にされるときでさえ、神は、その人々に対しても「恵みとあわれみに満ち、怒るにおそく、いつくしみ深い」(詩編145:8)のです。そして、わたしたちが「互いに愛し合う」(ヨハネ13:34-35)姿を通して、その人たちも「〔神の〕国の栄光を語り、力ある〔神の〕わざを告げる」ようになることを望んでおられるのではないでしょうか。 わたしたちもこの詩編を味わいながら、パウロやバルナバが思いもよらなかったであろう、この極東の地に、神が「信仰の門を開いてくださった」(詩編145:8)ことに感謝しながら、この詩編を味わいたいものです。【オルガン】 基本的には、フルート系の8’+4’を用います。祈りの注意でも再三指摘したように、のっぺらぼうのように歌わないために、前奏から、きちんと、緩急をつけましょう。旋律もなだらかで、和音も複雑でないので、その分、オルガンの前奏が、本当に祈りを導き出せるかどうかが問われる答唱詩編です。
2016.04.17
《C年》172 わたしたちは神の民【解説】 詩編100は、この答唱句が取られた詩編です。最初の7節は、詩編95と似ていて、この、詩編95から始まる、一連の神を王としてたたえる詩編の結びの詩編です。4節(詩編唱の3節)からも推測されるように、神殿祭儀の時に歌われた詩編です。また、表題となる1節は、神殿祭儀でのいけにえを携えて行なわれる行列をさしています。 答唱句は、全体に低音部を中心にして歌われますが、それが、かえって、答唱句で歌われる信仰告白のことばを、謙虚に、しかし、雄大に力強く歌わせる効果があります。旋律が付点四分音符でことばを延ばしているところでは、必ず、どこかの声部が、次に来ることばを、四分音符によって、八分音符一拍分早く歌い始め、ことばへの集中力を高めるとともに、祈りの流れが継続するように、工夫されています。最後は、旋律が最高音のB(シ♭)に高まり、信仰告白のことばを力強く結びます。 詩編唱の基本的な旋律構造は、四小節目を除くと答唱句と同じで、答唱句と類似構造と言う点でバランスをとっています。四小節目だけは、終止の和音が五の和音(=F-A-C)で、答唱句の冒頭に戻る(続く)ようになっています。ちなみに、この答唱句で歌われる詩編は3つあり(他に、詩編50、詩編122)ますが、いずれも、神殿の祭儀に関連しています。それででしょうか、詩編唱の部分は、やはり、神殿祭儀(おそらく「仮庵の祭り」)で用いられた詩編81が歌われる、162 喜び歌え神に叫びをあげよと同じ旋律が用いられています。【祈りの注意】 この答唱句で一番気になることがあるとすれば、それは、答唱句を早く歌いすぎることです。速さは四分音符=60くらいと指定されていますが、一番早い速さと考えて歌ってもよいでしょう。冒頭「わたしたちは」は、確固とした信仰を持った、力強い p で始めましょう。「わたしたちは」から「かみ」へは、音域が広がりますので、少し cresc. すると、祈りが深まります。解説でも書いたように、旋律が付点四分音符で延ばす間、すなわち、「わたしたちは」の「は」、「かみのたみ」の「み」、「まきばの」の「の」では、3つの声部が音を延ばしているときに、どこかの声部が八分音符一拍分早く、すなわち、四分音符でもって次のことばを歌い始め、祈りを継続させていますから、旋律を歌うかたがたは、この、祈りの継続が十分になされるように、付点四分音符をできるだけしっかりと延ばすようにしましょう。これは、混声四部で歌われない場合でも、オルガンの伴奏がその役割を果たしていますので、忘れないようにしてください。この、付点四分音符の後は、なるべく、一瞬で息を吸うようにしますが、しゃっくりをしたようにならないでください。特に、最後の「むれ」は最高音で歌うので、どうしても、「れ」をぶつけるように歌いがちですが、祈りの終止としては一番よくない歌い方です。乱暴にならにように、やさしく、しかし、芯がしっかりした声で、祈りが神に昇ってゆくようにしたいものです。 第一朗読に見られるように、神のことばは「異邦人」とされていた人々に向かって語られるようになり、全世界で、神=唯一まことの神を信じる人々が増えました。詩編唱では、これを受けて、全世界の神を信じる民、キリストの復活をあかしする民に、礼拝と信仰を促すことばが歌われます。詩編を歌うときあるいは聞くとき、全世界のすべてのキリスト者に、この、神のことばが、深くこころに響くことを願いたいものです。 なお、詩編の1節では、三小節の最後の四分音符=G(ソ)を省略して、四小節目の全音符=F(ファ)に続けますが、このとき、「進み」と「神に」の間で、間をおいたり、息継ぎをしたりせずに続けて歌います。また、詩編の2節と4節では、三小節目の最後の四分音符=G(ソ)と、四小節目の冒頭の全音符=F(ファ)は省略して、三小節目の全音符=G(ソ)から四小節目の最後の四分音符=F(ファ)を同じ小節の音として扱って歌います。この場合も、「造られた」(詩編唱の2節)「及ぶ」(詩編唱の4節)は一つのことばですから、間をおいたりせずにスムースに続けて歌うようにします。【オルガン】 答唱句の旋律の音域や、祈りの深さを考えると、フルート系の8’だけでもよさそうです。ただ、これだけだと、会衆の人数によっては、会衆の声に負けてしまうかもしれません。8’だけなら、主鍵盤に他の鍵盤から、やはり8’をコッペル(カプラー)してもよいでしょうし、手鍵盤に16’(フルート系)があればそれを使う方法、やわらかい、4’をいれる方法などがあります。いずれにしても、派手でない、落ち着いたストップを考えるようにしましょう。 前奏が早すぎると、会衆の答唱句も早くなります。そうでなくても、会衆の答唱だけが早くなることがあります。だからといって、遅い=間延びした、だらだら、ではありません。ゆっくりしたテンポでも、引き締まった前奏、伴奏を心がけましょう。
2016.04.10
《C年》65 神はわたしを救われる【解説】 詩編30は瀕死の人が重病から救われたことを感謝する詩編です。死は「死の国(よみ)、墓(穴)、滅び、ちり、嘆き、荒ら布」などと表現され、いのち(=神の)は「喜び、恵み、踊り、晴れ着」ということばで対照的にたとえられていて、神による救いが強調されています。ここでは、歌われませんが、5節では、詩編作者が自らの喜びを人々にも一緒に歌うように促します(「神を信じる人は神をたたえ、とうといその名をほめ歌え」)。死から救われて神の救いにあずかることは、個人的なことだけにはとどまらず、共同体的な喜びへと広がってゆくものなのです。 答唱句は、珍しくテージス(小節線の後ろ)から始まります。旋律の音は、G(ソ)A(ラ)、C(ド)の三つの音で、その他の声部の音も大変少ない音で構成されています。文末以外は、ほとんどが八分音符で、「すくわれる」と「たたえよう」で四分音符が用いられて、ことばが強調されています。とりわけ「たたえよう」では、アルトのAs(ラ♭)とテノールの最高音E(ミ)で、信仰告白のことばが高められています。さらに、テノールは冒頭から「いつくしみ」までC(ド)が持続して、神への信頼と救いの確信が表されています。 詩編唱は、3小節目でバスに臨時記号が使われ(Fis=ファ♯)、緊張感が高められますが、4小節目は5の和音で終止し、旋律も答唱句の冒頭と同じ音になり、落ち着いて終わります。【祈りの注意】 冒頭は、指定の速度の、四分音符=72よりやや早めで始めるとよいでしょう。八分音符が連続しますので、メトロノームで計ったように歌うと、歌はもちろん祈りになりません。変なたとえかもしれませんが、ところてんを作る道具で、最初に、一気に押し出すような、そんな感じで始めるとよいでしょう。2小節目の「救われる」でやや rit. しますので、「わたしを」くらいから、わからない程度にゆっくりし始めます。「その」のバスが八分音符一拍早く始まるところで、テンポを元に戻します。最後の「いつくしみを」から、再びわからないように rit. して、最後はていねいに終わります。最後の「たたえよう」は、こころから神をたたえて、祈りを神のもとに挙げるようにしたいものです。 この答唱句は「神はわたしを救われる」と現在形になっています。神の救いのわざ(仕事)は、かつて行われて終わってしまったのでもなく、いずれ行われるのでそれまで待たなければならないものでもありません。神の救いは、今もいつも代々に至るまで、継続して行われています。その、顕著なものが、やはりミサではないでしょうか。ミサは、キリストの生涯の出来事を思い起こす福音朗読と、その救いの頂点である受難-復活-昇天を記念=そのときその場に現在化するものです。このミサが世界のどこかで必ず継続して行われている。それをこの答唱詩編は思い起こさせてくれます。そのことを思い起こしながらこの答唱句を歌うことが祈りを深め、ことばを生かすことになるでしょう。 今日の答唱詩編は、第一朗読で、朗読されるペトロたちのあかしを黙想して歌われます。大祭司は使徒たちに「あの名」によって教えてはならない、と言います。「あの名」とはイエスの名ですが、ヘブライ語で「名」は、その人あるいはそのものの本質をも意味します。「あの名」すなわちイエスの名によって教えることは、イエスご自身が教えになることなのです。自分たちがやみ裁判で無実の罪をきせ、異邦人の手によって殺したものの名によって教えることを許す事は、イエスの復活を認めることになるわけです。それに対し、ペトロたちは、イエスの復活がまことの出来事であるがゆえに、神を「たたえ、黙っていることがない」(詩編30:13)のです。わたくしたちも、この、使徒たちの模範に励まされ、神のなされた不思議なわざを「とこしえにたたえ」(詩編30:13)て行きたいものです。【オルガン】 答唱詩編の基本である、フルート系のストップの8’+4’をもとに、人数によっては4’を弱いプリンチパル系にしてもよいでしょう。指揮者がいない場合、オルガンの前奏が、会衆の祈りを左右しますから、のっぺらぼうのような前奏をしないようにしましょう。最後の答唱句は、賛美の歌声を支えるために、少し、強いストップ(たとえばプリンチパル系の8’とかフルート系の2’)を加えてもよいかもしれません。
