美しき月の夜に

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2006.09.14
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幸子はフルーツトマトをていねいに洗い終わると、まずはビーフシチューを作ろう

と思った。

優美の実家では、キッチンで優美の兄嫁、幸子が鼻歌まじりに、今夜の夕食会の

準備を始めていた。教室の帰りに、いつも行く八百屋へ里奈と寄ると、新鮮な

フルーツトマトが半額で手に入ったのだ。しかも「こんな台風の日に来てくれた

んだから、おまけするよ、お姉さん」と、ちょっと好みの若い店員に言われた。

まさか、里奈と姉妹に見えるわけでもあるまいとは思うが。


「お姉さんだって。一体、あたしのこといくつだと思ってるのかしら」


幸子は、笑みが止まらなかった。そもそも今日は、朝からついていたのだ。

姑の芳江は、今日は友人のお琴の発表会とやらで朝から外出しているし、里奈を

ギリギリの時間に、押し付けていく、義妹の優美は、今日は、めずらしく、かなり

早く来て、里奈を置いていった。いつもは遅刻するのではないかと、幸子が慌てる

のだが、今日は、朝から余裕があった。

そしてその教室では、里奈は一度も愚図ることなく機嫌よく授業を聞き、先生にも

褒められた。そんなこと、初めてだったので、少し恥ずかしかったけど、誇らしい

気持ちにもなり、それはまるで、母親になったような嬉しさだった。





里奈は、カウンター越しに折り紙で、今日教わった、紙風船を織っていた。


「里奈ちゃんね、これ、さっちゃんに、ぷれぜじぇんと。はい」


そう言うと、今、出来たばかりの、ペールピンクの紙風船を幸子に差し出した。


「あらっ。ありがと」

「あ、ママにも、ぷれぜじぇんとするぅ」


幸子がニコニコと紙風船を受け取ると、今度は、紫色の折り紙を選んで、やはり

紙風船を折り始めた。


「ママ、もうすぐ帰ってくるぅ?」

「うーん、そうね。もう少しかなぁ。

 それにしても、こんな嵐の日に、ママ達は

 揃いも揃って、なんでお出掛けなのかしらねぇ」


幸子は、紙風船をエプロンのポケットに仕舞いながら、この家の女達が、とにかく、よく

外出したがることに、半ば呆れつつも、関心していた。

お陰で、姑問題で悩まされることは、普通の同居している主婦に比べれば、多分皆無

に等しい。義母はごく稀に「早く内孫の顔が見たい」というようなことは言うが、悪意が

ある訳ではなく、どちらかと言えば、幸子に言うより、息子であり、幸子の夫の孝之に

対して言っているように感じる。

それもこの一年は、里奈がこうして家に訪れることが多くなり、お陰で、緩和されていた。

姪を預かるということは、幸子とって、いいことだらけで、ちっとも迷惑なんかじゃない。

優美は、多少強引なところはあるものの、世間の小姑のような干渉の仕方は、しないし、

嫁としては、楽な方ではないだろうか。

今日も、ミニスカートにブーツという抜群のセンスで、嬉しそうに仕事に向かう優美を少し

も疎ましいとは、思わなかった。

幸子は牛肉を切りながら、ただ、出掛けて歩く主婦の、気が知れないと思った。


……専業主婦。これ程、恵まれた職業は、他には、ありえない。






「生活の中には、美がある」と幸子は、いつも思う。

洗濯物の干し方ひとつとっても、シャツの肩のラインがハンガーからズレない

ように縫い目に沿って干すことも、ひとつの「美」だ。

洗濯物の色をグラデーションさせて、綺麗に干すことも「美」だ。

玄関のシューズボックスの上は、幸子にとって、ささやかな我が家のディスプレイ

だった。季節ごとに花を飾り、この時期なら、小さなガラスのオブジェをイルカやら

カニやらで、夏らしくレイアウトを考えながら演出することも「美」。

お料理の盛り付けなど、キャンパスに、絵を描く画家になった気分だ。

すべては「生活の中の美」なのだ。

「生活に中にある美」を追求することこそ、専業主婦としての生きがいだった。

出来れば、40歳までに一人ぐらい子供は欲しいが、まだ5年もあるし一応、病院

で検査してもらい、特に問題がないことはわかっているから、そう慌てることも無い。

幸子は、今この時間も、専業主婦であることを楽しんでいた。


「あらしなのにママ、お仕事?」


カウンター越しに、里奈が訪ねる。カウンターには、色とりどりの紙風船が、散

らばっていた。


「そうね。お外は、台風なのに大変よね」

「たいふうって、なあに?」


幸子は、手を洗って、牛肉に塩コショウをすると、


「たくさん雨が降ったり、強い風が吹いたりするの。

 さっき、帰ってくる時も、凄かったでしょう」


と言って、カウンターに歩み寄り、里奈の横に座ると、さっき貰ったペールピンク

の紙風船を、ポケットから出して、ふぅっと膨らませて微笑んだ。


「里奈がね、お教室からね、帰るときもね、雨いっぱい降ってたよぉ。

 ママ濡れちゃう?」

「ママは、お車で帰ってくるから、濡れないわ」

「お車、かじぇひいちゃう?」

