奇   知   外   記

奇  知  外  記

PR

Free Space

にほんブログ村ランキング参加中
↓ 応援クリックお願いします ↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭連合へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村

Keyword Search

▼キーワード検索

Calendar

2022.01.03
XML
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​

「摂理史的闘争と勝敗」

1988年8月20日


 人類の幸福と平和を願ってきた聖人の道

 きょうの話の題目は、「摂理史的闘争と勝敗」です。

 きょうのダンベリー出監(三周年)記念日に、私がこのように話をするということは、実に不自然なことであり、自分で自分の出監の日を祝う説教をするということは、実にいろいろな面で複雑な思いがします。しかし、このような事件の原因になったのも私であり、そして事件の過程を収拾してきたのも私であり、また事件を終結させたのもこの私であるために、私という存在は、統一教会においても、個人的な私ではないということです。既に、皆さんもよく知っているとおりです。

 この世界を見てみますと、この世界での一般の人たちの生活と環境、すべての事件を記録した歴史というものがあります。アジアにはアジアの歴史があり、そのアジア圏内の中国には中国の歴史があり、それと同時に、韓国の歴史があり、日本の歴史があるのです。ですから、アジアの歴史に残るためには、韓国よりも、中国よりも、また日本よりも大きい、アジアのための内容を備えるようになれば、間違いなくアジアの歴史に残ることができるのです。

 また、世界史の中にも数多くの国々がありますが、その数多くの国家、数多くの民族、数多くの氏族、あるいは個人が生活しているすべての背後にも歴史があるのです。しかし、世界の歴史の中における数多くの国々は、世界を代表し、世界の未来に希望をもたらして、世界的な勝利の版図を残すことを願い、またそれが、世界の人々の願いであり、世界の人々が要求するところなのです。そのようなことを成し得た人は、それがたとえ後進国の人であっても、また未開の国の人であっても、その人の歴史は、世界史的に記録されるのです。

 このように見た時に、今日、この世界史の中における歴史的な人物といえば、大韓民国の偉人の中には李舜臣のような人もいます。また、宗教界においてもいろいろな人たちがいます。しかし、大韓民国を中心とした偉人たちと、アジアのために、世界のために尽くした聖人たちとは、いったい何が違うのでしょうか。アジア、あるいは自分の国を中心として生きた偉人たちは、その目的の限界が常に自分の国に局限されるし、アジアに局限されているのです。世界に影響を及ぼすことができないのです。しかし聖人たちの行った道は、国家を越えて、世界を越えて、さらには人類の歴史に影響を与えつつ、希望の観点を人類の未来に置いて、常に人類のために犠牲になり、進んで受難の道を行き、多くの苦痛を受けながらも、そのすべての困難な環境を克服して、その時代の世界人たちが記憶することのできる内容を残す道なのです。それは世界史的に、またその時代のみならず、いつまでも褒めたたえることのできる内容なのです。言い換えるならば、人類の全体に、現在のみならず、未来にまで公的な恵沢をもたらすことのできる内容を備えた人たちが、聖人であるというのです。

 私たち統一教会では、さらに聖人の上に「聖子」という言葉を使っています。 聖子とはどのような人かというと、神様の息子をいうのです。神様の息子とは、天の国の王宮法を知っている人です。さらに、天の国の孝道を代表すると同時に、天の国の宮中において、すべての人たちにも称賛される人なのです。また、それは天の国において、今の一時にのみ記憶されるのではなく、現在はもちろん、未来、永遠にまで天の国の愛を受けることのできる息子であり、宮中における王様の愛を受けることのできる息子の立場に立った人を「聖子」というのです。

 今日、この地上の人間世界に対する聖人たちの願いは、この天の国の王宮法を知りたいということです。天の国の具体的な内容が分からないというのです。漠然として天があるということは分かるのですが、具体的なことは何も分からないのです。ですから、聖人の道理とは何かというと、聖人になるためには必ず天の国と地上の歴史を、連結できる内的因縁をもたなければならないのです。このように見た時に、聖人とはこの世界の全人類の願いである最高の理想を追求し、現実に最高の理想世界を建設する目的をもって、天が現世に何を願い、未来に何を願うのかという天の目的と一致する内容を備えた人なのです。

 それで今日、四大聖人といわれる人々とは、数多くの人類の中において、天のみを中心として出発した人たちなのです。イエス様も天のみを中心として出発しました。天を中心として、歴史的現実、歴史的未来を追求することにおいての先駆者になろうとしたのです。そして彼らが努力の末に教えてきた内容は、自分の願いを展開するのではなくて、天のみ旨を展開することだったのです。その天のみ旨とは何かというと、人類の幸福と平和のためのものであり、現世と未来に永遠に続くものです。そのような理想を願って指導してきた人たちが聖人なのです。

 それでは、聖人と偉人は何が異なるのかというと、偉人とは国のみを中心とした人です。そして国の愛国者たちによって伝えられてきた縦的な伝統の思想を引き継いで、それを横的に個人、家庭、氏族、民族、国家の環境へと、完全に水平線と垂直に合わせることのできる環境をつくった人です。このような道が偉人たちの道です。聖人の道というのは、縦的な基準を自分の国の理想だとか、愛国心だとか、あるいは愛国精神としていないのです。聖人は、この垂直的な縦的な思想的内容を、神のみ旨に結びつけたのです。このような驚くべき事実をもって、神のみ旨とともに伝統的内容を引き継いだ縦的基準に立って、それを横的に世界化させる道を行った人たちです。

 それでは、この縦的なものをいったい何でもって結びつけるのかというと、それは知識でもないし、権力でもないし、お金でもありません。お金をもって、精神と私たち人間が願う理想世界のすべての内容を結ぶことはできません。これを結びつけるのは、真の愛なのです。そのような聖人の心の、深いその谷間で追慕するものが何かというと、もし神様がおられるとするならば、神様に愛され得る息子になることです。女性であるならば、神様の一番深い心情の中で、永遠に忘れることのできない愛の道に通じた娘の位置をもつことです。そのような内容を中心として、歴史は流れてきたのです。

 真理の基準

 人間には誰しも良心がありますが、誰も良心を見た人はいません。しかし「良心的に生きなさい」と言えば、既に自分の中にその標準が立てられているので、知らないうちに行動できるのです。それでは、良心はどのように成り立っているのでしょうか。良心が勝手に歩き回るとするならば、どのように歩き回るのでしょうか。このように問うてみた時、誰にも良心がいったい何か分からないので、「分からない」という漠然とした答えになるのです。

 それでは、体はいったい何かというと、体はこの私なのです。この体は、良いものを食べさせるならば、もっと良いものを食べようとし、大きいものを持てば、さらに大きいものを得ようとします。右手もこのように動きながら、世界全体がそうなることを願っているのです。

 その反面、良心はどうかというと、先生が大韓民国のこの四〇〇〇万、南北韓を合わせて六〇〇〇万の人々に、「一億ウォンずつあげる」と言えば、皆さんの心はどうなりますか。この世界には、ビルマやタイのようなかわいそうな国々があるので、その喜びの心をもって、全世界の前に自慢することなく、「もっとかわいそうな人たちに対して同じように分けてあげなければならない」と言った時、良心が「そうだ」と言うのです。

 このように見た時、心はいかに独裁者でしょうか。どれほど無慈悲な独裁者でしょうか。全部分けてあげたにもかかわらず、それに満足せず、もっと広く、アジアの人々を思い、さらには世界の人々にまですべて分け与えても終わりがないのです。霊界に行った霊人たちにも「霊界のかわいそうな霊人たちを助けてあげたい」と言うのです。また、それのみならず「未来の後孫たちも助けてあげなければならない」と言うのです。

 それでは、いったいなぜこのように二つの人格が私の中に押し込んであるのかということですが、これは今まで解決できなかった問題なのです。人間はなぜこのようになっているのでしょうか。誰がこのようにつくったのでしょうか。自分で願ってつくられたのではなく、両親が願ってそのようにつくったのでもありません。そのようになっていたがゆえに、このように生まれたというのです。それには必ず何らかの原則に従って生まれ、原理によって大きくなってこのような私になり、二重的になっていたというのです。