2016.04.03
聖週間の典礼の概論はこちら受難の主日の聖歌はこちらそれぞれご覧ください。
2016.03.13
154 涙のうちに種まく人は【解説】 詩編126は、「都に上る歌」の一つですが、内容を見て分かるように、バビロン捕囚から帰ったばかりのイスラエルの幸福な状態を思い起こし(1-3節)、その後の苦難から、捕囚直後の幸福な状態への回帰を願うものです。ネゲブは、パレスチナ南部の乾燥した高原地帯で、ここに流れる川は、雨の後にだけ水が流れ(ワジ)、その流れは不毛の地を肥沃な大地へと潤します。種をまくことですが、加工すればパンになる小麦を地に撒くことで、一時的な飢えを覚悟することを意味しています。つまり、その先にある、収穫を神の恵みによって、期待するのです。 答唱句は、歌詞に従って、前半は1♭の短調であるd-moll(二短調)、後半は同じ調号の長調であるF-Dur(へ長調)と、並行調で対照的にできています。前半は、バス以外「涙のうちに」と「種まく人は」という、二回の下降音階で、これらの姿勢と感情が表されています。後半は「よろこび」で、まず、バスとソプラノが2オクターヴ+3度開き、「よろ」でバスがオクターヴ跳躍し、「よろこび」では、付点八分音符+十六分音符という付点を用いることで、この、神による回復の喜びの大きさが表されています。続く「刈り取る」では、この音価がバス以外で拡大され(付点四分音符+八分音符)て、強調されます。 詩編唱は、旋律が属音(ドミナント)を中心に動き、和音もd-moll(二短調)の基本的な和音で動いています。なお、『混声合唱のための典礼聖歌』(カワイ出版 2000 )では、詩編唱の三小節目の最後の和音と、四小節目が変更されています。【祈りの注意】 答唱句は早く歌うものではありませんが、前半の下降音階を生かすように、きびきび、そして、ことばを生かすように、厳しくしっかりと歌いましょう。後半は、付点の音価を生かすように、明るく歌います。食事の用意、宿題、残業、苦労の種はいっぱいありますが、その後に待っている喜びを知っている人は多いと思います。わたくしの場合には、休憩を含む12時間勤務の後のお風呂とその後の炭酸水やハイボールでしょうか?身近な苦労と喜びを思い起こして、その気持ちを答唱句に反映させるのが、一番、分かりやすいかもしれません。もう一つ、下降音階の注意ですが、きわめてレガート(滑らか)に歌うようにしましょう。力が入ると、一つ一つの音が飛び出すようになりがちですが、これでは、よい祈りになりません。 第一朗読では、イザヤの預言によって、出エジプトの出来事と天地創造の出来事の要約が語られ、最後に、その理由が述べられます。そこで、神は「わたしはこの民をわたしのために造った」(43:21)と言います。これは、新約のキリスト者も同じです。それゆえ、神の民は、すべての民に神の「栄誉を語らねばならないのです」(43:21)。 福音朗読では、姦通の現場で捕えられた女性が、イエスのもとにつれてこられ、石殺しにするべきかが、問われます。本来、姦通の現場を押さえられた場合は、男女ともに石殺しになったのですから、女性だけがそれを判断されるというのは、片手落ちということになります。女性にとっては、自分に罪があったにせよ、律法に従っても、理不尽な扱いを受けたことになりますし、死んでも死にきれなかったでしょう。ところが、イエスの答えは、全く予期しなかったものでした(それは、律法学者たちやファリサイ派の人々にとっても同じく)。まさに、シオン(神の元)に戻され、喜びにあふれて帰っていったことでしょう。 わたしたちも、四旬節の間に、もう一度、自分自身の洗礼を思い起こし、常に、神に立ち返る恵みを、この答唱詩編の祈りを通して、新たにしたいものです。【オルガン】 祈りの注意のところでも述べましたが、まず、レガートを心がけましょう。全体に、音階進行が多いので、前後の音を考慮した運指法、ペダリングを考えてみましょう。ペダルを使わないで、手鍵盤(マニュアル)だけで弾く場合は、上三声を右手で取ったり、すばやく持ち替えたり、飛ばしたり、滑らせたり、といった技術が必要です。これらは、演奏のための技術でもありますが、最も大切なことは、この答唱句の祈りを深めるため、ことばを味わうためにレガートで祈りを支えるということが目的なのです。ペダルを使えるようだと、手の持ち替えも少なくて済みますし、レガートがより容易になります。感情豊かな、答唱句のことばですが、オルガンがだらだらした前奏だと、せっかくの答唱句のことばも無に等しいものとなってしまいます。もちろん、やりすぎはよくありませんが、よりよく、答唱句を味わい、祈れるような前奏ができるように、また、伴奏となるように、しっかり準備したいものです。 音色は、四旬節ということもあり、また、答唱句の性格からも、控えめのフルート系の8’+4’(会衆の人数によっては8’)がよいでしょう。【注解】律法の規定では、女性が石殺しにされるのは、婚約している女性が婚約者以外の男性と関係を持った場合であった。
2016.03.06
この時期になると、時々受ける質問があります。それは、聖木曜日、主の晩さんの夕べのミサの栄光の賛歌の後から、復活徹夜祭の栄光の賛歌まで、オルガンを使ってはいけないのですかというものです。で、現在の『ローマ・ミサ典礼書の総則』(313)の規定では、「四旬節には、オルガンと他の楽器の演奏は、歌を支えるためにだけ許される。」とありますので、聖週間であっても、歌を支えるために、オルガンの伴奏を付けることは一向に差し支えありません。さらに、典礼上の規定では、四旬節は「主の晩さんの夕べのミサ」の前に終わりますから、主の過越しの聖なる三日間の祭儀、すなわち、主の晩さんの夕べのミサ、主の受難の祭儀、復活の聖なる徹夜祭にはこの規定も該当しません。また、日本の教会の場合、儀式書である『典礼聖歌』は Cum approbatione ecclesiastica すなわち、司教協議会の正式な認可を受けており、この認可は、オルガンの伴奏も含めてのことですので、『典礼聖歌』に掲載されているオルガン伴奏は該当する典礼日において、歌を支えるものとして行うことができます。「聖木曜日、主の晩さんの夕べのミサの栄光の賛歌の後から、復活徹夜祭の栄光の賛歌まで、オルガンを使ってはいけない」ことになったのか、その理由や根拠をわたくしも知りませんが、残念ながら、現在の正式な儀式書の規定にそぐわない習慣が、独り歩きして残っていることに問題があると言わざるを得ません。なぜ、オルガンの伴奏が必要なのか、必要でないのかの不毛な議論をする前に、典礼における大原則である、「会衆の行動的参加」を促進すること、「祈りをより美しく表現する」こと、「一致協調を促進する」こと。この点を考えなければいけない問題です。そして、いつまでも過去の習慣にとらわれて、一番大切なことに目を閉じ続けること、今のことを学ぼうとしないこと、そこにも問題があることを認識してほしいと思います。
2016.03.01
《C年》 128 主を仰ぎ見て【解説】 詩編34は個人的な詩編で、内容的には《知恵文学》と共通する点が多く(特に12-1節)、構成は、同じアルファベットの詩編25に似ています。それは、ヘブライ語の第6文字が省略されていることや、最後の23節目がアルファベットの配列外という点です。ちなみに、ヘブライ語のアルファベットは22文字ありますが、一字なくすことで、3組×7節=21節となります。ユダヤ教では、3も7も完全数になるからです。表題は、サムエル記21:11-16にある物語と一致しますが、詩編自体の内容はそれほど関連があるとは思われません。この曲では歌われませんが、9節に「深く味わって悟りを得よ」ということばがあることから、特に、古代教会ではミサの会食(拝領)の歌として用いられてきた詩編です。 答唱句は、同じ答唱句(128)で歌われる詩編34の6節から取られています。全体は、八分の六拍子で流れるように歌われます。冒頭の四分音符の次の八分音符が、テンポを決定する鍵で、これを含めた、連続する四つの八分音符が、テンポを持続させます。「を仰ぎ見て」の旋律の上昇音階と、旋律が「て」を延ばしている間に「ぎ見て」と歌われるバスの上昇音階が、主を仰ぎ見る姿勢を表しています。さらに「光を受けよう」で旋律が最高音C(ド)からG(ソ)へ下降することで、主から注がれる光を浴びて受ける様子を表します。また、その「よ」を付点四分音符で延ばす間、テノールとバスが「受けよう」を遅れて歌うことで、光が輝く様子も表されています。後半は「主がおとずれる人の」で、バスとテノールがC(ド)を持続し、旋律は徐々に下降してゆくことで、主の光を受けた人の顔もこころも穏やかに落ち着いて輝くように、答唱句も静かに終止します。第三音E(ミ)から始まった詩編唱は、第二小節で、最高音C(ド)に達し、最後は属音のG(ソ)で終わります。和音の開きが少なく、特にバスの音が高いので、全体的に響き渡るように歌われます。【祈りの注意】 解説でも書いたように、冒頭の四分音符の次の八分音符が、テンポを決定する鍵で、これを含めた、連続する四つの八分音符が、テンポを持続させます。冒頭の四分音符の次の八分音符をやや早めに歌うことが、答唱句を活き活きとさせます。この四分音符が間延びすると全体のテンポもだらだらとしてしまいますので、そうならないように気をつけてください。旋律が「見てーーーー」を八分音符5拍延ばす間に、バスが「おぎ見てー」と、仰ぎ見る姿勢を強調します。混声で歌う場合でなくても、この「見てーーーー」をしっかりと5拍延ばし、決して短くならないように、気をつけましょう。最高音C(ド)で歌われる「よ」は、乱暴にならず、胸を開いた明るい声で歌うようにしましょう。後半は、旋律が徐々に下降してゆきますが、この間に、少しずつ dim. と rit. して、穏やかに終わるようにしましょう。 