PR
Keyword Search
Freepage List
お釣りの受け渡しの時の 「~円から」
という言い方がおかしいと一時期問題になっていました。
話題になったせいもあってか、最近ではこういう言い方をする人も減りました。
こうした言い回し、私はさほど気にしないのですが、激しく怒りを感じる人もいるようです。
「日本語としておかしい」
というのがその理由の一つ。
ではどう日本語としておかしいのでしょうか。
まず 「~からお預かり」
の 「から」
の意味はなんなのかという問題があります。
【「お客さんから」~円をお預かりする】
と考えたのではこの表現は成立しません。
【「~円から」~円をお返しする】
という意味なんでしょうか。
それでも 「~円から預かる」
という表現にはなりません。
ある種の表現の型で、意味を求めるのは無理なんでしょうか。
これは想像ですが、この言い方は言い易さやリズムから生まれたのではないかと思います。
「~円をお預かりします」
では 、「 をお預
かり」
の部分で 「 o o a
」
と母音が連続して非常に言いにくい表現になってしまいます。
そこで 「から」
を入れて、金額の確認・念押しの意味も含ませたわけです。
しかしやはり日本語としておかしい表現ですから、スマートに 「~円、お預かりします」
という言い方をする方がいいのかもしれません。
「~のほう」
という言い方、いわゆる 「ほう弁」
も問題とされています。
使う頻度も問題のようですが、一部の人には非常に嫌われている言葉です。
これは私自身よく使ってしまうので、使うなと言われるとつらい所です。
なぜ使ってしまうのでしょう。
まず使う側の心理として、この表現で丁寧さや敬意を表したいという気持ちがあると思います。はっきりした言い方を避け丁寧な言葉遣いにしようとしているのは間違いありません。
ただしそれが不快感を与えたり、不必要な言葉と思われてしまっているわけです。
色々な状況に対応できる便利さも多用してしまう原因でしょう。
「~のほう」
を使えば、一つ一つ言い回しを考える必要がありません。
~のほうはどうしましょう?
~のほうでよろしいですか?
~のほうお願いします
~のほう~させて頂きます
と簡単にその場の状況に合わせて使えます。
直接的な言い方がどうもしっくり来ない時、いい表現が思いつかない時、とりあえず 「~のほう」
を使えばもっともらしい言い方になるわけです。
曖昧さと丁寧さは違うものなので、簡潔な表現を心がけたいとは思いますが、ついつい口に出てしまいます。
ところで、 「ちょっと」
という言葉も 「~のほう」
と似ているとは思いませんか。
「ちょっとわからない」「ちょっと無理」
などは、 「ちょっと」
がなくても意味は同じです。
ただ語感をやわらかくするために、ニュアンス上の理由で付けられています。
こちらは日常会話で老若男女問わず使っているのではないでしょうか。
意思を伝えつつも人間関係を悪くしたくないという日本人らしい心理が現れている言葉です。
世代によって表現こそ変化しますが、こうした心理は老いも若きも同じのようです。
日本語には曖昧さを残したり、全部言い切らない方が洗練されているとする感覚があります。
前置きをしたり、語尾を濁すと日本語として落ち着きがよくなるというのは、会話や文章でよく感じることです。
厳密さが重視される場面では不適切ですが、意味と語感の両方を伝えるためには、こうした表現の必要性も否定し切れません。
特に相手の気持ちを考えて言葉を選ばねばならない場合、あいまいな表現はある程度仕方がないのではないでしょうか。
( あいまいな表現の是非は、インターネットにおける顔文字の是非と似ているかもしれません。 )
言葉と感覚は一心同体。必要性やルールだけでは割り切れない部分があります。
言葉は最終的には人が正しいと感じるかどうかで判断するしかありません。
そして問題にされるということは、不快に感じる人が少なからず存在するということです。
「この表現がなぜいけないの?」
という疑問に対して、必要性や文法的に云々と理屈は述べられますが、その根底に違和感や不快感があるのは確かです。
表現は、表現の型と受け取る側の感覚が繋がって始めて機能します。
「~の方」
