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2023.07.14
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訓読会以後に下さったみ言

一九九九年一月五日、ウルグアイ・プンタデルエステ


 皆さんが霊界の事実を知らないがために、精誠を込めていっても疲れ果て…そういうことを先生はよく知っています。ですが、皆さんはこのことを知らなければなりません。霊界の中心は神様です。その神様は私たちの父です。世の中の誰よりもいちばん身近で、切ることのできない宿命的な絆を持った方が、私たちの父なのです。

  父の願い

 その父の願いは何でしょうか? 皆さんの家庭解放です。皆さん一家庭だけではありません。全世界人類の家庭をいかに解放するかということが、父の心の中において、ふさがれた壁だとすると壁、苦痛の傷だとすると傷となっているのです。

 先生が皆さんに精誠を込めなさい、精誠を込めなさいというのは、どうしてでしょうか? 精誠を込めるときは、自分の事で精誠を込めてはいけないのです。自分の事で精誠を込めるようになれば、神様が世界の陽射しをすべて水平に照らそうとするところを、それを水平に照らさないで私だけを照らしてくれと言っているのと同じです。それではいけません。

 ですから人類を代表し、神様の代わりとなって祈祷するという心を、いつも持たなければなりません。また、神様御自身が歴史を通してどれほど精誠をたくさん込めてきたことでしょうか…、このことを考えなければなりません。今日もそうであり、明日もそうです。私がこの地で生きてあの世に行って、神様が私をご覧になるとき、地で世界のために精誠を込めた神様が分からず、少しも同調できないという立場に立てば、息子の道理、あるいは祝福家庭の道理を果たしたということができません。あの世に行って苦痛が残るのです。

 ですから、神様の心の中に堕落によって因縁づけられたすべての根本の根を引き抜くため…、そのために祈祷するという、神の役事を担う者、神を慰労する者とならなければなりません。皆さんがそのような難しい立場に立つようになれば、信仰の相対となってくれる者がどれほど貴く思えるか分かるでしょう。神様の愛の心情が反映されるために、人恋しく、我が町が恋しく、国が恋しいのです。

 それゆえ、国を越えて最後の目的である地上と天上の解放の天国を望む思いが叶うまでは、神様の憂い、神様の苦痛の心情は解消されないということを、いつも記憶しなければなりません。そこに私が役事を担う者となるなら、それはどうなるか考えなければなりません。

 神様が寝ることも休むこともせず、果てしない循環の道を解放するためにずっと精魂を込めておられるように、私たちも精魂を込めなければなりません。小さな韓国の一人として、天地を代身をしたそのお父様の胸中に入っていこうと精誠を込める、限りなく限りない精誠を込めても何千万分の一にしかならないということを考えれば、精誠をもっと込めて恩恵が来れば来るほど後退するのでなく、もっともっと精誠を込めたい心、その心が貴いのです。

 それは何かというと、永遠なる世界を解放するための準備だというのです。準備できない人はできない基準に留まります。そこに行ってから、誰が嘆いても、誰がどのように苦痛にあっても解放の道がありません。自分が地上で準備できなかったことを蕩減するには、地上で準備した以上に霊界で準備しなければ解放されないのです。その解放圏を準備するには、地上が何千万倍も速いということを知らなければなりません。

 それゆえ、自分の生命が尽きる前に、地上における神様の心情的願いの最高の標準の前に、私が小さき役事を担う者として精誠を込めて愛の因縁を結んだという事実は偉大なことなのです。

 ですから、自分だけの一生ではありません。私が死んでも、永遠なる人類を解放するまで、神様の精誠の度合いは残るということを考えなければならないのです。そのことを心配して祈祷して、精誠を尽くして愛することによって、皆さんが霊界に行くようになれば、神様と因縁づけられたその世界において、昔愛して精誠を尽くしたがゆえに解放圏が広がるというのです。そのような事実を考えるとき、み旨を知った以後の道というものは楽な道ではありません。

