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昨日お墓参りに行った帰りに、買い物であるスーパーに立ち寄って、音楽のCDをみていた。クラシックなんかのお買い得はないかと探してみたら、同じ場所に演歌とかいろいろあったが、○○奴という名前の歌手。名前だけでも相当古そう。いったいどんな歌なんだと思わず手にとってみたら「ああそれなのに」というタイトルだった。芸者スタイルで白黒の写真、戦後すぐくらいか。うちは昔レコード屋をしていたから、この歌を母歌っていたのを思い出した。「空にゃ今日もアドバルーン、さぞかし会社じゃいまごろはお忙しいと思うたに。ああ。それなのにそれなのにねえ。怒るのは怒るのはあったり前でしょう。」言葉としては覚えてないけど、歌うとすらすら出てくる。はあ、この人が歌ってたんだ。今日はまだ電車がすいていて、余裕で座れたのはうれしい。
2010年08月16日
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少し前に母の親友だった人がなくなったと、お寺さんの奥さんからメールがきた。母とは御近所で育ち、学校も同じ勤め先も同じということで、親しく付き合っていた。お寺さんの毎月の法要にも、どちらも参加して会食のお手伝いも一緒にしてという仲だった。私も小さい時にお寺さんに連れられていくと可愛がってもらった。私が勤め出したときも、家事は母がしてくれるが万一何かの事情でお寺さんに行けないときは、私が会社を休んででもお参りだけはしてくれというのが、母との約束だったので、その人とはよく顔を合わせた。正月の初もうでの時の、受付などは古い檀家が手伝っていて、その人もその役をしていたが、年をとってリウマチが出てきてしんどくなって見かねて私がこの間手伝いをしてきた。その後再三入退院を繰り返していて、さみしがり屋なのか私入院しているからと知り合いに電話をかけまくるので、結構閉口されていたと思う。その代わり、人が入院しているときけば、とにかくかけつけるというタイプの人だった。ずっと一人で暮らしていたので、さみしかったのだと思う。母が入院した時は、同じ病院に入院してこちらは腸の手術で身動きできず、向こうは大たい骨骨折で身動きできず、気に掛けながらも、お互いが直接あうことのできないまま、母は死んでしまった。あれだけ親しかったけれども、その人も母の葬式には顔を出せないままで、向こうは入院が長引くということで転院し、この間、何回かはお見舞いはいったけれど、2年ぐらい入院していたはずだ。退院すれば老人ホームにいく予約はしていると言っていたが、肝硬変が肝臓がんになったため退院できなかったのだろう。とりあえず、うろ覚えのその人の親戚の家を探して、今日お供えをもっていってきた。その人の出入りしていたお寺にも正式の連絡はなくて、ひっそりとお葬式をしたらしい。向こうで母と会えればいいと私は思っている。
2010年08月08日
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朝からすごい暑さとなって、ゆっくり寝てられないから、布団を干して、大物洗いに専念。洗濯機3杯くらいを一気に片付けた。風と日差しの強さで気持ちよく洗濯ものが乾く。ある人から、お供え物のお下がりだといって、大きな鏡モチをいただいたのだが、包みを開けてみると、カビが生えていた。悪気はないのはわかっているが、やはり中身を点検するべきではないかなと思う。母いっていた「夏の餅は足がはやい」という言葉を思い出した。こちらでは、神仏にお供え物として餅を供えることが多いのだが、暑い時にもちをつくと、中の水分が蒸発しないで腐ったりカビが生えたりするので気をつけろということだったと思う。父の初盆の時にもおもちは供えたが、当日に冷凍庫に入れるなりした。いただいたのが、4日後でたぶん常温でおいていたのだろうなと思う。申し訳ないが、捨てるしかない。明日はお寺さんがくるから、準備して早く寝よう。
2010年07月17日
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今日はしっかりと寝て、掃除と片づけをきっちりとこなしてすることはできたし、まったり小説を読んで、休みらしい一日を過ごせてよかった。さてさて、明日は呉服屋さんが、先日選んだ反物を持ってきてくれる。それにあう帯揚げや帯締めを選んでみよう。先ほど、和ダンスを調べていたら、しつけをとっていない、紫の無地の着物が出てきた。たぶん母が、だいぶ前に私の喪服を作るときに、喪服だけではちょっといやだというので自分用にとあつらえたものだろうと思い出した。結局母はこれを着ることなく、逝ってしまったのだが。なつかしい思い出だ。