 では、なぜ二重的になっているのでしょうか。自分というのはメーター(計り)なのです。このメーターの基本単位は何かというと、一ミリメートルです。たとえ億万であっても、その単位は一ミリメートルのこのメーターに一致しなければなりません。億万という数であってもぴったりと合って、一つも余らず、すべてのものが同じになる時、私たちは、それを世界のものとして使用できるのです。アメリカの一ミリメートルも、韓国の一ミリメートルも英国の一ミリメートルも同じです。さらに、この宇宙も同じです。

 皆さん、真理とは何でしょうか。もはやこれ以上の基準はないという、この位置に立ったものを真理というのです。皆さん、ここに物理学の博士も来ていますが、物理学を勉強するならば、すべての自然世界の動きを知らなければなりません。自然世界が動く時は、漠然としては動きません。皆さん、考えてみなさい。この地球はどれだけ大きいことでしょうか。そして、この膨大な地球は、一年に一回、大陽系を回っているのですが、それは一分、一秒の差異もないのです。もし差異があるならば、大変なことになるのです。陸地と海洋が全部違ってくるのです。この地球は四十五億年間、公式基準の上に連結された運動をしているのです。そこには何かの原理か、公式か、公理というものがあるのです。

 同様に真とは何かというと、一つであっても、千万であってもぴったり一致するものです。二十四金が純金であり、二十四金が真の金なのです。そうでしょう? どこに二十五金がありますか。二十六金がありますか。これが問題なのです。もしそうであれば三十金もあるはずです。このように見た時、中央を立てて、均衡になる位置を最小単位にして、その規則的な平行線上に合わせることができるものであり、垂直に合った平行でなければ、それは真ではありません。そこで、二十四金が直線になるのです。そのような基準に立っているために、二十四金が純金であるというのです。その垂直の縦的基準の前に合わせれば全部が合うというのです。

 すべては宇宙の縦的(基準)の前に、平行線で立つ、宇宙の横的(基準)の上に置かれているのです。宇宙の大運動や大運勢は漠然として起こるのではなく、すべて主体と対象の授受作用による、循環法度の運動なのです。必ず垂直があり、その垂直が二十四時間、いかなる瞬間であっても変更される時には、すべて飛び散ってしまい、すべてが壊れてしまうのです。ぴったりと位置を確保しなければなりません。すべてが空間世界に自分の位置を確保し、存続の基盤をもつようになっているのです。この話は少し難しいですね。

 同様に、私たち人間の基本になる計り(メーター)は何でしょうか。人間も計りがなければなりません。そうですね。数学を解くのにも、全部世界的な共通の数理的基準に従っているのです。ある国で一つという時、世界中で一つです。二つという時、二つであり、三つという時、三つです。ある基準に合格した共通的な決定基準が、世界的舞台に立つようになるとき、それが世界の基準となるのです。真理の中には、必ず東西南北の四方があるのです。真理には必ず環境があるというのです。では、環境が先でしょうか。真理自体が先でしょうか。これが問題なのです。

 皆さん、この世界を神様が創造された時、真理なる人、真理なる者を立てる前に、まず環境を創造されたのです。そして環境を使用することのできる真理なる一つのモデル的標準を立て、それらが同和圏を成すことにおいて、真理の価値が生まれるのです。そのように存在的な人間を見るとき、真なる人間とはいったい何かというと、同じ原理なのです。縦横の標準がどこから見ても一致しているのです。ゆがんでいません。縦横に一致して、公式的法度上において、前後、左右、上下にも差異がなく同じでなければなりません。東に立っても合い、西に立っても合い、北に立っても合い、南に立っても合い、すべて地上世界でも、すべての霊界でも一致しなければなりません。そのようにすべてを測定できる基準がなければなりません。

 女性も、男性も、みな等しく、自分を中心として「あの人は悪い」とか、「あの人は良い」と言うのですが、それは何をもって言うのかというと、「あの人は良い」という、その決定は天下を代表した位置での判断でしょうか。また「あの人は悪い」というのも、天下を代表した位置での判断でしょうか。それらを測ることのできる基準に合格した立場で判断したのでしょうか。それとも何にもないのに、ただ気持ちで言うのでしょうか。

 人間は「万物唯人為貴」(ばんぶつただひとをとうとしとなす)と言われていますが、これは人間が最も貴いということです。このように宇宙を代表した最も貴いといわれる人間がでたらめになっているのです。では、人間が宇宙で最も貴いといわれるのに、北極のいかなるものとも関係を結ぶことができず、南極のいかなるものとも関係を結ぶことができず、また東や西のものとも何の関係も結ぶことができないというのならば、果たして人間が万物の中で最も貴いということができるというのでしょうか。すべてに関係をもててこそ、その中心になるゆえに人間が最高に貴いというのです。

 皆さん、人間は必ず縦的な基準を受け継がなければならないし、横的な基準を受け継がなければなりません。横的な生活舞台と、縦的なすべての天地との共通的な精神的一致点を連結させることのできる土台がなければなりません。上下が垂直にならなければなりません。逆に立つとひっくり返るのです。上下関係は垂直でなければなりません。

 皆さん、「義人」とは、それは縦的に義人なのでしょうか、横的に義人なのでしょうか、それとも縦横を合わせた義人なのでしょうか。無条件の義人なのでしょうか。このような意味から見た場合、聖人とは縦横を合わせた立場で、現世の理想、未来の理想、永遠の幸福へ向かって歩んでいく人です。ですから、いかに素晴らしい人であっても、いかに良い生活をしている人であっても、そこに関係を結ばなければならないのです。それを水平に、天地に不変の道理の軸を中心として回ることのできる因縁をもって生きる人が聖人です。

 皆さん、心とは何かというと、心は自分にとって、縦的な伝統と未来を連結させるためのものです。良心は縦的基準の前に、天運の前に、宇宙の創造目的の前に相対できる平行線に立っているのです。もしこれがゆがんだならば、縦的なので、破壊力をもつのです。そのようになる時、その人は不合格者なのです。ですから、宇宙の大運勢による縦的なその力の道には目標があるというのです。縦的大運勢はみだりに動くのではありません。理想世界へ向かって真なる個人、真なる家庭、真なる氏族、真なる国家、真なる世界に向かって行くのです。ですから、皆さんも心と体を一つにしなければなりません。

 独身の男性と女性が思春期になり、互いが慕い合いながら愛し合って結婚した時、最初の夜の会話が何かといえば、「あなたは私を本当に愛しますか?」ということなのです。この質問をしないようでは、その人は新郎の資格もないし、新婦の資格もありません。そのようなことのなかった人は、悔い改めて今度質問してみなさい。「私をどれくらい愛しますか? 本当に愛しますか? 心も体もみな一緒に、永遠に愛しますか?」と。人間は自分の生命を育てた父母の愛、祖父母の愛、先祖の先祖の先祖の、一番頂上の先祖の愛、さらに、それを越えたすべてを包括する位置の愛を受けたいというのです。途中で途切れるような愛は願わないのです。

 真の愛の人を求めて、先生が「真の人、手を挙げなさい」と言えば、みな手を挙げるのですが、手を挙げれば同時に顔も上がっていかなければならないのです。「真の人、一度手を挙げてみなさい。いますか、いませんか?」。自信がないのですね。

 真の人を測る計りは何かというと、「さあ、このコップは大きいですか。小さいですか?」と問われ、「小さい」と答えた人は、何を基準にして答えるかというと、自分が飲む水の量を基準にして答えるのです。コップの二倍の水を飲む人は、「ああ、このコップは小さい」と答えるのです。また、一杯のコップの三分の二の水しか飲めない人は、「ああ、このコップは大きい」と答えるのです。そのように、無言のうちに自分自身の中に標準が立っているということを知らなければなりません。

 真なる愛の人

 今日、統一教会で、「地上天国。理想世界」と言う時、原理原則と一致する理想世界、原理原則と一致する地上天国。天上天国でなければなりません。それが今日まで漠然としていたのです。

 それで、もし千年、万年後に、いつでも共通的な計りがないというときは、千年前の先祖がどんなに良い霊界に行っているとしても、その後孫たちは、みな一番悪い霊界に行くのです。四大聖人たちがすべてを成就していれば、文総裁のような人が現れて、このようなことをする必要はありません。悪口を言われたり、監獄に入ることはどんなに気持ちの悪いことでしょうか。

