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2021/10/30
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カテゴリ: ITTETSU GALLERY
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 ITTETSU GALLERY:もう一つの成田一徹(361)~(380)

 バー・シーンを描いた切り絵で有名な成田一徹(1949~2012)ですが、実は、バー以外をテーマにした幅広いジャンルの切り絵も、数多く手掛けています。花、鳥、動物、職人の仕事、街の風景、庶民の暮らし、歴史、時代物(江戸情緒など)、歴史上の人物、伝統行事・習俗、生まれ故郷の神戸、小説やエッセイの挿絵、切り絵教則本のためのお手本等々。

 今回、バー・シーンとは一味違った「一徹アート」の魅力を、一人でも多くの皆さんに知ってもらいたいと願って、膨大な作品群のなかから、厳選した逸品を1点ずつ紹介していこうと思います(※一部、バー関係をテーマにした作品も含まれますが、ご了承ください)。
※故・成田一徹氏の切り絵など作品の著作権は、「Office Ittetsu」が所有しております。許可のない転載・複製や二次利用は著作権法違反であり、固くお断りいたします。


(361)明治初頭の銀座  1991年
 ※フリーライター・木村克彦氏の連載「赤ひげ異人伝」(医師向け季刊誌「ドクターズ・シエスタ」=ダイヤモンドプレス刊=誌上)の第3回のために制作された作品。おそらくは、当時の錦絵か写真を参考にしながら描いたと思われる(落款は初期のスタイルである)。銀座の通りには人力車が走り、松並木も見える。通りの商店等の建物は、はや洋風化しているが、切り絵をよく見ると、まだ髷(まげ)を結ってる男性もいる。
 新政府は1871年(明治4年)、男性に対して、髪型は自由にすべしとの「断髪令」を出したが、法的な強制でなく、表向きは罰則もなかったこともあってか、市井の隅々に浸透するまでには時間がかかった。ほぼすべての国民が断髪した(髷を切った)のは明治20年代の前半だったという。この銀座の光景は、明治5年~10年頃ではないかと推察している。





(362)旧・東京医学校本館  1991年
 ※昨日に続き、フリーライター・木村克彦氏の連載「赤ひげ異人伝」(医師向け季刊誌「ドクターズ・シエスタ」誌上)の第3回のために制作された作品。この回は、開国直後の日本にドイツからやってきたミュルレル、ホフマンという2人の政府お雇い外国人教師(医学教育)に焦点を当てている。この絵に描かれたのは、1875年(明治8年)に完成した旧・東京医学校本館(現在の東京大学医学部の前身)。建物は現存しており、現在は東京大学総合研究博物館小石川分館(重要文化財指定)として利用されているという。







(363)ホフマンとミュルレル  1991年
 ※一昨日、昨日に続き、フリーライター・木村克彦氏の連載「赤ひげ異人伝」(医師向け季刊誌「ドクターズ・シエスタ」誌上)の第3回のために制作された作品。
 今回は、この3回目の主人公でもあるテオドール・ホフマン、レオポルド・ミュルレルという2人のお雇い外国人教師の肖像画。2人は明治の新政府から招へいされ、1871年(明治4年)にはるばるドイツから来日した。当時ホフマンは33歳、ミュルレルは47歳。ともに軍医学校の教官をつとめていた。とくにミュルレルは陸軍病院の総監督もつとめる熟練の外科医だった。
 漢方医学や蘭方医学が幅を利かせていた日本に、近代医学の専門教育の基礎を築いたのがこの2人である。2人は約4年間滞在し、言葉の壁に苦しみながら、旧・東京医学校(現東京大学医学部の前身)で約1000名余の医学生を育てた。なお、二人の肖像画に微妙な風合いの違いがあるのは、ホフマンの絵(左)は原画からのスキャニング、ミュルレルの絵は印刷媒体の画像であるためである。悪しからずご了承願いたい。





