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(つづき)その後、日本で初めての醬油の醸造を行った地として知られる湯浅の町をボランティア観光ガイドの方の案内で散策した。醤油の歴史について湯浅町観光協会のHPよりその始まりは、遥か中世にまで遡ります。建長元年(1249)に宋に渡った禅僧覚心が、径山寺などでの修行の傍ら学び、持ち帰った味噌の製法が現在の金山寺味噌の始まりと言われています。金山寺味噌は、瓜やナスなどの夏野菜を漬け込んで作るなめ味噌の一種で、調味料ではなくおかずとして食すタイプの味噌です。じっくりと漬け込むうちに野菜から塩の浸透圧によってにじみ出す水分が、醤油の元祖と言われるもの。ある時、味噌の製造過程で桶に溜まるこの液汁をなめてみると何ともいえない芳醇な味がすることに気づいた湯浅の人々は、この液汁に改良を重ねました。こうして生まれたのが、現在の『醤油=Soy sauce(ソイソース)』。最初に溜まり汁を舐めてみた人、そしてその味を改良、研究して赤褐色の汁に期待を込めた人たちのロマンの一滴と言っても過言ではありません。そして、自家用だけでなく商業としての製造、出荷も湯浅が初と言われています。きっかけは天文4年(1535)に醸醤家の赤桐三郎五郎が、100石余りの醤油を漁船に乗せ大坂に出荷したのが始まりです。大阪へ向けて船積みされてゆく数は年々増え続け、近世になると湯浅で造られた醤油は海を渡り房総をはじめ日本全国に広まることになります。その背景には徳川御三家紀州藩の保護を受けたことも大きく影響し、醤油造りは町の中心産業として発展しました。当時、人家が1000戸ほどの湯浅に92軒もの醤油屋が軒を並べていたという話からも、その発展ぶりや人々の期待のほどが伺えるのではないでしょうか。以上現在江戸時代から続いているお店は1軒ということで、この地でてづくりしている業者は数軒しか残っていないらしい。江戸時代はこのような船で全国へと醤油が運ばれた。江戸へ供給するために房総へと移住した業者も多かった。湯浅町のこの周辺は江戸時代からの建造物が残されている。また、明治大正の建物も多い。江戸時代の醤油醸造していた家で現在は資料館になっている。商家の上り口手前の丸い机は手あぶりになっている。炊事や醸造の原料小麦や、大豆を炒ったり、煮たりするときの煙を出すために天井を高く天窓をつけている当時の倉庫と白い建物は蔵醤油を醸造するための樽醤油醸造に携わっていた従業員たちが利用した公衆浴場浴場の壁で、切り取られた明り取りがモダンになっていいる。大正ごろの建物この地で一番古い醤油のお店。手作りにこだわっている角長湯浅の町を散策して、帰路についた。最近寒くなってきたと言うので、僕が床にいるとき用に毛布を出してくれました。去年からのお気に入りです。夕方ごろから目がさえてきて、お母さんに遊んでって言ってしまいます。甘えさせてくれるからお母さんについて歩きますbyコロ
2023年12月13日
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(つづき)その後昼食を食べに、初島漁港の料理民宿に向かう。茶碗蒸し、炊き込みご飯、お味噌汁は写真とれませんでした。結構お腹がいっぱいになった。ここは太刀魚がよくとれる場所だと聞いている。その後簑島漁協直営の産直市場「浜のうたせ」へとむかう魚類が充実していた、寿司なども売っていた。地元の野菜とくにミカンはいっぱい売っていた。私はさんまずしと釜揚げシラスを買った。近くで買うよりしらすの量が多かった。昨日は寝付けなくて、お母さんを遅くまで引き留めてしまいました。僕も眠くて、今日は一日ゴロゴロしてました。お母さんも昼寝してました。ごめんね。byコロ
2023年12月12日
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今日は9度と暖かだった。しかし夜明けは段々遅くなっている。公園を1周した。今日は町内会のバス旅行なので大急ぎで家事をして、8時45分に集合する。バスで1時間と少し走って和歌山県広川町の「稲むらの火の館」(濱口梧陵記念館と津波防災教育センター)に到着する濱口梧陵(はまぐちごりょう)1850年ごろ広村の庄屋でもあり銚子で醤油を製造もしていた(ヤマサ醤油)村にたまたま帰っていた時に安静地震と津波が起き、稲むら(すすきや稲束を積み重ねたもの、肥料や屋根の材料にした)に火をつけてこれを目印に村人を誘導して多くの命を救った。その後も難民救済と復興に尽力したばかりか、再びの津波に備えるために私財を投じて、大堤防を築いた。この工事を行うことで、家を失い田地を流された村民の雇用を創出した。小泉八雲が「生き神様」というタイトルでこの出来事を取り上げて小説にしているが、史実とは異なる部分もあるようだ。ここで梧陵の行いをドラマ仕立てにした映画と防災に関する映画をみて、その後館長による梧陵の災害復興の話を聞いた。安政の津波を当時書き記した図録稲むらに火をつけている梧陵と銅像堤防工事をしている模型梧陵が住んでいた屋敷と庭(つづく)今日の夕飯おいしくいただきましたお母さんは朝から夕方までいなかったので、帰ってきたとき大はしゃぎをしてみんなに笑われましたbyコロ
2023年12月11日
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高松塚壁画館に到着する。高松塚古墳は直径18m、高さ5mの小さな円墳で被葬者不明(文武天皇ともいわれているが諸説あり)地元の人が墳丘で、食物貯蔵用の穴を掘っていて、石室の凝灰岩の切り石を発見した。そのご1972年から本格的な調査が行われた。石室内に彩色壁画が発見されて、戦後最大の発見として注目された。石槨内には人物、天井には星縮図が描かれている。古墳内部は、保存上密閉されているため。隣接する高松壁画菅んで、精巧な模写や石槨が展示されている。下が高松塚古墳内部の壁画の模写の一部青龍、白虎、玄武、朱雀 四神と日像月像が描かれているまた人物は男4人女4人がそれぞれ1組となって2組ずつが東西の壁に書かれている次にキトラ古墳へと出発する。キトラ古墳は高松塚の南に位置する高松塚とほぼ同型同規模の古墳で、被葬者は不明。天文図と、四神、獣面人身の十二支図が描かれているキトラ古墳キトラ古墳体験館四神の館ここでは石槨や壁画の精巧な模写や、マルチビジョンによる壁画の投影、ジオラマによる飛鳥時代の生活、シアターによる発掘の解説などがある。四神のピンバッチマルチビジョンによる投影これですべての予定を終了して、帰路に就く。夕方に自宅に帰ったので、さっそくコロを迎えに行って、いつもの公園で散歩をさせる。コロもやっと落ち着いたと言う顔をして散歩している。そして、自宅で全員で夕食を食べて、コロもだいぶ落ち着いた様子だったお母さんたちに迎えに来てもらって、ほっとしました。安心したので、お母さんの足元でゆっくり眠りましたbyコロ
2022年10月13日
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続いて、亀形石造物に向かう亀の姿の石造物で円形の甲羅には、20センチの水槽が彫り込まれている。頭の部分が取水口になり、甲羅で水をためて尻尾から流れ出るように作られている。頭部の近くに船型の湧水槽があって、そこから水が流れ出て舟形の貯水槽に流れ込みそこから亀の頭部に水が流れ込むようになっている。この裏手の山を登って酒舟石へと向かう山の中腹に大きな平坦な石が置かれていて、上部には奇妙な模様が彫り付けられている。酒の醸造に使ったと言う伝説から、酒船石と呼ばれているが諸説があり実際のところは不明。奈良県立万葉文化館万葉集を中心とする古代文化に関する総合文化拠点両側には万葉州の歌に関連する絵画等身大の人形が置かれ、市場や古代の生活を感じることができる。その他、芸術的な映像もあって、マリオネットと映像で、額田王と天武天皇と大海人皇子(当時)との恋愛模様などを万葉集の朗詠を交えて描いていた。その後道の駅で少し買い物をして、舒明天皇陵に向かうその少し横に吉備姫王墓(舒明天皇の孫で天智・天武天皇の祖母)があり墓の地面には、猿石と言われるユニークな人面の石像がある猿ではなくて渡来人の像という説もある
2022年10月12日
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まだ時間に余裕があったので、長谷寺へと向かう。「花の御寺」とも称され、桜、あじさい、紅葉が見事。7世紀末に道明上人が天武天皇のために「銅板法華説相図」を初瀬山の西に安置したことがこの寺の始まりで、その後聖武天皇の命により十一面観音像を徳道上人が東の丘に祀った。徳道上人は西国三十三か所観音霊場を開かれた人として有名。仁王門本堂に向かうには下のような階段が何百段も続いているところを上っていった。数を数えるとしんどくなるので数えなかった(笑)本堂の右側に観音像がまつられている(撮影不可)入り口から見える景色そしてホテルに到着するロビーの一角ウエルカムドリンクはドリンクバー形式で好きなものを選ぶことができた。温泉はナトリウムっ炭酸水素泉で、あまり熱くなくまったりとしたお湯だった、夜食、乳酸飲料、アイスキャンデーなどが用意されていた。夕食先付けとカニみそ刺身大阪なので鱧ゴマ豆腐炊き合わせ和牛の鉄板焼き天ぷら(マツタケと栗の天ぷらが珍しかった)ごはんは白ご飯と炊き込みが自由に選べた。デザートは蜜豆とプチケーキが好きなだけ選べた。翌朝はバイキング形式での食事だったが種類が多かった。そして、藤原鎌足誕生の地といわれる大原神社に出発した。無住の神社と思われる下は藤原鎌足が産湯を使ったと言う井戸、水はほとんど入っていない。相当足元の悪い場所。
2022年10月11日
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次に亀石というのを見にでかけるが、道が狭いので少し離れた駐車場に置く。亀石は普通の農地の一角に置かれているカメの甲羅のような石である。伝説としては「昔この辺りは湿地で、亀が沢山いたが、ある時干ばつで池が干上がり、多くのカメが死んでしまった。その怨念が固まって亀石となった。この石が西をむけばこの辺り一帯は水に沈む。」現在は南西をむいている。次は岡寺7世紀草壁皇子の宮であった岡宮を仏教道場として改築し、当時の仏教指導者義淵僧正に下賜されたものである。本尊は如意輪観音で、わが国最大の塑像(撮影は不可)仁王門下の鐘を突くと厄除けになる飛鳥寺6世紀末から7世紀初めにかけ蘇我馬子の発願で建てられた、日本最古の本格的仏教寺院伽藍は2度の火災により焼失した17世紀と19世紀に再建されて現代にいたる。本尊は飛鳥大仏の名前で親しまれている釈迦如来坐像(銅像)ご住職の解説では、本尊と脇侍の写真撮影は構わないと言うことだった。この阿弥陀如来は、左右からみると表情が違う。上の写真は厳かに、下の写真は柔和な顔に見える阿弥陀如来坐像 藤原時代の作品聖徳太子孝養像 室町時代の作品 父用明天皇の病回復を祈願している様子
