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2021.11.23
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​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​ 「万物の日」

1984年5月31日
ワールド・ミッションセンターにて


  小宇宙としての人間

 統一教会では、父母の日、子女の日、万物の日、神の日など四大名節を記念して祝っています。その他にどのような日がありますか? 御聖誕記念日、天勝日、愛勝日、愛天日などが統一教会においては忘れてはならない記念日なのです。

 きょうは何の日ですか?(「万物の日です。」)そういう言葉は少しおかしいと思いませんか?

 本来、堕落がなかったなら、父母の日だけですべてが終わるはずでした。皆さんが原理で学んで知っている通り、アダム・エバが結婚式を行う日、原理結果主管圏と直接主管圏が完全に連結され、完成を見るようになっていました。そのような日が完成されていたとしたら、愛天日とか、愛勝日とか、天勝日とか、万物の日とか、子女の日とかは、一度に完成するようになっていたのです。

 堕落した歴史世界にも父母はいました。しかし、その父母はいかなる父母であったか? 神と切り離された堕落した父母でした。子女の日もありますね。皆さんの子供たちの誕生日がそうです。万物自体も私たちが生まれる前からあったのです。万物が万物自体として権利をもったそのような万物の日がありました。そのすべての存在が、本来の主人である創造主、神様との関係を結んで、その愛による主管を受けていたとしたら、このような加重された蕩減復帰という現状世界、悪の世界は存在しえなかったのです。

 ところで、なぜ神様が天と地を創造されたのでしょうか? これが問題です。これは哲学においても問題視され、多くの宗教においても、数多くの人々が考えてきました。

 この宇宙とか人間をじっと見ていると、それらの主人は一体誰なのかを考えるのです。皆さんが天文界を見るとき、たとえば銀河系のように一千億もの星が入っている膨大な宇宙がひとりでに生まれてきたというならば、それほど気違いじみた話はないのです。地球のような星が一千億箇入っているというのは想像することすらできません。しかも、それは静止してはいないで運動していますから、お互いにぶつかり合って、すべてが目茶苦茶になってしまうはずなのに、それがひとりでに生まれてきたというなら、なぜ交通事故が起らないのでしょう。

 人間の体は細胞だけでも数百兆の細胞からなっていると言われています。今、その細胞の一つを太陽系の大きさに拡大させて、その原子、分子間の距離を太陽系と比例的な距離にして、人間一人を数百兆の細胞に分ければどうなるかを考えてみなさい。一人が動くということは、どれほど荘厳なことでしょうか。(笑い)人間を構成する細胞の原子、分子の間の距離関係は太陽と地球ほども離れているので、ぎっしり詰っているように見える人体も実は空っぽのようになります。

  男女が一体化する中心点

 そう考えてみると、私の中心はどこになりますか? 一体中心があるのかどうか、そして私の主人は誰で、どこにいるのか、これが問題です。皆さん一人一人がこのように膨大な存在なのです。男と女を二人合わせるとそれは更に大変なものです。

 男一人で二人の役割をすればいいのに、女がなぜ創造されたのですか? 一人の人間の右手は男子で左手は女子というように、一つの体に共存していたならば、どれほど平和で、喧嘩もなく、良かったことでしょう。いくら嫌がったとしても、喧嘩をして二度と見たくなくても自然に和合するのです。何かを食べる時でも、西洋においては右手はナイフ、左手はフォークを持たなければなりませんね。(笑い)

 このように思うとき、主人は誰で、私の中心はどこかというのが一番の問題なのです。それを一度考えてみましょう。人間の中心はどこですか?(「神様です。」)神様を除いては? 話はまだ神様にまで至っていません。男子の中心がどこで、女子の中心はどこですか? 頭、胴体、体の中でどこでしょうか?(様々な答え)「頭」と言う人もいますが、頭だけあれば人間になりますか? 肉身を中心として見れば頭が中心と言えますが、人間は肉身の他に霊があります。その霊の中心はどこなのですか?(「マインド、ハート…」)そのハートはどこにありますか? 東洋の人たちは「精神は胸にある」と言います。良心と言えば頭にあるのではなく、胸にあると考えるのです。なぜかと言えば、心臓は生命活動の源泉ですから、すべての生命の源である心臓に近い胸にあると考えるのです。

 では、心と体、つまり精神と肉身がどこを中心として一つになるのでしょう。頭のてっぺんから足の先まで何百兆もの細胞がありますが、それらをつなぎ合わせ、調和させるものがあるはずです。完全に一つになることのできるその中心は何ですか? これが一番の問題です。それは男子において重要な所であり、女子において重要な所です。それがどこですか?