 いかに頭が良く、知識に優れ、権謀術に優れているとしても、それを包括して余りある永遠性をもって、永遠に縦横に連結できるような内容がなくては、現世の地上理想世界を天上理想世界に調和させることができないのです。そして、それに通じる真理が何かというと、それが愛国心なのです。そこにおいては、孝子の基準も一つであり、忠臣の基準も一つであり、聖子の基準も一つです。すべて一つの基準から出発するのです。不一致なものは、全部偽物なのです。

 私たちの一番最初の先祖から、一番最後の後孫まで、すべての人々を超越してもなお、その基準が正しいと言える人が、真の人なのです。そのような真の人は、死んだのちには永遠と関係を結ぶことができるのです。そうでない人は一〇〇年生きればそれっきりで、死ねばすべてなくなるのです。人間はたとえ死ぬとしても未来に残ることを願い、現在に残ることを願うのです。

 歴史時代において、数多くの宗教指導者たち、あるいは教団の代表者たちは、漠然と、「愛の神様」と言って宣教していますが、何をもって愛の神様なのでしょうか。今日、逆さまになっている神様の立場を正しめてから、私たちは逆にその神様の愛に奉らなければならないという理論的な基準を立てなければならないのです。慈悲の神様とか、全知全能なる神様とか言いますが、何が全知全能なのですか。今日まで世界を復帰できないでいる立場の神様なのです。

 真の愛は何かというと、絶対的なものなのです。過去も、現在も、未来においても絶対必要なものです。それが真の愛なのです。神様に、「神様、あなたは何を願われますか?」と尋ねたとき、「真の愛を願わない」と言われるでしょうか。もしそうだとすれば、「ああ、文総裁、神様が真の愛を願わなければ、いったい何を願うのでしょうか?」と問うのですね。答えは真の愛だというのです。真の愛とは、男性と女性を代表する愛なのです。夫婦であるならば、夫婦が愛によって一体となり、死ぬのも共に死のうとする愛です。それを外そうとする人は、真の人ではありません。永遠にその綱につながれて、過去にも良かったし、現在にも良いし、未来にも良いというのが真の愛です。

 最近の娘たちに「なぜ嫁に行くのですか?」と問うと、その娘たちが言うには「夫に愛されるために行くのです」。妻が夫の愛を受けるだけであり、夫が常に妻を愛するだけでは、すべてがなくなってしまうのです。あとは乞食になるだけです。ですから愛される人よりも、愛する人にならなければなりません。人から愛を受けたならば、必ずそこにプラスさせなければなりません。愛は受けるだけではいけないのです。

 真の愛は過去、現在、未来を通じて包括的でなければなりません。現在の自分を越えて、家庭、氏族、民族、世界まで、無限に拡大させることのできる因縁と力をもち、そこに作用するのが真なる愛なのです。すべての歴史的人々に、「あなたの願いは何ですか?」と問うならば、男性は「愛する妻を得ることです」と言うのです。すべての夫婦がそうであり、それが世界中の夫婦の最高の願いだというのです。また「私の家庭」と言った時、それは「過去の家庭、現在の家庭、未来の家庭において、理想的なモデルの家庭です」と言うことができる家庭でなければなりません。そのためには、愛が必要なのです。

 さて、このように見たとき、皆さんの心と、体の定着地がどこかというと、過去を代表しても自分を主張することができ、現在を代表しても自分を主張することができ、未来を代表しても自分を主張することができるようになり、間違いなく、過去、現在、未来の三方向が「そうだ。正しい」と、褒めたたえることができるものでなければなりません。ですからお金は、現時代において平面的に作用するものです。絶対縦的な作用はできないのです。お金をもって愛を買うことはできません。真を買うことはできません。そして、真の中でもいろんな真があります。

 例えば刀には、刀を作ることにおいての基準があるのです。そこに合わせた鉄の構造によって打つ時、最高に固まった、最高の組織が完全に密着して、これ以上の刀はないというような刀になるのです。そのような基準を中心としてよしあしが決まるのです。そして、ある剣士が経験を通じて使ってみて、「こうこうであるから、これが基準だ」と、言われなければなりません。何も分からない素人たちがいい加減に作って何ができますか。そういう刀でもって何かを切ろうとしても、切れるものではありません。過去にも、現在にも、未来においても切ることができません。真理は個人を包括し、世界を包括し、すべての宇宙を包括し、被造世界の歴史すべてを包括し、神様までも包括することができなければなりません。動機と過程と結果まで、すべてのものを包括しても余りある、喜びの象徴的モデルにならなければなりません。それで真なる愛の人なのです。

 今日、このような愛を中心として、神様を愛することにおいて私が、昔のいかなる聖賢よりも、もっと高く、もっと深く、もっと大きい愛を完成することができるとするならば、どんなにでも聖賢たちに教えることができるのです。さらに進んで、愛の人となり、「神様、あなたはこのようなことを探し求めてこられたのですか?」と言えるのです。愛は神様一人では成せないからです。

 先生が「このように回る」と言う時にも、ある標準との相対的基準を結んでから回れば、常に何回転したかということも分かるのです。標準の基準ももたずしては、どんなに回ったとしても無効なのです。それは何のことかというと、人間は宇宙の標準を中心として、縦的であるとか、主体であるとか、相対であるとかいうことを決定して、その中で回転しつつ生きていくことにより、価値が設定されるというのです。「何回転した」と、数を数えるのと同じく、人生の価値もそれと同じ比例的基準で形成されていくということを知らなければなりません。

 皆さん、心の中に真の愛を正しくもてば、縦的な愛の血統を受けて霊人体が生まれ、横的な父母の愛の因縁を受け継いで肉身が生まれるのです。この肉身と霊人体が一つになり、共鳴体にならなければなりません。ですから、この世の人々はこのような中心と一つにならなければ、どんなに生きても空しいのです。もし家庭を中心としても、家庭はいつまで私に必要なのでしょうか。家庭の前に神様の国を、神様の宇宙を、神様の世界をつくらなければなりません。

 世界は神様の国のために、国は神様の氏族のために、氏族は神様の家庭のために、家庭は神様の新郎新婦のために連結されなければなりません。それは縦的になされなければなりません。父子の関係も孝子、孝女の縦的関係であり、君臣も縦的関係であり、世界の大統領と国民も縦的関係であり、神様と人間も縦的関係でなければなりません。

 男性と女性が愛し合うのは、真なる父母の愛の基台を受け継ぐためです。ですから、父母の前には孝子、孝女にならなければなりません。 「夫婦は一体である」 という言葉があるようにです。東洋には 「君師夫一体」 という言葉があります。それは王様と師と夫は一体であるという意味です。それは何をもっていう言葉かというと、真なる愛をおいて言えるのです。 「夫婦一心。夫婦一体」 というのは、何を中心とした言葉かというと、夫婦が愛を中心として内外共に一つだというのです。理想的家庭は、愛を中心として父母、夫婦、兄弟がみな、内外、前後、左右、上下関係において一つにならなければなりません。国家も同じです。全部が愛を中心とし連結されなければ理想国家とはいえません。

 人間史と摂理史

 人間史は何かというと、人間たちの生活を記録した横的な歴史であり、摂理史とは縦的な歴史なのです。ですから、宗教を通して、この世の人たちが生きている幸福の基準を凌駕せずして、真なる幸福の世は生まれることができません。そのような結論を下すことができます。人間の歴史は横的な歴史なので、神様を知りません。縦的な歴史が分らなければ、自分の先祖がどのようになっているのか分からないのです。その過程も分からないのです。今日この地上に生活していても、自分の国がどこへ向かっていくのかも分からないのです。しかし縦的摂理史は、もし横的歴史が七十五度で回っていれば、自ら犠牲になって七十五度に合わせるのです。そのように、横的なものに縦的な基準が妨げられるので、神様も悲しみ、宗教人も悲しんできた歴史なのです。

 神様が造られた人間は貴いものであり、縦的なこの大宇宙の愛による幸福を相続して、大宇宙と連結した横的な愛と永遠に一つになって、縦横をこの基準まで合わせていくときに苦労もなくなり、理想型となり、運動するたびに上がっていくのです。真の愛を中心として動くときには、だんだん大きくなります。真の愛というものは大きくなるのです。この自然科学世界では入力より出力が小さいけれども、愛の世界では入力より出力が何百倍も大きいのです。

