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にゃんこ同居人にはお馴染みですが、にゃんこが目を覚ましたり、あくびをしたとき、まぶたとは別に水平方向に膜のようなものが見えます。これは「瞬膜(しゅんまく)」と云うまぶたのひとつなんです。まぶたは「目蓋」と云う字からも分かるように、眼球の蓋のような役割で、目玉を上下から覆い保護する不透明で開閉式の器官ですね。上側を「上瞼(うわまぶた)」、下側を「下瞼(したまぶた)」と云いますが、それでは「瞬膜」は?まぶたの役割は眼球の保護や光量の調節などさまざまな機能がありますが、瞬膜は目の中から出てきて眼球を覆ったり開いたりするので役目としては普通のまぶたと同じですね。ただ魚のようにまぶたそのものが無い生き物と違って、まぶたの有る生き物では、まぶたが垂直方向の動きをすることが多いのに対し、瞬膜は水平方向の運動をすることが多いのです。瞬膜は 、ラテン語の「まばたきする」と云うイミです。普通のまぶたと違って、生き物が見えるようにしながら、目を保護し、潤いを与えるためにあるんですね。瞬膜は何も にゃんこの専売特許ではなく、ワンちゃんだって備えています。この瞬膜は鳥類や哺乳類だけでなく一部の魚類や爬虫類にも普通にあって、繊細な角膜を保護し、眼球を潤滑してキレイにするのに役立ってます。閉じた状態でも部分的に見えるように半透明にすることもできます。 ただ、ほとんどの哺乳類では、瞬膜は目の内側の角に残っているだけです。ホッキョクグマやビーバーなど、頻繁に泳ぐ哺乳類はこのルールに従わず、透明で完全に機能する瞬膜を持っており、水中ゴーグルのように使用します。またホッキョクグマの瞬膜は、雪から反射した光が目にそれほど害を及ぼさないよう紫外線をフィルタリングする機能もあります。すべての鳥には瞬膜がありますが、鳥が瞬きするのを見るのは稀です。しかし猛禽類は目が非常に大きく、瞬膜をよく使うため、瞬きしている様子を捉えることができること多いです。猛禽類は獲物を捕まえるとき、獲物に目を傷つけられるのを防ぐため瞬膜を閉じます。ハヤブサは、最高速度で降下しているとき、瞬膜を素早く点滅させてますね。では、私たち人間やほとんどの霊長類は、ナゼこの便利な第3のまぶたを失ったのでしょうか?私たちに残っているのは、目頭の角にある肉厚の半月状のプリカと云う隆起だけです。その考え方は逆なんですね。通常のまぶたは大きくて厄介な危険なものから目を守るためのもので、当初の瞬膜は水中を泳ぐときに同様に危険なものから目を守るためのものです。その後、哺乳類が陸上で生活するよう進化するにつれて、瞬膜は単なるエネルギーの無駄であり、多くの哺乳類では縮小してしまいました。成長するためのエネルギーを無駄にしない方が、瞬膜を持つより少しでも有利だったからなんですね。
May 31, 2024
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電話機が発明されたのは19世紀後半のことですが、その発明の特許をめぐりややこしい話があることは有名ですね。1871年にイタリアのアントニオ・メウッチが、重病の妻との会話を目的に電話を発明します。ところが経営していた会社が倒産し、資金難に陥ったことから、電話機の特許申請料を払えないという悲運に見舞われたのです。さらに、それから5年後の1876年、トーマス・エジソンも電話機の特許を取得しようとしますが、書類の不備が原因で、こちらも特許を取得できてません。一般に、電話の発明者とされるグラハム・ベルが、アメリカの特許庁に特許を出願したのは、エジソンが書類不備となった1ヶ月後。さらにベルに遅れること2時間、電話のもととなる機器を発明したイライシャ・グレイも特許を出願しましたが、アメリカの制度では先に特許を出願したものを優先するため、電話機の特許はベルのものになったのですね。しかし、ベルの特許申請した電話機はまだまだ機能としては不十分で、とても聞き取りづらかった。それを1878年にエジソンが改良を加え、現在使われているような聞きやすい電話になっていったのです。で、1881年になって、フィラデルフィア・ローカル・テレグラフ・カンパニーが、通話を録音するために電話機とトーマス・エジソンの蓄音機を合体させた機器を試作しました。目的は電話の会話を録音するマシンです。これはビジネスの通話内容を後から話し合うのを目的に製作されたのです。マシンは試作品の段階までいったのですが、エジソンは試作段階で手を引いてしまいます。新聞記事の中で彼は「発明は確かにしたが、それを売れるようにするのは機械工がする仕事だ」と。つまり自分は発明するだけと云う思想なんですな。そして、人々にこのマシンを買いたいと思わせるのは、当時の機械工には荷が重すぎました。こうして留守電のアイデアは古くからあったのですが、それを実現するには当時の技術ではまだまだムリがあったのです。それから月日は経ち、1960年になってやっと実用に耐えうる留守番電話機が発明されます。誰が発明したと思われます?なんと日本人です。「橋本和芙(かずお)」彼は世界に1,000件を越す特許を取った発明家として知られています。上の画像の右側が橋本の発明した留守番電話ですが、なんかダイヤルの文字盤がヘンですねぇ。実は橋本は1957年には「電話自動応対装置」として特許を取得してたのですが、日本ではほとんど売れなかったのです。そこでアメリカでも特許を取得し、アメリカのパイオニア社と共同開発した「アンサホン」を1960年になって販売したところこれが大ヒット。なので写真はアメリカ仕様だったのですね。この初代の「留守番電話」は、ワシントンにあるスミソニアン協会の米国歴史博物館に寄贈されました。この留守番電話を発明したキッカケが面白い。1951年、橋本が新しい家に引っ越し、電話を引き直したところ、知らない人あての借金返済催促の電話が夜中までかかってきたのです。要するに間違い電話なんですが、それが幾人もの催促人から繰り返しかかってきて、うっとおしいったらありゃしない。そこで彼は、電磁石の力で受話器が上がり、テープレコーダーから自動音声が流れる装置を作ったのが留守番電話の発明に結びついたのです。橋本の発明はそれだけにとどまらず、「ナンバーディスプレイ」を導入した電話も開発しています。また、彼は発明家としてのみならず、慈善家としても知られており、1988年には「フォンテル基金」を設立、電話による通信技術の研究と発展に大きく貢献しました。これらの功績により黄綬褒章が授与された上に、1994年には、ニュージャージー工科大学から、名誉理学博士の称号が贈られました。
Jan 19, 2020
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「一緒に踊ってもらえませんか?」すると彼女は「はい」と答えて...「Shall we ダンス?(シャル ウィ ダンス?)」の話?いえいえ映画ぢゃなくて、現実にあったことです。1985年11月のホワイトハウスのこと。まだInstagram やTikTok などSNSのなかった時代、1枚の写真が世間にセンセーションをおこしました。当時の大統領ロナルド・レーガンとファーストレディのナンシー・レーガン主催のディナーに招かれたのは、今は亡きダイアナ妃です。そしてアメリカ人ゲストには各界の著名人、セレブが顔をそろえていました。パーティが進行したとき、レーガン大統領夫人ナンシーがある若い男性の耳元でこうささやきました。「彼女をダンスに誘ってみたら」?その男性は「自分は非常に重要な人々が集まるパーティのエキストラ」だと思ってたので、この提案にびっくり仰天!そうしてダイアナ妃と男性のダンスが始まったのです。そのときの写真がこの1枚。ダイアナ妃の相手をしていたのは誰か分かりますか?彼は後に「おとぎ話」のようで「魔法のような瞬間」だったと述べてます。「僕は彼女に近づいて肘にタッチして、ダンスに誘った」と。そしたら「彼女は、あの魅惑的なスマイルを見せて、僕の誘いを受け入れた」。そして「僕たちはまるでおとぎ話のように一緒にダンスしたんだ」と。その男性とは俳優の「ジョン・トラボルタ」です。当時のジョン・トラボルタは、1977年の「サタデー・ナイト・フィーバー」や1978年の「グリース」などで注目俳優のひとりでしたが、普通に考えたら、とてもプリンセス・オブ・ウェールズ(ダイアナ妃)のお相手をつとめられるような器ではなかったハズ。それをナンシー・レーガンのリクエストで現実のものとなったのですね。このとき、ナンシー・レーガンはトラボルタに、ダイアナ妃にダンスを誘うように付き添ってあげると告げてたのです。ダイアナ妃は黒のロングドレスとパールのチョーカーで美しく、トラボルタはタキシードでダンディーに。いい画ですねぇ。ふたりは15分ほど踊りを楽しみました。ダンスが終わると、トラボルタはおとぎ話の中にいる気分になったのです。「それは物語のような瞬間でした。終わったときに私たちはお辞儀をしました。そして、ご存知のように、彼女は出発し、私も出発しました」。「そして私の馬車はカボチャに変わりました(笑)」とトラボルタは振り返ってます。トラボルタと踊ったときダイアナ妃が着ていたヴィクター・エーデルスタインのバルドーネックドレスは「ジョン・トラボルタドレス」と別名がつけられました。1996年にダイアナ妃とチャールズ皇太子が離婚した後、ダイアナ妃は人道的活動に重点を置くようになりました。パリの自動車事故で亡くなる2ヶ月前の1997年6月、彼女は慈善事業としてクリスティーズのオークションに出品される数点のドレスを寄贈しました。その中に「ジョン・トラボルタドレス」も含まれてたのです。オークションでジョン・トラボルタドレスは222,500$(約2,500万円)で落札されました。
May 30, 2024
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「検察官」「外套」「死せる魂」など特異な作品で知られる作家"ゴーゴリ"。彼ってロシア文学に分類される作家だったのでロシア人かと思ったら、出身はウクライナだったのですね。ウクライナやフィンランド、リトアニア、ポーランドなどがロシアに併合されてた帝政ロシア帝国時代の作家だったので、ロシア出身とされてたようです。さて、ウクライナを始め、ポーランド、スロバキアの国民食と云えば「ピエロギ」と「ヴァレーニキ」。どっちも我々が連想する「餃子」と同じで、生地に具を詰めて、茹でたり焼いたりした料理です。先程のゴーゴリ作品でもヴァレーニキの出る場面多いです。ウクライナの都市チェルカースィには、ヴァレーニキの石像が建ってるほどです。こうした料理はモンゴル系の遊牧民から入ってきました。献身的にウクライナをサポートするポーランド。ウクライナがやられたら、次は自分たちの番と云う危機意識もあるでしょうが、ニュースなんかでサポートされてる一般の方たち見てると、そう云う政治的思惑を越えた心情が感じられますね。ウクライナ人もポーランド人も同じスラヴ人ですが、ウクライナ人は東スラヴ人、ポーランド人は西スラヴ人と、言語学上は分類されてます。とは云っても、東スラヴと西スラヴは言葉の上でも共通性が多くほとんど同一と云っていいほど。そんなポーランドの南部、スロヴァキアと接している県に「マウォポルスカ」と云う県があります。そのマウォポルスカ県にある小さな都市「タルヌフ」がきょうの主題。タルヌフは1722年の第1次ポーランド分割によってオーストリアに編入されてしまいます。第1次大戦後にポーランドが独立を果たし、ふたたびポーランド領に戻るのですが、第2次大戦ではドイツ軍の侵略を受けた都市です。それよりもっと以前、1241年にはモンゴル軍によって侵略されてます。現在ポーランドは、1999年に加盟を認められたNATOの一員として活動してます。このタルヌフは「ポーランド・ルネサンスの真珠」と呼ばれる旧市街と「ポーランドのトスカーナ」と呼ばれる風光明媚な郊外が観光資源となって、多くの観光客を集めている都市なんですね。画像を眺めても、どっかのテーマパークぢゃ?と勘違いするほど現実離れしたきれいな建物が建ってます。ポーランド料理は、素材の味を生かした調味料や調理法が多くて、和食と共通するところもあり、日本人の口にも合うと云われてます。ポーランド人の主食は「ジャガイモ」。 焼いたり蒸したり、日本人にもなじみのある料理がたくさんあります。まだ食糧配給制の共産主義時代は、ポーランドでも外食産業はほとんどありませんでした。せいぜい労働者が行く大衆食堂やパブぐらいで、夜間は照明が直ぐ強制的に落ちてしまうので外食産業そのものが立ち入るスキがなかったのですね。そしてポーランドでは1日4回の食事が習慣でした。それも近年になってからは他の国と同じで1日3回に変化してきてます。それでも家庭料理が中心の食文化で、EU諸外国と比べるとレストラン数は少なく、外食で贅沢をする文化圏ではありません。タルタルステーキもポーランドの有名な料理のひとつです。これもモンゴル系タタール人がもたらしたものですね。チンギス・カンによる世界制覇の影響が中国や中央アジアはもとより東ヨーロッパにまで及んでたことがこんなとこに表れてます。
Oct 18, 2022
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柳原家と云う幕末から明治維新にかけて多数の人材を輩出した名家がありました。この頃の当主、柳原光愛は権中納言、議奏となった人です。その光愛の次女、愛子は明治天皇に典侍として仕え、大正天皇の生母となった人です。ところがこの一家は後々、数々のスキャンダルにまみれるのですな。光愛の息子、前光の後を嗣いで伯爵となった義光は野心家だったのですが、彼の妹が有名なあき子、つまり柳原白蓮です。柳原白蓮...世に云う「白蓮事件」とは、福岡の炭鉱王 伊藤伝右衛門の妻で、歌人として知られる柳原白蓮(あき子)が夫と訪れていた東京からひとり行方をくらまして、社会運動家で法学士の宮崎龍介と駆け落ちした事件です。NHKの連続テレビ小説「花子とアン」では仲間由紀恵さんが柳原白蓮役になって有名になりました。姦通罪が存在していた時代のことです。しかも当事者は華族の流れをくむ世間的にも著名人。マスコミが放っておくハズありません。たちまちマスコミのスクープ合戦となり、センセーショナルに報じられました。しかも夫の伝右衛門があき子に対して「絶縁状」をこともあろうに大阪朝日新聞を通じて公開してしまったのですな。対するあき子も別のメディアを通じて縁切りの宣言を行うと云う、当時としては異例中の異例なことをしでかしたワケです。結局、夫婦は分かれたのですが、それは当時としては珍しく、伝右衛門の優しい処置によるものだったのです。で、これだけでも大変な騒ぎなのに、義光の娘 徳子の「不良華族事件」に見舞われるのですな。「不良華族事件」とは、東京のダンスホールの主任ダンス教師が警視庁に検挙されたことから始まります。この男、女優やダンサー、良家の娘、有閑マダムなど多くの女性と関係を持っていたのです。先ほども云いましたように、姦通罪が存在した時代で、男の行為は検挙の対象となり得たのです。ここで驚嘆すべき事実を男は白状します。男に数多くの女性客を紹介したのは歌人の吉井勇の妻 徳子であることを自供したのです。この吉井勇の妻 徳子こそ、柳原義光の娘だったのですな。そして徳子の遊び仲間として歌人斎藤茂吉の妻 輝子なんかの名前が出てしまうのです。吉井勇も伯爵だったのですが、同じ伯爵家同士と云っても吉井勇は新華族。対する徳子は押しも押されもしない堂上華族の出。そのため勇は徳子と距離を置いており、そのことが影響して徳子には遊び癖がついてしまったのですな。そこで徳子は不倫、不倫相手の妻もダンス教師と不倫、というダブル不倫まで発覚してしまうのです。ところが、この徳子の父親、柳原義光自身もスキャンダルにまみれます。男色相手の新派の元役者の男に手切れ金を脅し取られる事件をおこしたのです。つまり義光はバイセクシアルと云うことで、男色相手田中吉太郎は役者あがりでバーを経営、華族相手の男娼として知られていた男です。田中に飽きた義光は別の男娼を探すようになるのですが、華族に男娼を斡旋していたブローカーの男がこれを知り、義光に手切金2,000円を支払うよう要求するのですな。そんな大金のない義光が拒否すると、目真野は脅迫するようになる。進退窮まった義光は田中を警察に訴えると云う筋書きです。事件は昭和天皇も知るところとなり、木戸幸一に事態の収拾を命じられることとなりましたが、当の本人義光は避暑と称して姿をくらましていたそうです。中之島公園の猫たち-SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK-」整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。
Jun 26, 2016
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きのうトルクメニスタンへの渡航について述べましたので、その他の国々カザフスタン、キルギス、タジキスタン、ウズベキスタンも含めて、シルクロードの食べ物ってどんなだろうと検索しましたが、遊牧民騎馬民族系の食事ってのはチョット日本人には馴染めない(少なくとも私は)。遊牧生活で、保存を容易にするためサワーミルク (発酵乳)を多用するのはいいとして、メインはお肉ばっかしなんですね。それも羊肉や馬肉、それも茹でた後細かく切り分けずにそのまま出されることが多い。ソーセージに加工しても、屠殺した挽肉の塊を脂、血液などと混ぜ、腸に詰めて作られていて、ちょっと画像にするのがはばかれるようなのばかり。市場の画像なんて、羊の首が並べられてるしね。では、飲物はど~かと云うと、これが...伝統的な飲料で「カマズ」と云うものに行き当たりました。カマズ=馬乳酒。「馬乳酒」とは馬の乳を発酵させた乳酒と呼ばれるグループの一種で、要するに家畜の乳からつくる酒です。乳に含まれる乳糖が酵母によって発酵し、発酵乳に微量のアルコール(度数1%~3%)が生じたものらしいです。乳酸菌による乳酸発酵も併せておこるため強い酸味を持ち、発酵時の二酸化炭素ガスを含むため僅かですが発泡性を持ってます。馬乳酒は、モンゴルが本場らしいのですが、カザフスタンなどの中央アジアからロシアの一部でも非常にポピュラーな飲物らしいです。ロシアの場合はモンゴル系民族のカルムィク人やブリヤート人ぢゃないかと思います。ブリヤート人は弥生人か縄文人の遺伝子に近い特徴を持つと云われ、日本人のルーツではないかと注目を集めています。キルギスの馬乳酒「クミス」に限らず、馬乳酒は日本人が牛乳を飲むように日常的に普通に飲まれています。むしろ日本人が牛乳を飲むよりはるかに飲む量は多い。アルコール度数が微弱なので、子供たちも大人と同じように飲んでます。農耕民族と異なり、移動を繰り返す遊牧民族にとってクミスは貴重なビタミン源で、馬乳で作られるため、町中で売られれているものよりも、牧草地で売られているものの方が鮮度が高く美味しいらしい。クミスはキルギスを始め、カザフスタンなどテュルク系言語圏では共通の呼び名です。白い液体で、強烈なチーズのような匂いがします。しかし、上質なクミスはスモークチーズのような香りがするらしい。口に含むと強烈な酸味。中国がモンゴルの南部に設置した自治体「内モンゴル自治区」では馬乳酒を「ツェゲー」と呼びます。モンゴルでは馬乳酒を「アイラグ」と呼びます。よく知られてるように「カルピス」はアイラグをヒントに作られたものです。創業者の三島海雲氏が仕事でモンゴルに渡ったとき、馬乳酒に出会ったそう。現地の人々に勧められるままに飲み続けるうち、長旅で弱っていた胃腸の調子がよくなり、心身ともにすっきりしたそうです。馬の代わりに、ラクダの乳から作られるものは「インゲニーアイラグ」と呼びます。さて表題の「馬乳酒と新型コロナウイルス」について。陸地で数千km にわたって中国と国境を接するモンゴル。中国南部で新型コロナウイルスが流行したとニュースが伝わると、国境地帯を全て封鎖しました。航空便だけでなく、列車と自動車など中国との交通を全面的に遮断し、人的交流を止める強硬措置を取ったのです。それを実施したの、何時だと思われます?なんと1月27日のことです。日本でクルーズ船「ダイヤモンドプリンセス」船内で最初の10人の感染者が確認されたのが2月5日です。当時、まだ日本便が飛んでいましたが、チンギスハーン国際空港に着くと完全防護の係員6人が機内に乗り込んできて、乗客全員が20項目ほどのアンケートを書かされました。さらに体温チェックや中国への渡航歴などの質問を受け、飛行機から降りると入管ではパスポートの入国歴を詳細に調べられ、やっと入国できたのです。2月下旬にはバトトルガ大統領が中国を訪問。これは、単に国境線を閉鎖したままでは、独裁的な隣国の気難しい指導者(習近平)の機嫌を損なう恐れがあると見て、モンゴル最高指導者が北京を表敬訪問したのです。「困難な時期」に来訪した草原の国の指導者を北京は「外交の成功」として位置付けました。バトトルガは「中国人民への見舞いとして、ヒツジ3万頭を贈る」と述べてウランバートルに戻っていきました。バトトルガは、スターリン思想を中国流独裁体制の強化に悪用する北京の政治家たちを「頭がどうかしている」と思っているのです。日帰りの北京訪問でしたが、自国民を安心させるため、バトトルガとその随員たちは帰国後2週間、病院で隔離に入り外部との接触を絶ったのです。それでもなを膨大な国境線を中国ともっているモンゴル。いくら陸路や空路を遮断しても人の動きを100%制御することは困難です。在モンゴル日本国大使館は4月8日に記者会見を開催し、モンゴルにおいて新たに1名の新型コロナウイルス感染者が確認されたと発表しました。これでモンゴルの感染者は何人になったと思われます?なんと10人です!しかも、10人の感染者全員がチャーター機で帰ってきたモンゴル人と、移動禁止の命令を聞かなかったフランス人です。つまり国内感染者は0。私は件の馬乳酒がウイルス感染の防止に役立ってるのでは?と思ってます。と、云うのも馬乳酒には胃炎、胃潰瘍、腸炎といった消化器系、さらに糖尿病や高血圧といった生活習慣病に対して効果があるとされてます。その上に結核やウイルス性肺炎といった呼吸器系の病気にも効果が確認されているのです。北京農業大学の研究では、馬乳酒には12種類の人体必須微量元素、18種類のアミノ酸、数種類のビタミン群が含まれているそうです。ただモンゴルツアーを組む旅行代理店では「日本人が飲みすぎると下痢をおこす可能性がある」として注意を喚起しています。
Apr 25, 2020
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19世紀にジェームス・ミランダ・バリーと云う優れたイギリス人外科医がいました。上水菅の改善や糞便と病気の関連性に注目し、アフリカ大陸で猛威を振るったコレラやハンセン病などの疫病の蔓延を防止したことで知られています。また、世界で初めて母子共に救った帝王切開手術を成功させた医師でもありました。ジェームスは、エジンバラ大学の医学部を卒業した一握りの優秀な生徒の1人でした。学業修了後は軍医として、当時大英帝国の植民地下にあった様々な国で経験を積み、赴任先のジャマイカ、インド、クリミア、南アフリカなど、行く先々で功績を残しています。それ以前は医療施設が一切無かった未開の地に病院を設立し、コレラの蔓延を防ぎ、様々な外科手術に対応しました。特に南アフリカでは、大英帝国の総督として南アフリカのケープ植民地を統括したチャールズ・サマセットとも親交があり、軍医としては最高の地位である全国病院総括監察官にまで上り詰めました。この医師が1865年に亡くなったとき、遺体の処置を担当した家政婦がある衝撃的な発見をします。英国海軍の軍医ジェームス・ミランダ・バリーは、なんと女性だったのです!ジェームス・ミランダ・バリーの本名は、マーガレット・アン・バルクレーでした。アイルランドのコークで1789年に生まれたマーガレット。幼少の頃からその利発さは誰もが認めるほどで、後にマーガレットが名前を拝借することになる叔父のジェームス・バリーと、その親しい友人で著名なベネズエラの革命家にして、スペインからのベネズエラ独立運動を行ったフランシスコ・ミランダは、医師になる夢を持っていたマーガレットを支援してくれました。しかし、マーガレットが医師になるには、大きな障害が待っていたのです。この時代、杜会の申枢を担ったブルジョワジーである中流階級では仕事と家庭が分離していて、妻は仕事で疲れた夫に安らぎと慰めを与え,子どもを育てることに専念して,家庭を守るというのが,社会通念だったのです。確かに1789年に起こったフランス革命や18世紀末に起こって19世紀に完成した産業革命の経済的変化によって女性の地位は多少向上してましたが、まだまだ医学分野で女性が学ぶことを社会風潮として認めてなかった時代です。そこで立ちはだかった難関を超えるためマーガレットは叔父の名前を名乗り、男性として性別を偽ることにしたのです。フランシスコ・ミランダは、ミランダに医療研修期間が終了した暁にはベネズエラへの渡航を支援すると約束してくれました。べネズエラは女性が医者として開業することが可能だったためです。ところがミランダはカディスでスペイン王国軍に捕えられてしまうのです。そして自由を与えられないまま、裁判中途にスペインのサン・フェルナンドで亡くなってしまいます。これ以降、マーガレットは、自分の本当の正体を生涯隠し続けなければいけなくなってしまったのです。マーガレットは国内で身元が割れることを防ぐため、軍医として外国に渡る決意をしました。女性であることを隠そうと努めましたが、なかには男性であることを疑う発言をした人物もいて、その人物にピストルを向けたこともあったそうです。マーガレットはイギリスに帰国した1864年、程なくして亡くなりました。マーガレットが亡くなったとき、女性であることに気づいた家政婦は遺体のお腹に妊娠の痕跡を見つけています。マーガレットは、少なくとも一度は出産を経験したと思われるのです。しかし子供の父親は誰なのか、全く分かっていません。死後、本当の性別が判明すると、マーガレットが医療の分野で成し遂げた功績や成功はスキャンダルの陰に霞んでしまうことになります。現代では考えられないことですが、150年以上前は、イギリスにおいてさえも女性の地位はこんなに低かったのですね。
Apr 12, 2022
