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どこまで、お話しました事やら・・・
そうそう、その、「紀元二千六百年」たら言う年は確か昭和15年頃の事だったように思いますが・・・
もうその頃は日本中は戦時色一色で、中国や満州や南方へ召集された兵隊さんが、この集落からも随分狩り出されてゆきました。なかには一家の大黒柱も兵隊に出て行き、残った田畑を女子供で、お互いやりくりつけたり、日露戦争時の元兵隊さんだった隠居中のお年よりや、在郷軍人さんで、それこそ、昔とった杵づかでと、どうにか田植えや草取りしている始末。
あちこちに田畑を持ち開墾して今ではそこそこの地主になってた次郎作さんの跡継ぎさんは、地元の中学の学校の先生もなさっておられましたが、勤務の都合もあり、自分の田畑のうち、八反歩小作に出して、二反歩しか自作をしていませんでしたが、それでも中々回り切れませんでした。
その翌年末には大東和戦争いうて神国日本の大偉業も始まり、始めの頃は威勢良く旗行列や、日ならず、出征兵士を送るので、駅前はいつも大変でした。
千人針や何やかやで、皆熱につかれたようでした。 町の中学の下級生は勉強処でなく、食糧確保という名目で農繁期には駆り出され、上級生や女学生も軍需産業の工員さんに、朝早く大阪の兵器廠に泊り込みで働かせられ、皆「お国の為」ゆうてたいへんでした。
あの地元の中学の学校の先生してた次郎作さんの跡継ぎさんも、結局中国戦線に駆り出されてゆかはりましたが・・・残った奥さんも大阪のええとこのお譲さんでしたが気丈に頑張って二反をお守りしてはりました
ヤマモモの私の周りにも、私より古くから居る松もたくさんありましたが、松根油が取れるゆうて、随分切り倒され、 役立たずのヤマモモの私 等はお陰で小さくなって震えておりました。
街中よりは安全じゃろう云うて、大阪市内より親戚を頼って学童疎開もかなり、来てはりました。集団疎開でもっと山奥に行くよりはまだましで、親類縁者の寄宿ですので、多少自由もききましたが、それでも、食べ物がないのはどこも同じ、・・それだけに、ヤマモモの私の周りは柿やグミや私の実やそのほか食べられるものが一杯でしたから、そんな子たちには楽園でした。だけど元々の集落の子たちにしては面白くなく、よく周りで順番争いで喧嘩しておりましたが・・・
丁度、それはヒヨドリの集団がきたら、いちはやくメジロが逃げるようなもので、私としてもどうしようもなく、精々坂でころんで怪我をせぬよう、痛くないように、まわりを私の葉で覆う位のことしか出来ませなんだが・・・・
そうこうしてる内に、昭和二十年になり、町境にあった軍需工場まで、空襲警報とともに、狙われるようになり、ここらも物騒になりました。ある日の夜、真夜中に、サイレンが鳴り響き、近く遠くにサーチライトにあのB29たら言う大きな爆撃機が爆音を響き渡らせて何派も何派も夜空に浮かび上がり、大阪方面が一晩中真っ赤となり、翌日聞いた話では大阪工廠や、環状線も含めて一面焼け野が原になったそうです・・・。
ここらでは、精々、帰りの駄賃とばかり、グラマンが機関銃を女学校の校舎に打ち込みボヤを出した程度でしたのが、何よりといえば何より・・・
日本中どこもそうだったでしょうが・・・いや~大変な時代でした。
続きはいずれ又近い内にお話しましょう・・