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ぼくはがこのサークルを作ったのは、みんなの考えを聞いてみたいと 思ったからなんだ。 だから「ROMだけの人は入らないで」って設定にしたんだよ。 一方通行に自分の思いや考えを伝えるなら、めるまがで充分だし ホームページだって掲示板なんて要らないよね? コラムみたいにして、バンバン自分の思いや考えを書き連ねて いけばいいんだし。 ただ、世の中って面白くてね。 (いや、面白いのは世の中を作ってる人間の方なんだけどね。) どんなサークルや組織や団体に所属していても、共通して 起きる現象があるんだよ。 そういう組織や団体、コミュニティの中で、積極的に関わって 動く人って、全体の2割に満たないんだ。 ところがね、ある実験で実証されてるんだけど、その2割の人を 取り除いちゃうとね、また別の2割の人達が現れるんだ。 不思議でしょ? 主体的な人と反応的な人の二種類に分かれちゃうんだね。 言葉の使い方とか行動を観てると、その人がどっちなのか よく判るよ。 ちょっと心理学・・・だね。(笑)
2002年12月29日
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>みんながみんな同じ考えだと世の中おかしくなっちゃいそうですよね? みんな全体の中の一部なんだ。 でも、一部の集合が全体だよね? みんな一緒。 こういう言葉を子どもはとてもよく使うよね。 でも、それで個性が失われるってことじゃないんだ。
2002年12月28日
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その「神との対話」って本にも出てくるんだけどね、ぼくはこの「感情」とか 「関係性」について、この本に書かれてることをずっと前から感じていたし、 考えてもいたことなんだ。 だから、とても深く同意できたんだ。 ちょっと抜粋しておくね。 *************************************************************** 私達の望みのすべてが魂の望みと同じなら、非常に簡単だろう。 私達の中の純粋な、「霊」(いのち)に耳を傾ければ、決断はすべて容易で、 結果はすべて喜ばしいものになるだろう。 霊が選択すれば、思い直したりしない。 分析したり、評価したりもしない。 選択に従って行動するのみだ。 が、私達は霊だけでできているのではない。 身体、精神、そして霊魂の三位一体だ。 私達は始終、三つのレベルで同時に決断し、選択している。 それが、必ずしも一致するとは限らない。 身体が何かを欲し、精神は別のものを求め、霊魂はさらに別のものを望む ことはよくある。 特に子供はそうだ。 まだ未熟だから、身体にとって「楽しい」ことと、精神にとって理に適っている ことの区別がつかない。 まして、魂への影響はわからない。 だから、子供は道路に飛び出す。 私達の選択が矛盾していて、身体と精神と霊魂の動きが一体でなければ、 全部のレベルでそれぞれ創造のプロセスが進行し、結果は滅茶苦茶になる。 一方、私達が調和のとれた存在なら、選択は一致し、驚くべきことが起こりうる。 子供達はよく、「みんな一緒」と言うが、あれが調和し、一体になった状態だと 言っていい。 それぞれの意思決定のレベルの中にもまたレベルがある。 特に精神のレベルではそうだ。 精神には少なくとも論理的なレベル、直感的なレベル、感情的なレベルという 三つのレベルのどこかで決断し、選択できるし、三つのレベルすべてでも 選択できる。 この結果、さらにややこしい葛藤が生まれることがある。 つまり五つの自然な感情だ。 悲しみ、怒り、羨望、不安、そして愛。 さらにその中に、最終的な二つのレベルがある。 愛と不安だ。 愛と不安は、五つの自然な感情に含まれるが、どの感情も基本は愛と不安だ。 他の三つの感情は、この二つから派生する。 結局すべての考えは、愛か不安かによって支えられている。 すべての思い、思考、概念、理解、決定、選択、行動はこのどちらかに 根ざしている。 しかも、究極的にはたったひとつしかない。 愛だ。 不安さえも愛の派生物であり、効果的に使われれば愛の表現になる。 *************************************************************** *************************************************************** 悲しみも自然な感情だ。 