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ジャン・ギシャールと云う有名な灯台撮りの写真家がいます。そう岬の先端なんかに設置されて、船の航行目標になる灯台です。彼が1989年に撮影した「ラ・ジュマン(La Jument)」と云う写真は傑作作品として世界的に有名なんですな。さっそく、その画像を見ていただきましょう。撮影は暴風雨の中で行われました。スゴイ波でしょう。この波なのに、灯台の外に人が立ってるのが分かります。この人は灯台守で、ギシャールが飛ばした撮影のためのヘリコプターを救助ヘリコプターと思って外に出てきた灯台守です。この灯台はフランスはブルターニュ地方にあるラ・ジュマン灯台です。この地方は大西洋に突出した半島が連なる地域で、北にイギリス海峡、南にはビスケー湾に面しています。海岸線は秋から冬にかけて暴風雨に見舞われ、この海域の巨大な波と強い流れで、ヨーロッパで最も危険な海域の1つとされているのです。この海域では1888年~1904年の間に31隻もの船が遭難してます。灯台の建設が計画されたのは、1896年にグラスゴーで建造された蒸気船SSドラモンド号が難破し、約250人が死亡したのがきっかけです。しかも建設資金は裕福なフランス人資産家による個人資金だったのです。建設は1904年に始まりましたが、激しい嵐、巨大な波、強い潮流が頻繁に発生する厳しい海域のため工事が難航し、完成したのは1911年です。ギシャールがラ・ジュマン灯台を撮影した1989年は最もひどい嵐が来襲した年です。アイルランドからの低気圧の前線が強風と高さ20~30m の巨大な波をもたらし、灯台めがけて衝突を繰り返したのです。このときの波は灯台の下の窓を打ち破り、正面玄関を破損させ、塔を浸水させた上、家具を海中へと洗い流してしまったほどです。冒頭写真。ギシャールの乗ったヘリコプターがラ・ジュマン灯台に到着し、撮影のためにホバリングしてたときです。灯台の中では、灯台守テオドール・マルゴーンがヘリコプターの音を聞き、救助だと勘違いして階下に行って外に出たとき...その瞬間、灯台背後に巨大な波が覆いかぶさり、これが世界的に有名なショットの瞬間になったのです。マルゴーンは、巨大な波が灯台を飲み込もうとしていることに気づき、寸前のところで中に戻ってます。その後、マルゴーンは別に飛来した救助ヘリコプターによって助け出されてます。ラ・ジュマン灯台は1991年に自動化されました。灯台守が必要なくなったのです。この灯台は2017年に歴史的建造物に指定されてます。
Apr 24, 2022
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絵画や彫刻など美術作品はそれを見る個々人の感性によって価値観の違いがとりわけ大きいものですね。まぁ、それを云ってみれば、どんなモノでも。例えば世界最大のダイヤモンド原石と云われる「カリナン」なんて3,106.75カラット(621.35g )もありますが、私にしたら「それがど~した」でしかない。それよりスタバの"抹茶クリーム フラペチーノ」の方がよっぽど価値観あります。そんなだから芸術作品なんて、ある人から見たら1億円出しても欲しいものが、ある人にはただの落書きにもなってしまう。きょうは、そんな「落書き」ぢゃないの? と思うような絵画の中から、オークションで1億円越えした作品のご紹介。先ずはイタリアの芸術家ルーチョ・フォンタナの「空間概念」シリーズの1つ「期待」から。これが、その作品です。落札額は1億4,000万円でした。フォンタナは、前衛芸術運動にさまざまな影響を与えた点で、20世紀美術史上重要な位置を占める作家なんですな。この作家さん、キャンバスを切り裂いたり、穴を開けたりした作品が有名です。フォンタナの作品に驚かされたら、こっちのドイツ人芸術家ゲルハルト・リヒターの作品はもっと驚きますよ。これの落札額は1億円です。作品名は「ブラッド・レッド・ミラー」。リヒターは現在、世界で最も注目を集める芸術家のひとりで「ドイツ最高峰の画家」と呼ばれています。2012年にオークションにかけられた絵画は、現存作家として最高額の26億9,000万円で落札されてます。終戦後の抽象表現主義作家のなかで色面の輪郭が目立つ作風、いわゆる「ハード・エッジ」絵画で代表的な作家のひとりがエルズワース・ケリーです。ハード・エッジは、くっきりとした幾何学的形態の色面、色相対比を意識した色の組み合わせ、変形キャンヴァスの使用などにより、形態と色彩という視覚的効果を訴求する作品です。そのエルズワース・ケリーの作品で1億5,000万円の値がついた作品がコレ!「権利を獲得する」と云うタイトルが付けられてますが、どこが権利なのかチンプンカンプン...ケリーの作品は数多くの似たようなものが多い。これって、めっちゃ省エネですよね。マーク・ロスコと云うロシア人作家がいました。抽象表現主義の代表的な画家で、日本でも「深い精神性を持つ」と高く評価されてる(らしい)作家なんですが、この人は「無題」と題した(?)作品が多い。その無題作品のひとつに26億3,000万円もの値がつけられたのがあります。ロスコの探求は「現代人の精神的な空虚を和らげる」と云うことらしい。ロスコはいろんな美術館で分散展示することを嫌い、ひとつの美術館に多くの作品を集中的に展示することにこだわりました。そのため、彼の作品のほとんどは世界中で3つの美術館で所蔵されてます。ロンドンのテート・モダン(テート・ギャラリー)、ワシントンのフィリップス・コレクション、そして千葉県佐倉市のDIC川村記念美術館です。ブリンキー・パレルモと云うドイツの抽象画家。ニューヨークでの活動を終えて、西ドイツへ戻った矢先の1977年、旅行で訪れたモルディブ諸島にて33歳で突然その生涯を閉じてしまいました。パレルモは、よく単色の帆布と、フレーム上でカット、ステッチ、ストレッチされた単純な長さの色の付いた布素材で作られた「ファブリックペインティング」で知られていました。またアルミニウム、鋼、木、紙などにも絵を描いていて、絵の具の代わりにテープで線を引いたりもしてました。下の作品が2010年、サザビーズで1億6,000万円で落札されたパレルモの「無題」作品です。50年代末~60年代にかけて、アメリカを中心に活発となった抽象絵画の一動向に「カラーフィールド・ペインティング」と云うものがあります。キャンバスに何が描かれてるか明確にせず、キャンバス全体を色数の少ない大きな色彩の面で塗りこめると云う作法です。アメリカ人のバーネット・ニューマンがその作家のひとりで、彼の「White Fire」シリーズの1作目は3億6,000万円で落札されました。タイトルの「White Fire」は「見る者に精神の深淵にある感覚を訴えかける」ユダヤ教の言葉らしいです。私には分かりません!(笑)こちらは9億4,000万円の値がつけられたニューマンの「Black Fire I」お次は究極の"落書き"です。落札額は2億2,000万円!アメリカのサイ・トゥオンブリーの作品です。しかし、この作品には敵いませんな。ポップアートの旗手"アンディ・ウォーホル"が1963年に発表した「トリプル・エルビス」と云う作品。こんなチンケな(失礼)作品が91億5,000万円なんですから。
Oct 9, 2021
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絶世の美女と云うと、クレオパトラか楊貴妃か?そうそう、私ら日本人は小野小町も世界3大美人のひとりにあげてますなぁ。と昔ながらの連想しかできないのは、私ら高齢者のオジンくらいでしょう。だいたい小野小町って、生存時に描かれた絵や彫像は現存してないのに、なんで美人と?明治時代の政治家、陸奥宗光の妻"陸奥亮子"はその美貌と聡明さによって「ワシントン社交界の華」と呼ばれました。 まぁ、美人の解釈も国や時代によって変化しますからねぇ。「Ranker」というウエブサイトで「ハリウッドで最も美しい女優」と云うランキングコンテストには約1万人が参加しました。が...3位がブリジット・バルドーで、2位がグレース・ケリー、そして栄えある1位は...オードリー・ヘップバーンでした。投票したのが高齢者多かったのかしら?しかしグレース・ケリーは別にして、ブリジット・バルドーもオードリー・ヘップバーンもあまりに個性的な顔で好き嫌い分かれると思うのですが。12位のシャーリーズ・セロンの方がよっぽど万人受けすると思うのですよね。ところが、あまねく歴史的な美女がみんな吹っ飛ぶ19世紀のペルシャ、現在のイランを中心に支配したガージャール朝のお姫さまがいたんですね。このお姫さまのスゴイとこは、なんと生涯に145人にも及ぶ求婚者が存在したことです。お姫さまの名前は、ザラ・カヌン・タジエ・サルタネ。145人の求婚者のうち、13名の男性が姫の気を引こうとして自ら命を絶ったと云われてるくらいモテモテだったそうな。ペルシャで絶世の美女と云えば...例えば、こんな顔?それとも、こんなかなぁ?ザラ・カヌン・タジエ・サルタネ姫の写真が残っているのでご覧ください。誰が、アラブのオッサンの写真だせぇて云うてんねん!いえいえ、これがガージャール朝のお姫さまですよ~別の写真を見たら分かります。胸元みたら確かに女性だけど、このひと口ヒゲ生えてますがな。ひょっとして...ニューハーフ?ではなくて立派な女性なんですが、毛深かったようですな。いずれにしても、イスラム圏特有の美意識には驚かされますなぁ。容姿を見ると、コレですよ~えらいモン見てしまったでしょ(笑)これで19世紀初期のガージャール朝では、美の象徴と考えられていた人物なんです。この時代、眉毛が濃くつながっている女性が魅力的だったようで、今でも中央アジアのタジキスタンでは「太く長い眉毛をもった女性が美人」とされてます。また貧しい時代では、太った裕福な女性が魅力的だったようです。ただザラ・カヌン・タジエ・サルタネは、女性の平等な権利のために活動してたようで、この時代では先進的だったのですね。
May 29, 2022
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1911年、アメリカのデトロイトにヘンダーソンモーターサイクル株式会社が作られました。。兄ウイリアムGヘンダーソンと弟のトムWヘンダーソンの2人で作った会社です。排気量は780cc からのちに1,076cc に拡大され、時速100km 出す事が出来たそうです。しかし1917年にヘンダーソン社はエキセルシャー社に買収されてしまい、ヘンダーソン・エキセルシャーモーターサイクル社となりました。一時はヘンダーソンの特徴でもある持久力とスピード性能に良さから警察のパトロールバイクを製造していたのですが、1931年の大恐慌に巻き込まれ、突然閉鎖してしまいます。ヘンダーソン社に1930 Streamlinerと云う車種がありました。この1930 StreamlinerをベースにO Ray Courtneyさんという方がカスタムバイクを作ったのですが、これが尋常ぢゃ無い美しさ!めぐりめぐってニューヨークのバイク・コレクターFrank Westfall氏が入手して自身のバイクコレクション「1930 KJ Henderson Custom Motorcycle」として発表したため日の目を見ることになったのです。カスタムした当時はアール・ヌーヴォーから派生した、アールデコが華やかなりし時代。工場で生産される物のデザインにもアールデコの影響は色濃く、日用品からインテリア、そして車やバイクに至るまで、美しい物が生み出された時代なんですね。そんな時代に生み出されたバイクでもこれは傑作!まさにアールデコそのもの。メカメカしい部分は全部隠すと云う荒業を繰り出し、関係者をびっくりさせたらしいです。1,200cc 直列4気筒エンジン、最高時速160km でます。中之島公園の猫たち-SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK-」整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。
Nov 15, 2016
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とても実現しそうになかろうと考えられてたパワードスーツや人工知能(AI)なども今や現実のものとなった科学技術。でも理論的に絶対ムリってのが特にSF映画の世界ではよく登場します。と云ってたら、そのうち出来たりして...いえいえ、ムリはムリです。映画「スター・ウォーズ」に登場してくる"ライトセーバー"。全長30cm ほどの金属製の柄から起動すると長さ1m ほどの尖形状ビームが形成されますな。このプラズマの刃は物体に接触したときにのみ熱エネルギーを放出し、その物体を溶断するのです。しかしライトセーバーは現実には出来ません。なぜなら光線(ビーム)は遮断されるものが無いかぎり永遠に伸びるので、ライトセーバーのように一定の長さで止めることは無理です。また光線同士は互いにすり抜ける性質を持っている為、剣のような打ち合いもできない。だからスター・ウォーズにはウソがある。それにビーム自体の熱は、かなりの高温となってますから、持っている手は溶けてしまうハズです。テレポテーション映画「スター・トレック」では、頻繁に宇宙船エンタープライズと地上や他の宇宙船間でテレポテーションがおこなわれてます。次に述べますが、量子テレポテーションは実験室レベルでは実証されているのです。しかし、膨大な距離を超えて光子のペアが生まれるのと、人間の体すべてをテレポテーションするのは別の話です。スター・トレックのテレポテーションは「破壊的なコピー」を含んでおり、 ソースとなる人間が消失する必要があることを意味します。もしテレポーテーションが実現可能な場合でも、それが自殺マシンになってしまう問題が解決されていないのです。単純に考えて、テレポーテーションにかかる物理的及びエネルギー的な要求量は実現不可能なんですな。そのシステムは瞬時に、スキャンと記録と、人間の体を再構築するための10の45乗バイトの情報全ての中継と読み取りを行える必要があり、 目的地にデータを送り届け、最後に一分子の漏れなく完璧に人間を再構築しなければならないからです。では実証された実験室レベルとはどんなものでしょう?オランダのデルフト工科大学のハンソン教授率いる研究チームは、窒素原子を使った量子テレポーテーション実験を行い、3m 離れた2つの地点の原子"粒子"の情報の伝達に100%の精度で成功したと云うのです。量子テレポーテーションとは、古典的な情報伝達手段と量子もつれの効果を利用して、離れた場所に量子状態を瞬間移動することらしいです。量子もつれの関係にある2つの量子のうち、片一方の状態が観測されると、瞬時にもう一方の状態が確定すると云うのが理論(なんのことか分かりません)。ハンソン教授は、人間をひとつの原子の集合体と捉えれば、原子の集合体のテレポートも可能であると云ってます。つまり物理法則的には、人間など大きな物体の移動も可能であるということ。「実際に瞬間移動が可能なのかというとまだ非常に難しい段階だが、だからといって不可能の一言で片付けてしまうのは間違っている。瞬間移動を妨げる法則はないため可能なはずである。いつか遠い未来、実現可能となるはずである。しかし光より速く移動しなければならないので、そこが難点である。」と語っている。次のデルフト工科大学のプロジェクトは大学キャンバス内の1,300m 離れた2つの地点で量子テレポーテーションを行う大規模な実験を行う予定らしいです。しかしハンソン教授の言とは裏腹に、人体テレポーテーションとなると理論的には可能でも、テレポーテーションにかかる物理的及びエネルギー的な要求量が大きすぎて現実的ではないという話もあります。それよりも現代のスーパーコンピューターを上回る性能をもつ量子コンピューター同士をつなげる量子インターネットの開発に大きな飛躍が期待されるのです。って、ここのくだりは難しすぎましたな(笑)そんな大掛かりな実験をするまでもなく、テレポーテション現象が実際におこった模様がYouTube に掲出されてます。ところはロシア。タイトルには「The first teleportation in Russia」(ロシア初のテレポーテーション)と書いてます。どのような映像なのかというと...アコーディオンを持った若者とオジサンが何やら話しています。と、その直後!突然、オジサンの背後から自転車に乗ったおじいちゃんが出現するのです!アインシュタインの理論によると、概念的には「ワームホール」が空間と時間の2つの異なる領域を接続できることを示唆しており、タイムマシーンを作り出せるされる可能性を示しています。しかし実際にはかないそうもない。物理学者の加來道雄によると、タイムマシーンを作るには、まず全ての星々やブラックホールのエネルギーを抽出する必要があります。そこではワームホールの固定とそれに対する出口(もしくはワームホールの入り口)を確定し、旅行に向けてそれらを開けたままにしておくことが必要なんです。「祖父のパラドックス」はあなた自身の祖先を殺すテクノロジが存在できないことを示しています。なぜならそれは宇宙の法則を打ち破るからです。しかし、それよりも更に考慮すべき難解なパラドックスがあるのです。タイムトラベラーは全て未来からやってくるのでしょうか?ワープ!超光速航法とも呼ばれていますな。ワープは宇宙船が光速を超える速さで航行するための技術です。タイムトラベルとは異なり、少なくとも幾つかは実現可能な科学技術が背景にあります。しかしアインシュタインの相対性理論によると、物体の相対論的質量は速度が上がるに従って増加し、光速において無限大となるのです。このため、単純に加速を続けても光速に達することも、光速を越えることもできない。この「光速を越えることができない」がネックとなっているのですな。ワープは1997年、タフツ大学のフェニング博士が論文を提出し、 宇宙物理学上では不可能という結論に至っています。映画「スタートレック」には重力シールドなるものも頻繁に登場します。日本的に云うと「バリヤー」ですな。このバリヤーは重力子を放出させ、空間を局所的に弯曲させる事によって、物理的な力に対して強力な反発力が発生する力場を形成。宇宙塵や敵の攻撃が船体にぶつかることを防ぐ為のシールドのことです。しかし物質にある基本的な性質を無視している限り、このシールドはサイエンス フィクションの領域内なんですな。こんどは現実に実験がおこなわれている事象について。人間の冷凍保存、解凍のことです。 我々は、いつか必ず冷凍保存された脳を生き返らせることができると信じています。しかしながら、この技術を実現させるためには、情報理論的な「脳死」と呼ばれている事象を避けるために、脳が完全に保存されている必要があるということなんです。簡単に言えば、脳細胞への多大な損害があるなら、完璧に戻す方法はありません。そして、残念なことに、実質的に、今日まで行われたあらゆる人体冷凍保存実験では問題を生じているのです。アメリカはミシガン州にあるクライオニクス研究所は、遺体を冷凍保存するための施設であり、1962年に「不死への展望」を執筆し、「人体冷凍保存の父」として知られる、ロバート・エッチンガーが設立に携わった施設です。全米には既にいくつかの冷凍保存施設があります。クライオニクス研究所では冷凍保存に興味を持った人々に、施設内を見学できるツアーを随時行っているのです。冷凍には液体窒素を使用され、人体は常時マイナス200度に保たれています。遺体を収納するユニットは断熱処理が施されており、万が一停電が起きても冷凍状態を維持できるようになっているのです。死後冷凍の契約を結んでいる会員は500人に達すると云われています。そして既に100人以上の会員がこの施設で冷凍状態で眠っているのです。冷凍保存にかかる費用は1体300万円ほど。アメリカの他の冷凍保存施設と比べると格安の値段です。冷凍保存には問題点も多くあります。低温環境に順応しない人間を冷凍すれば、解凍したときにすべての細胞が破壊されてしまう可能性があるからです。他の冷凍保存業者では不測の事態に備えて、冷凍のプロセスに工夫を施しています。遺体からまず血液を抜きとって、昆虫やカエルなどが備えている凍害保護物質のような不凍液物質に置き換えるところもあるほどです。頭部だけを冷凍保存しているところもあります。しかしクライオニクス研究所では一貫して全身まるごとそのままの冷凍保存の方法を貫いているのです。冷凍保存のテクノロジーはここ6年間でわずかしか進歩していません。しかし冷凍保存信者にとっては、いかなる科学の進歩もそれに関連づけてしまう傾向があるようで、科学技術が拡大と発展を続ける限り、冷凍保存はさらに現実的なものになっていくと確信しているのです。ナノテクノロジーや合成生物学などの分野での発展が全て解決してくれると。 しかしこの問題の解決方法が見つかって、蘇生ができたとしても、冷凍保存されてる間に自分の親戚、知人はみんな死んでます。そんなんでも生きたいですかね?最後に残った問題はもっとも厄介なものです。精神転送(精神アップロード)。記憶だけでなく「意識」そのものをコンピュータに移し替えることができるか?私たちの記憶を コンピューターに移し替えることは可能性ありそうです。しかし意識(精神)を移し替えることができるかどうかは未解決の問題です。ロボット工学を使った身体に精神をアップロードすることは、人工知能の目標の1つとされることもありますが、この場合、脳が物理的にロボットの身体に移植されるのではなく、意識を記録して、それを新たなロボットの頭脳に転送すると云うことになります。今のところ精神の状態を複製できるほど精密に記録する技術は無く、またコンピュータ上で精神をシミュレートするのにどれだけの計算能力と記憶容量を必要とするかも分かっていません。中之島公園の猫たち-SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK-」整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。
Jan 21, 2017
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もう消えてしまったカメラメーカーと云えば、最も有名なのはコニカ(Konica)でしょう。ここは2003年にミノルタと合併してから、カメラ、フィルム関連事業から撤退してしまいました。そのミノルタは日本の光学機器メーカーとしてはコニカに次いで2番目に古い歴史を持ちますが、経営統合などでコニカミノルタとなっています。もうひとつ「ヤシカ(Yashica)」がありました。この会社は1949年~1983年まで長野県に存在した会社で、旧社名は「八洲精機」や「八洲光学精機」。ヤシカフレックスみたいな「2眼レフ」は昔、日本のいろんなメーカーが作っていました。上のレンズで被写体を確認して、下のレンズで撮る構造ですね。上と下のレンズは繋がっているので、上でピントあわせすると、ちゃんと下でもピントがあってる構造です。画像は私も愛用していた「マミヤC330」。普通、2眼レフはレンズの交換ができないのですが、このマミヤの2眼レフだけは広角から望遠までレンズ交換できるすぐれもので、世界で唯一の機能でした。レンズは上下セットで交換する仕組みです。このマミヤと云う会社は釣り具の「オリムピック」と1940年に創設された「マミヤ光機」が合併してできた会社です。レンズ交換式6×9判レンジファインダーカメラ「マミヤプレス」とか、6×7判一眼レフ「マミヤRB67」、6×4.5判の一眼レフ「マミヤM645」やそれを電子化した「マミヤRZ67」など中判カメラに優れたものが多かった会社です。しかし最近になって、デンマークのコペンハーゲンに本社を置く「フェーズワン」に買収されてしまいました。フェイズワンは自分とこのブランド「Phase one 645DF+」と云うとてつもない高性能なプロ用カメラを販売してますが、もとはと云えばマミヤの「645DF+」と云うマミヤの最新プロ用カメラでした。ミノルタにも優れた2眼レフがありました。このカメラの魅力は、日本製の2眼レフカメラの中で間違いなく最高峰のレンズを搭載していることです。1950年~60年代にかけて製造されたカメラで、プロでも使ってる人が多くいました。現在も続いているリコー(RICHO)も昔は2眼レフを作っています。「リコーフレックス」1953年に発売されて、あまりの人気にプレミアがつくまでになったカメラです。現在では使われていない、板金溶接の構造を採ったボディで作られました。元々は大戦前ドイツのレクタフレックスをモデルに設計です。このカメラはカメラ上のファインダーレンズと下の撮影レンズの前レンズをギアでかみ合わせ、レンズのまわりのネジを連動回転させてフォーカスする構造と云う珍しい構造をとってます。他に消えてしまった会社で優れたカメラを作ってた有名なのはこのふたつですね。ひとつは何と云っても「ゼンザブロニカ」でしょう。私らの年代はある種の憧れを持ってみていたカメラです。ハッセルブラッド(Hasselblad)と云う現在も続いている有名なスウェーデンのカメラメーカーがあります。NASAのアポロ計画に関する写真のなかで最も有名なものは、すべてハッセルブラッド社製のカメラで撮影されたものと云うくらい優れたカメラを製造します。もちろんプロ用で、お値段もとびきり高い。そのハッセルブラッドを超えようとして出てきた国産の6×6判1眼レフがゼンザブロニカなんです。形そのものがハッセルブラッドです。ただゼンザブロニカはフイルムの巻き上げ機構が悪かったり、シャッターの故障が多かったと云います。それより何より、シャッター音が大きく、実写テストをした写真家の木村伊兵衛は「家の庭に植木屋が入ってね。剪定をしているところを下から狙ったんだが、シャッター音のあまりの大きさに、やっこさん腰を抜かして落ちてきた」と講評しているくらいです。もうひとつ有名なカメラは「コーワ6」。こっちは純粋にアマチュア用だけど、ちゃんと6×6一眼レフ。遮光用のモルトっていう黒いスポンジがカメラの中に貼りまくられて、モルトのかたまりみたいなカメラです。このカメラを作ったメーカーは今も存在してます。キャベジンやウナコーワなどでおなじみ、医薬品の「興和」です。実はコーワは1970年代までカメラのメーカーで、コーワ6みたいな中判カメラとか35mm カメラ「カロワイド」などを製造してました。コーワ6はまるでレンズが1つしかない2眼レフのような、縦に伸びたスタイルが特徴的です。実は日本初のレンズシャッター式中判1眼レフなんです。このコーワ、カメラを作り始めたのは、愛知県に本拠を置いている地縁によるものでした。もともとは紡績会社だったコーワは、戦後相次いで、光学事業と医薬品事業に進出。なかでも、光学事業の立ち上げに関わったのは、職を失った陸軍、海軍の光学技術者たちだったのです。とくに海軍の工場は愛知県の豊川市にあったため、地縁を活かした形だったと云えるでしょう。コーワのカメラは、日本製カメラながら設計はドイツ人。コーワ6の設計を手がけたのは、ドイツ人技術者のハインツ・キルフィットと云う人です。ハインツ・キルフィットはフイルム・カメラ業界ではよく知られた人で、戦前の時点でゼンマイによる自動巻き上げを搭載していたフィルムカメラ「ロボット」の原型を考案したことで知られています。