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2022/01/21
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カテゴリ: ITTETSU GALLERY
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 ITTETSU GALLERY:もう一つの成田一徹(441)~(460)

 バー・シーンを描いた切り絵で有名な成田一徹(1949~2012)ですが、実は、バー以外をテーマにした幅広いジャンルの切り絵も、数多く手掛けています。花、鳥、動物、職人の仕事、街の風景、庶民の暮らし、歴史、時代物(江戸情緒など)、歴史上の人物、伝統行事・習俗、生まれ故郷の神戸、小説やエッセイの挿絵、切り絵教則本のためのお手本等々。

 今回、バー・シーンとは一味違った「一徹アート」の魅力を、一人でも多くの皆さんに知ってもらいたいと願って、膨大な作品群のなかから、厳選した逸品を1点ずつ紹介していこうと思います(※一部、バー関係をテーマにした作品も含まれますが、ご了承ください)。
※故・成田一徹氏の切り絵など作品の著作権は、「Office Ittetsu」が所有しております。許可のない転載・複製や二次利用は著作権法違反であり、固くお断りいたします。








(441)「寅年」のための賀状デザイン(4種)  1998年
 ※来年2022年は「寅年」である。一徹氏は毎年、干支にちなんだ様々なデザインの切り絵年賀状を自ら制作、その多くは「年賀状デザイン集」という小冊子としても販売された。今回、紹介するのはそんな中から「寅年」にちなんだ4枚。いずれも楽しく、秀逸な作品だと思う。





(442)鏡 餅  1990年代前半
 ※2022年最初に紹介する作品は「鏡餅」。自著の切り絵技法書の「作例」として制作されたもの。鏡餅とは、お正月に飾る2段に重ねられた丸いお餅。お正月とは新年の神である「年神」様を家に迎え入れる行事。そして、年神様をもてなすために用意するのが鏡餅なのである。餅には稲(お米)の神様も宿るとも言われる。
 では、なぜ「鏡」餅というのか。専門家の解説によれば、古来、鏡には神様が宿るとされ、神聖なものとして扱われてきた。そこで、お餅を鏡に見立てて「鏡餅」と呼ぶようになったのだという。ちなみに、鏡餅の丸い形は人の魂(心臓)を表すという。神社に祭る鏡も円形である。鏡餅を供えることは、その年の良運を願うという意味も込められており、丸い餅を大小2つ重ねるのは「月(陰)」と「日(陽)」、すなわち「福徳」(幸福と財産)が重なって縁起がよいためらしい。







(443)雑煮と酒器(屠蘇器)  1990年代前半
 ※本日も「正月三が日」をテーマに、新年の食卓には欠かせない雑煮と酒器の絵を。いずれも自著の切り絵技法書での「作例」として制作された。「雑煮」のルーツ、由来については諸説あり、定かではない。以下は、Wikipediaからの受け売りである。
 「雑煮」という言葉が登場するのは室町時代。元来は武家由来の料理で、「烹雑(ほうぞう)」とも呼ばれていた。武家の雑煮は、餅と菜を一緒に取り上げて食べるのが習わしで、「名(=菜)を持ち(=餅)上げる」という縁起担ぎでもあったという。この料理が次第に武家社会において儀礼化していき、やがて一般庶民に普及していったという。
 餅を主体とする雑煮が全国的に広がっていった背景には、交通網や情報伝達の発達もさることながら、石高制に基づく幕藩体制によって各地域で灌漑設備の整備や新田開発等が進み、畑作から米作主体へ転換していった影響が大きいとされている。
 雑煮に入れる餅は焼き餅や煮餅、生餅など地域ごとに違いがあり、形も角餅と丸餅の二つに分かれる。餅以外の具の代表的なものとしては、豆腐類、芋類、鶏肉、鴨肉の切身または肉団子にしたもの、青味(小松菜やほうれん草)、彩りを添えるための人参、蒲鉾、海老など、香りに柚子、三ツ葉などがある。
 つゆは地域によって色々。澄まし仕立て、塩味仕立て、醬油味仕立て、白(または赤)味噌仕立てなど様々なつゆの形が見られる。東日本では角焼き餅を入れたすまし仕立て、西日本では丸餅を茹で味噌仕立てにするのが一般的ではあるが、地方により様々な差異がある。
 ちなみに、我が家は昔から、焼いた丸餅、鴨肉、生麩、かまぼこ(紅白2種)、三つ葉、柚子皮を入れる。つゆは関西で一般的な白味噌仕立てではなく、関東風のすまし仕立てという「東西融合」のスタイルが定番となっている。
 一方、正月の酒器と言えば、「お屠蘇」を頂く屠蘇器が代表的。数種の薬草を組み合わせた屠蘇散(とそさん)を日本酒、味醂などに浸して作る。元々、中国・後漢時代に生まれた薬草酒がルーツで、「蘇」という悪鬼を屠(ほふ)ることを願って「屠蘇」と称されるようになったという説がある。
 日本には平安時代初めに伝来したとされる。中国にルーツを持つ「屠蘇」だが、現代の中国では正月に呑む習慣は見当たらないという。日本では、宮中や貴族からやがて武家や庶民の間にも伝わるようになったが、現代では廃れてしまい、普通の日本酒を屠蘇代わりにしている家庭が多いだろう。