 では、男子と女子が異なるものは何ですか?(先生が黒板に凸凹の図を書かれる。ざわめきと笑い)自然にお話をするのに、それをおかしく思う人は堕落した人なのです。私たちの霊と肉が百パーセント通ずることのできるその中心が男子の重要な部分であり、女子の重要な所なのです。これは俗ぽい話ではありません。そのために人間は思春期という一時期があって、肉的にも成熟し、霊的にも成熟して、愛という道を求めていく時、この体と霊と良心、すべてが百パーセント満たされるのです。

 男性と女性は、陽性と陰性が完全に一体化できるように神は男女をこのように造られたのです。男女の愛はすべての事情を乗り越えてその一致点を求めます。愛はすべてを貫き通し、愛が貫き通せないものは何もありません。東洋では男性は実であり、女性は器で、男性は神(天)を象徴し、女性は地を象徴し、男女の合一によって天と地が一体化すると言われています。また男女は、前後、左右、上下関係を表わします。

 低いものは高い所を願い、高いものは低い所を願います。それぞれが高くなることも、また低くなることも難しいことです。それで、この二つが合一して水平線を願うのです。それには中心が必要です。人もそうなっています。男も女もそのように二つの相対部分をつけているようになっているのです。あなたたちは高い所ばかり好きですか? 低い所は嫌いですか? 水平が必要ではないですか?

 人間は高いピークと低い点の調和点を求めるのです。海に行くと、水平線が二つの世界を分けています。水平線を中心にして下に魚が住んでおり、上に動物が棲息しているのです。動物は空気を呼吸し、魚は水中で生活しています。潮の満ち干も、月の満ち欠けに従って、満ち潮の時と引き潮の時があり、月も一月一回満月になり、女性の生理もそのようになっています。これは自然の理です。遊園地でも上がったり、下ったり回転したりするジェットコースターのようなものを好みます。それは宇宙がそのように動いているのに、自分だけがじっとしていてはつまらないので、宇宙に歩調を合わせるからです。

 男性が男性と踊り回っているより、男性と女性との方が自然です。なぜそうなのですか? それは簡単です。神により宇宙がそう造られているからです。それが宇宙の法則であり、すべてが宇宙の動きに動じ静ずることを願うようになっているのです。二人の男性が横になって、二人で話しているのを見ると、人はささやいていると言うよりは喧嘩していると思うでしょう。しかし、男性と女性が話し合っているのは美しく見えます。

 現代における同性愛は非常に不自然です。それがなぜ悪いのですか? 宇宙や自然がそうなっていないからです。宇宙にはプラスとマイナスの調和によって成り立つという一定の法則があります。プラスとプラスが引き合うということは決してありません。プラスはマイナスとのみ引き合うようにできているのです。神が陽子に他の陽子と一体化せよと言ったとしてもそれはできない相談です。プラスとプラスが引き合っても相互の利益にはなりません。

  力では一つになれない

 皆さんはきょうなぜ、ワールド・ミッション・センターに来ましたか? こんなに忙しいのに、あなたたちは損をするために来たのですか、利益を得るために来たのですか?(「利益を得るためです。」)きょうここに来て、もし先生の叱りを受けて帰るならば、「損をしたな、来なくてもよかったのに」と思うでしょう。あなたたち一面においては商売人の心情をもって来ているのでしょう?(「いいえ」。)

 あなたがたはなぜ食物を食べますか?(「うれしいから!」と一人が答え、皆笑い)ではあなたたちが「うれしい」と言う時、食べられる側のお米とか、魚とか、野菜が共に「うれしい」と言いますか? あなたたちがうれしくても、その食物はうれしいでしょうか?

 ここに歴史的な問題があります。これを知らなかったら上下関係の調和とか、強者と弱者の調和を見い出す道がないのです。言わば弁証法的根拠がここにあります。ヘーゲルのような人はここに歴史的な上下闘争概念があると見ているのです。

 これが解決できなければ、上下関係の構造をもったいかなる組織体も、そこに平和とか理想を見い出すことはできません。強者は弱者を無視し食いつぶそうとするのです。虐待し、勝手に扱ってしまいます。力ですべて治めようとするのです。

 では、力にはどのような力がありますか? これが問題です。力について話してみましょう。今の社会では何が力になりますか? 真実の力、知識の力、財力、権威の力。権力をもって治めるのですか? それがどれほど続きますか? または知識をもってですか? ここにおられる博士の皆様、自分が専門分野の単語を一つ余分に知っているからと言って、「自分が他の人より優れている」というのはとんでもないことです。その単語一つがどれほど貴いものでしょうか? 人は自分の方がお金を持っているし、良い服を着ていると言って、あるいはダイヤモンドがどうだとか、イヤリングがどうだ、ネクタイがどうだとか言って誇りとしているのです。

