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ここより一里ほど東向こうの村の大集落の衆が陸蒸気の火の粉を嫌がって、半里ほどこちらに寄った田圃の真中にステンションが出来たのは、いつの頃じゃったかの~
一日四往復通りかかる折は、精一杯背伸びして眺めてみよう思うても、今ひとつ、鎮守の森の辺りからは、よう見えても、ヤマモモの私の処からは煙突から吹き上げる煙しか見えなかったが、噴き出す蒸気や汽笛の威勢の良い音が心地よく聞こえたもんじゃった・・・。
あの村もこの村も、追々町に統合され、だんだんそれらしく発展していったが、まだまだ、ここらは木々の多いままで、ため池には亀や鮒や又それをついばむ鷺やかいつむりがのんびり泳いでおった。
ここらの住民も、代替わりしていき、優秀な子は、百姓を嫌がり、中心部にできた中学をでて、東京の高等学校や、士官学校にいきたがり、それも時代の流れゆえ、親もしぶしぶ認めよった・・・
日清日露の戦役の頃には、村の青年も数名が名誉の戦死とやらで、盛大に鎮守の森と、そのすぐ下のお寺で供養が行われた。今でもその碑が鎮守の鳥居の際に立てられているが・・・
その頃はまだこの辺りの集落は裕福だったのか、ついでに、鳥居さんも立て、境内の建物も余った資金や寄進により新築され、盛大な祭りもおこなわれ、「日本勝ったロシャ負けた々々」ゆうて、提灯行列やら賑やかな笛太鼓で、ヤマモモの私もうれしかったもんじゃ・・・
その折をさかいに世の中みんなが皆、教育勅語や富国強兵たらいうて、なんとのう、窮屈になっていったもんじゃが・・この村にも親の代からの身上を元手に株に手だしたり、慣れぬ振興商売に土地を担保して失敗して一家離散したり、百姓だけの中農は生活も苦しく、色々じゃった。米騒動もこの頃じゃたかの~
そんな訳で、だ~んだん戦時色の強うなった頃、「紀元二千六百年」たらいう掛け声で、各町村が競争で、碑を建てたり、、鎮守の太鼓の古いのを買い換えたりするのに、勧進を廻しても、とても資金が足りぬ次第で・・・、
困ったこの集落の長(おさ)連中で、今だ集落の財産だった、ヤマモモの私の居るこの雑木林一帯を、売りに出した訳じゃが・・
正直、こんな斜度のある場所で里道はそのままだし、な~んの役にもたつ筈もなく、どうにかつてを頼んで廻って、隣町の、町医者に帳面上だけ買ってもらい、この年の行事費用をなんとかやり繰りした訳じゃ。
しかし、何の変わりようもなく、相変わらず、集落の人はこの私の足元の里道を通り、上の畑の近道にしたり、秋には私の近くに成っている、栗や柿の実を食べる寄り合い場所には変わりがなかった訳じゃよってに・・
ヤマモモの私も何ということもなく、春先には地味な花を咲かせ、少し離れた雄木から風で便りをもらい、実らせてきたもんじゃた・・・。
続きはいずれ又近い内にお話しましょう・・