2010年03月13日
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今日はとにかく寝るぞーっと9時半まで寝ていた。それから、やおら朝食を食べ。資源ごみの整理から生協の申し込みをして、朝が過ぎてしまった。昼からはアイロンかけて。後は今日来られるはずのお客さんのために準備をしてから、1時間だけ昼寝をしようと横になる。2時には起きた。去年うちうちで母の葬儀をしたので、今年の年賀状で母の死をしってくれて、何度か電話もいただいた。私は、その方が20代くらいのときから知っているが、そのときは私は小学生になっていたかどうか・・・その後も母存命中は年に一度くらいは母を訪ねてきていたけど、私は仕事があるので直接お会いしたことはほとんどない。色のしろい丸顔の人だったということは覚えている。今日は何十年ぶりに直接会った。また、母の入院からなくなるまでの話をひととおりしたら、色々思い出すことがあった。
2009年11月21日
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朝は、今日も早めに起きて、一応食事をして、お供えもお盆だからまじめにする。いろいろ準備をして、お寺に向かう。法要に説教、読経とおとなしく正座してきいていて、お参りもして、食事をいただいて帰る。正座をしてもしびれはしないが、ひざの関節がいたくなる。その後、お墓の花を替えて家に帰る。11時に出て、帰ったのは2時か。その後、初盆のお供えを届けてくれた人に、お下がりを配りにいく、母の知り合いだった人は住所があいまいなので、ナビだよりという感じ。それも、当人は1年ぐらい入院生活をしておられるので、その親戚の人のおうちに預けにいく。ついでに、その人の入院しておられる病院までお見舞いにいった。ちょうど母と同じ病院に入院していて、病院内ではあえずじまいとなってしまい。その人はリハビリということで、別の病院に転院してしまっている。小学生くらいからのつきあいで、60年以上になるとその人は言っておられた。これで、すべての任務を果たしたので、今日はゆっくり 眠ることにしよう。
2009年08月15日
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7月に骨おさめをする予定なので、その前にと1周忌を2ヶ月早くすることにした。ほんとうちうちということで、それでも一応心のこもったものしはしたつもり。しかし、時間はあまりにも早く過ぎてしまう。葬儀とか、その後始末とか、仕事とかいろんなことをこなすだけで、ここまできたという感じ。その後でカットにいってきて、頭は軽くなった。とにかく自分で判断して生きていかねばならないというしんどい面と自分の判断が自由にできるという面とがある。もちろん私は母には感謝している、色々助けてもらった母があったから、仕事も頑張れた。しかし、一部の人言うように、よく辛抱したという面もあるのは事実。同じ年齢の人よりは、考えが古いのは多分母の考えを最優先してきたからだろうとも思う。
2009年06月20日
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今日はさわやかな一日というところ仕事の予定はあったが、部署の人の愚痴を2人分聞いていたら、あんまり仕事が進まなかった。それぞれに非常に難しい仕事をしている人たちなので、いつも潰れないかとかげながら心配はしている。一人はクレームの一次処理をしている人で、気丈に頑張ってくれているが、経験が浅いのでやはり疲れるだろうと私は思う。もう一人は他の支店から今年来た人で、その人も仕事には定評があるのだが、こちらのやり方は、相当甘いのでそれをきちんとしようとして、古参の人の抵抗にあっているようだ。確かに私も古参の人にはてこずっている。あきれた習慣がいろいろあるし・・・抵抗勢力とでもいうべきか。昼からは、手続き関係を頑張って3箇所まわったが、最初が大変時間がかかり、後は簡単だったのだが、時間切れというところで、最後の仕上げがまだ済んでいない。もう一度時間をとる必要がある。まだまだ母のことでは解決していないことがあり、それを進めようとしては、疲労感に襲われる。会社や組織という営業関係の手続きは時間がかかっても、ビジネスライクに完了はするのだけれど、人間関係がからんでくるものはなあという感じ。