 仮に私を本当に愛し、本当に手助けしてくれる義人がいたとしましょう。その人に一〇〇万ウォンを借りたとしましょう。それで、私が一〇〇万ウォンを返すときに、十万ウォンを自分のポケットに入れて、九十万ウォンを返すべきでしょうか。そうではなく、一〇〇〇万ウォン、一億ウォンも与えたい気持ちになるのです。このような気持ちを感ずることができない人は、全部地獄に行きます。どれだけ精誠を尽くして生きていても地獄に行きます。恩恵に報いるときには、受けた恩恵よりも、もっと大きいものを与えるようになっているのです。分かりますか。恩恵は天地を動かし得る愛の道理と通じるものなのです。真なる愛は、運動すればするほどに大きくなるのです。ですから、愛の理想世界を追求する天は、 第一に、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なる汝の神を愛せよ」 と語られたのです。そうすることによって、神様の心情の一番奥深くまで入ることができるのです。

第二番目は、「自分の体のように隣人を愛しなさい」 ということです。この二つを成せば、万事が「OK」です。なぜ隣人を愛さなければならないのかというと、心は神様の愛で縦的であり、隣人への愛は横的なのです。縦的に神様を愛するように、横的にこの伝統を受け継ぐことのできる後孫にならなければなりません。精誠を尽くせば、隣人を中心として再び愛の伝統が継承され、そこから平等が始まるのです。

 孝律(金孝律先生)は報告の中で、よくお母様がダンベリーの坂道を上がっていった様子を話すのですが、それを特別に思ってはなりません。それがお母様の愛なのです。身長一六四センチの女性が行ったり来たり、何の愛をもって動くのかというのです。お母様は宇宙的愛をもって動いたのです。分かりますか。かつてイエス様は、民族の反逆者として悲惨にもゴルゴタの山上で倒れていったけれども、彼が抱いていった主流思想は天と地を愛することでした。縦的には、神様の伝統を万世に残して、横的には兄弟の愛を万代に残したのです。これは普遍なる真理であり、普遍なる中心であり、万宇宙を照らす灯台のようなものです。

 真の愛と因縁を結ばなければなりません。終わりの日には、真の愛を立てるための台風が来ます。真の愛の生命の種を残すために、台風が来るのです。庭もみな壊されていきます。父母が壊れていき、兄弟が壊れていき、人倫道徳がみな乱れていきます。愛国心が破壊されていき、聖人の道理がみな壊れていきます。真の愛一つを残すために、余分なものはすべて掃き捨てられるのです。終末時代には、真の愛の枝一つだけ残して、それ以外の枝はすべて下ろされるのです。そのような台風が来るのです。

 そして最近では自分のお父さん、お母さんまでも批判したり、おじいさんを友達と思ったり、お父さん、お母さんを友達と思うのですが、この世界に、そのような話があって良いのでしょうか。これは、縦の歴史がない世の中だからです。

 それでは、摂理史はどのように流れてきたのかというと、その前に人間史は一切自分の国を中心として、国の中でも自分を中心としてきたのです。自分の国しか考えられなかったのです。世界を考えることができなかったのです。このような中で統一教会が国よりも天を、天宙的な心情圏を、さらに神様の心情世界までも語ることができる立場に立ったということは夢のような話なのです。神様を知らないこの世の中にあって、神様の心情を受け継ぐことのできる人にならなければなりません。

 それでは、神様も摂理史を立てて何を探し求めてこられたのでしょうか。お金を探し求めてこられたのでしょうか。もしそうであるならば、その神様は気の狂ったお方です。全知全能なる神様は何を探し求めてこられたのでしょうか。知識ですか。神様は知識の王様なのです。権力ですか。神様は全知全能なる権力の王様なのです。そのようなものは必要ないというのです。摂理歴史を通じて、神様が何を要求してこられたのかというと、それは真理に立った愛なのです。ですから真理を代表し、真理を結実しなければなりません。

 真理は、父の真理、息子の真理、孫の真理、男性の真理、女性の真理、そのようになっているのです。真の人とは真理の実体なのです。父も真であり、母も真であり、息子も真であり、おじいさんも真であり、そのような真なる完全な人間たちを結びつけるものが愛なのです。しかし今日、救援摂理史に見る歴史はどうでしょうか。人間史から見ると勝敗は全部力を中心としたものなのです。

 摂理史的善悪の闘争

 今日の西洋社会の骨子とは何かといえば、力なのです。西洋社会は狩猟文化なのです。白人たちは、全部北極のほうから来た狩人たちなのです。弱肉強食を好むのです。クリスチャンであるにもかかわらず西洋文明は血を流してきたのです。西欧の人たちは愛を主張する民族であるにもかかわらず、アメリカに上陸してインディアンを全部迫害したのです。そして第一次大戦、第二次大戦を通じて、自主的国家体制を中心に世界的版図を成そうとしてみな失敗したのです。世界万民を中心として和合しなければなりません。いかなる民族をも超越することができなければなりません。そのような思想観が今日まで西洋にはなかったのです。

 農耕文化を受け継いだ東洋には、「心とは何なのか」と、すべてに精神世界に対する深いものを求めてきたのです。儒教、仏教、仙教(道教)等の宗教を中心にして、真の善を成しつつ、精誠込めて一〇〇日、一〇〇〇日の祈祷を行いながら、天を受け継ぐために自分の心身を修めてきたのです。ですから、東洋思想と西洋思想の違いは何かというと、東洋思想は縦的なので形体がありませんが、西洋思想は知の版図を中心とするので実際的な足場が残っているのです。それで、摂理史的な観点から見て一番古い宗教歴史は、創世以後に万民を救援するための摂理をなされた神様から出発したのです。神様が主体となって、人間が相対となり永遠に生きることが理想なのです。

 このような道を探し求めるためには、この世界は今まで神様が摂理できる舞台ではなく、一八〇度反対の悪魔の舞台なのです。それを知らなければなりません。左のほうのものは右のほうへ、右のほうのものは左のほうへ、堕落した世界を一八〇度回転しなければなりません。個人的にも左側と右側を回転するためには、個人的闘争がなければなりません。摂理史的善悪の闘争と勝敗を決するのです。個人を反対に回転させるための闘争歴史、家庭を反対に回転させるための闘争歴史、氏族を反対に回転させるための闘争歴史、民族を反対に回転させるための闘争歴史、国家を反対に回転させるための闘争歴史、世界を反対に回転させるための闘争歴史があるのです。今や世界が左右にぶつかり合う時代です。それを全部を回転させなければならないというのです。

 人間が堕落したことによってアダムが左側になり、サタンが右側になったというのです。すなわち、サタンが長子の権限を奪っていったのです。ですから、統一教会における摂理史的善悪の闘争史によって、正道を受け継ぐのはどのような人かといえば、個人を中心として一八〇度方向転換した道理をもっている人です。蕩減路程においては、個人蕩減、家庭蕩減、氏族蕩減、民族、国家、世界、天宙蕩減。さらに神様までも解放するために、神様の代わりに犠牲になることができなければなりません。

 蕩減の道は、まっすぐな状態で蕩減するのではなく、善悪の闘争の中に完全に投入して勝敗を決定するのです。分かりますか。アベルが神様の前に祭物をささげた時、み旨にかなうようにささげたか否かによって、勝敗が決定したのです。み旨にかなってささげた時には勝利するが、み旨にかなったようにささげられなかったならば敗れるのです。祭壇を中心として勝敗の役事がされてきたのです。ですから、 旧約時代には、すべての万物を打ってアダム・エバを探し求めてきたのです。万物の犠牲の過程を経て、万物の中心となる人を探し求めてきたのです。そして新約時代には、神様の愛する息子、娘を打って、この地上に父母を探し求めてきたのです。歴史がそのようになっているのです。それで、イエス様が息子として祭物になり、十字架上で血を流した場からローマ帝国とユダヤ教が分かれたのです。十字架上で分かれたために、十字架上でサタンとアダムが是非の判定を下して、父の立場に立つことができたのです。それは先端の一番苦痛に満ちた位置で、死の立場を越えて天を愛し、世界を愛し、神様を愛する愛の心を中心としたので今日この道があるのであって、自分を愛し、自分の一族を愛するところにこの道はありません。