「お車は風邪ひかないわ。大丈夫よ」


幸子がそう言って笑うと、里奈はテラスの方へ行き、背伸びして窓から外を伺って

いる。やっぱり、子供には「母親なんだな」と、幸子は思った。そしてこんなに、

思いやりがある子を持つ、優美を、始めて羨ましいと思った。


……最初の子は、女の子がいいわね。


幸子は、必死に背伸びして外を伺う里奈を尻目に、そろそろ本気で子作りを考える

時期なのかもしれないと思った。でも今は、お食事会の支度が優先だ。

幸子はキッチンに戻ると、圧力鍋に火を点けキッチンタイマーの時間を20分に指定

し、玉ねぎの皮を剥き始めた。






幸子は、牛肉を圧力鍋で火に掛けながら、玉ねぎをスライスするとフライパンで

炒めていた。

台風のせいか、外を走る救急車の音が歪んで聞こえる。でも、とにかく木箆を動

かすことが、今の幸子に与えられた使命だった。

玉ねぎは、うっかりすると、すぐ焦げ付いてしまうから、気を抜けない。

ここで、いかに玉ねぎを上手に炒めるかが、ビーフシチューを美味しく作れるか、

否かの分かれ目だった。

圧力鍋の錘がくるくると回転して、蒸気がシューツと勢いよく出たので、もう牛肉

の加圧は十分だった。右手は忙しく動かしたまま、圧力鍋が掛かっている方の

火を、左手で止めた。これで、10分程蒸らせば、お肉は柔らかく仕上がるはずだ。

キッチンタイマーの音が、けたたましく鳴り響いた。タイマーはすぐ止まる。でも

今は、手も目も、離すことが出来ない。というか、離したくない。


……もうちょっとで飴色になる。


10分もそうしていると、りっぱな飴色の玉ねぎになった。ここで、いため過ぎる

と、食感が無くなってしまう。


……今!


幸子はこのタイミングを待ち、フライパンの火を止めた。


……ここまで出来ればあとは、他の野菜と一緒に煮込むだけ。


幸子は、ようやく玉ねぎの集中から解き放たれると、喉の渇きを感じた。


「里奈ちゃん、オレンジジュース飲む?」


冷蔵庫からオレンジジュースを取り出し、幸子が呼びかけた。


「里奈ちゃん?」


食器棚からコップを二つ出して、リビングの方を見渡すが返事がない。


「里奈ちゃん?お手洗い?」


幸子はトイレを覗いてみたが、里奈はいない。


「里奈ちゃん、お2階なの?」


2階の夫婦の寝室や和室にも、見当たらない。突き当たりにある、義母の部屋を、

覗くが、やはり気配がない。幸子は、さすがに嫌な予感がしてきた。


「……」


階段を駆け下り、玄関に行くと、里奈の赤い長靴も、赤い傘もない。


「嘘でしょう」


急いでキッチンへ戻り、ガスコンロを確認したが、火に掛けているものなど無い

ことに気付いた。悲しいかな主婦の性だ。


「あん、もう、こんな時に、何やってのよ」


軽い自己嫌悪に陥りながら、玄関の方へ走ると、チャイムがなった。

幸子は溜息をつくと、里奈が帰ってきたんだと思い、すぐにドアを開けた。


「もお、里奈ちゃんひとりでお外に……」


ドアの向こうにいるのは里奈と信じ、視線を落として声を掛けると、びしょ

濡れの男性の太腿だった。


……里奈ちゃんに、チャイムが届くわけないじゃない。


見上げると、制服に透明のレインコートを着た、警官が立っていた。


「お宅に "たからな りな" ちゃんていう3歳位の、

 お嬢さんいらっしゃいますか」

「りなちゃんに、何かあったんですか?」

「お宅は 佐々木さんですよね」

「家は、”たからな”ではなく、佐々木です。でも”宝田里奈”なら

 預かってますけど、今、見当たらなくて……」


幸子は、こんな状況で、そんなことを勝手に説明している、自分の口が

おかしいのではないかと、頭の隅で思った。それどころじゃない。


「だから、何があったんですか?」

「ああ、”たからな”じゃなくて、”たからだ”さんでしたか。

 実は、20分ぐらい前にたまたま事故を目撃した通行人から、通報が

 ありましてね。いや、女の子がすぐそこの公園のジャングルジムから

 滑り落ちたんですよ……」

「……」

「ああ、良かった。すぐにわかって。傘に名前が書いてあったんですが、

 字が消えかかってるし、”たから”なんて付く苗字のお宅、この辺に

 ありませんからね。こうして、ご近所を片っ端から、聞いて歩いてい

 たんですよ」


「良かった」訳ない。幸子は、一瞬眩暈がした。里奈が、頭から血を流し

救急車で運ばれたという。


……今日は、ついているはずだったのに。


圧力鍋の蒸気や、キッチンタイマーのベル、おまけに台風の騒々しさで、

里奈が出て行ったことに、迂闊にも気付かなかったのだ。


……いいえ。そうじゃない。玉ねぎよ。

「さっきの救急車……」


幸子は、激しい自己嫌悪に両手で顔を覆うと、その場にしゃがみ込んでしまった。





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Last updated  2006.09.14 22:11:03
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