2009年05月14日
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朝から寒いし、雨は降るという悪条件で、法事にいってきました。それでもまあ、一段落したといえるかなという感じです。何もしないで、親戚と一緒に拝んでいるだけで、あとは場所を代えて懐石料理にいってきただけなのに、大分疲れて、後はなにもしたくないという状態です。明日は、朝から頑張って掃除に片付けをすることにしよう。帰ってからは、推理小説とDVDだけはみたわたし。ははは、こういうことならできるんだけど(笑)うちの母は最期まで、意識というか思考はしっかりしていたが、早くなくなった。今日いったところの人は、長く寝付いて最期は意識水準が低下していたけど、その代わり素直なおばあさんで亡くなった。お嫁さんがいっていたけど、以前のしっかりしていた人だったら、いろいろ軋轢とかあったと思うが、お嫁さんを頼りにして片時も離さないくらいだったから逆にいやな思いは消えてしまったのでこれはこれでよかったと思うと。でも、実の子どもたちはそういう状態は受け入れがたい部分があったように思うとも。それぞれ立場は違うが、それぞれにふさわしい形で亡くなったのだろうと私は思う。
2009年04月25日
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今日は、昨日が早朝出勤だったりしたためか、眠くて10時まで寝てました。それでも昼からまだ眠くて・・・DVDで、「容疑者室井慎次」をみてました。まあ面白かったかな。しかし、督促をかけたあるひとからの電話。数年前に母がどうなっているのか、聞いたところ、本来は返すべき時期ではあるが、事情があって予定の金額の半分くらいしか溜まってないと言う状況であった。そうとう母も注意して、今後はちゃんとするということであった(私はかかわりあいになりたくないから、あまり話には入ってはいなかったのだが・・・)それがなに?「いろいろあって、溜まったお金を使い込んでしまい。現在2~3万しかない。」それって、母を馬鹿しているということではないのか。母が死んでからお金を使ったのではないようだから、母が注意したにもかかわらず、結局生活態度をあらためなかったということではないのだろうか・・・私が許せないのは、そこなんだわ。
2009年01月17日
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喪中の葉書きがついたのか、母の知り合いの方や私の知り合いから、ぼちぼちと電話や手紙がやってくる。今日も3人くらいの人と電話でお話をした。話していると、母と私は幸せな別れ方ができたのだと、いまさらながら思う。もっと生きてほしかったけど、同じ別れならこれでよかったのだと思う。
2008年11月24日
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朝からはしっかりと休んで、またもや部屋の整理。ともかくダイレクトメールなんかがやたら多いし、通販のカタログも結構ある。それを適当に処分する。通販とかは時々はみつけものがあるから、一応は目を通す。それから、ハンカチにアイロンをかける。これは一週間まとめての作業です。午前中には一応きれいにしたから、昼からは紅葉狩りの写真をアップしてみた。3時からは、母のタンスと押入れを開けて、衣類の整理だ。古いものとか普段着は前にすてたけど、まだ手をつけてない部分で、きれいだけど普段着は全部捨てた。残念ながら私にはまったくサイズが合わない。ウエストは10センチ以上違う。比較的新しくて、保存の良いものを残した。母は、だんだん太ってきていたから、サイズがかわって、相当いろんなものがある。残ったものについては、親戚とか知り合いに思い出として持っていてもらおうかと想っている。半分捨てた現在でも、ゴミ袋5つ出た。残ったものが机に山盛りだわ。しかし、疲れたのでこれにて作業中止。
2008年11月08日