 ですから個人のために精誠を尽くし、家庭のために精誠を尽くすのです。それはすべての世界を代表して精誠を尽くす一つの祭物のようなものです。


  祈祷と精誠と愛

 生きた供え物のごとき家庭として、このような立場で進まなければならないのが、祝福を受けた人々が解放的完成圏に到達する道だということを、いつも考えなければなりません。ですから疲れ果てることのできない道です。

 だんだん心が豊かになり、涙なしには行けない復帰の道に入ったのです。何か良いものがあれば、私がまず食べようと思うことができないのです。孝子の道であり、忠臣の道がそうなのです。天を考え、世界人類をまず考えるのです。私の食べるこのおいしいものは、私だけが食べずに神様を通して食べるがゆえに、その世界を心配して…。雨が降って、あの山の谷間に流れる水が一滴二滴ぐらいでは大したことはありませんが、流れ流れて水流となって大洋まで連結されるときには、山から流れてきたその水は海まで流れていき、水蒸気になって山に帰っていくことができる…、このようなことが展開されるのです。ここで解放圏が展開されるということを知らなければなりません。なんと簡単なことでしょうか。

 たゆまない祈祷と限りない精誠を中心として、愛の線が引くのが、私がこの地で堕落した子孫として行くべき生涯路程であると、このように考えなさい。分かりましたか? 準備できなかった人は流れていくのです。準備できなかった人は相続者になれません。重要な話です。分かりましたか?

 何においても天とともになし、天を同情して、神様の心に感動を与えることのできる、そんな小さな瞬間が、どのような立場であるかと考えると、精誠を尽くしてもまた尽くそうという、為に生きてもまた為に生きようという、愛してもまた愛そうという、父母の心のような立場です。

 これが天国のお父様の心であることを知り、そのお父様の前に相対的な基準を立てなければなりません。相対基準を造成しなければ、授受作用が起こりません。運動が起こりません。運動が起こらなければ永生の路程が止まるのです。そのようなことを好むようであれば、それは永遠に神様とは関係のない脱落者になってしまいます。ですから、いつも準備しなければならないのです。分かりましたか?

 ここに来た皆さんも「ああ、そんなに遠い道のりをどうやって行けるだろうか?」

 お金がなくて涙を流して「結婚したいのに…、結婚すべき時間は決めたのに…、お金は一銭もない…」それ、どうするつもりですか?

 このような所に来るのに、結婚が問題ではありません。歴史的大転換時代なのです。端から端へと転換しなければならない転換時代だというのです。転換しなければなりません。こちら側を経てきたならば、あちら側を経て転換しなければなりません。あちら側に転換できる最後の道がこの道です。この端を通じてのみ転換できるのです。

 今まで暗い世界に生きていた人々や家庭が、先生を中心として明るい側について来る時がきたのです。暗い側というのは、先生の命令を中心として解放圏となっているために自動的に転換されるのです。

 皆さんが転換するようになれば、それに連なってすべてよくなるのです。夜道を太陽のように転換できるのです。それゆえに天のために因縁の輪を広げ、自分の一族のために因縁を結んであげれば、その準備した因縁の天の基準を相続するために、知らず知らずその一族はすべてがうまくいくようになります。これはみな理論的です。これは妄想ではありません。それゆえに、精誠を尽くして祈祷して愛さなければなりません。祈祷と精誠と愛。分かりましたか?