(444)門松としめ飾り  1990年代前半
 ※3日連続で、一徹氏著の切り絵技法書の「作例」から正月シリーズ。本日のテーマは「門松(かどまつ)」と「しめ飾り」である。昨今、門松を玄関に立てる個人宅はほとんど見かけないが、玄関にしめ飾りをする家はなお多いだろう。今回も、Wikipediaのお力を借りて少し解説。
 門松は言うまでもなく、松や竹を用いた新年を祝う正月飾りである。「松は千歳を契り、竹は万歳を契る」とも言われる。地域によっては、松飾り、飾り松、立て松とも言う。古くは、木の梢に神が宿ると考えられていたことから、門松は「年神(としがみ)様」を家に迎え入れるための居場所という意味合いもあった。
 松は冬でも青々とした常緑高木で、新しい生命力の象徴でもある。また、松は「祀る」につながる樹木であることや、古来の中国でも生命力、不老長寿、繁栄の象徴とされてきた。
 一説に、ルーツは中国・唐代に遡り、平安時代に日本に伝わったという。長治年間(1104年 - 1105年)に編まれた『堀河百首』には藤原顕季が門松を詠んだ歌が収められており、この頃には平安京で門松を飾る風習があったことが分かる。また、14世紀中頃の『徒然草』にも「大路のさま、松立てわたして、花やかにうしれげなるこそ、またあはれなれ」と記されている。
 かように、「松を長寿祈願のため愛好する習慣」は庶民にも広がり、門松はこれが変化したものと考えられている。現在の門松は中心の竹が目立つが、その名で解るとおり「松」が主人公である。古くは松などの常緑樹だけを飾っていたが、鎌倉時代以後、竹も一緒に飾るようになったという。
 一方、「しめ飾り」もご想像の通り、豊作や健康をもたらす「年神様」を、お正月に家庭に迎えるための「目印」である(ほぼ無宗教で不信心な我が家でも、お正月だけはなんとなく「しめ飾り」が登場する)。
 玄関に飾るのは、お迎えするのに「相応しい場所である」と年神様に示すため。そんな神様からたくさんの幸せを授けてもらうために、しめ飾りが考案されたのだ。ちなみに、飾る期間は、松の内まで(8日あるいは15日まで)が良いとされている。





(445)羽子板  1990年代前半
  ※すみません、引き続き正月ネタです。「松の内」の間は引っ張ろうかと…(笑)。という訳で、本日は女児の健やかな成長を願う「羽子板」の切り絵を、受け売りのミニ解説とともに。
 残念ながら、WEBの専門ページでも詳しい起源には触れていない。昔は、「胡鬼板(こぎいた)」とも呼ばれ、羽子板で突く羽根を「胡鬼子(こきのこ)」と言ったという。室町時代の『看聞(かんもん)日記』(伏見宮貞成親王の日記、1416~48年の分が現存=宮内庁蔵)には「正月五日に宮中で、こきの子勝負をした」との記載があるが、この「こきの子勝負」というのは羽子板で羽根突きをしたものと考えられている。
 室町期の国語辞書『下学集(かがくしゅう)』(1444年成立)には「正月に羽子板を用いた」という記述があり、これが文献上、「羽子板」という言葉の初見だという。当初は、羽根突きの道具として用いられたが、徐々に女児の「魔除け」や「厄払い」の飾りとしても使われるようになったという。
 また、江戸時代に入ると、歌舞伎の人気役者などをかたどった押絵羽子板が流行し、元禄期(1688~1704)以降になると、遊びの道具として定着した。井原西鶴の『世間胸算用』(元禄五年<1692>刊)には、正月の江戸の市場で羽子板が他の正月用玩具と共に売られていたという言及がある。その後、金箔、銀箔を施した高級品も現れ、幕府が華美な羽子板の販売を禁止するなど干渉をすることもあった。
 現代においても、羽子板は運動・遊戯としての羽根突きに使われる実用品と、厄除けや美術品の両方が作られている。「江戸押絵羽子板」は東京都により伝統工芸品に指定されており、浅草寺での「羽子板市」(毎年12月17~19日)は毎年大勢の客が訪れることで全国的にも有名である。ちなみに、正月に羽根突きをした経験がある人は今ではどれくらいいるものなのか…。