 万物を犠牲にさせて神様の息子と娘を探し求め、神様の息子と娘を犠牲にさせて、カインとアベルを犠牲にさせて、父母のための道を開いてきたのがキリスト教思想です。そして父母を犠牲にさせて、神様に侍っていくのがこの統一教会の道なのです。何の話か分かりますか。統一教会は父母が祭物としてささげられるのです。父母としてこの地上に来て、神様に侍ることができなかった恨みを蕩減しなければならないのです。

 十字架を通して、この地上に神様が摂理することができ、神様と真の父母が縦横に結ばれるその位置がどこかというと、国の頂上なのです。そこが正否を判断する法廷なのです。今日、世界の法廷を代表したのがアメリカであり、そのアメリカの法廷を中心として、天の側なのか否かを判決したのです。アメリカのキリスト教と国家は、カイン・アベルの関係です。それらが一つになって、「父母のために私たちが十字架を負っていきます」と言わなければなりません。キリスト教の伝統であるところの、息子が血を流しつつ、父母が行った伝統を最後まで、アメリカとアメリカ国民とキリスト教が受け継いで、その使命を果たさなければなりません。

 一九五三年当時、父母が来られて世界的に横的な版図を広げることをサタンが妨害したのですが、神様の縦的な基準の根を植えなければなりませんでした。そうすれば、またたくまに、七年以内に全世界を神様が統治できる愛の勝利的地上天国になったはずです。

 摂理的歴史は、常に三段階を経ているのです。万物の血を流して息子、娘を救うためのものが旧約時代であり、新約時代には、息子、娘を犠牲にさせてこの地上に父母を迎えようとしたのです。悪なる父母の種を受け継いだ人間たちが、本然の父母を探し求めることを願ったのです。それは真の御父母様が来られる道の門を開くためのものです。ですから、世界的な息子、娘、カイン・アベルが血を流す時になれば、真の父母様が来られる時代なのです。アダム、エバ、天使長の三数を中心にして、霊肉一体となり一族を復帰しなければなりません。

 ヒトラーは、キリスト教をひねり潰そうとし、その根のユダヤ教を引き抜こうとしました。サタンはユダヤ人をすべて抹殺してしまおうとして、キリスト教を完全に掃き捨てようとしたのです。このように打たれて、初めて天の側の息子の長子権を復帰して、全世界が一つの世界になれたのです。それが第二次大戦直後なのです。韓国のキリスト教が文総裁に七年過程で侍っていたならば、今日の大韓民国は、世界を指導できる中心になっても余りある国家だったのです。

 先生を見てください。このように世界中が反対し迫害する四十年間を、ひたすらうじ虫のようになって、ありとあらゆる窮状をみな経て、そこからはい出て、蝶になって、世界を処理する基盤を築いたのです。アメリカとキリスト教を動かすことのできる真理をもっているのです。

 一九五三年からの七年間に、このような戦いを経て、新しい蕩減路程を越えてきたことを皆さんは知らなければなりません。一九五三年、一九五四年、一九五五年の三年間に統一教会が出発したのです。四三〇〇年の歴史を二十年間に縮小させたのです。四三〇〇年間讒訴してきたサタンを、父母を中心として二十年圏内でカインとアベルを一つにして清算したのです。統一教会の解放とともに、キリスト教の解放を成すことができるのです。アメリカの大統領も今や、先生の力を必要としているのです。

 すべてのものを結ぶ神様の縦的なる愛 

 そのようにして、反対する国を愛でもって生かしてやるために、神様は愛の心をもって旧約時代、新約時代、成約時代を通じて、万物を犠牲にさせ、息子、娘を犠牲にさせ、父母を犠牲にさせてきたのです。ですから私たちはそれ以上に、自分のすべての物質を注ぎ込まなければならないし、自分の体の血と肉を注ぎ込まなければならないし、自分の愛のすべてを犠牲にしなければなりません。先生は、今もそのことを成しているのです。

 家庭を捨て、国を捨て、民族も捨て、反対する国に行って、怨讐を愛するため一個人としても堂々と、家庭的にもアメリカのいかなる家庭より、神様の摂理を受け継いだ家庭としての理想を立てなければならなかったのです。そのような摂理を成してきたのです。ダンベリーに入って、怨讐の国を生かしてあげ、すべてを回転させてきたのです。その軸はどこから回っていかなければならないかというと、一番高い者が一番低い底に下って、天を引きずり下ろして地獄を復帰してきたのです。

 軸となる真の父母の愛が、ダンベリーに入ったのです。アダム・エバの垣、体と心を妨げた垣、父子の垣、国の垣、天上世界の恨み、地上世界の人類の後孫という悪魔の怪異なる不義の満足に陶酔するこの悪党の歴史を、もうこれ以上延長させることができないというのです。ですから体にブレーキをかけなければなりません。私の肉の魂、私の骨に、心を中心としてのブレーキをかけなければなりません。私の肉は旧約時代を代表し、私の骨は新約時代を代表し、私の心情は成約時代を代表するものです。父母の因縁により、骨髄は骨を結ぶためのものであり、血は肉を結ぶためのものであり、汗は万物を結ぶためのものなのです。この戦いの場で、縦的な基準と横的な基盤を付け加えるようになる時、万国の勝利と統一教会の新しい未来が、朝の曙光とともに訪れてくるのです。完全に転換したのです。

 互いに反発してきたアジア文明と西洋文明が、左側のアジア文明圏と右側の西洋文明圏とが合わさるのです。何を中心としてかというと、万物を愛することのできる神様の縦的愛、人間を愛することのできる神様の縦的愛、万宇宙を愛することのできる神様の縦的愛を中心にして、すべての存在の世界も結ばれていくのです。

 皆さんは、先生が皆さんをどのようにして故郷に送ったのか知らなければなりません。縦的な天のみ旨を中心として、皆さんを故郷に送るようになったのです。皆さんは、この一八〇度を回っていかなければなりません。一八〇度回っていくために越える九十度が皆さんの故郷なのです。皆さんが故郷に帰っていって、先生と一緒に蕩減歴史、闘争歴史の手本となり、愛の実体として、すべての一族と後孫までが、皆さんの前に頭を下げて「あなたこそ愛の先祖です」と、敬礼する立場に立たなければ、故郷をもつことができないのです。

 今度、先生が韓国に帰ってきてみると、民自党がどうだとか言っていますが、自分の欲望を中心として国を動かしてはいけません。この道は、自分よりも、より大きいものを尊重視しなければなりません。神様がいないという唯物論者たちは、とんでもない人間です。皆さん、ソ連のマルクス主義は経済哲学をもって、経済圏を中心としてユートピアを建設しようと主張しましたが、反対にとんでもない世界になってしまったのです。乞食のようになってしまったのです。

 これからは、嫌でもソ連は従ってこなければなりません。文総裁は、このように成功した人です。唯物論者たちも先生には怨讐であり、民主主義者たちも怨讐です。また、民主主義は神様の名前を用いていますが、神様の愛とは遠いものです。神様の愛と因縁を結べば永遠に存続することができるし、永遠に、幸福な過去・現在・未来を統合することができる位置に立つようになります。そのような歴史性を超越できる位置をもつことができなかったために、今日神様の愛を中心としての新しい接ぎ木の運動をするのです。

 アメリカも、自由世界も、キリスト教文化圏も、教皇庁も、先生の教えを聞かなければなりません。でなければ今に先祖たちが来て打つのです。堕落した天使長は、人間の先祖です。本当の先祖になるべき人間たちが先祖の役割をできなかったのです。悪魔になったのです。ですから反対に、復帰された天使世界において、皆さんの先祖たちが悪魔を打って追い払うのです。今後、統一教会を信ぜずしては生きられなくなるのです。

 先生は悪口を言われながらも成功しましたか、しませんでしたか? (成功しました)。私はできなかったと考えています。すべて神様が成したと思うのです。皆さんは、これからもっと大きいことを成しなさいと言われた時にはどうしますか。みな逃げていくのですか。神様のみ前に立ってこそ、私の行くべき道です。縦的な父が世界の大統領の座に座らなければなりません。その次に、横的な大統領の影法師の役割ができるというのです。これが文総裁の思想です。分かりますか、原理原則を中心として元亨利貞、天道之常、仁義礼智、人性之綱(注¨元亨利貞、すなわち元は万物の初め、亨は万物の成長、利は万物の生を遂げること、貞は万物の成功を納めることであり、これは天道の常である。また仁義礼智は、人間の本来的性質の綱である)と言いますが、元亨利貞が何ですか? 仁義礼智が何ですか? これらはみな観念的なところがあります。