2022年10月10日
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昼食後は橘寺へと向かう紀元7世紀ごろここには欽明天皇の別宮で橘の宮というところがあり。そこで聖徳太子は生まれたと言われている。聖徳太子は仏法を信仰して、自ら仏典の解説を行うほどであった。この場所で太子が仏典を講義しているときに蓮の花びらが降り注ぎ千の仏頭あらわれて光を放つなどの不思議があったために、天皇が御殿を改築してこの地に寺を建立することにされた。12世紀から火事や戦乱の焼き討ちなどで江戸時代にはほとんどの建物が消失してしまった。その後19世紀に再建されることになった。黒駒(聖徳太子の愛馬で空をかけることができたと言う。達磨大師の化身)境内の様子二面石人の心の善悪を現したものと言われている。こちらは悪相こちら善相上の2枚は往生院(阿弥陀仏が安置)という建物の天井画260枚の花の絵が描かれてある。天井画のみ撮影可人気がすくなくて、ゆっくり拝観できた。その後天武・持統天皇陵に向かうネットより拝借8世紀天武天皇陵に皇后であった持統天皇が合葬された。円墳。持統天皇は天皇として初めて火葬されて埋葬された。農村の真ん中にどっしりと大きな森が出現したと言う感じだった。ここから狭い道を徒歩で15分ほど歩くと鬼の雪隠、鬼のまな板と言われる、石造物がある。昔この地の鬼が、霧を発生させて旅人を惑わして、とらえ、鬼のまな板で人間を料理して食べたとかいう伝説があるが、現在では欽明天皇の石室の底石と説明されている。鬼の雪隠鬼のまな板
2022年10月09日
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朝5時に起きたが雨が降っていた。様子を見ながら食事をしたり、旅行の準備や、掃除をしていた。7時になったら、雨が止んだのでさっそくコロを散歩に連れて行った。その後動物病院のホテルに預けにいった。いよいよ、旅行に出発する。今回は奈良にある古代史に関する史跡をめぐる旅になる。まず、有名な石舞台古墳にと向かう。未だ雨の跡が少し残っている状態だった。紀元7世紀ごろに作られたと言われている。この墳墓をおおっていた盛り土がながされて、この石造物があらわれたもので、被葬者は不明だが6世紀後半に亡くなった、蘇我馬子の墓ではないかといわれている。玄室の長さは7.7m 幅は約3.5m 高さ4.7mで大小30個の花こう岩が使われており、天井に使われている石の重さは北側64t 南側77t 総重量約2,300t石舞台の名前は一般には石の形から言われているが、昔狐がこの石の上で女性に化けて舞ったとか旅芸人がこの地には舞台がなかったので、ここを舞台に見立てて芝居をしたという説もある。お昼ご飯は近くの地元の農村レストランで、古代米御膳で昼食
2022年10月08日
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お昼は美山温泉の愛徳荘と言う旅館の食堂に入る。10年ぐらい前に家族といって、期待せずたまたま入ったところが広くて、そこそこリーズナブルでおいしかった。一見武家屋敷風の構えお蕎麦と稲荷ずし、てんぷらとみそ汁となかなかボリュームあり。次に紀州漆器伝統産業会館「うるわし館」へと向かう(漆でしあげた立ち雛)お盆・食器・アクセサリー・お箸・入れ物・弁当箱などが売られていた。そして、慶応2年(1866)創業の地元老舗「名手(なて)酒造」が直営する黒牛茶屋に向かう。純米酒黒牛は万葉集の「黒牛潟」に由来した名前である。お酒の好きな人はここでお酒を買って、すべての予定を終了して、帰ってきた。私はいったん帰って、コロを迎えに動物病院へと向かい、散歩の公園に連れ出した。途中で、中学校の前でパトカーが三台止まって、生徒たちもたくさん集まって警察官もたくさんいたが、何だったかはわからなかった。私たちの顔を見てコロも安心したようだった。
2021年11月09日
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朝はまず一番風呂でゆっくりとあたたまった。朝食は全体の雰囲気とろろ汁と野菜のせいろ蒸しそのほかに、巨大しいたけの陶板焼きなどがあった。8時すぎには宿を出発して、道の駅「龍神・ウッディプラザ木族館」に向かう中の太い柱は龍神材で樹齢何百何年というものを使っている。木工製品が多く売り出されていた。まな板、スプーン、寿司桶など、椅子やテーブルなどもあった。この近くに皆瀬神社がある。そこには近畿唯一という丸木橋の吊り橋を渡っていく(別のルートもあり)永禄2年(1458年) 龍神氏10代当主龍神正直が勧請し、文明年間(1469年-1486年)にその嫡子・龍神氏11代当主龍神正氏が社殿を建立した。御祭神は祭神は八幡大明神。龍神氏は、日高川最上流の部落に治承4年(1180年)、源頼政の五男源頼氏が、落ちのび館を構え、移り住んだことを創始とする。治承年中(1177年-1181年)には八幡社を勧請している。【ご利益】リフレッシュ、失恋・失敗からの立ち直りつづいて、龍神村曼荼羅美術館へと出発する。美術館の説明(ネットより拝借)曼奈羅は、密教の教えを図解したもの(仏たちが描かれた絵)で、密教の深い知恵や広大な宇宙が凝縮されているといわれます。貴重なチベット曼茶羅、仏具等の収蔵品の中から、百数十点を常設展示しています。ここでは宗教観にこだわらず、その人なりの感じ方、とらえ方で自由に見て、曼茶羅の仏たちを感じ、心を安らかな豊かなものにしてくれるに違いありません。館内は撮影禁止のためパンフレット等より写真を拝借
2021年11月08日
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予定より早くなったが、龍神温泉のはずれにある丸井という旅館に到着する。3階建てで、全体で16室ぐらいのこじんまりした宿だった。コロナの関係で、定員は半分の8室分とのことだった、今日は6室12人が泊っているということだった。美人の湯といわれるだけあって、泉質はしっとりなめらかできもちがよかった。温度はややぬるめで、いつまでも気持ちよく使っていられる感じだ。窓の下には川が流れている。(旅館の案内から写真は借用)部屋が空いているので食事は別室で4人が集まって食べた。食前酒梅酒 前菜 秋の5種盛山菜 虎杖の胡麻和え(めちゃくちゃ美味しかった)熊野牛しゃぶしゃぶ合鴨ロースの蒸し煮生芋こんにゃくの田楽蓮根餅くず餡仕立て(めちゃくちゃおいしい)子もちアユの塩焼き(おなかの中には卵がいっぱいで、11月しかこのアユは食べられないということだった。おいしかった)里芋の五色揚げ出し地鶏釜めし(鳥の味がしっかりしていた) お漬物は女将の手製(86歳)デザート新興梨 蜜柑わらび餅 レモンケーキたくさんの量だったが、美味しかったのでいっぱい食べてしまった(笑)その後部屋に帰っておしゃべりをして眠った。
2021年11月07日
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上の写真がお目当てのあらぎ島あらぎ島は有田川中流の左岸に位置する扇の形をした半島状の土地で、幾枚もの田が美しい弧を描きながら扇の先端にむかって展開する。日本の棚田百選に選ばれ、和歌山県で初めて国の重要文化的景観に選定されている。上の写真は椿山(つばやま)ダム湖畔にかかるレイクブリッジつりはしで、わずかに揺れる感じはするが怖いと言うほどではない。ロープもしっかり張られている。この橋を超えると日本一のヤッホーポイントがある。やまびこがきれいに聞こえる場所ということになっている。釣り橋の遠景この場所でヤッホーというと山彦が返ってくるということになっているが、甲高い声、細い声では聞こえなかった。どちらかと言えば太い声がいい感じ。見学が早く終わったので龍神村にある道の駅龍游(りゅうゆう)にいく名物は龍神しいたけバーガー!プリプリの肉厚しいたけフライにベーコン・レタスを挟んだヘルシーバーガー!だったが、いった時点で完売していた。ここで大判焼きを買って、おやつにする。しいたけなどのキノコやまな板などの木製品が豊富だった。
2021年11月06日
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鷲羽山から、地元の十八盛酒造株式会社へとむかう。こちらでは十八盛というお酒を製造販売している。HPより十八盛酒造は、瀬戸大橋のかかる倉敷市児島にあります。日本で初めて国立公園として指定された瀬戸内海国立公園にある鷲羽山は多島美による風光明媚な眺めで有名です。そんな海の近くにある蔵では瀬戸内の魚介類にも合う旨味のあるお酒を造っています。そして倉敷美観地区へと出発大原美術館の庭HPより昭和5年、倉敷の実業家大原孫三郎が設立したもので、西洋美術、近代美術を展示する私立美術館としては日本最初のものです。ギリシャ神殿風の本館の中には世界画壇の巨匠作品が多数展示されており、ツタにおおわれた石垣、門を入るとロダンの彫刻「洗礼者ヨハネ」「カレーの市民」の像が迎えてくれます。隣接して、分館、工芸・東洋館があります。江戸時代から昭和に至る様々な歴史的な建造物がある。アイビースクエア当施設は、江戸幕府の代官所跡に、1889年(明治22年)に建設された倉敷紡績創業の旧工場で、1973年(昭和48年)に改修され、観光施設として再生された。倉敷紡績の関連会社 株式会社倉敷アイビースクエアが経営・管理し、現在も倉敷紡績の登記上の所在地である。場所は倉敷美観地区に含まれ、建物は2007年(平成19年)11月30日に経済産業省より「近代化産業遺産」に認定されている。天気も良く結構人が多いなと感じた。おしゃれなスイーツのお店なども多かったが、いずれも列をなしていて、すぐには食べられそうもなかったので、駐車場近くのホテルにいったのだが、メンバーが昔そこのフレンチを食べたがあまりおいしくなかったということなので、ちょっと悩んだ。とりあえずホテルに入って、和食がないかと尋ねてみたが、ないというこだった。しかし、近くに和食でリーズナブルで美味しい店があると紹介してくれたので、そこにいくことにした。地区のはずれにあるので、人も少なかった。瀬戸内の海の幸をメインにしたという瀬戸内御膳をチョイスした。ままかりと突き出し刺身てんぷらタコ飯と茶わん蒸し濃厚な柚子シャーベット確かに紹介してくれただけのことはあって、美味しくてリーズナブルなお店だった。お昼ご飯を食べて一路大阪へと向かった。おしまい
2020年11月10日