(446)羽根突き  1990年代前半
  ※昨日紹介した「羽子板」つながりということで、本日は「羽根突き」をテーマにした作品(今回はとくに解説はなしで)。毎回思うが、一徹氏が描く子どもの表情はとても自然で、可愛い。これも切り絵技法書の「作例」として収録されている。





(447)餅つき  1990年代前半
 ※お正月シリーズ。本日も解説なしで、「餅つき」の切り絵作品を(これも自著の切り絵技法書の「作例」から)。





(448)獅子舞  1990年代前半
 ※引き続き、一徹氏著の切り絵技法書の「作例」から正月シリーズ。本日は獅子舞(ししまい)を。言うまでもなく、日本のみならず東南アジア全域でみられる伝統芸能の一つで、祭囃子にあわせて獅子が舞い踊る。きょうもWikipedia日本語版の力を借りて少し解説を加える。
 発祥には諸説があるが、一説には1世紀ごろの中国・後漢が発祥とされる。日本には奈良時代に中国・唐から伝わったとみられている。悪魔を祓い、世を祝う縁起ものとして、室町期から江戸時代初期には、農村部等での祝い事や祭礼で獅子舞が行われるようになったという。
 「獅子(しし)」とは、古語では食用の肉のほかイノシシ、カノシシなど獣一般を指し、地域ごとに神や信仰と結びつけて考えられていた。『日本書紀』には「弘計王が鹿の角を奉じて舞った」という記述がある。
 推古天皇20年(612年)に中国から日本に伎楽が伝えられたが、その演目の中には「唐獅子の舞」も。かつては「帥子」と表記することもあり、「帥子舞」は邪気を祓う舞として伎楽の最初に演じられ、天平19年(747年)に作成された『法隆寺縁起資材帳』には伎楽の道具として「五色の毛を植えた帥子頭」と「胴幕を持つ二人立の獅子」が記されている。
 獅子舞は、1人で1匹の獅子を演じる「一人立の獅子舞」、2人以上の演者で1匹の獅子を演じる「二人立の獅子舞」と、数人から10人ほどで1匹の獅子を演じる「むかで獅子」に分類される。
 日本国内では全国各地で伝承がみられ、最もバリエーションが多い民俗芸能ともいわれている。2000年代の調査では全国に約8千種類が確認されている。とりわけ富山県は最も多く、約1,170カ所で受け継がれているという。





(449)凧(たこ)  1990年代前半
  ※お正月シリーズ。本日は「凧(たこ)」。日本各地には様々な伝統の凧が伝わっているが、一徹氏が描いたのは八丈島に伝わる「為朝凧」である。
 源為朝(1139~1170?)は保元の乱(1156年)で敗れ、伊豆の大島に流された後、八丈島にたどり着いたが、後に追討されて自害したという伝説を持つ武士である。「為朝凧」は弓の名手でもあった為朝の勇士伝説を伝えるもので、色鮮やかな凧として芸術的な評価も高い。「為朝凧」の凧揚げは現在でも島の伝統行事になっているという。
 さて、「為朝凧」ならずとも、お正月に公園に凧揚げに興じた思い出のある方は多いのでは? という訳で、きょうもWikipedia日本語版を参考に、少し受け売り知識を。
 凧の起源はよく分かっていないが、世界各地でその形は見られるので、それぞれの地域で様々な目的を持って生まれたのであろう。中国では紀元前4世紀頃には、すでに軍事目的で凧が作られていたという記録が伝わっている。
 日本では、平安時代中期に作られた辞書『和名類聚抄』に「紙鳶」「紙老鳶(しろうし)」という名で「凧」が登場するので、その頃までには(中国から)伝わっていたと思われる。
 日本の伝統的な和凧は、竹の骨組みに和紙を張った凧である。長方形の角凧のほか、六角形の六角凧、奴(やっこ)が手を広げたような形をしている奴凧など、様々な和凧がある。空中での安定度を増すために、尻尾(しっぽ)と呼ばれる細長い紙を付けることも多い。
 14世紀頃に入ると、交易船によって南方系の「菱形凧」が長崎に持ち込まれ始めた。江戸時代の17世紀には長崎・出島のオランダ商館で、商館の使用人たちが凧揚げに興じている様子を伝える資料も残っている。
 江戸時代には、大凧を揚げることが日本各地で流行り、江戸の武家屋敷では凧揚げで損傷した屋根の修理に大金を費やすこともあった。北斎の浮世絵「富嶽三十六景」にも凧揚げを描いた作品がある。明治以降、電線が増えるに従い、市中での凧揚げは減っていくが、正月や節句の子供の遊び、あるいは「祭り」として現在でも各地で継承されている。