 しかし、愛は抽象名詞ではありません。永遠に必要なものです。過去にも必要だし、きょうも必要だし、未来にも必要なのです。皆さんは愛の御飯を食べたいですか、呪いの御飯を食べたいですか? 愛の豆御飯と呪いの御飯の、どちらを食べたいですか? (愛の豆御飯です)。そうですね。愛の鞭打ちと、呪いの賞金のどちらを得たいですか? 答えが間違えば引っかかるので黙っているのですか。

 統一教会の幹部たちを先生がどのように教育するのかといえば、簡単です。縦的に合っているのか、横的に合っているのかというのです。先生の計りは簡単です。世の中で一番便利であり簡単です。縦横がぴったりと合えば良いのです。ですから、統一教会の三大標語は伝統、教育、実践なのです。統一教会の歴史を、自分の事業以上に重要視しなければなりません。たとえどのような会社の社長になったとしても、その立場よりも統一教会の歴史を重要視し、先生が血を流した闘争の歴史を、自分の生命以上に大切にしなければなりません。

 その次に、人類を自分の家庭よりも、妻よりも、子供よりも、もっと愛しなさいというのです。父母になるために、先生はすべての人類の先端に立って神様をこのように愛したのです。ですから真の息子になる道を教える役割をする父母の資格を得たのです。さらに私自身の妻を迎えるときは、自分の一族の教派に所属した女性の中から迎えてはなりませんでした。また私の子女たちは、世の中の子供とは違って、神を中心として自分の位置を正し、「愛のみ旨に従う御父母様のために、自分自身を投入して命令一下、服従します」と言えなければなりません。

 私は興進(様)が死んだのちの三日間、一滴も涙を流しませんでした。神様は私が死んだのちに、私がみ旨をみな成して共同墓地に行く時に神様が泣きますか。誰か答えてください。み旨をみな成して、神様の前に一生涯苦労しながら生きたので、「ああ、かわいそうなお前、死んだのか。お前一代の責任によって、万国のすべての歴史的な人類の罪を背負って行かなければならないのに」と言われるのです。神様を解放したあとで、私が死んだ時に涙を流されるのです。神様も解放できない位置で、救援摂理に呻吟している神様の前に、「私が死んだら涙を流してください」というような親不孝者ではありません。

 先生は三日間、興進(様)の死体の前で過ごしながら一滴も涙を流しませんでした。「これから、君のすることがある! 私もすることがある!」と。その一点から、愛で死亡圏を勝利したのです。天が勝ったのです。一週間先生はそのような戦いをしてきたのです。

 愛を中心として結べば、その愛の前にはサタンが逃げていくというのです。ですから、死ぬことが問題ではないというのです。分かりますか。父母の責任を果たして、天を慰められるすべてのことを成して、一代で天が願う地上と天上世界の分離された事実を、心情的基準を中心に真の父母の血族を通じた因縁を結んで、この地上に平面的一二〇国家を中心としての世界的な再臨の基盤ができたのです。これから地球星は急変して回っていくのです。この三年間で世の中も大きく変わったでしょう? (はい)。先生のダンベリーと、興進(様)の血を撒いた摂理を踏みにじってはいけません。苦難の血肉の根が縦的根となり、芽が縦的芽となって統一教会は成長しているのです。

 皆さんは自分自身の五パーセントの蕩減路程、摂理史的な路程を勝利しなければなりません。それは何でもって勝利するかというと、力ではありません。愛によってです。愛することができなければ敗者になるのみです。ここから天の新しい宇宙再創造歴史が展開するのです。神様の創造は、完全投入からです。責任をもって夜も昼も涙を流してやり、父母が子供の痛み以上の痛みを感じつつ訓戒する時、そこに子供は屈伏するというのです。

 完全なるプラスは完全なるマイナスを創造する

 それで、きょう皆さんが、先生のダンベリー出監を祝うことのできる資格とは何でしょうか。もし皆さんが今死ぬならば、霊界に行って再び復活することができますか。復活するためには、宇宙力を投入させなければなりません。宇宙力が爆発するならば、そこから自動的に復活できるのです。その力の根源が何かというと、愛の力なのです。もし先生がこの国の指導者に会うことがあれば、「何ですか! このようにしてしまって」と言いながら、厳しく詰め寄るのです。審判官は冷酷です。先生は不義と正義を判断するのです。それは神様の本然の愛を中心としてです。私が行うのではありません。一切の理想と前進的な発展の原動力は愛がなくては成せません。

 もし先生が四十年前の興南の監獄の話をすれば、どんなに素晴らしい人であっても骨が砕けるのです。そのような興南で再創造歴史が展開されたのです。二〇〇〇年前にカルバリ山においてイエス様を殺した怨讐のローマ兵士を愛したイエス様の十字架の死を思って戦った時、二〇〇〇年の歴史を越えて爆発的な力が発動したのです。それは神様の愛が歴史を超越するからです。聖人の思想は万民愛であり、神様の息子までも愛するのです。そこから新しい復興が始まったのです。

 今日、統一教会の食口は、「縦的な愛の主体の神様が創造主である」と言いますが、その縦的な生命の主体となられる神様の愛を中心として見た時、縦的な創造主は縦的な愛の父母なのです。分かりますか。そして真の父母とは何かというと、この宇宙の横的な根本的愛の主人公なのです。さらに縦的な神様の愛と、横的な真の父母の愛の連結されるところが夫婦なのです。夫婦を中心として家庭の基盤がその中に染み込むのです。これを大きくしたのが聖人たちとその信徒たちです。また、神様の摂理の中での預言者たちです。預言者とは、万民解放圏を中心とする天地の主権を確立するための神様の国の準備をする人です。分かりますか。

 旧約時代は、万物を犠牲にさせて子女に侍るのであり、新約時代は、子女を犠牲にさせて父母に侍るのであり、成約時代は、父母が犠牲になって神様に侍っていく時代なのです。この地上に、縦横の愛を着陸させるのです。縦的愛と横的愛を一つにするのです。ここから統一圏が始まるのです。

 皆さんが統一教会の活動をよくするのは、いったいなぜかというと、先生が好きだからですね。先生がいれば眠くなりません。先生には完全に縦的基準があるのです。完全なるプラスは完全なるマイナスを創造するという宇宙の創造性があるからです。そのような縦的な愛の圏内に先生がいるので、先生が自然に好きになるのです。先生と共に千年、万年、生きたくなるのです。真の愛の主体は神様であり、真の愛の対象は真の父母なのです。これを血統的にいかに受け継ぐのかというと、お母さんとお父さんの生命からではありません。愛からなのです。

 この要素は地球星であっても同じです。数多くの怨讐をも引っ張り寄せることのできる力が愛の本質なのです。私の体も、心も、すべての霊的な要素も引っ張り寄せるのです。天地和合の、その骨髄的主流を引っ張っていくことのできるものが真なる愛なのです。私はお母さん、お父さんのその愛の力の中から生まれたのです。自分を第一主義とするのは、お母さんとお父さんの愛の心情が神様の前に蒔かれた核心の位置に立っているからです。私を中心として父母が立ったからです。これを中心として縦的歴史が千年、万年継承されるのです。ですから、父子の関係は切ろうにも切ることができないのです。

 さて、善悪の闘争歴史においては、蕩減の道を行かなければなりません。先生もそれを知ったので、今も蕩減の道を行くのです。それ以外には何も必要ありません。それで巨大なアメリカまでも攻撃したのです。すべてに善悪の攻撃をしたのです。蕩減の道を行こうと願う人は、いつでも主流にならなければならないし、主体にならなければなりません。善悪の攻撃者にならなければなりません。それが天地を代弁した立場なのです。