 現代の人々の中で権力に売られていく人がどれほど多いことでしょうか。あなた方は大統領になりたいでしょう?(「もちろんです。」、様々な答え)世界的な大学者になりたいでしょう? ヒットラーのように力による世界の独裁支配ができたらどれほど素晴らしいことでしょう。(「いいえ、素晴らしくありません。」)アメリカ社会は、今は資本主義体制下なのでお金があれば、それがすべてだというような考え方なのです。

 それで、男性も女性もこの問題に引っかかっているのです。男は権力を好むし、女はお金を好むとしたら、その二人は一つになることができますか?(「いいえ。」)また、女には知識があり、男にはお金があると言った場合、一つになることができますか?(「いいえ。」)

 ですから、権力がある人と、お金がある人とは本当に一つになることができません。お金がある人と、知識のある人とは、お互いに利用しようとしても一つになることができません。そのように考えてみるとき、お金を誇り、権力を誇り、知識を誇りとする特権的な権威意識を主張する世界では、家庭的平和の基地はないのです。そうしたもので一つになったとしても、それはあくまでも外的な一致にすぎず、根本的基地に到達することはできないのです。対外的な、私が必要とする力の条件が問題ではなく、対内的な、男性・女性が本質的に一つとなりうる内容が何であるかということの方がもっと重要なのです。

  主体・対象の法則

 では、心と体がどこで一つにならなければならないのでしょうか? 秩序に従って精神的な霊的基準が主体になり、体が相対となって二つが一つとなった基盤の上に、男性と女性が一つとなることのできる道を探さなければなりません。二人が一つになることによって、対象も主体になり、主体も対象になることができ、相互に益をもたらすようになります。

 それで、一つとなった男性と女性は素晴らしいのです。二人が目を上げてみると、目から雷が出るのです。耳も、女性の声だけでなく男性の声が一緒になって、素晴らしい和音として聞こえるのです。動物を見ても雄はどれほど美しいでしょう。だから雌が付いていくのです。(笑い)比較してみると、自分ひとりでいるよりは、その方がもっと似合うし、すべては良く見えます。相手に色々触れてみれば違っているけれども、それがいいのです。(笑い)男性は筋肉質ですが、女性はとても柔らかいです。皆さん、シャフトが回る場合にも、鉛のような物が心棒を包んでいるのです。うまく和合されていて調和があります。

 男性でも女性でも、心が主体で体が対象となっています。心は常に主張し、心が決心するのであって、体が決心するのではありません。霊が主体で体が対象であるという秩序を正さなければなりません。決心は心でなされるのであって、心が勝つことによって、心と体が一つとなって和合することができるのです。

 では、女性と男性とではどちらが主体ですか?(「男性です。」)なぜ男性が主体ですか?  アメリカの女性たちは、そういう考え方は嫌いでしょう? 道を歩く時も、女性の後を男性が従って行くのがいいか、男性の後を女性が付いて行く方がいいか、どちらが理想的ですか?(「男の後を女が。」)男が一歩を踏み出せば、女は自然に付いて来るようになっています。男が止まったらいけないのです。男の方が歩幅が大きいから、自然に男が先になって女が付いて行くようになっているのです。(男たち歓声)

 男が女に寄りかかっている姿がいいですか? 男は中心であり柱であるから、女が男に寄りかかった方がいいのです。男はいくら小さくとも、女に寄りかかって「愛しています」と言うのではなく、自分に女が寄りかかって「愛しています」と言った時、「ハッハッハッ」と言えるのです。それが自然の法則です。女性はあくまでも女性で、男性になることはできません。このようなことをアメリカの人々は知らないでいるのです。私たちムーニーのアメリカ女性たちはどうですか?(「違います。」)心の中では嫌で仕方がないけれど、レバレンド・ムーンが言うので口では仕方がなく「違う」と言っていますね。(笑い)

 先ほども言いましたけれども、自分自体の中心は良心が主体で、体が相対なのです。ですから、人間は心が命ずるままに行動し、従わなければなりません。主体となろうとすれば、四方を治めなければならないので、寛容で、より関係する範囲が広くなければなりません。このように考えて体と心を比較するとき、どちらがより公的で幅広く、環境的範囲が広いでしょうか? 体と心とどちらが広いか? それは言うまでもなく心です。だから主体なのです。心が主体で体は対象ですから、体が従っていかなければなりません。わかりましたか? このようになっている心と体が一つとなって、成熟して、愛を中心として探し求めていかなければならないのが結婚なのです。

