全5件 (5件中 1-5件目)
1
この曲(通称マラ3)を初めて聞いたのがメータ指揮ロス・フィルのLPだった。ご存知の方なら「あれかぁ~」と懐かしがるだろうか。重量LPとか言って、普通のものより重かった。内容も高校生の私にはかなり重かったけど。 ずっと敬遠してきたマラ3だったが、ついに出合った開眼の一枚がデ・ワールト指揮オランダ放送響盤。オケのマーラーへの共感具合も含め、好きな箇所での決まり方が私の好みにぴったり。いちいち「そうそう」と言いたくなる。 マラ3の比較と言っても長い曲だから、部分部分のハマリ具合で演奏比較をしてみたい。<チェックポイント>1.第1楽章:コーダの決め方。2.第3楽章:ポストホルンの夢見るようなソロを打ち破るトランペットの「起床ラッパ」。 (練習番号17の前)3.第6楽章:冒頭弦楽による主題とペットとボーンによるコラール(練習番号26)。☆エド・デ・ワールト指揮オランダ放送響盤☆ 中欧的というかオケの音色がまずいい。デ・ワールトは今時珍しい(?)ワグネリアンで、彼のマーラー演奏は同じワグネリアンだったマーラーの側面を聞かせてくれる。1.すかっと決まって気持ち良い。しかもアメリカのオケみたいな機械的な感じじゃないところが良いね。2.起床ラッパは強く鋭く入って来て、それまでの夢見気分からハッと現実に引き戻される。 この場面転換はまるでオペラのよう。3.「金管だって歌うのさ」(マーラー)を実感。ここの金管は共感溢れるいい演奏をする。 しかも音はアメリカ風鋭い音ではなく、円く暖かな音色だ。素晴らしい!☆サイモン・ラトル指揮バーミンガム市響盤☆ 冒頭ホルンから絶妙なテンポの揺らしで、聞かせ上手な演奏。アゴーギクを極端に弾かせるため、ひとによっては作為的な印象を受けるだろう。でもマーラーはメンゲルベルクを絶賛したからこれもありかなと思う。自然な演奏とは何も考えてない流した演奏という当時の演奏観からすると、ラトル盤はよく考えた演奏と言える。(何もしないラトルなんて魅力ないけどね) オケはあいかわらずヘタ。ライブじゃないよねと何度も確かめたぐらい。1.オケの限界なのか、生彩に欠く。押しがいまいち不足。2.起床ラッパは夢の続き。(-o-)zzz...3.ペットが苦しそう。録音セションなら充分休んだでしょ!緊張してんの? ラストはあれぇってくらいさっさと終わる。レニーの終わりたくないって感じとは正反対。 ここもユダヤ系べたべた演奏に慣れた人には気に入らないと思う。☆マイケル・ティルソン=トーマス指揮ロンドン響盤☆ テンポが遅い!ひたすらに平和で穏やかで健やかなマーラー。ここからは焦燥感とか不安感とか自然への畏怖とかは全く聞こえない。自然のなかに抱かれている幸福感、ゆったりとうつろう時間の波に身を委ねながら徐々に高みに達していく至福感で満たされている。 だから、マーラーの音楽で苦悩したい人には不向きかな。 オケはうまいからご安心を(^^;1.余裕があるのか意外にあっさりで、迫力いまいち。2.やっぱり夢の続き。3.朗々とした響きが一筋の天啓の光を思わせる。まるで悟りを得たかのような至福の瞬間。 最近の演奏では、明晰なサロネン盤とか軽快なナガノ盤とかが魅力的。
2006年11月05日
コメント(0)
シベリウスの5番はよく聴く曲だ。マーラーみたいに長くないし、適度に迫力あるし、かといって2番みたいな愛国心丸出しでもなく、抽象と華やかさ、叙情性が同居していて心地よい。 さて、この曲の初稿版が録音されているが、これを聴くと現在我々が耳にしている形とはかなり様相が異なる。特に顕著なのは、第1楽章と第2楽章が分離している点だ。現行版は第1楽章で派生した「うねうね音形」が次の第2楽章を飲み込んでしまい、ひとつの楽章となっている。 もともとこの曲はシベリウス生誕50年を記念した演奏会の目玉で、指揮も作曲家自身が受け持った。結果は成功だったらしいが、作曲家は気に入らなかったと見え、2回の改訂の末、現行版が完成した。 現行版は鍛えに鍛えた日本刀のような厳しさ、夢幻な広がり、不思議な暖かさがある。彼の独創性を表していると言えよう。 好きな曲なので録音も多く持っている。一言メモ程度だがを書き留めておく。--------------------------------------------------------------------1.C.ディビス=ロンドン響 この人、正統派というイメージがあるが、この演奏を聴いて何も感じない。