 きょうの日を記念するのは、ダンベリーの勝利を皆さんの勝利とするためです。それは愛の道においてです。きょうの説教の題目は何でしたか? (摂理史的闘争と勝敗です)。善悪の闘争はどのようにしなければなりませんか? それが分からなかったのです。天の前に立つためには、私が正しいと思うことを中心として行わなければならないというのです。それを中心として責任を果たせというのです。環境が悪ければ、問題を起こすのです。それで先生は行く先々でいつでも問題を起こして復帰してきました。

 主体的立場で、サタンと是非を決定し、愛の基準においてサタンを自然屈伏させずしては、皆さんは天国に入る道がありません。長子権を復帰する道がありません。先生であっても同じです。分かりますか? (はい)。この統一教会の者たち! 世の中が歓迎するといって決して安らかに眠ってはなりません。アメリカの人々が泣いているし、共産世界の数多くの人々が痛哭しているのに、誰がその責任を負うのですか。

 私たちが右側であるならば、彼らは左側にいるのです。私たちは真の父母と一体となって、愛でもって吸収しなければなりません。そしてモスクワ大会を行うのです。分かりますか? (はい)。モスクワへ行くのです。今回のオリンピック大会という世界的大会の意義は、すべての祖先たちが霊的に訪れて、その後孫たちが実体で訪れて、愛によってこの文総裁と因縁を結ぶことにあったのです。摂理史的善悪の闘争路程は、公義に立って生きるのみです。自分のために生きてはなりません。悪は自分を中心として生きるのです。善は全体のために犠牲になります。善悪がそこから分かれるのです。

 救援摂理は復帰摂理であり、復帰摂理は再創造摂理なのです。再創造は神の愛を中心として完全投入なのです。それが根源です。善悪の闘争史において、チャンピオンになるためにはどのくらい自分を投入するのかというと、自分がなくなるまで目標の成就のために投入しなければなりません。先生は今日まで自分を中心として生きたことはありません。御飯を食べるのも、朝も夕も忘れて生きてきたのです。朝夕を区別することも分からずに、昼と夜を区別することも分からずに生活をしてきたのです。神様は昼と夜を区別しません。それを区別していては、神様は神様の役割ができません。

 先生の伝統を相続する氏族的メシヤとなって

 今まで四十年間、全世界は文総裁に反対してきました。共産党、アメリカ、アメリカのキリスト教、ユダヤ教、大韓民国のすべての団体という団体がみな、私に反対してきました。しかし、私は死にませんでした。

 摂理史にプラスする人たちは、愛を目標とします。愛主義に目標を置くのです。縦的な伝統的愛、横的な理想の愛、その縦横を結んだ愛が、初めて父母によって統一圏をもたらすのです。その心情的統一を成すのは、この統一教会以外にはありません。先生は一生涯、受難の道を歩んだのです。ですからこれを相続するために、皆さんは五パーセントの責任を果たさなければなりません。皆さんは、自分の家族すべてを蕩減復帰するために故郷に戻っていくのです。故郷に帰る時が来たのです。今後はいかに立派な人であっても、その地域の統一教会の責任者の愛のサインをもらうことができなければ、先生とは関係ありません。ですから先生は故郷に戻っていく皆さんに先立ち、教育機関としての郷土学校をつくり、南北統一運動国民連合までつくっておきました。

 故郷に帰っていった神様の使者たちは、自分の故郷のすべての人々に自分の生命のように侍り、 「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、汝の主なる神を愛せよ」 と聖書にあるごとく、愛の心をもって、神様が愛するのと同じ心に立つようにならなければなりません。また、統一教会の食口たちが、そのように愛するようになる時、隣人を愛したということと同じことになるのです。そのようになれば、縦横の天地を包括できる、真の人のもつべき理想的愛の復帰基盤が設定されるのです。東に行っても、西に行っても、南に行っても、北に行っても、上下に行っても、どこにでも通じることができる理想圏です。このようなすべての球形の力は、愛によるのです。宇宙のすべての作用は、この球形の核の縦横の愛の点を通ろうとするのです。すべての作用の動機がそこにあるのです。ですから主体と対象は、必ず左右になっているのです。宇宙はペア制度になっているのです。人間も男と女、犬も雄と雌、蟻も雄と雌、細菌も雄と雌、鉱物もプラスとマイナスになっているというのです。

 なぜこのようになっているのかというと、存在は必ず縦的基準と横的基準が合ってこそ相対になれるからです。そこで、自分の相対に対して自分自身を投入するようになるのです。愛を投入するようになります。ですから、進化論的観点と愛の発展と創造を中心とした発展の論理は何が違うかというと、真なる元素が愛を中心として自分の生命をどのように投入しようとするのかという問題に尽きるのです。鉱物よりも大きい生命をもったものは植物です。植物よりも大きい生命をもったものが動物です。動物の中でも一番の中心になるのが人間なのです。さらに人間の中でも、縦的な神様の愛を中心として生きるという、そのような人格者の愛の圏内に同参することが、万宇宙の存続起源にならなければならないのです。そのような愛のためには生命をささげるというのです。

 先生はこのことを知ったので、自分の生命をこの愛のためにささげる覚悟をしたのです。愛が先か、生命が先かというと、愛が先なのです。愛が動機になって生命が生じたのです。 コリント人への第一の手紙の第一三章を見ると、「いつまでも存続するものは信仰と希望と愛とこの三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」 と言っています。愛は、全宇宙を審判することができるものです。愛の道理に合う時には、合格となり、そうでなければ審判を受けるのです。サタンが讒訴するのです。

 審判は何を基準にするのかというと、真の愛をもってするのです。分かりますか。個人的な真の愛を中心として一万名の人々を審判するのです。家庭的な真の愛を中心として一万の家庭を審判するのです。氏族的な真の愛を中心として一万の氏族を審判するのです。国家的な真の愛を中心として万国を審判するのです。天宙の大主宰者が慕い、従うことができる愛の法度を通じて、天宙の大主宰の審判圏が展開するのです。そこで勝利する者は、永遠に存続するのであり、ここで敗れる者は永遠に屈伏するのです。

 ですから、堕落した人間たちは必ず蕩減の道を行かなければなりません。神様の戦術戦略は、打たれて奪ってくるのです。摂理歴史はいつも打たれてきましたが、決して弁明しませんでした。自然屈伏させなければならなかったのです。自然屈伏させることのできる環境というものは、いかなる歴史時代であっても、その当代の人たちの前には現れませんでした。

 しかし、文総裁は、すべての歴史時代にも自然屈伏させることのできる基盤を、一代において築いて、一代において清算したのです。今やアメリカと韓国のキリスト教を中心として、私の目前で審判が展開されているのです。この時代圏内における善悪の判決とともに、愛という基準を中心として勝敗の決定戦が展開しているのです。この伝統的基準を不信した人は、地獄に行くのであり、これを越えていく人は、天国に行くようになるのです。

 そのような標準をもって、ダンベリーの中において歴史を背負い、世界を正すために戦ってきたのです。そして四十日目に、ダンベリーの歴史が始まって以来初めて監獄の門がすべて開かれて、囚人たちの父母、兄弟、親戚たちが監獄内で自由に会えるということが起こったのです。先生がダンベリーに入ることになったその日から、アメリカのために成してきたすべてのことは、今日において、もはや統一教会の文先生を無視することができない勢力基盤になったのです。その基台を築いたのがダンベリーの中なのです。その場で死ぬか生きるかという戦いをしたのです。「ワシントン・タイムズ」なども法廷闘争をしながらつくりました。

 ですから、そのような先生の伝統を相続する皆さんになって、皆さんの村に帰って、氏族的メシヤになるのです。世界の五大洋六大州に皆さんの涙の跡を残さなければなりません。その解怨成就のゆえに歴史は、一日生活圏に入ってくるのです。今やアメリカの国民たちも、「我が国の第一の愛国者は、文先生だ」と言っています。

 この国の愛国者の順位の中に文総裁の名前はないけれども、天上の愛国者の名簿を見れば、一番最初が文総裁なのです。そのようになるために、皆さんも国を愛さなければなりません。神様を愛するためにです。

 皆さんの子供たちが痛哭しながら、「私たちの父母は、神様を愛するあまり、私たちには無情な父母であった」という言葉を聞かなければなりません。そして神様の愛のために、解放の王者として育ててくれたのだという、父母の深い愛が分かるようになった時、子供たちは痛哭するというのです。