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朝から徒歩で由加神社本宮に向かう。歩くと表参道に出るが、本宮まで42段33段60段の階段が続いている。由加神社本宮は倉敷観光の公式HPによれば全国に五十二の分社を持つ由加神社の本宮。日本三大権現の一つ、また厄除けの総本山として知られ、江戸時代より人々の信仰を集め、備前藩主池田侯の祈願所として栄えました。時期を同じくして四国こんぴらさんとの両参りも盛んに行われ、現在も両参りを信仰する人が多く、江戸本所の豪商・塩原太助の名を刻した玉垣も見られます。境内には日本一の備前焼大鳥居や消痛の小槌(宝物)などがあり、本殿は県指定重要文化財です。参道沿いの民家に飾られていた、備前焼の馬備前焼の狛犬鳥居も備前焼でできており、此方の狛犬は片膝をついた珍しい形である備前焼でできた茅の輪此方は隣の蓮台寺此方を抜けて裏参道はなだらかな坂道になっており、高齢の人でも十分行き来できる。緑が多いところだった。9時すぎに、ホテルの駐車場に戻って、鷲羽山の展望台へと向かう倉敷観光HPより日本初の国立公園として知られる瀬戸内海国立公園の代表的な景勝地で、鷲が羽を広げた様子に似ていることから「鷲羽山」と名付けられました。標高133mの山頂「鍾秀峰(しょうしゅうほう)」からは、波静かな海上に点在する大小50余りの多島美と雄大な瀬戸大橋の姿を存分に楽しむことができます。特に夕景の美しさは格別で、「日本の夕陽百選」に選定されています。お天気に恵まれて、青空の下で瀬戸大橋や行きかう船などをゆっくり眺めることができた。
2020年11月09日
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ホテルは夜ついたので、翌日の写真ロビーアクシデントがあったが、何とか6時過ぎに到着した。暗くてよくわからなかったが、山の中を曲がりくねって登っていく感じだった。何もなければ由加神社本宮というところに行って名物のあんころ餅を食べる予定だったが、時間がないので、ホテルに直行した。ところが幸いなことにホテルでチェックインしたら、ウエルカムドリンクとしてお茶とあんころ餅を出してくれたので、一同納得した。3階の廊下室内の様子(ホテルのパンフレットより)二人ずつ2室ということにしていた。現地に残っている人がだいたい7時半にはホテルに来れるというので、7時半からの夕食ということにして、温泉に入りに行く。相当広い温泉で普通の浴槽が2つと泡ぶろ、ジェット噴射の風呂、打たせ湯とあって、露天風呂も2つあった。ゆっくりとお風呂につかり戻ってきたら、無事に追いついてきたので、全員で夕食を食べに行く。肉をメインとしたコース左手前鴨スモークのキノコ和え 左奥秋野菜のサラダ 右えのきと黄ニラと岡山豚ロール国産牛鉄板焼きステーキ茄子のごまみそ焼き豚肉とだいこんの煮込みと茶わん蒸し紅葉あんかけ秋野菜の旨汁国産牛のしゃぶしゃぶ(写真を撮るのを忘れたのでネットから借用)デザート秋栗のティラミス風(ネットから借用)さすがにお腹いっぱいになりみんなで部屋に集まっておしゃべりを楽しんだ。11時半ごろ解散した。これは朝食で、お味噌汁がついて、卵と海苔と納豆とヨーグルトは食べ放題ということだった。少し早めに車を置いて出発して、昨日行けなかった神社に徒歩でお参りに行くことにした。
2020年11月08日
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後楽園への再入場はできるので後楽園の南門から岡山城に出で、岡山城に向かう。HPからの引用「岡山城は、戦国時代の大名・宇喜多秀家によって、8年の歳月を費やして1597年に完成されました。城は西向きであったため、秀家は、背後から敵に侵入されるのを防ぐために、近くを流れる旭川を、城の東背後を流れるように大工事を行いました。天守閣の壁に黒漆塗りの板を取り付けるこの時代の建築の特徴から、外観は黒く、後の時代には「烏城」と呼ばれるようになりました。秀家は、岡山城を戦の施設としてだけでなく、商人や職人を集めて城下町の整備を行い、治世の府としました。池田家が城主になった後も岡山城の周辺整備は進み、17世紀末には旭川を隔てた北側に、広大な大名庭園である岡山後楽園が設けられました。岡山城は、歴代城主の下で岡山の町並みの発展を見続け、近代都市の礎となりました。」宇喜多秀家が岡山城の象徴に建築した三層六階建ての望楼形天守閣で、城郭建築物に天守閣が出現して発展し始めた時期の構造的特徴を伝えていました。城主の権威を象徴する書院造りの居間(城主の間)が設けてあり、初期の天守閣の性格を物語っています。昭和20年の空襲で焼失しましたが、昭和41年に再建され、城主の間も復元されています。中は6階建てになっており、2階から上には池田時代 宇喜多時代の資料などが展示されている。しかし、写真撮影は禁止になっているが下の2つは写真可能なのでとってみた。これはトリックアート梯子の途中までは本もの。大名籠で乗ってみたが、結構広くて揺れなければ相当快適だった。城に使われているしゃちほこのレプリカ。ひととおりを見終わったので、再び後楽園に戻る。後楽園の築山養心山から沢の池を望む飼われているタンチョウヅル。日本で後楽園が一番飼育数が多い。日程の関係で1時間半程度の見学だったので、後楽園全体の半分程度しか見て回れなかった。また違う季節に行ってみたい。前回は蓮のきれいな季節に行ったのだが。後楽園を後にして、今夜のホテル近くの神社に向けて出発しようとして、車に異音がしはじめた。よく見るとタイヤがパンクしている。J〇Fの救援を依頼するが1時間近くかかるというので、運転する人一人を残し、残りはタクシーでホテルに向かう。なんとか無事にこちらはホテルについた。運転者も7時過ぎにはパンクしたタイヤを取りかえて到着することができた。
2020年11月07日
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諸般の事情で、10時に我が家を出発し、山陽道を通って12時龍野西のサービスエリアに到着した。気温は低いとの予報だったが、暑いぐらいの穏やかな天気だった。三木露風の「赤とんぼ」は当時の龍野町で露風が暮らした時の思い出を書いたといわれている。それで、このサービスエリアのモニュメントはトンボということになっている。ちょうどお昼になったので、ここでにゅう麺セットをお昼ご飯にいただく。この付近一帯で作られている兵庫県手延素麺協同組合加入の業者が作っている素麺の商標が「揖保乃糸」というらしい。とてもこしがあっておいしい。家では味噌汁に入れることが多かったが、こちらでは澄まし汁にいれてあった。味もよかった。そして、一路西へと向かい、2時ごろには岡山後楽園に到着する。岡山藩主・池田綱政によって造営された、元禄文化を代表する庭園で、国の特別名勝に指定されている。休日だったためか人出はそこそこあった。七五三の関係で着物を着た子どもたちが結構多かった。また菊花展が開催されていた入ったところから見た風景延養亭(歴代藩主の居室)巨石を切り分けて、後楽園に運びもう一度組みなおしたもの。この日は園内にある能楽堂で伎楽能という催しものをやっていて、謡の声が外まで聞こえてきて、雰囲気が良かった。蓮池にしつらえた八つ橋
2020年11月06日
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朝食はバイキング形式のお料理で、和食、洋食などたくさんあり、今まで行ったホテルの朝食の中では、質量ともに最高に近い感じがする。密を避けるためにか、15分ごとの時間差で入場する。使い捨ての手袋を渡され、おかずなどを取る時は、手袋をして、トングなどを持つことになっている。食事の後出発まで、部屋のマッサージチェアで体をほぐしておく(見たところ新しい感じで、手もみに近い感じがした)昨日もらった、地元発行のクーポン券を有効利用するため、道の駅まででかける。ここも比較的最近できたところで、品数も多い。お買い物を少しして、みかんソフトを食べて帰途に就く。定番のとれとれ市場にやってきた。11時過ぎと時間は少し早かったが、混みあう前に昼ご飯を食べようということになった。200人ぐらいははいるフードコートに10人ぐらいしか入っていない。私は朝食べ過ぎたので、しらす丼をいただく。テーブルには消毒済みとかいた、大きなカードが置いてあり、そこで食べ終わったらカードを裏返して退席することになっている。裏返った場所をスタッフの人が消毒していくという形になっている。ここで夕食にお寿司を買って帰ったが、ネタが厚切りでとてもおいしかった。生鮮食料品だけでなく、お菓子も売っている。そして、再び大阪方面へと向かって進んでいった。途中紀の川サービスエリアで、休憩してメロンパンを買う。焼きたてのメロンパンを売っている。最後に和歌山のJAがやっているファーマーズマーケットに立ち寄る和歌山だけあって早生のミカンが売り出されていたので、ミカンを買って帰った。その他にもたくさんの野菜や果物、花などが売られていた。家には2時半ごろついたので、急いで、荷物を片付け、洗濯をした。コロの迎え時間の4時には、ホテルに迎えに行き、帰りに公園を散歩させて、家についた。病院の方からは、おやつの量を少なくしてくださいと注意を受けたので、心を鬼にして、おやつをやらないようにした。
2020年10月28日
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いよいよ今日の宿に到着する。以前から何回も使っているので勝手知ったる他人の家という感じ。何が魅力かと言えば料理が抜群。あそこの料理は忘れられないと、一緒に行った人はたいてい言う。それと、温泉が源泉かけ流しで、部屋にある露天風呂も一晩中お湯が流れ込んでいる。4時半にチェックインしたが、嬉しいことに「行っ得すさみキャンペーン」というので、10月末までにすさみの民宿も含めて、宿泊施設や渡船を利用した人には、すさみ町で使用できる2000円のクーポンがもらえた。まずは温泉へ行ってみる写真は、ホテルのHPのものを借用海を眼下にみおろす露天風呂女湯には薔薇風呂がある。食事は今までは「料理長お任せコース」をチョイスしていたが、量がいっぱいなので今回は「少量美味コース」を選んでみた食前酒は梅酒先付け薬膳(ふか、ホタテ、マイタケ、シメジ、棗など)おつくり生麩田楽イノブタ寿司海鮮揚げアワビの陶板焼き湯葉の茶わん蒸しと香の物十六穀米と赤だしあとデザートのプリュレと酢の物は写真を撮り忘れた。会場は個室になっているところ、そうでないところはグループごとに仕切りのアクリルが立てられていた。スタッフはマスクとフェイスシールド着用していた。部屋の露天風呂はこんな感じでお天気が良ければ、ハンモックに寝てのんびり過ごすことができる。
2020年10月27日