(364)長崎・丸山町「料亭・花月」  1991年
 ※引き続き、フリーライター・木村克彦氏の連載「赤ひげ異人伝」(医師向け季刊誌「ドクターズ・シエスタ」=ダイヤモンドプレス刊=誌上)を材料に一徹氏の作品を紹介していく。いましばらくお付き合い願いたい。
 今回は、この連載第1回目(フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト)に添えられた切り絵である。鎖国下にあった江戸時代、唯一、オランダとの貿易を通じて「世界への窓口」として開かれていたのが長崎・出島である。そのため、長崎の丸山町、寄合町界隈には外国人向けの遊興施設が数多く存在した。
 この絵に描かれた「花月」は、丸山遊郭で最大の遊女屋「引田屋」の庭にあった茶屋で、出島の阿蘭陀商館付き医官として来日したシーボルトもたびたび訪れたという(「花月」は、現在でも料亭として営業を続けている)。





(365)楠本タキとイネ  1990年代前半
 ※本日も、フリーライター・木村克彦氏の連載「赤ひげ異人伝」(医師向け季刊誌「ドクターズ・シエスタ」誌上)の第1回目(フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト 1796~1866)の挿絵から。シーボルトは1822年、長崎・出島の阿蘭陀商館付き医官として来日した。ドイツ人なので本来は入国できない身分だったが、オランダ人であると偽ったという。
 この絵は、女性と幼子の肖像画である。女性は楠本タキ、幼子の名はイネという。来日した26歳のシーボルトは、まもなく長崎の遊女「其扇(そのぎ)」と出会い、一緒に暮らし始める。「其扇」はタキの源氏名だった。そして間もなく二人の間にはイネという娘が生まれた(この時シーボルト30歳。タキは19歳)。
 しかし1828年、シーボルトは国禁の日本地図を持ち出そうとして幕府から国外追放処分を受ける。タキや2歳のイネを連れ帰ることは叶わず、その後、タキは女手一つでイネを育てた。3人が再び日本で再会できたのは開国後の1859年だった。
 タキやイネは、再来日時にシーボルトに同行した異母弟から、その後経済的な支援を受け続けた。イネはシーボルトの弟子から医学を学び、その後、日本初の女性産科医になったことでも知られている(以上、シーボルト、タキ、イネの経歴については、Wikipediaなどを参考にさせて頂きました)。





(366)シーボルト胸像  1991年
 ※本日も、フリーライター・木村克彦氏の連載「赤ひげ異人伝」(医師向けの季刊誌「ドクターズ・シエスタ」誌上)に添えられた作品から。第1回目(フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト 1796~1866)の挿絵からシーボルトの胸像である。
 シーボルトは1822年、長崎・出島の阿蘭陀商館付き医官として来日した(下の画像は商館付き医官時代のシーボルトの肖像画)。出島の外国人は島外へ出ることは原則禁止されていたが、シーボルトはその医学的な貢献もあって、特例として島外の長崎に「鳴滝塾」という医学塾を開くことが認められ、ここで数多くの日本人医学生を育てた。
 また医者と同時に博物学者でもあったため、約6年間の滞在中、自然環境や植物、動物、鉱物、風俗、産業、地理、歴史、宗教など幅広い分野で研究に打ち込み、数多くの標本、資料を収集した(これらの膨大な資料は現在、オランダのライデン国立民族学博物館に収蔵されている)。
 1828年、国禁の日本地図を持ち出そうとしたいわゆる「シーボルト事件」で国外追放となったが、帰国後は、日本での体験や収集した資料を紹介する著書を数多く出版し、長く鎖国状態にあった日本への理解を広げることに貢献した。再来日した1859年以後は、オランダの貿易会社顧問を務めながら、の幕府の外交顧問にも就任し、1862年に帰国するまで諸外国との対外交渉などで助言役を果たした(以上、Wikipediaなどを参考に記しました)。


(シーボルトのお抱え絵師だった川原慶賀筆)




(367)大福寺(大阪の西洋医学教育発祥の地)  1991年
 ※懲りずに引き続き、フリーライター・木村克彦氏の連載「赤ひげ異人伝」(医師向けの季刊誌「ドクターズ・シエスタ」誌上)に添えられた作品から。きょうは第2回目に添えられた挿絵。「大阪の医学教育の発祥の地」とも言われる、大阪・天王寺区にある大福寺という浄土宗の古刹である。
 1869年(明治2年)、新政府によってここに大阪で初の西洋医学の教育も兼ねる「公的病院」が置かれた。院長は蘭学医学の開祖、緒方洪庵の次男、緒方惟準(これよし)。そして、緒方の相方として、オランダ人のボードインというお雇い外国人教師(医官)が赴任したが、詳しい話また次回に。