「ペトリ」と云うカメラも有名でした。歴史は古く、創業は1907年(明治40年)。小西六写真工業(現コニカミノルタ)に次ぎ写真機メーカーとして参入しスプリングカメラや2眼レフカメラを製造していました。ペトリと云う社名は輸出を考慮して新約聖書の「聖ペトロ」から命名されました。1959年にペトリペンタで1眼レフカメラに参入。60年代には「ニコンのカメラと機能は一緒で価格は半値」という安価な製品を主力に据えたのですが、カメラが「高価な道楽品」という時代では、かえって「安かろう悪かろう」というイメージが定着してしまった不幸なメーカーでした。1977年に倒産しています。こうして昔の日本には家内工業的な中小のカメラメーカーが多数存在してました。その多くがドイツのカメラ「ライカ」のコピー品です。特に1954年に発売されたフィルムカメラの頂点「ライカM3」の影響は大きかった。2眼レフだったら、「ローライ」のコピー品ですね。今では日本海軍と結びつきの強かったニコンを始め、デジタルカメラでニコンを追い越して頂点に立ったキャノン、フイルムメーカーからカメラメーカーに鞍替えした富士フイルム、昔からファンの多いオリンパス(岩合光昭さんもずっとオリンパスです)、レンズメーカーから「Quattro」シリーズのような玄人うけするカメラを製造しているシグマとか、はたまたソニーやパナソニック、カシオみたいに家電メーカーでデジタルカメラを製造してたり。しかし、フイルムカメラの時代に企業活動してて、結局、事業を辞めてしまったメーカーも沢山あります。なかには「チノン」みたいに、一旦コダックに吸収合併されながら、商標権を承継した同名会社も残ってますが。社名継承したチノンは最近になって8ミリシネカメラスタイルのレンズ交換式デジタルビデオカメラ「Bellami HD-1」なんて魅力的な製品を売り出しましたが、これは動画に主力置いた商品ですね。昔のチノンが8mmシネカメラを多く製造してたように。「曽根春翠堂」と云うなんとも古めかしい名前のカメラメーカーがありました。創業は1902年と云いますから、明治35年です。創業したのは東京の神田。ここの製品第1号「アダム(1918年)」なんて、シャッターはなくレンズキャップの着脱により露光する仕組みだったのですから。手札四裁(4×5cm)判のボックスカメラと、なんとも古色蒼然としたカメラです。最後の製品が1920年前後に販売された「コンベックス」と云う一応1眼レフですが、フイルムを使うのではなく乾板。イタリア製の「ミュラーレフレックス」のコピー品でした。かつてレオタックスカメラと云う東京は柴又1丁目にあったカメラメーカーがあります。ここは主にコピーライカを製造していました。レンズは自社生産ではなく、トプコンのトプコールです。トプコンは昔、東京光学と云う社名で、日本海軍が前述のように日本光学(ニコン)、東京光学は陸軍に納入してたのです。このレオタックスカメラの製品第1号は1940年に発売された6×4.5版のスプリングカメラ「セミレオタックス」です。ドイツ「ツァイス・イコン社」のセミネッターと云うカメラをモデルにしたコピー商品です。35mm フィルム使用のカメラはまさにライカのコピーの典型。もう1社、ライカのコピーで有名だったのはニッカカメラ。後々、ヤシカに合併されました。レオタックスがトプコンのレンズを装着してたのとは真逆に、こっちはニコンのニッコール・レンズを装着してました。この会社のカメラは1眼レフの時代が来るまで人気カメラの1つでした。太平洋戦争中、陸軍造兵廠で兵技中尉として光学兵器の生産や修理の監督任務を担当した経験を生かして、戦後、カメラメーカーを興したのが「アイレス写真機製作所」の三橋剛。投資する人が現れて、中古旋盤を1台購入。部品の調達は造兵廠時代の人脈を生かしてレンズは小西六(現コニカミノルタ)、シャッターはセイコーシャを入手しました。折しも、日本では機構がシンプルな2眼レフカメラのブームが到来。この波に乗って売り出されたのが「アイレスフレックス」シリーズです。2眼レフの売れ行きは好調でしたが、三橋剛以下カメラ開発スタッフの決断で35mm カメラ「アイレス35」を発売します。三橋剛はライカM3の距離計ファインダーが、昔、造兵廠で「11S」と呼ばれていた戦闘機機関砲用照準具と同じ機構であることに着目し、その光学系を利用したブライトフレームを持つ2重像合致式距離計ファインダーを設計。このファインダーは「トリミングファインダー」と呼ばれて好評を博し、35mmカメラの分野でもアイレスの地位が確立したのです。1959年にはレンズシャッター式1眼レフ「アイレスペンタ35」を発表します。このカメラはレンズ交換ができず、交換レンズの代わりに広角36mm、望遠90mmのフロントコンバージョンレンズと、接写用アタッチメントレンズが発売されました。しかし、次々新製品を出すが事業継続不能に陥り、1960年に倒産しています。銀座の服部時計店が発売元になってる長野県岡谷市に存在したカメラメーカーが「岡谷光学機械」。一貫して35mm フイルムカメラばかり製作していて、品質は低くなく、中堅メーカーとして知られました。最初の作品は1953年の「ロード35I」で、1960年に販売された「ロードマーシャン」が最後となります。キャノンに吸収合併されて存在しなくなった会社に「三栄産業」と云うカメラメーカーがあります。社長は理研光学(現リコー)でステキーを設計していた人物で、最初は露出計などを製造していました。1952年に6,800円と云う驚異的な低価格で「サモカI」を発売してカメラ本体生産に参入、レンズシャッターカメラの大衆化を先導したのです。しかし大手メーカーが相次いでレンズシャッターコンパクトカメラに参入してくる中で経営は悪化し、社長は自殺すると云う不幸な経緯があります。戦前からワルタックスというスプリングカメラを製造していた会社に「第一光学」があります。結局、1958年に破たんしましたが、スプリングカメラ、2眼レフカメラ、35mmカメラを製造し、いずれも当時の日本製品としては良質で、中堅メーカーとして評価されていました。2眼レフの黄金期には「AからZまで2眼レフが揃っている」と云われたことがありますが、Zで始まる2眼レフは第一光学の「ゼノビアフレックス」のみです。最初の商品は1953年に発売された「ゼノビアフレックスI」でした。120フィルム使用のスプリングカメラで、いちばん最後の商品となったゼノビアSR(1955年発売)は、長年築いてきた技術が結集しバランスの取れた丈夫な作りで、各部分も円滑に作動する優れたカメラでした。田中光学は元々シネ用レンズやアクセサリー、ライカ用アクセサリーを製造する会社でしたが、1953年(昭和28年)にコピーライカの「タナック」を発売してカメラメーカーになりました。1959年に倒産しています。画像は1958年に販売された最後のタナック、「タナックV3」。ライカマウントアダプターを介してライカマウントレンズを装着して販売されました。今では中古市場で何十万円もします。世界で初めて完全自動絞りを採用したカメラが「ズノーペンタフレックス」で、1958年に発売されました。今はヤシカに経営統合された「ズノー光学工業株式会社」の製品です。ズノーペンタフレックスの設計者はかつて千代田光学(現コニカミノルタ)でミノルタ35の開発に携わり、その後もさまざまなカメラの設計に関わった荒尾清です。このカメラはクイックリターンミラーを装備し、シャッターは一軸不回転式で全速中間シャッターが使用可能。巻き上げレバーによる巻き上げ、巻き戻しクランクによる巻き戻しが可能なほか、裏蓋が蝶番式で開閉可能と機構的には先進的でした。設計者の荒尾清にとってこれが初めての35mm1眼レフの設計で、仕方が分からず当時唯一のペンタプリズム1眼レフであったミランダカメラのミランダTを模倣しています。実際に製造されたのは500台以下で、製品として販売されたのはそのうち200台程度と云う幻のカメラです。東京光学(現トプコン)出身の技術者 車田利夫が1951年に創業したのが「ノリタ光学」。「ゼンザノン」ブランドでゼンザブロニカにOEM供給していたことでも知られています。OEM納入先であった武蔵野光機(現ウイスタ)が倒産した際に「リトレック6」シリーズを生産設備や人員ごと引き取って改良し、「ノリタ66」として生産を開始する形でカメラメーカーとなりました。結局、販売がふるわず2005年に解散しています。戦後に日本光学工業(現ニコン)の疎開工場であった長野県の塩尻工場を分離独立して、引き継いだ形で設立されたのが「八陽光学工業」ヤシカの低価格2眼レフに対抗できず1955年に廃業しています。「アルペンフレックス」は1952年に初号機が発売されてから、1955年の最終モデルまで7機種発売されています。銘柄板がアルペンを意識した山型のでっぱりで、このカメラのスタイル的な特徴になっています。レンズには日本光学の素材が使用されている点が特徴でした。同じく八陽光学工業が販売してた35mm フィルム使用のカメラで1954年に発売した「ステレオアルペン」ってのもあります。これは珍しい"ステレオカメラ"です。当時の価格が35,000円。当時、公務員の大卒初任給が8,700円、高卒だと5,900円、喫茶店のコーヒーが40円の時代でした。1952年に設立されたのが「パノンカメラ商工」。シャッターを押すとレンズが首を振り、レンズ後方スリットがフィルム直前を走査する方式で露光するパノラマ・カメラを日本で初めて製造し、そのタイプを専業にしていた会社です。120フィルムと35mm フイルム、どちらのカメラも生産してました。画像は35mm 版の「ワイドラックスFVI」で、1964年発売のものです。「藤田光学工業」は1928年にレンズメーカーとして出発しました。1954年に6×6cm判1眼レフカメラの試作を始め、1956年アメリカ向けにカメラ名「カリマーレフレックス(Kalimar Reflex)」の名前で生産を開始しました。これが国内向けには「フジタ66」として発売したのですね。2眼レフカメラを縦に圧縮したような形状のフジタ66は1964年の形式が最終となりました。「ミランダカメラ」は名前を聞いた方もおありでしょう。国産初のペンタプリズム式1眼レフカメラである「ミランダT」が有名なメーカーです。イギリスの家電量販店、DIXONSで1980年頃から販売されたカメラです。DIXONSの1眼レフ用レンズマウントはペンタックスKマウントです。ここで扱うほとんどのカメラは日本製ですが、日本で正式に販売されたことは1度もありません。このカメラの設計者は東京帝国大学(東京大学)工学部航空工学科を卒業した人で、黎明期のロケット、ジェット機の開発に携わった技術者です。1955年に市販されたミランダTを機にオリオンカメラ、そしてミランダカメラと社名を変更していきました。ミランダカメラ本社は東京都狛江市。戦後雨後のタケノコのように現れたカメラメーカーの中では群を抜いた技術力と品質を持ち、好調な輸出にも支えられ大成功した企業の1つでした。しかし、国内では既成カメラメーカーの厚い販売網に阻まれ苦戦。ミランダカメラが最後に発売した一眼レフカメラ、国内では1975年のミランダdx-3が最後の製品とされています。
Feb 18, 2019
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インドを旅行する日本人でも、なかなか知られてない南インドのレパクシの街日本でインドと云うと必ず「タージ・マハル」や「ベナレス」そして「サーンチー」など北の観光地ばかりが話題になりますが、タージ・マハルはイスラム文化遺産だし、サーンチーは仏教遺跡。純粋なヒンドゥー文化は南インドに集中しているのですね。 レパクシは、インドのハイテク産業中心地バンガロールの北120km にあって、ヴィジャヤ14世紀~17世紀中頃まで栄えたナガル王国時代の魅力的な寺院が有名です。シヴァ神やヴィシュヌ神、ベアーラブハドラ神を祀ったヴィーラバドラ寺院で有名なとこです。ヴィジャヤナガル様式で建てられた寺院には、見事な彫刻やホウガンノキに乗った蛇の絵など壁画の数々があるヒンズー教の寺院です。寺院は、シヴァ神の凶暴な化身であるヴィラバドラを祀っています。ヴィラバドラ寺院の中央聖域の南東にあるシヴァリンガムにそびえ立つ7頭の巨大なヘビ。リンガの周りを3周し、保護の仕草としてリンガの上に上がってます。ヴィーラバドラ寺院に向かう途中の巨大な彫刻は一枚の花崗岩から作られ、長さ8m 、高さ4.5m もあります。インド最大の一枚岩ナンディ彫刻とみなされています。寺院のセレモニーホールとダンスホールは、ダンサーやミュージシャンを描いた彫刻が施された壮大な石柱で装飾されてます。天井、壁、柱を覆う何百もの壁画には、叙事詩マハーバーラタやラーマーヤナ、プラーナなどを題材にして。天井に描かれたフレスコ画は7.5m ✕4.2m もあり世界最大とされてます。シータの足跡は、人間の足サイズより何倍も大きく、ヴァナラ族と神の夫婦シータ・ラーマを表現してます。伝説によると、シータはラーマへの印として足跡を残したそうです。別の伝説では、ハヌマーンは飛んできてこの地面に着陸し、力が強すぎて足が石に打ち付けられたのが足跡として残ったとか。環状列石と云う遺跡もあります。円は規則的な形をしており、どのような目的で彫られたのかは不明なんですね。ヒンズー教徒は「どのように作られたか」には全く興味がなく、レパクシ神の創造物であると考えています。さて、ここから「不思議の国インド」の本領発揮。「アカシャ・スタンバの吊り柱」と云うもの。柱なのに宙に浮いてるのです。なんのために?長年に渡り専門家が解明しようとしましたが、誰も真相をつかめてません。植民地時代にイギリスの技術者が柱を取り外そうとしましたが失敗しました。厳格なヒンドゥー教徒は肉食全般を避けるため、牛、豚、鶏、魚介類全般、卵を食べないそうですね。また仏教徒と同じく「五葷(ごくん)」と呼ばれるネギ科の植物、つまりニンニクやニラ、ラッキョウ、玉ねぎ、アサツキなどは臭いが強いため、修行の妨げになるという理由から食べられません。私から見たら、めんどう臭い宗教ですな(笑)ヒンドゥー教徒はインド国内で10億人、他の国の信者を合わせると約11億人以上とされ、キリスト教、イスラム教に続いて、世界で3番目の信仰している人の多い宗教です。
Oct 21, 2023
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きょうご紹介するのはPCのWebプラウザからスマホなんかのファイルや情報にアクセスできる「AirDroid」です。つまりスマホをPCで操作するアプリ。これまた有名なアプリなので、使っている方は多いでしょうね。登録は極めて簡単。ウエブでにアクセスし新規登録するだけ。登録内容は「メールアドレス」「パスワード」「ニックネーム」の3つだけ。もちろん「パスワード」と「ニックネーム」は自分が決めた任意のものでOKです。もしGoogleアカウントやFacebook、Twitterのアカウントがあれば新規登録しなくっても、それらのアカウントでログインできます。新規登録が終わっていれば、いきなりログイン画面が表示されます。ログイン画面の横には使える機能のメニューが並んでいます。で、このアプリでスマホなんかの携帯端末が何も登録されてないと「デバイスを追加する」の画面が表れて、スマホを登録できます。登録が終われば、PCから登録したスマホなんかが操作できる仕掛けです。利用できるのはスマホのほとんどの機能で「通話履歴」や「SMS」にもアクセスできます。SMSがPCからなのに、あたかもスマホから発信されたように動作するのです。PCからスマホを介して電話もかけられるどころか、着信音の変更までできます。もっとスゴイのが、GPSの位置情報を利用して、スマホの現在地をGoogleマップ上にPCで表示させることができます。無料版にはありませんが、ボーナス版と有料版ではスマホのカメラをリモートでPCから操作して撮影もできます。しかもボーナス版は14日の間だったら無料ときている。ただお友達を共有してAirDroidボーナス機能を入手するだけです。またボーナス版と有料版では紛失したスマホのロックを解除しようとして失敗した人物の顔写真をインカメラで無音撮影することができます。つまり紛失なんかして、拾った人の顔写真が本人には気づかれることなく、PCから撮影できるのです。この辺からこのアプリが使い方によってどんだけ危険か分かるでしょう。もし自分のスマホの情報が第三者に知られてしまうと、知らないうちにスマホがPCに乗っ取られるのです。しかも乗っ取られた人は、全く気づかずスマホを使い続ける。スマホの電源を切っていても、PCの遠隔操作でONにできるし、位置情報の取得やカメラまで作動させられる。LINEなんかのやりとりもつつぬけ。要するにスマホやその他の携帯端末はいくら親しくっても他人には貸さないこと。もし貸したら、決して目を離さないこと。スマホなんかを喫茶店のテーブル上なんかに置いたまま離席しないこと。慣れた人だったらものの5秒でスマホの情報を読み取られてしまいます。落とした時、もし拾得物ででてきたとしてもそのままでは使わないことですね。拾った人がスマホの情報を読み取ってて、AirDroidに登録してから、素知らぬ顔で拾得物として届け出ているかもしれない。AirDroidに登録されてるかどうかは、スマホからは調べる手立てがないのですから。パパゴリラ!さん、「Dropbox」と「Sync」は全く機能が違いますよ~「Dropbox」はネット上にハードディスクを持つようなものです。写真投稿サイト(貼る蔵なんかの)と同じですが、あれは画像専用。「Dropbox」はExcleやWordなどのオフィス文書から、音楽までなんでも保存できます。「Sync」はPCのWebプラウザで使っている「ブックマーク」なんかを「Android」に自動的に移植するものです。どっちもPCと同期しているので、PCの設定が変わるとそのまま「Android」などの携帯端末に反映されます。中之島公園の猫たち-SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK-」整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。
Feb 11, 2016
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どちらも、スウェーデンの作家スティーグ・ラーソンの推理小説、「ドラゴン・タトゥーの女」「火と戯れる女」「眠れる女と狂卓の騎士」3部作のうち、「ドラゴン・タトゥーの女」を原作にした映画です。先ず、2009年にスウェーデンで「ミレニアム」として映画化され、後を追うように2011年、ハリウッドで「ドラゴン・タトゥーの女」として映画化されました。と~ぜん、どちらも同じストーリーです。が、ハリウッド版「ドラゴン・タトゥーの女」では、007ジェームス・ボンド役でお馴染み、ダニエル・クレイグが新聞記者役で、どちらか云うとこっちが主役。対する「ミレニアム」は不幸な過去をもった女性、リスベットを全面に押し出して、こっちの方が原作に近いです。しかし、ハリウッド版でも、映画の途中からリスベットに焦点があたってて、ふたり主役と云ったところ。この女性、リスベットはなんとも奇妙な風体をしていて、顔も可愛いとか美人でもない。なにより特徴づけてるのが、髪を極端に短く刈り、鼻と眉にピアス、左の肩甲骨から腰の当たりにかけてドラゴンのタトゥー、首には長さ2cm のスズメバチのタトゥー、左の二の腕と足首の周りに帯状のタトゥーを施していることです。遠目に見たら痩せぎすの少年と見紛うほど、拒食症のように痩せた青白い肌をしています。働いてたセキュリティー会社の社長に云わせると、「友達になろうとする人物をゴミくずのように扱う」。だけど、ある能力だけはズバ抜けて、人間ワザとは思えないほど秀でているのです。画像で見ると、ハリウッド版の方が原作のリスベットの雰囲気に近いですね。スウェーデン版でリスベット役をやったノオミ・ラパスと云うスウェーデンの女優さんは、リドリー・スコット監督のエイリアン映画「プロメテウス」で主役の考古学者エリザベス・ショウ役をやったり、7つ子の姉妹を1人7役で演じている「セブン・シスターズ」で主役をやったりと、現在最も注目されている女優さんのひとりです。ノオミ・ラパスは、「ミレニアム」のために実際に自分の鼻に穴をあけてピアスをし、暴力的なリスベット役を演じるためキックボクシングを1年間習ったりしてます。そしてオートバイで疾走するシーンがあるので、教習を受けてオートバイの免許も取得した。なによりスゴイのは、リスベットがレイプされるシーンがあるのですが、「このシーンは映画に絶対必要」と替え玉を使わず、自ら演じ切っていることです。で、リスベットの能力の何が優れているのかと云うと、映像記録能力と文章力です。中学校を中退し、高校には進学してないのですが、これはもって生まれた能力なんでしょう。特に映像記録能力は、1度見たものは絶対忘れないと云うほど、常人を逸した能力の持ち主です。もうひとつの能力はコンピューター知識です。スウェーデン語でスズメバチを意味する「ワスプ」という名ではハッカー仲間から畏敬の念を抱かれているほどハッキング能力が高く、この能力を駆使してセキュリティー会社で顧客に依頼された調査を続けています。しかしセキュリティー会社では、その特異な風貌と、質問されてもほとんど何も答えず黙っているため、リスベットを顧客に会わせることはひかえています。もう、この映画(ハリウッド版もスウェーデン版も)は、リスベットの魅力だけでもってるような映画です。このミステリアスな女性が、40年間お蔵入りになっていた事件の真相をときあかすのです。リスベットには人に云えない出自がありました。父親はソ連時代の亡命、KGB工作員。母親は元娼婦だったのです。幼少期から悲惨な環境で暮らし、母親はいつも父親の家庭内暴力に怯えていました。ある日、リスベットが家に帰ると母親が床に昏倒してます。また父親に殴られたのですが、今回はひどく、脳に障害を負った母親は後に施設に収容されます。それを見たリスベットは、車ででかけようとしていた父親のもとに駆け寄り、父親にガソリンを浴びせて火をつけてしまいます。全身火だるまになって転ぎまわる父親。一命こそとりとめましたが、全身にひどいヤケドを負ってしまいます。リスベットは父親殺害未遂容疑。とうとう精神病院に隔離されて、病院から出たあとも保護観察の対象となってしまったのです。ところが母親に暴行をした父親はなぜかお咎めなしとなりました。映画は雑誌「ミレニアム」の発行責任者のミカエルの裁判場面から始まります。実業家ヴェンネルストレムの麻薬密売と不法武器輸出をスクープしたミカエルでしたが、逆にヴェンネルストレムから名誉毀損で訴えられたのです。これは真相を闇に葬るため、周到に用意されたヴェンネルストレムのワナにはまったミカエルの失敗でした。ミカエルは有罪。ミカエルは一旦「ミレニアム」社から身を引くことになります。ヴェンネルストレムは大手を振って、闇の事業を継続できることになったのです。時を同じくして、大企業グループの前会長ヘンリック・ヴァンゲルが、弁護士フルーデを通じて、ミカエルの身元調査を依頼していました。この調査を担当したのがリスベットです。ミカエルとリスベットの不思議な絆はこのときに生まれたと云えます。リスベットは得意のハッキング技術を駆使して、ミカエルの銀行口座から、メールのやりとり、PCの中身とありとあらゆるものを手に入れます。そうして得た結論は、ミカエルが信用に足る人物。実業家ヴェンネルストレムの訴訟はミカエルをはめるためのワナだと感知するのです。弁護士フルーデはセキュリティー会社社長に特別に頼んで、調査員のリスベットと面会します。最初はその異様な風体にギョッとしますが、言葉少なくても理路整然と話すリスベットの態度に、ミカエルの信用調査を信じます。クリスマスをミカエルの元妻で、現在は別の男性と再婚していて、今は家族ぐるみで友人関係を保っているモニカのとこで祝ってる最中にその電話がかかってきました。大企業グループ前会長ヘンリックからの仕事依頼を告げる弁護士フルーデからの電話です。ヘンリックの一族はヘーデビー島と云う孤立した島に住んでおり、島との連絡は細い橋1本きりしかありませんでした。ヘンリックは、ヴァンゲル・グループと云う製材業、林業、鉱業、製鋼業、金属工業、繊維産業、製造業、輸出業など手広く手がけてきた家族経営の大企業の前会長です。そのヘンリックの依頼と云うのは、40年前にハリエットと云う姪を殺した犯人をつきとめてほしいと云うもの。ヘンリックは、ハリエットが一族の中の誰かに殺されたと確信しているのです。なぜなら、ハリエットが失踪した日は、橋の真ん中でタンクローリーの横転事故があり、誰も行き来ができなかったから。40年前の事件です。当時の警察もくまなくハリエットを探しましたが見つかっていません。それを今さらながらに蒸し返そうと云うのは、ヘンリックが82歳になって、心臓に病気をかかえてるため老い先長くないと知っているからです。タンクローリー横転事故のニュース映像に、たまたま屋敷を写したカットがあって、そこに窓辺に佇むハリエットが写っていました。この映像を最後にハリエットは音信を断つのです。その頃、リスベットは新しい後見人ニルスと会っていました。もともとはパルムグレンと云うリスベットに理解ある後見人がいたのですが、パルムグレンが脳卒中で倒れたため、後任として任命されたのがニルスだったのです。ところがニルスは性的異常者で、リスベットを精神異常者だと決めつけ、自分の意のままになると思い暴力を振るいレイプしてしまいます。うちひしがれたリスベットにさらなる不幸が待ってました。街を歩いているところを、不良にからまれるのです。なんとか不良は追い払いましたが、肝心のPCを壊されてしまいました。新しいPCを買うためには、もう1度ニルスに会わねばなりません。リスベットの稼いだお金はニルスが全部管理していたからです。案の定、リスベットがニルスに会いに行くと、言葉で云い表せない暴力でリスベットをレイプします。家に帰ったリスベットは、カバンの中から、ビデオカメラを取り出しました。なんと隠し持ってたカメラで自分がレイプされてるシーンを撮ってたのです。再びニルスの家を訪れるリスベット。そして、ニルスを電気ショックで昏倒させると、素っ裸にします。自分がやられたのと同じことを道具を使ってニルスにおこなうのです。リスベットは、自分がレイプされてるビデオをニルスに見せます。「これをバラまかれたくなかったら云うことを聞くのよ!」条件は...・リスベットのお金はリスベット自身で自由にさせること。・保護観察のレポートはリスベットに有利なように書くこと。・1年たったら、保護観察を解くよう申請すること。・私には連絡してこないこと。そして、リスベットはニルスのお腹に刺青を彫ります。