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水族館をでて次は白浜エネルギーランドに向かう。白浜観光協会のHPから白浜エネルギーランドの紹介を引用「人と自然のエネルギーをテーマにした体験型テーマパーク。自然エネルギーについて映像とジオラマで楽しく学べる「太陽の街」や、目の錯覚と平衡感覚を利用した真っすぐに歩けない「ミステリーゾーン」、不思議で楽しい写真が撮れる「トリックアートハウス」、スタンプラリー形式の巨大迷路「Da迷路~エネルギー博士からのSOS~」など遊びながら学べるアトラクションが盛りだくさん!!お子様から大人の方までお楽しみいただけます。遊び疲れたら施設内で湧き出た源泉かけ流しの「足つぼ足湯」でのんびりリラックス。2018年3月21日には、「映像ホール“シティパラディソ”」が新登場!少女とロボットの友情を描いたCGアニメーションを3D映像でお楽しみください。」まずは消毒と検温を済ませてから施設内に入った。ハロウィンということでハロウィン気分を盛り上げた飾り付け。ここでもファミリーかカップルが多かったが、満員ということはなかった。長いエスカレーターを通って施設に入場する。一日遊んだらすべてが見られると思うが、時間の制約もあるので私たちはまず「エネゴンシアター」で360度すべて立体映像というところで、リアルな海底探検を楽しんだ。会場全体が巨大な水槽になった感じ。つぎは映像シアターで「シティ パラディソ」というロボットと少女の友情をを描いたアニメを見た。言葉は一切ない物語だったが、少女の表情がとても豊かだった。次に別の会場で「ジュラシックツアー」に向かう。これも、多分ジュラ紀の恐竜たちのことを、映画にして見せるのかと思っていた。ところが受付を始めるところから、お話が始まり、タイムトリップに事故があって、恐竜がデーター化されてこの場所にやってきたという設定になっている恐竜鳴き声とか、色んな仕掛けで、泣き出す子が複数いた。そして、やっとシアターにたどり着いて、みんなの力で恐竜を捕獲して元の時代に送り返すということになった。この時期なので、座席はほぼグループごとにかたまって、ある程度の距離を保って座るというというのが、どのシアターでも行われていた。マスクは全員着用。映像エリアをでてトリックアートの館に入る壁に描かれた絵が立体的に見えたり、片目で見ると普通に見えるが、両眼だと歪んで見えたり、外に出ると頭がくらくらした(笑)1時間半近くここで遊んで、帰りにここのキャラ「エネゴン」の写真をとって、ホテルへと出発した。
2020年10月26日
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お天気は曇っていたが、雨が降っていないのを幸いに出発した。まずは紀ノ川のサービスエリアで昼食を。ここでは、急ぐのでフードコートで食事をしようと思ったが、混みあっていて人が密集しているのでパス。レストランで食事をすることにした。四人掛けの広いテーブルの中央にはアクリル板の仕切りがしてあった。今回は茶そばの天ブラそば。(写真を撮れなかったのでネットから借用)円月島を横目で見ながら、京大水族館をめざす。この水族館のHPの館長のごあいさつから一部を抜粋この水族館は2010年に開設80周年を迎えた歴史ある水族館で、現在、国立大学法人がもつ唯一の博物館相当施設として指定を受けた水族館であり、それ相応の規模を誇ります。 通常の娯楽性に富む水族館とは、やや趣を異としておりますが、人目をひくような派手な海洋生物ばかりでなく、さまざまな無脊椎動物を含む地味ではあるが学問上貴重な生物を多数展示しております。タカアシガニうつぼ金目鯛科の魚たちミノカサゴスズキ科の魚たち都市にある大規模な水族館とは違って、和歌山付近で生息している海洋生物が中心に展示されている。ながらく飼われていると思われ、全体に魚たちが大きい。(爬虫類や魚類は、環境が良ければ、どこまでも成長するという話をきいたことがある)微小な生物も拡大鏡越しに見ることができるが、また写真写りが悪いというか、見つけられないので写すことができなかった。平日ということもあって、未就学児をつれた家族連れが数組、大人のグループが数組ぐらいで、静かに見学することができた。手指の消毒とマスク着用が必要だった。
2020年10月25日
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旅行の当日は、ボランティアの配食サービスもあり忙しかった。天気が悪いということと、コロをホテルに預けるまでに散歩に連れて行き、用を足してもら方がいいだろうというので、早めに散歩した。連日忙しかったので、旅行の準備もちゃんとできたかどうか、再度チェックをする。コロのホテルにもっていく食事やおもちゃなどももう一度点検しておく。掃除と洗濯だけはして、10時前には配食サービスに出かける。幸い今回は、お弁当の業者も早く来てくれたので10時半に終了して家に帰ることができた。それから、荷物を積み込んで、コロをホテルに送っていく。コロをホテルに預けて、普段の生活の説明をした。細かいことはメモにして渡したので、助かりますとほめられた。コロを見た看護師さんが、こんな太ってました?と言われて、私がショックを受けた。そして、いざ旅行へと出発した。
2020年10月24日
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食事の後は、観光案内所の人に勧められた、観光スポット2時間コースを歩く。早水藤左衛門・萱野三平の両名が、早かごで主君刃傷の凶報をもって江戸より駆けつけた際、この井戸で一息ついて城内の大石内蔵助邸へ入ったといわれている。息継ぎの井戸の近くに、からくり時計があって、時間ぴったりになると、戸が開き、松の廊下の刃傷の場面と赤穂浪士の討ち入りのシーンが見られるようになっている。上の段には、陣太鼓をたたく内蔵助が登場する。花岳寺の山門、赤穂城の門を移築したもので市の文化財正面に見える緑は大石なごりの松播磨国赤穂藩・浅野家、永井家、森家歴代藩主の菩提寺であり、また、大石良雄の祖先が眠る大石家墓地、義士墓がある。浅野家、赤穂浪士に関する展示物が収蔵されている義士宝物館が併設されている。(江戸における菩提寺は泉岳寺で国元では花岳寺が菩提寺となっているようである)鳴らずの鐘討ち入りの後浪士たちが切腹したというので、赤穂の人々はその死を悼んで、鐘を突き続けついに鐘が鳴らなくなったというので鳴らずの鐘といわれている。赤穂城址大手門付近大石内蔵助屋敷跡赤穂大石神社の参道にはこのように四十七士の像が両脇に並んでいる。兵庫県赤穂市にある。赤穂神社と大石神社の合祀により赤穂大石神社として創祀。現在赤穂神社祭神の旧赤穂藩主浅野家・森家祖霊と大石神社祭神の大石良雄ら赤穂浪士47人および中途で自害した萱野重実を主祭神とする。主君の仇討ちという大願を果たした祭神に因み、「大願成就」の神徳で信仰を集める。赤穂城址本丸門本丸庭園を眺めるこの時点で予定の時間が迫っていたので、赤穂駅へとUターンした。無事に電車に乗り、家までずっと座って乗車することができた、連日1万数千歩あるいたので座れるのはありがたかった。
2019年11月05日
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旅館に着くとまずはお風呂へと入りに行く。とても塩辛い感じのお湯だ、温泉は1階にあるが結構な高台で、写真の真ん中までが露天風呂。(写真はパンフレットを借用)波が入っているのが下に見える海になっている。海に身を乗り出している感じがする。お風呂から夕陽が入るのが見えるということで、たくさんの人が露天風呂にいたが、私が見に行ったころには、海に沈んでしまっていた。パンフレットから借用夕ご飯は会場食だったが、ゆったりとしていて、時間もずれていたので、比較的静かだった。メニュー先付け キノコとほうれん草のお浸し前菜 柿とイクラの霙和え、サーモン寿司 さんまの甘露煮 大黒しめじと赤こんにゃく 紅葉南京 焼き栗 海老芋田楽土瓶 鱧とマツタケの土瓶蒸し造り鍋物 播州百日鶏の鍋焼き物 アワビの踊り焼き 茄子、パプリカ エリンギ酢の物 サーモン錦糸巻き シャコの酢の物 昆布 ブロッコリータコまし 香の物 蜆の味噌汁デザートお腹がいっぱいになって、部屋に引き上げた。翌日も朝から温泉に入ったが、早朝から海には集魚灯をつけた漁船がたくさんいてとても綺麗だった。朝食のあと、出発までに近くの伊和都比売神社(イワツヒメジンジャ)に参拝する。航海の安全と縁結びの神様ということで、東郷平八郎が参拝したこともある。 海から急な階段があってこちらの鳥居から参拝できるようになっているが、階段が老朽化していて今は立ち入り禁止になっている。いよいよ出発ということで、旅館の玄関を写真に収める。普通は送迎バスは赤穂の駅まで直行ということだが、明石市立海洋科学館・塩の国によって降ろしてもらえることになった。
2019年11月03日
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秋の女子会の旅行は、赤穂方面への電車の旅。まずは大阪駅にて、駅弁を買ったが、これから乗る電車は、駅弁を食べることができるような電車なのか、通勤通学などの生活列車なのかちょっと心配した。姫路行きの新快速に乗り三宮をでるまではおとなしくしていた、電車そのものはクロスシートで、7割ぐらいが座っている。それから先は、すいているので、思い切ってお弁当を食べることにした。周囲には誰もいないので、気兼ねなく食べられた。姫路で播州赤穂行へと乗り換える。座れることは座れたが、学生さんなどが結構多かった。終点の一つ手前坂越(さこし)で下車する。赤穂の名産の塩はこの港から出荷していたそうだ駅にはコインロッカーがなく、駅員さんに道路向かいの駐輪場にロッカーのあることを教えてもらう。それから、地図を片手に坂越の街並みに向けてあるく。坂越の町の出入りを管理していた木戸門の跡坂越の街並みを抜けたところは港になっている。ちょっとレトロな坂越の街並み坂越まち並み館もともとは奥藤銀行の支店だったが、銀行の合併などでいろいろ名称がかわった。この中に大金庫の扉が残っている。旧坂越浦会所赤穂藩の支所であったが、茶屋的な要素もあり、藩主専用の部屋もある。会所の坪庭奥藤酒造、兵庫県で二番目に古い酒造、「忠臣蔵」「乙女」などを販売している。私も試飲させていただいた、すっきりした飲み口だと思う。時間がないので急いで大避神社(おおひじんじゃ)へと向かう秦河勝は太子死後の皇極3年(644年)、蘇我入鹿の迫害を避けて海路をたどって坂越に移り、千種川流域の開拓を進めたのち、大化3年(647年)に80余歳で死去、そして地元の民がその霊を祀ったのが当社の創建という。神社正面の海上に浮かぶ生島(国の天然記念物)には秦河勝の墓があり神域となっているため、現在でも人の立ち入りを禁じている。また秦氏はペルシャ系ユダヤ人という話もあり、キリスト教の神をまつっているという説を唱える人もいるそうだ。お参りすれば難を避けられるということで、私たちもまじめにお参りした。その後赤穂駅で旅館の迎えのバスがまっているので、急いで駅に戻り、赤穂駅まで出た。バスが来るまで、観光案内所で明日の路線バスなどのことを質問したが、とても丁寧に教えてもらった。そしてバスにのり、宿についたが、ロビーからはきれいな夕日と一面の海をみることができた。
