PR
Calendar
Category
Comments
Keyword Search
Freepage List
やむなく之道の家に移ったものの 、 十日夜には発熱と頭痛を訴えた 。
二十日に回復し 、 四天王寺近くの夕日丘「車要亭」の俳席にも現れたが 直に辞し 、 主催者の芝柏( しはく )へ託し 、 芭蕉不在の中行なわれた句会に 「 此道や行人なしに秋の暮 」 や , 此の 病で 、 仮屋に臥せって苦吟した 「 秋深き隣は何をする人ぞ 」 の句が詠みあげられた 。
二十九日夜に下痢がひどくなり 、 容態は悪化の一途を辿り 、 之道は 京都の去来に使いを出し 、
大津の医師 木節を初め 向井去来、其角、 支考や 乙州 ら 主だった門人も 駆けつけ 、 十月五日に南御堂の門前にある 、 大旦那 花屋仁左衛門の 貸座席に移り 、 門人たちの手厚い看病を受けた 。
この 騒 動の発端でもある弟子の之道は
八日 住吉大社の四所に詣で 、 師 匠の延命を祈った処 、 その介あって 深夜 、 からからと硯の音が聞こえたので 之道の弟子の呑舟が介抱に侍ると 「 病中吟 」 と称して
「 旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
」(
たびにやんでゆめは枯野をかけまわる
)
と詠んだが
、
病の床で尚推敲し
支考を召し、あれこれ思案した事だった
。

十日には遺書を書き
、
十二日申の刻
( 午後四時頃
) 松尾芭蕉は医師の 木節以下、弟子たちの見守る中
息を引き取った
。
十三日弟子共に守られ 大阪から船 で 淀川 を 遡り伏見港迄運ばれ 伏見から陸路で 大津の義仲寺に遺骸は届けられた 。
智月や 乙州の嫁から 泣く泣く死装束や死化粧を手厚く施された後 、 荼毘に伏され 、
翌十四日 遺言に従って木曽義仲の墓の隣に 葬られた 。
身内同然に諸役請負する近江門人衆十二名の内
、
大阪まで出向いた門人を含め八十人
、 別途
三百有余人が会葬に参列したという
・・
尚
表には芭蕉翁の三文字を記し
背には年月日時を記し
、 塚の東隣に芭蕉一本を植えた事だった。
松尾芭蕉と大津 終局(その三十七) November 14, 2020
松尾芭蕉と大津 その三十五 京都,伊賀,… November 12, 2020
松尾芭蕉と大津 その三十四 November 11, 2020