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今日は連休の最終日なので、思い切り寝た、で9時半。また、珈琲を入れる。留守電に、お寺からの電話が入っているが、無視。昼からまた電話をするとのこと。下手に電話をして、いまからいきますとかいわれたら困るので(笑)しかし、ここでピッチを上げて掃除をする。二階の気になっている部分もきれいにして、昼前にはすっきりさせた。お昼ご飯も片付けすべてがスタンバイになったので、お寺に電話をする。母の記念にと、お寺の信者の控え室にクーラーをつけさせてもらうことにしていたが、今日工事が完了したらしい。母が頑張って参加していたし、いろんな方と交流していたという記念に、またそういう人たちに母のことを思い出していただけるように。別に記念碑やモニュメントと作るような大層な人間でもない、人の役に立つことで思い出してもらう、いかにも母にふさわしいと私は思う。
2008年11月03日
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今日は久しぶりにゆっくりしようと、9時半まで眠った。もっと眠ろうとしたけど、虫の知らせというかとりあえず起きた。新しい珈琲豆の袋を開いて珈琲を入れる、なんというかすっぱくなくて苦味の深いきれのある味。それから、後片付けをしていたら、親戚がやってくるというので慌てて部屋を片づける。その前に町会へ母の供養としていくらか寄付したが、それが最近掲示されたのか、お悔やみきてくれた人がいた。さらにしばらくして、お二人が花をもって訪ねてきてくれた。母がなくなったころには、その人は避暑に出ておられてお留守だったので、連絡できないままになってしまった町内の母の友達だった。その後に親戚がちょとした荷物を持ってきてくれた。そうこうして、結構忙しい朝だったけど、昼からは部屋の片付けをして、捨てるべきものは捨て、すっきりさせた。夕方にはいつものお店に頼んでいた黒のスーツを取りに行く。明日関係先のお葬式があるから、(そういうのを予測していたわけではないけど)これを着ていこう。
2008年11月01日
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また、俳句を出すという時期がきたけれど、今回はなかなかそういう気分にはならない。母のことを俳句にしてみたいと思うのだが、母はどんな場所が好きだったのだろうか・・・生前、母は水は嫌いだといっていた。母はかなづちだったし、若いときに大手術をしており手術の後が大きな傷になっていたため、海はあんまり好きではなかったし海水浴というイメージではない。川とか湖はなんだか引き込まれそうになるのでいやだと言っていた。温泉はまあ好きだったかな。山の温泉とかは・・・病弱な祖母がいたために、私が物心ついてから両親とハイキングとか山登りとかにいったという記憶もあまりない。デパートに買い物とかはいったことはあるが、別に母が好きでいっているということではなかったと思う。家が一番落ち着くということで、出不精といえばいえたかもしれない。若いときは、映画や演劇などを良く見にいったらしかったけど、うちが知っている母は私のために子ども向けの映画に付き添っていく姿。演劇も特に誰のフアンということもなかったようだ。誘われたら行くという程度だったと思う。友達と出かけるのは、やはり山の景色の良いところとかのようだったから、母の好きな場所は山だったのかしら。
2008年10月14日
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母はきちんとした人だったけど、今洗面所と台所を点検したら、ハンドソープが6個、食器洗いの洗剤が10個、衣類の洗剤でいつのか分からないのが8個、柔軟剤が8個、おしゃれ着洗いの洗剤が3個歯磨きが5個。すまいの洗剤が6個あった。いったいなんで、こんなにあるのかわからない。中には多分、生協で次々に注文していったと思われるものがある。ぱっと見て、これ良さそうと思うと思わず買ってしまったという感じか。食器洗いの洗剤は多分、銀行とか色々の景品だったと思われる。普通の洗剤の中では○○(百貨店名)特選というのがあるが、このデパートが随分前に閉店になったはずだ。これは倉庫から出てきたが、多分そこに存在することすら忘れられていたはずだ。これで、どのくらいの間生活できるか・・・まったく買わずに半年はやっていけそうだ。
2008年09月24日