2019年11月02日
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今日は月1回ボランティアとしてお世話している町内のイベントの中で、一番力を入れている日帰り旅行の日だった。もちろん予算は限られているので、送迎がついている食事場所を探すのが大変だったが、送迎付きの昼食ブランがあるというところで、総勢28人で出かけた。10時半に集合出発で、11時半に現地に到着する。早速食事という事で裏話だが、上の松花堂弁当のような箱に詰められた4種類のおかずを、箱に詰めずにひと品ずつ出すと、200円高くなる。団体の人は箱に詰められた方を選ぶことが多いと言うので箱でお願いしたので、予定より一人当たりの金額が安くなった。1時間ほどで食事をして、こちらの天然温泉のお風呂に入るのも可能という事で、温泉に入ることにした。(パンフレットより借用)お風呂に入った後は喫茶店でコーヒーを飲んで、おしゃべりを楽しむ。1時半に旅館を出発し黒丸というう道の駅による中は結構広くて、野菜・果物類が特に多かった。あとはジャムとかの手作りの品。切り花などもたくさん売っていた。隣の建物にパン工房があってそこでは焼き立てパンを売っている。参加者たちもたくさんお買い物をしていたが、私もミカンと柿、ニンニク(はちみつ漬けにして風邪予防)バンを買った。3時半に集合場所へと戻ってきた。平均年齢はおそらく、75歳以上と思われるので、時間的にも工程的にも無理のないように、そして「食べて、温泉につかって、好きなものを買う」という女性のしたいことを小さいながらもたくさん取り入れた旅行だったと思う。
2019年10月10日
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五箇荘の町並みを後にして、藤居本家という蔵元へ酒蔵見学に行く。お店の入り口には杉玉が飾られてある。新酒ができれば新しい杉玉を飾るのだそうだ。案内して下さったのは当家の奥様、グレーヘアの似合う草笛光子さんのような方だった。江戸時代より酒造りを続けておられ、水は鈴鹿山麓からわき出る地下水。お米は琵琶湖近くで酒造り用に栽培される、とても背の高い米が使われているとのこと。大手のようなコンピューター管理の制御ではなく、杜氏たちが長年の経験と勘により発酵具合を確認しながら、手当をしている。寒い時は発泡スチロールをタンクに巻いたりするそうだ。先代の女将が蔵を作るため色んな山をめぐって、蔵の柱となる木を見つけてきたのだそうだ。木を探すだけで10年かかったとか。蔵の外観で文化財の指定を受けている。入ったところではお酒の販売もしており、お酒の試飲もできる。あまり飲めない私だが、7種類のお酒を試飲してみた。結局私には辛口、大吟醸系のお酒が合うと言う事がわかった。続いてルーブル愛知川(えちがわ)という愛知川駅の併設施設を見に行く。こちらではビン手毬という工芸品が有名で、上はポストなのだがビン手毬の形をしている。様々なびん細工てまり最後にラコリーナへと向かう。屋根根一面が芝におおわれた、ラ コリーナ近江八幡のメインショップ。西洋の田園風景という感じの敷地の中に、様々な和洋菓子のお店が入っている。私たちはおやつに、できたてのバームクーヘンとコーヒーをいただいた。お腹がいっぱいになったところで、帰途についた。
2019年05月28日
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朝から近江商人の輩出した五箇荘の町並みの見学にいく、こちらもボランティアガイドにお願いした。82歳の女性のかただったが、とてもそのような年齢には見えす、しゃきしゃきしておられた。こちらは公開はされていないが、土地の名家のお家で、蔵が何軒もあるが、塀の部分につかっている板は船に使われていたものだそうである。長年に水にさらされて、残った部分で耐久性があるということで、金具のあともなまなましいまま、家に使われている。こちらでも永源寺のように葦で屋根を葺いたお家がある。屋根にところどころ丸いものがついているのは、アワビの貝殻で、葦についている虫を狙って、鳥だちが屋根をつつきにくるそうで、時には葦を引きぬいてもっていくものもあるので、貝殻で光を反射させて、鳥よけにしているそうだ。町を流れている水路にはこのように、いたるところに鯉が泳いでる。ものすごく立派な鯉もたくさんいた。うえの糸のようなものは、鳥が鯉をとらないためのフェンス代わり。弘誓寺 五個荘町の古い町並みが続く静かな金堂(こんどう)地区に、堂々とひときわ高くそびえ立つ浄土真宗大谷派の古刹。この寺を開基した愚咄坊(ぐとつぼう)は那須与一(なすのよいち)の嫡(ちゃく)子で、本願寺三代の覚如上人(かくにょしょうにん)が関東へ下る際に弟子となり、犬上郡石畑(いぬがみぐんいしはた)に一宇を建立しました。(HPより)弘誓寺の本堂より町並みを眺める。水路にはかいうの花がさいたりして風情がある。旧満州や蒙古に日本が進出していた時代に中江準五郎と言う人が、向こうで20店舗余りのデパートを経営し、隆盛を誇っていたが、敗戦のため衰退した。そのころの屋敷を当時のままにおいてある。ここでは近江の特産の麻織物を着たひな人形の展示小幡人形(「でこ」という言葉は「土人形」のことを指します。江戸時代から明治時代にかけて、土人形のことを「でこ」と呼び、五個荘小幡町で作られる「でこ」のことを「小幡でこ」と呼ぶようになりました。)のコレクションこちらは外村家外村宇兵衛邸外村繁邸当時の屏風などたくさんの見事な調度品が展示されてあった
2019年05月27日
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永源寺の参道から下を眺めると、音無川が見える。昔はもっときれいだったが、上流にダムができて濁ってしまったとのこと。山門の屋根の部分(重要文化財)本堂で屋根は琵琶湖の葦を葺いてあるとのこと。世継(よつぎ)観世音菩薩が本尊として安置されている鏡池、上の看板が実物で下が水に映ったもの。お寺の紅葉には葉が5枚7枚9枚にわかれているものがあるが、これは珍しい9枚に分かれた紅葉紅葉の種がついて、葉先が赤くなっているように見える一番奥まで拝見させていただいた。新緑の紅葉も清々しく、美しかった。これで、今日の宿泊予定の宿にと向かう。部屋は全体で16室ということで、こじんまりしている。日帰り温泉利用の人もいるようで、結構車はたくさん泊まっていた。温泉は普通の風呂、薬草風呂、露天風呂、一人用の風呂、サウナ、塩蒸し風呂がある。とりあえず温泉につかり、いざ夕食へ食前酒先付け 枝豆豆腐 雲丹、蕗八寸 蛍烏賊 酢の物 鰆の柚子味噌焼 小鯛寿司 など刺身焼き物 岩魚塩焼き近江牛焼しゃぶ近江牛筋肉入りの炊き合わせもろこの南蛮漬けアサリ山菜ごはんデザートそのごエステにいって、部屋でおしゃべりをして1泊目は終了した。
2019年05月26日
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信長の館では、信長の館には1992年に開催されたスペイン・セビリア万博へ出展された原寸大の安土城天主(5・6階)が展示されています。内部には当時信長が狩野永徳を中心に描かせた「金碧障壁画」、金箔10万枚を使用した外壁、金の鯱をのせた大屋根など絢燗豪華な安土城がここに復元されています。(滋賀県観光情報より)文献を参考にし釈迦涅槃図や、龍の絵、飛天などがかかれていて、とても立派だった。また、天子をお迎えするということが言われており、あるいは天皇を擁しての天下統一を信長は考えていたのかもしれない。安土城考古博物館の外観今は特別展が開催されている織田信長が築いた安土城とその城下町は、築城当時にはその華麗さ豪壮さで人々を驚かせ、歴史の上では、これまでの城や町のあり方を大きく転換させたとして注目を浴びています。しかしながら実際は、当時の記録や絵画資料が少ないため、具体的な姿は充分に明らかになっていません。この展覧会では、これまでの発掘調査や文献調査で、城と城下町について、いったいどこまでのことが分かっているのか、どのような課題があるのかを紹介します。(HPより)今までの戦闘のための拠点としての城から、政の中心としての城へと信長は機能を転換させようとしていた。城下町の配置や天主(ここではそうかかれてある)の中身から類推されるということで、それらの文献や、肖像画が展示されていた。また弥生時代の遺構がでるということで、出土品などが展示されていた。したは博物館中庭その後永源寺へと向かう。永源寺とは愛知(えち)川右岸にある臨済宗永源寺派の大本山。南北朝時代、近江の領主であった佐々木氏頼が、寂室元光禅師(じゃくしつげんこうぜんじ)を開山に迎え、伽藍(がらん)を建立したのが始まり。その後も永源寺には高僧が集まり、佐々木氏の庇護のもと盛時には2000人もの修行僧を擁したといいます。戦乱の時代には兵火で衰えましたが、江戸時代に一絲文守禅師(いっしぶんしゅぜんじ)が住山されると、後水尾天皇や東福門院らの帰依を得て、さらに彦根藩井伊氏の庇護によって諸堂が整えられました。 石段の参道を登ると、右手に愛知川があり、左手の石崖には十六羅漢の石仏などが奉安されています。参道一帯にはモミジ・カエデが多く、秋の紅葉期には多くの観光客で賑わいます。総門の手前少し登った所に井伊家四代目直興公の墓碑があります。山門をくぐると、境内には庫裡(くり)・鐘楼・方丈・法堂・禅堂・開山堂などが建ち並びます。開山堂には、国指定の重要文化財である寂室和尚坐像があります。 また本尊の聖観音像は秘仏で、「世継ぎ観音」とも呼ばれ、祈願すると子供や跡継ぎに恵まれると伝えられています。(滋賀観光情報HPより)こちらの案内は観光ボランティアガイドにお願いしたまず大歌橋を渡る下は分かりにくいかもしれないが、この位置から見ると排水溝がマーライオンに見えるこちらで修行していた僧侶がなくなり、供養のために奥さんが参道にお地蔵さんを建立したということで、眼鏡をかけている。十六羅漢の石像
2019年05月25日