確かに、イギリスのシベリウス演奏の伝統を踏襲している。雄渾でしなやか、スケールも大きい。でも、何かが違う。 旧録音(ボストン響)は音が厚すぎてぼけた感じだった。 2.ラトル=バーミンガム市響 ラトルのデビューCD(フィルハーモニア管)では清冽で勢いのある演奏だった。バーミンガム市響の演奏は練りに練った演奏で、細かい表情を積み重ねてクライマックスを築く。 フィナーレのコーダ前でうねうねした箇所のこれからどうなるんだろうという不安感とその後の輝かしい大団円的幕切れでの開放感。うまい!3.マゼール=ピッツバーグ響 ウィーンフィルとの旧録音は未聴だが、これはこれでなかなかいいと思う。北欧のイメージからは程遠いが、ひとつの交響曲として聞けばこれほど立派な演奏はお目にかかれまい。 スケール大きく、ダイナミック。切れ味抜群のリズム。4.ベルグルント=ヘルシンキ・フィル この人は作為的なことは何もしてない。ラトルのような緻密な表現とは正反対な演奏だ。しかし手の内に入った表現、圧倒的雄渾さ。ラトルが手弱女ぶりなら、こちらは益荒男ぶりといったところか。5.ベルグルント=ヨーロッパ室内管 この新録音はオケの機能性において、上記演奏をはるかに凌いでいる。基本は変わらず、ただオケの優秀さで指揮者の意図がより明瞭になった感じがする。益荒男ぶりは健在だ。6.ユッカ=ペッカ・サラステ=フィンランド放送響 サンクトペテルブルグでのライブ録音のせいか、感興とノリがいい。現代的スマートさと自分達の音楽であるという自信がすばらしく繊細で輝かしい演奏になっている。ラストの開放感は北国の春を思わせる。我らの時代のシベリウス。大推薦!7.バーンスタイン=ウィーンフィル ウィーンフィルを自在に操って、己の音楽を演奏したレニーは20世紀の大指揮者であったことは否定できまい。この演奏はシベリウスとも北欧とも無縁なものになっている。だがスコアに書かれてある情報の全てを聞かせてくれる。例えば、第1楽章で弦楽の「うねうね音形」が大きな波を作り出し、ついには本来2楽章になるはずだったスケルツォを飲み込んでひとつの楽章にしてしまう様を見せて(聞かせて)くれたのはレニーだけ。 しかもこの「うねうね」がラストでは巨大な感動の波となって再び現れる。この解釈は凄い、凄すぎる!
2006年03月05日
コメント(4)
サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィル 録音年月:2002年9月7日~10日 録音場所:フィルハーモニー、ベルリン-------------------------------------------------------------------- サー・サイモン・ラトルといえば、今やクラシック界に君臨する若き帝王であり、将来の指揮界を背負って立つ(もう背負ってるけど)逸材である。 彼のことはある音楽雑誌に写真入りで紹介されていて、CDデビュー前から知っていた。カーリーヘヤーのスリムな若者がイギリスで旋風を巻き起こしているという内容だった。 しばらくして発売されたデビュー盤「惑星」「シベリウス/第5交響曲」で私は完全に魅了されてしまった。とても26歳の仕事とは思えない、思慮深さと緻密な演奏設計、決して若さだけで押し切ろうというものではなかったからだ。 1985年の初来日はTVで見た。メインはシベリウスの第2交響曲だったが、きびきびとした動きながら、歌うところでの思い切ったリタルダンドなどに彼の自己主張を聞いた気がした。 ラトルのライブ初体験は1987年手兵バーミンガム市響との来日で、メインはマーラーの「巨人」。ものすごく感動した。終演後、オケが舞台から去っても拍手は鳴り止まず、ひとりラトルが登場、譜面台のマーラーのスコアを頭の上に掲げて、マーラーを称えたパフォーマンスは演奏とともに今もって忘れられない。 さて、それから20年近く経って、ベルリン・フィル(BPO)という天下の名器を手中に収めたラトルだが、最近の演奏は90年代に比べてあまり面白くない。ここではBPOへの就任披露となった「マラ5」を、前回と同じ部分で聞き比べてみよう。1.冒頭トランペットソロはわりと明るい音色で進んでいく感じ。全奏直前はディミュニエンドでもクレッシェンドでもなく、ロングトーンに近い。 気持ちはクレッシェンドだけど、楽譜は小さくなっていくから間を取って・・・というわけでもないだろうが、中途半端な印象。 