第一朗読では、荒れ野の旅の終わりのしるしとして、もはや「マナ」を食べることがなくなったことが言われます。エジプトでイスラエルの民の苦しみをつぶさにご覧になった神は、民の「叫びを聞き、悩みの中から救い出し」(詩編唱3節)てくださいました。荒れ野の旅の間も、イスラエルの民は、何度も神にそむきましたが、苦しみの時には、いつも、ともにいてくださっていることをさまざまなしるしであらわされました。神が不在のように思われる、現代においても、神は「わたしたちの祈りに心を留め、すべてのおそれを遠ざけてくださる」(詩編唱2節)のです。荒れ野の「マナ」でも父の遺産でもなく、ただ、神のいつくしみに信頼して、日々、歩みたいものです。 福音朗読は有名な「放蕩息子のたとえ」です。このたとえを読む時、あるいは聞くとき、わたしたちは「弟」の方に関心を寄せると思います。しかし、実はわたしたちの心の中には「兄」の思いが潜んではいないでしょうか。すねた兄に、父親は「わたしのものは全部お前のものだ」(31節)と言い切ります。兄は、このことばをどのように受け取ったのでしょうか。このことばは、わたしたちにも向けられているのかもしれません。【オルガン】 明るい音色がほしい答唱句ですが、四旬節ということもあるので、基本的な8’+4’のフルート系がよいでしょう。オルガンの前奏では、祈りの注意で書いた、テンポの決定が重要です。オルガンが、前奏でしっかりと提示し、伴奏中も、目立たないように、会衆の祈りを、テンポ良い祈りにしたいものです。加えて、答唱句の最後の rit. も重要です。前奏のときもそうですが、会衆が歌っているときも、会衆の祈りを、静かにふさわしくおさめることができるように、助けることができれば、いうことはありません。これらは、単に、前奏や伴奏で音を出せばいいのではないことは言うまでもありませんが、これら、テンポも rit. も、毎回の伴奏と、それを準備する練習と、さらには、それらを含めて、生涯、祈りを深め、味わい深いものにすることは、生涯問われ続けていることを忘れないようにしたいものです。 なお、最後の dim. は、パイプオルガンやデジタルオルガンで足鍵盤を使っているときにはできませんが、ハルモニウム(リードオルガン)では、ふいごの踏み方で表現できますから、リードオルガンを使う場合には、dim. も祈りを深めるようなものにしてください。
2016.02.28
93 心を尽くして神をたたえ【解説】 冒頭、個人の感謝から始まる詩編103は、その美的表現、豊かな思想から、旧約の「テ・デウム」(⇒「賛美の賛歌」)と呼ばれています。全体は大きく3つの部分に分けられます。第一の部分は1-7節で、ここでは神による赦し、いやしが述べられます。続いて、それを動機として、8-19節では神のいつくしみをたたえ、最後にすべての被造物に神を賛美するように呼びかけます。神がシナイ山でモーセにご自分を顕現されたとき、神ご自身「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す」(出エジプト34:6-7)と宣言されたように、恵みといつくしみとは神の属性であり、神との関係が修復されるときは、まず、神のほうから許しを与えてくださるのです。 答唱句は前半、後半ともに旋律が主に音階の順次進行によって上行します。「心を尽くして」と「すべてのめぐみを」が、付点八分音符+十六分音符のリズムで強調されています。さらにこのどちらも、旋律の音が同じばかりでなく、和音も位置が違うものの、どちらも四度の和音で統一されています。「かみをたたえ」は「かみ」の旋律で、前半の最高音C(ド)が用いられ、祈りが高められ、バスでは「かみをたたえ」が全体での最低音F(ファ)で深められています。また、この部分はソプラノとバスの音の開きも大きくなっています。なお、「たたえ」は、バスがFis(ファ♯)ですが、ここで、ドッペルドミナント(五の五)から、一時的に属調のG-Dur(ト長調)に転調して、ことばを強調しています。後半の「こころにとめよう」は、旋律が全体の最高音D(レ)によって、この思いが高められています。 詩編唱は、最初が答唱句の最後のC(ド)より3度低いA(ラ)で始まり、階段を一段づつ降りるように、一音一音下降し、答唱句の最初のC(ド)より今度は3度高いE(ミ)で終わっていて、丁度、二小節目と三小節目の境でシンメトリー(対称)となっています。【祈りの注意】 早さの指定は四分音符=69くらいとなっていますが、これは、終止の部分の早さと考えたほうがよいでしょう。旋律が上行形になっていることや歌詞の内容を考えると、もう少し早めに歌いだし、付点八分音符+十六分音符の「心を尽くして」と「すべてのめぐみを」に、力点を持ってゆくようにしたいものです。決して、へとへとに疲れて階段を上がるような歌い方になってはいけません。 この答唱句の原点は、イエスも最も重要な掟と述べられた(マタイ22:34-40他並行箇所)、申命記6:5「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」によっていることを思い起こしましょう。わたしたちの全身全霊で主である神を愛するのであり、この答唱句を歌って祈る間も、詩編唱を聞いて祈る間も、全身全霊で歌い、聞いて祈ることが大切です(とは言え、決して、肩ひじを張ったり、緊張するということではありません)。 「すべての恵み」で、何を思うでしょうか。わたしたちが神からいただいている恵みは はかりしれません。毎日の衣食住、ミサに来れること、友人との語らい、家族団らんなど、さまざまな物事があるでしょう。わたしが、この世の中に生まれてきたことも大きな恵みです。、しかしこの「すべての恵み」を、端的に言い表しているのは、「主の祈り」ではないでしょうか。「主の祈り」のそれぞれの祈願こそ、神が与えてくださる最も崇高で、最も大切な恵みではないでしょうか。これらのことを集約した祈りであるこの答唱句を、この呼びかけ、信仰告白にふさわしいことばとして歌いましょう。 二回ある上行形は、やはり、だんだんと cresc.してゆきたいものですが、いつも、述べているように、決して乱暴にならないように。また、音が上がるに従って、広がりをもった声になるようにしてください。一番高い音「かみをたたえ」、「心にとめよう」は、丁度、棚の上に、背伸びをしながらそっと音を立てないで瓶を置くような感じで、上の方から声を出すようにします。バスを歌う方は「かみをたたえ」のF(ファ)で、全員の祈りが深まるように、是非、深い声で共同体の祈りを支えてください。 この恵みの頂点は、やはり、パウロが『コリントの信徒への手紙』で述べている「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」(1コリント15:3-4)=受難と復活、そして、その前の晩に弟子たちとともに過ごされた、最後の晩さんの記念=ミサであることは言うまでもありません。ミサにおいて、この答唱句を歌うことこそ、この答唱句の本来のあり方なのです。 「すべての恵みをこころに」でテノールがその最高音C(ド)になりますが、これが全体の祈りを高めていますから、それをよく表すようにしてください。最後の rit. は、最終回の答唱句を除いて、それほど大きくないほうがよいかもしれません。 最終回の答唱句は、むしろ、たっぷり rit. すると、この呼びかけに力強さが増すのではないでしょうか。 福音朗読の最後では、園丁が主人に「いちじくの木」を切り倒すのをもう一年待つように願います。木が実を結ばないのは、周りの条件によるからかもしれないからです。実は、そのようなとき、神はご自分の「民の苦しみをつぶさに見、その痛みを知っ」(出エジプト3:7)てくださいます。そのためにも、わたくしたちは、この答唱句をこころから歌い上げたいものです。【オルガン】 答唱句の性格からは、明るい音色が望まれるかもしれませんが、四旬節という季節を考えると、あまり、派手な音色は避けるべきでしょう。基本的には、フルート系の8’+4’がよいでしょう。前奏の際には、祈りの注意にも書いたように、上行形を祈りにふさわしいテンポで始めましょう。付点八分音符+十六分音符は、あまり鋭くならず、しかし、バロック時代の三連音符のようにもならないように、気を配りましょう。
2016.02.21
《C年》 70 神よあなたの顔の光を【解説】 詩編27は大きく二つに分かれます。前半(1-6)は神へのゆるぎない信頼と、神とともに住む願いを歌います。後半(7-14)は困難な状況から神に救いを願います。全体に神への信頼と神の家で神にまみえることを願うこと、とりわけ、今日の答唱詩編では歌われませんが13節が「神をありのままに見て、終わりなくたたえる」(第三奉献文)ことと結びつくことから、死者のための典礼で用いられます。宗教的な感情が深い詩編の一つです。 答唱句は、詩編唱と同じように、各小節最後の四分音符以外は、すべて八分音符で歌います。旋律は第三音のEs(ミ♭)から始まり、主音に降り、神が穏やかにその顔の光を照らしてくださる様子が表されています。旋律もその他の声部も動きが少なく、特にバスは他で歌われているすべての詩編に共通する、神への信頼を表すように、主音に留まります。 詩編唱も基本的にドミナントから段階的に下降しますが、各小節とも終止音は持続音より2度上昇しており、この反復が詩編唱に緊張感と安らぎを与えています。4小節目の終止の部分は、答唱句の終止の部分と同様に終わっています。 【祈りの注意】 答唱句の最初は、mp で始め、1小節目の終わりで、いったん rit. と dim. しますが、2小節目の冒頭で元に戻し、最後は、さらに rit. と dim. を豊かにして終わります。特に、最後の答唱句は、最初からp あるいは、pp で始め、早さも、一段とゆっくりします。とはいえ、祈りのこころ・精神は、一段と深く、強くしなければなりません。 解説でも書いたように、答唱句は各小節の最後の四分音符以外、すべて八分音符で歌ってゆきます。