悲しむことができるから、言いたくない時にも「さよなら」が言える。 人は何かを失う体験をしたとき、自分の中の悲しみを表す。 (外に向かって押し出す。) 愛するものを失う悲しみもあれば、コンタクトレンズをなくした悲しみもあるだろう。 悲しみを表すことができれば、悲しみは対処できる。 悲しいいときには悲しんでいいんだよ、と言われて育った子供は、 大人になったとき、悲しみは健全だと思える。 だから、とても早く悲しみから抜け出せる。 「こらこら、泣いてはいけません」と言われた子供は、大人になって泣きたい時、 苦しい思いをする。 だって、泣くなと言われて育ったのだから。 だから悲しみを抑圧する。 抑圧され続けた悲しみは、慢性的な鬱になる。 非常に不自然な感情だ。 人々は慢性的な鬱のために人殺しをして来た。 戦争が勃発し、国が滅んだ。 怒りは自然な感情だ。 「ノー」と断るためのツール(道具)だ。 必ずしも無礼なものとは限らないし、決して他者を傷つけるものではない。 怒ることを許されて育った子供は、大人になったときも怒りに対して健全な 態度でいられる。 だから、とても早く怒りから抜け出せる。 怒りは良くないものだと教えられて育った子供、怒りを表してはいけない、 それどころか、怒りを感じることすらいけないと言われて育ったことどもは、 成人後、怒りをうまく処理するのに苦労する。 抑圧され続けた怒りは、憤怒になる。 非常に不自然な感情だ。 人々は怒りのために人殺しをしてきた。 戦争が勃発し、国が滅んだ。 羨望は自然な感情だ。 五歳の子供が、お姉ちゃんのように自転車に乗れるといいなと思う、その感情だ。 羨望という自然な感情があるから、もう一度やってみたいと思う。 もっと頑張ろうと思う。 成功するまで諦めないぞ、と思う。 羨望を感じるのはとても健全で、自然なことだ。 羨望を表すのを許されて育った子供は、大人になったときも羨望に対して健全な 態度でいられる。 だから、とても早く羨望から抜け出せる。 羨望はよくないことだと教えられて育った子供、羨望を表わしてはいけないと 言われて育った子供は、成人後、羨望をうまく処理するのに苦労する。 抑圧され続けた羨望は、嫉妬になる。 非常に不自然な感情だ。 人々は、嫉妬のために人殺しをしてきた。 戦争が勃発し、国が滅んだ。 不安は自然な感情だ。 赤ん坊はみな、不安を二つだけ持って生まれて来る。 堕落する不安と大きな音に対する不安だ。 他の不安はすべて学習された反応で、環境から学び、親に教えられる。 もって生まれた自然な不安の目的は、もうちょっと注意しなさいとわからせることだ。 身体を安全に生き長らえさせるための注意。 それは愛から生まれる。 自分自身への愛だ。 不安はよくないものだ、不安を表わしてはいけない、不安を感じることすらいけない と言われて育った子供は、成人後、不安をうまく処理するのに苦労する。 抑圧された不安はパニックになる。 非常に不自然な感情だ。 人はパニックのために人殺しをしてきた。 戦争が勃発し、国が滅んだ。 *************************************************************** *************************************************************** 愛は自然な感情だ。 子供が正常に自然に、制限や条件をつけず、禁忌や気まずさなしに愛を表現し、 受け入れることを許されて育つと、それ以上必要としなくなる。 こんなふうに表現され、受け入れられた愛の喜びは、それだけで充分だから。 だが、条件や制限をつけられ、規制やしきたり、儀式や制約によって歪められ、 管理され、あやつられ、抑えられた愛は不自然になる。 自然な愛はよくないものだ、愛を表わしてはいけない、それどころか愛を感じる ことすらいけないと言われて育った子供は、成人後、愛をうまく処理するのに 苦労する。 抑圧され続けた愛は、所有欲になる。 非常に不自然な感情だ。 人々は所有欲のために人殺しをした。 戦争が勃発し、国が滅んだ。 自然な感情が抑圧されると、不自然な反応と対応が生じる。 たいていの人は、最も自然な感情を抑圧している。 だが、自然な感情は私達の友人だ。 贈り物だ。 経験を刻み出す神聖なツール(道具)だ。 私達は生まれたときに与えられたその道具を使って、人生をうまく渡って いくべきなのだ。 ***************************************************************
2002年12月26日
