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何でもない日常の中にそっと狂気が侵入してきて、次第に家族が崩壊しそうになる話。長編の部類だが家族の危うさ、脆さを描いた「山の中」や「舞姫」などと同じ流れだろう。 中年作家御木麻の介は規則正しい生活を毎日送っている(川端自身とは正反対!)。時間もきっかり、仕事もきっちり。物語は夢話から始まる。それから妻の純潔(処女だったかどうか)の話。これらが後に伏線のように何度も登場する。 娘やよいの恋人啓一は頭がおかしくなって(ノイローゼ?)すぐ自殺したがるし、妻と昔因縁があったらしい男の娘千代子を女中に入れたもののこれも家庭内を引っかきまわすし、娘のようにかわいがった三枝子の縁談話で息子好太郎はなぜ三枝子と結婚しなかったのかと悩んだり。 御木の日常は何の波風も立たずに来たはずだった。しかし過去の因縁が突然(と、御木は感じている)湧き上がって、急に日常が揺れ始める。すると今まで見ていた家族がとても脆いように「見えてくる」。 この小説に出てくる人物はいたって普通の人たちだが、いったん事件が起こるとそれぞれが抱える心の痛みが露になって、御木にはそれが鬱陶しいんじゃないのか。のんびりした日常を楽しむ御木には慌しさが苦手なようだ。家族が崩落してしまうまでにはおそらく至らないと思うし、その前にこの小説は終わってしまう(実は未完成)。実はそう「見ている」御木自身がすでに狂気なのかもしれない。 小説の中でNHKホールにアメリカのオーケストラが来日して、「ハイドンの交響楽にラヴェルの舞曲など4曲」を聴きに行っている。この小説は昭和30年から33年にかけて書かれたものだから、「海外オーケストラ来日公演記録抄」というサイトで調べたところ、昭和31年6月26日にNHKホールでロスアンジェルス・フィルハーモニーがアルフレッド・ウォーレンスタイン指揮で公演を行っていた。曲目は次のとおり。 ハイドン/交響曲第88番 バーバー/弦楽の為のアダージョ ラヴェル/ダフニスとクロエ、第2組曲 グールド/パヴァーヌ ウォーレンスタインは1898年シカゴ出まれ。元は米メジャーオケでチェロ奏者として活動していたが自前のオケを組織して指揮者に転進。1943年~56年までロス・フィルの音楽監督に就任(ちなみに前任者はオットー・クレンペラー、後任者はエドワルド・ヴァン・ベイヌム)。アメリカ人指揮者が自国メジャーオケの音楽監督に就任した、初めてのケースだった。1971年からはジュリアード音楽院の教授も務めた。1983年死去。ダイナミックにオケを鳴らす腕前を持っていた。録音はルービンシュタインの伴奏(RCA)や交響組曲「ポーギーとベス」などがある。 川端はこれらについて小説のなかで「派手ににぎやかなアメリカ風の演奏というのか、曲芸と思えるほどの熟練もあって、高い音のところで、御木はたびたび、つい楽しく笑い出しそうになった。九十人ほどの楽団で効果のいいホオルだから、音量も相当である。」と描いている。随分と派手で陽気な演奏だったのだろう。
2008年02月12日
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この小説は昭和11年に雑誌上で発表された。時代が時代だったためか所々ささくれだったような、刺激的な言葉が突き刺さる。 例えば、「林のなかから、ピストルの音が聞えた。少しずつ間を置いて、四発だった。最後の一発に続いて、男と女の笑い声が聞えた。」 これは星枝の家族が猟をしているところだが、踊りの物語としては唐突な「ピストル」という言葉にどきっとさせられた。 用語も現代のように差別用語、放送禁止用語などというものが無かったせいか、その手の言葉が多く使用されている。「気ちがい」なんてのはこの小説に限らず、川端作品には頻繁に出てくる代表選手だ。 渡欧したものの貧乏で碌な生活もできなかったバレリーナ南条はリョウマチに罹って「びっこ」になるし、「乞食」も米の飯を食うだの、松葉杖をついた南条を「唖(おし)の歌唄い」と星枝は言うし、鈴子の目の前に現れた南条に対し「子供が片輪になったからって、許さない親は」いないと慰め、鈴子は星枝の電話に「びっこよ。