楽譜を入れることができませんので、ことばだけで書きますが、「ー」は八分音符一拍分延ばすところを、太字は自由リズムの「1」(テージス)にあたる拍節を、*は八分休符を、赤字は音が変わった最初の音を、それぞれ表しています。 かみよあなたのかおのひかりをー*|わたしたちのうえにてらしてくださーぃ となります。 「わたしたちの」は わたしたちの と三拍ずつのリズムにすることもできますが、これは司式者が歌う部分で用いるのが基本で、会衆や共同体全員で歌う場合には、二拍ずつのリズムで歌います。 よく聞く歌い方で気になるのは 1小節目=かみよーあなたのかおのひかりをー 2小節目=わたしたちのうえにーてらしてくださいーというように「かみよー 」と「うえにー」さらに「さいー」を延ばすものです。「かみよ」の「よ」の後で間があく場合もあります。しかし、延ばしたり、間をあけるのでのであれば、楽譜にきちんとこのように書いてあるはずです(たとえば367「賛美の賛歌」参照)。「かみよー 」ではなく「かみよ」、「うえにb>ー」ではなく「うえに」となっていますから、この「よ」と「に」は、八分音符で歌い、すぐに「あなたの」と「てらして」に続けなければなりません。特に「うえに」は、その後の「あなた」の「あ」と字間があいているので、間をとるものと勘違いされることがありますが、ここで、字間があいているのは、楽譜を作る上での技術的な限界から来るもので、決して延ばしたり、間をあけたりするしるしではありません。実際に、歌い比べてみると、延ばさないほうがはるかに深い祈りとなるはずです。2小節目の最後の「ください」も「くださいー」としてしまうと、品がない歌い方になります。「くださーぃ」と「さ」を延ばし「い」を最後に添えるようにすると、品位ある祈りになります。 今日の答唱詩編は、第一朗読と福音朗読の間の、展開と言えるでしょうか。第一朗読では、神がアブラハムと契約を結ばれたとき、アブラハムは暗黒におそわれます。それに対して福音朗読では、イエスの変容の場面が読まれます。ちなみに、福音朗読で弟子たちが包まれてゆく雲は、旧約時代から神の臨在のしるしとされいます。わたしたちは洗礼によってキリストの栄光にあずかる者となりました。今日の福音で読まれるイエスの変容は、受難・死・復活による過越によって栄光を受けられたキリストを象徴するものです。わたしたちは洗礼によって、すでに、この過越しに結ばれ、キリストの栄光にもあずかるものとなっています。毎年、四旬節第2主日に主の変容が朗読されるのは、洗礼志願者が復活徹夜祭における洗礼によって、この主の栄光に結ばれることをあらわしています。今日の詩編を味わいながら、わたしたちもモーセやエリヤ、また、ペトロ、ヨハネ、ヤコブたちのように、いつか、主の栄光に包まれ、神の美しさを仰ぎ見ることを願いましょう。 この答唱詩編は、答唱句・詩編唱ともに、非常に繊細なものです。祈るわたしたちも、日本語の繊細さを生かしながら、細やかなこころで祈りを深めてゆきましょう。【オルガン】 いつも、この形式の答唱詩編の前奏で注意していることですが、前奏のときも、実際に歌う長さで、音を出すことを忘れないようにしてください。答唱句のことばや福音朗読の内容を考えると、明るめながら、控えめな音色がよいと思われます。強い音量や派手な音色は、四旬節でなくとも避けたい答唱句です。フルート系の8’、会衆の人数によっては、4’を加えてもよいでしょうが、最後の答唱句は8’だけで、しっとりと味わえるようにすると祈りも深まるのではないでしょうか。
2016.02.18
【解説】 待降節の入祭の歌として歌われるのが、301「天よ露をしたたらせ」です。グレゴリオ聖歌でも "Rorate Caeli "として有名な曲です。日本語の歌詞は、『教会の祈り』待降節木曜日「朝の祈り」の「神のことば」および「答唱」からとられています。 前半ではイザヤ45章の8節が歌われます。「天」と「地」は、イザヤ66:1で「天はわたしの玉座、地は私の足台」と言われ、そちらも、神の住まいの象徴とされています。「雲」は出エジプト記でしばしば、神の臨在のしるしとして登場します(13:21,16:10,24:15,40:34など)。「正義」と言うことばを、『聖書 新共同訳』は、「恵み」と訳しています。どちらも語源は同じで、「正義」は「神の恵み」ということができるでしょう。この45章の8節は「わたしが主、創造する」と言うことばで結ばれています。この「創造する」という語=ヘブライ語の「バラー」と言うことばは、必ず「神/主」が主語となっており、神ご自身がこのことを創造されることが言われているのです。 後半の、詩編72は、「神の祝福された王国の平和」を歌う詩編です。この「主が選ばれる」(申命記17:15)王は、「神なる主を畏れることを学び、律法のすべてのことばとこれらの掟を忠実に守り」(同17:19)、また、「同胞を見下して高ぶることなく」(同17:20)、「正しく民を治め、正義をもって貧しい人を守り」(詩編72:2)、「貧しく不幸な人をあわれみ、苦しむ人に救いをもたらす」(同72:13)ものです。「王」とはまさに、神の救いを民の中にもたらす神の代理者であり、その王国の「平和」はまことの「平和」=神の支配が満ち満ちたものとなるのです。 調号は2♯のD-Dur(ニ長調)で、一見すると式次第と無関係のように思えますが、待降節には同じ調号の栄光の賛歌を歌いません。待降節は悲しみの節制ではなく、主の到来を、いわば、わくわくしながら待ち望む季節です。そこで、主の栄光をたたえる栄光の賛歌と同じ調号を用いて、喜び待ち望む心を表しているのです。 冒頭、4小節、同義的並行法の部分は、後ろの2小節が、最初の2小節より、旋律は、ほぼ2度低く歌われます。これは、後半(Fineの後)の4小節も同様です。5小節目では、「開いて」を象徴するように、旋律も一気に上昇し、最高音D(レ)に達します。「救い主を生み」では、自然に rit. するように、旋律に臨時記号(♯)が用いられ、最後は穏やかに終止します。 後半、旋律、和音ともに、前半とほぼ同様に繰り返されます。最高音に達する「王は来る」は、原文では1回ですが、切迫した主の再臨を表すために、畳み掛けるように繰り返されます。最後は、穏やかに終わり、D.C.となります。【祈りの注意】 速度の指定は、四分音符=56くらいですから、比較的ゆっくり、と言うより、悠久の大河が流れるように、ゆったりとレガートで歌います。決して急いだり、マーチのようにならないようにしましょう。 冒頭は、mp とmf の中間くらいの音の強さで歌い始めましょう。3・4小節目は、1・2小節よりほぼ2度低く繰り返されますので、やや、強さを弱めてはどうでしょうか。「大地よ開いて」からは、旋律も一気に上昇し、大地が大きく開くように(実際にはそういうことはありませんが)、堂々と歌いましょう。「正義の花」からは、再び静かになり、神の恵みである「正義の花」がやさしく静かに開くように歌い、rit. して終わらせましょう。二回目 Fine. のときは、特にていねいにしてください。 後半の冒頭は、-ここで、必ず基本のテンポに戻すことも忘れないでください-「牧場に露」が、「地を潤す雨」が、人知れず天から降りてくるように、静かに歌います。主キリストも、そのように、人知れずこの世にお生まれになったのです。「王は来る」は、二回畳み掛け、旋律も上昇していますから、「大地よ開いて」と同じように、堂々と歌います。「民に平和を」からは、「正義の花を」と同じように、静かに、rit. dim. しておさめ、また、インテンポで冒頭に戻ります。全体的に静かに歌われますが、それがことばを生かし、救い主の到来を待ち望むこころを整えます。さらに加えれば、司祭と奉仕者の入堂の行列と、歌のテンポが合えば、より豊かな表現となると思います。
2015.11.05
5月6日に大阪で行われる「典礼聖歌アンサンブル」主催の講習会の詳細がほぼ決まりましたので、お知らせします。【場所】大阪大司教区今市小教区(今市教会)【時間】午前10時~午後4時頃まで【主な内容】〔午前〕 ことばの典礼を深める ことばの典礼と行動参加の歌の関係 答唱詩編の前奏 沈黙の重要性 聖書を知らないことは、キリストを知らないこと〔午後〕 午前中の講話に基づいて、当日のミサのことばの典礼を味わい深める。 その後ミサ 以上です。持ち物は『典礼聖歌』、昼食です。参加費は1000円。近隣の教区の皆様の参加もお待ちしております。
2015.03.10
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5月6日に大阪で行われる「典礼聖歌アンサンブル」主催の講習会の詳細がほぼ決まりましたので、お知らせします)。【場所】大阪大司教区今市小教区(今市教会)【時間】午前10時~午後4時頃まで【主な内容】〔午前〕 ことばの典礼を深める ことばの典礼と行動参加の歌の関係 答唱詩編の前奏 沈黙の重要性 聖書を知らないことは、キリストを知らないこと〔午後〕 午前中の講話に基づいて、当日のミサのことばの典礼を味わい深める。 その後ミサ 以上です。持ち物は『典礼聖歌』、昼食です。参加費は1000円。近隣の教区の皆様の参加もお待ちしております。【中古】典礼聖歌(一般用)/あかし書房
2015.03.05
