おしゃれ手紙

2018.03.29
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テーマ: 百人一首(49)
カテゴリ: 詩歌・名文
瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ  崇徳院
 浅瀬の流れが速いので、その流れが岩で激しく裂かれるが
下流ではかならずまた一緒になれる
そのように、 われわれも将来には再び会おうと思うよ。

 先日、孫と一緒にご飯を食べた。
孫は、今年4月、中学3年になる。
彼の友人に、鉄道オタクがいて、同じく鉄道オタクの孫と
入学以来、仲良くしていた。

その友人が、今の大阪市内の私立中学校を辞めて、地元の学校に通うことになったことを、先日聞いた。

好物の餃子を食べながら、崇徳院の歌を引き合いに、また会えるからと私は言った。
「いい歌やな・・・。」と二人で納得。
崇徳院作のこの歌は第77番目に出てくるもので、
代表的な恋歌ではあるが、崇徳院が新院になった頃の作で、
「末にあわんとぞおもう」と中央政界に返り咲きたいとの思いを詠んだとも言われています。
■「せか」は四段活用動詞「せく」の未然形、せき止めるの意。
崇徳天皇ってどんな人?
崇徳天皇(1119~1164)は平安後期の第75代天皇で、名は顕仁(アキヒト)。鳥羽天皇の第1皇子。
が、本当の父は鳥羽天皇の祖父、白河天皇だったと言われる。
その為鳥羽天皇との仲が不和であった。
18年間在位(在位1123~1141)したが、永治元年(1141)鳥羽天皇に退位を迫られ、弱冠3才の近衛天皇に譲った。
保元元年(1156)鳥羽上皇が没すると、後白河天皇と崇徳院の対立が表面化し保元の乱が起こり敗北、讃岐へ流された。
同地で没する。
西行と崇徳院
この時代の朝廷の院政権力の流れは、次のとおり。

白河(法皇)→堀河(白河の子)→鳥羽(堀河の子)→崇徳(実は白河の子)→近衛(鳥羽の子)→後白河(鳥羽の子)。
天皇が退位すると「上皇」になり、天皇の地位には自分の子をつけて権勢をふるい、さらに上皇が出家して「法皇」となる。
「天皇→上皇→法皇」の権力循環サイクル、これが院政である。

西行は、鳥羽上皇の北面だから鳥羽上皇にとは直接の主従関係にあったが、出家後は、むしろ 崇徳天皇や待賢門院璋子らに同情を寄せている
鳥羽上皇の崇徳天皇・璋子への嫌がらせや徹底して排除していこうとするやり方に、嫌悪を感じたからだろう。
鳥羽上皇と取り巻きの摂関家のこのような陰湿な権力運用が、西行出家の原因のひとつであったことは間違いないだろう。

落語・崇徳院

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Last updated  2018.03.29 15:03:14
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