「私はサディストの豚、恥知らず、レイプ犯です」そのころミカエルは、失踪したハリエットの日記の最後のページに不審な記述を見つけます。名前と電話番号らしきものの羅列。警察に行ってこの事を話すと、警察でも40年前に調査すみでした。ところが、番号と名前が実際に居る人と全く一致しないのです。なんの記号だろう?チンプンカンプン。それを自分のPCに入れてると、データをハックしている人物がいました。リスベットです。彼女はこの事件に興味を持ち、信用調査終了後もずっとミカエルのPCを監視していたのです。そして、ミカエルに一通のメールがとどきます。例のミカエルがPCに登録したハリエットの日記の最終ページを添付して。「聖書を参考にしたら?」ウソのようにナゾが解けました。聖書に記載されている索引と名前を突き合わせると、さまざまな死に対する記述が表れてきたのです。いったい誰がメールを?添付ファイルがあると云うことは、自分のPCが覗かれてると云うことです。ミカエルはヘンリックの弁護士フルーデを通じて、リスベットの存在を知りました。こんなに易々とPCをハックできる。ミカエルはリスベットの住まいをつきとめて、協力要請します。しかし、他人と関わりたくないリスベットはつれない返事。ミカエルは奥の手を出しました「君が協力してくれないなら、私PCをハックしたと訴えるけどいいのか?」仕方なくリスベットは協力のため、ヘンリック一族の住むヘーデビー島へバイクを走らせます。ハリエットの日記の最終ページに記載されていたのは、40年以上前のさまざまな猟奇殺人事件でした。殺された女性たちは、聖書の記述どおり、ある者は内蔵をえぐられ、ある者は火で焼かれ、しかもどの事件も未解決のものばかりだったのです。しかし、これらの殺人事件とハリエットがどう関わりあるのか?ミカエルは、40年前に新聞社がたまたまカーニバル写真を撮ってて、そこにハリエットが写っている写真を眺めています。そこには大勢のカーニバル見物客に混じって、ハリエットが写っているのですが、なぜか皆が見ている方向とは違う方向に顔を向けています。しかも、その表情は何かを見つけて、怯えているような。ひょっとして、その場でハリエットは自分を殺した人物と出会ってしまったのでは?新聞社にいって、当時の写真を全部見せてもらいました。そして、ハリエットの背後でカメラを構えている女性を見つけたのです。残ってる写真をくまなく探したら、その女性と男性が写ってる別の写真を発見しました。しかも、彼らが乗ってきた車に書かれてる会社名まで!写真に出ていた「ノルシェー木工店」を訪ねると、その夫婦はすでに退職してましたが、近くに住んでいるようです。訪ねて行って、当時の写真を見せてもらいました。そして...ついに発見したのです。ハリエットの通り向かいに居た人物を。しかし、画像が荒すぎて、顔まで認識できません。ミカエルは突然、気がつきます。猟奇殺人にあった女性はみんな「ユダヤ人」なんです。つまり聖書に基づいた猟奇殺人にみせかけた、ユダヤ人殺しだったのです。ヘンリックの一族には、ヘンリックを除いて、戦争中、ナチに加担してた人物が数名います。そのうち、ハリエットの父親はアル中で、酔って海に落ち、溺死してます。ヘンリックの長兄、リカルドも戦争で戦死してました。残るはヘンリックの次兄、ハラルドのみです。彼は人嫌いで、同じ土地に住んでながら顔を見せません。ある日、ハラルドの娘セシリアと話していると、あることに気づきます。セシリアの首にぶら下がっているペンダント...まさしくタンクローリーの横転事故があった日、偶然写されたハリエットの首から下がっていたペンダントです。「そのペンダントは?」「私の妹、アニタの遺品よ。それがどうかしたの?」アニタ!ハリエットと最も仲の良かった女性で、既に病死しています。そうだったのか!みんながハリエットと信じていた写真の人物はアニタだったんだ。しかし当時、なぜアニタは自分だと主張しなかったのか?ミカエルは、猟奇殺人があった日の帳簿を探らせるためリスベットをヘンリック一族の会社へと走らせます。猟奇殺人が別々の場所でおこっていたので、事件当日にその場所での宿泊や食事をした領収書がないか調べるためです。そこでリスベットは驚嘆すべき事実を知ります。問題の領収書は失踪したハリエットの父親ゴットフリードのものと、もうひとり、ハリエットの兄マルティンのものが含まれていたからです。そしてついに、カーニバルの日、ハリエットの通り向かいに居た人物と同じセーターを着ている古いマルティンの写真を発見します。ハリエットが恐れた人物とは、自分の兄だったのです。そのころ、ミカエルはマルティンの屋敷の秘密の部屋で殺されようとしてました。ミカエルが真相を究明したと感づいたマルティンが先手を打ったのです。ミカエルに最初の殺しを教えたのは父親でした。それからふたりして、ユダヤ人の女性ばかり狙っては、レイプした後で殺していたのです。そして、父親が溺死した後もその性癖は止むことなく、次々と殺人を犯していってたのです。絶対絶命のミカエル。その刹那、リスベットが手にしたゴルフクラブがマルティンをヒットします。ほうほうの体で車にのり、逃げるマルティン。ミカエルを助け出した後、オートバイで追いかけるリスベット。マルティンは運転を誤り、ガケから墜落して、車は炎上。その車の中で、焼死しました。事件が解決した後、リスベットは忽然とミカエルのもとから姿を消しました。数日して、リスベットからメールが届きました。「アニタはふたり居る。ひとりは病死し、もうひとりはオーストラリア」数日後、ミカエルに調査依頼したヘンリックは信じられない人物と再会します。ミカエルが連れ帰ってきたハリエットです。ハリエットの話は耳をうたがうものでした。ハリエットは12歳のときに父親にレイプされました。その後、兄も加わり、交互にレイプを繰り返したのです。ある日、酔った父親が家の外までハリエットを追いかけてきました。酔った勢いで、いままで殺した女性の死にざまを呟きながら。ハリエットはとっさに、係留していたボートのオールで父親をひっぱたきました。もんどり打って海に落ちる父親。あがってこようとするのを、オールの背で押して止めを刺したのはハリエットでした。その一部始終を兄、マルティンに目撃されていたのです。兄はそれをネタに、ますます妹に性的虐待を加える。たまらなくなって、仲良しだったアニタに相談し、タンクローリー事故の日、通行が可能になってからアニタの運転する車に隠れて、このおぞましい島を離れたのでした。ある日、ミカエルはリスベットの訪問を受けます。久しぶりです。リスベットは分厚い書類を残して、さっさと帰っていきました。その書類は...ミカエルを陥れた実業家ヴェンネルストレムの隠し預金口座やその他悪事を実証する証拠の書類ばかり。こうしてミカエルは名誉を挽回できました。数日後のニュースでヴェンネルストレムの死体があがったとの報道が。そして、ヴェンネルストレムの隠し預金口座の金が何者かの手によって全て引き出されていたと云うのです。TVで報じていた、防犯カメラがとらえた、その何者かと云うのはリスベットだったのです。こうしてリスベットは大金を手に入れ、悠々自適の生活を手にいれたと思いきや...あしたの続編「火と戯れる女」を見てください。きょうは謎解き映画だったので、ずいぶん長くなってしまいました。ゴカンベンを。
Nov 13, 2018
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幕末の新撰組局長、近藤勇が「薩摩者と勝負する時には初太刀を外せ」と云ったとされてます。これが時代劇などで脚色されて「薩摩のジゲン流は初太刀をかわせば素人同然」と誤った流説を生んだのですな。近藤が云った「薩摩者」とは同じ薩摩でも、下士たちに伝授されていた太刀流、薬丸自顕流などを指しているのです。示現流には初太刀だけぢゃなくて、連続技があり、しかも初太刀の回避それ自体が困難だったのです。とにかくものスゴイ打ち込み!幕末期に薩摩者と戦った武士の中には、自分の刀の峰や鍔を頭に食い込ませて絶命した者がいました。とは云え、示現流の真髄は「一の太刀を疑わず」または「二の太刀要らず」と云われ、髪の毛一本でも早く打ち下ろせと教えられます。構えからの攻撃でも、決して一の太刀を疑わない。二の太刀は負けと見なす。つまり、防御という考えがないのが一番の特徴で「一撃必殺」「先手必勝」の鋭い斬撃が特徴なんですな。示現流と云えば「チェスト」と叫ぶ掛け声が有名ですが、これは掛け声と云うより、薩摩方言のようなものらしい。本来の掛け声は「エイ」で、他流と違わないのですが、あまりに激しいため「キィエーイ」という叫び声にも似たものになり、この気合いが入った叫び声を「猿叫」と呼びます。鶏の絞められる声に例える人もいますね。猿叫が聞こえると、すくんでしまう相手も多かったそうです。普通、他流では流派規定の道着を着用して稽古するのが一般的ですが、示現流では何時如何なる場面においても戦える「生活に根付いた実戦性」を追求しており、何時でも敵と対峙出来るよう平服姿で稽古に参加しても良いとされています。Tシャツ、ジーンズでもOKなんです。示現流で使う刀、薩摩拵は普通の柄と比べると明らかに長く、約一尺(約30cm )になります。この柄の場合、目貫は原則無しだそうです。示現流と云うと「人切り半次郎」の異名がある桐野利秋ですね。島津久光に随行して京に上ってからは、家老 小松帯刀ら藩の重臣から重用されるようになり、坂本龍馬なんかと親交を持つようになりました。桐野利秋は「人切り半次郎」と異名をとっていましたが、人切りの記録として残っているのは薩摩藩で陸軍教練をしていた軍学者 赤松小三郎を幕府の密偵とみて白昼堂々と切り殺した事件のみです。それでも河上彦斎、岡田以蔵、田中新兵衛とともに四大人切りとして恐れられてました。近藤勇をして「薩摩の中村半次郎(桐野利秋)だけは相手にするな」と警戒していたと云います。その桐野利秋は西南戦争で西郷隆盛とともに戦い、西郷が別府晋介の介錯で自決した後、40余名で敵軍に突撃し、銃弾に斃れます。桐野利秋、享年40歳。短い生涯でした。西南戦争の田原坂の攻防戦において、西郷軍の示現流使い手たちの斬り込み攻撃により、武士以外で構成された政府軍では恐怖心が蔓延し死傷者が続出しました。こうした事態を打開すべく、陸軍の後方支援をしていた警視隊の川畑種長大警部らが、征討参軍の山縣有朋陸軍中将に対し、警視隊から剣術に秀でた者を選抜して投入することを申し出ました。山縣はこれを許し、警視隊から百余名をもって警視抜刀隊が編成されました。警視抜刀隊には戊辰戦争で賊軍とされた旧会津藩士など旧幕出身者が多く志願したと云われてます。ここに示現流 兵法の動画があります。とにかく激しい。日ごろ、私たちが目にする剣道とは全く異なってます。
Feb 12, 2020
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南アメリカ、中央アメリカの熱帯林に生息するナマケモノってのは、ひょうきんな顔とスローな動きでなんともカワイイですね。体長は41cm ~74cm 。ナマケモノの英語名は「Sloth」。Sloth には「怠惰」や「ものぐさ」ってイミがあります。ナマケモノのスローな動きからつけられた名前です。話し変わって、ブラジル南部の都市ノヴォ・アンブルゴの建設現場でナゾのトンネルが発見されました。それもかなり巨大トンネルです。このトンネルがどのようにして形成されたのか、長い間ナゾでした。そしたら、ブラジルの最南端にあるリオグランデ・ド・スル州では1,500以上、ブラジル南部のサンタカタリーナ州でも数百の同じ形態のトンネルが発見されたのです。これらのトンネルの多くは数百フィート(100フィート=約30m )の深さがあり、かつ多数の枝があります。最大のものは長さ2,000フィート(約610m )、高さ6フィート(約1.8m )、最大幅5フィート(約1.5m )もありました。地質学者によると、地質学的に円形や楕円形の断面を持つ長いトンネルを自然が生成することは無いそうです。つまり自然に出来たものではないと云うこと。では、このトンネルは人類が掘ったものなんでしょうか?答えは壁面にありました。トンネルの壁面に巨大な爪跡が見つかったのです。爪跡のサイズとトンネルが掘られた年代調査から最終的に、トンネルを掘ったのはナマケモノと判明したのです。ナマケモノ!?あんな小さい生き物が、なんでこんな巨大なトンネルを?しかもナマケモノって木にしがみついて生活してるやん!ですよね~でも、10,000年前に南アメリカで住んでたナマケモノは違うんです。既に絶滅したナマケモノに「アメリカから来た偉大な獣」と云うイミの「メガテリウム(Megatherium Americanum)」と云う種類がいたんです。メガテリウムの体重は最大5t !肩の高さは2.1m 、体長は6m 、最大のナマケモノの一種で、オスのアジアゾウとほぼ同じ大きさらしい。こんな巨大なナマケモノがいたなんて信じがたいですが、スイスのチューリッヒ動物学博物館やイギリスのロンドン自然史博物館にはメガテリウムの骨格標本が展示されてます。メガテリウムも現在のナマケモノと一緒で巨大な爪を持ってました。にもかかわらず、メガテリウムは菜食主義者だったのですこれはメガテリウムの歯の化学分析によって確認されています。では、この爪の使い道は?当初、学者は現在のナマケモノと同じようにエサを求めて木に登るためと信じてました。しかし、そんなことは現実的でありません。だってゾウさんが、エサを求めて木に登るなんて連想できます?そこでトンネルが浮上してきたのです。メガテリウムが生息した時期とトンネルが掘られた時期は一致しています。そして、例のトンネルに残された爪跡。トンネルはメガテリウムの巣穴だったのですね。巨大な爪は、ちょうどショベルカーのように、大きなトンネル掘りに不可欠だったのです。実はメガテリウムの絶滅には人類が関与したのでは?とも考えられてます。メガテリウムは約12,000年前に絶滅したと考えられてますが、最初の人類が誕生したのは20万年前。メガテリウムはガタイこそデカイですが、草食のおとなしい生き物です。そして絶滅は人類がアメリカ大陸に定住したと思われる時期と一致し、実際に屠殺された場所も発見されてます。つまり狩猟が絶滅の原因になった可能性あることを示唆しているのです。
Jan 25, 2023
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アナスタシア・ニコラエヴナは最後のロシア皇帝ニコライ2世と怪僧ラスプーチンを重用したので有名なアレクサンドラ皇后の第4皇女です。1917年の「二月革命」で成立した臨時政府によって家族とともに監禁。翌1918年に エカテリンブルクのイパチェフ館で、裁判手続きを踏まないままヤコフ・ユロフスキーの指揮する銃殺隊によって家族・従者とともに17歳で銃殺されました。最初の銃の一斉射撃でニコライ2世と妻アレクサンドラ、料理人のイヴァン・ハリトーノフ、召使のアレクセイ・トルップが殺害され、主治医のエフゲニー・ボトキンとメイドのアンナ・デミドヴァが負傷しました。その後、銃殺隊が銃撃を再開して負傷しているボトキンが殺害され、足が不自由なため椅子に座っていた弟のアレクセイを銃撃隊の兵士が銃剣で刺殺しようと試みましたが、衣服に縫い付けてあった宝石に邪魔されて失敗。結局、別の兵士が頭部に向けて発射した弾丸によって殺害されました。その後に姉のオリガとタチアナはそれぞれ頭部に向けて発射された弾丸によって殺害されたのです。まだ生き残ってたアナスタシアと第3皇女のマリア、そしてメイドのデミドヴァは窓近くの床に倒れていました。銃撃隊の兵士が銃剣でマリアを刺してみましたが、これまた服に縫い付けてあった宝石によって刺せず、最後は銃で頭部を撃って殺害したと兵士は主張しています。しかし、兵士の供述と裏腹にマリアの後頭部には銃創やライフルの台尻で殴られた痕は残っておらず、アナスタシアの遺体はバラバラに切断されて焼却されたため、ふたりの死の原因が何であるかは究明できないのです。多くの報告がアナスタシアが最後に死亡したとしているだけです。アナスタシアの名前、ロシア語のイミは「鎖の破壊者」とか「刑務所を開く人」です。ニコライ2世が彼女の誕生を記念して、前年の冬にモスクワとサンクトペテルブルクで発生した暴動に参加して、投獄されてた学生たちを恩赦したのが名前にちなんでだったんですね。そして彼女の名前のもうひとつのイミは「復活」です。これが後々 彼女は死んでなくて、どこかで隠れて生存してると云う憶測の元になったのです。その背景にはソ連のプロパガンダがありました。ソ連共産党レーニン政権は、政権基盤が固まるまで「ニコライ2世は処刑されたが、他の家族は安全な場所に護送された」という偽情報を流し続けたのです。と云うのも、当時の兵士の中には皇帝一家に同情的な者も多く、政権が一家を皆殺しにしたと云うのは憚れたのですね。1920年2月、若い女性がベルリンのラントヴェーア運河に身投げしようとして助けられました。この女性は身分証明書を持っておらず、コートとドレスのポケットは空でした。ドイツ当局によって「マダム・アンノウン」と呼ばれたこの女性は、ドイツのダルドルフ精神病院に連行されました。この風変わりな女性には体中に奇妙な傷があり、自分はロシアから処刑を逃れ脱走してきたアナスタシアであると周囲に話し始めたのです。1922年ころヨーロッパは革命後にロシアから亡命したツァーリズム(絶対君主体制)信奉者が大勢いたのが、彼女の格好の味方になったのです。もともとは、ロシアから亡命したツァーリズム信奉者のひとりが、ロマノフ家の娘たちの名前のリストを渡したのが始まりです。このリストを受け取った彼女は、アナスタシアという一人を除いてすべての名前に取り消し線を引いたのです。その瞬間、彼女はアナスタシアとなり、最終的には「アンナ・アンダーソン」という名前になりました。「アンナ」はアナスタシアの略称だったのです。アンナ・アンダーソンという名前を使いだしてから数ヶ月後、ダルドーフ精神病院から釈放され、彼女はアナスタシアの支持者たちの家に住み込みながら、数年間あちこちを転々としました。彼女はアンナ(アナスタシア)・アンダーソンと名乗ってましたが、ロシア帝室生存者の多くの家族がアンナ・アンダーソンと会い、この若い女性がアナスタシア大公妃ではないと確信したのです。アナスタシア本人をよく知る祖母マリア・フョードロヴナ皇太后も決して会おうとはしませんでした。そして、ついにドイツでロシア帝室の莫大な遺産をめぐる訴訟を彼女は起こしますが、真偽の確定が不可能として却下されます。その背景には、彼女はロシア語が話せない。逆にアナスタシア本人が苦手であったはずの ドイツ語を話す。記憶が肝心なところであやふやになる。顔が明らかに違うなど多くの疑問点が生じたためです。ことの真相はこうです。当初、周囲が勝手に彼女はアナスタシアではないかと騒ぎ、やがて記憶を失っていた本人もアナスタシアだったことを「思い出した」のです。意図的な詐称というより、嘘を繰り返しているうちに、自分自身が真実と信じ込んでしまったのですね。その後、支持者の援助で彼女は1968年にアメリカに移住。アメリカ人のジャック・マナハンと結婚してノースカロライナ州に定住しました。結婚後も自分はアナスタシアであると生涯主張し続けたそうです。アンナ・アンダーソン以外にも、自分はアナスタシアだと名乗る女性は幾人もでています。背景には皇帝一家の埋葬場所が、長年秘匿されたため、殺害後に彼女の生存伝説が有名になったからなんですね。1991年、エカテリンブルク近郊で両親と3人の大公女の遺骨が発掘されました。さらに2007年に弟のアレクセイと歳の近い姉のマリア、もしくはアナスタシアどちらか1人の大公女の遺骨も発見され、4体の女性の遺骨とアレクサンドラの一番上の姉ヴィクトリアの孫、エディンバラ公フィリップ王配に遺伝的な繋がりがあることが確認されました。こうして皇帝一家が全員殺害されており、一人の生存者もないことが判明したのです。偽アナスタシアのアンナ・アンダーソンは、彼女の没後10年後にあたる1994年にDNA鑑定をおこなった結果、エディンバラ公フィリップ王配との遺伝的な繋がりは認められませんでした。
May 29, 2024
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今日は最近観たDVDで印象深いもののご披露。「ナインスゲート」1999年の公開ですから、かなり前の作品になります。監督はロマン・ポランスキー。ポーランドの監督ですが、何より2度目の結婚相手シャロン・テートがカルト教団により殺害されたり、ジャック・ニコルソン邸で少女に性的暴行をした罪に問われたりと、何かとゴシップにことかかない監督として有名です。最近では「戦場のピアニスト」監督としてアカデミー賞を受けたのが有名ですね。この映画、主演はいまをときめくジョニー・デップ。ジョニー・デップの役回りは、稀覯本を安く買いたたき高く売り付ける辣腕稀覯本ハンター。そんな彼が旧知の稀覯本収集家バルカンから、世界に3冊しかない悪魔祈祷書「影の王国への九つの扉」の内、2冊はニセモノなので本物の1冊が自分の所有している本か鑑定してほしいと依頼受けることから事件が起こります。実はこの本の秘密の鍵を握るのが悪魔ルシファーの署名入り挿絵の版画なのです。秘密を手中に入れた者は悪魔に会える。そして永遠の命を授けられるのです。3冊の本を目にしたジョニー・デップは、3冊の挿絵が微妙に違うことに気づきます。そして他の2冊の収集家は何ものとも知れぬ人物に殺されていく。ジョニー・デップ自身も殺されそうになりますが、謎の女性に危機一髪のところで助けられるのです。この女性は守護天使のようにジョニー・デップに寄り添い、何度も窮地を救ってくれるのです。やがて収集家を殺した悪魔崇拝者であるリアナ・テルファーの元に赴きますが、そこでテルファーを殺したのはジョニー・デップに依頼したバルカン。ふたりは相互に「影の王国への九つの扉」のナゾを解いて、永遠の命をさずかろうと画策していたのです。バルカンを追ってジョニー・デップは古城に赴きます。そこで目にしたのはバルカンがいとなむ怪しい儀式。バルカンはついに「影の王国への九つの扉」のナゾを解いたのでしょうか?結果は...バルカンは自ら放った火に焼かれて死んでしまいます。謎の女性は?この女性こそ悪魔そのものだったのです。ジョニー・デップは謎の女と炎の中で交わります。女の顔は版画の最後に描かれた「第九の扉」を開く女と瓜二つでした。かくしてジョニー・デップは「第九の扉」の前に立つのです。ジョニー・デップって案外、ホラーものの出演が多いですね。この作品は監督が原作を読んだときから、ジョニー・デップを主人公にイメージしてたと云われています。「ナインスゲート」はキリスト教信者でないと分かりづらいところもありますが、やはりポランスキー、稀代の映像感覚は損なわれてませんでした。ちょっと古いので、DVDレンタルショップでも取り扱ってないところもあるかも知れません。ジョニー・デップのコーナーで探した方が良いでしょう。中之島公園の猫たち-SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK-」整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。beautiful.blue-eyesさんが、パーキングにいる猫ちゃんの里親募集をされています。深刻なことに、近々パーキングの管理者が保険所に連絡する気配が。もはや一刻の猶予もない状況となってます。なんとか、いたけない子供たちを暖かく包み込んでいただけるお方(あるいは心当たり)あれば、ぜひサイトを覘いてあげてください。ぜひ、この苦境を少しでも多くの方に知っていただけるよう、ご紹介もお願いいたします
Dec 6, 2011
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きのうは世界初のホラー映画「ル・マノワールデュディアブル(悪魔の館)」のお話しをしましたが、映画創世期の時期ですから、もっと記録映画とかハッピーエンドの映画がつくられてしかるべきだと思うのに、なんでわざわざホラー映画なんでしょう?心理学者によると「紛争地域で生活してたり、日常的にテロの危険にさらされているような地域では、誰も敢えて恐怖を求めたりしません」。逆に世の中が平和なときほどホラー映画は流行ると。人はホラー映画を観ることで、生きている実感を得るひとつの手段としてるのですね。ホラー映画を見ていると強烈なスリルを覚えるわけですが、映画の最後には、恐ろしいバケモノは罰せられるとあらかじめ分かっているから観るのだと。みんな映画を観ながら、頭の中で恐怖の想像をかきたててるのだとも。それでも私には映画の最初期にホラー映画やSF映画が創られたことに興味がわきますね。ちなみに映画のシーンで世界初の「キスシーン」を撮ったのはトーマス・エジソンです。1896年(明治29年)にブロードウェイで大ヒットした舞台のキスシーンだけを撮影したものです。しかし公序良俗に反すると検閲によって上映が中止。なので世界最初の上映禁止映画でもあるのです(笑)おっと、話が横道にそれた!ホラー映画ね。「ル・マノワールデュディアブル」は1896年(エジソンのキスシーンと同じ明治29年)の作品ですが、この映画の製作者"ジョルジュ・メリエス"は同じ年に別のホラー作品も作ってます。それは「ナイトメア(悪夢)」なかなか寝付けない男。突然、ステキな美女がベッドの縁に腰掛けてるぢゃないか!急にデレデレしちゃう男。美女にキスしようと迫ったら...美女が突如、バンジョーもったオッサンに変身!オッサンはベッドの上で大騒ぎ。なんとかオッサンを静かにさせようと、躍りかかったら...オッサンは突然、ピエロに変身!驚くスキもなく、ピエロは窓から飛び出していく。巨大なお月さまが顔だして...男を嘲る。男は怒って、お月さまにパンチくらわしたら急にちっちゃくなって。そこにピエロとバンジョーオッサンが美女を伴って再出現。揃って、部屋に上がり込んで、またまた大騒ぎ。と、思ったら...みんな「夢」だった。と、云うお話し。恐かったですね~(笑)一応、この作品はサイコホラーの最初の作品と云われてます。こんなのもあります。1898年制作の「幾つもの頭を持つ男」メリエス自身が演じる男が、首をはずしてテーブルにいくつも並べると云う映画。画像的にはこっちの方がキモイ。同じ年の作品で、女子修道院に悪魔が現れ、修道女たちを怖がらせると云うストーリー。悪魔は最後に退治されると云う、近年のホラー映画手法の先駆けとなった作品です。「修道院の悪魔」こんなのも有ります。「火柱」悪魔がかまどで火をおこすと、女性が現れて蛇踊りを踊ると云うものですが、蛇踊りはエジソンもよく題材にしてました。で、この作品カラーになってますが、この時代にカラーフイルムは登場してません。これはメリエスがフイルム1コマ1コマに顔料で色を付けたのです。ど~もタイトルに違反してメリエス話に終始しましたな(笑)では、この辺で...