続くダダダダンも全て4分音符に聞こえる。ただし反復されるときは2分音符であることを強調している。2.大太鼓は聞こえない。省略したのか?それとも、彼が使用したマーラー手書きのスコアにそう指示されているのかは不明。3.コラール最後の小節はPesante(重々しく)なのだが、むしろ軽やかに次のコーダに突っ込む。音量調節どころではない忙しさ。 歌う部分でのテンポの落とし方、反復して主題が再現されるときのアクセントの変え方など、ラトルらしいマニアックな方法論は健在。しかし、奏者任せなのか指示が不徹底なのか、バーミンガム市響とのディスクと比べて細部の詰めが甘いと感じる。全体的にテンポの落差によって推進力を得て、そのなかにあって歌への耽美的な傾斜もあり、でも細部にこだわった強調もありであまりの情報過多に眩暈がしているうちに終わってしまったという印象が拭えない。 ラトルのこれまでの録音は人気に任せたやっつけ仕事ではない、仕事の丁寧さが魅力だった。彼一流のこだわりをもった手仕事感覚。鋭敏な耳と高速回転しているであろう頭脳、時折見せる狂気、それを十全に伝達できるコミュニケーション力。これらの要素が丁寧に織り込まれていた。だが、今回のマラ5に限っては「空振り」した感じがしてしかたがない。 楽譜に関して、ラトルは作曲者が1911年ニューヨーク・フィルでこの曲を振ったときに使用したスコアに基づいているとしているが、現行マーラー全集とどれだけ異なっているのかよくわからないので、2.については保留とする。 就任早々から自分流をかましているところはすごいと思うが、この時はオケもまだラトル流を充分飲み込めていなかったんではないかと思われる。 BPOも彼のこだわりを理解し、何年かして再録音して欲しいものだ。 なおDVDではこのような細部に気を遣うこともなく、ラトルのきびきびとした指揮ぶりと豊かな表情を見ながら、感動のステージを味わうことができる。国内盤はおまけがついた2枚組みDVDならこちら
2006年03月02日
コメント(2)
エサ=ペッカ・サロネン指揮ロス・フィル(SONY) 録音年月:1992年2月10日11日 録音場所:ロイス・ホール、カリフォルニアジャン=クロード・カサドシュ指揮リール管(AUVDIS) 録音年月:1982年9月 録音場所:Palais des Congres,Lille-------------------------------------------------------------------- 交響曲冒頭、鈴が鳴り響き弦楽が第1主題を歌う直前、スコアにはクラリネットとバイオリンに「rit.」の指示があるのに、鈴とそれに絡むフルートにその指示が書かれていない。 これをバーンスタインは「家の前を馬車が通り過ぎていくのを聴いて、昔の記憶が蘇ったように。鈴も一緒にリタルダンドすると馬車が家の前で止まったことになってしまう」と指揮者広上淳一に語ったそうだ。 それを知ってからこの部分は譜面をちゃんと読んでいるかどうかのチェックポイントになった。 サロネンはバーンスタインの言を知っていたのか、あるいは独自の読みなのか、鈴をきっちりイン・テンポで叩かせている。 この演奏の素晴らしさはここだけではなく、全体に楽譜の読みが徹底してる。しかもそれが極めて自然。どんな声部も浮き彫りにしながらも、主題に隠れもせず、隠しもしない。この絶妙のバランス。 録音のせいもあるが、まるでセリフを言っては後ろにさっと下がり、また言うときになったらすっと立ち現れるといった感じ。第3楽章は深みより叙情性が、第4楽章は歌手とのバランスが見事。 対するカサドシュは慣例に従い(?)鈴も一緒に遅くしている。だからと言って、この演奏をだめと言うつもりはない。この人はオケから一生懸命にマーラーの音を出そうとしているからだ。 それは小沢がボストン響からウィーンの響きを引き出そうと躍起になっているのに似ている。でも小沢のマーラーでは時に輝くような響きになってしまう。小沢の目指す「鈍い黄金色」ではなくぴかぴかに磨いた金地金に。その辺のジレンマがまたおもしろいと思うけど、今はカサドシュ。 リール響ももともとラテン系の軽い響きのオケなのだろう。特にソロ管楽器になるとなぜかラヴェルになってしまう。だがカサドシュは全奏のときに重い響きを、特に弦楽にはそうとう厳しい要求を出していると思われる。