(368)ポンペとボードイン  1991年
 ※前日に続き、フリーライター・木村克彦氏の連載「赤ひげ異人伝」(医師向けの季刊誌「ドクターズ・シエスタ」誌上)に添えられた作品から。きょうは第2回目の主人公である2人、ポンペ・ファン・メールデルフォルト、アントニウス・フランシスク・ボードイン(いずれもオランダ人軍医)の肖像画である。
 1854年(安政元年)、江戸幕府は長き鎖国を解き、欧米諸国に対して開国する。そして、ポンペは幕府招へいのオランダ教師団の一員として、1857年に来日。長崎奉行所医学伝習所と養生所(付属病院)の教官となった。来日時はまだ28歳の若さだった。
 約5年間の滞在中、約60名余の医学生を教え、約1万5千人の患者の治療にもあたった。とくに、当時日本で大流行したコレラの治療に尽力した。養生所は現在の長崎大学医学部の前身となり、同大学にはポンペが授業で使った人体模型が今も保存されているという。

 一方、ボードインはポンペの推薦で後任として1862年(文久2年)に来日した。この時42歳。長崎での医学教育と治療の任にあたると同時に、オランダ政府からは「(オランダが)開国後の日本の医学教育でイニシアチブをとれるよう幕府と交渉すべし」との命も与えられていた。ボードインの努力もあって、1867年(慶応3年)5月、幕府と約定書(契約書)を交わすに至る。
 ところが、その5カ月後、弱体化した幕府は大政奉還を決め、江戸幕府は終焉を迎えることになった。約定書は明治の新政府にも引き継がれると思っていたボードインだったが、新政府は西洋医学教育の導入にあたっては、当初は英国式、のちにはドイツ式を選び、お雇い外国人教師はドイツから招へいした。
 しかし新政府はボードインを解雇せず、前回紹介した大阪・大福寺での「公的病院」での仕事を紹介。1869年(明治2年)、失意のうちに大阪へ赴任する。その後、東京の大学東校(現・東京大学医学部の前身)でも教鞭をとり、1870年に帰国した。
 余談だが、ボードイン最大の功績は「上野公園を守ったこと」という。新政府は東京の大学病院を当初、上野の森を壊して建築すべしと動いていた。しかしその計画を聞いたボードインは「この豊かな自然環境を壊すことには絶対反対である」と強く再考を申し入れ、政府は建設地を本郷に変更した。ボードインの進言がなければ現在の上野公園はなかったかもしれない。
(以上、Wikipediaなどを参考に記しました。※作品画像の質感が違うのは、ポンペ<左>はスキャニングされた雑誌掲載の絵で、ボードイン<右>は原画であるためです)





(369)上野公園  1991年
 ※引き続き、フリーライター・木村克彦氏の連載「赤ひげ異人伝」(医師向けの季刊誌「ドクターズ・シエスタ」誌上)に添えられた作品から。きょうも第2回目に添えられた挿絵で、上野公園の有名な西郷ドンの銅像がある場所辺りが描かれている。
 上野の森の歴史は、徳川幕府三代将軍・家光の時代に遡る。家光が江戸城の鬼門を封じるために、寛永2年(1625年)、この地に寛永寺という寺を建てた。その後、幕末の戊辰戦争で戦場となったため、一帯は焼け野原となった。
 そして、前回も紹介したように、この地に医学校と大学病院を建てる方針だった明治の新政府に対して、政府お雇いの外国人教師だったアントニウス・ボードイン(オランダ人)=下の写真ご参照(出典:Wikipedia)=が「上野の豊かな自然環境は後世へ残すべきだ」と働きかけたこともあり、その3年後、東京府公園が誕生したのである。
 ボードインは開国直後の西洋医学教育でも貢献したが、上野公園の誕生にも大きな功績を残した。現在、公園内にはその業績をたたえる「ボードワン博士像」が建てられている(場所は東京都美術館と国立西洋美術館の間くらい)。ちなみに、弟のアルベルト・ボードインも神戸で初代駐日オランダ総領事をつとめるなど、兄弟で日本びいきだった。
(以上、Wikipediaなどを参考に記しました)。








