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これまでも自称ルポライターtomy4509が調べ書き記してきたように、「独生女」は文鮮明総裁・真のお父様が聖婚式を前にして語り始められた「造語」ともいうべきものだった。聖婚式が「小羊の婚宴」であったとすればお父様「独生子」、お母様「独生女」は疑う余地もないことである。また、お父様が聖和されたあともお母様自身が「独生女」と語られたとしても何ら問題を感じないはずだ。
支障を感じることがあるとすれば、お父様の「独生女」発言(造語)を信じることが出来ない、お父様(実体)そのものを信じられない、ということになる。それでも支流人らは「お父様を信じている」というかもしれないが、嘘っぱちである。
机上の空論「独生女批判理論」そのものが何であるかとするならば、 お父様「独生女」を語らずのお母様「独生女」発言を信じられない 、それに尽きる。
原理講論に「独生女」の記載がないから非原理的というのもナンセンスだ。
神の創造目的を、心情の因縁を中心として見るならば、神は、霊的な父母として、人間を実体の子女として創造されたのである。そして、最初に神の二性性相の形象的な実体対象として創造されたアダムとエバは、神の第一の実体対象として、人類の父母となるのである。それゆえに、彼らが夫婦となって子女を生み殖やし、父母の愛と夫婦の愛、そして子女の愛を表し、父母の心情と夫婦の心情、そして子女の心情によって結ばれる家庭をつくるようになっていたのであるが、これがすなわち三対象目的をなした四位基台であったのである(前編第一章第二節(三)参照)。ここでも神様を霊的な父母(天の父母様)といった記述を見ることが出来、 「創造されたアダムとエバは、神の第一の実体対象として、人類の父母となる」 ことを願われた神様は、再創造摂理においても原罪と全く関係しないアダムとエバでなければその実体対象として立てることは出来ない(以下)。
聖書の「生命の木」と「善悪知るの木」がペアであったように、記載がないかといっても原理講論の行間にある「独生子」「独生女」が出会っての「小羊の婚宴」を見逃すわけにはいくまい。(一) 重 生 論
① 重生の使命から見たイエスと聖霊
イエスは、自分を訪ねてきたユダヤ人の官吏ニコデモに、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできないと言われた(ヨハネ三・3)。重生とは二度生まれるという意味である。では、人間はなぜ新たに生まれなければならないのであろうか。我々はここで、堕落人間が重生しなければならない理由について調べてみることにしよう。
アダムとエバが創造理想を完成して、人類の真の父母となったならば、彼らから生まれた子女たちは原罪がない善の子女となり、地上天国をつくったであろう。しかし、彼らは堕落して人類の悪の父母となったので、悪の子女を生み殖やして、地上地獄をつくることになったのである。したがって、イエスが、ニコデモに言われたみ言どおり、堕落した人間は原罪がない子女として新たに生まれ直さなければ、神の国を見ることができないのである。
我々を生んでくださるのは、父母でなければならない。それでは、堕落した我々を原罪がない子女として生んで、神の国に入らせてくださる善の父母は、いったいどなたなのであろうか。原罪のある悪の父母が、原罪のない善の子女を生むことはできない。したがって、この善の父母が、堕落人間たちの中にいるはずはない。それゆえに、善の父母は、天から降臨されなければならないのであるが、そのために来られた方こそがイエスであった。 彼は堕落した子女を、原罪のない善の子女として新しく生み直し、地上天国をつくるその目的のために真の父として来られた方であった。ゆえに、ペテロⅠ一章3節に、「イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ」というみ言がある。イエスは、アダムによって成し遂げられなかった真の父としての使命を全うするために来られたので、聖書では、彼を後のアダムといい(コリントⅠ一五・45)、永遠の父といったのである(イザヤ九・6)。また、神は、預言者エリヤを再び送り、彼の力で堕落した人間の心を、父母として降臨されるイエスの方へ向けさせることによって、彼らをその子女となさしめると言われた(マラキ四・6)。そして、イエスが再臨されるときも、父の栄光のうちに来られる(マタイ一六・27)と言われたのである。 ところで、父は一人でどうして子女を生むことができるだろうか。堕落した子女を、善の子女として、新たに生み直してくださるためには、真の父と共に、真の母がいなければならない。罪悪の子女たちを新たに生んでくださるために、真の母として来られた方が、まさしく聖霊である。 ゆえに、イエスはニコデモに、聖霊によって新たに生まれなければ、神の国に入ることができない(ヨハネ三・5)と言われたのである。
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