 愛が留まる所

 このような原理から見るとき、原理結果主管圏というものを造らざるをえません。人間には成長期間が必要であるから、このような言葉が成立するのです。それで成熟するまで待つのです。男性と女性が、それぞれ心と体が百パーセント作用することのできる種を植え、種を残すためには、全細胞がすべての根に連結することのできる時がなければなりません。それが愛というものです。

 皆さん、文学というのはどこから始まりますか? 思春期を除いて文学が成り立ちますか? 児童文学というのは、男性だけでも女性だけでもできません。子供を中心として男性、女性を包含して書くようになっているのです。愛を中心として書くのです。そうでなかったら、文学は成立しないのです。

 また、そこには詩も生まれます。女性が詩を作るとき、「自分の唇は朝顔のようであり、自分の目は鳩の目のようであり、私の鼻は美しい山の峰のようである」などと自分の顔について書いたりしますか? そうではなく、相手に対して“あなたは何々のようである”というように書くのです。

 愛というのはどれほど素晴らしいものでしょうか? 真の愛をもった男女なら、砂漠にいたとしても、そこに黄金の宮殿に勝るものが出現するのです。黄金の宮殿の中で愛をささやくよりも、砂漠の中で二人が愛をささやく方が素晴らしいのです。たとえ、砂の嵐が吹いていたとしても、そこには花が咲き、素晴らしい香りがするのです。歌を歌い、そこにあるすべてを友として、歩調を合わせることのできる力が愛だけにあるのです。それは真理であり、実に素晴らしいことです。

 女性たちは男性を絶対に必要としますか?(「はい。」)男性たちはどうですか? 男性たちは絶対に女性を必要としますか?(「はい。」)それは何のためですか?(「愛のためです。」)

 では男の愛の象徴が何で、女の愛の象徴は何ですか? それは愛を中心として、完全に心と体が一つになることのできる所です。男性は女性に必要なものを持っているし、女性は男性に必要なものをもっています。それは男性が持っていても、男性のためのものではないのです。女性がもっていても、女性のためのものではありません。それはお互いに異なる性のために存在しており、男女が愛を表現するために用いられるのです。

 生まれるのも自分のために生まれたのではなく、相対のために生まれたのです。これをはっきり知らなければなりません。なぜ、レバレンド・ムーンはこうしたことを強調するのでしょうか? 人間は真実を忘却したため、真実を明らかにしなければ、真実の結果が出ないので、止むを得ずこのことを強調するのです。

 では、女性を分析してみましょう。女性が顔を美しくするのは、自分が見て喜ぶためでしょうか? いいえ、それは夫のためです。女性たちは、なぜ、美しい色の服を好むのですか? 女性がそのようにきれいに着飾るのは、自分のためですか? 胸が豊かにふくらんでいるのもお尻が大きいのも、自分自身のためですか?(「いいえ。」)それは女性自身のためでなく、子供のためにあるのです。自分自身のためにできているものは何一つありません。目は人を見るためのものですし、耳は人の言葉を聞くためにあります。すべてがそうなのです。自分のためのものはなにもありません。生まれることからして、自分のために生まれたのではありません。

 男性も同じです。肩幅が広いのは、自分の肩を素晴らしくみせるためと思うかもしれませんが、男性は働き、重い物を持ち上げるというように主に男性が仕事をするため、それで肩の力が強くなければならないからなのです。(拍手)面白い男よりも、素晴らしい男にならなければなりません。面白い男は女みたいで、ひそひそ行動します。素晴らしい男性は、大胆に行動します。あなたたちは面白い男性が好きですか、素晴らしい男性が好きですか? 時には打ち、時には涙をふいてあげることのできる男、それは素晴らしいことです。これがいやだという女性は、その深い愛の味を知りません。あの底の底の愛を知らないのです。

 一つ聞いてみましょう。多様な愛が好きですか、単純な愛が好きですか? 女性たちどうですか? 多様であるから「好き、好き、好き」と言うのです。三六五日いつも晴れた日ばかりあればいいですか? 時には嵐が吹いたり、雷も鳴ったりする方が素晴らしいのです。そのように考える時、生活を共にしていく中には、戦争もあり喧嘩もありますが、それを愛で消化することができれば、すべてが素晴らしい要素となります。

  宇宙力は何を求めているか

 統一教会の女性たちは、男性が主体で女性は対象であることを知らなければなりません。そして、男性と女性が二人合わさって、新たなプラス、あるいは新たなマイナスとならなければなりません。男性と女性がこのようにして一つとなれば、さらに大きなプラスとなるのです。そうなれば、宇宙の神に対して、愛の関係を結ぶことのできる相対となることができます。それを知らなければなりません。主体と対象の関係が成立しないところには、愛は訪れてこないのです。