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そろそろこの話題をまとめてみるね。 >悲しみ >怒り >羨望 >不安 >愛 >これが歪むと、どうなるんだろね? >適当な言葉、思い浮かぶ? そもそも感情の歪みって、その感情を抑圧しちゃうってことなんだよ。 だから、「歪む」って言葉を「抑圧する」に置き換えてもいいんだ。 悲しみって感情が歪んじゃうと鬱になる。 怒りの感情が歪んでしまうと、憤怒になる。 羨望の感情が歪むと、嫉妬になる。 不安の感情が歪んじゃうと、パニックになるんだ。 「神との対話」って本を知ってるかな? 興味のある人は読んでみてね。 でも、心の準備ができていない人には、ぼくは勧めないよ。 多分、混乱してしまうだけだから・・・。
2002年12月25日
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夫婦とか恋人でもそうだけど、良好な関係を維持しようとするとき、 何が一番の問題なんだろね? やっぱり、関係が壊れたり悪くなったりすることへの「不安」でしょ? でもね、自分に役に立たない関係を維持しようとし過ぎて、 感情を抑圧すると、結果的にその感情自体が歪んじゃうんだ。 人間には五つの感情があるよね? 悲しみ 怒り 羨望 不安 愛 これが歪むと、どうなるんだろね? 適当な言葉、思い浮かぶ?
2002年12月23日
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ペネトレ: 「青い鳥」っていうのは幸福の象徴だよね? だとすると、あのお話は、何を言っていることになる? ぼく: ほんとうの幸福はよそにはなくて、自分の家にあったってことでしょ? ペネトレ: ということは、青い鳥をさがしに行った子供たちは、気づかなかった だけで、ほんとうはもともと幸福だったのかな? それとも、さがしまわって帰ってきたときに、その結果として、幸福に なったのかな? ぼく: 作者は、ほんとうは幸福だったのに、まえには気づかなかったって 言いたいんだと思うけど、でも、気づかなかったってことは、つまりは 幸福じゃなかったってことじゃないのかなあ? ペネトレ: 青く見えないってことは青くないってことだって、言いたいわけ? ぼく: すこし違うと思うんだよ。 青いか青くないかは、その人にどう見えるかとは別に、客観的な事実 があると思うけど、幸福かどうかは、その人がどう感じるかってことで、 それ以外に客観的な事実なんてないでしょ? ペネトレ: それなら、人生体験マシンで幸福な人生を体験している人は、 ほんとうに幸福なんだね?(→第一章 -- 5) ぼく: う~ん。 それは・・・・。 ペネトレ: たとえば、人にうまくだまされたりして自分は幸福だと思い込んでいた人が、 だまされたりしていたことに気づいたとき、そのとき不幸になるんじゃなくて、 もともとほんとうは不幸だったって思うようになるだろ? つまり、単に「気づいたときに不幸になった」わけでもなければ、たんに、 「もともと不幸だった」わけでもなくて、 「気づいたときに <もともと不幸だった>ことになった」ってわけだ。 「青い鳥」の場合はどうだろう? ぼく: そうか、「青い鳥」の場合はその逆なんだ! 子供たちは、そのtき幸福になったわけでも、もともと幸福だったわけでも なくて、そのとき<もともと幸福だった>ってことになったわけだ。 ペネトレ: だから、幸福だと思っていなくても、ほんとうは幸福だったってことは、 ありうることだからね。 ぼく: ほんとうは幸福だったって後から思うってことが、でしょ? それって、ほんとうに、ほんとうは幸福だったってことなのかな?
2002年12月21日
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1. 「愛しているから、あなたが必要なの。」 2. 「必要だから、あなたを愛しているの。」 大抵の人が、2を選択するんだよね。 みやさんが、それは「条件付の愛」だから「愛」じゃない、みたいな こと言ってたね? ぼくもそう思うよ。 なんで「必要だから、あなたを愛しているの。」に大抵の人が共感 してしまうか分かる? 愛ってものが、条件付きなんてことがあるのかな? 愛ならやっぱり無条件だよね? 人間関係や社会、自然との付き合い方がおかしくなっちゃうのは、 この「条件付きの愛」ってことが問題なんだ。 宗教論争や紛争も、これに当てはまるんだよ。 やっぱり、みんな、条件付きの愛じゃないと受け入れられない?