(450)えべっさん  1990年代前半
  ※お正月シリーズ。本日は「戎(えびす)様」を描いた作品。関西では親しみを込めて、「えべっさん」と言うことが多い。恒例の「十日戎」はきょうが「宵戎」(関西では、全国約3500の戎神社の総本社でもある西宮戎(兵庫県)のほか、大阪の今宮戎、堀川戎などが有名である)。という訳で、今回もWEB専門ページを参考にしながら、少し解説を。
 「戎」(「恵比寿」と表記することも)は、七福神では唯一、日本発祥の神である。「西宮戎」は、神戸・和田岬の沖に出現した神像を、西宮・鳴尾の漁師がお祀りしていたが、神託により西宮の現在地に移し、祭られたのが起源という。元来は「漁業の神様」であった。
 鎮座の時期は明らかではないが、(西宮の)「戎」の名は平安時代後期には文献に度々登場するという。安土桃山時代には豊臣秀頼が(西宮戎や今宮戎の)社殿造営の普請奉行を命じたという記録もある。
 「戎様」は「漁業の神」として崇められていたので、通常は必ず鯛を抱いている(鯛だけでなく、釣り竿も持つ戎様の絵も多い)。しかし、西宮が西国街道の宿場町としても発展し、「市」が立つようになると、「商売繁盛」や「五穀豊穣」をもたらす神様としても、灘五郷の一つ西宮郷の銘酒と共に、隆盛を極めるようになった。江戸期には大坂も商業の一大中心地として発展し、今宮戎もより賑わうようになったという。
 「十日戎」の行事の起源はよく分かっていない。しかし、現存する最も古い大坂案内の図「葦分舟」(1675年<延宝三年>)にも描かれ、江戸前期には行われていたことが分かる。西宮戎では明治以降、魚市場や材木商組合、金物商組合等による(戎神社の)支援組織(講)が生まれるなど、「十日戎」と「えべっさん」信仰は、時代とともにさらに庶民の間に浸透していった。
 なお、西宮戎の通称「赤門」と云われる表大門は、豊臣秀頼奉納と伝えられ、桃山建築の遺構を残し重要文化財に指定されている。ちなみに、十日早暁の開門神事、「走り参り(福男選び)」は大変な熱気で賑わうが、コロナ禍のため2年連続で開催中止となったのは、ただ残念というしかない。