(370)ベルツとスクリバ  1992年
 ※最後にもう一度2回だけ、フリーライター・木村克彦氏の連載「赤ひげ異人伝」(医師向けの季刊誌「ドクターズ・シエスタ」誌上)にお付き合い頂きたい。きょうは第5回目に添えられた主人公たちの肖像画である。
 エルウィン・フォン・ベルツ(1849~1913)=上=とユリウス・カルル・スクリバ(1848~1905)=下。ともに明治の初期、新政府のお雇い外国人教師として来日。ほぼ同じ時期に東京大学医学部に在籍し、それぞれ内科学、外科学を教えた。この連載の第363回で取り上げたミュルレルとホフマンの次世代の教官として、日本での西洋医学移植のアンカーとして尽力した。
 ミュルレルとホフマンが短期間の滞在だったのに対して、この二人は30年近く日本に留まり、ともに日本人の妻を得て、スクリバに至っては日本に骨をうずめた。
 ベルツの功績は多岐にわたる。数多くの寄生虫病の原因究明、脚気やハンセン氏病の治療・研究、蒙古斑の発見、なかでも温泉療法の推奨には力を入れ、草津温泉にたびたび通った。温泉従業員のために処方した皮膚病の治療薬「ベルツ水」(グリセリンカリ液)は商品化され、今なお販売されている。
 一方、スクリバは外科医として見事な手腕を発揮し、脳の開頭、乳がんなど数々の難手術をこなしたという。明治24年(1891年)の濃尾大地震では、現場に急行し、先頭に立って負傷者の治療にあたるなど災害医療にも貢献した。三男は帰化して、「須栗場」の姓を名乗り今も子孫が健在という。東京大学の本郷キャンパス構内には、2人の医学教育への貢献をたたえた銅像も建てられている。
 なお、ベルツが残した日記は「ベルツの日記」として岩波文庫から刊行されているが、「為政者の言葉に流されやすい日本人の気質」を早くも指摘するなど、いびつな形で進んだ明治の近代化、民主化に対する皮肉に満ち溢れ、その後の軍国主義日本の破滅を予感させるような内容にもなっている(以上、Wikipediaなどを参考に記しました)。





(371)草津温泉・湯畑  1992年
 ※フリーライター・木村克彦氏の連載「赤ひげ異人伝」(医師向けの季刊誌「ドクターズ・シエスタ」誌上)に添えられた作品紹介もきょうでお終い。最後に、第5回目に添えられた残りの挿絵を。
 昨日登場した2人のお雇い外国人教師のうち、エルウィン・フォン・ベルツ(1849~1913)は、日本人女性を妻にするなど日本を愛し、とくに群馬県の草津温泉をこよなく愛した。
 1876年(明治9年)に来日したベルツは、1878年の夏、初めて草津温泉を訪れた。大噴泉に、温泉国でもある故国・ドイツのチロル地方を町を思い浮かべた彼は、ひと目でこの地をほれ込んだ。「硫黄分多く含んだ熱湯がすぐれた殺菌力を持つ」ことを知っており、「温泉入浴療法」の研究に打ち込み、前回も触れた皮膚病の治療薬「ベルツ水」も開発する。
 ベルツはさらに、草津に「大規模な温泉リゾート」を建設しようと約1万坪の土地まで購入する。しかし時代はまだ、訳の分からない西洋人にそこまで好き勝手させる状況ではなかった。計画は、地元の「源泉提供の拒否」に遭い、頓挫する。やがて20世紀に入り不況の波が押し寄せ、町は手のひらを返したようにベルツに助力を懇願したが、すでに帰国の迫った彼にはもはや時間はなかった。
 草津町はそれでも「ベルツの恩」を忘れていない。1962年(昭和37年)、町はベルツ生誕地のビーティハイム市と姉妹都市の友好条約を結び、町内にはベルツの銅像もでき、2000年にはベルツ記念館までオープンした。もし草津温泉を訪れることがあれば、私もぜひこの記念館を訪ねてみたい(以上、Wikipediaなどを参考に記しました)。
 ※なお、この連載の第311回で紹介し、「どの媒体で使われたのか不明」と書いた「草津温泉・熱乃湯」(下の画像)の絵は、この「赤ひげ異人伝」の第5回で使われたものでした。