 では、先ほども言った宇宙の中心、人間の中心は何かということです。人間の中心は何でなければならないでしょうか?(「愛です。」)愛の中でも、真実の愛でなければなりません。

 それでは、この宇宙のすべての作用における中心は何でしょうか? もし、この宇宙が話をするとしたら、何を願うでしょうか?「ああ! 私は権力が欲しい、お金が必要である」とか、「知識が必要だ」などと言うでしょうか? 宇宙は何を求めているかと言えば、それは美しく調和した力なのです。その調和の力というのは、主体と対象の概念なのです。主体と対象が授受し、一体となり調和することによって、さらに大きな主体に連結され、一層大きな宇宙へと連結されていくのです。「宇宙よ! あなたを調和させる力は何の力ですか?」と聞けば、宇宙は「愛の力しかない」と答えるのです。愛です。他の何物でもありません。だから、調和の力それ自体も愛の力を願うという結論を出すことができるでしょう。

 見える宇宙(有形世界)にとって何が必要かというと、それは見えない宇宙(無形世界)なのです。そうでなくては、宇宙が正常な活動をなし、軌道に従う、一つの統率された計画的な存在圏をもつことはできません。人は見えない精神が肉体を全部コントロールして、その管理体制のもとに存在性を継続しているように、宇宙もそのような見えない内的主体と一体となっているのです。これは自分を見てもわかることです。

 それで、目に見えない宇宙的力の背後の内的精神的存在を指して、私たちは、“神”というのであります。そこから人間が出発したのです。私たちは目に見えない精神を受け、目に見える宇宙を受けて、その結実的存在として生まれたのです。それが人間です。神は人間を天と地のように、内外的存在として造り、これを愛でもって抱き、一つにしようと願われました。一つにするには、お金でも権力でもなく、知識でもありません。だから、この宇宙を愛のために造ったのであるという結論が出るのです。

  真の愛が出発する基準

 サタンはこれを知っていました。男性と女性の愛だけを奪えば、天と地のすべてがここに付いて来て、それが自分のものになると考えたのです。本来、私たちはその愛と一体となった立場において、神様の所有とならなければなりません。また、人間の所有となるにも、それは愛を中心とした基盤の上で決定されなければならないのに、それが成されていないのです。では本来の主人は誰でしょう? 主体なる神様と、相対なる人間なのです。

 今日、世界の人々は世界を自分のものにしようとしています。自分のものとしてから何をするのかを解っていないのに、とにかく自分の世界にしようとするのです。神様に帰ることを知らないのです。自分自身が、宇宙的、世界的な愛を所有して、神様と愛を中心として結ばれる時、この宇宙と人間に対する神様の所有権が一度に決定されるようになっているのです。創造主なる神様は、今まで自分が造られた世界に対して、愛の理想を成就して、御自身の愛を中心として所有権を決定しようとされました。しかし、サタンにすべてを奪われてしまったので、これを再びもと返す道を探して来られたのが人類歴史の道であり、宗教の道だったのです。 人類歴史の中で、メシヤが神の愛を中心とした、真の所有権をもってこの地上に来るという思想がメシヤ思想であり、真の父母の思想なのです。そこで問題となるのは、この世において真の愛をいかにして発見することができるかということです。何が真の愛ですか?(「神の愛です。」)では神の愛とは何ですか?(「不変なる愛です。」)言葉で言うことはできたとしても、それをどこで見い出すことができますか? 真の父母の愛とは何ですか?(「神の愛です。」)その基点はどこですか? 真の愛を見い出すことのできる一つの基点がなければそれを見つけ出す道がないのです。真の愛が出発する基準は何でしょうか? 神様は父で、アダム・エバは子女で、父子の関係になっています。それを知らなければなりません。つまり父母の愛と子女の愛が宇宙の根本なのです。

  本然の理想的主体思想

 では、堕落した世界において、子供が父母をより愛しますか? それとも、父母が子供をより愛しますか?(「父母です。」)父母の愛は永遠を中心としたものであり、不変で唯一のものであることを知らなければなりません。そうでなければ、子供たちが父母を好きであるはずがないのです。このことをしっかりと学んで、子供たちも父母に似なければならないのです。毎日のように変わる父母は、子供から蔑視されます。アメリカの家庭は毎日のように変わりますね。そうすると、神の愛、本然の愛とは一体何なのでしょう? 父母は子供のために死ぬことができ、生命を捧げることができます。自分の生命を越えて愛するのです。宇宙の根源は、まさに子供のために生命をも捧げようとする親の愛なのです。