ちんばなのよ。」と気の毒がり、星枝の踊りをもう一度みたいと南条が懇願するときも「神仏の姿を拝んで、躄(いざり)が立ったという奇蹟は」と譬えている。 これらの言葉を用いているからと言って、川端はけしからんなどと言っているのではない。これらの言葉を「差別用語」とレッテルを貼って使えなくした事は果たして正しかったのだろうか、ということだ。 差別用語だ放送禁止用語だと言葉が制限(言葉狩り)されたなかで育った今の若者がこの小説を読んで、果たしてどこまで理解できるのか。今後、毒のある言葉も含めて作品を味わい尽くすことができなくなってしまうのではないか。ちょっと怖い気がする。 話は変わるが、20年くらい前だったか「ちびくろサンボ」という絵本が突然(という印象だった)問題になった。黒人への差別だというのだ。トラがヤシの木の周りを回ってバターになり、それをホットケーキにして食べたなんてのは楽しい話だと思うけど。 そしたら今度は、カルピスのマーク(黒人がカルピスを飲んでいるデザインだった)が、だっこちゃん人形(腕につかまる小さい黒人の人形)が無くなった。小さい頃から馴染んでいた私には「なんで?」と思ったものだ。これらをもって黒人を卑下する人があの当時、日本にいたのか。 ここで差別問題を論じるつもりはないが、果たして川端の生きた時代に比べ、現在は差別のない「美しい」世の中になっているのだろうか、と投げかけるに留めたい。
2007年07月04日
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前回、踊り手の心情がわからないのは作者が踊らないから云々と書いたので、これを読んだ方は「あれっ」と思われたかも知れない。川端作品には所謂「踊り子もの」というべきカテゴリがある。有名な「伊豆の踊り子」もそうだし、前回の「舞姫」も、今回の「花のワルツ」、さらにレビューの踊り子たちを描いた「浅草紅団」など。なかには快活に踊る踊り手の高揚感がきちんと描かれているものもある。 前回の「舞姫」は踊り手である必然を感じない物語だったが、今回の「花のワルツ」はバレリーナ、それも踊ることに取り憑かれたバレリーナが登場する。 物語は竹内舞踏研究所の発表会から始まる。チャイコフスキイの「花のワルツ」を踊り終えた二人の花形バレリーナ星枝と鈴子。だが天才肌の星枝は何かが気に入らなく「一生踊らないわ」などと鈴子を困らせながらも、アンコールで再び舞台に立つと、すっと踊りきってしまう。これに鈴子は踊らないと言ってたくせにと逆に怒る。この辺りなんだか少女小説っぽいが、舞台裏を覗いているようなリアル感があるのは川端の筆力なのだろうか。 こうして鈴子と星枝を中心に物語は、渡欧留学していた期待の星南条の帰朝を契機に、踊ること(=芸術)の恐ろしさや孤独、悲しみなどを語っていく。また踊り手の高揚した気分もうまく描写されていて、これを読んで踊りを習いたくなる子がいるんじゃないだろうか。 ただ、リョウマチを患い踊りどころか歩くのさえ不自由になっていた南条が星枝の踊る姿に感動し一緒に踊りだしてしまうシーンは、川端の芸術礼賛とも思われるが、星枝の天才ぶりを表現するためだとしたらちょっとやり過ぎかもしれない。(とノーベル文学賞作家にケチをつけてしまった) さて、天才でありながら気難しくついには踊ることを止めてしまう星枝に、私は亡き指揮者カルロス・クライバー(昭5~平16)を重ねながら読んだ。 カルロスは天才と言われながらも完璧主義なのか気に入らないことがあると平気で本番をキャンセルしてしまう(82年のウィーンフィルとの「テレーズ事件」が有名)、お騒がせな人だった。が、一度振り出すとたちまち会場は彼の魔術にかかってしまい、彼の音楽に酔ってしまう。 それは空を翔るような軽やかなスピード感と、しなやかで力みの無い一筆書きのようなカンタービレ、絶えず沸き起こる生気溢れる演奏だった。レパートリーは極めて限られていたが、一度その魔術にかかると何度でも聴きたくなるのか、彼のチケットは高額で常に売り切れ状態だった。 