ダスカロスの本と、飯田史彦先生の本を読んで気づいたことですが、我々はあの世に帰ると、すべての存在とのつながりを自覚するようです。相手の痛みは、自分の痛みとしても感じられ、人の苦しみも、自分の苦しみとして感じられるのでしょう。あらゆる存在の痛みを自分の痛みとして感じる、これはイエスの体験した自覚そのものと同じでしょう。人の罪(苦しみ)が自分の苦しみとしても感じる、これがダスカロスによる我々はキリストでもあるという意味なのでしょう。
カルマという概念がありますが、これも、この世の感覚を通した表現かもしれません。誰かが間違いを犯したとしても、決して一人で間違いを犯すということは考えられません。子どもの犯罪は親の責任でもあるし、親の責任は、さらにその親の責任や、助けてあげられなかった周りの責任でもあります。孤立した中において罪が生まれるというよりも、全体の関連の中で、歪みのようなものが生まれ、そこに罪が生じるとみた方が良いでしょう。この意味では、人の犯した罪をその人個人のものとして断罪することは出来ないし、自分の罪も個人的なものとして背負い込み、他者から孤立し孤独の道を歩むべきではないでしょう(孤独の心は結局また次なる過ちを生み出す結果となることがあります)。「私」とか「あなた」という概念を超えて「ワンネス」という概念をもつことが望ましいのではないでしょうか。この世においてこのような感覚をもつことは難しいかも知れません。しかし、いずれあの世でこのような感覚を我々はもつようになるかも知れません。
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