 神様がどれほど精誠を尽くして、神様がどれほど愛したのか…、それを知らなければなりません。 顔を洗って鏡を見るとき、女性たちは自分の顔がきれいだとか何とか言うのではなく、この顔で精誠をどれほど慕い求めるかが問題です。この顔で自分が喜べることを中心として笑い、化粧をしながら笑うのでしょう? どれだけ神様を愛したのか考えてみなさい。それが皆さんの永遠の恵みであり、恵みの中の恵みとなる基礎だということを忘れずに、恨んではいけません。

 「ああ、これは疲れる」、「先生が認めてくれる」、「認めてくれない」とか言っていますが、精誠を込めることを認めてあげればどのようになりますか? 愛してくることにおいて認めてあげればどのようになるのかというのです。認めてあげれば愛がつまってしまいます。認めてあげないということが、精誠が流れるように、愛が流れるようにしてあげるということなのです。流れなければなりません。水も流れ、空気も流れ、愛も隙間さえあれば埋めてあげなければならないのです。

 神様の心の中のくぽみがどれほど深く、どれほど低気圧になっており、隙間があるとすれば、どれほどの隙間があるかというのです。その隙間すべてを埋めうる愛の心をもって、神様の心の世界を初めて埋められるその道こそ、子としてこの地に人生の命を担う生涯ではないかというのです。これ以上恵まれた道はありません。これ以上の幸福はありません。幸福だというのです。そうなれば、天がその価値を認めてくれます。その時、その時、その時…。

 さらには転換期には十年の精誠を共に尽くしてから、私が頂上に行くようになれば、数多くの人々の十年の功がすべて飛ぶように私に移転されます。

 それゆえに「孝子」よりも「忠臣」にならなければなりません。「忠臣」は全体のために生きて、大きく「国」を愛して精誠を込めるのです。「聖人」は世界を中心として精誠を込めて、「世界」の人を愛そうとします。「聖子」の道理は天地を中心として精誠を込めて、「天地」を愛そうとするのです。このように段階と差が生じるのです。

 これを精誠と愛の道によって受け継いでいくということを知って、皆さんが貴いものがあるならば、世界のために整理しろという神様の命令があるとするならば、どれほどいいでしょうか? そのように考えてみましたか?

 そうすれば神様が恵みを与えてくださるのです。その時が訪れる前に天の恵みを受けて「ああ、恵みを受けたからには私の物だ」といえば泥棒野郎というのです。恵みを受けたけれども、それが災いとなるのです。地獄のどん底に落ちるのです。

 時が訪れるように待っていたのに訪れないなら、橋を架けて道を切り開き、その時が訪れるようにと、自らの財産をすべて流して送ることのできるみ業、そんなみ業をする人々が、国家的運勢に沿って世界の恵みを蓄えておくことのできる基盤になるということを知らなければなりません。

 先生はこのように考えるのです。悲惨で難しくても神様がついて来ることのできる道、分かりましたか? あんなにも受難の道で苦痛を受けてこられた神様、天のお父様が、私の後について来て慰めを受けるということは、これは驚くべきことです。神様の恵みをすべて抱えて歩むのです。それに対し感謝して、もっと大きなことを望み、神様の恵みをみな分けてあげるのです。

 親心もそうではないでしょうか? 我が子が苦労しているならば、自分の財布の中にあるお金をみなはたいてでも、我が家の財産を売ってでも助けてあげたいのが親心です。分かりましたか? 疲れたと言えますか? 疲れ果てるわけにはいかないのです。

 人類がこのようになっているのに、どうして疲れ果てたと言えるでしょうか? ですから、み旨を知るようになれば、一生を楽に生きられないと考えるのはどうしてでしょうか? これが神様を解放する道だからです。

 永遠なる世界、億千万代の神様の解放圏に向かってそれを埋めるためには、投入して、投入して、忘れて、忘れて、忘れて、忘れて…、このようにして歩むことによって無限なる解放…、天の皇族圏の外に逃げていっても神様が見つけ出して立てるようになるのです。分かりましたか?