179 わたしは神をあがめ(2)【解説】 今日の答唱詩編で歌われる「わたしは神をあがめ」は、有名なマグニフィカト(Magnificat)=マリアの賛歌です。主日に歌われる答唱詩編としては、唯一、新約聖書の賛歌が歌われます。この賛歌については、さまざまなところで、解説もされていますので、多くは、説明を要しないかもしれませんが、ひとつだけ、知っておきたいことがあります。それは、この、聖母マリアが歌った賛歌は、旧約聖書の思想、表現を集約して創作されていて、とりわけ、サムエル記上2章の1-10節にある「ハンナの歌」に似ていると言われていることです。このことは何を意味しているのでしょうか。それは、聖母マリアが聖書(この時代は旧約聖書しかありませんでした)によく親しんでいて、自分の祈りを創作するくらい、聖書をよく知っていた、ということです。当時の会堂礼拝では、男女の区別なく、安息日には会堂で聖書の朗読を聞くことが当然であり、特に、1世紀のガリラヤでは、多くのラビや賢者が出るほどだったことを忘れてはならないでしょう。 前教皇ベネディクト十六世も『啓示憲章』40周年を記念した国際会議への参加者にあてたメッセージの中で、「霊的生活」を豊かにするために「聖なる読書」を奨励されています。教会の母である聖母マリアの模範はいろいろとありますが、「聖書に親しみ、聖書を深めること」こそ、マリアの最高の模範であり、わたしたちもそれに倣う必要があるのです。この賛歌の旋律は、答唱句の部分も「マリアの歌」の本文を歌う部分も、どちらも、「晩の祈り」で使われている旋律の音の範囲内で動いています。答唱句の最低音C(ド)は「晩の祈り」の第一唱和の最低音であり、また、「寝る前の祈り」の最低音にもなっています。本文の部分は、共同祈願以降の基音G(ソ)を中心にしていますが、その動きが「朝の祈り」で歌われる「ザカリアの歌」とは反対になっていて、「教会の祈り」全体の構成を考えて作られていることがわかります。 これらの詳細については、「教会の祈り」の「福音の歌」のページをご覧ください。【祈りの注意】 まず、技術的なことですが、普段の答唱詩編と異なり、答唱句が2つあり、さらに、答唱句を繰り返すところが、3節の後・6節の後・最後の栄唱の後となっています。オルガニストと会衆の皆さんは、答唱句を歌うところを忘れないようにして、しっかりと入るようにしてください。答唱詩編は、その名の通り、答唱と詩編を会衆と先唱者がバトンを渡しながら祈り、黙想するものです。この、バトンの受け渡しがスムースに行われ、祈りが神の元へ、途切れずに流れるようにしたいものです。 この「マリアの歌」を歌う先唱の方は、まさに、聖母マリアになりきって歌ってください。第一朗読で読まれる「イザヤの預言」は、イエスがナザレの会堂で安息日の礼拝で読まれた後、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ4:21)と言われた箇所で、まさに、イエス御自身がこの預言のことばを実現する方として来られたことを表しています。「マリアの歌」は、この預言の実現をさらに預言するものと言えるでしょう。それはまた、聖母マリアが、この預言の実現であるイエスを先取り(預言)するお方でもあるからです。そして、もう一人、この預言を先取りするものが洗礼者ヨハネであり、今日の福音でその使命が語られているのです。 なお、『典礼聖歌』(合本)の楽譜では、答唱句1の「おどる」の「ど」と、答唱句2の「うえに」の「え」の次に八分音符の下にことばがない音が3つありますが、これは、178の楽譜をそのまま使ったためで、音がない部分で、ことばを延ばすことはしません。ちなみに「聖書と典礼」の楽譜はその部分に音がありませんので、「聖書と典礼」の楽譜の通りに歌います。【オルガン】 答唱の部分は、『典礼聖歌』における音楽類型上では、いわゆる「プサルモディア形式」の範疇に入ります。前奏の際には、答唱句全体を実際に歌う速さと同じ長さで弾くようにしましょう。この場合は、ソプラノを刻まないほうが祈りにふさわしい前奏になります。 ストップは、答唱部分、マリアの歌の本分の部分ともに、明るめのフルート系がよいでしょう。先唱者が歌う部分は、マリアの賛歌として高らかに歌われるので、場合によっては、フルート系の4’を入れて、Swell を適宜閉めてもよいかもしれません。 先唱者の方が、聖母マリアになりきって歌うことが必要なように、オルガンの伴奏は、今、マリアさまが目の前にいて、それを支えているようになるとすばらしいと思います。
2014.12.07
今回は、395 主よわたしが悩む時 のオルガン奏法の一つの例を提示したいと思います。 この作品は、楽譜を見るとすぐわかるのですが、ピアノの伴奏を前提に作曲されています。オルガンで伴奏をする場合は、同じ音が続くときには、歌唱する場合と同様に弾き直すことをしません。たとえば、二小節目の「わたしが」の部分をオルガンで伴奏する場合、右手のA(ラ)-FA(ファ)は、付点四分音符二つをタイでつなげます。ちょうど、12小節目の「とりで」のG(ソ)-E(ミ)と同様に弾くのです。ですから、他のところで、同じ音が続いていても、弾き直すように記譜されいていることが、ピアノ伴奏を前提にしていることを示していると言えるのです。 では、オルガンで伴奏する場合には、どのようにしたらよいでしょうか。わたくしの経験では、やはり、同じ音が続く場合には、弾き直さないでタイでつなげて弾くのが、賛歌の伴奏としてはよいようです。 ところで、左手はどのような伴奏にするとよいでしょうか。これは、レジストレーション=ストップ操作とも相まっています。オルガン(基本的にはパイプオルガン、あるいは、デジタルオルガン)の場合、まず、右手の伴奏を主鍵盤(Hauptwelk Great)で弾き、会衆の人数にもよりますが、プリンチパル系の8フィート+人数によってフルート系の4’にします。左手は、Swell で弾きリード管の中でも、それほど音量が強くない、Krummhorn 8’があれば、それを使い、フルート系の8’も加えてみます。こうすると、左手のアルペジオの伴奏が際立ってくるのです。音量が強いようでしたら、Swellボックスを適度に閉めて音の量を調整します。もし、Krummhorn 8’がないようでしたら、フルート系で8’+4’+2・2/3’+2’+1・3/5’という、Cornet を作ってもよいでしょう。 『典礼聖歌』は、すべての曲が、オルガンの伴奏を前提に作曲されているわけではありませんので、オルガンの伴奏にふさわしい、レジストレーション=ストップの作り方と伴奏を考えてみてください。なお、同じような奏法は、77 神よあなたの道をしめし でも行えますが、こちらは、答唱詩編の形式ですので、レジストレーション=ストップの作り方を、少し変えたほうがよいと思われますが、詳細は、またの機会に譲りたいと思います。
2014.09.04
【お知らせ】 フリーページ、「典礼音楽講座のご案内」に、〔聖歌〕、〔聖週間の典礼と聖歌〕、〔降誕節と待降節の聖歌〕、〔司式〕を追加しました。 待降節や四旬節の研修会にお勧めします。
2014.09.02
【十字架称賛】59 神のわざを思い起こそう【解説】 詩編78はヤコブ物語を始まり(1-8節)として、出エジプトと荒れ野における40年間の彷徨(12-55節)を中心に、最後はダビデの統治に至る(56-72節)イスラエルの歴史を歌っています。申命記32章の「モーセの歌」に似ていることから、この詩編ができたのは、申命記が書かれた南ユダ王国の末期=紀元前600年頃、あるいは、北イスラエル王国の滅亡(紀元前722年)が読まれていないことから、それ以前とも考えられています。いずれにしても、詩編としては、非常に古い部類に属していると言っていいでしょう。マタイ福音書の13:35では、この詩編の2節を引用して、イエスが語るたとえは、この詩編の預言の実現と解しています。 答唱句はこの詩編全体の要約です。イスラエルの歴史は、神が働きかけた救いの歴史です。見方を変えれば、イスラエルの歴史は、神のはからいに背いた罪の歴史でもありましたが、それでも神は、ご自分の宝の民を見捨てることなく、絶えず、回心へと導いておられたのです。その、救いの歴史を思い起こすようにこの詩編は促しています。その「起こそう」は、前半の最高音であるHと、「起こそう」の五度の跳躍下降で、この呼びかけが強められています。後半、「力ある」では、「ちから」の六度の跳躍と、「ちからある」での最高音のCis、バスも最高音のA(ラ)で、歴史全体に働かれる神とその力とが現されています。また、前半と後半、都合二回出てくる「わざ」は、旋律でE(ミ)-A(ラ)という同じ音型で統一され、神の働きを意識させています。 詩編唱は、第一小節から第二小節、第二小節から第三小節、の旋律はいずれも同じ音で続き、アルトは半音上がり、精神的緊張と、持続感を高めています。【祈りの注意】 詩編唱は、ことば数も多く、田畳み掛けるように歌います。答唱句も、「神のわざを思い起こそう。力ある不思議なわざ」ということばどおり、力強く、きびきびと歌いましょう。とは言え、いつもの注意ですが、乱暴にならないように、また、祈りの基本である、レガートを心がけてください。「ちからある」は答唱句で最も高い音ですが、ことばどおり、力強さをもってください。 詩編唱は、上にも書いたように、ことば数が多く、救いの歴史を叙述します。だらだらと歌っていると、聞いている会衆も疲れるばかりか、何を歌っているか、分からなくなります。淡々と、畳み掛けるように、語りましょう。今日の詩編唱は、1abと5abです。詩編の節の設定が、複雑ですから、その点もしっかりと確認しておいてください。括弧aは、詩編唱の最高音でもあり、もう一度、詩編唱の最初に戻るので、力強く、歌いましょう。括弧bは、詩編唱の終わりでもあるので、やや、落ち着いて終わりたいものです。 十字架称賛のテーマは、「挙(上)げられる」です。イエスがあげられるのは、十字架に挙げられることと同時に、天に(神の右の座に)挙げられることです。これは、パウロの手紙にも見られるもので、伝統的な教会の神学です。このようなことを詳細に研究する必要はないかもしれませんが、人間的な見方では、一見矛盾する二つの「挙げられる」は、神の秘儀として、救いの歴史には欠かせないものなのです。【オルガン】答唱句も詩編唱もきびきびと歌いますから、まず、オルガンの前奏がきびきびとしていなければなりません。技術的なことですが、♯が3つついていますから、黒鍵から白鍵には、指を滑らせることや、他にも、持ち替えなどをしっかりと考えてください。ストップは、明るいフルート系の8’+4’、会衆の人数によっては、プリンチパル系のストップを加えてもよいでしょう。詩編唱の部分も、持ちかえを早め早めに行いましょう。また、詩編唱の部分は、先唱者の声量によっては、4’も加え、Swell の扉をだんだんと開けてゆくようにしてもよいでしょう。《この記事は、「典礼聖歌研究工房 アトリエおおましこ」のサイトからの転載です。》
2014.08.27
フリーページに「典礼音楽講座のご案内」を記述いたしました。案内のページにも書きましたが、この講座は、原則、出張講座です。小教区や典礼関係者の研修会、聖歌隊、オルガン奏者の練習などでのお招きをお待ちしております。カトリック教会以外でも、カトリック教会の典礼(礼拝)や教会音楽を知りたい、諸教派教会の皆様や、一般の合唱団の皆様からのお招きもお待ちしております。グレゴリオ聖歌を学びたい、歌ってみたいという、合唱団のための出張指導も行います。連絡方法は、フリーページをご覧ください。
2014.08.25
【解説】 前半は作曲者が、司祭の説教を聞いて作曲した賛歌の一つです。後半は、パウロの手紙、1番はガラテア2:20、2番はローマ6:3~4をテキストにしています。 全体に簡素な和音が用いられて、すべての声部で同じ音が続きますが、それを生かすことで、祈りを深める効果が得られます。前半部分、「キリストのように」の「キ」以外の部分では、すべての声部で同じ音が持続しており、キリストに倣おうとする、不動の決意と姿勢が示されていると言えるでしょう。それは、後半部分でも同じことが言えます。 前半は、ミサや教会の祈りの冒頭の基音である、F(ファ)からテノール以外が始まります。後半は、やはり、ミサや教会の祈りの一番低い音であるD(レ)で始まり、キリストに結ばれて新しくされたわたしたちの決意と姿勢が、謙虚に表されています。そして、前半でも後半でも、ミサや教会の祈りでは、用いられていない高いD(レ)によって、「おこない」(前半)、「生きるために」(後半1番)、「召されたなら」(後半2番)が力強く歌われ、わたしたちが、キリストに倣って、生きる姿勢、生きる決意が、表明されています。【祈りの注意】 この聖歌の祈りについては、作曲者も『典礼聖歌を作曲して』でも詳しく書かれていますので、まず、それをしっかりと心におさめて、祈りを深めていただきたいと思います。 まず、前半での技術的なことですが、「キリストのように」の「リス」の部分、すなわち、×の音符「ス」が歌われるところとその前の「リ」で、「リ」が付点八分音符、「ス」が付点十六分音符となってしまうことが、大変多いようです。このように歌うと、祈りを深めるために、全体を八分音符で揃えた祈りのバランスが崩れ、品位のない祈りとなってしまいます。この曲自体が、簡素な和音で、しかも、基本的に八分音符で統一されているのは、「キリストのように考え、話し、行い、愛そう」という、姿勢、決意、あるいは、励ましを、より、深めて行きたいからにほかなりません。同じことは、後半にも、1番と2番で一回ずつ出てくる「キリスト」でも同じです。ちなみに、「キリスト」と歌われる部分、1番では、無声音で歌う×の音符になっており、2番では、普通の音符になっていますが、これは、どちらも、1番の歌詞に音符をあわせているからであって、2番の「あらたな」は無声音では歌いません。反対に、2番の「キリスト」は無声音で歌うようにして、全体の歌い方=祈り方を統一しましょう。 前半は三回歌われますが、1回目、2回目、3回目と、だんだん、ゆっくり、そして、音の量を下げてゆくと、祈りがより、深まると思います。「キリストのように行い」は、行動を実行する勇気と力をいただけるように、力強く歌いますが、乱暴な声にならないように、そして、3回目は、全体の祈りの強さのバランスの中で、フォルテで歌うようにしましょう。 後半は、パウロの手紙のことばになりますが、前半より、少し早めに歌い始めるとよいでしょう。歌い進めるにしたがって、旋律の音も高くなり、次第に、力強さを増して行きますが、最後、やはり、乱暴な歌い方にならないように注意してください。1番と2番、続く前半の速さが異なるように歌えるなら、最後の rit. の仕方も、それに応じて、異なってくると思います。次の祈りに続き、さらに、祈りが深まり、豊かになるような rit. を求めて行けるようにしましょう。 最後の、「力の限り」は、特に フォルティッシモで歌いますが、これも、もちろん、乱暴な歌い方にならないように、できれば、すべてのキリスト者にこの歌が、励ましとして届くような余韻を作ることができるようにしてゆきましょう。 ところで、この歌をして、このようにできるはずがない、この歌は欺瞞だというような、意見を聞いたことがありますが、本当にそうでしょうか。わたしたちキリスト者は、洗礼、堅信、キリストの体と血という入信の三秘跡によって、キリストの名にちなんで名づけられた油=クリスマを注がれ、文字通り、油注がれたもの=キリストと結ばれ、キリストの霊をいただいて生きるものとなったのです。わたしたちは、最終的に「成熟した人間となり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」(エフェソ4:13)また、パウロも、キリストを模範として生きるように、フィリピの教会への手紙で諭しています(フィリピ2:1~11参照 317キリストは人間の姿で)。このテキストにあるように、「キリストのように考え、話し、行い、愛そう」とすることは、人間の力だけでは不可能なことは間違いありません。しかし、キリストの死と復活に結ばれ、神の霊をいただいたわたしたちにとって、このような生き方は、日々の目標であるとともに、生涯を通して目指してゆく目標でもあるのではないでしょうか。 余談ですが、ある研修会で、参加されていたオルガン奏者の方が、このような質問をされました。「わたしは、片手でひとつずつ弾くのがやっとですし、わたしの教会にも、オルガンを勉強した人はいません。それでも、ミサで弾いたほうがよいのでしょうか。」そのような、小教区は多いと思います。いろいろなアドバイスをした後、わたくしは、最後に、この聖歌の前半と3番を歌いました。これが、わたくしの答えだと思ったからです。その方が、どのような反応をされたかは、皆さんのご想像にお任せします。いずれにしても、わたしたちは、最初から完全ではありません。でも、目標であるキリストにたどり着こう、キリストと一緒に歩んで行こう、少しでもキリストに倣おう、と励ましあうのがこの歌詞の言わんとするところではないでしょうか。【オルガン】 前奏は、最初の「キリストのように考え」の部分だけでもよいですし、「キリストのように話し」まで弾き、最後は、1の和音で収める方法もあります。同じ音が続きますが、答唱句の伴奏と同じように、旋律を刻んで(歌うように)弾くことで、祈りのテンポがしっかりと伝わるのではないでしょうか。 全体を通して、強弱の変化があるので、クレッシェンドペダルや、Swell を有効に活用したいところですが、ペダル鍵盤を使うと、思うようにいかない場合もあると思います。手鍵盤(Manual)だけで弾く場合は、これらを有効に活用するとよいでしょう。また、ペダル鍵盤を使う場合でも、1番、2番、3番で、音色を変化させることで、祈りを深めて行くことができると思います。 最後の、「力の限り」は、乱暴にならないようにして、プリンチパル系のストップを使うと、より、力強さを増すことができるでしょう。3番以外は、基本的にフルート系のストップを中心にするとよいと思います。
2014.08.25
今月から、上田教会の聖歌練習の予定を掲載します【場所】 上田カトリック教会聖堂(長野新幹線他上田駅下車徒歩7分)【日時】 4月19日土曜日 9:30~12:00〔11:40~ 昼の祈り(式次第は用意してあります)〕 【練習内容】 復活節第5主日~聖霊降臨の祭日までの聖歌 46 神の注がれる目は 130 主をたたえよう 112 主はのぼられた 69 神よ あなたのいぶきを 352 聖霊の続唱 信仰宣言(使徒信条) 他 【持ち物】 『典礼聖歌』『カトリック聖歌集』『典礼聖歌 合本出版後から遺作まで』
2008.04.03
117 主は豊かなあがないに満ち【解説】 詩編130は、回心の7つの詩編の詩編の中では、最も有名なものでしょう。ラテン語では、De Profundis で始まるもので、昔から、多くの作曲家によって、曲がつけられています。また、この詩編は、その内容から、死者のための祈りとしても用いられてきました。ところが、この詩編の自身については、背景となる時代や場所ははっきりとしていません。そのことは、また、この詩編による「深い淵からの叫び」が、時代や場所を越えて、普遍的な回心、神への立ち返りの祈りとされるゆえんかもしれません。 答唱句は、詩編唱と同じ歌い方がされるものの一つ(他に「神よ あなたの顔の光を」、「父よ あなたこそ わたしの神」)です。バスは、常にD(レ)で持続しますが、この、答唱句の確固とした信仰告白を力強く表しています。 詩編唱は、第1・第3小節の終止音の四分音符(主に「、」)が、その前の全音符から、2度高くなっており、第2・第4小節では(主に「。」)2度下降しています。さらに、各小節の冒頭の音が順次下降しており(1小節目=A(ラ)、2小節目=G(ソ)、3小節目=F(ファ)、4小節目=E(ミ))、文章ごとのバランスをとりながら、ことばを生かしています。 この詩編唱は、当初、『典礼聖歌』(分冊第二集=31ページ)で、旧約朗読後の間唱として歌われた「主よ よこしまな人から」(詩編140)に用いられていました。現在、『典礼聖歌』(合本)で歌われる詩編唱の第3・第4小節が「主よ よこしまな人から」の答唱句として、第1・第2小節が、同じく詩編唱として歌われていました。 「主よ よこしまな人から」が作曲されたのは、典礼の刷新の途上だったため、新しい詩編や朗読配分、などが確立したときに、この曲は使われなくなり『典礼聖歌』(合本)には入れられませんでしたが、新しい答唱詩編である「主は豊かなあがないに満ち」の詩編唱に受け継がれました。