 そのように、皆さんは火山のような心を爆発させなければなりません。活火山にならなければならないというのです。活火山にならなければなりません。山の頂上から二十四時間火を吹き出すのです。そのような愛の活火山になって爆発しなさいというのです。そこでは、すべての者が死ぬようであっても、決して死にません。南北統一のため、郷土愛を確立していくことを覚悟し、決意するのが、きょうのダンベリー勝利三周年を記念する祝賀の日に統一教会の群れが成さなければならない課題なのです。(アーメン)。これが結論なのです。

 天の国の王族の種に

 摂理史において、敗者になってはなりません。敗者の悲痛さは比べるものがありません。先生はよく知っています。法廷の前に立つたびに、いかに悔しくてたまらないかという事実は誰にも分かりません。準備してきた一切の環境を奪われた孤児の立場がどれだけわびしいものであるかということをよく知っているのです。ですから、先生は解放された時にも、「万歳」を叫びませんでした。このような摂理の時が、今後、韓国に現れることを分かっていたからです。

 今日、統一教会の歴史の背後に、深く根づいた縦的なる勝利の歴史が入っているのです。正義の血肉が入っているのです。そのような歴史のほとばしる栄養を供給された種と幹と枝と果実なのです。万世において万民が頭を下げ、尊敬し、自然的にその道を褒めたたえ、賛美するようになるのです。そのような群れとなって、天の国の息子、娘、王の皇族にならねばなりません。私が探し求める人は、天の国の農民ではありません。天の国の王族なのです。皆さんはそのような種にならなければなりません。その位置で収められ、倉庫の中で、寒い北の雪風が吹きつける冬の季節を越えて、南から来る新しい春の日差しを受けて、新しい芽となり、輝く太陽の光の方向に合わせて、自らの中に創造力を発揮し、生命力を輝かすことのできる種にならねばなりません。それが真の生命の種なのです。

 文総裁の前にいかに激しい雪風が吹いても、暴風が押し寄せてきても、私は倒れません。どれだけ無慈悲にありとあらゆることが起きても私は倒れません。しかし天は打ってきたのです。私が一番愛する友達をみな、連れていきました。私を愛した人たちをみな、打ってしまいました。私のお母さんが私をどれだけ愛していたことか分かりますか。愛する妹たちも、他人の家に送りました。そして私は、神様のために家を離れ、故郷を離れ、国を離れました。そして、この地球星を去るために、神様の愛の種を蒔くために、どんなに努力したことか知れません。

 今や時が来ました。統一教会という誇りをもって故郷に帰っていくのです。先生が故郷を失ったその悲しみ以上の故郷を訪ね求める父親の心をもって帰っていくのです。そのような心をもった先生の代身とならねばなりません。先生が失ってしまった家庭を、氏族、民族、国家を代わりに探し求めていくのです。この民族を通して、先生が愛することのできなかった過去を越えて、先生が愛するこの韓国において、地上天国の基地をつくるために、休む間もなく涙と共に行かなければなりません。そのような人が神側の人なのです。

 先生は敗者なのですか、勝者なのですか。ここに何と書きましたか。勝利と書きましたか。読んでみなさい。何と書きましたか? (ダンベリー勝利三周年記念です)。

 先日先生は、釜山に一日で行ってきました。木浦にも一日で行ってきました。江原道にも一日行ってきました。全部、一日で行ってきたのです。眠りながら回ったのではありません。なぜか分かりますか。先生は夜と昼を意のままに治めて歩む人です。そのような人なのです。疲れてもし自分でも知らずに眼がまどろむならば、先生はパッとつねるのです。眠ってはいけないというのです。「走れ、三千里半島。私と同じ心をもって生活せよ。歴史的な恨みを私が責任を負う。国土よ従え。私のあとに従え!」と、このように行くのです。

 私が立場を確保するこの国、この国土にはもはや悪魔の差し出す手がなくなるというのです。共産党の群れがどこにおり、悪党の群れがどこにいますか。この韓半島を解放の基盤のために、未来に必ず祝福があることを願って、ダンベリー勝利三周年を祝賀する記念のこの日をもつのです。皆さんは敗者になってはいけません。勝者にならなければなりません。きょうの記念すべき日、先生のみ言を中心として、縦的横的な理想の愛の心情が一体化した位置で、自分が中央に立って蕩減復帰の王子、王女になるという人は手を挙げましょう。(アーメン)。(拍手)

 祈祷

 では祈祷しましょう。

 愛するお父様。こうしていると、昔の青春時代を懐かしく思い起こします。血がわき立つ情熱が心の奥深くにしみ通り、お父様の心情の園で、切なく泣き叫びつつ、手の先まで感じたものでした。このような七十に近い老体となりて、歴史を回顧しながら、再び今日の立場を考えた時、お父様の前に心苦しくおそれ多いことばかりです。

 青春の時期に、気勢も堂々と天下に号令しなければならない時代をみな失い、再蕩減という、怨恨の深いほら穴をさまよいながら、今日、この時代にこのように基盤を築きましたが、この統一家の姿も十分なる備えに欠け、いまだ足りないことをお許しくださいますようお願い申し上げます。

 お父様。摂理史的なすべてのものに対して、敗者になるのか、勝者になるのかということは、必ずや戦場において戦わずしては、決定できません。これは、天のことであれ、地上世界、サタン世界のことであれ同じ道理であります。

 今日、この三千里半島、この国を、誰がお父様の立場に立って愛することができ、誰が真実なる愛国者の姿を見せてくれることができるでしょうか。これを成し遂げるために今日、統一家は、還故郷という、歴史上の摂理時代になかった新しいことを成すにあたり、すべての情熱をみな合わせて投入しなければならない一人一人であることを知りました。ゆえに、このような目的と使命の前に、厳粛なる姿勢でもって、心と体を収拾し、あなたの愛の茎として炎を燃やしつつ生きる子女たちになりますよう、お許しくださいますことを切にお願い申し上げます。

 ろうそくが光を放つために自分自身を犠牲にさせることと同様に、統一家にありましても、天地に愛の光を照らすためには、真なるあなたの子女たちが、犠牲にならなければならないということをはっきりと知りました。与えられた今日の使命と、明日の願いのために、前進するに不足のない群れになりますようにお許しください。もてる精誠と力を尽くして、恥ずべき敗者の立場に絶対に立ちませんようにお願い申し上げます。
 毎朝、昇る太陽を眺めながら、きょうの日を忘れないようにお許しくださり、また夕焼けに赤く染まる夕陽を見たならば、きょうの日を反省しながら、この夕陽のように、明日を迎えるために夜の戦いに勝利し、勝利の曙光として明るく輝きますようにという、決意をすることができる、あなたの心情を代表したあなたの子女たちになりますよう、お許しくださいますことを切にお願い申し上げます。

 きょうのような日には、全世界の統一の群れたちが心から祝賀しながら、父母のおられるこの地に向かいまして、心を一つにして、誠心を尽くし、両手を合わせ、精誠を尽くしますので、あなたの愛の感触がとどまりますようにお許しください。あなたの愛の因縁で結ばれて、永遠なるあなたの生命と勝利を自慢することができる自信のある群れたちとして連結させ、行くべき明日の戦線の前に恥ずることのない、誇らしく、勇猛なる、天の正義の精兵たちになれますようお許しくださいますことを、切にお願い申し上げます。

 この日を記念するこの場に、お父様が共におられ、恵みとして輝かしてくださいましたことを感謝申し上げます。この場を去っても、どこにいたとしても、きょうここで決意いたしましたことを忘れずに、生涯の標準としての勝利の盾を定めくださいまして、サタンを屈伏させる勅書を持ち、お父様の保護を受けることができます息子、娘になりますことを決意いたしましたので、喜びでもってお受けください。行くべき道のすべての行いが万事成就しますように。生きて働かれるお父様が保護してくださいますことを感謝申し上げながら、すべての祈りを真の御父母様のみ名によりおささげ申し上げました。アーメン。(アーメン)。




一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

世界平和を願う 奇知の外の凡人 が徒然なるがままに書く日記です。
↓↓ にほんブログ村 ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓

​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2022.01.03 16:46:33
コメント(0) | コメントを書く
[文鮮明先生み言葉選集(講演文)] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

© Rakuten Group, Inc.
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: