宗教の側からみた現代哲学の問題点は、自身と同じように相手が世界を認識しているとは限らない、相手に意識があるかどうかも分からない、経験は極めて個人的なことであるとしながらも、一方では魂、霊などの存在を知覚する者に対して、自身の経験を基盤とした、一般的事実のようなものを持ち出して、彼らはそうした概念を生み出しているに過ぎないとか、精神疾患の現れであるといった結論に到達してしまいがちなところです。
宗教的立場として言わせてもらうならば、「私」が「脳」であるとした場合、そこには、「私」と「脳」の二つのものが存在することになります。そこに展開される世界は、「私が脳であり、脳が私である」という、いつまで経っても一つになれない、「私ではない、私というようなもの」が存在する世界になります。常に私は、「脳」になったり、「私」になったり変化している訳です。
しかし、宗教的立場では、概ね「私」こそが本当の私であり、「脳」は本当の私ではないという視点に立っています。つまり、第六感的知覚というものを我々の感覚の一つとしてとらえ、その感覚に従って「魂としての私」を如実なものとして実感しているがために、「脳」でない「私」が私であるとしているのです。
この第六感的知覚は、必ずしも、瞑想や祈りをしている時のみに働くものではありません。たとえば、我々が何かに涙を流すほどにとても感動した場合、心が熱くなり、全身にエネルギーが満ちた感覚を味わい、「肉体ではないエネルギーのようなもの」を感じることがありますが、これが魂と言われているものそのものなのです。頭で知ろうとしても魂は分からず、心を澄まして感じなければ魂というものは掴むことができないのです。
恐らくこの問題は、学問の世界において、極めて解明が難しい研究課題として、今後もずっと残っていくことになるでしょう。
追記
「脳がないのになぜ物事を考えることができるのか」といった次元の話はあまりにもお粗末です。例えば、脳死状態の人が何も考えていないとどうして分かるでしょうか。自分が脳死状態になったとしたら「自分は何も考えなくなる」、それがどうして分かるでしょうか。単に何となくイメージをしているだけではないでしょうか。これこそ哲学的訓練が必要です。
脳は、魂と肉体を特殊な形で結ぶ器官であり、魂に様々な感情と制限を与え、魂を理知的にしている器官です。脳があるから人間は理知的に物事を考えられるようになる。しかし、思考力そのものは、魂に始めから備わっているものなのです。
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