【祈りの注意】 解説にも書きましたが、答唱句は、詩編唱と同じ歌い方で歌われます。全音符の部分は、すべて八分音符の連続で歌います。「豊かな」と「あがない」の間があいているのは、読みやすくするためです。また、「あがないに」と「満ち」、「いつくしみ」と「深い」の間があいているのは、楽譜の長さ(答唱句と詩編唱の)をそろえたための、技術的な制約によるもので、これら赤字のところで、息継ぎをしたり、間をあけたり、赤字のところを延ばしたりしてはいけません。下の太字のところは、自由リズムのテージス(1拍目)になります(*は八分休符)。 主はゆたかなあがないに満ちー*|いつくしみふかいー* 答唱句は、詩編と同じく、八分音符の連続ですが、「主・は・ゆ・た・か・な・あ・が・な・い・に・満・ちー」のように包丁がまな板を鳴らすような歌い方にならないようにしましょう。 冒頭は、きびきびと歌い始め、1小節目の終わりで、rit. し、ほぼ、そのテンポのまま「いつくしみ」に入り、最後は、さらにていねいに rit. して終わります。全体は、P で、最後の答唱句は PP にしますが、それは、この答唱句の信仰告白のことばを、こころの底から、深く力強い、確固としたものとするためです。決して、気の抜けたような歌い方にならないようにしてください。 四旬節の主日も、第5主日となりました。第一朗読で読まれる、エゼキエルの預言、今日は37章が読まれますが、復活徹夜祭にはその前の36章が第七朗読で読まれます。福音はヨハネの中の有名な、ラザロの復活(正確には蘇生)が読まれ、まじかに迫った、洗礼志願者の洗礼の直前の準備となっていることが分かります。詩編は、最初にも書いたように、深い淵からの回心の叫びですが、それは、洗礼志願者と心を合わせた、わたしたち、すべてのキリスト者の叫びと言っても過言ではありません。この、詩編を味わいながら、洗礼志願者と心を合わせ、わたしたちも、復活徹夜祭に行われる、洗礼の約束の更新によって、新しくふさわしい心で、キリストとともに歩めるように祈りたいものです。 《この答唱詩編のCD》「典礼聖歌アンサンブル」『聖週間の聖歌』〔在庫なし〕【参考文献】『詩編』(フランシスコ会聖書研究所訳注 サンパウロ 1968)
2008.02.26
123 主はわれらの牧者【解説】 詩編23は、牧者としたの神に対する信頼と感謝を歌った詩編で、牧歌的な美しい表現に満ちています。その背景には、死の陰の谷であるエジプトから導き出し、荒れ野で岩を割って水を与え、緑豊かな牧場に導かれた、また、エジプトと言う敵の只中で最初の過越しを祝った、というイスラエルの救いの出来事があるようです。キリストは、この詩編23とエゼキエル34章を、ご自身に対する預言とされ、「わたしは良い羊飼いである」(ヨハネ10:11)と仰っています。なお、5-6節は、天のエルサレムでの神の宴の預言とされ、感謝の祭儀=ミサの予型とも言われています。 答唱句の前半「主はわれらの牧者」では、主に旋律が高音で歌われ、とりわけ「主」と「ぼく者」では、最高音C(ド)が用いられて強調されています。後半の「わたし」は旋律がD(レ)、「とぼしいこと」のバスがB(シ♭)といずれも最低音が用いられており、対照となる信仰告白のことばがはっきりと表現されています。答唱句の旋律の音は、ホームページの「答唱詩編」でも触れたように、ミサの式次第の旋律の音で構成されています。詩編唱は17~18「いのちあるすべてのものに」と旋律、伴奏ともに全く同一で、わたくしたちを養ってくださる神という、詩編ならびに答唱句の主題にしたがって詩編唱でも統一がはかられています。【祈りの注意】 答唱句は、この詩編の主題である、信頼・感謝を十分に表すように、雄大に堂々と歌いたいものです。しかし、そこで忘れてならないのは「主は」、「われら」、「ぼく者、「わたし」などのアルシスをしっかりと生かすことです。これが生かされないと信仰告白のことばが活き活きしてこなくなり、ひいては、全体の祈りがだらだらとしたものとなってしまうのです。「ぼく者」の部分は、やや、テヌート気味で歌い、このことばを自らのこころにはもちろん、聞いている人のこころにしっかりと刻み付けたいものです。また、「者」の付点四分音符はテヌートしたままのテンポで延ばしますが、「わたし」に入ったら、すぐに冒頭のテンポに戻します。そして、最後は、本当にわたしには何一つ不足していることがないことを表すように、rit. して終わります。特に、最後の答唱句はていねいに終わらせます。 詩編唱は、第一朗読のエレミアが預言したように、イエスの時代の牧者が、羊の群れ(イスラエル)を散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかったので、その有様を深く憐れんで、教えられたキリストを預言するものとして歌われ、この、テーマで第一朗読と福音朗読の橋渡しをしています。 技術的な注意ですが、詩編唱の4節の4小節目、「いきる」は楽譜の八分音符だけにしか字がありませんから、どちらも、八分音符一つだけで歌い、「いきーる」のように音を延ばすことはしません。詩編唱の4は、どの小節もことばが少ないので、他の詩編唱の節よりゆっくり目に歌います。これは、とりわけ、2小節目で顕著です。 第一朗読では、ダビデの召命物語が読まれます。エッサイの子どもたちからダビデを召しだす際に、神は、サムエルに「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」と忠告します。ダビデは兄弟たちの中で油を注がれます。ダビデの兄弟たちは、決して、主に、はむかうものではありませんが、詩編唱は、ダビデが油注がれ、その喜びのうちに皆が喜びの食事をしているように思わせます。 一方、福音朗読では、生まれつき目が見えない人が、目を開かれる、ヨハネの福音が読まれます。その中で、ファリサイ派の人たちから、目が見えるようになった理由を訊ねられた両親は、関わりになるのを恐れて「本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう」と言いました。これは、ファリサイ派に関わりになること、自分の息子に関わりになることもそうですが、イエスと関わりになるのを一番恐れたのではないでしょうか。イエスのいやしの出来事は、広く伝わっていたはずですから、知らないとは思えません。自分の子が、イエスに癒されたことで、自分たちも会堂から追い出されるのを恐れていたとも考えられます。 今日の、答唱句で、わたしたちは「主は、われらの牧者。わたしは乏しいことがない」と信仰を告白します。この告白が、わたしたちの生活、すべてにおいてなされなければ、わたしたちの告白は、口先だけのものであり、本当はキリストとの関わりを持ちたくない、この両親となんら、変わりないものになってしまうのではないでしょうか。わたしたちは、日々、こころから、神とキリストを頼っていれば、何も乏しいことはないはずなのですが。《この答唱詩編のCD》「典礼聖歌アンサンブル」『待降節・降誕節の聖歌』【参考文献】『詩編』(フランシスコ会聖書研究所訳注 サンパウロ 1968)
2008.02.15
35 神に向かって【解説】 今日の詩編唱で唱えられる詩編95:1-2から、この答唱詩編の答唱句が取られています。この詩編95は、神殿の神の前に進み出て礼拝を促す(2節)巡礼の形式で始まります。後半は、荒れ野における歴史を回顧し、神に対する従順を警告しています。1節の「救いの岩」をパウロは、1コリント10:4で「この岩こそキリストだったのです」と述べ、この前後の箇所では、イスラエルの先祖が荒れ野で犯した、偶像礼拝について記しています。また、ヘブライ3:7-11,15でもこの箇所が引用され、キリスト者も不信仰に陥らないように警告しています。 8節の、「きょう、神の声を聞くなら、・・・・ 神に心を閉じてはならない」という箇所から、この詩編は、『教会の祈り』で、一日の一番最初に唱える「初めの祈り」の詩編交唱の一つになっています。「きょう」ということばは、ただ「昨日」「今日」「明日」という、連続した日の一つではなく、このことばによって、今、読まれる、あるいは、読まれた神のことばが、そのときその場に実現することを意味しています⇒《祭儀的今日》。ナザレの会堂でイザヤ書を読まれたイエスが、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ4:21)と話されたことを思い起こしてください。 答唱句は、冒頭、旋律が「神に向かって」で和音構成音、「喜び歌い」が音階の順次進行で上行して、最高音C(ド)に至り、神に向かって喜び歌うこころを盛り上げます。また、テノールも「神に向かって」が、和音構成音でやはり、最高音C(ド)にまで上がり、中間音でも、ことばを支えています。前半の最後は、6度の和音で終止して、後半へと続く緊張感も保たれています。 後半は、前半とは反対に旋律は下降し、感謝の歌をささげるわたしたちの謙虚な姿勢を表しています。「感謝の」では短い間(八分音符ごと)に転調し、特に、「感謝」では、いったん、ドッペルドミナント(5度の5度)=fis(ファ♯)から属調のG-Durへと転調して、このことばを強調しています。後半の、バスの反行を含めた、音階の順次進行と、その後の、G(ソ)のオクターヴの跳躍は、後半の呼びかけを深めています。 詩編唱は属音G(ソ)から始まり、同じ音で終わります。2小節目に4度の跳躍がある以外、音階進行で歌われますから、歌いやすさも考慮されています。また、4小節目の最後の和音は、答唱句の和音と同じ主和音で、旋律(ソプラノ)とバスが、いずれも3度下降して、答唱句へと続いています。【祈りの注意】 答唱句は、先にも書いたように、前半、最高音のC(ド)に旋律が高まります。