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以前に話た母の親友だった人が入院している病院にいってきた。いろいろ考えて、通常のお見舞いのほかに、母が使っていたりきていたりするものの中で、その人にも使ってもらえそうなものを、数点選んでいった。彼女も、その病院を出たら、どこか老人ホームに入るとか聞いた。一人暮らしだし、やむをえないかもしれない。私も母と親しくしていたことは充分承知しているし、母に代わってのあいさつという事で、誠意はつくしたつもりだ。帰りがけから、すごい雨が降って来て、家についてしばらくしたら、停電するぐらい雷もひどかった。こうして、いろいろバタバタしながら、時間が過ぎていくのだろうかとふと思う。母とにかく家をきちんと整理しておく人だったから、母が満足できるような状態を維持しようと思えば、1日の半分は多分整理におわれることだろう。しかし、いまのところは週に一度、土日の空いた時間に徹底的にきちんとするという程度のことしかできない。それに、母と私とはおそらく感覚が違っていたのか、私がきれいと思っていても、絶対満足しなかったわ。片付いているというのはこういうことなのだと見本を見せてもらったが、確かに違う。うちの場合は、汚くはないという程度か(笑)
2008年09月21日
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今日は、普通なら母がお参りにお寺に行く日だった。それで、一応お寺に、こういう状況でも行ってもかまわないかということを確認したうえで、大丈夫とのことだったのでお寺にいくことにした。お寺にいって、婦人会の炊事当番の人にまずあいさつをする。母はずっと、この炊事の中心的役割を担っていた。「お母さんがいなくなったので、わたしらどうしたら良いかほんとに大変やわ。」と言っていた。法要の方はひたすらおとなしく座っているだけ。そのあとの、会食で私の前に座った、高齢者の女性が「私は、ここに参っていた●●の姉だけれど、●●が死んでからずっと代わりに参っています。」と話かけられたので「●●あき子さんでしたよね。」と返しました。「●●のことを憶えててくださってるんですね。(その人は多分5年くらい前になくなっているはず。)」とはらはらと涙を流された。確かにひまなときは母の付き合いをしていたから、その人のことは少しだけど憶えている。その人が名乗られたので、私も名前を名乗ったら、横にいる人が、「あの方の娘さんですか、お母さんはどうされたの。」というので母はなくなったとこたえると泣いておられた。「私は仕事があるので、滅多にここにはこないけれど、お母さんとはよく話しをした。」と言っていた。
2008年09月15日
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母の親友で、学校もしばらく勤めていた職場も同じで、家も近所だった人がいる。その人は数年前から体調を壊して、入退院を繰り返している。一人暮らしなので、寂しいのか入院したら必ず、電話してきていた。つまりはお見舞いに来て欲しいというメッセージだったと思う。それで、母は病院(母の入院した病院と同じ)の近くにいくことがあれば、必ずお見舞いにいっていた。母が入院していた時もその人は同じ病院に入院していたのだが、退院できるというころになって、病院で足を骨折して動けなくなっていた。その時点では、母がそれほど悪いとは思えず、なんで見舞いにこないのだとい思っていたようだ。お互いに同じ病院にいながら身動きできず。私も手をはなせず、お互いに知り合いを介して様子を確認しあっていた。その人は、骨折自体は良くなったのだが、車椅子をつかう状態で、親戚の家に引き取られることになって、母と面会できないまま退院してしまった。その後、母が亡くなってしまったとき、その人は介護療養型の病院に転院したみたいで、退院すれば特別養護老人ホームへ行くことになっているらしかった。親戚の人には母のことを連絡したけれど、少し精神状態も悪かったということで、母の死については本人には知らされなかった。しかし、いつまでも黙っているわけにはいかないだろう、地元の人にその人の状態を確認してもらって、いつかは私がその人に、悲しいメッセージを伝えにかねばならない。
2008年09月14日
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いろいろ検討して、今日の夕方に法事をすることになった。仕事があるから、休日しかできないし、まあ夕方だと朝ゆっくり眠れるし、お供えとかの買い物も慌てずにできるし、多分これが正解なんだろうと思う。朝から、ショッピングモールへ出かけて、親戚の詳しい人から聞いた範囲でお供えものを買い集める。クリーニングに出していた喪服が帰ってきた。その時、近くの薬局の娘さんが、硫化水素自殺をして、それに巻き込まれて、家族の人もなくなったという悲しい話を聞いた。こちらはバタバタしていてわからなかったけれど・・・・ご本人もつらかった事情があるのだろうけれど、残された関係者も相当なダメージが残ると思う。言葉ではいえない悲しい気持ちだ。私の場合は、つらいこととか、悲しみは当然人並みに感じるのだけれど、自殺したいと思ったことはあんまりない。そういえば、父がなくなったとき、葬儀の後ずっと母が泣いているのは見たことがなかったけれど、多分法事とかをちゃんとしないといけないという、気の張りで泣く気分じゃなかったのだろうなと、今わかった。