このように彼は生前からすでに伝説となってしまったのだが、その最良の形はウィーンフィルとの1989年ニューイヤーコンサートだと思う。決してシリアスな作品ではないJ.シュトラウスのワルツやポルカでのしなかやかさ、リズムの軽やかさ、漂うような夢見るような無重力感から一転してリズミックな場面へ移る転換の早さ。これはもはや曲芸に近いと思う。他のどの指揮者からもこんな演奏は聴けないし、ウィーンフィルだってやらないだろう。彼だからこそできたのだ。彼の残した録音はライブでの凄さの何分の一しか伝えていないだろうが、一度は聴いておきたい。 晩年は滅多に人前へ出なくなり、その頃の海賊録音(盗み録り)では生気のない何か空回りな演奏になっていて、正直驚いてしまった。 ところで星枝がなぜ踊りをやめたのかというと、「芸術なんて、私はなんだか恐ろしいわ。私は直ぐ夢中になるの。夢中になって踊ってると、その時はずいぶん楽しいけれど、こんな天を飛ぶみたいないい気持で、いったい自分はどこへ行っちゃうんだろう、どうなっちゃうんだろうと、なんだか不安だわ。夢で空を飛ぶ、あんな気持よ。つかまるものがなんにもなくって、ずんずん飛んで行っちゃう。止そうと思っても、まるで人の体みたいに飛んで行っちゃう。私は自分を失いたくないの。なににだって私は夢中になりたくはないの。」「こんなことをしていたら、なんだか自分がちがったものになって行きそうで、こわいからですわ。踊っていると、つい真剣になっちゃって、そのあとが寂しいのよ。」 晩年のカルロスも同様に「自分を無くすような寂しさ」を感じていたのだろうか。89年のニューイヤーコンサートのDVD。最上の演奏です。 92年にニューイヤー再登場したときのDVD。上の演奏より勢いが無くなった分、エレガントになったとの評あり。カルロスはやっぱりオペラ!最高のR.シュトラウス「ばらの騎士」。70年代の勢いと煌くような美しい音色に酔いませう。
2007年06月27日
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今住んでいるマンションは小高い丘の上にあり近くの雑木林からいつも鳥の声が聞こえる。大抵はカラスが占拠していてガサガサ、がーがーと五月蠅いが、今時分などは雀以外に鶯なども来ている。「鶯など」という言い方しかできないくらい鳥の知識が乏しいのだけれど、声だけで判別するとおそらく5種類ぐらいはいつもいるだろう。 今朝、窓を開けていると一際良い声が部屋に響いた。近くの梢にとまっていたのだろうが、姿は見えなかった。高く澄んだ張りのある声だった。 今までさほど興味はなかったがあれだけ良い声を聞くと、鳥の愛好家たちが集まり自慢の鳥の声を競う「鳴き合わせ会」なるものが存在するのも頷ける。 川端康成の短編に「日雀」というのがある。茫洋とした主人が、愛人との旅先で日雀の名鳥を見つけるも買うことができなかった、という話を素直に妻治子にしゃべってしまう。どうやら物事に頓着しない性格らしい。隠し事ができないのだ。他の日雀はよくないとすぐ放してしまうが、その名鳥が後日手に入ると子供のように喜んで離れない。そんな素直さに治子は、愛人の思い出があるかもしれないその日雀の世話をする。 「名鳥の鳴き声は高く澄んで、切ないほど長くつづき、治子の胸を清く通った。(中略)なにか神の世界から夫の生命に通うものが、一筋に響き渡って来るようであった。治子はひとりでうなずいて涙ぐんだ。」(「日雀」より) 鳥の声に神の世界を聞くのはフランスの作曲家オイヴィエ・メシアン(明40~平4)が有名だ。もちろん音に特殊な能力を持つ音楽家たちは多少の差はあれ何かを感じているには違いないが、メシアンほど積極的に主要なテーマとなっているのは他にない。 例えば「鳥たちの目覚め」(ピアノとオケのための)は「この譜面には鳥の歌声しかない。すべては森できいた完全な本物である」とスコアに書かれているし、そのものずばり「鳥のカタログ」(ピアノのための)という曲もある。そのほか主要作品には必ず出てくる。