May 26, 2021
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2日続けて西部開拓時代を取り上げましたので、オマケで有名な「OK牧場の決闘」でも。OK牧場の決闘と云うと、私には1994年にケビン・コスナーがワイアット・アープを演じた映画「ワイアット・アープ」がもっとも印象深いです。この作品では盟友ドク・ホリデイをデニス・クエイドが演じてますね。デニス・クエイドと云えば、一時期 女優のメグ・ライアンと結婚していて、メグ・ライアンの尽力で麻薬中毒を克服したのですが、結局2001年に離婚してしまいました。彼の作品では、1983年に公開された実在した宇宙飛行士たちのノンフィクション映画「ライトスタッフ」で演じたゴードン・クーパー宇宙飛行士役が印象に残ってます。「OK牧場の決闘」は何度も映画化されてますね。前述のケビン・コスナーのがイチバン新しいですが、有名どころでは1946年に公開されたジョン・フォードが監督して、ヘンリー・フォンダが主演した「荒野の決闘」。ほら「Oh my darling, oh my darling(ああ、私の最愛の人)」で有名な「いとしのクレメンタイン」を主題歌にした映画ですよ。この曲が日本では「雪山讃歌」になるんですから笑ってしまいます。この映画は"ワイアット・アープ"という実名が初めて使用された映画でもあります。それまでもワイアット・アープを取り上げた映画は幾本かあったのですが、ワイアットの未亡人ジョゼフィン・マーカス・アープが実名使用を許さなかったのです。1957年には、ジョン・スタージェスが監督してバート・ランカスターが主演した「OK牧場の決斗」。1967年は、同じジョン・スタージェス監督で、ジェームス・ガーナーが主演した「墓石と決闘」が。他にもイロイロありますが、イチバン最初にOK牧場の決闘を取り上げた映画作品は1934年の「国境守備隊」まで遡り、このときの主演はジョージ・オブライエンです。番外編としてはTVドラマの「宇宙大作戦(スタートレック)」で宇宙人によってカーク船長らが自己暗示にかけられてOK牧場まで送られ、殺されかかると云うお話しまであります。これほどまでにOK牧場の決斗が映画化されるのは、アメリカ人にとってこの事件は日本で云うと忠臣蔵とか遠山の金さんとか、定番の物語なんでしょうかねぇ。そもそもOK牧場の決闘の「OK牧場」ってのは1957年の映画「OK牧場の決斗」からきている名前で、原題は「Gunfight at the O.K. Corral(OKコラルの銃撃戦)」なんですな。つまり日本人が勝手に「OK牧場」と云ってるだけなんです。OKコラルの「コラル」ってのは、昔のTVドラマ「ローハイド」よろしくカウボーイが牛や馬を遠路運ぶとき、一時的に預けたり繋いでおくための施設で、単なる簡素な囲い込み場、つまり駐車場と同じです。牧場ではありません。OK牧場の決闘が行われたのは1881年10月26日です。場所はアリゾナ州トゥームストーンのOKコラル近くの路上。しかも決闘と云ってますが、正式な意味の決闘ではなく、表面的には市保安官が銃不法所持者を武装解除しようとした際におこった銃撃戦なんです。1881年と云うのは日本では明治14年、 ビリー・ザ・キッドがギャレット保安官に射殺された年でもあります。ちなみに1946年の「荒野の決闘」を監督したジョン・フォードは、まだ駆け出しのころに、撮影所を訪ねた晩年のワイアット・アープと実際に会ったことがあります。そのとき本人から聞いた話を基に映画を作ったと云ってますが、実際にはかなり娯楽性を意識して歪曲してます。OK牧場の決闘はよく知られてるように、ワイアット・アープら市保安官と、クラントン兄弟をはじめとする土着の牧童たちとの争いです。映画なんかではクラントン兄弟は悪の権化、乱暴狼藉し放題として語られてますがはたしてど~なんでしょうねぇ。ひとつ注目すべきは、アープたちは「法と秩序党」と云う"共和党"支持の党派を背負っており、対するカウボーイズ(牧童たち)は"民主党"支持の「郡党」と云う政党を応援していたことです。早く云えば共和党 vs 民主党の対立が銃撃戦にまで発展してしまったのです。まさか!?とお思いでしょうが、現にカーリー・ビルと云うわずかな報酬で殺人や馬泥棒を繰りかえす無法者がいたのですが、この男がアープの前任者フレッド・ホワイト保安官を殺害したのです。ビルは郡党派、対するホワイト保安官は法と秩序党派で、この事件がきっかけで両陣営の亀裂が深まったのです。カーリー・ビルはOK牧場の決闘には参加しませんでしたが、後にアープによって殺されてます。その他にもOK牧場の決闘に至る要因はさまざまあります。映画でも有名なのは、内縁妻マティと不仲になったワイアットが、クラントン一味を擁護する郡保安官ジョン・ビアンと付き合っていたジョセフィン・サラ・マーカスと三角関係になり、結局ジョセフィンを手に入れるとこですね。ワイアットにサラ・マーカスを盗られたジョン・ビアンは、OK牧場決闘後、賄賂で逮捕されそれ以後は保安官として職に就くことはできませんでした。そしてクラントン兄弟の片割れ、アイク・クラントンが駅馬車強盗の犯人に関する闇取引で証言者を売るようアープに持ちかけて、断られたら喧嘩状態になったのが決闘の直接の要因となりました。アイク・クラントンは「アープ兄弟と決闘だ!」「ワイアットを殺す」と町の仲間らに云いふらしており、アープらも決着をつけなければいけない気持ちになっていたのです。そのアイク・クラントンは、OK牧場の決闘直前に敵前逃亡して参加してません(笑)後にスプリンガービルの保安官ブライトンを殺そうとして馬からライフルを引き抜いたところを、逆にブライトンによって撃ち殺されてます。結局、OK牧場の決闘に参加したのはワイアット・アープの他に...アープ組・バージル・アープ(アープの兄、右太腿負傷)・モーガン・アープ(アープの弟、負傷)・ドク・ホリデイ(アープの友人、大腿部打撲)クラントン一家・ビリー・クラントン(アイク・クラントンの弟、死亡)・フランク・マクローリー(アイクの友人、死亡)・トム・マクローリー(アイクの友人、死亡)・"ビリー・ザ・キッド" ビリー・クレイボーン(有名なビリー・ザ・キッドとは別人でクラントン一家の知り合い、決闘中に逃走)決闘そのものは双方至近から約30発の弾丸を撃ち合い、時間にして30秒くらいで終わったそうです。ワイアット・アープは、作家ネッド・バントラインがアープに贈ったとされる、コルト・シングル・アクション・アーミーの銃身が非常に長い特注モデル「バントライン・スペシャル」を使っていたと映画などでされてますが、これは伝説で本当に使っていたかどうかは分かりません。最後にアープの友人 ドク・ホリデイについて。この人、もともとはペンシルベニア歯科大学出身の歯科医師なんですね。アトランタで歯科医院を開業してます。ところが肺結核にかかり、余命数ヶ月を宣告されたため、できるだけ悪化させないようにと、より乾燥した西部へと移住を決意してテキサスのダラスに移り住むのです。ここで歯科医師ではなく、手っ取り早い収入ができるギャンブルに目覚めるのですね。口論から殺人を犯し、南部諸州をさまよったあげく数多くの殺人を犯すことになります。それには激昂しやすい性格と、一度は死を宣告された経歴が原因だったのです。ビッグ・ノーズ・ケイトとして知られるメアリー・キャサリン・ホロニー・カミングスは、ハンガリー生まれの売春婦であると同時にドク・ホリデイの長年の伴侶であり内縁の妻でした。彼女の証言では、OK牧場の決闘で丸腰のまま逃げ出したクラントン一家のアイク・クラントンは、決闘前に頭に包帯してたのですね。ワイアット・アープの兄 バージルが市の条例に違反してアイクがライフルとピストルを持っているのを発見したためです。それでバージルに銃を没収された上、鞭打ちされ頭をケガしたのです。そこでアイク・クラントンは、決闘の直前に「スパンゲンバーガー銃と金物店」で新しいリボルバーを購入しようとしたのですが、お店のオーナーはアイクの包帯した頭を見て銃を売らなかったのですね。それでアイクは丸腰のまま敵前逃亡となったワケです。ドク・ホリデイは早撃ちをするために銃の照準や角などを削り落とし、引き金を用心鉄に縛り付けていました。最後は酒におぼれ、コロラド州グレンウッド・スプリングスで肺結核で死亡します。医師に余命を宣告されて15年後、36歳。1946年の映画「荒野の決闘」ではOK牧場の決闘で「ドクは柵を乗り越えようとして咳の発作を起こし被弾する。柵にすがり身を起こしたドクはフィンを射殺してこと切れる」とありますが、これは全く創作されたものなんですな。OK牧場の決闘後もドク・ホリデイは生き続けていました。ちなみに「荒野の決闘」では、クラントン一家のボスでアイクたちの父親オールドマンがワイアットに見逃してもらったのに、振り向いて隠し持っていた銃を構えたためアープの弟 モーガンに撃ち殺されますが実際はオールドマンはOK牧場の決闘以前にメキシコ人の待ち伏せ攻撃で射殺されてます。ドク・ホリデイの伴侶ケイトは、ドクが死去してから各地を渡り歩きますが、91歳の誕生日7日前の1940年11月2日に急性心筋不全で亡くなってます。彼女の死亡診断書には、冠状動脈疾患と進行性動脈硬化症に苦しんでいたと記載されていました。てなことで、OK牧場の決闘がおこなわれた明治14年と云うのは伊藤博文と井上馨が、大隈重信一派を明治政府中枢から追放した「明治14年の政変」のあった年で、これにより後の明治23年に施行された大日本帝国憲法が君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まった年です。そんな時期でさえアメリカではなおも血なまぐさい事件が白昼公然と行われてたワケです。そりゃあ現在でも銃規制ができないアメリカの象徴たるものですね。
Sep 20, 2021
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私は関西人ですが、うどんよりお蕎麦が好き。お蕎麦でも信州蕎麦とか出雲蕎麦のようにしっかり蕎麦粉のきいたのがいいです。関西のお蕎麦はやたら柔らかくって、小麦粉がたっぷりでぜんぜん美味しくない。福井の越前蕎麦も美味しいけど、これもちょっと柔らか目かなぁ。東京なんかでよく食べられてる「更科蕎麦」も柔らかめでイマイチ。「蕎麦」の漢字に「麦」が入っているのは、承平年間(931年~938年)に編纂された辞書「和名類聚抄」にソバのことを久呂無木(クロムギ)と表記し、ソバを「麦の一種」として紹介しているからですもちろんソバは麦の一種ではなく、タデ科の植物ですから、これは誤りなんですな。奈良時代や平安時代さらに鎌倉時代なんかでもソバは天候不順による不作、飢饉に備えるための「救荒作物」としての性格が強く、下層階級の救荒作物や山暮らしの人々の食べ物でしかなかったのですね。鎌倉時代の「古今著聞集」には平安時代中期の歌人 菅原道命(菅原道長の甥)が、山の住人に蕎麦料理を振る舞われて「食膳に据えかねる料理を出された」と慨嘆したというエピソードが収載されているくらいです。ひとつには古くは粒のまま粥にしたり、蕎麦掻きや、蕎麦焼きなどとして食すのみだったからかも知れません。麺の形態に加工する蕎麦切り(現在のお蕎麦)の調理法は、16世紀末あるいは17世紀初頭まで待たなくてはなりません。17世紀中期以降に、蕎麦は江戸を中心に急速に普及し日常的な食物として定着していったのです。現代ではお蕎麦屋さんへ菓子を買いに行くことは考えられませんが、元禄までは菓子屋が副業として蕎麦屋やうどん屋を兼ねていたのですね。屋台形式のお蕎麦屋さんは江戸時代後期に書かれた「三省録」などに寛文4年(1664年)に「けんどん蕎麦切」の店が現れたとの記述があります。これらの屋台のお蕎麦屋さんは、時代や業態によって二八蕎麦、夜鷹蕎麦、風鈴蕎麦などとも呼ばれました。ちゃんとしたお店のお蕎麦屋さんが初めて文献に載るのは文政12年(1829年)の「文政町方書上」に「蕎麦屋が3軒あったと記載されているうちの1軒が寛永18年(1642年)から店を構えていた」と記されています。画像は町はずれの街道にあるお蕎麦屋さんで、馬方、旅人相手の粗末なお店です。床口でそばを食べているのは馬子です。画像は「かつぎ、そばの出前持ち」「かつぎ」は天保3年のもので、それから24年たった嘉永6年のものが「出前持」です。「かつぎ」はこの「出前持」になる前の姿で、天秤棒に入れたけんどん箱をかついで反対の方の棒の先に「つゆ」の入った徳利をぶらさげています。こっちは「摂津名所図会」に描かれている江戸時代の大阪のお蕎麦屋さんです。蕎麦は関東、うどんは関西といわれますが、絵のようにこれほど大きなそば屋は当時の江戸にもなかったでしょう。注文を運ぶ女中さんはお仕着の着物に前掛をしています。近畿における蕎麦どころの筆頭は兵庫県豊岡市出石町で、皿そば「出石そば」は広く知られています。これは江戸時代に蕎麦の本場だった信州上田藩の藩主 仙石政明が出石藩に国替えとなった際、大勢の蕎麦職人を連れて来たためです。京都で有名なニシン蕎麦は幕末に生み出されたものであり、古くから京都にあった惣菜である「ニシン昆布」に発想を得ています。全体的に見れば、大阪や京都は蕎麦よりうどんの方が好まれる傾向にありますが、蕎麦屋であってもうどんも提供するところが多いので、ダシは元来うどんに用いる前提で作られた淡口醤油を使った透き通ったものを用いることが多いのです。それによって生まれた文化もあり、たぬき(油揚げの乗った蕎麦)やとろろ昆布が乗った「こぶ蕎麦」は大阪が発祥なんですな。江戸時代後期の「守貞漫稿」には当時のそば屋のメニューが記されています。「御膳大蒸籠」は大盛り蒸しそば。蒸籠に盛って蒸器に入れて蒸すものです。48文は今で960円くらい。「かけ蕎麦」の語源は、蕎麦に汁をぶっかけて提供するからで当初は「ぶっかけ」と呼んでいたのが下の2字をだけとって「かけ」になったのですな。16文は現代で320円。「あんかけ蕎麦」も16文で320円。「あられ蕎麦」と云うのは「あおやぎ(ばか貝)」の小柱をのせたもの。小柱を沸騰した湯にくぐらせて霜降りにし、あられに見立てて使うところからきました。24文ですから480円。「てんぷら蕎麦」は芝海老のかき揚げが入ってるものです。現在のような大きな海老の天ぷらは戦後、輸入物の海老が手に入りやすくなってからのことです。32文で640円。「花巻蕎麦」は「浅草のり」を焼いてもみ、その一片一片を桜の花弁に見立ててかけ蕎麦にトッピングしたものです。24文480円。「しっぽく蕎麦」卵焼き、蒲鉾、椎茸、鶏肉をのせたもので、上方のしっぽくうどんと同じです。24文480円。「玉子とじ」が高いですねぇ。32文は現代では640円。かけ蕎麦の値段が16文だったのはかなり長い間だったと云います。「明和・安永期(1764年~1780年)以降ずっと1杯16文で売られてきたかけ蕎麦が、幕末の頃には24文と値上がりしたそうです。16文という一見、中途半端な値段設定は明和5年(1768年)に発行された4文銭の高い人気によるものです。4文銭は鋳造直後は色が黄金に似ていることから高い人気を得て、物の値段に4の倍数が増えたのですな。醤油が普及していなかった江戸時代初期には、お蕎麦は茹で上がった麺に大根などの辛みをからませダシ汁をかけて食べるのが普通だったようです。たっぷりの熱い汁の中に麺を入れて食するようになったのは、もう幕末近くのこと。このように江戸時代は屋台蕎麦が大流行しましたが、明治になると激減し、代わって鍋焼うどんの屋台が増えます。屋台の蕎麦は火種の火力が弱いので汁がぬるいが、土鍋で煮込む鍋焼うどんは冷めないので人気が出たのです。鍋焼うどんは幕末の大坂で流行り出したものが、明治7~8年ごろに江戸(東京)に伝わって広がったと言われています。特に明治11年に西南の役が鎮圧された後に、東京の下町辺りでよく食べられるようになったようです。明治13年の読売新聞の記事に「近頃は鍋焼きうどんが大流行で、夜鷹蕎麦を食べる人は少なくなった。府下に鍋焼きうどんを売る者は863人いるが、夜鷹蕎麦屋は11人まで減ってしまった」と記されています。画像は大森貝塚を発見したことで有名なエドワード・S・モースが撮影した明治時代の蕎麦屋台です。よく云われる話に「ざる蕎麦」と「もり蕎麦」がありますね。上に海苔が散らしてあるかどうかで値段に100円~200円の違いがある?ど~なってるのよ。そばつゆで「ざるそば」には「昆布」だしを使い「ざる」に盛ったもの。江戸時代、昆布ははるばる北海道から運ばれて来た高級品だった。対して「もり蕎麦」は「鰹」だしを使い、丼に「盛った」ものってのが昔の話にありますが、今どき「ざる」と「もり」でそばつゆを変えるのでしょうか?結論から云うとざるに入れたそばを「ざるそば」、セイロに山のように盛ったそばが「もりそば」。海苔の有無は全く関係ありません。だから値段に格差をつけるのはオカシイ...中之島公園の猫たち-「SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK-」整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。
Oct 3, 2015
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ほんとうは映画の舞台裏なんて気にせずに、映画そのものを楽しむのがイチバンですが、そこはそれ、ついDVDなんかでもメイキング映像を観てしまいます。でも最近の映画はSFXやCGのオンパレードで、俳優さんたちは何もない"グリーンスクリーン"の前で演技していることが多いのですよね。これは有名な「マトリックス」で30数台のデジカメを俳優を囲むように並べて同時撮影する装置。これによりストップモーションのようなシーンが360度の角度から写せるわけです。古いところでは「ジョーズ」。この頃はCGが未熟だったので、ほとんど実写ですね。いきおい実際の大きさのサメになってしまいます。「エイリアン」なんかは被り物が定番。エイリアンの手の部分はロボットの応用ですな。これはエイリアンの第1作目でラストシーンに登場するにゃんこと撮影の合間にたわむれるシガニー・ウィーバー。彼女もまだ若かったですな。「スター・ウォーズ」だと、やはりR2-D2役の今は亡きケニー・ベイカーが忘れられない。身長112cm でロボット役やったのですものね。しかしCG全盛と云っても、こんな困難な撮影が今でも行われていることもあります。「(バットマン)ダークナイト ライジング」の冒頭シーン。飛行機に別の飛行機で追いかけてきた悪党一味がワイヤーで飛行機に飛び移り、さらには標的の飛行機をワイヤーで宙づりにして最後に落下させるという迫力満点のこのシーンは実写のみで作られています。本物のC-130輸送機から飛び降りるスタントマン。ワイヤーを使ってスタントマンが別の飛行機に飛び移るところも実写です。宙づりにされた飛行機は、ヘリコプターでつられています。スタントマン顔負けの俳優さんと云ったら、この人をおいて語れないでしょう。トム・クルーズ。これは「ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル」でスタントマンを使わずにドバイにある世界一高い超高層ビル、ブルジュ・ハリファの頂上に登ったトム・クルーズです。このときの撮影のドキュメント映像はこちら。こっちは同じくミッション:インポッシブルの「ローグ・ネイション」で飛行中のエアバスA400Mの外壁にしがみつく有名なシーンのドキュメントです。いくら命綱つけてるからって、実際に飛行している機にしがみつくって、しかもこの時の撮影は3回も行われているのです。よ~やります。最後にあまり紹介されることない珍しい画像を。ホラー映画の古典(公開は1980年)にして傑作「シャイニング」の裏舞台を捉えた写真いろいろ。先ずは主人公が吹雪により外界と隔離されたオーバールック・ホテルで、家族3人だけの生活をしているハズなのに、狂気に蝕まれて、居るハズの無いホテルの宿泊客に混じってバーで酒を飲むシーン。カメラ近くに立つスタンリー・キューブリック監督とジャック・ニコルソンです。お次は「シャイニング」の中でも最も恐ろしいシーン。誰も居るハズのないホテルの廊下に突然すがたを現す「グレイディの双子」です。この姉妹はリサ・バーンズとルイーズ・バーンズと云う双子の子役。今は...こんなになってしまいました。こっちは存在そのものがホラー?(笑)中之島公園の猫たち-SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK-」整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。
Dec 24, 2016
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きょうは英語のお勉強。と云っても、日本語でさえたどたどしい私が英語(それもめっちゃウソ英語!)を教えられるワケがない。だいたい英語だって、日本語と同じでその時代時代の表現や云いまわしがあります。私の習った英語は何十年前。それから一度もスキルアップしてないのだから、今ごろ通用するワケがない。喋ったら「今頃そんな古い表現しないよ!」ってことになるのは周知の事実です。だいたい日本の学校で教える英語にして「いつの時代の言葉?」ってモンだし、間違いではないけれど現実的でないのは確か。学校にネイティブの教師を導入してると云っても、オーストラリア人では役に立たない。オーストラリア英語くらい汚い言葉はない!イギリス人が云うくらいですから(偏見もあるけどね)。「通じる英語、笑われる英語」って本にこんなことが書かれてました。とにかく外国人と話しするときはポリティカリー・コレクトに気をくばってくださいと。ポリティカリー・コレクト=「差別的でない表現」「偏見のない表現」「道徳的に正しい表現」「相手を差別しない気を使った表現」要するに政治的、社会的に公正、公平、中立的で、なおかつ差別、偏見が含まれていない言葉や用語を使いましょう。とりわけ職業、性別、文化、人種、民族、宗教、ハンディキャップ、年齢、婚姻状況などに基づく差別、偏見のある表現を慎みましょうってこと。私らと違って、多民族国家の欧米では異なった価値観や考えの集団が一緒に暮らしているので、ポリティカリー・コレクトを尊重することがとても大切で、知らないでポリティカリー・コレクトを無視した表現をすると相手を怒らせることもあります。ある調査では、アメリカ人のサラリーマンのもっとも大きなストレスは「人種や宗教の違い」らしいですから、ことさらにポリティカリー・コレクトが重要視されるのです。だいたい日本でも体型のことを云うのは、よほど親しい間柄でないとヤバイですが、欧米では最も気を付けなければならない項目のひとつです。例えば「He's_a_little_fat(ファット)」絶対「何でそんなこと云うの?」変な目でみられます。「fat」は「デブ」の意味です。太っているの表現はbig(ビッグ/大きい)well-built(ビィルトゥ/体格がいい)a_little_chubby(チャビィ/ちょっとぽっちゃりしている)slightly_plump(プラァンプ/小太り)などで、例を表現するなら「He's_a_little_overweight(オゥヴァウェィトゥ)」が穏便な云い方ですな。「He's_short(ショートゥ)」もダメ。「short」は「チビ」に近い表現です。この辺が日本の学校英語のダメなとこ。正しくは「He's_not_very_tall(トォール/彼はそんなに背が高くない)」ですが、それよりも「He's_a_little_shorter(ショーター)_than_I(私より少し背が低い)」と自分を基準にして相手のことを云い、表現をやわらげる方法の方がベターです。「You're_skinny(スキィニィ)」褒めてるつもりで云ったら、確実に相手は怒ってしまいます。「skinny」は「骨と皮ばかり」って意味です。「You're_slime(スラァィム/やせてるね)」ですね。日本の学校では痩せてるを「skinny」と教えてたけど、訂正されたのかしら?My_new_boyfriend_is_white(フヮァィトゥ/私の彼氏は白人よ)はダメダメ。とても外国人とお付き合いする資格なし。正しくは「My_new_boyfriend_is_Caucasian(コォーケェィジャン/白色人種)」です。肌の色は繊細なトピックで現代英語ではwhiteはCaucasian、黒人のblack(ブラック)はAfrican-American(アフリカ系アメリカ人)と表現します。同じように「Indian(インディィアン/アメリカンインディアン)」は「Native_American(ネェィティィヴ・アメェリィカァン/先住アメリカ人)」。「Chicanos(チカーノス)」は「Mexican(メェクシィカァン)-American(メキシコ系アメリカ人)」「Oriental(オーリィエントゥル/東洋人)」は「Asian(エィシャン)-American(アジア系アメリカ人)です。だいたい外国人相手に肌の色のことは一切言及しないほうが無難だし、無駄な争いを避けることができます。職業で間違った表現もしがちです。「stewardess(ステュゥーアディィス)」は「スッチー」って云う意味。ご承知の通り正しくは「flight_attendant(フラァィトゥ・アテェンダァントゥ)」ですな。「policeman(パァリィースマァン)」もダメダメ「お巡りさん」でくだけた云い方。公式には「police_officer(パァリィース・オーフィサァ)」ですね。「policeperson」とか「police_official」とかの表現も使います。職業用語で「man(マァン)」のついてる言葉は現代では避ける傾向があるのです。「女性には就けない職業」と云う印象を与えて、女性蔑視につながるからです。なので「fireman(ファィアマァン/消防士)」は「firefighter(ファィアファィタァ)」、「postman(ポォゥストゥマァン/郵便配達員)」は「post_person(パァースン)」です。また差別を意味する言葉は厳重に注意しなければなりません。例えば「garbage_colleetor( ガァービィヂュ/ゴミ収集人)」は「sanitation_worker(サァナァテェィシャン・ウァーカァ/清掃作業員)」と云うように。ちなみに私に馴染みの深い「ハゲ」って言葉、以前だったら「bald(ボォールドゥ)」でしたが、今は「hair_disadvantaged(ヘェア・ ディィサァドゥヴァンティィヂュドゥ/頭髪に恵まれない)」ですよ。気を付けてください!(笑)中之島公園の猫たち-SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK-」整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。
Jan 22, 2016
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史上最高のスーパー・スター ディエゴ・マラドーナが在籍し、2000年代には4度の南米王者、2度の世界王者の黄金時代を築いたブエノスアイレスのサッカークラブ「ボカ・ジュニアーズ(Boca Juniors)」。サッカー以外にも、バスケ、フットサル、柔道、空手、レスリング、バレーボール、体操、水泳などさまざまな競技チームを所有しているスポーツクラブです。そこのサポーターが唱和するチャント(応援歌)、日本のJリーグ、「横浜F・マリノス」や「北海道コンサドーレ札幌」「FC東京」「ヴァンフォーレ甲府」「アビスパ福岡」「ロアッソ熊本」などが借用して同じ曲をみんなで唱和しています。その曲とは...ボカ・ジュニアーズのYouTube 動画がこちら。あれぇ!?私ら年代にはとても聞き覚えのある曲。1900年代に青春だった人には荻野目洋子のリバイバルで、こっちも聞き覚えあるでしょうね。私らの年代は"西田佐知子"と"ザ・ピーナッツ"です。「コーヒールンバ」ちなみに北海道コンサドーレ札幌の動画はこちらです。2006年にチロルチョコから、「コーヒールンバ」というチョコレート菓子が発売されてました。パッケージに西田佐知子の「コーヒールンバ」のレコードジャケットが印刷されていたのです。この曲が日本で最初にヒットしたのは1960年代初頭です。日本では1950年代からインスタント・コーヒーが輸入され始めましたが、1960年に森永製菓によって国内生産が開始されて、コーヒーが喫茶店だけでなく一般家庭でも広く飲まれるようになった時代の始まりだったのです。コーヒールンバの原曲はベネズエラのアルパ奏者、ウーゴ・ブランコの作曲した「モリエンド・カフェ(Moliendo cafe)」日本語訳「コーヒーを挽きながら」です。アルパと云うのはラテンアメリカのハープです。ちなみに作曲したのはウーゴ・ブランコなのですが、作曲当時17歳で、未成年だったため伯父のホセ・マンソ・ペローニが自作として著作権登録してしまいました。ちなみにコーヒールンバのリズムは実際にはルンバではなく、ウーゴ・ブランコが生み出したリズム形式である「オルキデア」と云うものだそうです。実際にアルパでコーヒールンバを演奏している動画があります。奏者は神山里映子さんです。さきほど述べましたように、日本でこの曲を最初にカバーしたのは関口宏の嫁さん、西田佐知子そしてザ・ピーナッツで、ともに1962年のことです。ふた組の歌手は別々の作詞家の歌を歌っていたのですね。西田佐知子の「コーヒールンバ」レコードは最初「欲望のブルース」と云う楽曲のB面曲だったのですが、「コーヒールンバ」がバカ売れしたために、1969年の再発盤では「コーヒールンバ」がA面に入れ替えられています(笑)日本では、もう忘れ去られたと思われた曲を復活させたのは1980年代のフリオ・イグレシアスです。この頃から再評価の機運が高まり、1992年に荻野目洋子、2001年に井上陽水、2002年には工藤静香が再カバーしたのは記憶に新しいですね。