2002年12月20日
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人を好きでいつづけるにも、努力がいるよね? 恋し続けること、愛し続けることにも。 気づいてないかもしれないけれど、努力してるんだ。 でもね、恋したり愛したりすると、よく使う言葉があるよね? 「あなたが必要なの!」 「君が必要なんだ!」 ここで聞きたくなるんだよ、ぼくはいつも。 愛しているから必要なのか、必要だから愛しているのか。 みんなはどっちがいい? どっちの言い方をされたい? 「愛しているから、あなたが必要なの。」 「必要だから、あなたを愛しているの。」
2002年12月19日
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「子供のための哲学対話」の中に、青い鳥の話があるんだ。 青い鳥についての内容は、みんな知ってるよね? メーテルリンクの「青い鳥」。 二人の子供が青い鳥を探して、いろんなところに行くんだけど、 見つけてつかまえたとたんに、青くなくなっちゃう。 それで家に帰ってきてみたら、もともと家にいた鳥が青かった・・・。 さて、この家にいた青い鳥って、子供たちが気づかなかっただけで、 ほんとうはもともと青かったのかな? それとも、探し回って帰ってきてみたら、青く変わっていたのかな?
2002年12月18日
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子供の哲学対話より ぼく: うそをついたり約束を破ったりすることは、やっぱりいけないことだよね? ペネトレ: いや、うそと約束はちがうよ。 ぼくらは、概して人はうそをつかないって前提のもとで暮らしてるけど、 自分からすすんで「わたしはうそをつきません」って約束した人なんかいない。 それに対して、約束をした人は、そn約束をわざわざ自分でしたんだ。 しないこともできたのにだよ。 だから、うそをつくことが約束を破ることと同じになるのは、法廷で宣誓 したような場合だけなんだ。 ぼく: でも、約束だってやぶらなくちゃならないことがあるだろ? もっと急を要する重大なことが起こったりして。 ペネトレ: そりゃあ、もちろんさ。 でもね、いったんした約束にはね、約束をした時点にはなかったような 重大さが付け加わってくるんだよ。 たとえば、A君とBさんが三時半に駅の改札口で会う約束をしたとするよ。 約束した時点では、時刻は四時でもかまわなかったし、場所は駅のホーム でもよかったんだ。 会う理由自体も、たいしたものじゃなかった。 でも、その約束をしたあとでは、A君とBさんはその約束があることを前提 としてすべての予定をたてなくてはならなくなるんだ。 だから、どんなにくだらない用件だったとしても、すでにしてしまった約束 というのは、そのことで重みを持ってくるんだよ。 もし自分ひとりなら、もっと重要な用事ができたら、すぐに予定を変えれば いいんだけど、人との約束がある場合はそうはいかなくなるんだ。 相手のほうはもうすでに、自分のもっとだいじな用件よりもその約束のほうを 優先してくれているかもしれないんだからね。
2002年12月15日
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上品でネアカ、ちゃんとした人ってね、自由なことほど不自由だって ことを理解してるんだ。 世の中には、自分の権利ばかりを主張する下品な人達も多いけど、 権利があるなら、義務もあるってことを忘れちゃうんだね。 評論家みたいにあれこれ批判する人も多いけど、自分が具体的に 何を行動で示しているか、ってことはあまり気にかけてないんだ。 人間の面白さでもあるんだけど、人は信じられてもその人が出す 結果は信じられない、ってことがあるよね? 言葉は大切だけど、そこに重さや深さのないもの、誠意の感じられ ないものは、ただ虚ろでしかないよね。 誰かも書いていたけど、「言霊」って好い事ばかりとは限らないんだ。 矛盾しちゃうけど、約束したことを簡単に破っちゃうぐらいなら、 しない方がいいんだよ。 約束も、普通言葉で交わすよね? その言葉が虚ろになるなら、どういう言霊になるんだろね?