 それが何ですか。精誠と愛…。精誠というのは祈祷しなければなりません。何もせず、ただ流してしまってはいけません。 祈祷は何かというと宣言なのです。「私はこのようにします。こうこうこうです」という報告と宣布です。神様に報告して宣布したことは、サタンが奪っていくことができません。先生が今まで多くの宣布をしましたね? 峠を越えて宣布するのです。

 精誠と愛の心…。南米に来て「ああ、故郷が恋しい。お母さん、お父さんが恋しい。帰りたい」となってはいけません。ここを通して天が与えたい心があるのです。ウルグアイは小さな国ではありません。四か国を越え、三十三か国を越え、南米・北米を越え…、そういった解放圏を願う天に侍って歩むべき道が、精誠の道なのです。そのためには精誠は当然であり、自分を犠牲にすることは当然だというのです。

 親の前にたくさんの子がいるとき、親は子に対しては、自分を愛する以上に兄弟をより愛することを願います。道端を歩いていて、かわいそうな人がいれば、その人の母親、父親以上の思いをもって愛そうというところには、神様が同調するというのです。その場は天国と関係する場になるということを知って、精誠と何ですか。(愛)。愛さなければならないのです。

  神様に近い道

 今年が最高の年です。真の祝福天宙化とサタン血統根絶。精誠が必要です。分かりましたか。精誠の心。愛の心。それでなくては絶対に根絶できません。

 アダムとエバが堕落したときの、神様の悲痛なる歴史の苦痛を感じうる根を、私がどうすれば抜いてさしあげることができるでしょうか? 神様はおやすみになりますが、私は再び起きなければなりません。一番難しい事をする、そのような立場に立たなくては、神様の心情よりも何百倍も難しい立場に立つ、そのような立場に立たなくては、恵みが受けられないという考えを持たなければなりません。分かりましたか?

 ですからパンタナールだとか…。そのようなときには孤独な道を行くのです。孤独な道を。独りで、独りです。私の前には誰もいません。あるのは自然だけです。自然を見つめ、動物を見つめ…それらを本然の神様が見つめるとき、人間のためにつくりましたが…、人間のためにつくりませんでしたか? 人間のために精誠を尽くし、愛のために統一をしました。本然の愛によって、常に小さなものから大きなものまで、因縁的心情でつながっていますが…、

 その心情の畑を啓発しなければなりません。その訓練です。そのために、その中でお父様に侍って、私はそのお父様の前に愛される、かわいがられる子となって、神様の心の友、心の世界の解放の友となる…、このような考えを持つのです。そのように考えると、時が深まれば深まるほどに上がっていきますから、自分が標準とした以上に越えるときには、ほとんど想像もつかないことで自動的に解放されていきます。

 億千万世にわたる今までの創世以降の堕落世界が、どれほど大きいことでしょうか? これをすべて包容しなければなりません。何で包容しなければならないのですか? 力をもってしてはできないのです。知識をもってしてもできません。唯一、愛の心だけができます。涙を流すには何をもって…、精誠を込めるには何をもって精誠を込めるのか? これが絶対的に必要です。そのような心をもって「できる? できない?」を心配する必要はありません。「そのようにしたのか? しなかったのか?」が問題です。欲ばった思いだけではできないのです。

 先生が自分のことを考えていたならば、今日もこのような場に出てこられなかったでしょう。人をどれほど恋い慕ったのかというのです。涙とともに愛する…、言葉ははっきりしていなくても涙を流しながら、愛の言葉…、唇を動かす表示をして愛しているという言葉を伝えたならば、それははっきりした言葉よりもっと貴いのです。分かりましたか? 懐かしい人に会ったときにうれしくて涙が先に出ますね? 涙なくして天国に行くことはできません。

 ですから、その道は豊かに食べて豊かに暮らす道ではありません。食べ物に困り、暮らしに窮し、人から指さされ批判される道が、神様と一番近い道です。それゆえ、そこにそのような事情を持っている人がいたとすれば、神様は御自分の秘密とすべての内容を話してくださろうとするのです。そうかと言って、神様お一人では人間を解放することはできません。人間を通して解放しなければならないのですが、その代表者が真の父母です。メシアだというのです。

 皆さんがメシアの子女となったならば、そのような心…、父母様の解放を思えば、神様の解放を思えば、そのような尊いみ旨、大きな愛の圏に入っていくことができなければなりません。ただ何もせずに入っていくことはできません。水平的にジャンプしなければなりません。

 そのようになれば、霊界に愛の低気圧が生じるため、愛を求めるためにその切実さが生じます。高気圧があれば低気圧を埋めてくれますね? 来るなといっても後ろから押してくれます。押してくれるのです。そのような契機をつくるためには「精誠と愛」、分かりましたか?