Jun 13, 2018
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先日、「発展途上国? 」と云うタイトルで更新したとき、1987年~1990年と1993年~1994年にアメリカの経済誌「フォーブス」が世界一の金持ちとして西武の堤義明をあげてた画像を掲出しましたが、この堤が世界一をとった2つの期間の間に、もうひとり世界一の金持ちとして日本人の名前がありました。1991年~92年の「森 泰吉郎(たいきちろう)」です。森泰吉郎とは「森ビル」の創業者だった人ですね。実はフォーブス誌が森ビルの資産を泰吉郎個人のものとしてカウントしたので、世界一の金持ちなんてとんでもない称号を得てしまったワケですが、どっちにしても尋常ならざる資産家であったのは確か。しかし、この人は若いころから敬虔なクリスチャンだったので、実業家として成功しても常に質素な暮らしを心がけていたのです。泰吉郎、実は学校の先生でした。一橋大学(旧 東京商科大学)を卒業した後、関東学院高等部を手始めに、大倉高等商業学校講師を経て、京都高等蚕糸学校教授に就任しました。そして第2次大戦が終わると、横浜市立大学教授に着任します。1957年(昭和32年)に同大学の学長選挙に出馬するのですが、このころ自分で不動産の仕事もしていたため、大学と会社経営を兼務していることが批判され、結局、大学を辞職することになります。そしてして1959年(昭和34年)に「森ビル」を設立するのですね。泰吉郎の実家はもともと米屋のかたわら貸家業を営んでいて、不動産業の下地があったからですが、1923年(大正12年)の関東大震災で実家の所有物件がほとんど倒壊したとき、災害に強いコンクリート造りの建物でないとダメだと実感してました。泰吉郎が自分で事業を営んだのには背景があります。前述のように、もともと実家が貸家業で裕福だったため、学生時代は不労所得を得る地主階級であることに懊悩してたのです。ところが一橋大学時代、一橋大学学長から経営学の研究をする東亜経済研究所を設立した上田貞次郎の「企業者は公共社会への貢献を使命としている」と云う言葉に目覚め一流の経営者になることを決心するのですね。森ビルを設立した後の泰吉郎はすさまじいペースで事業展開していきます。1970年ころには資本金7,500万円に対して借入金が58億円にまで膨らんだ時期もあったのですが、高度経済成長や大都市集中のトレンドをうまく捉えて会社を大企業に成長させることに成功するのです。泰吉郎の事業姿勢は明確で、再開発事業にあたっては地権者全員の同意を得ることを重視しました。典型的な例として赤坂アークヒルズは完成までに20年もの歳月をかけています。赤坂アークヒルズのプロジェクトは1967年(昭和42年)に始まりましたが、六本木1丁目は住宅密集地で、古くからの住宅街を潰しての再開発をはかる森ビルに対して反発は強かったのですね。その後、約8割の地権者が地区外に転出したため大きく前進するのですが、それでも「住民追い出し再開発」との非難の言葉が絶えませんでした。再開発チームの陣頭指揮にあたった森稔(泰吉郎の次男)は「再開発によって街の価値が上がるということを地権者に信じてもらえなかったことが、転出者が増えた最大の原因ではなかったか」と答えてます。泰吉郎の経営手法はアメリカで提唱されたオペレーションズ・リサーチを早くから取り入れたものでした。オペレーションズ・リサーチは、意思決定にかかわる科学的なアプローチと云われてて、組織の運用に関して、さまざまな方法を用いて分析し、適切な解決法を見つけることなんですな。泰吉郎は、案件ごとにプロジェクトチームを結成して縦割り組織の弊害を避けるとともに、再開発では地権者など共同開発者も組織化することで意思決定の効率化を目指したのです。競合他社に先駆けて、コンピュータシステムの導入なんて70年代から進めています。泰吉郎は1993年(平成5年)、心不全により死去しました。生前の約定により、遺産の中から約30億円が慶應義塾大学に寄付されてます。バブル期直後までは資産総額が1兆円超と云われてた泰吉郎でしたが、バブル崩壊による額面の目減りとともに、借金も約60億円に上り、死後に公表された資産額は約117億円にとどまりました。泰吉郎は4人の子供に森ビルなどグループ各社の株式を保有する体制を早くから整え、資産が各人に均等に分けられるよう配慮していたようです。泰吉郎の後を継いだ森ビルの総帥で、次男 森稔は「今はグローバルな時代です。通信や輸送手段は国境を越えてしまっている。"鎖国"が通用する時代ではないのに、日本は金融機関にしても、海外から来てもらうことはないと規制緩和もしない。そういう島国的な感覚が強いのです」。「上海なんて1年も行かなかったら、まったく違う街になっています。東京は本当に変わらないというか、意思決定のスピードが遅いですね。手続きばかりやかましくて。空港なども国際空港と国内空港の枠を変えられないとか、そんなことを云ってるから、シンガポールにも後れを取ってしまったんです」。森稔は、2012年(平成24年)心不全のため死去しました。
Sep 25, 2022
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「ただいまのあとは~ガラガラジンジン~♪」これって明治の「イソジン」の歌。ところが「イソジン」は2016年3月をもって販売終了して、代わりに「明治うがい薬」ってネーミングで登場したのですね。イソジンの製造販売権がオランダの会社に移管したためです。で、イソジンのこのCMソングを歌ってたのが やまがたすみこ。彼女はイソジンだけぢゃなくて、花王の「ニベア8×4」とか雪印の「スライスチーズ」とか資生堂の「レシェンテ」とか、知られてないけどCMソングを多数歌ってます。もともとシンガーソングライターの やまがたすみこ。1973年に発表した「風に吹かれていこう」なんてヒット曲もあります。で、きょうのテーマは やまがたすみこぢゃなくて、彼女の旦那さま。80年代に流れたヨコハマタイヤの「ASPEC」CM。先に暴露しておくと、車の運転をしているのは1975年、77年、84年のF1チャンピオン"ニキ・ラウダ"です。乗ってる車はBMW320i。実は日本初の空撮によるロングカットをつかったCMがこれなんです。このCMソングを歌ってるのが、やまがたすみこの旦那さん、私らの年代だと知ってる人が多い"井上鑑(あきら)"。歌ってる曲は「グラビテイションズ」です。井上鑑は他の「ASPEC」CMでも「レティシア」「サブウェイヒーロー」とか歌ってます。どころか「ASPEC」のCMでは、稲垣潤一の「ロングバージョン」も寺尾聰の「ルビーの指環」、みんな井上鑑の編曲によるものですね。「ルビーの指環」を使ったCMは、ニキ・ラウダがF1を卒業して、CMに初登場したものです。井上鑑って、キーボーディストであり、作詞家で、作曲家で、編曲家で、音楽プロデューサーと色んな才能もってますね。私の邦楽の男性ボーカリストって、この時代のひとたちがイチバン馴染みがある。井上鑑、稲垣潤一、安部恭弘、鈴木雄大のニューウェーブ4人衆はもとより、寺尾聰や山本達彦とか。83年の「ASPEC」CMに使われた鈴木雄大の「レイニーサマー」とか、1982年の山本達彦「LAST GOOD-BYE」なんて、みんないい曲ばかり。LAST GOOD-BYE/山本達彦井上鑑がイチバン輝いたのは、やはり1981年の「ルビーの指環」でレコード大賞編曲賞を受賞したときでしょうな。この年にヨコハマタイヤのCMでソロアーティストとしてデビューしたのですから。編曲では大瀧詠一や寺尾聰、稲垣潤一の曲はもちろん、福山雅治や松田聖子の楽曲まで手がけている。薬師丸ひろ子の「セーラー服と機関銃」や「探偵物語」も井上鑑の編曲ですし、井上鑑が手掛けた山本達彦の曲の編曲なんて数多くあります。どころか「ペッパー警部」以外のピンク・レディーの曲に、こっちはキーボーディストとして参加していたのですね。大瀧詠一って、1981年に作曲した「君は天然色」が有名ですね。古くはロート製薬の「新・Vロート」から2004年のキリン「生茶」、2010年の「アサヒビール」、2011年のスズキ「アルトエコ」、2012年のサントリー「金麦」と数多くのCMソングに使われてます。鈴木雅之のボーカルで有名になった「夢で逢えたら」も大瀧詠一の作詞、作曲です。その大瀧詠一を師と仰いでいたのが井上鑑です。井上鑑に云わせると、「自称・師弟関係」。70年代~80年代に大瀧詠一のレコーディングに参加して、様々なことを学んだと語っています。大瀧詠一は2013年12月30日、自宅で家族と夕食後のデザートにリンゴを食べていて、リンゴを喉に詰まらせたのが原因で死去しました。大瀧詠一の突然の訃報は音楽関係者に大きな衝撃を与え、佐野元春、山下達郎、大貫妙子、吉田美奈子らが追悼のコメントを発表しました。葬儀のときは、未発表だった大瀧自身の声による「夢で逢えたら」が流されました。
Jun 14, 2019
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私はいつも、ウィル・スミス主演の映画「バッドボーイズ」の相棒刑事役、"マーティン・ローレンス"とキアヌ・リーブス主演の映画「フェイクシティ ある男のルール」なんかに出演してる"フォレスト・ウィテカー"がごっちゃになります。顔を見比べてみると、違うのは分かるのですが、むしろ演技スタイルが似通っているような。きょうはフォレスト・ウィテカーのお話し。彼は、2006年の作品「ラストキング・オブ・スコットランド」でウガンダの独裁者"イディ・アミン"を演じ、アカデミー賞主演男優賞やゴールデングローブ賞 主演男優賞を初め各映画賞の主演男優賞を独占しましたね。そのフォレスト・ウィテカーが主演した古い映画があります。1988年公開の「バード」。監督は、あのクリント・イーストウッドです。この作品はジャズサックス奏者"チャーリー・パーカー"の生涯を描いた伝記映画です。この作品によって、フォレスト・ウィテカーはカンヌ国際映画祭男優賞を受賞するとともに、監督のイーストウッドも、それまでまったく縁がなかったゴールデン・グローブの最優秀監督賞を受賞。イーストウッドはこの作品を契機に芸術家として、ヨーロッパやアメリカ国内で認められる存在になりました。チャーリー・パーカーの奥さん役が、アル・パチーノとロバート・デ・ニーロががっぷり四つに組んだ映画「ヒート」でアル・パチーノの愛人役をやってた"ダイアン・ヴェノーラ"なんですね。特別美人でもないし、映画ではいつも脇役ででしゃばらないのに、存在感アリアリですね。ニューヨークはマンハッタン、ブロードウェイ44丁目にある「バードランド」と云う有名なジャズクラブ。私もマンハッタン滞在中、行こう行こうと思いながら、ついに行けなかったジャズ好きだったら絶対訪れてみたいお店なんです。このお店は1949年当時はジャズのメッカであった、ブロードウェイ52丁目でひらいていました。ここはジャズの黄金時代を牽引した名門中の名門なんですね。そのお店の名前「バードランド」こそ、チャーリー・パーカーのニックネーム「バード」にちなんでいるのです。その後1965年にいったん閉店するのですが、20年の時を経て1986年にブロードウェイ106丁目に再開。その後、現在の44丁目に移転しました。このお店に出演したジャズ・ミュージシャンは数え上げたらキリがないですよ。チャーリー・パーカーを始めとして、レスター・ヤング、カウント・ベイシー、ジャンゴ・ラインハルト、バド・パウエル、マイルス・デイヴィス、ジョン・コルトレーン、アート・ブレイキー、バディ・リッチ、ダイナ・ワシントンなどなど。これらのプレーヤーによるバードランド・ライヴ盤レコードも数多く残っています。「モダン・ジャズ(ビバップ)の父」チャーリー・パーカー。1940初頭から、モダン・ジャズの原型となるいわゆるビバップスタイルの創成に最も貢献したひとりです。チャーリー・パーカーの天才的なひらめきを伴ったそのアドリブは伝説化しています。そして1945年、若き日のマイルス・デイヴィスを自分のバンドに起用したのも彼でした。この映画のラスト・シーンからお話ししましょう。ジャズメンのパトロンとして有名だったユダヤ系大富豪のチャールス・ロスチャイルドの令嬢だったニカ男爵夫人が宿泊していたスタンホープ・ホテルのスイートルームで、静かに息を引き取るチャーリー・パーカー。看取ったのはニカ夫人ただひとり。妻のチャンはそこに居ませんでした。彼の遺体を見たフライマンという医師は死亡報告書の死体年齢の欄に推定で58歳と記入しています。それを見たニカ夫人がポツリと口走ります「いいえ、彼は34歳よ」それほどまでにチャーリー・パーカーの身体はボロボロにやつれ衰えていたのです。パーカーの直接の死因は心不全です。しかし、若い頃から麻薬とアルコールに耽溺して心身の健康を損ない、幾度も精神病院に入院するなど破滅的な生涯を送ってました。パーカーは医者などにかかれない貧乏時代に胃の潰瘍を緩和するため、酒や麻薬を始めたとも云われています。アルコール中毒だった父親譲りか、15歳ころから既にヘロイン中毒だったそうです。そして最愛の幼い娘も、持病で亡くしています。このときパーカーは巡業で最後を見届けることもできなかった。その後、旅先のホテルで自殺未遂までしてしまうのです。このパーカーと麻薬との切っても切れない関係は、逆にパーカーが麻薬を使用したので素晴らしい演奏をしたと信じられました。これ以降、ジャズメンの間にに麻薬がさらに広がったのです。パーカーのように麻薬で苦しんだジャズメンにはテナーサックスのジョン・コルトレーンやデクスター・ゴードン、アルトサックスのアート・ペッパー、ピアニストのバド・パウエルやビル・エバンス、トランペットのリー・モーガンなどなど。多くのジャズ・ミュージシャンが次々と中毒になっていったのです。麻薬が黒人社会に浸透したのは、元はもぐり酒場で商売をしていたギャングが資金源として黒人たちに麻薬を売りつけたからです。この映画でフォレスト・ウィテカー演ずるチャーリー・パーカーがサックスを演奏するシーンの音源は、実際のパーカーが残した演奏の中から、彼のパートだけを取り出して、それにレッド・ロドニー、チャールズ・マクファーソン、ウォルター・デイヴィスJr、ロン・カーターら現代の大物ミュージシャンたちを共演させて作成されました。また映画化にあたって、イーストウッド監督は、パリに住んでいたパーカーの未亡人、チャン・パーカーをアメリカに呼び寄せ、脚本をより現実に近づけるようアドバイスを受けました。俳優たちも、それぞれが未亡人と会い、役作りについてのヒントをつかんだそうです。チャーリー・パーカー/(現代ジャズへの進化)チャーリー・パーカーをバードというニックネームで呼んだ最初で最後の妻チャン・パーカー。この中国名のような名前を持つチャンは、本名をチャン・リチャードソンといい、ブロードウェイの演出家を父に持つ白人ダンサーです。マンハッタンのジャズの中心地では、「52丁目(ジャズクラブ バードランド)の女王」と称され、多くのジャズメンが憧れた女性でした。ふたりが出会ったとき、すぐには恋人とならず、良い友達関係を保ちました。その後、チャンはあるミュージシャンの子を生み、さらに別の男性と結婚から離婚を経験。一方チャーリー・パーカーも2度の離婚を経験して、出会いから8年後の1951年に同棲を始めました。時代は人種差別厳しい50年代です。チャンは白人でしかも美人であったため、肌の色が違うカップルへの世間の目は非常に厳しかったそうです。しかし愛し合う2人はまったく意に介しませんでした。つまりパーカーの自殺未遂の原因となった子供の死も、実はチャンの連れ子だったのですね。チャンはパーカー死後、パーカーの音楽が愛されるフランスが気に入り、亡くなるまでパリの郊外に住み続けました。唯一、母国に戻ったのは、この映画を監修したときのみです。パーカーは売れないころ、チキン料理のレストランで皿洗いのバイトをしてチャンスを待ちました。このレストランで働く特典として、チキンの食べ放題が。パーカーは貧乏だったので、いつも空腹。で、何回も記録的なチキンの数を食べ、そこからバードというニックネームで呼ばれるようになったのです。まだ十代だったパーカーは(無謀にも)既に一流だったカウント・ベイシー楽団のジャムセッションに飛び入りしました。いっしょに演奏に参加しているうちは良かったものの、ソロでアドリブを吹き出した瞬間、力不足、経験不足が露呈され、ドラムのジョー・ジョーンズにシンバルを投げられ、失笑を買い、屈辱を味わいました。この話は「空飛ぶシンバル」として、映画の中で何度も登場します。泣きの涙で退散した若きパーカーはその後3年間、麻薬もフライドチキンも絶って、まるで囚人のように田舎にある実家のひと部屋に閉じこもって練習に励んだのです。その後、売れっ子になったパーカーの演奏を久しぶりに聞いた、カウント・ベイシー楽団のサックス奏者は、パーカーの技量にとうてい追い付かないと、川に自分のサックスを投げ込みました。1940年代後期~50年代にかけてのジャズは、ビッグバンドなどの編曲された楽譜通りの演奏から、小編成楽団で個々のプレーヤー独自のアドリブ重視で自由裁量の演奏スタイルに変わっていきました。一定のリズムを刻むのでダンスに最適な心地良いスウィング音楽のファンにとって、バップは耳障りともいえる奏法でしたが、ジャズ音楽のファンにとっては刺激的で素晴らしい大改革だったのです。チャーリー・パーカーが実際に評価を得たのは死後のことでした。Bird (A Film by Clint Eastwood) - Trailer
Aug 15, 2019
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今は世界中がウクライナ問題で揺れてるけど、例えばアメリカだと銃規制と人種差別の問題は永遠のテーマみたいな。リンカーンが「アメリカ連合国各州の奴隷はその日以降永久に解放される」と述べたのは1863年のことです。それが現状は...みなさんご承知の通り。アメリカ南部諸州の州法として悪名高い「ジム・クロウ法」が制定されてたのは1876年~1964年にかけてです。この州法では「黒人の一般公共施設の利用を禁止、制限」を規定してます。この対象となる人種は「アフリカ系黒人」と「黒人の混血者」だけでなく、先住民のインディアン、日系人などの黄色人種と全ての「有色人種」が含まれてたのです。下の画像は1963年、ミシシッピ州中央部にある都市ジャクソンで撮影された写真です。この年は南部のテキサス州を地盤に持つ「保守派」にも関わらず、大統領就任以前から人種差別に対して否定的で、公民権法の制定に積極的だったジョン・F・ケネデイ大統領がダラスで凶弾に倒れた年です。この画像でカウンターに座ってるのはジョン・ソルター、ジョアン・トランパウアー、アン・ムーディと云う人物で、ご覧の通り白人、黒人入り混じってます。そして彼らは黒人を多く受け入れてた地元トゥーガルー大学の学生なんです。座ってるのは白人専用激安雑貨店ウルワースにあるカウンター席。ここで人種差別に対する抗議活動をやったのですね。その結果が上の画像です。怒った白人の群衆からケチャップや砂糖、マスタードを頭にかけられたのです。翌1964年、公民権運動の指導者キング牧師に対しノーベル平和賞が授与されました。そして...キング牧師は、1968年、メンフィス市内にあるロレイン・モーテル306号室前のバルコニーで、白人男性に暗殺されたのです。そもそも白人至上主義者と云うのは、西ユーラシア人、つまりコーカソイドが有色人種より優れてると信奉してる人たちですね。コーカソイドは、キリスト教の信仰心が深く関与していて、風貌的に似通っていてもユダヤ教やイスラム教と云った異教徒は除外されてます。アメリカの白人至上主義者の団体として最も有名なのは「KKK(クー・クラックス・クラン)」ですが、ナチズムと類似性を持つネオナチ系団体「アメリカ・ナチ党」、白人至上主義者のバイブルとして有名な「ターナー日記」を著した物理学者ウィリアム・L・ピアースが指導した「ナショナル・アライアンス」など数多く存在するのです。ここで面白いTV番組の動画をご披露しましょう。2013年に放映されたザ・トリシャ・ゴッドダードショーという番組動画です。白人至上主義者の間では、自らのアイデンティティを証明するためにDNA検査が流行しています。自分の「白人性」を確認するためです。登場する白人のオッサンはネオナチ団体の代表クレイグ・コブ。そのオッサンの遺伝子を調べた結果を報じる番組です。黒人女性司会者がクレイグのDNA検査の結果を読み上げます。「クレイグ・ポール・コブさん、DNA検査の結果あなたの遺伝的祖先は、86%がヨーロッパ系白人。そして...14%がサハラ以南のアフリカ系黒人です!」その瞬間、隣のコメンテーターの黒人女性が笑い出す。スタジオも大きな歓声。White Supremacist Learns He's 14% Blackクレイグ「これはいわゆる統計のウソというものだ!」司会者「でもあなた少しだけ黒人じゃないの!」クレイグ「聞きなさい、水と油は混ざらないんだぞ」司会者「そんなことないわよ、ヘイ、兄弟!(拳をごつん)」(笑)アメリカ科学ニュースサイトの報道では、完全に白人であることが証明されたのはなんと3割しかいないそうですよ。アメリカで差別主義者と呼ばれる人の大半は貧困層の白人なんです。貧困の怒りを他の人種にぶつけるしか方法がないのです。ちょうど江戸時代の日本で被差別部落を作って、貧しい大衆を位置的にその上に置いたようなものですね。そうすれば最下層の人たちは、まだ下があると不満を抑圧させられてるのです。今の日本で云えば低開発国から来てる外国人の人権問題でしょう。逆にこんな事例もあります。2018年にテキサス州サンタフェの高校で起きた銃乱射事件、覚えてらっしゃいますか?この事件の数日後に開催されたNBA第5戦ロケッツ対ウォーリアーズの会場で、事件の犠牲者に黙とうが捧げられました。そのときの模様をNBAの公式Twitterに投稿されたのが下の画像です。この画像がSNS上で物議を呼んだのです。右端の白人の少女と黒人の少女。みんな手をつないで黙祷してるのに、ふたりだけ手をつないでいません。この写真がネット民たちの餌食になってしまったのですね。「なんで誰も黒人少女と手をつながないんだ」「この白人少女は誰だよ」「公共電波を通して人種差別を見せ付けたな」問題の黒人少女はニコルと云います。そして母親はリンダルジャン。リンダルジャンがこう返しました「話題になっている黒人少女は私の娘です。何もかも人種差別と結び付けようとするのはやめてください。彼女たちは娘の大切な友人です。娘は友人と手をつなぐと感傷的になり泣いてしまうと思ったのです。だから手をつながなかっただけです」ニコルはリンダルジャンに幼女として引き取られてたのです。リンダルジャンが何回か投稿しても、なかなかラチがあかず、ついにニコル本人がTwitterに動画で登場。「私が渦中のニコル、そしてこっちがママよ。私の友人を人種差別主義者だと呼ぶのはやめてちょうだい。私が黒人であることは紛れもない事実だけど、だからって人種差別と結びつけないで。これでもう終わりにしましょ」SNSだから匿名をいいことに憶測で好き勝手云ってるのでしょうが、もしニコルが白人だったら、この写真に異議を唱える人は居なかったでしょう。つまり、この問題はまだ根強く人種差別が残ってる証拠でもあるんですね。とにかく人種だけでなく、性別、国籍、宗教などで差別する人は、その人自身の心が貧しい証拠ですね。俳優のキアヌリーブスはこう云ってます。「多文化主義は、この世界の真の文化だ。純粋な人種というものは存在しない」と。多文化主義(マルチカルチャー)とは、さまざまな人種、民族、階層がそれぞれの独自性を保ちながら、他者のそれも積極的に容認し共存していこうという考え方、立場のことです。この世には、純粋な人種など存在しない。全ての民族にはその不完全さと美しさがある。肌の色、信念、性別、文化などで人を判断することをせず、個々の「ひとり」として受け入れるべきであり、さもなければ人類という大きな「ひとつ」のまとまりとしてみるべきだとも。
Apr 23, 2022
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流鏑馬(やぶさめ)と云う疾走する馬から矢を射る行事がありますね。先日ご案内した呉座勇一の著書「応仁の乱」では、奈良の春日大社で実施される若宮祭に大和の武士たちが流鏑馬を共同で務仕したとあります。この若宮祭の務仕は、崇徳天皇の時代、1136年が最初で、今日まで「流鏑馬十騎」として奉納され続けているそうです。しかし流鏑馬そのものは平安時代からあったらしい。ちなみに1293年に奈良の興福寺(僧兵の発祥場所)一乗院で起こった乱闘では、若宮祭の流鏑馬の行列に紛れ込んだ武士が一乗院方の武士とやりあったとあります。流鏑馬は日本各地でおこなわれており、近畿で云うと京都の下鴨神社で葵祭のイベントしてやるのが有名ですが、上賀茂神社でも行われています。私が住んでる大阪では10月の秋祭りに天満宮で実施されたり、体育の日には住吉神社でも執り行われています。住吉神社は自宅から比較的近くなのですが、私はまだ実際に観たことがありません。今では武田流や小笠原流などの各種流派や神職、氏子、保存会などが実施していますが、スポーツ競技として行なわれている流鏑馬もあるそうです。流鏑馬は足利時代以降、一度すたれたようですが、源頼朝が西行に流鏑馬の教えを受けて復活させたらしい。いくら元は武士と云っても、僧侶で歌人の西行に教えを乞うと云うのも面白いですね。余談ですが、西行は人の骨を集めて"人造人間"をつくろうとしてたらしい。西行の著作とされてたけど、後にもっと後の誰か?の著作と判明した「撰集抄」に書かれてます。鎌倉時代以降に流鏑馬が武士のたしなみとして定着していったとともに、幕府の行事にも組み入れられていったそうです。しかし足軽や鉄砲による集団戦闘が進むにつれて、また廃れていったらしい。これを復活させたのは江戸時代の徳川吉宗です。その後の徳川家重のときには、世嗣ぎの疱瘡治癒祈願として流鏑馬が奉納されてます。つまり、武士のたしなみから、いつの間にか将軍家の厄除けに変化していったのですね。
Oct 12, 2017
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それにしても、今回はひどい台風でした。大阪、直撃ですものね。とにかく風がすごかったです。窓を閉めていても、ゴーゴーうなってる。それで、ミミちゃんは不安にかられて落ち着かないし...なんとか被害無しで済みました。しかし、私の住んでる地域ではあちこちでトラックが横転して、その1台が架線にひっかかり、すこし離れた場所の息子のマンションは停電。それで昨夜、孫2人は我が家に避難してきました。お話しかわって、ダマスカスヤギって、ご存じですかぁ?大きなヘッドに奇妙な下顎。およそこの世のものとは思えない、珍妙な顔相のヤギです。別名「ゴートモンスター」。ボディとは不釣り合いなほど大きな頭。どこか不安にさせる長い首。アーチ状の頭蓋骨と異様な下顎。全速力で壁に激突したかのような容貌です。ダマスカスヤギはシリアや中近東で大昔から繁殖されてきたヤギです。1番の特徴は目が頭の真横についていることでしょう。ところが、若いダマスカスヤギのマズルはごく普通なんです。これは母乳を飲みやすくするためだと思われ、成長とともに奇怪な容貌へと変貌を遂げていきます。生まれつき耳は異様に長く、ほとんどの場合短く切られるそうです。これだけ奇怪な風貌なのに、リヤドで開催された「最も美しいヤギ」の2008年度大賞を受賞したのはダマスカスヤギなんです。ダマスカスヤギは乳も遺伝的にきわめて高品質で大人気らしいです。その量も多く、1日に3リットルの乳を搾乳できると云います。子ヤギが他の種よりも早く育つのはそのためかもしれません。また肉も美味で、1度の出産で2~4頭と多産なんですな。体格は平均体高78cm とほとんどのヤギよりも大きいのが特徴。中東では「シャーマンヤギ」とも呼ばれ大変人気があり、最高級のダマスカスヤギは250,000サウジリヤル(約740万円)もの値が付くそうです。