(451)宝船(たからぶね)  2000年代前半
 ※お正月シリーズ。きょうは「宝船(たからぶね)」。宝船とは七福神が乗り、珊瑚、金銀、宝石など様々な宝物が積み込まれる目出度い船であり、その絵や置物は「縁起物」として親しまれている。宝船は一徹氏は、好きなモチーフの一つだったらしく、生涯に何度か制作した。本日も、Wikipedia日本語版の力を借りながら少し解説を。
 「七福神」とは、福をもたらすとして日本で信仰されている七柱の神である。一般的には、恵比寿、大黒天、毘沙門天、福禄寿、布袋、寿老人、弁財天とされており、それぞれヒンドゥー教、仏教、道教、神道など様々なルーツを持っている。
 「恵比寿」は七福神では唯一、日本発祥の土着信仰の神である。昨日の「えべっさん」でも紹介したが、古くは漁業の神だったが、時代と共に「商売繁盛」や「五穀豊穣」をもたらす神にもなった。
 一方、「大黒天」「毘沙門天」はヒンドゥー教由来の神である。「大黒天」はシヴァ神の化身で、「食物・財福を司る神」。転じて、比叡山・延暦寺を興した最澄が「台所の神」として祀ることを始め、それが徐々に民間に広まったと伝わる。かたや、「毘沙門天」は元来「福徳増進の神」であったが、仏教に取り入れられてからは「戦いの神」として民衆に信仰されるようになった(その後、「学業成就」の神にも)。
 「恵比寿」「大黒天」に、平安時代以降、京都・鞍馬の「毘沙門信仰」から定着した「毘沙門天」を加えた三神がセットで信仰される風習はかなり後まで一般的であったが、平安末期 ~ 鎌倉初期に、近江・竹生島の「弁天信仰」が盛んになると、毘沙門天ではなく「恵比寿・大黒天・弁財天」とするケースも増えていったという。
 室町時代に入ると、仏教の「布袋」、道教の「福禄寿」「寿老人」など中国由来の神も知られるようになり、併せて信仰される風潮も強まった。「布袋」は唐末期の明州(現在の中国浙江省寧波市)に実在した禅僧の名。太っておおらかな風貌で、手にした袋から財を出し与えてくれる。「家庭・人格円満」の神でもある。
 一方、道教由来の「福禄寿」は「天南星」という道士がルーツ。「寿老人」は、同じく道教の神である「南極星」の化身という。いずれも「長寿・福徳」の神。これに、紅一点の「弁財天」が加わった。「弁財天」も元々はヒンドゥー教の女神。「音楽・弁才・財福・金運・知恵の徳」を併せ持つ天女として崇められてきた。
 この「七神」をセットとする信仰は、室町時代末頃、近畿地方から始まったと言われている。当時は、銀閣寺に代表される東山文化の時代。中国の文化に影響され、「竹林七賢図」(竹林の七賢人)のような大陸的な水墨画が多く描かれた。
 市井の人々は、この七柱の福の神を「七賢人」に見立てて「七福神」とした。七福神のメンバーは、当初は一定していなかったとも言われるが、江戸時代にはほぼ現在の顔ぶれに定まったという。なお、宝船と七福神をセットにした姿が(民間信仰として)崇められるようになったのも、江戸時代以降だという。





(452)宝船(別バージョン)  1990年代半ば
 ※お正月シリーズ。昨日と同じ、七福神が乗る「宝船(たからぶね)」の別バージョン。昨日の作品よりは少し早い時期に制作されたと思われる。自著の切り絵技法書の「作例」としても収録された。





(453)書初め(かきぞめ)  1990年代前半
 ※お正月シリーズ。本日も、自著の切り絵技法書の「作例」から「書初め(かきぞめ)」を描いた作品。書初めとは、ご承知の通り、新年になって初めて毛筆で字や絵を書くこと。「試毫(しごう)」「筆始め(ふではじめ)」「初硯(はつすずり)」「吉書始め(きっしょはじめ)」などという言い方もある。本日もWikipedia日本語版等のお力を借りて、少し解説を。
 書初めのルーツは、平安時代の宮中における「吉書の奏(きっしょのそう)」という行事だという。旧暦の正月二日に行われ、改元・代替わり・年始などの節目に、天皇に毛筆で清書した文書を上奏した。元来は行政手続きだが内容は儀礼的で、「政治がつつがなく進行しております」という慶賀を伝える行為でもあった。
 吉書の奏は鎌倉・室町幕府にも引き継がれ、「吉書始め」という新年の儀礼行事として定着する。江戸時代になると、この吉書始めが庶民の間にも「おめでたい新年に書道(習字)をする」という行事となって広がっていったという。
 この頃の吉書始めでは、元旦の朝に汲んだ井戸水「若水(わかみず)」を神前に供えたあと、その若水を使って墨をすり、恵方に向かって詩歌を書くのが一般的だったという。書く詩歌は「長生殿裏春秋富 不老門前日月遅」という漢詩がよく用いられたとも(現代では、新年の誓いを記す四字熟語など好きな言葉を書くことが多いが…)。
 「書初め」という語の初出は、江戸時代前期、京都の俳人・野々口立圃が著した俳諧論書『はなひ草(花火草)』(寛永13年<1636年>刊)という。享和四・文化元<1804年>年頃に描かれた歌川豊国の浮世絵には、寺子屋での「書初め」の様子が見える=下の画像ご参照。
 この時代、幕府で要職に就くためには「筆算吟味」という試験に合格する必要があったが、試験科目は「書」と「そろばん(計算)」の二科目のみ。字が上手なことは大事な教養だったのである。