 精誠の途絶えることを望む個人もないし、家庭もないし、氏族・民族・国家・世界、宇宙もないのです。精誠を込める道について行きます。愛というものは誰でもその道について行きます。これが伝道です。

 それゆえ皆さんは、自分のする事を報告して宣言をしなければなりません。「お父様、今日はこのようにいたします」といえば、「今日、成し遂げました」と報告しなければなりません。報告をしなければ水平になりません。水平になって縦的な関係を築くのが報告です。そうすればそれが残るのです。

 以前にも話しましたが、バランスを通じて水平になれば、当然中心が必要なのです。天に報告するがゆえに、愛によってその縦的基準が永遠に変わらないのです。そのような生涯路程を持った人は、永遠の世界において、自分の立てた中心基準に相当する水平が定まるのです。そこでは自分が関係を築いたぶんだけの所有権が生じるようになるのです。そこに該当したぶんだけ、霊界で自由に活動するのです。解放が行われるというのです。これは重要な話です。分かりましたか?

 先生がそのように生きてきました。それゆえに、先生は怨讐扱いすることができません。憎んではいけないというのです。「この野郎…」というのはやめようというのです。どうなって怨讐となりうるのでしょうか? 自らそのような欲を抱くようになった動機は何でしょうか? 母や父や息子や娘を食べさせて、まかなっていかなければ、という新たな欲望の出発から欲も出てくるのです。

 悪人も、強盗もいっぺんには現れません。仕方のない困難な立場に立たされて、自分がそうせざるを得なくなり、過激に環境を踏み外して行動するようになるとき、犯罪を行うのです。動機は自分が愛する妻、愛する息子と娘、愛する父、母を中心とした動機だったのです。思い通りに仕事がうまくいかずに、環境的与件を破壊して犯罪が起こったとき、それは悪くない動機で出発したと考えることができます。

  一心不乱にしなさい

 皆さんは先生のことをそれほど優れていないと思っているかもしれませんが、先生はこのような場でみ言に通じるようになれば…、み言に通じれば通じるほど、その精誠の度合いが高まり、愛の心がそこに宿るようになるのです。

 ですから、み言で「訓読会」を毎日のようにしなさいというのです。「訓読会」の味が、ご飯を食べるよりも、自分の大好物よりもおいしいという人は、無限な発展をするはずです。先生の生涯を見ると場面場面には、深刻な場で最高に集めて宣布してきた実績が残っています。その宣布の位置があるゆえに「私の位置を埋め合わせていくためには、どれほど埋めていかなければならないだろうか…」といって私たちの生活を振り返ってみるとき、休む間がありますか。

 霊界に行けば先生の近くに行きたいのでしょう? そうですか、そうではありませんか?(そうです)。答えは簡単です。精誠をどれほど捧げたかです。天の心をどれほど解放してあげ、ご父母様の心をどれほど引きつけて消化してあげたのかというのです。その次には、それを愛をもってしたのか、あるいは自分の出世や、自分が祝福を受けようと、恵みを受けようと思いながらしたのかというのです。自分が恵みを受けるためにしたならば地獄に行くのです。

 殉教した人々であっても「このようにイエス様を信じてこそ…、こうして信じて死んでこそ天国へ行けるのだ」と思っていたならば、天国へ行くことはできません。哀れなイエス様の心の世界に入って、慈しんであげなければならないのです。

 神様が数多くの聖人烈士を覚醒させて立てたのは、神様の心を解くためです。子女たちを解放させるためです。解放を願うその思いが、しこりとなって残っていますから、私たちの解放的環境のために、どんなことがあっても行くべきであるのが、子女としての果たすべき道理であり、子女の生きうる生活舞台であるということを忘れてはならないのです。分かりますか?