Sep 5, 2018
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お婆さん役の女優さんと云えば、菅井きんがダントツに有名でしたね。この人、役者になる前は東大(東京帝国大学)の事務員だったのです。同じようにお婆さん役が似合って、役者前の前職が同じく普通のOLだったのが飯田蝶子。こっちは松坂屋上野店の店員でした。飯田蝶子は、このとき呉服売り場で人気女優のマネキンの披露があって、モデルの女優が松坂屋に来たとき、女優の後ろに店員がぞろぞろくっついて歩くのを見て、女優と云うものに憧れるのです。後に浅草の公園劇場で常打ちしていた中村又五郎一座の女優募集を新聞広告で知って、応募して採用されます。ところがやっと女優になったと思ったら、翌年には座長が亡くなって一座は解散してしまうのですね。その後、アルバイトをしながら映画会社の女優募集に応募するのですが、ことごとく空振りに終わります。そして運命の松竹蒲田撮影所に入所なんですが、これまた一筋縄でいかなかった。それは飯田の顔にありました。女優にするには、あまりに不美人だったからです。1922年(大正11年)、友人と松竹蒲田の女優募集に応募します。面接を受けると、美人な友人は採用され、飯田は不美人という理由で採用されなかったのですね。そこで飯田は「女中などの脇役は美人がやると不自然で、自分のような不美人が脇役に合っている」と自説をまくしたてると、監督で所長をやってた野村芳亭(日本映画の基礎を作った功労者の1人)が共感し、無給の見習女優としてテスト採用されるのです。日本映画初期の人気女優"栗島すみ子"の草履揃えから仕出しまで何でも献身的にこなしたのですね。栗島すみ子は教えることにも熱心で、数万人と云われる弟子の中には、飯田蝶子の他に、淡島千景や池内淳子なんかもいます。そんな飯田の熱心さを認めた松竹蒲田はテスト採用の翌年、1923年、月給10円で正式採用を決めます。と云っても、この当時、長屋の家賃が約10円くらいですから、生活には困窮してたでしょうね。このとき、初めて「飯田長子」と云う芸名をもらうのですが、あくまで大部屋の一員です。主役級の俳優は出演本数に基づいて出演料が支払われましたが、大部屋俳優は定額の月給制で、危険を伴う演技など何らかの特別な場合に一定の手当が加算される形式です。大部屋の俳優は端役を演じるのが専門なので、出演者としてクレジットされることもあれば、エキストラ同然の扱いでクレジットされないこともあります。大部屋から出世した俳優では川谷拓三が有名ですが、デビュー作は東映作品「ひばり捕物帖 振り袖小判」の"死体役"でした(笑)最初の飯田は仕出し(通行人などの端役)ばかりでしたが、栗島すみ子の旦那さん池田義信監督の「闇を行く」で色気のない女土方を演じたら、それが監督の目に止まり出世作となりました。次いで蒲田映画の一翼を担った牛原虚彦監督の「人性の愛」で老け役を演じると好評を博し、ボーナスを貰った上に月給は50円になったのです。下の画像は今井正監督で1951年(昭和26年)公開された映画「どっこい生きてる」のワンシーンです。このとき飯田は54歳。立派にオバサン役をこなしています。この作品は今井監督 初の独立プロ作品で「1口50円の出資者」を募集して、400万円の製作費で作られました。森繁久彌の大ヒット「社長」シリーズにも飯田が登場してます。1961年(昭和36年)の「社長道中記」で、列車の老婆役で出演。缶詰会社の社長である森繁が大阪へ出張の際、新幹線で隣の席に座ったおばあさんが飯田。この飯田がふんふんと歌う鼻歌「かんかんのう~、きゅうのれつ」というフレーズにヒントを得て、森繁は自社製品のCMソングを思いつくというシーンです。加山雄三主演の大ヒット映画「若大将」シリーズには第1作目の「大学の若大将」(1961年)からずっと、加山演じる田沼雄一の祖母役で出演してました。この祖母は1970年の「俺の空だぜ!若大将」まで、つごう15作も登場してます。この加山の祖母ってのが明治生まれだけど、新しもの好きで加山の理解者でもある。作品ごとにボクシングだったり、007だったり、はたまたエアロビ、ゴルフ、英会話と凝ってるものがどんどん違ってきます。シリーズ最終作の「帰ってきた若大将」(1981年)では、飯田が既に他界していたため、写真で出演しています。
Jul 15, 2021
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ヴィルヘルム・フランツと云うドイツ人を知らなくても、彼が創業した「EMT」は古いオーディオ・マニアだったら懐かしさとともに、羨望の目を隠せないでしょう。EMTが創業したのは1938年(昭和13年)で、当初は無線や通信用の特別な制御、測定装置専門の製造会社でした。戦後、EMTはレコードプレーヤーなんかの製造を始め、これが古参のオーディオ愛好家の知るところとなったのです。EMTの製造する音響機器は業務用に徹していたため、思いきし質実剛健です。下に「EMT-927」と云うEMTを代表するレコードプレーヤーの画像を載せますが、前面のパネルを取り外した画像ではないんです。モーターむき出しのこの画像が製品そのものなんですね。ところが、このプレーヤーがとびきり音がいい。その秘密はとてもレコードプレーヤーとは思えない徹底したサスペンションによる制震構造だったのです。で、世界中のスタジオやラジオ局がこぞって採用したのですね。他にもEMTは、フォノカートリッジやトーンアームなどレコード再生に必要な機器の製造をしてましたが、どれもとび切り性能がよくて、かつ高価だったのです。それでも熱心なオーディオ愛好家は自宅に据え付けるの憚れる外観もお構いなしに、こうしたEMTの業務用機器を購入した人が多かったです。EMTは現在も健在で、形こそ民生用機器に近づきましたが、それでもEMTならではのこだわりもった製品ばかりです。下の2枚の画像、上は近々発売予定のレコードプレーヤーですが、音の濁りを防ぐためバッテリーで動きます。バッテリーがいちばん純粋な電源になるワケですが、充電が伴うのでいつでも聞くと云うワケにはいきません。このプレーヤーで連続3時間動いて、それを過ぎると充電のために休止しなくちゃなりません。下の画像はフォノカートリッジで拾った微細な音をアンプに導くためのフォノイコライザーと云う機器で、こっちは音のために特別仕様の真空管を使ってます。しかし、こうしたオーディオ機器の開発はEMTにとって、片手間仕事だったのですね。彼らが最も力を入れてたのは、レコーディング機器の製作です。EMTで最も有名なのは「EMT-140」と云うリバーブの機械です。リバーブは残響装置とも呼ばれますが、要するにカラオケスナックなんかでオッチャンが歌ってるとき、歌を上手にみせるためのエコー装置と同じです。自然界で残響音がない音は存在しなくって、普段生活しているときに聴こえる音には、必ずどこかに跳ね返った音も一緒に混ざって聴こえてきます。声やシンセサイザーの音のみでは違和感を感じてしまうのですね。とは云っても、カラオケのエコーは効かせすぎで、全員が(石原)裕次郎が唄てっるような違和感が(笑)レコーディングでは使ってるか分からない程度にリバーブをかけます。現在はカラオケもレコーディングでも、ほとんどが「電子リバーブ」を使ってます。今どきのレコーディング現場では、PCを使用して音楽を製作編集するのが常識なので、そこに使われるソフトとしてリバーブも有るのですね。リバーブには昔の家庭用ステレオなんかに装備されてた「スプリングリバーブ」と云うのもあります。金属製バネを使用した装置です。しかしノイズを拾いやすく、バネで振動を伝えるため特有の共振特性があって、あまり良い音とは云えませんでした。現在ではこの「バネっぽさ」が逆に独特のサウンドキャラクターとしてギターアンプに使われてます。スプリングリバーブと違って、「EMT-140」はとても家庭に持ち込めるようなものではありません。なんせ大きさが2.4m ×1.2m ×0.3m もある巨大な装置だからです。ダブルベッドのサイズが1.95m ×1.40m ですから、これの大きさとほぼ一緒ってことです。レコーディング用語に「チェンバー」と云うのがあります。チェンバーは特定の目的で使われる部屋のことです。この部屋は残響が発生しやすい部屋にスピーカーとマイクを立てて録音することでリバーブ状態を作り出しているのですね。そして、このとき得られるリバーブはとても自然な音がします。EMT-140はチェンバーに似た非常に自然なリバーブが得られることで有名です。構造は「プレートリバーブ」と云い、薄い大きな「鉄板」を振動させてリバーブが得られるように作られてます。リバーブを得る方法はシンプルで、鉄板の一方の端にスピーカーのようなデバイスがあり、もう一方にマイクがあって、スピーカーから出た音が鉄板を伝わってマイクに届く信号を拾ってるワケです。初期反射が大きく、音の立ち上がりも早いのが特徴で、「濃い、深い、温かい」などのイメージを抱くレコーディングエンジニアが多くいます。この機材は主にボーカル用のエフェクトとして利用されています。EMT-140は、それ自身が振動に弱いので、スタジオの外に防音室を設置して格納します。そしてスタジオのコントロールルームにリモートのコントローラーが設置してあり、それを使用してダンパー(鉄板の振動を抑える装置)を動かし、響きの長さを調節するのです。1950年代後半にEMT-140は、ビートルズやピンク・フロイドなどの録音を手掛けたロンドンの「アビー・ロード・スタジオ」に4台納品されました。1976年までに、さらに3台が設置され、合計7台のEMT-140が稼働してました。EMT-140が発売されたのは1957年(昭和32年)なのでとてつもなく古い機器です。その後もEMTは改良型を投入してきましたが、今はプレートリバーブのリバーブ装置は製造してません。それでも、世界中の多くのスタジオにこのシステムは残っていて、現役で稼働してます。歌物収録時はもちろん、バンド録音からストリングス録音、ミックスダウンなど多くの場面で使われており、特に「演歌」ではリバーブにこの機器しか使わないエンジニアが多くいます。
Feb 11, 2023
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「愛とは決して後悔しないこと」。このこそばゆいセリフは有名な映画「ある愛の詩」で主演のライアン・オニールが語った言葉。と、云っても1970年の作品ですから、この年生まれた人で今年53歳。ミスチルの桜井桜井くんや、マライア・キャリーが今年53歳ですから、ご本人たちはと~ぜんリアルタイムでこの映画を観てないワケです。「ある愛の詩」でライアン・オニールと共演したのはアリ・マッグロー。ご存知ない方のためにストーリーを簡単に述べると、お金持ちの家に生まれたオリバー(ライアン・オニール)は、家柄違いのジェニー(アリ・マッグロー)と恋に落ち、父の反対を押し切って結婚します。ふたりが24歳になったとき、ジェニーが白血病で命残り少ないことが判明。しかし、ジェニーの病状は好転せず亡くなってしまうのです。父親と和解したオリバー、ふたりの思い出の場所に行き雪のセントラルパークを静かに眺めると云う物語。なんとも悲劇的恋愛物語の典型ですね。アリ・マッグローって、そんな飛び抜けてべっぴんさんには感じないのですが、業界のスタートはモデルさんなんですね。その後、女優になって、1969年にリチャード・ベンジャミンが主演したロマンティックコメディ映画「さよならコロンバス」で一躍人気女優に。その後、1970年に「ある愛の詩」出演で人気が不動のものに。そして、1972年に世界で最も高給取りの映画スターとして有名なスティーブ・マックイーン主演の映画「ゲッタウェイ」にマックイーンの妻役として出演。この作品がきっかけでマックイーンと結婚したのが1973年8月のこと。この結婚生活は1978年の離婚で終わり、その間、マッグローはマックイーンとの間にできた子供を流産しています。マッグローの映画人生は1968年の「ボディガード」で映画デビューして以来、主な作品はいままで挙げた「さよならコロンバス」「ある愛の詩」「ゲッタウェイ」の3作品だけです。1980年以降はTV映画なんかに少し顔を出す程度の露出しかありませんでした。そんな、もはや忘れ去られた女優が2006年に復活したのです。このときマッグロー68歳。しかもブロードウェイの舞台デビューです。作品は1998年のデンマーク映画「セレブレーション」を舞台化した「フェステン(Festen)」で。さらにマッグローは2015年になって、かつて「ある愛の詩」で共演したライアン・オニールと再びブロードウェイの舞台作品「ラブ・レターズ」の、こんどは全国ツアーをおこなったのです。これまで誰も映画やお芝居でふたりを再び引き合わせようとしたことはなかったのですが、ラブ・レターズの出演交渉者がライアン・オニールに交渉電話をしたとき「アリ(マッグロー)がやってるの?」とオニールが尋ねたので「ハイ」と答えると、オニールは二つ返事で出演を承諾したのです。なんか、上の画像を見ると、ふたりともいい感じに歳を重ねていますね。そして2021年になって、「ある愛の詩」が再び認められ、アリ・マッグローとライアン・オニールはハリウッドの殿堂入りを果たすことになるのです。そうしてハリウッド大通りとヴァイン通りの道沿いの歩道で、セレブの名前が刻まれた2,600個以上の星型プレートがずらりと埋め込まれている「ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム」にふたりの名前も刻まれたのです。
Jun 9, 2023
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「あんた江戸っ子だってね、食いねぇ、寿司を食いねぇ」ってのは森の石松がたまたま、金比羅に行く船に乗り合した旅人が石松に云ったセリフ。これに対して石松は「神田の生まれよ」ってのは浪曲の広沢虎造の創作。この元ネタには大阪の八軒店で寿司を買うくだりがあるので、江戸っ子に食べるよう勧めた寿司は実は大阪の押し寿司なんですな。しかも森の石松の出生地は愛知県とか静岡県と伝えられているので、石松を江戸っ子と呼ぶのもはばかれる。森の石松と云えば、隻眼、隻腕で有名ですが、実は清水次郎長の子分に「豚松」と云う隻眼、隻腕の人物が居て、この人と混同してるのではないか?もともと石松なんて居なくて豚松をモデルにした架空の人物だと云うのが定説です。森の石松のお墓も各地にあります。石松の墓石の破片を持っているとギャンブルに強くなるという迷信があって、有名な静岡県の大洞院にある石松のお墓は何度も作り直さなければならないほど墓石の傷みが激しいです。で、先ほど出てきた「豚松」。本名を三保の松五郎と云い、こっちは実在が確認されています。この人物は実際に隻眼、隻腕で、隻眼になったのはケンカ。ケンカで顔を切られて、眼球が飛び出し、その形相に切った相手は恐くなって逃げ出したと云います。ところが豚松のスゴイところは、飛び出した眼球を自分の手で目の奥に納めてから医者に行き、治療中は鼻唄を唄っていたと伝えられています。豚松の隻腕は次郎長一家と平井一家二代目 雲風亀吉とのケンカのとき。豚松は、独りで5人を相手に奮闘し、まず左腕を斬られ、次に右顔面を斬られたが3人を倒しました。その後、切断された腕を接着しようとしたのですが無理だったので投げ捨てたところ、仲間に「親にもらった身体を捨てるな」と云われて拾って帰ったと云う話。明治4年に清水次郎長が闘った荒神山の手打式があって、その直後に撮られた写真が残っています。そこに「豚松」の姿が。しかし次郎長、次郎長夫人のお蝶、大政、小政などの墓はちゃんと残っているのに、豚松の墓は不明なんですな。豚松は三ん下ぢゃなくて、次郎長の元にちゃんと一家を構えた親分であったと云いますから不思議な話です。中之島公園の猫たち-SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK-」整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。
Jan 8, 2016
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おととい、ヨドバシに行った帰り、梅田にJTの電子タバコ「プルーム・テック」のアンテナ・ショップが4月まで期間限定でやっているので行ってきました。「プルーム・テック」は地域限定販売で、大阪のコンビニに並ぶのは9月まで待たなきゃならない。なので本体(バッテリー)を持っていても、カートリッジとタバコ・カプセルが手に入らないからです。で、ショップに到着したら、結構なお客さんです。入口に案内係りの人がいて、順番に案内してる。私は本体は持っているので、カートリッジとタバコ・カプセルを買いたいと告げると「あぁ、それだったらこっちのレジで承ります」と案内係りの青年。レジは2ヵ所あるのだけれど、双方のレジ係りのオッチャンがふたりで相談しながら、私の前の独りのお客さんを接客中。見るからに、運動神経の鈍そうな中間管理職みたいなレジ係り ふたり。それが、POS(精算を行うレジ)の操作に慣れてないのか、いつまで待ってもラチがあかない。お客さんもイライラしてるの分かります。こりゃあ長期戦だべ。よ~やく前のお客さんの精算が終わって、私の番です。しかし、件のレジ係りはまだPOSと格闘してて、私と目線をあわせない。やっとこさ「お次の方...」。「お次」はないやろ、「お待たせしました」と云うのがマナー。まぁいいか、こんなオッサンに云っても理解できないだろうから。で、「もういいの?...」と私の言葉が終わる前に、レジ係りのオッサンはやおら隣のレジ係りとなにやら話し出して...私には一瞥もせず、前のお客さんがいるカウンターへ。なにかレジの打ち間違いでもあったのかな?それより、私はど~なるねん!(笑)結局、私はもうひとりのレジ係りに応対してもらって、無事にカートリッジとタバコ・カプセルを買うことができました。しかし、これでJTのマネージメントの体質が分かりましたね。製造業だから、普段接客をしないのはわかるけど、それだったら、きはしのきいた社員を接客にあてがうとか、ショップをひらく前にコンビニにでも接客のトレーニング出したらいいのに。接客を甘く見過ぎています。メルセデス・ベンツがTVでCMを打つのは、買ってほしいと云う動機よりも、ベンツのオーナーに対して優越感をもたせるのが狙いと聞きました。つまり製造業のベンツが、企業意識としてはサービス業に徹しているのです。昔のSONYもそうでしたが、今はかなりその企業精神が失われています。例え、お客さまと直接接しなくても、例えば生産部門であっても、上司と部下、同僚と同僚、みんなサービス業の精神で対応すれば、結果、効率がグンと伸びるのです。つまり、利潤を追求する企業はどの職種であれ、全部サービス業と云うこと。なにも居酒屋なんかの飲食業だけがサービス業ぢゃないですよ~JTのテナント・ショップを出るときに、「たんへんやねぇ」と案内係りのオニイチャンに云ったら、私の云ったイミが分かったのか、苦笑いしてました。JTの前身、政府によるタバコの専売は明治37年7月に始まりました。江戸時代は、「細刻みを煙管で吸う」文化でしたが、明治以降、紙巻たばこ(シガレット)の普及によって、都市を中心に手軽な紙巻たばこへと移っていきました。紙巻たばこは、ハイカラな風俗のシンボルとして日本人の興味を引いたのです。とは云っても、全国的に見ると、多くの日本人は、伝統的な細刻みタバコの方を吸っていました。明治30年代には、約5,000人のタバコ製造業者がいましたが、その大半は、刻みたばこを製造していたのです。画像は当時のユニークな刻みたばこパッケージです。明治中期からタバコ産業は、大都市を中心に、問屋制手工業から、工場制手工業、そして機械工業へと移行しました。煙草の生産が増加し、庶民の間で人気が高まると、タバコ商はより多くの商品を販売するために、あらゆる媒体を利用して、猛烈な宣伝合戦をくり広げたのです。特に、東京の岩谷商会と京都の村井兄弟商会の宣伝合戦が有名でした。「天狗たばこ」で知られる岩谷松平の岩谷商会は、国産の葉タバコを原料とした口付タバコを主力商品としていました。口付タバコと云うのは、ロシアで発達し、東欧、北欧で多く見られました。紙巻たばこに口紙と呼ばれるやや厚い円筒形の吸い口をつけたもので、そこを吸いやすいようにつぶして喫煙しました。画像は大蔵省専売局が製造・販売していた「敷島」です。煙管のいらない紙巻タバコに人気が集まってきた風潮をいち早く先どりして、初めて国産の紙巻タバコを製造したのは現在の国立劇場近くに住んでいた元彦根藩士の土田安五郎です。1872年(明治5年)のことです。当初は輸入帽子の薄い包装紙を使うなど試行錯誤を重ねますが、紙巻きに成功したことで、100本3銭くらいの安値で販売できるようになりました。ちなみに、土田安五郎の孫は、長じて世界トップクラスのイギリスの薬品会社「スミスクライン・ベックマン・ジャパン」の会長となった小山八郎さん。小山さんは、早稲田高等学院の合格が決まった日、父親から煙草を渡されて、「もう中学も卒業したのだから大人だ。さあ、吸いなさい」と云われます。小山さんが一瞬思い浮かべたのは、初めての喫煙でむせている不様な自分の姿です。それを思った途端、無意識にたばこを父に戻していました。「たばこは吸いません」こうして、小山さんは一生タバコを吸わずに過ごしたそうです。先にも述べましたように、国内一般に口付きタバコを広めたのは岩谷松平です。1884年に東京の銀座に岩谷商店を開設。建物、馬車そして服まで赤く装い、自ら、「広告の親玉」「安売り隊長」「東洋煙草大王」と称し、「勿驚(おどろくなかれ)税金たったの百万圓」「慈善職工五萬人」など、いささか誇大広告的なキャッチフレーズを看板やポスターに多用する、ハデな宣伝広告で「天狗印」を売り出しました。日清戦争の際には軍に煙草を納入し、これが後の「恩賜のたばこ」のもととなったのです。恩賜の煙草は、天皇から下賜された紙巻きタバコのことです。2006年(平成18年)末で廃止されましたが、それは健康増進法の制定など、健康にとって有害なものを嫌う風潮の高まりを受けてのことです。代わりに現在は菊花紋章入りボンボニエール(ボンボン菓子容器)に金平糖を入れた「恩賜の金平糖」となってます。恩賜の煙草は私も吸ったことありますが、昔風のとても強いタバコで、口にあわなかったです。しかし岩谷松平のオモロイ話しはタバコ製造始める以前のこと。薩摩出身の岩谷松平は、最初、東京銀座に薩摩物産販売店「薩摩屋」を開き、成功を収めるのですな。それに乗じて、自邸内に20数人の愛人を囲い、男女21人の子を儲けていたのです。1904年の専売法制定によってタバコの営業権を政府に奪われて廃業。その後は不遇な生活をしましたが、血気盛んなころの岩谷松平が正妻と愛人たちに生ませた子供の総数は53人にのぼりました。そのうち次男の岩谷二郎はベルギー大使、その息子の岩谷満は探偵小説専門出版社「岩谷書店」の創業者で、探偵小説誌「宝石」を創刊した人です。そのまた息子の岩谷温は、英会話学校NOVA、GEOSを経営する「自分未来きょういく」の代表取締役会長となりました。もう一方の雄、「村井兄弟商会」の村井吉兵衛については、長くなりましたので、また別の機会に触れましょう。
Mar 27, 2018
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今はシート内で飲食禁止の映画館も多いですが、相変わらず映画館ではポップコーンが売られていますね。なぜ映画館でポップコーンを食べるようになったのか?今では切っても切れない仲になっているポップコーンと映画館の関係はどのように作られたのか?トウモロコシの起源は8,000年前で、現在のトウモロコシとは見た目の異なる、ブタモロコシと呼ばれる雑草が起源だとされています。ちなみに私が北海道に赴任してたとき、細川たかしで有名な真狩村(まっかりむら)を通ると、地平線までトウモロコシ畑でした。ある日、誰も見ていないのをいいことに、そのトウモロコシを盗んだのですな。幾本か盗んだところで、お百姓さんが笑いながら見ているのに気づきました。バツが悪いなぁ~そしたら、そのお百姓さんが「これは牛のエサのトウモロコシだから、人間が食べてもちっとも美味しくないよ~」だってさ(笑)ポップコーンという名前は穀粒がポンッとはじけることに由来しますが、これは熱を加えた時に内側にでんぷん質とともに蓄えられた水分が蒸気となり膨張し、内側からの圧力に固い外側の組織が耐えられなくなって爆発するためです。そしてチリに向かった北アメリカの捕鯨船員がさまざまなポップコーンを発見し、ニューイングランドに持ち帰ったのが北アメリカにポップコーンが伝わった経緯だと考えられています。一度北アメリカに持ち込まれたポップコーンはまたたく間に広がりました。人々はみなポンポン跳ねるコーンをエンターテイメントだと見なし、1848年までにポップコーンは辞書に載るほど一般的なお菓子となりました。そして文字通り爆発的に広まったポップコーンはサーカスや縁日といったエンターテイメントの場で食べられるようになったのです。しかしエンターテイメントの場でポップコーンの姿が見えないたった1箇所がありました。それが映画館です。当時の映画館は教養のある人に向けて映画をアピールしており、館内には美しいカーペットやラグが敷いてあったため、ゴミとなるものの持ち込みを許しませんでした。当時は無声映画だったので、映画が上映されている時にポップコーンを食べる音に気をそらせたくなかったのも1つの理由です。そんな映画館の状況とは裏腹に、ポップコーン人気に拍車をかけたのは1885年にチャールズ・クリエイター氏が発明した蒸気によってポップコーンを作る移動可能な機械でした。ポテトチップスなどのお菓子は調理場なしでは作れませんが、移動可能な機械で作れるようにすることで、サーカスや縁日といった場で利用される商業的なお菓子になったのです。さらに他のお菓子にはない魅力としてはじけた時の香りも挙げられます。1927年に初めて映画に音声が加えられることで映画館の門戸は大きく開かれます。無声映画では文字を使っていたのですが、音声が加えられることによって読み書きの能力は問われなくなりました。1930年には映画の観客は週に9,000万人となり、それに伴ってお菓子の販売などから収益を得られる可能性も増加しました。しかし映画館のオーナーたちは観客席にお菓子を持ち込むことにまだためらいがあったとのこと。1929年の世界恐慌が起こると、人々の群れは気晴らしとして映画館に押し入り、そんな時に道端で5~10セントで売られるポップコーンは人々にとっては手に取れる贅沢品だったのです。それに目をつけた商人たちは映画館へと続く道でポップコーンを販売しだし、人々は映画館の外でポップコーンを購入してから映画館に向かうようになったため、初期の映画館にはコートを預ける場所が設けられるようになりました。コートの下にポップコーンを持っていないかチェックするためです。ポップコーンは秘密のお菓子だったのです。もう一つオーナーたちがポップコーンの販売に踏み切れない理由として、映画館に適切な換気場所がないということがありました。しかし観客たちは次々にポップコーンを持って現れ、お菓子を販売するという金銭的な魅力にあらがえなくなったオーナーたちはついに「映画館のロビーでお菓子を販売する権利」を手数料を払った商人たちに与えます。しかし道で売ると映画に向かう人と通行人の両方にポップコーンが販売できるため、商人たちはこの権利を気に掛けませんでした。最終的に映画館のオーナーたちは仲介人を打ち負かせば自分たちの利益がうなぎ上りであることに気づきました。多くの映画館ではお菓子の力を借りて不況中でも利益を得ることができましたが、1930年の中頃から、街の映画館は傾きはじめます。映画館チェーンのダラスでは、80の映画館でポップコーンマシンを導入しましたが、最も収益のよい映画館5つはポップコーンマシンを導入するにはハイクラスすぎるとして、マシンを置きませんでした。すると2年もしないうちにそれら5つの映画館の収益が赤字に転じたのです。映画館のオーナーたちはポップコーンが利益へのカギだとついに認めました。第二次世界大戦はさらにポップコーンと映画館の繋がりを強固にしました。キャンディーやソーダのようなお菓子は砂糖不足に悩まされ、1945年にはアメリカで消費されるポップコーンのうち半分は映画館で食べられるほど、ポップコーンは映画館になくてはならないお菓子となったのです。また、このころ映画が上映される前にコマーシャルが流されるようになりました。最も有名なコマーシャルは1957年に流された40秒の「みんなロビーに行こう」というというもの。コマーシャルによって人々はさらにお菓子を食べるようになりました。しかし1960年にテレビが普及することで、映画館の、そしてポップコーンの売上は減少します。道ばたやイベントで簡単に食べられるポップコーンですが、作るのが難しいという理由で家庭では普及していませんでした。この問題を解決したのがEZ PopやJiffy Popと呼ばれるキットで、ポップコーン作りに必要な専用の用具、バター、塩といった材料をすべて含んでおり、容器を火に掛けるだけで家庭でも簡単にポップコーンが作られるようになりました。1970年代には電子レンジの助けを借りて第二のポップコーンブームがやってきます。レンジのボタンを押すだけで簡単にポップコーンが作れるようになり、家庭で再び食べられるようになったポップコーンはエンターテイメントとポップコーン、映画とポップコーンの伝統的な繋がりを存続させました。ドイツの電子機器メーカーであるNordMendeは「水曜日の映画のスポンサー」という趣旨で電子レンジの広告にポップコーンを使用したほどです。一方で、ポップコーンと映画の繋がりが映画館の匂い以上に変えたものがあります。それがポップコーン産業自身です。コーンにはホワイトコーンとイエローコーンの2種あり、ホワイトコーンの2倍もコストがかかるイエローコーンは世界恐慌前は普及していませんでした。しかし、映画の観客たちはイエローコーンを好み、バターでほんのり色づけられたポップコーンに慣れきってしまったため、ホワイトコーンは受け入れられないようになったのです。現在市場で使われているホワイトコーンは約10%、残りの多くはイエローコーンで、青や黒のコーンはごく少量となっています。古い映画館であるほどポップコーンは重要で、材料費がかからないため、売店の利益率は85%ほどとなっており、これは映画館の収益全体の46%を構成します。近年アメリカでは高級志向の映画館ができはじめ、サンドイッチやパンを扱っているところも増えていますが、iPic TheatersのCEO Hamid Hashemi氏は「永遠にポップコーンはなくならないだろう」としており「ポップコーンは人々が作ることができる最も安い食べ物であり、なにより多くの人にとって儀式的な体験なのです」と語っています。と、ここまで映画館とポップコーンの関係を語ってきましたが、ここでポップコーンには罪はないけれど、かなりヤバイ動画を...「スマホの電磁波でポップコーンができるかどうか」徹底検証してみたと云うもの。iPhoneを置いた周囲にポップコーンの元になる爆裂種のトウモロコシを置き、iPhoneに着信させるとちょっとした電子レンジ状態になり、中央に置いてあるトウモロコシがはじけてポップコーンになります。これはiPhoneだけでなく、Androidのスマホでも、ガラケーでも同じ現象がおこります。電波が弱い時は、同時に2~4台のスマホをポップコーンを取り囲むようにみごとにはじけます。ドコモのページの「医用電気機器を使っている方へ」という項目を見てみましょう。ドコモのFOMAの出力は最大0.25ワット、movaは最大0.8ワット、デジタルカーホンの出力は最大2.0ワットです。中之島公園の猫たち-SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK-」整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。