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例年の女子会の旅行、今年は奥琵琶湖というか琵琶湖の東側まで行く旅となった。まず最初は、UCCの滋賀工場のファクトリーセンターまで行って、工場見学をしてきた。火曜と木曜の10時、13時に見学ができるので10時に申し込んだが、高速道路が渋滞して、非常に焦った。昔は上島コーヒーといっていたそうだが、世界で初めて缶コーヒーを作った会社である。つくと、すぐにコーヒーをごちそうになる。その後ビデオで、コーヒー豆のできるまでとコーヒーの焙煎などの過程を勉強する。写真撮影はロビーと、この映画の場所のみ人を写りこませないという条件で許可されている。その後工場内の様子をガラス越しに見学する。水は鈴鹿山系の地下水で豆は直営農園での栽培、焙煎についても豆の種類によっていろいろ変えているらしい。ドリップについても、高温で圧力をかけてドリップすると早くできるが、雑味が入るので、できるだけ通常のドリップに近い形にしているので、雑味を入れないようにしてあるということだった。ここで、圧力をかけて抽出したコーヒーと通常に近いドリップで抽出したものの飲み比べをする。圧力の高いのは、濃いし、アクが出ている感じがし、こちらのコーヒーは透明感があって軽い感じがする。工場の中は当然のことながら機械化され、とても広い工場だが同時には25人程度の人が従事している。24時間操業で3交代ということだった。そして、元の部屋に戻り、コーヒーのほかにも色んな飲み物を好きに飲んで良いということだった。商品を買えるコーナーもあった。続いて安土に移り、文芸の郷へと向かう。ここには安土城天主を復元した信長の館と安土城考古博物館などがある。文芸の郷HPによれば一見してローマ風の建物が建ち並ぶこの「文芸の郷」は、ヨーロッパ文化交流の国際都市としての安土桃山時代の象徴として誕生しました。スペイン・セビリア万博の日本館メイン展示物として復元された安土城天主を展示している信長の館やパイプオルガンを備えたバロック調の音楽ホールである文芸セミナリヨ、総合体育館としてまた多目的ホールとしてスポーツや文化交流にと幅広く活用できるあづちマリエート、四季折々の味を生かした文芸の郷レストランなど、歴史と文化に出会える場所です。 文芸レストランで昼食を食べた安土御膳 よしみどりうどん、かちどき汁、赤コンニャク、えび豆etc地元の味覚盛りだくさん!信長の館文芸の郷セミナリヨパイプオルガンなども設備されているコンサートホール
2019年05月24日
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今日は日帰りバス旅行にお出かけした。朝から早めに起きて、掃除洗濯を完了し、コロを散歩に連れて行って、集合場所に10時に集合する。まずは箕面温泉へとバスは走り11時半に到着。平日というのに駐車場は満員だった。これが昼食で、釜炊きのキノコご飯と茶碗蒸し、おみそ汁ががあとから出た。12過ぎに温泉に入るが、当然撮影はできない。普通のお風呂、泡ぶろ、電気ぶろ、薬風呂など5種類のお風呂があった。別に露天あり。1時からは大衆演劇劇団十六夜の公演が始まる。一部は劇で、またたびものが約1時間筋は想像がついても、臨機応変のギャグが会場に受けていた。私が大衆演劇を見るのはこれで2回目だが、熱心なフアンの人は万札を役者さんの懐に押し込んでいた。その後休憩をはさんで舞踊ショーがあったが、出発の時間があり、中座した。温泉の入り口にいるラバ「もみじ」3時に温泉を出発して、大阪の咲洲(さきしま)の府庁の庁舎の55階にある展望台へとのぼる。そこから見える景色その後近くにあるめんたいパークに寄り、お買い物をする。めんたいパークのキャラクターが上の写真。そして6時過ぎに帰宅した。
2019年05月10日
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敦賀で研修を受けて、そこから奥琵琶湖へと引き返し、昼食はバイキングということで、しっかり3皿いただいた。茶そば、ラーメン、カレーコロッケ、もいただいた。その後はデザートとして、桜餅、ミニケーキ、わらび餅、フルーツヨーグルト(ちょっと食べ過ぎでしょうか)そのまま、遊覧船にのって琵琶湖の水上から街道の桜並木をみることになった。風が強く、雨もぱらついたので船の窓を開けることが難しかった。また、大阪方面よりは気温が低いという事で全体としては5分咲きで、来週土日が見ごろだという感じだった。それから上陸して、あとは一路京都を通って、大阪へと帰った。春休み最後の日曜なので渋滞を心配したが、巻き込まれす、予定よりは1時間近く早く帰着できた。いつも言う公園もバスから覗けたがこちらは満開でものすごい人だった。家に帰ったら隣の娘さんとあって「コロちゃん元気ですか」と聞かれたので、コロを呼び出して少し遊んでもらった。その後はコロは私につきまとっていた、何かおいしいものの匂いがしたのかもしれない(笑)
2019年04月09日
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今日はボランティアの日帰り研修旅行で朝5時から起き(最悪なことにピーターパン君とその仲間が、夜に何度も家と飲み屋を往復しているようで何回も話声で起こされた)一通りの掃除洗濯を済ませて7時に家を出た。まずバスは敦賀港まで一気に走った。ここで人道の港敦賀ムゼウムという記念館を訪れる。1902年に敦賀港とウラジオストクの直通航路が開設された。1920年ポーランドはヒトラードイツとスターリンのロシアに分割併合され、戦火による難民孤児が、シベリア方面をさまよう状態となっていた。彼らは飢餓状態にあり、国際赤十字が撤退する中で、1922年ポーランド児童救済会長アンナ・ボルケビッチ女史が日本赤十字に孤児の救済を要請した。ウラジオストクから357人の孤児たちが日本に軍船に乗せられて、敦賀港上陸したその後第2次の孤児たち500人も上陸し、日本赤十字は栄養失調や疾病に苦しんでいた子どもたちに、治療などを施し、元気になった子どもたちを、安全になったポーランドへと送り届けた。日本の人たちが彼らにあげた、写真や扇子などを、孤児たちは大切に持っていたという。また、1940年ナチスの迫害から逃れるために、ユダヤ難民たちはリトアニアにある日本領事館に通過ビザの発給を求めて押し寄せる。日本政府はビザの発給を認めなかったが、領事代理であった杉原千畝は苦悩の末に人道の立場から、微差の発給を決断する。当時一番早いルートはシベリア鉄道でシベリアを横断してウラジオストクから敦賀へ上陸し形式的にはそこから、オランダのの領土である南米キュラソー島にいくということになっていた(ここは税関が無いので、上陸は自由)実際は日本から安全な他の国に亡命することになる。千畝の書いたビザは2000枚を越え一枚で一家族が渡航可能であったため6000人の人間が敦賀港に上陸した。当時の人たちが千畝はもちろんのこと敦賀の人たちから食糧をもらったり、銭湯に無料で入れるなどの好意をうけたことを忘れられない思い出として、証言するビデオも鑑賞した。
2019年04月08日
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湯浅は醤油の発祥地として広く知られるようになった。今から約750年前・鎌倉時代、禅僧・覚心(後の法燈国師)が宋(現中国)より径山寺味噌(金山寺味噌といわれているが、正確にはこの字)の製法を伝え、帰朝後種々の改良の末、湯浅の水が良かったことから醤油が作られるようになった。これが我が国の醤油の発祥の由来である。嘗味噌の中に、瓜・茄子などの野菜から塩の浸透圧によって水分が出てくる。この水は当時の野菜の生産が6月~8月であったため、黴の発生や腐敗の元にもなり、捨てるだけであったのだが、昔ある時、その汁を利用してみると、これがなかなか美味しい。そこで、初めからその汁を利用するつもりで造れば「新しい醤」つまり調味料が誕生すると考えたのが今様醤油の始まりだと言われている。また、湯浅の水が醤油作りに適した水であった事も湯浅醤油発展の一因となっている。(角長HPより)道成寺和歌山県日高川町にある天台宗の寺。号は天音山千手院。俗に日高寺という。大宝1 (701) 年文武天皇の勅願により大臣紀道成 (きのみちなり) が建立。義淵僧正作の千手観音立像 (国宝) を安置する。安珍,清姫の伝説で名高く,境内にその旧跡がある。伝説とは,熊野参詣の山伏安珍が真名古庄司のもとに宿った際,庄司の娘清姫に慕われ,激しく言い寄られ,やむなく偽ってそこを逃れ,道成寺に逃げ込んで鐘の下に身を隠したが,清姫は怒りと執念のあまり大蛇と化してあとを追い,鐘に巻きついて安珍を焼き殺すという話。後日譚があり,この事件以来道成寺には鐘がなかったが,鐘を再興して鐘供養をしたところ,白拍子が現れ,舞を舞ううちに蛇体となって鐘を襲おうとしたが,僧たちに祈り伏せられたという。(コトバンクより)こちらでは道成寺縁起絵巻をお坊さんが絵解きしながらお話してくれる。何度か聞いているが独特の抑揚があってなかなか面白い。真名古庄司の娘清姫は、安珍が熊野詣での帰りに必ず立ち寄ると約束したのに、一向に音沙汰がなく、道行く人に、このような人(安珍の風体)は通りませんでしたかと聞いている所。その人なら大分前にあちらの方に行ったと商人に教えられ、さてはだまされたかと、足袋はだしで男を追いかける。安珍は日高川を渡し船で渡り、女性が来たら絶対渡してくれるなと言い残す。日高川まできて渡し船に乗れない清姫は自ら川へ飛び込み大蛇となり日高川を泳ぎわたる。安珍は道成寺の僧たちに訳を話して、鐘の中へと匿ってもらうが、大蛇は鐘に巻き付き安珍を焼き殺す。400年後にもう清姫の執念もおさまったろうと鐘を設置した所、またも蛇が鐘を襲うと言う話は「京鹿子娘道成寺」という歌舞伎や踊りの演目になっている。ここで以上のような絵解きの説法を聞いて、私たちは地元へと戻った。
2018年12月12日
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昼食はシラス丼定食といただいた。鯛のお刺身も美味しかった。その後湯浅の町並み散策して歩く。地下水がきれいなので、いたるところにこのような井戸が見える。このような、著名人の歌、和歌、俳句などが、町並みの至るところに灯籠として書かれている。町並みでは色んなお店がある、このお店はミカンをこんな状態でくくってあった。ひと筆で文字を書いてまるで龍のような感じの絵を売っておられたが、撮影禁止でした。これは地元湯浅出身の画家の方が、空いたお家をギャラリーとして展示しておられたところ。ごく普通のお家が、格子に古い陶器や、人形を飾って出してある。夷大黒や分銅、昔の道具など。これが全体の町並みの一部で、江戸時代からの建物らしい。
2018年12月11日