 これを忘れずに歩んでいけば、皆さんの行く道は大いに発展することでしょう。…自分も知らないうちに、知っています。知っているのです。人は霊的存在なので、知っているのです。通りすぎる隣の人について行って、よく見てみると、初めて会ったはずなのに、「あの人どこかで会ったな…」と、こんな気がすれば、その人を絶対に逃すなというのです。そのような人がいるでしょう? よく見てみると、どこかで会ったことがあるような…、どこでも会ったことがないのに…、そういう人は逃してはいけません。その人は皆さんに必要な人です。

 そのようなときは、真心を込めて、神様に対していたそれ以上の思いをもって見るようになれば、直ちに、くっつきます。離れられないのです。それが自らの同志たちを一まとめにしていき、心情の基盤を広めていく方法なのです。多くの恵みによって、天国に近い祝福の立場に立つことができるのです。

 苦労して精誠を込めて愛するものは、私のものです。ところで、恵みは神様が持っています。恨を乗り越えて、恵みを与えたい思いが蓄積されていますから、「いつ恵みが受けられるのだろうか?」と考える必要はありません。恵みは自動的に訪れるようになっているのです。分かりましたか? 帰ったときに、この思いをもって生活に適用して、そのとおりに動いてみなさい。

 先生は何か一つ手をつけようものなら、「このために生まれてきた」と、このように考えるのです。生まれたのも、このために生まれたと…、それから好きになってするのです。喜んでしながら、生きていかなければなりません。深い峠を乗り越えることができるのが愛なのです。自分が嫌々ながらすることには手をつけません。心がみな分かるのです。

 好きでする事には、神様がいらっしゃって恵みを祈ってくださいます。私は今、釣りを経て水産事業に手をつけました。今や養殖の時が近づいてきたので、心は釣りから離れています。それゆえに、断ち切って突然に転換できるのです。未練もなく…。政策や方向が変わったゆえに、愛する方向が変わったゆえに、未練なく断ち切って、きれいに整理しなければならないのです。そうしてこそ、サタンがついてこれないのです。未練を残してはいけません。分かりましたか?(はい)。

 こういったことを、みなちゃんと理解してと…、今年は一九九九年ですが、九数はサタン数です。蘇生、長成、完成…、十数ならばいいのです。「真の祝福」というのは完成されたということです。ただの祝福ではありません。真の祝福天宙化…。完全に、最後に、神様の胸にしこりとなっていた宇宙的解放の定着…、完全に定着しうる真の家庭を、祝福してあげようというのです。違いますか? ですから、最後の峠だというのです。

 それから、サタンの根を根絶しようというのです。最後です。最後…。絶対に最後です。機会を逃さず、精誠と愛の心を宇宙に拡大して祝福するようになれば、世界は自然についてくるようになるのです。私がプラスになっているために、マイナスは自ずからついてくるようになっているのです。

 そのような思いをもって、来年に新たな国を持つようになるときには、皆さんの近所には祝福を受けたがらない人はいませんし、私が愛の因縁を結んでいない所がありませんし、神様を通して神様の愛する心の主体となって、それがすべて日光のように照らされ、解放が行われるというのです。それは理論的です。妄想的なことではありません。

 それゆえに、恵みを受けようと思うなというのです。分かってほしいと言うなというのです。先生もそうしませんでした。気がついてみると、神様の関心を買おうとせずにその事をやっていたのです。報告もせずに、やっていたら、すべてが自然の理です。自然の理にすべてなっているのです。神様に報告しなくても、その前に出て報告した以上の価値として結実することが、天理の大道の原則というのです。