 本来、この宇宙は生命のために造られたのではなく、愛のために造られたのです。愛が先ですから、愛に符合することのできる生命であって、生命に符合する愛ではないのです。

 真の愛は生命を犠牲にして愛することのできる愛であり、宇宙と通ずることのできる愛なのです。家庭において、子供のためにその生命を捧げることのできる父母であるときには、その父母は、この宇宙において二人とない真の父母であることがわかります。真の父母とは、子供のために自分の生命を犠牲にしてでも、愛の道を行こうとする人であることを知らなければなりません。私は若い時も、年をとっても、死ぬ時でもこの心は変わりません。永遠なのです。

 では真の愛をもった真の神様とはどのような方でしょうか? 人類の先祖が神様であるならば、私たち子供のために自分の生命までも犠牲にしようとする方が真の神様なのです。

 サタンとは何か? 自分のために愛の道をすべて破綻させる存在です。 自分のために他を犠牲にするのです。ここにおいて二つの世界は完全に分かれます。愛を本質として宇宙が創造され、すべての生成物は愛の理想を中心として存在するようになっているのですから、その愛がどのようなものであるかということを、はっきり知らなければなりません。自分の存在を犠牲にしてでも愛の道を立てようとする、それが宇宙の本然の理想的主体思想なのです。

  真なる家庭

 では、真なる子供というのは何でしょうか? 変わることなく、父母のために自分の生命を捧げて、犠牲の道を自ら進んで行き、愛を自ら進んで行う、それが真なる子供なのです。

 真なる夫婦も同様です。夫は妻のために、妻は夫のために生命を捧げることのできる夫婦は、永遠に神様の愛の圏内に留まることができます。またそれは、神様の所有物として抱かれ、保護される夫婦なのです。そこには堕落ということはありえないのです。言葉や説明の必要もありません。宇宙が何であるかを説明したり、神様が何かを言葉で教えたりするといった必要もないのです。夫と妻の間で、「私はあなたをもっと愛します」などという言葉は必要ありません。本心でわかるのが自然の理法なのです。説明がなくても、目を見てわかるし、鼻を見て、口を見てわかるし、触ってみて、皮膚で感じてわかるのです。眠っているときの寝息を聞くだけでもわかります。

 皆さんの中で、鼾(いびき)をかく人をいやがる人がいるでしょう? それはいけません。夫を愛し、妻を愛するあまり、泥棒から私を守るために、寝ながらも声を出してくれているのだと、愛の心で聞けば、それがどれほど有難く、懐かしいことでしょうか? サイレンの音よりも立派なものです。(笑い)鼾をかく夫によって、妻たちが保護を受けた歴史的事実が多くあるだろうと、万事をそのように思うのです。

 愛する妻の持ってきてくれた食事が、パンと安っぽいチーズ、バター一片しかなくても、それを持ってきてくれる妻の愛の心はどれほど尊いことでしょう。心のパンを食べると思わなくてはなりません。精誠と愛の心がこもっている、愛のエッセンスが入っている、それを食べるのです。そのように思って生活する男は生涯、健康で病気になることはないでしょう。愛にはすべてが屈服します。だから、病原菌からも保護されるようになっているのです。また貧しいと思って悲しんだり、みすぼらしい姿であると思って悲しまないで下さい。夫は自分のみすぼらしい姿を知らないわけではないのに、やむなくそのような姿をしていると知って、妻が心の中ですまないと思えば、そこにはさらに深い愛が美しい珠玉のように連なっているのです。ダイヤよりも、腕輪よりももっと貴重なものが連なっているのです。そこにはどれほど深く、素晴らしく装飾された、理想的な世界が造られているかを考えてごらんなさい。そういう真の愛の関係に満ちた真の家庭は、間違いなく、神様の愛の懐に深く直進していくことができるのです。

 愛国者とは、自国の人々を自分の家族より一層愛した人のことです。私の一族が国のために犠牲になることができれば、それは愛国家庭であると言えます。このような家庭は、神の国の宮殿に入って、万民の前に栄光の冠を受けられる家庭となるのです。

 家庭から国家へ、国家から世界へ、世界から宇宙へとより大きな世界と相対を成して、より大きなもののために犠牲になることによって、最後に神様に到達するまでいくのが、愛の哲学を中心とした人生行路なのです。先生はこのような愛を教え、実践しています。真の父母と一体化して、真の親の愛を実践することが、あなた方に今願われることです。それぞれが所属している国や世界に対して、真の親の愛を示すことが我々の使命なのです。これはどれほど素晴らしいことでしょう。