2008年09月13日
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土曜日は一階をきれいにして病院の請求書がきたから、病院まで精算にいった。昼からは、母の入院で長い間お見舞いにいけなかった親戚のおばあさん(90歳)のところにいってきた。やはり、少し認知症の気があるかもしれないが、それでも私の母がなくなったことはわかっていてくれて、「私よりずいぶん若いのに先にいってしまって・・・」と泣いていた。でも、母はこの4月にお見舞いにいっていたのだが、そのことは忘れてしまっているらしかった。日曜日は、多少はのんびりしながら2階を片づけて、誰がきても大丈夫というくらいにした。今日はゆっくりしよと思っていたが、戸籍に詳しい知り合いが仕事を休めるということなので、名義変更に必要と思われる公的な書類を何箇所かの役所にとりに行った。母の戸籍をさかのぼってあつめながら、母の結婚とか実家とかいろいろの歴史を垣間見たような気がした。それから、関係先の一部をまわり、1箇所はすべて手続きが完了した。しかし、現住地の役所は死亡届けをだしたら、線香がもらえる。また農協にも入っているがそこからも線香がきた、それやこれやで、線香が2年分くらいたまった。
2008年09月08日
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これから、いろんな名義の変更とかがあるのは、父の葬儀の時に感じていたので、3日から4日にかけて、関係先と思われるところには電話で連絡した。話がはやかったのは生協さん。電話した翌日には係の人がきてくれて、母の脱退手続きと私の新規加入が終了した。特に確認もなかったが、同じ家に住んでいるわけだし、まさか死んでない者を死んでるというメリットもないからだろうか。携帯電話のほうも解約ということで、これも通常の解約もあるわけだから、特に死亡の証明というものはいらなかった。次に国民保険で葬祭料とかがでるということで、保険証を返納にいった。事前にネットで申請書をダウンロードして書き込み、葬儀の領収書を提示すれば、同一世帯だから振り込んでくれる。(うちは社会保険だが年金収入の関係で母は国保です)以上の3件はこれで手続きが完了した。それから、社会保険事務所まで出かけ(これが結構遠い)渋滞にあって、ほんとぎりぎりの状態で飛び込んだ。それで、年金ストップの手続きと未支給年金の請求手続きをする。これには、戸籍謄本とかいるようで、再度来所しないといけないようだが、一緒にいってくれた人のアドバイスで、申請書だけ仮受付をしてもらい、謄本とかは郵送するということで話がついた。まだまだしないといけないことがあるけど、まあ少しでも前進したとしておこう。これが昨日までの経過です。
2008年09月07日
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2日に葬儀が終わり、3日からは遺品の整理にかかった。父の時も、親戚の人の進言で早い段階でかかったが、それは結果的には正解だった。来週あたりから、毎週のように法事が入るし、それほどまとまっての休暇はとれないとなると今のうちにしておいたら後が楽だということだった。さっそく、誰にも上げられないと思う下着とかは処分した。しかし、驚くほど大量にある。ソックスは40組くらいあったが、実際使っているのは、4組ぐらいだっただろう。使っていないものがたくさんあるが、次々と新しいものを買ったわりには、使用した形跡がない。あとは、20年くらい前の服、母がまたいつか着る事があるかも知れないといって、なかなか廃棄はしなかった。確かに物理的には着れると思うが・・・これも相当あった。靴・・・私が処分と思ってまっさきに思い浮かべたのがこれ、母は、「あんたが、靴を買い込むから私が靴をしまう場所がない。」と良く文句をいっていたけれど、それは違う。7年前になくなった父の靴から、物理的には履ける状態の自分の靴まで、一切すてなかったから。人にあげたらなんていってたけど、実際人の履いた靴を喜んでもらう人などないでしょう。これで、スペースが半分空いた。人の遺品・・・伯母さん、祖母、父の遺品というか、衣類が相当あった、それぞれ、25年、30年、7年前のもので、しっかり受けたったものの、今まで一度としてあけたことのないものばかり、で結局、これも捨てさせていただいた。写真と愛用の品、それと人に使っていただけそうなものについては残すことにした。