彼にとって鳥の歌とは「神の作り給うた音楽」つまり天上を象徴するものであり、彼の言葉を借りれば鳥たちは「非物質的歓喜の小さな奉仕者たち」なのだそうだ。 昭和37年来日の折には軽井沢の林の中で鳥たちの声を聞こえるまま採譜したという。後に小澤さんはこう述壊している。 「数日後、東京に帰って来た彼は、採譜した野鳥の歌の譜を私に見せてくれた。それは実に詳細なもので、例えばウグイスの声をただそれだけ記譜してあるのではなく、一斉に嘲る野鳥のコーラスを、まるでオーケストラ・スコアのように、同時に書きとめているのである。UguisuとかHototogisuとか、誰かに教えられたのだろう。鳥の名をローマ字で書き込んださまざまな旋律を辿ってみると、実に正確に鳥の歌が捉えられていて、私はメシアンの注意力、集中力、そして耳の確かさに驚嘆したのだった。」(CD解説より) この譜が「七つの俳諧」(ピアノとオケのための)という作品の6曲目になっていく。 メシアンは非常にユニークな20世紀の作曲家なので、折に触れて書いていこうと思う。文中の「鳥たちの目覚め」「七つの俳諧」を収めた日本人演奏家の記録。小澤さんのコメントはここから取りました。(指揮は故岩城宏之さんです)こちらは「鳥のカタログ」。私は時々BGMにしてます。(メシアン先生ゴメンナサイ)
2007年05月07日
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「舞姫」という題名から何を想像するだろうか。 森鴎外の名作では留学先で出会った舞姫との悲恋であった。それに対し川端のは暗鬱で無力感に満ちた不倫だ。女主人公波子が元バレリイナというだけだ。 この作品で波子はバレエを教えているが、自ら踊らない。踊る描写がないのだ。主人公はバレエ公演を見てはいるが、自ら踊ることによって起こる高揚感とか肉体的快感とかいうものが綺麗に退けられている。川端が踊らないから踊り手の気持ちがわかるはずも無い、と言ってしまえば元も子もない。それを補うのが作家の想像力ではなかったか。どうやらこれはもっと別なところに理由がありそうだ。 物語は波子が夫の出張中に元恋人竹原と会う場面から始まる。彼らに果たして肉体関係があったかどうかはうまくぼかされていてわからない(おそらく無いと思う)。今風に言えば「金持ちの親父と結婚したけどぉ、なんか寂しくてぇ、元彼と会ってるのぉ」。今なら全然平気なちょっとした遊びだが、波子はそれだけで胸がドキドキして倒れそうになったり、夫の顔が見れなかったり、不安に慄いたりする。しまいにゃあ、離婚を決意するに至る。まさに時代なのだろうか。この女主人公には全く感情移入できない。身勝手すぎる。勝手に元彼を呼んでおきながら一人で罪の意識を持ったり。ラストでは離婚の決意に呼応するかのように、家族の離散を暗示するところで終わる。 夫の矢木は美術評論家らしい。波子が竹原と会っているのではと訝るものの、表面上は妻を愛している。ほとんど毎晩妻を求めているらしい。が、竹原が矢木のもとを訪れても、門前払いを食らわす。 この作品ではお互いに感情を持ちつつ、何の衝突も無く(波子は矢木に一歩的に罵られはするが)、未解決のまま、無気力にただ時間が流れていく。 子供たち、娘でやはりバレリイナの品子も留学したい弟高男も、親の不倫劇にそれぞれ不快感を持ちながら、結局何もできないままだ。敗戦を機に全てが虚しくなってしまったのか。 そして登場人物たちが踊らないのも、この虚しさゆえと思われる。 ここには家族の崩壊というテエマがある。夫婦の危機がとても冷ややかな視線で描写されている。そしてそれが現実と化している、現在。恐ろしいことだが、敗戦後の民主主義がもたらす日本の家族の危機を、川端はすでに嗅ぎ取っていたのだろうか。 別にバレリイナでなくてもいいような物語だが、音楽ファンにはちょっとうれしい。 作中、自宅のけいこ場からストラヴィンスキイのバレエ曲「ペトルウシュカ」が鳴るのだ。しかもそれは「ストコウスキイ指揮、ヒラデルヒア・オーケストラの演奏、ビクタアのレコオドであった。」とわざわざ書かれている。(19/Apr,7/Nov/1937録音。