  愛の伝統

 今日のアメリカにおける法廷闘争の問題を中心としてみる時、レバレンド・ムーンはいかなる道を選ぶべきでしょうか? レバレンド・ムーンに属するすべての統一教会の信者たちは一つとなって、真なる愛の道をいかなければならないのです。この悪なる怨讐世界に対して、変わらない父母の心情をもち、彼らのために生命を捧げて、犠牲となる道を自ら進んでいくというのが、このような愛観から出る結論なのです。アメリカ政府が誤り、自由世界が誤ったとしても、その責任はすべて父母が負うという思想、これが神様の思想です。完全なる主体が立てば、そこに完全な相対が現れるようになるのが原理です。ゆえにキリスト教会という相対圏は自然に統合されるような現象が起きてくるのです。そうした事実を皆さんは昨日(五月三十日)のニュースを聞いて知っていると思います。

 それで統一教会とキリスト教が完全に一つとなり、完全に主体となった時には、自由世界は自ずから対象として生み出されて来るようになるというのが、神様の宇宙原則に基づいた見方なのです。

 二千年前、イエス様は十字架上で、敵のためにとりなしの祈りを捧げられました。今になって、あなた方はイエス様がなぜあのように祈られたかわかるでしょう。イエス様は真なる愛の父母の伝統を立てるべき立場にいたからです。

 第二次大戦直後、キリスト教文化圏を中心として、全世界が統一されるチャンスがありました。その時に、神様の愛と一つとなって、真の父母の愛の伝統をもって世界を収拾していたら、今日、世界は統一できていたでしょう。しかし、当時そのような愛の伝統はなかったので、愛の伝統を引き継がせるために、先生は解放後に出発したのです。クリスチャンたちが真の愛の伝統を受け入れて実践していれば、天国はずっと以前に造られていたに違いありません。しかし、彼らが反対して失敗したので、先生は統一教会を創立し、すべての基台を蕩減復帰してきたのです。

 統一教会のムーニーは、このような真の父母の思想をもたなければなりません。 世界のために、五色の人種が一つとなるのです。今日、世界的な頂上に立って、レバレンド・ムーンは次のような考えをもっています。「怨讐がいかに悪なるものであるとしても、私は伝統的な愛をもって、世界を愛して越えて行く。個人の幸福よりも全体のために、犠牲の道を自ら進んで行く」と。そこには天下のすべてが頭を下げるでしょう。そうして、統一教会とキリスト教会が一つとなり、自由世界が神の方へ立ち返ってゆくのです。今こそ真の愛の力を示さなければなりません。さらに多くの困難に直面するほど、さらに多くの迫害を受けるほど、先生は親の愛を実証するでしょう。サタンは悪を実行した後、初めて悔い改めるのです。悔い改めなかったら退かなければなりません。このようにみると、愛が一番の中心なのです。わかりますか?

  被造世界は愛の博物館

 万物はまだ、真の所有者、主管者を知りません。所有者がいないのです。万物は愛を中心とした所有観念でつながれたことがないということを知らなければなりません。すべての元素から、鉱物、植物、動物、人間に到るまで、「君は誰に所有されたいか? 力と知恵と能力のある人に主管されたいか、それとも愛をもった人に主管されたいか?」と尋ねたら、何と答えるでしょうか? すべてが愛の主人を求めるのです。

 その愛の伝統とはいかなるものでしょうか? 愛の相対圏に対して、自分を完全に犠牲にして投入し、再創造の力を補給してあげ、育てて成長させてあげる立場にいるのが父母なのです。育てて成長させ、保護してあげなければなりません。万物は、神様と真の父母の愛が現れるその時のために完全に準備が整っています。
 環境を整えてくれるすべての音とか、美的な感覚に訴えるものなどもみな、万物の愛のための象徴的標示として現れているのです。小さな昆虫も花も皆、愛を伝達するために存在しています。愛をもってそれらに臨むなら、すべての花は、あなたの愛に答えてくれるでしょう。被造世界は愛の博物館なのです。皆さんは神様に、「あなたは、これらすべてのものを私のために造ってくださいました。愛の博物館の中に私を造ってくださったことを、心から感謝します」と祈ってみたことがありますか?