2008年09月06日
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31日に母がなくなり、1日御通夜2日葬儀という段取りできたのだけれど、31日は母を家につれて帰ることにした。家に帰りたいという思いで、治療に励んできた母だし、親戚の人にも、良くなって家に帰りたいと言っていた。一晩を母の部屋で過ごしてもらい、葬儀場に翌日搬送してもらった。その夜、なかなか眠れなかったが明け方に夢を見た。とても、きれいで優しそうで、しわ1つなくて髪だけが白いおばあさんの天使とでもいうような人がにこにこ笑っている。瞬間これは私の祖母で母の姑にあたる人だと直感した。感じはまったく違うけれど面影は確かにある。いろいろ母とも確執があり、わたしも思い出としてはあんまり良いものはないのだけれど(怒られたことはなかったが、陰気)晩年は4年間寝たきり状態で母が世話をした。30年近くたったら、とっても良い人になったんだと私は思い、おばあちゃんが迎えに来てくてると感じた。母は、私に喪服の着物をそろえなくてはと、前から思っており、10年くらい前に一式を作ってくれたのだから、葬儀の当日は着物でと考えていた。ただ、マナーの本を念のためにみたら、6月9月は一重の着物ということで、残念ながら、私は一重の着物はもってない。業者の人に念のため、時期としたら一重ですが、暑いから絽の着物でかまいませんかと確認した。岸和田祭りまでなら、大丈夫といわれたので安心した。それと、絽の着物に会う帯揚げとか帯締めもあるはずなのにどこの直したか分からない。最悪冬物でもいいわと思ったが、式場にでかかる前に母の持っていた小物の箱がみつかり、無事に合わせることができた。着付けの人が、「お宅ですか、絽の着物で大丈夫かと問い合わせたせた人は、なかなか最近はそういうことわかってる人が少なくてねぇ。8月に冬物でお葬式に出る人もいるんですよ。」よかった、恥をかかずにすんだ、これも母のサポートかなあ
2008年09月05日
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ご心配をおかけしました。大分おちついてきました。31日は、母が朝からしんどいということで横になるのもおきるのもしんどいと苦しがってそばについていた従兄が酸素の投与の量を増やしたもらったそうです。母が可愛がっていた親戚の子が、日曜ということで見舞いにくることになっていました。私たちは、お寺さんの前住職さんが、しばらく前に見舞いにきて、状態が悪かったことを心配しておられたのであまり長くはないという状況を説明におうかがいしていました。その後、11時半に病院にいったら母が相当息苦しそうにヒーヒーいってましたが親戚の子にはうなづいていたそうです。日曜だったので、いろいろ親戚の人が見舞いにきてくれており、しばらくいてくれようとしていましたが、私が昼間つくから他の人は昼食にいってもらいました。その間に、少し息がおとなしくなったので、寝込んだのかと様子を見ていました。喉が動いていたので少し安心、手をさすったりしていました。しかしその後呼吸が少なくなり、喉が動かなくなったので、12時20分ごろ看護婦さんに様子をみてほしいと頼みましたらもう、危篤状態で、そのまま眠るようになくなりました。意識がなくなって30分くらいだったでしょうか。最後に私がついてられたのが良かったと思います。一度家につれて帰り1日に御通夜をしました。2日に葬儀私と母の思いで、母の顔をしってくれている、宗教関係の人と同窓生と町内の知り合いだけに連絡しました。信仰心か強かったので、宗教の婦人会の人たちがたくさん来て送ってくれました。お寺さんも涙が出たといっておられ奥さんが弔辞を読んでくださいました。親戚と同じくらい会葬の人たちが泣いたお葬式でした。私のあまり知らない、若い子たちも御通夜にお葬式ときて、申し訳ないくらいないてくれてました。それくらい慕われていたというのはありがたいことです。
2008年09月04日
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