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今日はボランティアの研修旅行で「稲村の火」の館(和歌山県広川町)へ行ってきた。日曜日と言う事だからか、結構な人が見学に来ていた。当時の家の庭濱口梧陵は広村(現在の広川町)で分家濱口七右衛門の長男として生まれ、12歳の時に本家の養子となり、銚子での家業であるヤマサ醤油の事業を継ぎました。 安政元年(1854年)、梧陵が広村に帰郷していた時、突如大地震が発生し、紀伊半島一帯を大津波が襲いました。梧陵は、稲むら(稲束を積み重ねたもの)に火を放ち、この火を目印に村人を誘導して、安全な場所に避難させました。 しかし、津波により村には大きな爪あとが残り、この変わり果てた光景を目にした梧陵は、故郷の復興のために身を粉にして働き、被災者用の小屋の建設、農機具・漁業道具等の提供をはじめ、各方面において復旧作業にあたりました。また、津波から村を守るべく、長さ600m、高さ5mの防波堤の築造にも取り組み、後の津波による被害を最小限に抑えました。南海地震が起きた時どこまで津波が来るかと言う想定範囲後ろの青い部分は平地茶色は山。この辺りは川が多いので、川を津波がさかのぼる危険もある。津波の起きるメカニズムや、和歌山地方での地震の記録などの解説、防災の知識にチャレンジするコーナーなどもある。館の入り口は浜口家の屋敷であり、流石に村の庄屋格と言う感じの立派な屋敷この中に彼の功績をしのばせる資料などが展示されている。村のリーダーだけではなく、陽明学を学び私塾を開き、医学生への就学援助などもしていたらしい。そして、渡り廊下で近代的な建物へとつながっていて、ここでは3D映画で稲村の火」にかかわる地震の物語や東日本大地震の時に、てんでこ逃げろということで、とにかく自分が自分の身を守ってそれぞれが逃げたことで、助かった話しの映画の上映があった。勝手ににげろと言うだけの話しではなくて、普段から防災意識を持ち、津波に見舞われた時はどこに逃げるのか、家族なりで話しあっておくこと、そしてどういうルートを通るかも良く考え、臨機応変に個人が対応すること。そう言う下地というか普段の意識があってこその話だと思った。
2018年12月10日
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ロビーの椅子木を上手く利用したゆったりした感じのロビー朝はまず起きて、3番目のお風呂に入浴、7時過ぎにはバイキングの朝食会場へ向かう。結構種類が多く、基本は私はパン食だが余分に茶碗蒸しと湯豆腐をとってしまった(笑)9時にホテルを出発して、10時ごろに日清のカップヌードルミュージアム安藤百福発明記念館に到着する安藤百福の像1958年(昭和33年) 8月25日、安藤百福は、大阪府池田市の自宅裏庭に建てた小さな小屋で、ありふれた道具を使って研究を重ね、世界で初めてのインスタントラーメンである「チキンラーメン」を生み出しました。そして、世界に広めるためのカギは食習慣の壁を越えることにあると気づき、さまざまな知恵と革新的な発想を結集した「カップヌードル」を発明し、日本で生まれたインスタントラーメンは世界食に生まれ変わりました。「カップヌードルミュージアム」では、新しい食文化となったインスタントラーメンの歴史を通じて、発明・発見の大切さを伝えます。(ミュージアムのHPより)日清食品、明星食品(日清グループのひとつ)が今までに発売した商品が展示されている。カップヌードルの断面図チキンラーメン作り体験の会場安藤百福氏が毎年年頭に書いた色紙ひととおり展示物を見て回ったが、ここではマイカップヌードルの作製体験とチキンラーメンの製造体験ができる。私たちはチキンラーメンの製造体験をすることにした。全行程は1時間半かかる。小麦粉と水やかん水をまで合わせて生地を作るそれを麺棒で薄く延ばす次に機械に10回ぐらいかけてより薄く長く引き延ばす次にその形を機械で整えるさらにその生地を機械に入れて麺のように細くして、鋏で裁断するできた麺に油を混ぜ合わせ最後に調味スープをかけてなじませる。四角く小さな網にラーメンの量を計ってふんわりと入れる。それを油の中に入れて、水分を飛ばす約2分程度して、上がってきた麺これをチキンラーメンの袋に入れて機械で圧着してできあがり。小学生や外国人の人もたくさん見学に来ていた。NHKのテレビドラマの影響もあるかもしれない。ミュージアムをでたのが12時半ごろでそれから予約してあったパンケーキのお店で昼食をいただいた。お昼を食べて満足して、3時半には家に帰りつくことができた。
2018年10月27日
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ホテルのロビーから見える景色、阿倍野ハルカスやツインタワーなど大阪の建物が見える。夜部屋から眺めた夜景右奥(アンコウの肝あえ)緑の器(河豚せんべい)丹波鳥博多、サトイモ寄せ 鮭寿司造り 3種盛り蛤しんじょう牛肉故障鍋ズワイガニ巻き織り蒸し鰆紅葉焼きもち豚とあさりのトマト煮鯛とまいたけの揚げ物栗ご飯赤だしクリームキャラメル4時20分に到着して、ロビーで眼下に広がる景色をながめ、部屋ですこしのんびりして、5時にはお風呂に入りに行く。お風呂は3か所あって夜は入れるのが2箇所だったので、まず食事前に一箇所に入る。宿は三階建てで客室は3階に20室あり、そう大きくなないので人の気配があまりしない。そして夜の食事は上のようなものだった。箕面はなんといっても紅葉なので、紅葉に関連したものがいっぱい出てくる。今週からご飯は栗ごはんで先週はキノコご飯だったそうだ。私はこちらでできた柚子を使った柚子酒をいただいた。食後にもう一度別のお風呂に入り、外の夜景を楽しんだ。たまに廊下で行きあったたのお客さん同士も「こんばんは」と挨拶し合う暖かい雰囲気のところだった。
2018年10月26日
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女子会としては、近くでゆっくり温泉と食事を楽しみたいというので、電車などで1時間と少しでいける、箕面へ行く事に決定した。13時ごろに箕面へ当社した。駅には足湯もあった。箕面の滝の方は土砂崩れや倒木のため、本来の道ではなく山道を通らないといけなくて、高齢者や子どもさんなど体力に自信のない人は無理をしないでくださいと看板がでていた。私たちも無理せず本道をいけるところまでぶらぶらと歩くと言う事で、本道の方歩いて見た。紅葉の天ぷらが色んなお店で売られている。色々味付けは違うのかもしれないが、紅葉にパンケーキの水どきをつけて揚げている感じ。本道にあった歴史を感じさせるお家。まだ紅葉には早いが種類によっては紅葉している。年輩の方たちが結構歩いていてた。西暦658年、役行者が箕面滝で修業し、弁財天の導きを受けて悟り宗教家として大成しました。行者は報恩感謝のもとに、自ら弁財天の像を作製し、滝の側に祭祀して箕面寺と称しました。(当寺の始めと伝える。後に、瀧安寺と改称)以後、多くの修行者が入山し、山岳の道場として発展しつつ、最盛期には堂舎が八十余りも存在した。名高い宗教家に、奈良時代の行基を始め、空海(弘法大師)、聖宝(理源大師)、圓珍(智証大師)、鎌倉時代の法然、日蓮、そして蓮如の諸師達がいます。しかし、明治以降は時勢の大変動によって当区域のみとなり、大阪府による森林公園の企画下のもと、堂跡には土産店や食堂が建ち並んで今日に至ります。本尊は七福神の一神である弁財天で、財運の向上、芸能の上達を願い、一方、観音堂の主尊である如意輪観音には除災招福を求め年間を通じ参拝者で賑わっています。(HPより)このお寺も、台風21号の被害で、お寺の屋根に巨木が倒れ、復旧が難しいような状態になっている。ここをお参りて、引き返すことにした。途中で西江寺にもお参りする。箕面山は古来より瀧を中心に山林の修行道場として発展し、日本でもっとも古い修行地の一つです。658年飛鳥時代、役行者(えんのぎょうじゃ)によって開山されました。役行者が箕面大瀧で苦行を重ねていたある日、山獄鳴動して光明が輝き光の中から老翁に化身した大聖歓喜天が現れ、この山を日本最初の歓喜天霊場とし、万民の諸願成就のため未来永劫ここに鎮座すると申されました。本堂には役行者作日本最初の大聖歓喜天が祀られ1300年余の歴史があり、現在も地元の氏神として「聖天さん」と呼ばれ信仰を集めています。大聖歓喜天は古代インドでは知恵・幸運の神であるガーネーシャがもとで、日本へは金銀融通、縁結びの神として伝わりました。象頭人身の男女が抱き合う形をしており、夫婦和合・安産・子宝の神としての信仰もあります。(HPより)さらに下へと向かい駅まで戻り、4時過ぎにくる旅館の送迎バスをまつことにする。
2018年10月25日
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今日はボランティアとして月一度のイベントを実施しているが、今回はその中でも年内で一番大掛かりというか、バスで日帰り温泉に出かけるという企画をした。去年までは80代後半の人が数人きておられたのだが、今回は欠席でその代わり若手の人が参加した。参加者は30人以内ということで募集して23人だった。行き先は和歌山方面で町内から車で40分ぐらいのかつらぎ温泉。行き先から送り迎えをしてくれる。滞在先の庭突き出し刺身ごま豆腐鶏肉などの陶板焼きお吸い物茶碗蒸しと鰆の焼き物天ぷら炊き込みご飯デザートお風呂はにごり湯と普通のお湯、露店風呂などがあって、足湯もあったりしてよかった。帰りは串柿の里という道の駅によって買い物をして帰途についた。
2018年10月10日
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椿山(つばきやま)守護の願いが込められた、神々しい雰囲気の椿たち。椿山には約400本近いヤブツバキが植えられています。(閑谷学校HP)ガイドの方から教えてもらったのだが、一番左手奥の椿の瘤がまるで猿が椿の幹から頭だけを出しているように見える。自然のなせるわざなのだが、教えてもらって非常に納得した。ガイドの方の説明で、きれいだなだけで通り過ぎてしまうところの見どころや歴史などを教えてもらい非常に勉強になった。そして昼食としては地元の名物「かきおこ」をいただく。牡蠣入りのお好み焼きということである。手前半分は普通のお好み焼きソースとマヨネーズ。向こうは岩塩がかけてある。これが結構おいしい。つづいて日生諸島頭島にあるたぬき山展望台に向かう。四方の海360度ここから眺めることができる。ここで瀬戸内海の眺めを満喫して、大阪へと帰路についた。おしまい。
2018年06月09日