2002年12月14日
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ビジョン心理学っていう学問では、こんな風に捉えてるんだ。 ************************************************************* 世界は自分を映す鏡である。 他の人に対し、やっていることは全て、それより前に自分に対して 行っている行為 に他なりません。 意識のあるレベルでは、自分自身や他の人に対してやっていなければ、 自分以外の誰か他の人があなたを傷つけることなどあり得ません。 私達は自分で自分の現実を作り、独自の物語を書いているのです。 他の人達との葛藤は、私達自身の中の葛藤を反映しています。 ですから、内面の問題を解決することによって、結果的に世界の問題を 解決するこ とができるのです。 ************************************************************* どうかな? 自分を変えれば、すべてが変わる。 自分を変えれば、人生が変わる。 みんな信じる?
2002年12月12日
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言葉って、とても大事だよね? 使い方を間違うと、全然違う意味になっちゃうし、適切に使うと 凄く伝わりやすくもなるよね。 例えばね、 見る、観る、診る、看る。 ぜんぶ「みる」んだけど、意味が全然違うよね? 聞く、聴く、訊く。 これもそうだね。 人間ってね、見てはいても観てないものが多いんだ。 聞いてはいても、聴いてないことも多いね。 真剣なのと深刻、全然違うよね? 一生懸命と頑張る、これも違う。 使ってる言葉で、その人がどんな人なのか、どういう職業なのか、 どんな背景を持っているのか、育った環境、心理状態、いろいろ 判るんだよ。 ほら、分かる、判る、解る、違うよね? みんな意識して言葉を使い分けてるかな? 言葉の使い方を変えると、意識も変わるんだよ。 意識が変わると、世の中の見え方が違って来るんだ。 そうするとね、人生が変わるんだよ。
2002年12月10日
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ちょっと復習しよっか。 人の強さ=心の強さ。 ここまではいいよね? 外側にしか頼るものがない=心の弱さ 外側ってなんだろね? 医者や弁護士、代議士や教師、普段先生なんて呼ばれる 人たちは、人間としての強さをあまり持っていない人が多いんだ。 これも外側に頼ってるからだね。 ブランドで着飾ったり、宝飾品をジャラジャラしてるのも、もしかすると そうかもしれないよ。 高級車を乗り回したり、豪邸に住むこともそうかもしれないね。 例外的に、そうでない人もいるけどね。 自分自身を強く信じている人は、そういうものって必要ないんだ。 別に外見や持ち物、肩書きやシンボルに依存なんかしない。 強い心を持っている強い人は、とても上品なんだ。 だから、前にも言ったように道徳的な常識やルールになんか 縛られたりしない。 一見、我侭で傲慢な人のように誤解されたりもするけど、そんなことも 気にはしない。 そういう人にとって一番重要なのは、どうしたら自分らしくいられるか、 ってことなんだよ。 誰かや何かにとっての自分じゃなくて、自分にとっての自分の在り方を とても大切にするんだ。 だから、何かを決めるときも考え=理性になんか従わないことが多いんだ。 自分にとって役に立つのか立たないのか、必要か必要でないか。 自分らしさを表現できるかできないか。 そういうことが判断基準になる。 そんな強い人たちは、自分をとても大切にできるから、他者にもとても 優しいんだよ。 ただ、みんなが考えてるような優しさじゃないんだ。 例えばね、多くの人たちは、 「自分にとって都合の良いことをしてくれる人=好い人」で、 「自分に不都合なことを言ったりしたりする人=嫌な人」なんだよね。 これっておかしくないかな? 強い人は、ある種の厳しさもちゃんと持ってるんだよ。 物事や状況、その人の状態を観ずに、安直に優しくしたりはしないんだ。 勿論、自分に対してもね。
2002年12月05日