という表現も、そこに込められている感情やニュアンスが広く認められれば表現として確立するのかもしれません。
しかし使う側が受け取る側にそうしたことを強要は出来ません。
不必要な言葉に対して不快感や違和感を感じるのは言語感覚上当然のことです。
表現の一つなのか、それとも間違った用法なのか、 「ほう弁」
は表現の本質に迫る問題を提起している気がします。
可能を表すときに使う 「られる」
の 「ら」
を抜く、いわゆる 「ら抜き言葉」
の問題もここ数年広く議論されています。
これは簡単なようで意外に難しい。
現代日本語は普段活用や文法を意識しない分、何が正しいのか理解しにくい所があります。
調べてみると日本語では、 上一・下一・力変
の動詞には 「られる」
で接続するのが正しいようです。
つまり、
(上一) 「起きられる」「見られる」「着られる」
(カ変) 「来られる」
(下一) 「食べられる」「投げられる」「出られる」「受けられる」「考えられる」
などは 「られる」
をつけるのが文法的には正しいわけです。
逆に、
(五段)「取れる」「行ける」「読める」「書ける」
などは 「ら」
がなくて正しいことになります。
まず、 (五段) を見てみます
。
「ら抜き」
言葉が間違いと言われるのは、基本的に 終止形が「る」
で終わる言葉の場合です。
五段活用( 「取る」「行く」「読む」「書く」
)はラ行の 「取る」
を除いてこれに当てはまりません。
ラ行以外の五段の言葉( 「行く」「読む」「書く」
)は、受身形( 「行かれる」「読まれる」「書かれる」
)にしても 「ら」
は付きません。
ラ行の 「取る」
に 「ら」
を付けて受身形( 「取られる」
)にしても、可能の意味に取ることができないのは感覚的にもわかります。
ここからわかることは、 「受身形」
にして 「可能」
の意味に取れない言葉は、 「可能」
の意味に取らなくてよい、という感覚的に当たり前のことです。
簡単に言うと、感覚的に明らかにおかしい言い方は、やはり文法上も間違っているということです。
では (上一)(カ変)(下一)
などの 「ら」
をつけても 「可能」
の意味に取れる言葉の場合はどうでしょう。
例えば 「民族紛争は世界中に 見られる
現象である」
が 「民族紛争は世界中に 見れる
現象である」
では違和感があります。
逆に 「昨日の歌番組 見れなくて
さ
」
が 「昨日の歌番組 見られなくて
さ
」
の場合は、どちらでもいけそうです。
しかし前者が特別おかしいとも感じません。
こうしたことから私は、
「ら抜き」
は話し言葉にふさわしく、 「ら付き」
は話し言葉・書き言葉両方に使えると感じました。
しかし 「来る」
に関しては 「ら抜き」
の方が自然に感じます。
「今から家に 来れる
?」
の方が 「今から家に 来られる
?」
より自然に感じます( この辺りが 「ら抜き」
言葉の地域差なのかもしれません。 )
「来れる」・「食べれる」
は 「ら抜き」 としてかなり一般化しているようです
。
この 「ら抜き」
言葉自体は方言の中に古くから存在し、話し言葉に用いられるようになってかなりの時間がたっているようです。
しかし問題として一般に広く議論されるようになったのは最近ではないでしょうか。
おそらく 「ら抜き」
言葉が文章に使われるようになって、問題がクローズアップされるようになったものと思われます。
感覚的な正しさと日本語の変化の狭間にある言葉、それが 「ら抜き」
言葉です。
仕事では致し方ありませんが、あまり深刻に新しい言葉を問題視する必要はないのかもしれません。
世代が違えば言葉が違ってくるのはある意味当然のことです。
乱れているとされる言葉の大半は時代の移り変わりと共に淘汰されてしまいます。
日常会話では、相手の気持ちを考えることを忘れなければ、些末な言い回しくらいで相手を不快にさせてしまうことは少ないでしょう 。
もちろんTPOに応じて言葉を使い分けられれば理想的ではあります。どんな表現にもニュアンスがあり、人がその表現を使って何かを伝えようとしていること変わりはありません。
古い表現にしろ新しい表現にしろ、その表現に込められた気持ちを理解しようとすることも大切なのではないでしょうか。
コンクラーベ、根競べ? 2005/04/20 コメント(3)
カスピ海ヨーグルト 2005/04/19