(372)神戸港カルタ(残り5枚)  1983年
 ※神戸港振興協会に勤めていた頃、一徹氏は協会広報誌誌上で、頻繁にイラストや切り絵を描いていた。これは、1984年の正月号に掲載された「神戸港カルタ」と題された作品。実はこの連載の第6回でも、そのうちの1枚を紹介した(下の画像ご参照)。
 今回、当時制作された残りの5枚と実際の掲載紙面が確認されたので、一気にお見せしたい。まだ切り絵を始めて間もない頃、カッティングはまだ粗削りだが、初々しくて素朴で、温かい味わいも伝わってくる。








(373)クリスピン「夜の犬」の表紙頁のために  1980年代後半
 ※極めてシンプルな線で女性の横顔がカッティングされ、闇に浮かび上がる。深遠で静謐な空気が伝わってくる作品。月刊ミステリー・マガジン(早川書房刊)に掲載された英国のミステリー作家・エドマンド・クリスピン(Edmund Crispin 1921~1978)の短編小説「夜の犬(Dog in the Night)」の表紙頁のために制作された。一徹氏の名前はまだ本名の徹でクレジットされており、制作時期が1990年以前であることが分かる。
 「夜の犬」は1954年発表。没後翌年の1979年に出版された短編集「フェン・カントリー(Fen Country)からの純粋推理」にも収録された。実際のミステリーマガジン誌上では、下の絵にあるように(トレーシング・ペーパー上の)文字図版が載った形で掲載された。
 なお、クリスピンは、英国外ではあまり知られていないが、ブルース・モンゴメリー(Bruce Montgomery)の名前で、ミュージカルやオペラなどの作曲家としても活動するなど多才な人だったという。






(374)曾野綾子「アレキサンドリア」のために  1995年
 ※曽野綾子さんの小説「アレキサンドリア」(1995年~96年、月刊「オール読物」連載)のために制作された挿絵のうちの1枚。この連載小説では毎回、古代エジプト&古代ローマ文明にモチーフを得た小作品が6~7枚添えらえていた。





(375)西舘好子「いま二幕目」のための挿絵  1986年
 ※一徹氏はプロデビュー(1988年)の前から、エッセイスト・西舘好子氏(作家で故・井上ひさし氏の元夫人)と懇意となり、彼女の連載の挿絵をよく担当した。これは週刊誌「サンデー毎日」での連載エッセイ「いま二幕目」(1986~87年、88年に単行本化)の第7回目のために制作された挿絵。絵のバックに、スパッタリング手法(ブラシに絵具を付けて金網の上から擦ってスプレー状に撒くこと)で加工した紙を使い、紅葉の山とモミジをモノトーンで巧みに表現している。
 (なお、原画は行方不明で、この画像は印刷物からスキャニングしたもの。画質が若干粗いのはそのためである。悪しからずご了承願いたい)。





(376)「ススキノララバイ」のための挿絵  1994年
 ※ハードボイルド小説で知られる東直己氏(1956~)の小説「ススキノララバイ」の挿絵(掲載雑誌は不詳)のために制作された。東氏は、映画化された「探偵はバーにいる」(2011年公開、大泉洋・主演)の原作者としても知られる。なお、この連載では第174回でも「ススキノララバイ」のための挿絵を紹介している →
こちらへ