(454)出初め式の梯子登り  2000年代前半
 ※お正月シリーズ。本日は「出初式(でぞめしき)」の梯子登りを描いた作品。銀座「和光」発行の月刊誌「チャイム銀座」で連載されていた、神崎宣武氏(民俗学者)のエッセイ「風物詩でティータイム」の挿絵として制作された。例によって、Wikipedia日本語版等を参考に少し解説を。
 出初式の起源は、江戸時代の火消(ひけし)による出初(でぞめ)、初出(はつで)の式である。万治2年(1659年)1月、上野東照宮で開催されたのが始まりと伝わる。
 江戸時代、江戸の町はたびたび大火に見舞われた。幕府は寛永年間(1624~1645年)に武士による火消「武家火消」を制度化したが、明暦の大火(1657年)では、江戸城天守閣を含む城下町の大半が焼失、約10万人近い犠牲者が出たという。
 そこで享保3年(1718年)、八代将軍吉宗は各藩の江戸藩邸を守る「大名火消」を設置するよう命じた。これを受けて各藩では自衛消防組織を強化した。とくに加賀藩邸の火消は、その華麗な装備と勇猛果敢さで「加賀鳶」と称され、当時の浮世絵や歌舞伎の題材にもなった(下の画像ご参照)。
 「梯子登り」は、火消が火災現場で高い梯子を立て、頂上から火事の状況や風向き、建物の状況を確かめたことが始まりで、さらには高所作業での度胸、勇気をつけるためにも行われた。「加賀鳶(かがとび)」による梯子登りはとくに有名である(石川県無形民俗文化財に指定され、現代でも、金沢市の出初式や百万石まつりなどの主要行事で披露されている)。
 出初め式は明治維新後も引き継がれ、明治8年(1875年)1月には第1回東京警視庁消防出初式が行われた。現代の出初め式は、言うまでもなく消防関係者によって行われ、消防車のパレード、一斉放水、救助訓練などが行われるが、地域によっては伝統の梯子登りや木遣り歌なども披露されている。








(455)鏡開き  1990年代前半
 ※お正月シリーズもあと2回。ラス前のきょうは「鏡開き」。そのものズバリの作品がなかったので、鏡餅(先般とは別の図柄)と網で焼かれる餅という二つの図柄(切り絵)でご容赦願いたい。本日もWEBの専門ページを参考にしながら少し解説を。
 鏡開きとは、「年神様」が宿る場所だった鏡餅を割り、無病息災を願いながら、お雑煮やお汁粉、ぜんざいにして食べる行事。 元々は、江戸時代、武家社会で鎧・兜の前に供えた餅を食べる「具足開き」として行われていたものが、一般の家庭に広まったという。
 お餅をお供えし、開き、食べることは、1年を健康に、幸せに過ごす力を授けてもらうという意味がある。「鏡開き」の際、餅は刃物では切らず、小槌、木槌などで小さく割り、砕くのが伝統的なやり方。
 「切る」とは言わず「開く」というのは、「年神様との縁が切れないよう願うため」にという説があるが、武士の時代、「刃物で切ることを嫌った」からという説もある。ただし、現代では丈夫な包丁で切ることも多いだろう。
 なお、鏡開きの日は4日、11日、15日、20日と地域によって様々らしいが、関西では15日が一般的、関東は11日が多いという。
 ちなみに、会社の記念日や開店祝い、優勝祝賀会、結婚披露宴などで菰冠(こもかぶり)の酒樽=吉野杉の樽=の蓋を開き、参加者に振る舞う祝賀の儀式も「鏡開き」と呼ぶが、これは古来、酒樽の上蓋のことを鏡と呼んでいたことが由来である。