現在BMG-BVCC1052としてCDに復刻) 突然ストコフスキーが出てきたのでびっくりした。指揮者の名前が小説に出てくる事自体、珍しい。作曲者のストラビンスキイの名前は出てこなくて。。。 続いて矢木に「ニジンスキイの悲劇」と言わせ、戦争の犠牲者としての波子や品子を暗示させているのだけど。 あと、ベエトオベンのスプリング・ソナタに波子の竹原との思い出を重ねたり、この作品は音楽との関わりが(川端の作品としては)多い。 息子高男の父親への尊敬、愛情の示し方がちょい同性愛っぽくて気持ち悪いけど、幼い頃に両親と死に別れた川端が頭で考えて作った人工的な親子関係なのかなと見ると、かわいそうな気もしてくる。 小澤征爾のペトルーシュカの録音は若い頃(69年)ボストン響を振ったもののみ。ちなみにピアノソロはM・ティルソン・トーマス。
2007年03月18日
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川端康成は大学浪人の頃、初めて読んだ。横浜の自宅から高田馬場の予備校までの通学時間の暇つぶしのはずだった。宮沢賢治を一通り読み終え、その次に川端作品(新潮文庫)を全部読んだ(その前に買わないといけなかったけど)。 あの頃は時間があった。体力もあった。浪人のくせに自由だった。午前だけのコースだったので、午後は東京中を歩き回った。中古レコードと古本屋巡りだ。今でも妙な場所を詳しかったりする。 先日からまた川端を読み返している。あの頃読んだのとは随分感じが違う。若く紅顔の青年はまだ幼かった(笑)。読み返して、その面白さに今頃目覚めた気分だ。 「川のある下町の話」は今なら昼メロに載せてもいいくらいではないか。恋愛物で話の展開が速いからだ。医者の卵で美青年の栗田義三と彼を愛する3人の若い女たちの愛の行方を柱に、彼らに絡む人たちを活き活きと描いている。登場人物は皆明るく、悪人が一人もいない。まるでおとぎ話か牧歌のような清らかさだ。そして皆お互いを愛している。まるで自分の孤独を埋め合わせようとするかのように。 これに音楽を付けるとしたら、ラヴェルの「ダフニスとクロエ」がぴったりかもしれない。いやいや、「ダフクロ」には海賊が出てきてクロエをさらうじゃないいかという人もあろう。が、こいつらも牧神の影を見ただけで慌てて退散してしまう、憎めなさがある。 読者は義三が3人の女性のうち誰を選ぶのか、わくわくしながらも叙情的な筆致に次第に酔っていくだろう。まるでラヴェルの魔術的なオーケストレーションに酔うかのように。 こう紹介するとハッピイエンドの恋愛喜劇を想像すると思う。実は私も筋立てをすっかり忘れていたので、どうなるのか楽しみにしていた。ところが、物語の3/4までの幸福な予感がまるで嘘のような、呆然とする幕切れが最後の最後に待っている。それまでじっと潜んでいた魔物が最後にぬっと現れて、あっという間に登場人物やストオリイの全てをも飲み込んでしまうかのように。 これが川端文学なのだ。そして振り返ってみると、ふさ子という女主人公の異常な眼の力、桃子の天使のような優しさ、民子の男勝りな気丈さがそれぞれに背負っている孤独の影や無力を感じさせる。苦労人の割りに情けなく、優柔不断な主人公の義三もなにか無力感に悩んでいる。そしてそれぞれの孤独や無力が最後の悲劇を呼び込んだとしか思えない。 決して幸福には終わらない愛の行方はひょっとすると川端の「愛への不信」なのかもしれない。そしてこのブラックホールに飲み込まれるような終わり方に、武満徹の「ノヴェンバーステップス」のラストを聞いた気がした。 そう言えば作中、「日本の好もしいかすりの織物をひろげるような」と形容されたヴァイオリン曲があった。義三が桃子に尋ねると「バルトオクよ」と答える。いったい何という曲なのだろうか。ラヴェルのバレエ「ダフニスとクロエ」。小澤征爾=ボストン響(75年)の演奏で。繊細さとダイナミックスの織り成す感覚美の世界をご堪能ください。
2007年03月11日
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