だから時にドイツ系のオケかと錯覚するくらい重厚な音がする。 しかもこの指揮者は楽譜の読みが独特で、不思議なバランスを聞かせる。そこにこの人の屈折した暗い感覚を聞く。通り一遍な演奏よりよほど主張があって、おもしろく聴いた。ただし、歌手はビブラートなのか緊張なのかわからない、震えるような声を出していて私は好きじゃない。 サロネンは明晰さをもってマーラーの譜面に光を照射しているのに対し、カサドシュは己の感覚を信じて熱くマーラーに挑戦している。北欧の光と南欧の陰はそれぞれのやり方でマーラーやその背後のウィーンという音楽の中心地に向かって新しいアプローチを試みているようだ。
2006年02月22日
コメント(4)
カラヤン指揮ウィーン・フィル 録音年:1961年9月 録音場所:ソフィエンザール、ウィーンホルスト指揮ロンドン響 録音年:1926年 録音場所:コロンビアスタジオ、大スタジオ、ロンドン-------------------------------------------------------------- 誰でも知ってる「惑星」をカラヤン盤(旧盤)とホルスト自作自演盤を比較してみた。 カラヤン盤はこの曲を有名にした代表的な演奏だけど、実は今まで避けていた。どうせ華麗で聞かせ所では見得を切って見せる演技たっぷりな演奏だろうとタカをくくっていたのである。 今回聴いて、それが誤解であることがわかった。「火星」の遅いテンポとバカみたいにきざむ四角四面なリズムが徐々に速くなっていく導入から、まるでレクイエムのアニュス・デイみたいに祈るような女声コーラス(響きは厚い)の「海王星」まで、すばらしい音楽の連続だった。「木星」の例のメロディの堂々とした歌、「天王星」の威圧的なブラス、見事の一言。曲の魅力と可能性を一気に開花させたカラヤンの腕前に敬服。 この無機的なリズムの火星を聴きながら思い出したのが、カラヤン演出の楽劇「薔薇の騎士」(R.シュトラウス)の舞台だ。終幕、無粋な男爵を懲らしめるため、合図とともにレストランにオバケが現れるという場面。彼はここで、レストランの窓から無表情の白い顔が一斉に覗き込むという演出をした。これがカラヤン流恐怖の演出である。 普通の舞台では白い布を被った「オバケ」が出てくる。これでは観客は恐くないどころか、しまいには笑ってしまうだろう。 火星の演出はカラヤン流「無表情の恐怖」で終始進められている。ただデカイ音で煽るような恥ずかしい演奏ではない。 自演盤の「火星」冒頭はコルレーニョではない。低弦のきざみの重々しい響きで開始される。まるで戦前の恐怖映画(フランケンシュタインとか)の音楽みたいに懐かしい響きだ。 全体に速めで、バスの進行を大事にした演奏。こんなラインあったっけという発見もあった。「金星」の最後、ブルックナーのアダージョみたいなホルンの上昇音形なんかそう。 また、金管がバリバリ鳴っている箇所でも木管の音が消えない。後ろで和音を鳴らしているだけでも、必ず聞こえる。作曲者にとって聞こえなくてもいい音なんて無いのだ。 「木星」は「人生をエンジョイする」と語った通り、幸せな音楽。例のメロディは早めのテンポで格調が高い。ただ下品に歌いまくるだけの演奏には垢を煎じて飲ませたい。 「土星」はよぼよぼの老人の哀れな末路ではなく、「老人力」よろしく闊達で背筋のピンと伸びた、気骨ある老人の堂々たる黄昏の曲だった。 「海王星」は神秘というよりカオスと言った趣(オケもカオス状態(^^;)。女声コーラスも低い音のラインを重視している。 聴き終えて、「惑星」は宇宙時代に祭り上げられた曲なんじゃないかと思った。自演盤はオケを鳴らして大見得を切るよりも、ひとつひとつの響きを重ねていく地味な演奏だった。もし、アポロ計画がなかったら、この曲は知る人ぞ知る秘曲だったかも知れない。 ホルストの他作品も実に地味で、吹奏楽の組曲1番にしても品位と慈しみに溢れたいい曲だけど一般にはあまり聴かれないし、セントポール組曲は弦楽オケでもっと弾かれてもいいと思うが、ほとんど知られていない。合唱曲にいたっては、聞いたことすらない。 「惑星」は確かに傑作だ。けれどそれだけでここほど世界的有名曲になれただろうか。人の運命はわからないが、曲の運命だってわからない。 埋もれていた曲が一夜にして世界中で脚光を浴びる、それは明日あることかもしれない。
2006年02月18日
コメント(0)
全5件 (5件中 1-5件目)
1