(377)「ニュース場外乱闘」のための挿絵(デイヴ・スペクター氏)  1994年
  ※スポーツライター李春成氏による連載エッセイ「ニュース場外乱闘」(扶桑社刊・週刊SPA誌上)の第26回のための挿絵として制作された。この回は、かのデイヴ・スペクター氏のSPA誌上での発言に対して、李氏が全面的に反論する内容。
 スペクター氏曰く「サッカーは見てて面白いスポーツじゃない。第三世界、発展途上国のイメージが強いスポーツ。9割以上の米国人はペレ以外のサッカー選手の名前を知らない」等々。李氏は「アメリカ中心の考え方でモノを言うのはおかしい。(メジャーの)ワールド・シリーズって言っても全然ワールドじゃない」と批判する。という訳で、一徹氏が描くスペクター氏の絵も、エッセイで李氏が使った「米帝主義者」という過激な言葉まで添えられている。
 まぁ、これは今から27年前の1994年のやりとり。その後、日韓W杯も開催された。日本選手の海外有名チームでの活躍も目覚ましい。サッカーは今や、米国を含めた世界中で幅広い世代から人気を得ている。さすがのスペクター氏も現在は、国際スポーツとしてのサッカーの地位や存在感は認めているんではないだろかねぇ…。
 それにしても、30年以上も日本のメディア界で、日本語も駆使しながら活躍し続けるスペクター氏って、改めて凄い人だなぁと思う。個人的には、あのダジャレも含めて嫌いではない。





(378)「ポケットに栞(しおり)を」のための挿絵  2003年
 ※文芸評論家・清水良典氏が中日新聞(東京新聞)紙上に連載したエッセイ「ポケットに栞(しおり)を」のための挿絵。月1回のエッセイの連載期間は約3年(2000年~2003年)に渡ったが、一徹氏は毎回、「グラス+何かのモチーフ」という構図の切り絵を提供した(原画は残っておらず、紙面をスキャニングした画像なので、画質が粗いことはご容赦願いたい)。





(379)「もういちど男と女」のための挿絵  2007年
 ※毎日新聞夕刊で2006~07年にかけて掲載された連載記事「もういちど男と女」(執筆者は梶川伸・編集委員)の挿絵として制作された一枚。「髪」と題されたこの回では、ビートルズ好きの長髪の男と、年に一度だけ忘年会で出会う女性との20年近くに及ぶ交流を綴る。
 お互い中高年となり、直近、居酒屋で出会った際には、男はついに長髪を切っていた。女は、いたずらっぽく男の後ろ髪に触れる。男はそれに反応した自分に気づかれまいと、目の前の焼酎のお湯割りに手を伸ばしたという話から、この図柄になった。なので、絵はこの一文の「メインテーマ」ではなく「小道具(脇役)」に過ぎないのだが、一徹氏は、時にあえてこういう脇役を絵にすることもあった。





(380)「一徹くんの切り絵ッセイ」のための挿絵  1991年
 ※プロデビューから2年後の1990年、一徹氏は週刊「サンデー毎日」からバーや酒をテーマにした小コラムの依頼を受けた。タイトルは「一徹くんの切り絵ッセイ」となった。毎回40行ほどのエッセイに自らの切り絵を添えた連載は、読者の人気を呼び、1年間続いた。そしてその後、同誌での連載「to the BAR」につながっていく。
 これはその最終回(第49回)のために制作された作品(1991年6月)。エッセイでは、80年代末から90年代初めにかけて、相次ぎ灯りを消した神戸のグッドバーを惜しむ内容。絵にした「BAR ANCHOR」は、一徹氏による空想上の理想のBARでもある。絵はまだ粗削りな部分もあり、素朴な味わいも漂うが、その後の都会的なセンスやシャープな切れ味も垣間見れる。エッセイは、一徹氏らしく「では、いつかまたどこかの酒場で。」という文章で締めくくられている。



◆故・成田一徹氏の切り絵など作品の著作権は、「Office Ittetsu」が所有しております。許可のない転載・複製や二次利用は著作権法違反であり、固くお断りいたします (著作権侵害に対する刑罰は、10年以下の懲役又は1000万円以下の罰金という結構重いものです)。

※「ITTETSU GALLERY:もうひとつの成田一徹」過去分は、 こちらへ



★過去の総集編ページをご覧になりたい方は、 こちらへ。

【Office Ittetsuからのお願い】成田一徹が残したバー以外のジャンルの切り絵について、近い将来「作品集」の刊行を計画しております。もしこの企画に乗ってくださる出版社がございましたら、arkwez@gmail.com までご連絡ください。

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kopn0822 @ 1929年当時のカポネの年収 (1929年当時) 1ドル=2.5円 10ドル=25円 10…
汪(ワン) @ Re:Bar UK写真日記(74)/3月16日(金)(03/16) お久しぶりです。 お身体は引き続き大切に…

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