 夏、暑い日に、セミがペアで歩調を合わせて鳴くとき、それは人間のために愛の歌を歌っているのです。その声を聞いて、雄、雌が互いに探し求めていけるのです。夏の明るい月夜に、昆虫たちのそのオーケストラがどれほど素晴らしいかをよく聞いてみなさい。あるものはソプラノ、あるものはアルト、メゾソプラノなど、皆調和されています。それは、すべて愛の歌なのです。昆虫たちは、じっとしてではなく、触れ合ったりしながら歌います。砂の上のアリたちもすべてペアで働くのです。人間にとって、宇宙全体が生きた教科書です。

 あなたたちはサーモン(鮭)という魚を知っているでしょう? それは、自分の故郷を目指して復帰の路程を行くのです。サーモンは、一度産まれた自分の本然の家を覚えていて、一万数千マイル海洋を回って、四年ぶりに夫婦でもとの川に帰って来て、そこで卵を産みます。そして自分たちを産んでくれた父母の伝統を再現して、夫婦が一緒に死にます。雄は雌が卵を産むのを待って、一緒に死ぬのです。だから先生はサーモンをSalvation Moonie fish(救いのムーニー魚)あるいは restoration fish(復帰魚)と名付けました。

  愛のための犠牲

 「神様の本質的愛をもって、分子世界や鉱物世界から、この宇宙全体に到るまでを、私は愛して生きている」と言う、そのような幸福なる男性、幸福なる女性はどれほど偉大であるかを考えてみなさい。微小な分子世界から、大宇宙の世界まで愛する男性、女性となったなら、そのような主人となったなら、どれほど素晴らしいことでしょうか? そのような人が山の頂上に行くとしたら、すべての万物が付いてくるようになるでしょう。「おお! 動物たち! 万物たち! あなたはどこへ行きたいのか?」と聞いたら、「私を食べて下さい。あなたの愛する口に入りたい」と言うのです。さらに高い愛の所へ行きたい。それが愛の持っている特権なのです。その時、すべての万物は、「私のような低級な生命の細胞であったものが、高次元的な神様の子女の生命細胞となって、神様の愛を受けることのできる先端に立つことができる」といってその驚くべき価値を讃えるのです。

 愛は百パーセントその元素、要素に作用することのできる能力があるので、万物の生命、細胞が人の生命細胞に接するとき、万物は神の愛を実践する細胞になることができるという驚くべきことのために万物はそのことを願うのです。そのために、人間もさらに高い愛、神様の愛のために犠牲となっていかなければなりません。また神様も愛のために、犠牲の道を訪ねていくことを原則としているのです。これが宇宙の天理です。「あなたは私を取って食べようとあなたの自由にして下さい。あなたの手となり、あなたの足となり、あなたの体の一部となることができるのなら、愛の理論が可能であるので、愛のために私の生命を捧げます」それは当然な理論です。そのような愛観をもって、「私は全体のために生まれた」と言える時には、世界すべての難問題を解決し、超越した立場に立つ自分となれるのです。

 それで、レバレンド・ムーンは統一教会の責任者でありますが、皆さんを世界のために犠牲にしようとしているのです。普通の人はそうすることができますか?(拍手)私たちが主張するこの理想的主流思想が、どれほど素晴らしいものかを知らなければなりません。

 このような愛の理念を中心として、現在の状態の中で、皆様がいかなる道をいかなければならないかということを、今回の万物の日を通して、はっきり知らなければなりません。今日の記念の日がどれほど意義深い日であるかを知らなければなりません。

  恥ずかしくない愛の主人に

 レバレンド・ムーンはアメリカの歴史において恥ずかしいレバレンド・ムーンとなってはならないのです。アメリカの国民の前に、過去の人類の前に、恥ずかしいレバレンド・ムーンとなってはならないし、これからの未来の後孫たちの前に恥ずかしいレバレンド・ムーンとなってはなりません。過去の地球上に生きていたすべての先祖たちの前に、恥ずかしい者となってはならないし、神様の前に恥ずかしい者となってはならないのです。そのためには、たった一つ、この道しかないので、このような道を自ら進んでいくのです。それで今日、このようなお話をするのです。これをはっきり知らなければなりません。

 宇宙は伝統的愛に付いて、自然に回るようになっています。自然に従っていくのです。だから孤独ではありません。私はこの宇宙と共にいるし、人類と共にいるし、統一教会と共にいるし、キリスト教と共にいると思っています。このことをよく知って、これからは天と地が見つめる中において、あらゆる環境の諸条件を愛で包摂することのできる姿勢、伝統を受け継いでいかなければなりません。アメリカの国民が先生を思い、自由世界が先生を思い、神様が思うように、愛の版図を拡めていくことにあらゆる精誠を尽くさなければなりません,これを宣言できますか? 先生は間違いのない道を行きますから、あなたたちも間違いのない道を歩んでくれることをお願いします。(「はい。」)

 今日、この日を迎え、そのような男とそのような女になると決心した意味から、立って宣誓いたしましょう。「神様が私たちの愛の主人となられたと同じように、私たちはこれから万宇宙を所有するのに恥ずかしくない愛の主人となる」という決心をしなければなりません。(「Yes Father」と三回叫ぶ)神様の祝福がありますように。(拍手)




一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

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Last updated  2021.11.23 17:56:14
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