こころから「神に向かって喜び歌う」ように、気持ちを盛り上げ、この最高音C(ド)に向かって cresc. してゆきますが、決して乱暴にならないようにしましょう。また、ここでいったん6度での終止となりますし、文脈上も句点「、」があるので、少し rit. しましょう。ただし、最後と比べてやり過ぎないように。後半は、テンポを戻し、「うたを」くらいから、徐々に rit. をはじめ、落ち着いて終わるようにします。 答唱句、全体の気持ちとしては、全世界の人々に、このことばを、呼びかけるようにしたいところです。とは言え、がさつな呼びかけではなく、こころの底から静かに穏やかに、砂漠の風紋が少しづつ動くような呼びかけになればすばらしいと思います。 解説にも書きましたが、詩編唱の1節にある「救いの岩」は、第一朗読でも読まれた「ホレブの岩」であり、この岩こそキリストだったとパウロは述べています。福音朗読でも、水の尽きることのない泉であることを、キリスト御自身がサマリアの女に説かれています。ところで、福音朗読の最後で、サマリアの人たちはキリストに出会った女性に対して次のように言っています。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」と。このことばには、福音を宣べ伝える際の、大切なことが語られています。福音を受け入れる人は、わたしたちのことばや行いを通してキリストと出会いますが、最後には、福音で語られるキリストと直接出会うのです。これをわたしたちは忘れてはならないでしょう。そして、洗礼を受けた新しい兄弟姉妹は、今日の答唱詩編である、詩編95のような信仰告白に至るのです。《この答唱詩編のCD》「典礼聖歌アンサンブル」『四旬節の聖歌』【参考文献】『詩編』(フランシスコ会聖書研究所訳注 サンパウロ 1968)
2008.02.08
46 神の注がれる目は【解説】 その詩編の18節から答唱句が取られている、詩編33は、創造主、救い主である神をたたえる賛美の詩編です。6節の「星座」(ヘブライ語の原文では「軍勢」)は、天にいる神の軍隊のことで、神の栄光を示し、その命令を実行するものです。6節には、「神(原文では「主」)」の他に、「ことば」「いぶき」という語句があることから、教父たちは、「ことば」=神のことばであるキリスト(ヨハネ1:1)、「いぶき」=聖霊、と考え、この詩編には三位一体の秘義が隠されていると考えました。 答唱句は8小節と比較的長いものです。前半は「神」と言うことばが三回出てくることや、神のやさしいまなざし=「目」を強調するために、旋律は高い音が中心となっています。特に、「目」は最高音のD(レ)の二分音符で歌われます。二回出てくる八分休符は、次の「神」をアルシスとして生かすためのものですが、バスは八分休符ではなく四分音符で歌われ、どちらも精神を持続させながら緊張感を保ちます。 後半の「希望を」では、「きぼう」で旋律とバスの音程が2オクターブ+3度開き、バスのオクターヴの跳躍で、ことばが強調されています。 詩編唱はドミナント(属音)から始まり、同じ音で終止し、下一音(Fis=ファ♯)以外はすべて上方音というところは、グレゴリオ聖歌の手法が生かされています。答唱句、詩編唱ともに、最後は順次進行で下降し、落ち着いて終止しています。【祈りの注意】 解説に書いたように、答唱句は8小節と比較的長いので、全体に、緊張感を持って歌う必要があります。とは言え、早く歌う必要もないのですが、間延びすることのないようにしましょう。そのためには、まず、冒頭の「神の」の「の」の八分音符が遅れないように、言い換えれば「かみ」の四分音符が長すぎないように、と言うことです。最高音D(レ)が用いられる「目」は、この詩編でも歌われるような、いつくしみに満ちた神のまなざし、十字架の上から、愛する弟子と母に向けた、キリストのまなざしを表すように歌ってください。高い音なので、どうしても、音を強くぶつけてしまいがち(「メー」)ですが、そのように歌うと、怒りと憤りに満ちた音になってしまいます。高い棚の上に瓶をそっと置くような感じで、声を出すようにするとうまく歌えます。 「ものに」は、アルトが係留を用いているので、やや、rit. しますが、これは、分かるか分からないか程度のものです。決して、「あ、リタルダントしたな」と思わせないようにしましょう。後半に入ったら、すぐに、元のテンポに戻します。最後の「希望を」は、少し、テヌートして「希望」をしっかりとこころに刻みましょう。 最後は、rit. することはもちろんですが、やや、dim. もすると、安心して答唱句の祈りのことばを終わらせることができるでしょう。 答唱句のテンポは「四分音符=88くらい」ですが、冒頭は、これよりやや早めのほうがよいかもしれません。 第一朗読では、アブラム(後のアブラハム)によって、すべての氏族が祝福に入ることが約束されます。実際に、アブラハムとは全く血縁も地縁も関係のないわたくしたちも、約束どおり、キリストの栄光の姿を見ることができたのです。四旬節の間、受洗準備を進める洗礼志願者も、この、キリストの栄光の姿に預かるように招かれています。今日の詩編を味わいながら、洗礼志願者のために、また、すべての人が救われて真理を知ることを望んでおられる、神の救いの計画が実現するよう、ともに祈りましょう。 《この答唱詩編のCD》「典礼聖歌アンサンブル」『四旬節の聖歌』【参考文献】『詩編』(フランシスコ会聖書研究所訳注 サンパウロ 1968)
2008.02.03
6・7 あなたのいぶきを受けて【解説】 今日の答唱詩編は詩編51が歌われます。この詩編は回心・ゆるしが主要テーマです。詩編の表題の1・2節には、「ダビデの詩。ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき」(サムエル記下11:1~12:15参照)と記されていて、旧約時代以来、ダビデの歌とされていますが、実際にダビデが歌ったかどうかは定かではありません。回心の七つの詩編の一つで(他に詩編6、32、静38、102、130、143)、神に赦しを願い、罪からの清めと神のいぶき(聖霊)による聖化を求め、典礼(神殿祭儀)での感謝と賛美を神に約束します。 答唱句の旋律は、冒頭、最高音部から始まり、次第に下降することで「あなたのいぶき」すなわち神のいぶき=聖霊を願い、それが、天から降り、与えられる様子が表現されます。また、アルトとバスは主音のEs(ミ♭)を持続し、神へのゆるぎない信頼と、回心の強い決意が表されています。後半は、同じ音の動きが3度下のG(ソ)から始まり、わたしたちが新たにされることが、とりわけ「あたらしく」のバスで最低音を用いることで、謙虚に示されています。旋律も和声もシンプルですが、それによって、ことばが生かされ、祈りが深められます。 詩編唱和は、旋律の終止音であり、また、最低音でもあるEs(ミ♭)から始まり、2小節目の後半はAs(ラ♭)、4小節目の最後はB(シ♭)というように、嘆願のことば、あるいは、信仰告白のことばが歌われる部分で、前半、後半、それぞれの最高音を用いることで、ことばを強調し、叫びを高めています。【祈りの注意】 答唱句の指定速度は、四分音符=63くらい、ですから、それほど早くも遅くもない速度です。ことばの持つニュアンスから言うと、「荘重に」歌うようにしたいものです。特に、後半は、静かで謙虚なこころの中にも、荘厳さがあるとよいでしょうか。答唱句は、それぞれの詩編唱に対して、こころから「あなたのいぶきを受けて、わたしは新しくなる」ことを、言い表しましょう。バスの下降もこれらを助けています。 詩編唱は、上にも書いたように、答唱句の終止音で、かつ、最低音であるEs(ミ♭)から始まります。最初は、こころの深みから、詩編で歌われる回心のことばを、神に告白しましょう。音の強さとしては、mp から始めるのがよいと思いますが、それは、あくまでも音量であって、告白するこころが真剣な力強いものとなることは、言うまでもありません。このことばは、詩編を歌う人、個人のことばであるばかりではなくと、その共同体、そのミサに参加するすべてに人のこころを言い表しているものでもあることを、忘れないようにしたいものです。2小節目の後半と4小節目の最後には、上にも書いたように、神への嘆願のことば、信仰告白のことばが歌われますが、ここは、「あなたのいぶきを受けて、新しく」されたわたしたち一人ひとりの持つ、神へのゆるぎない信頼を込めて神に呼びかけてください。 なお、答唱句が異なることから、番号が6と7とになっていますが、詩編はどちらも同じ51です。6の1節と7の1節および3節が、今日の詩編ですので、6、7のどちらかを省略することのないようにしてください。 今日のことばの典礼のテーマは「誘惑」です。蛇は、巧みな誘惑で、人をだましました。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる」と。昔から不老不死と神と同じようになることは、人間が考え続けていたことではないでしょうか。しかし、人間は造られたものであり、造り主になれることは絶対にありえません。人祖の行動に対し、イエスは、最後に聖書のことばを用いて答えます。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」。わたしたちは、大きな罪(いわゆる大罪)と言われるものではなくとも、実は、知らず知らずのうちに、世間の価値観に流され、神を神として認めないことがあるかもしれません。この、回心の詩編を味わい、心に留め、いつも、心を神に向けなおす恵みを願い、また、そのように歩んでゆきたいものです。 《この答唱詩編のCD》《この答唱詩編のCD》「典礼聖歌アンサンブル」『聖週間の聖歌』(詩編は異なります。絶版)【参考文献】『詩編』(フランシスコ会聖書研究所訳注 サンパウロ 1968)
2008.01.28
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