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感情の働きって面白いよね。 人は何にでも、この感情から物事にレッテルを貼って見るんだ。 あの人は好き、この人は嫌い。 でも、よくよく考えてみると、その人が好きとか嫌いじゃなくて、 その人がしてること、考え方、つまり何事かの考え方や行為 だったりするんだ。 その人自身の存在が、好きとか嫌いじゃないんだね。 実態(実体)の何もないものにまで、感情からのレッテルを 貼り付けちゃうことってよくあるよね? よく食べず嫌いとかって言うでしょ? それもそういう感情からのレッテル付けなんだ。 食べもしない、やりもしないで、あれは好き、嫌いなんてこと よくあるよね? そういう人達をよく観察してると、いろんなことが分かるんだよ。 ある種の傾向があるから、分類ができちゃったりするんだ。 でも、その分類も、分類した人の感情のレッテルだったりするんだ。 数値化できてしまうものなら別なんだけどね。 ってことは、人は感情をコントロールすることができるってことだよね? そういうことを、別な言葉でインテリジェンスっていうんだ。 エモーショナル・インテリジェンス。 感情のコントロールのことだね。 上品な人は、このEQが高いってことじゃないかな。 感情をきちんとコントロールできる、ってことだね。
2002年12月04日
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楽しむ、楽する。 同じ字を使うけど、全然意味が違うよね? でも、どっちも心の状態のことなんだ。 何かをしているとき、つまりそのプロセスでの心の状態だね。 人から見ると、大変そうだなぁ・・・とか、苦しそう・・・とか 凄い努力だなぁ・・・、なんて思えても、本人は全然そんなこと感じてない。 興味や関心を持って、集中している状態のとき、その人は楽しんでるんだよね。 これが遊びの状態だね。 たとえば、ギターを始めた人がいる。 彼は一生懸命練習してるんだけど、その途中で弦が切れたり、 自分の指に血がにじんだりするんだ。 痛くて弾けそうもないときもある。 でも、彼はやめたりしないし、弱音も吐かない。 こういうとき、彼はギターを上手く弾けるようになりたい!って気持ちが 強いから、楽しんでるんだ。 彼にとっては遊びになっちゃってるんだね。 「楽する」って言葉の響きの中には、甘えるとか手抜きとかって 意味合いが込められたりするよね? でも、そうなのかな? ほんとうは、何かを心から楽しむために工夫しようってことなんじゃ ないかな? 複雑なことをもっとシンプルにやれるようにする工夫だとか、 面倒なことを簡単にしようとかね。 だとすると、「楽する」ってことも大事なことかもしれないね。 ってことは、やっぱりそういうプロセスを楽しめないと、楽はできないよね? みんなは楽だから楽しいの? それとも、楽しいから楽なの? 楽しんでたら楽なのか、楽だから楽しいか、どっちだろね。
2002年12月03日
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ぼく 根が明るくて上品な人が、自分の遊びのために他人をひどい目に あわせるってことだって、やっぱりあるんじゃない? ペネトレ あまりないけど、でも絶対ないとは言えない。 上品な人は、道徳的な善悪なんて大して重視しないから、 けっこう平気で悪いとされてることができるからね。 逆に下品な人は、道徳的な善悪を重視しがちだな。 ぼく どうして? ペネトレ 自分の外側にか頼るものがないからさ。 ぼく それなら上品な人は、絶対ではないにしても、あまり悪いことをしない というのはなぜなのさ? ペネトレ たとえば、お父さんが君に将棋を教えてくれたとするよ。 ところが、君は将棋なんてちっともおもしろくない。 そこでお父さんは、君が将棋で勝てば、そのたびにお小遣いを くれることにする。 君は、お小遣いほしさで将棋に強くなろうと努力するだろうね。 そうしているうちに、だんだん将棋そのものが楽しくなってくるんだ。 お小遣い欲しさで将棋をやっているときは、インチキをしてでも 勝ちたいと思うだろうね。 お父さんがトイレに行っている隙に駒を動かしちゃうとかね。 でも、将棋そのものが楽しくなってくると、そんなことはしなく なるだろうな。 勝つという結果が大事なんじゃなくて、勝とうとしながら将棋を するという過程自体が大事になってくるからね。 それが将棋が遊びになったってことなんだよ。 ただ、人生は将棋のように規則だけでできているわけじゃないから、 その点が違うけどね。 でも、達成される目標じゃなくて、過程そのものを味わえるように なるって点は同じだな。 それが、人生が遊びである人があまり悪いことをしない理由だな。
2002年12月01日
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