(456)雪合戦  1990年代前半
 ※一徹氏の切り絵による「お正月シリーズ」も一応、本日が最終回。ネタも尽きてきたので、最後はお正月とは直接関係はないけれど、雪の季節しかできない「雪合戦」(自著の切り絵技法書の「作例」から)。
 子どもの頃は、大阪でも年に一度くらいは5cmほど雪が積もった。登校した後、校庭に残る(少ない)雪をかき集めて投げ合った楽しい思い出がよみがえる。
 今冬は日本列島では大雪の地方が多いというが、大阪市内はまだ一度も積雪がない。と言うか、この20~30年ほどは温暖化の影響もあってか街が真っ白になるような光景はほとんどない。
 寒い場所に住むのは基本好きではないが、子どもの頃に経験した雪合戦は実に楽しかった。冬に雪がたくさん積もる地方は羨ましいが、実際に住んでいる人たちにとっては、雪は「たたかう相手」であり、日々大変だろう。気候温暖な場所で暮らせることに感謝しよう。





(457)「隣に良心ありき」の表紙のために  1991年
 ※ミステリー作家・山崎秀雄氏の小説「隣に良心ありき」(「ミステリマガジン」1991年9月号収録)の表紙絵として制作された。この作品は、短編推理小説の公募新人賞である「ハヤカワ・ミステリ・コンテスト」(早川書房・主催)の第2回(1991年)で最優秀賞を受けた。下の画像は、実際の誌面のレイアウト見本版。












(458)「アレキサンドリア」のための挿絵  1995~96年
 ※曽野綾子氏の小説「アレキサンドリア」(1995年~96年「オール読物」誌上連載)の挿絵として制作された。いずれも古代エジプト、古代ローマの壁画等をモチーフにした作品を提供した。





(459)漬物づくり(「いま二幕目」の挿絵として)  1986年
 ※プロデビュー前の作品。エッセイスト・西舘好子さんの連載「いま二幕目」(1986~87年、週刊「サンデー毎日」誌上)の挿絵として制作された。この連載の仕事で厚い信頼を得た一徹氏は、プロデビュー後も西舘氏からたびたび挿絵を依頼された(印刷媒体の画像をスキャニングしたため、画質が粗いことをご容赦ください)。





(460)「ススキノララバイ」のための挿絵  1994年
 ※ハードボイルド小説で知られる東直己氏(1956~)の小説「ススキノララバイ」の挿絵の一つとして制作された。小説は後に、「ススキノ探偵」シリーズとして文庫本化(ハヤカワ文庫)されている。東氏は、映画化された「探偵はバーにいる」(2011年公開、大泉洋・主演)の原作者としても知られる。




◆故・成田一徹氏の切り絵など作品の著作権は、「Office Ittetsu」が所有しております。許可のない転載・複製や二次利用は著作権法違反であり、固くお断りいたします (著作権侵害に対する刑罰は、10年以下の懲役又は1000万円以下の罰金という結構重いものです)。

※「ITTETSU GALLERY:もうひとつの成田一徹」過去分は、 こちらへ

★過去の総集編ページをご覧になりたい方は、 こちらへ。

【Office Ittetsuからのお願い】成田一徹が残したバー以外のジャンルの切り絵について、近い将来「作品集」の刊行を計画しております。もしこの企画に乗ってくださる出版社がございましたら、arkwez@gmail.com までご連絡ください。


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kopn0822 @ 1929年当時のカポネの年収 (1929年当時) 1ドル=2.5円 10ドル=25円 10…
汪(ワン) @ Re:Bar UK写真日記(74)/3月16日(金)(03/16) お久しぶりです。 お身体は引き続き大切に…

Free Space

▼Bar UKでも愛用のBIRDYのグラスタオル。二度拭き不要でピカピカになる優れものです。値段は少々高めですが、値段に見合う価値有りです(Lサイズもありますが、ご家庭ではこのMサイズが使いやすいでしょう)。 ▼切り絵作家・成田一徹氏にとって「バー空間」と並び終生のテーマだったのは「故郷・神戸」。これはその集大成と言える本です(続編「新・神戸の残り香」もぜひ!)。
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神戸の残り香 [ 成田一徹 ]
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▼コロナ禍の家飲みには、Bar UKのハウス・ウイスキーでもあるDewar's White Labelはいかが?ハイボールに最も相性が良いウイスキーですよ。 ▼ワンランク上の家飲みはいかが? Bar UKのおすすめは、”アイラの女王”ボウモア(Bowmore)です。バランスの良さに定評がある、スモーキーなモルト。ぜひストレートかロックでゆっくりと味わってみてください。クールダウンのチェイサー(水)もお忘れなく…。

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