 ですから、悲しがるなというのです。人と会って、気分を悪くするなというのです。動物を見ても気分を悪くするなというのです。絶対そのように考えないという条件をかけて、その怨讐に父母のように対してあげる心を持つとするならば、その怨讐はその立場において自ら頭が下がるようになるのです。天運が入っていって、別の行動ができません。皆さんは名のある人物や、大人の前に出ると行動が不自由になるでしょう。自然拘束が起こるのです。同様の役事が起きるのです。

  準備しなさい

 仕事に臨むにあたっては、絶対に悪い姿勢で臨むのではなく、良い姿勢で臨みなさい。仕事をするにあたって、自分の行く道は記録が残ります。いかなることをしたというのが…。絶対に喜びの心でしなさいというのです。

 朝出ていって夕方帰るとき、仕事をやり終えて嬉しい心で…。家庭でもそのような生活を訓練してこそ、どこに行っても闇の世界から光の世界へ移れるようになるのです。光の世界にも境界線があります。十二時間まで昇っていってからは、沈んでいくのが原則であることを知らなければなりません。息というものは、息を吸い込むがゆえに、息を吐くときに容易になるのです。昇っていくがゆえに、沈んでいく闇も必ずなければならないのです。

 ですから、自分のいちばん嫌なことも好きになるというのです。そうすれば、その人の暗いものは明るい地平へと向かうのです。「いやな表情で対さず、喜びの表情で一元化せよ」という生活哲学をもって生きることこそ、間違いなく神と共に生きることのできる、極めて素晴らしい道であるということを理解して、帰ってから一生懸命にがんばってください。

 それが準備です。準備です。堕落した人間がしなければならない準備です。準備できない人は流れていくのです。自分がどんなに優秀であったとしても、水が流れ天運が流れるごとく流れていくのです。ですから、常に勝利的結果に対しては、木の根っこのようになり、レンガの家のようになって、天に仕えることのできる皆さんとなってくれることを、先生は切に願っています。分かりましたか?(はい)。

 一生懸命に一年を喜びで消化しなければならないというのです。そうすれば神様もそこに同情して、臨在されるようになっているのです。

 精誠と愛! 食べものがありますから、かわいそうな人がいれば「すまない」といって食べなければなりません。「お父様…、彼らを憐れんで私たちのように…」これが天国の息子、娘の行くべき道です。分かりましたか?(はい)。一度そのようにやってみますか?(はい)。

 ですから女性は、むやみやたらに言ってはいけないというのです。精誠の道は険しい道です。また、むやみやたらに行動するなというのです。女性は行動が速いです。大慨、女性は口といっしょに行動しようとします。夫に対して、息子に対してそのようにするなというのです。愛で真心を込めて、母親が子に対するかのように話しなさいというのです。

 聖人になるには、耳と口の王様にならなければなりません。 分かりましたか? 女性が耳でひそひそ話をしていて堕落しました。口で話しているうちに堕落しました。分かりましたか? 耳と口ゆえに堕落したので、これをすべて制裁してこそ王妃になるのです。さらに女性はこのような面に注意しなければなりません。夫に対してひとこと言うにしても、ポンポン言い放ってこそスッキリするのですから…。そのようなときは夫のハンカチでもあれば、それをぎゅっと握りしめて…、そのように訓練しなさいというのです。夫を誰よりも愛するというならば、そのような条件が必要です。私たちはみ言を歌に変えて歌いますが、それはみな条件です。

 このようにすべてを知って、今年は自らの生涯を天の前に残すことのできる、素晴らしきそのような年であることを分かってください。

 精誠と愛の心をもって涙を流すようになれば、神様の胸中に記憶されて、絶対に流れていきません。分かりましたか?「私はそうしよう」という人、一度手を挙げてみなさい。(はい)。ありがとうございます。



一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

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Last updated  2023.07.14 22:37:17
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