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翌日の朝食、結構内容は充実していた。道の駅では地元の野菜が安かったので、皆で大分買った(笑)今日のメイン閑谷学校へ到着する。いろいろ見どころはあるが、事前にボランティアガイドの方に案内をお願いした。やはり、単なる観光客だと見逃してしまいそうなところをしっかり説明してもらって勉強になった。閑谷学校のHPによると「閑谷学校は江戸時代前期の寛文10年(1670)に岡山藩主池田光政によって創建された、現存する世界最古の庶民のための公立学校です。初めて閑谷の地に来観した池田光政は、「山水清閑、宜しく読書講学すべき地」と称賛、地方のリーダーを養成する学校の設立を決めたのです。この学校の永続を願う藩主の意を受けた家臣津田永忠は、約30年かけて、元禄14年(1701)に現在とほぼ同様の外観を持つ、堅固で壮麗な学校を完成させました。平成27年(2015)4月には「近世日本の教育遺産群」として特別史跡旧弘道館、史跡足利学校跡、史跡咸宜園跡などとともに最初の日本遺産に認定されました。学ぶ心・礼節を重んじた近世の教育が、近代化の原動力となり、現代にも受け継がれていることが認められたのです。開校以来、講堂の床に正座して論語を学ぶ姿は旧閑谷学校の伝統です。今日もここに学ぶ研修生の論語を朗誦する声がこの谷に響いています。」閑谷学校の受付の門(65歳以上の人は生年月日を申告すると割引がある)奥に見えるのは、ここは閑谷神社ここは正門の屋根で備前焼の瓦が使われている。瓦の下に土を載せず。通風孔が何本も通っていて、排水できるようにもしてある。これで瓦の傷みをを防いでいる(建設当時の知恵)「学問の殿堂」、旧閑谷学校を代表する国宝。「講堂は入母屋造り、しころ葺きの大屋根と火灯窓が壮重な独特の外観を形作っています。創建当時は「茅葺き」でしたが、その後改築され現在の堅牢な「備前焼瓦」に葺き替えられました。内部は十本の欅の丸柱で支えた内室と、その四方を囲む入側とで成されています。 また、拭き漆の床は生徒たちによってよく磨かれており、火灯窓から入る光をやわらかく反射させています。」(閑谷学校HPより)「楷の木(かいのき)四季を通して情緒豊かな「学問の木」。聖廟前に植えられた二本の楷の木は、中国山東省曲阜の孔林から種子を持ち帰り苗に育てられた内の2本です。紅葉の季節には美しく色づく楷の木を見ることができます。」(閑谷学校HP)池田家の紋であるアゲハ蝶が瓦に印されている重要文化財閑谷神社(しずたにじんじゃ)創始者、池田光政を祀る神社。「閑谷学校の創始者、池田光政を祀っています。もとは「東御堂」、または光政の謚をとって「芳烈祠」と呼ばれていました。本殿内には御神体として光政の座像が安置されています。」(閑谷学校HP)御納所(ごなっしょ)閑谷学校の創始者である岡山藩主池田光政の髪、髭、爪、歯を納めた供養塚である。ここで柏手をうつときれいに響く。また周りの石垣は全て曲線で組まれていて龍がうねっているように見える。もともと池田光政は藩内に123か所の手習い所を設けたが、最終的にそれらを統合してこの学問所をもうけたらしい。講堂の建てられている場所は地盤が堅牢で、阪神淡路大震災の時に震度4の揺れがあったが、全く損傷はなかったそうである。また、藩主の交代や様々な政変などで、学校の存続が危うくならないように、学校領という領地を与えて、それで学校経営のための費用を賄っていたらしい。教えていたのは陽明学ということである。建物を堅牢にする工夫、また財政的な独立性をもたせたこと、本当に100年先のことまで読んでいた藩主だなと感心した。なおここで寄宿するか通学して学んだ庶民はそれぞれの出身地に帰り、教えをつたえるという使命を果たしたそうである。
2018年06月08日
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その後備前長船刀剣博物館へと移動する。おでかけ旅ネットによる説明では長船町は鎌倉時代から刀鍛冶の本場として栄え、優れた刀工を多く生み、質・量ともに他国を圧倒し、長年にわたって隆盛を極めた町です。長船には今でも刀工にまつわる史跡が残っており、こうした先人の遺業を顕彰し、永く後世に伝えるために、刀剣を主体とした博物館を1983(昭和58)年9月6日に開館しました。内部は写真撮影は不可になっている。まず1回で日本刀の作成過程のビデオを鑑賞する。とにかく何度も火にくべては、精錬してそれを打って打ってということを何度もして作っていくという事がわかった「鍛練」という言葉が出てきて、私たちは鍛練が大切だということは理解した。これを見たおかげで、展示している刀剣類の模様なども理解できた。日本刀を持つという体験もできて、如何に重いものかということも解った。その後、備前焼の里にいき備前焼を見て回った。カフェの併設してあるギャラリーで、おやつをいただく。そして、4時少し前に湯郷温泉の宿に到着する。二人で14畳という広い部屋だった。それを二部屋使用する。温泉は時間が早い目だったのでゆったりと入れた。食事は全員でいただく。あわびと岡山牛の陶板焼きや鱧しゃぶ鯛の生け作りかたくりうどんアユの塩焼きその他たくさんあってお腹がいっぱいになる。女子会の贅沢として、一人1時間のエステに出かけて、ゆったりした気分になったところで、ぐっすりと眠ることができた。
2018年06月07日
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朝五時前に起きて、窓から日の出の様子をとってみた。最初の方がこれしばらく時間をおいてほぼ同じ位置でとったもの朝のモーニングコーヒーはセルフだけれど、自由に飲んで良いとのことで、5時に朝風呂に入りその後モーニングコーヒーをいただく。朝食は会場だったが、窓越しに一面の海をみられて良かった。全室19部屋というこじんまりしたお宿で、団体さんもなく、行きかう人が自然に挨拶をかわせるという雰囲気の良い宿だった。8時半に出発して、新しくできたという道の駅に向かうが、あまり収穫はなし。次に飲むヨーグルトを売っている香取村の販売所をめざす。実際行ってみるとそれは農業協同組合の事務所だった。ここで飲むヨーグルトをいただく。やはりできたてでおいしかった。次にミルクプラントという村の工場をめざす。下の写真。ただ、見学可能が10時~ということでついたのがはやすぎたので、外観をみた。水木しげる氏の天井画のある大山寺塔頭の圓流院に行く。大きな木立に囲まれてとても涼しげなところ。108の妖怪が描かれている。ご住職もとても素敵な方だった。次に金持神社(かもちじんじゃ)に行く。金運上昇の神様だとか、参加者全員真剣にお祈りしていた(笑)お礼まいりということで、宝くじに当たったとかいう絵馬がたくさん奉納されてあったが、本当ならすごい。神社近くの水田の苗はこのような感じだった。そして、道の駅によってはお土産物を買うと言う感じで、無事我が家に帰ってきた。
2017年06月09日
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そして旅館にたどり着く、下は玄関皆生温泉の泉質は、ナトリウム・カルシウム塩化物泉で、湧出量は毎分4456.5リットルと豊富な湯量。源泉数は19カ所。源泉温度は63〜83℃と高温で、主な効能は神経痛、リウマチ、慢性皮膚病、慢性婦人病などで、近年お湯の調査から美肌効果に優れていることが分かり、女性にとってもうれしい温泉として注目されています。まさに「ホカホカ、ツルツルの健康と美肌をつくる」温泉ということらしい。下は宿が海岸沿いにあるので散歩に出たときの光景。波が打ち寄せてきて結構迫力がある。ブロックの中は静かな海になっているが、ここのところ風が強く波が激しいとのことだった。部屋からの風景海と山が一望できる。温泉は5階にあり眺めは最高だったが、撮影は当然不可。そしてお待ちかねの夕食杏の食前酒たこしゃぶの材料水無月豆腐(和菓子水無月をイメージしたもの)突き出し境港でとれた鯵などの刺身一口ずし紅ずわいのジュレ鳥取牛の石やきそのほか天ぷら蒸し物じゃこご飯シジミのみそ汁メロンと、キウィ、抹茶のムースのデザート地元の魚がたくさん出てきたのが嬉しかった。
2017年06月08日
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ジャージー牧場での昼食の後は、鬼女台(きめんだい)の展望台に到着蒜山高原と鳥取県の鏡ヶ成を結ぶ観光道路・蒜山大山スカイライン(県道大山上福田線)にある展望台沿線にはブナ、ナラ、トチノキなどの原生林があり、北西には大山や烏ヶ山の荒々しい山肌が、南東には蒜山高原のなだらかな稜線を望むことができる。気温は22度ぐらいでとてもさわやか。前を見れば海後ろを見れば大山と烏が山ここで風景を堪能し次に大山までやってくる。天空リフトというのが運行しているので(冬はスキー用のリフト)これにひとりずつ乗ってみるが、約1名は高所恐怖症で、リフトに乗るのが絶対いやということで、地上に残る。ここの展望台にはいろいろな植物が生えている。観光ボランティアの女性が、上の写真は山ブドウこのピンクの花はダイセンウツギというと教えてくれた。普通のウツギは白い。ダイセンマキ普通の槙は上に伸びるが、高山植物なので高くはならず、山肌を這うように横へ横へと生長するらしかった。展望台はこんな感じ。リフトで登る途中で、突然大きく揺れてリフトが止まった。しかも結構高い所で。数分間とまって動きだした。夏場は小さな子どもさんや高齢の方も上るので、リフトの乗り降りに時間がかかる人もいて、リフトが止まることもあるそうだ。こちらは、全く意識していなかったが、今日は大山の山開きとかで、上の神社と山麓で神事が行われているということだったが、道路は全く混んでいなかった。山麓では結構たくさん人がいたが。何キロ走っても車と行き合わない国道がいっぱいあった。しかも、本当に交通量が少ないのか道路がほとんど傷んでおらず、車はしずしずと走るのだった(笑)
2017年06月07日
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朝8時に女子会メンバー出発し、11時半に蒜山の塩釜冷泉に到着する。中蒜山の中腹からの湧水で、日本の名水100選に選ばれた。小川が流れているが水もきれいで、キャンプ地としても多く利用されているみたい。私たちも早速冷たい水をいただきました。蒜山山麓のジャージ牧場(蒜山の酪農協同組合が経営している)に到着する。遠くに大山が望める。ジャージー種の牛がたくさん放牧されている。ファミリーがいっぱいだった。レストランでは、蒜山焼きそばとチーズフォンデュを適当にオーダーして、みんなでシェアする。どちらも食べたかったので、両方食べられたので満足した。写真を取り忘れたので、イラストで失礼。しかも、全ての料理にはヨーグルトがついてくる。
2017年06月06日
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そして最大の楽しみである今日のホテルのお料理季節の食材で柿や栗などに見えるように作られた前菜。食前酒は柚子酒造りは 中トロ、あおりいか、ひらめ、イセエビの生け作り、さざえワサビは個人ですりながら使う容れ物は氷をかいたもの吸い物としてまつたけの土瓶蒸し焼き物としてあわび温めものとして、いのぶたとクエの小鍋(豆乳だしとこんぶだしをごまだれとポン酢で)一品として新種のかんきつ類をいれものにした炊き合わせ替え皿は生ふの田楽ご飯は栗ご飯赤だしはさっきの作りのエビデザートこの後全員でカラオケルームで遊んで、温泉を楽しんだ。仕事が入っている人があったため、翌朝は9時頃出発して家に向かった。
2016年10月15日
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