Dec 13, 2016
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国土地理院の測量用航空機に「くにかぜ2」と云うのがありました。今は「くにかぜ3」。「くにかぜ3」はセスナ208B型が採用されていますが、運航は民間に委託してます。対する「くにかぜ2」はビーチクラフトC90(海上自衛隊での名称はUC-90)を改装した機体が導入され、1983年から運航を開始しました。運用は初代「くにかぜ」と同様に海上自衛隊徳島教育航空群第202教育航空隊に委託され、徳島航空基地を拠点に全国各地の航空測量や磁気測量に従事したのです。「くにかぜ2」までは、このように海上自衛隊が運用していたのですが、前述の「くにかぜ3」に使用している機材が防衛省が持っていない機体のため、民間委託に変わったのですな。「くにかぜ2」は通常任務に加え、阪神・淡路大震災や三宅島火山噴火、新潟県中越地震などの災害発生時に、災害の発生状況調査のための航空写真撮影に出動しました。航空カメラRC-30(フイルムカメラ)とGPS航法装置などを搭載していましたが、デジタル情報化に対応するために、フィルム航空カメラに代えて航空用デジタルカメラを導入しました。しかし追加機器により機体重量がかさんだことで、デジタルカメラ使用時には4名搭乗で航続時間が2.5時間にまで短くなっていたのです。そして2010年、運航制限時間である9,000時間に達したため運用を終了。今は、撮影席は切り取られ、地図と測量の科学館の常設展示室に展示されています。退役までに実施した空中写真撮影の総面積は582,570km2、撮影延長距離は209,391km、航空磁気測量の延長距離は127,500kmに及びました。最近はドローンが普及したため、航空写真が身近になりましたね。ドローンに搭載するカメラは「ゴープロ(GoPro)」とかSONYの「アクションカム」とかアクションカメラ(ウェアラブルカメラ)もしくは、中・小型の一眼が多いですね。ドローンの機体サイズと推進力を考えたら、これが精いっぱいでしょう。それより墜落したときの被害額が大きいですものね。これが業務で使う航空カメラとなると、こんなものでは役に立たないので、もっと大型のカメラになります。だいたい2種類に分類されますね。ひとつは普通のカメラに暴風性能などをアップさせた手持ちカメラ。もうひとつは航空写真専用の大型機です。大型機と云うのは、先に述べた「くにかぜ2」のRC-30のように、小型飛行機の床に穴を開けて取り付ける大きなカメラを云います。フイルム時代でも、普通の写真では先ず使わない23cm×23cmと云う特大のロールフィルムを装着します。そして測量に使えるようゆがみのほとんどない広角レンズや超広角レンズで300mm ぐらいのを搭載しているのが特徴です。しかし、測量用航空写真の航空カメラは、カメラ本体だけでも大きいのに、フィルムの送りやシャッター作動を飛行機の速度に対応した自動装置にしたり、画面の周囲に指標を備えたりととかく大掛かりです。そんな大掛かりの装置より、手持ちの航空カメラの方が興味が湧きます。もちろん手持ちなので、フイルムも本格的なカメラ用と比べるとずっと小さい。と云ってもブローニーとか4×5インチサイズですから、普通の35mm フイルムと比べるとずっと大きいので、カメラも大型化しますが。こうした手持ちフイルムカメラは、航空写真業界では今でもデジタルカメラと併用されているようです。現在の日本の航空写真業界ではペンタックス6×7の航空写真仕様「エアロタク・ペンタックス6×7」が多く使われてるようです。こうしたカメラは超広角レンズなのでピントあわせはついていません。すこし前だったら「コニカの航空写真用カメラ」とか、もっと簡易的な方法としては特殊な魚眼レンズを普通のカメラに装着して撮影がおこなわれたようです。これは昭和35年から36年までニコンで製造された「全天カメラ」です。魚眼専用カメラなんですね。その画角は180度、つまりレンズの最先端から前の被写体はすべて写ると云う代物です。フイルムは120ブローニーで、6×6判に直径50mm の円形写真が写し出されます。ところで、こうしたカメラには「ニコン」と云うロゴが入っていません。特需要として作られたカメラにはロゴを入れなかったようです。納入先は気象庁や防衛庁などの官の他にNHKなどにも納入されましたが、総生産台数は30台しかありません。ニコンそのものにも資料が残っておらず、まさに幻のカメラです。手持ちの航空カメラで最も有名なのは「エアロテヒニカ」です。世界で初めて組み立て式フィールド用大判カメラを製造したパイオニア、ドイツのカメラメーカー「リンホフ」の製品です。4×5インチのフイルムを使う「エアロテヒニカ」は1972年に発売されて、宇宙船ディスカバリーから地球の写真撮影をするのにも使用されました。リンホフには他に6×9cm判や6×7cm判でグリップでフィルム巻き上げとシャッターセットを行なえ、3秒1コマでの連続撮影可能な「エアロプレス」。同じく航空撮影用で1983年に発売された「エアロトロニカ」と航空写真機では豊富な種類を誇っています。初めて、航空機にカメラを装填したのは1914年ですが、1917年に非常にユニークな航空カメラが作られています。イギリス製の「ウィリアムソン航空カメラ」。このカメラは先についているプロペラの回転のちからでフィルムを巻き上げる仕組みになってます。また撮影レンズは底の部分についています。このカメラは飛行機の機体外部に取り付けて使用されました。このカメラをセスナ180に取り付けて写した写真が残っています。やはり古いカメラなので、画像が鮮明ぢゃないですね。これは「フェアチャイルド」の手持ち航空カメラです。手持ちと云ってもこのサイズ。航空カメラがいかにバカでかいものかよく分かる画像です。こっちは、このブログで最初に掲出した「フェアチャイルドK-20」。軍用の航空カメラです。フェアチャイルドは、1925年~2002年まで活動したアメリカの航空機メーカーです。同社が制作した最も有名な機体は湾岸戦争やイラク戦争で大活躍した「A-10サンダーボルトII」戦闘機です。これは1939年に製造された「九九式極小航空写真機」。製造メーカーは銘板に「小西六写真工業」とありますから「コニカ」です。「東京光学(現・トプコン)」も同じ型のカメラを製造してました。とても風が強いなかで撮らなければならないので、金属で丈夫に作ってあります。「東京光学」は、もともと帝国陸軍が関与して設立された会社ですので、製造は当たり前のことだったのですね。ちなみに海軍が関わっていたのが「日本光学工業(現・ニコン)」。他には、「高千穂光学工業(現・オリンパス)」「富岡光学器械製作所(現・京セラオプテック)」「榎本光学精機(現・富士フイルム)などが日本軍の光学兵器を開発・製造してました。
Jan 3, 2018
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大谷翔平、田中将大、ダルビッシュ有、前田健太etc...アメリカの大リーグで活躍するこれらの日本人選手。その人たちを突き動かしたのはイチローや松井秀喜たちでしょうが、根本は野茂英雄にあったこと、どなたさまも異論ないでしょう。同じようにジャズの世界でアメリカを拠点に世界に羽ばたいた日本人の先駆者は、きのうご紹介した秋吉敏子であり、それに続く渡辺貞夫でした。彼らがいなかったら、70年代のあいつぐ日本人プレーヤーの渡米はなかったと思います。アメリカを拠点に活躍した日本人プレーヤー、ギタリストの増尾好秋と川崎燎、ベーシストの鈴木良雄と鈴木勲、トランペットの大野俊三、ピアニストの菊池雅章、そしてトランペットの日野皓正。どの人たちも黎明期の日本のフュージョン(マイルス・デイヴィスに代表される、ジャズを基調にロックやラテン、電子音楽などを融合させた音楽)の先駆者でした。そんなニューヨークで活躍する日本人たちを尻目に、ついに渡米しなかったギターの名プレーヤーがいます。世界的なギタリスト"パット・メセニー"に「彼がニューヨークに来たらニューヨーク中のギタリストの仕事がなくなってしまう」と云わしめた逸材。渡辺貞夫とともに、日本のフュージョン・ブームを作った先駆者と云われてるのに渡米しなかったのです。それが渡辺香津美。渡米しなかった理由は家族のためとか云われてますが不明(アメリカで単発の演奏はしてます)。渡辺香津美と云えば新宿ピット・イン。ここを根城にどれだけ素晴らしい演奏を繰り広げてくれたことか。アメリカのジャズギタリスト"マイク・スターン"はマイルス・デイヴィスが1981年にカムバックした際、ギタリストとして抜擢されて有名になりましたが、これには裏話があります。マイルス・デイヴィスは、ある日、渡辺香津美のライブを見に来ていて、ライブ後に自身の新しいバンドに入って欲しいと渡辺香津美を誘ったのです。ところがマイルスのしゃがれ声を渡辺香津美は聞き取ることができなかったため、次の日のスタジオセッションに誘われたことが分からず実現しなかったのですね。マイク・スターンは云います「香津美がもしあの日のセッションに来ていたら、自分ではなく香津美がバンドに入っていた」と。渡辺香津美は日野皓正や菊池雅章のように、ジャズと出会った後にロックと云う新しい音楽が大頭してきた時代とは世代が違います。なにしろ初めてギターを手にしたのは、中学2年で「ベンチャーズ」に興味を持ったからです。加山雄三で音楽に目覚め、後にジャズと出会ったと云う経歴の持ち主です。高校(暁星学園)の同級生はシンガーソングライターの山本達彦、先輩にコミックバンド「ビジーフォー」のモト冬樹とグッチ裕三がいます。高校在学中の1971年に出したデビュー・アルバム「インフィニット」は轟音ギターが鳴り響くジャズロックが全編に展開され、日本におけるフュージョンの萌芽となる作品のひとつになりました。その卓越したギター・テクニックで「17歳の天才ギタリスト出現」と騒がれたのです。この時期の自身の音楽について渡辺香津美はこのように語っています。「自分はジャズをやっていましたが、ギターと云う楽器の特性上、ロックの影響から逃れられない。普通にエフェクターを使っていましたし、出演する店によっては「ジャズはそう云うのを使わないんだ」って怒られたり、ワウペダルを踏んでると客席から靴が飛んできたリ。僕にしてみれば、心寄せるジャズのスピリッツを心地いいロックのサウンドで弾いてたワケです」。渡辺香津美は渡辺貞夫らトップミュージシャンのグループに在籍してました。 そして1979年には坂本龍一、矢野顕子、村上秀一らと「KYLYN BAND(キリンバンド)」を結成します。(それにしてもスゴイ顔ぶれですね)また同年にはYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)のワールドツアーにサポート・ギタリストとして参加したりしました。1979年11月6日ニューヨーク、「ザ・ボトムライン」でおこなわれたYMOの「トランス・アトランティック・ツアー (TRANS ATLANTIC TOUR)」で、渡辺香津美はライブの真髄と云っていいギター・ソロを聴かせます。そしてついに80年代の大ヒットアルバム「トチカ(TO CHI KA)」の発表です。渡辺貞夫の「カリフォルニア・シャワー」、日野皓正の「シティ・コネクション」並び、日本のフュージョン3大名盤と呼ばれるものです。ヴィブラフォン奏者のマイク・マイニエリがプロデューサーとして迎えられ、マーカス・ミラー(ベース)、スティーヴ・ジョーダン(ドラムス)と気鋭の奏者を加え、奔放かつ切れ味鋭いギターを聴かせます。このアルバムの収録曲「Unicorn」が日立のオーディオ・ブランド「Lo-D」のCM曲に使われ、人気を不動のものとしました。 Unicorn 渡辺香津美 feat.野呂一生&JIMSAKULUNA SEA、X JAPANのギタリスト、SUGIZOは「間違いなく日本で一番のギタリスト」と渡辺香津美を評しています。渡辺香津美の代名詞、1956年製「ギブソンレスポールスペシャル」。実はコレ、1980年にマンハッタンの楽器店に立ち寄った際、デヴィッド・スピノザが試奏していたものです。スピノザが一旦帰った後、慌てて頭金を払い、その後即購入したものです(笑)
Nov 27, 2019
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ミネアポリスの白人警官が、膝でアフリカ系のジョージ・フロイドさんの首を押さえつけ死に至らしめたことに関する抗議活動は全米はもとより、世界各地、まさに地球規模に発展してますね。アメリカでは、1865年に終結した南北戦争後も、「ジム・クロウ法」と呼ばれる州法によって、国内の全州で、黒人のみならず全ての有色人種に対する制度的な差別が、1964年の公民権法制定までのあいだ「合法」行為として大手をふってまかり通っていたのです。ジム・クロウ法は、主に黒人の一般公共施設の利用を禁止制限した法律ですが、しかし、この対象となる人種は「アフリカ系黒人」だけでなく、黒人との混血者やインディアン、黄色人種など白人以外の「有色人種」全てを含んでいるものでした。サラ・ヴォーンやエラ・フィッツジェラルドと並んで、女性ジャズ・ヴォーカリスト御三家の1人に数えられるビリー・ホリデイのヒット曲「奇妙な果実」はアメリカの人種差別を告発する歌です。題名の「奇妙な果実」とは、リンチにあって虐殺され、木に吊りさげられた黒人の死体のことなんです。歌詞は「南部の木には、変わった実がなる...」と歌い出し、木に吊るされた黒人の死体が腐敗して崩れていく情景を描写してます。Strange Fruit. Billie Holliday南アフリカ共和国もかつては「アパルトヘイト」と呼ばれるとんでもない有色人種に対する人種差別で知られてましたね。そのアパルトヘイト撤廃に尽力したのがご存じネルソン・マンデラ。1994年におこなわれた南アフリカ初の全人種が参加した普通選挙で大統領に就任し、民族和解と協調政策を推し進めた人物です。ノーベル平和賞を受賞してます。このマンデラが死去したときの追悼式典で、手話通訳の男がただ適当に手を動かしてただけだったことが判明して物議を醸しましたね。ちなみに(ど~でもいいことですが)、物議を「醸す」を「醸し出す」と云ったら誤りです。「物議」とともに用いられるのは「醸す」なんですな。実はネルソン・マンデラは1992年、歴史的にとても有名な映画に出演しています。デンゼル・ワシントンが主演して、スパイク・リーが監督、アメリカの黒人公民権運動活動家の生涯を描いた「マルコム・X」です。この映画のラストシーンにマンデラが友情出演してます。マルコムの最も有名な演説「我々は宣言する。今、この日、この瞬間、我々は人間存在を取り戻す。いかなる手段を使っても!」を教室の小学生たちに教えるシーンです。ちなみに映画ではマルコムが暗殺された現場で彼の頭を支えていたのは奥さんになっていますが、実際には日系アメリカ人活動家のユリ・コウチヤマ(河内山百合)でした。彼女は2016年、アメリカ版グーグルのロゴに取り上げられてます。マンデラを主人公にした映画はいままで3本作られてます。2007年にデニス・ヘイスバートがマンデラ役をやった「マンデラの名もなき看守」。この映画は終身刑を受けたマンデラを監視するという任務に就き、最初、マンデラを死刑にすることが当然と考えていたグレゴリーが、独房で実際にマンデラと出会い、その威厳ある態度に接することで徐々に考え方を変え始めると云うストーリーの映画です。実際の看守で、原作者でもあるジェイムズ・グレゴリーは、1994年マンデラ大統領就任式に招待されています。次は2013年にマンデラの自伝を映画化した「マンデラ 自由への長い道」。マンデラ役はイドリス・エルバです。しかし、何と云っても有名なのは2009年の映画「インビクタス/負けざる者たち」でしょう。「インビクタス(Invictus)」はラテン語で「征服されない」「屈服しない」を意味します。この映画は大統領になってからのマンデラを扱ってます。マンデラ役はお馴染みモーガン・フリーマンです。これはマンデラ自身の希望でした。自伝「自由への長い道」が出版された際、「映画化されるとしたら誰に演じてもらいたいか」との記者の質問にモーガン・フリーマンを指名したのです。それをきっかけに、フリーマンはヨハネスブルグにあるマンデラの自宅を訪問してます。映画化権を得たフリーマンはクリント・イーストウッドに監督を依頼しました。イーストウッドも「是非やりたい」と快諾してます。もうひとりの主役、南アフリカ ラグビーの代表チーム・キャプテン、フランソワ・ピナール役はマット・デイモン。マンデラが大統領となると、それまで政府の主要ポストを占めていた白人官僚たちは、マンデラが報復的な人事をするのではないかと恐れ、荷物をまとめ始めました。それに対しマンデラは、初登庁の日に職員たちを集めて「辞めるのは自由だが、新しい南アフリカを作るために協力してほしい。あなたたちの協力が必要だ」と呼びかけるのです。こうして白人職員たちは引き続きマンデラのもとで働くこととなります。マンデラは南アフリカ代表のラグビーチーム「スプリングボクス」が白人と黒人の和解と団結の象徴になると考えました。とは云えスプリングボクスは当時低迷期にあり、黒人選手もわずか1人という状況でした。ラグビーはアパルトヘイトの象徴として、多くの黒人の国民のあいだでは非常に不人気なスポーツでもあったのです。マンデラは主将フランソワ・ピナール(マット・デイモン)を茶会に招いて励まします。スプリングボクスのメンバーたちは、マンデラの意向で貧困地区の黒人の子どもたちにラグビーの指導に赴くことにします。最初はそれを不満に感じていたメンバーでしたが、地道な活動により、国民のあいだでチームの人気が少しずつ高まり、自分たちの存在が国内のみならず世界的に注目されていることを知ります。1995年のラグビーワールドカップは南アフリカが開催国です。スプリングボクスは予想外の快進撃を見せ、ついに決勝進出を果たします。全南アフリカ国民が見守る中、強豪ニュージーランド代表オールブラックスとの決勝戦に臨むことになりました。そして世界中の誰もが想像しなかった優勝のトロフィーをつかむのです。マンデラは2013年12月5日、ヨハネスブルグの自宅で死去しました。享年95歳。追悼式には今の今上天皇(当時、皇太子)を始め、イギリスのチャールズ皇太子とキャメロン首相、アメリカはオバマ大統領とビル・クリントンやジミー・カーター元大統領、そしてキューバのカストロ議長など各国の国家元首かそれに準ずる人物が出席しました。この追悼式の席でオバマ大統領とカストロ議長が歴史的な握手をしたのです。これは2000年の「国際連合ミレニアム・サミット」でビル・クリントンとカストロ議長が握手を交わして以来13年振りのことでした。この追悼式で各国首脳が追悼演説を行う壇上の側に控えていた、聴覚障害者のための手話通訳タマサンカ・ジャンティの手話がデタラメだったことは先ほど述べましたね。デイリー・テレグラフが専門家に解読を依頼したところ、全ての動作が完全にデタラメで、かろうじて意味を成していたのは「子供」という一語だけだったそうです。このマンデラの死去に伴うできごとでは、もうひとつオカシなのがありました。インドでの出来事です。マンデラが死去して、インドの都市コーヤンブットゥールに功績をたたえた看板が建てられたのです。看板にはマンデラの他、ガンディー、マザー・テレサ、キング牧師ら「人類の平等」のため戦った20世紀の偉人たちの写真が並べられていますが、マンデラの写真だけとりわけ大きく取り扱ったものでした。看板にはタミル語で「彼らが生きた時代の一部になれたことを我々は誇りに思う」と書かれています。が、しかしよく見ると、マンデラの写真が...「ちょっと、それオイラの写真...」と モーガン・フリーマンが云ったかどうか分かりませんが、この看板をデザインしたデザイナーはマンデラを知らなくて、「インビクタス/負けざる者たち」の画像を検索したのでしょうなぁ(笑)
Jun 10, 2020
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同じ哺乳類でも種別が違うと身体の構造も違ってきますね。例えば同じゾウなのに、アジアゾウはアフリカゾウに比べると耳が小さいですね。牙もアフリカゾウの方が立派。その代わりアジアゾウの鼻には、上部分に突起があり、これにより鼻に巻きつけて持つのが得意です。またアジアゾウは人に慣れやすく温厚な性格してますが、アフリカ象は気性が荒くて人に慣れにくいところがありますね。総じてアフリカゾウの方がアジアゾウより大きいです。こさら左様に生き物は十人十色。それは脳と云った体の内部まで。人間の脳には約860億個のニューロン (神経細胞)が含まれています。脳の波紋と襞は、私たちのすべての行動、感情、本能の源ですね。ところがウニやナマコ、クラゲのように脳をまったく持たない生き物もいるからオモシロイ。あの可愛すぎるコアラの脳はど~でしょう。コアラのご飯はご存知の通りユーカリ。ユーカリの葉には青酸配糖体という毒素成分を含んでいます。この有毒成分は青梅にも含まれているもので、誤飲すると喘息の悪化や食あたりを起こす可能性があります。コアラの消化系器官は、そこに共棲するバクテリアの力を借りて、ユーカリの葉に含まれる毒性成分を解毒する特別な機能が備わっているのですね。ところが、このユーカリの葉には栄養価がほとんどないのです。それでコアラは何日もかけて腸内で葉を発酵させなければなりません。なので腸の比率は身体全体で哺乳類の中で最大です。 腸の比率と比べて、身体に対する脳の比率は比較的小さいです。彼らの脳はユーカリの僅かな栄養から極めて少量のエネルギーしか貰えないので、考えるための充分なエネルギーが足りないのですね。それでコアラの脳は脳腔の75%しか占めておらず、脳脊髄液によって脳の内側表面に押し付けられているのです。それがために、コアラは人生の80%を寝て過ごすしかないのです。ニューロンの表面積を拡大するには、脳を折りたたむ必要があります。そのため人間のような生き物は、細かく折りたたまれた大きい脳を持っています。それに対して、コアラやカンガルーのような有袋類は他の哺乳類よりも脳が小さい傾向があります。それ以上にコアラの脳が人間などと違うのは「脳にヒダがない!」と云うことです。つまりちっちゃい脳で、しかもヒダがないのでニューロンの面積がとても少ない。しかし脳の大きさだけでコアラは怠けもので、愚かものと云う認識は誤解です。たしかに脳のサイズが小さいと云うことは、認知能力が限られていることになりますが、食物を見つけたり捕食者を避けるために樹上の複雑な環境を移動しなくてはなりません。コアラはお気に入りのユーカリの木の場所を記憶しており、お腹すいた時にそこに戻ることができますが、これには ある程度の空間認識能力と問題解決スキルが必要です。またコアラは孤独な動物ですが、発声と匂いのマーキングを使用して互いにコミュニケーションしており、これはある程度の社会的相互作用とコミュニケーションスキルを示しています。コアラはエネルギーを節約するために 1日最大18~22時間睡眠します。だからと云って、怠けものとは当たらないのですね。それは、あくまでユーカリと云う低栄養の食事をしているからなんですから。コアラの脳は、食事のニーズに合わせて進化してきました。彼らは環境にうまく適応し、問題解決スキル、空間認識、社会的行動をそれなりに示しています。つまりコアラの脳は一見単純そうに見えますが、生息地での繁殖を可能にする認知能力を持っていると云うことです。
Feb 6, 2024
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ドイツのカメラと云えばだれもがライカを連想するでしょう。現在はライカもデジタルが主流で、フイルム・カメラのラインナップが減りました。20世紀初頭には、ライカを凌駕するカメラが何種類もドイツ発で販売されてました。世界のライカでさえ、真っ青なカメラたちです。先ずはこれをあげないとお話しになりません。イカ製のアトム53。最初の発売は1908年。イカと云う会社のカメラなので「イカアトム」として知られていますが、元々はヒュッティヒと云う19世紀に起業した会社が製造してました。その後ヒュッティヒ社は有力な他の3社と合併してイカ社となったのです。さて、このアトム53、もうフイルムが売ってません。ブローニーや35mmと呼ばれるロールフィルム普及前に最小フォーマットであった4.5×6cm 乾板を使用したもので、この製品以降、この乾板は「アトム判」と呼ばれるようになりました。ロールフィルムが供給されなかった時代には「大手札版(9×12cm)」「手札版(8×10.5cm)」「大名刺版(6×9cm)」などさまざまなサイズの乾板フィルムがあったのですが、「アトム判」はこうした中では最小サイズでした。前ぶたを開くとワンタッチでレンズ部が所定の位置に固定される仕掛けです。隠しボタンを押すだけで立ち上がる、いわゆるスプリングカメラの走り。ファインダーも本体に折り畳まれるなど、先進的な構造をとってるのです。しかし最大の魅力はそのサイズです。とにかく小さい。正面から見ると35mmコンパクトカメラより横幅が短いくらいです。このイカ社は1926年に有名なツァイス・イコンに合併してます。お次は「エクサクタI」。オランダ人のヨハン・スティーンベルゲンがドイツのドレスデンに創立したイハゲーと云う会社のカメラで、最初の近代的な一眼レフ・カメラです。このカメラ、アルフレッド・ヒッチコックの映画「裏窓」で重要な小道具として登場してます。発売は1933年。レバー巻き上げでシャッターチャージやミラーチャージを行なえる初めての一眼レフカメラだったのです。最後に「コンタフレックス」。これは有名なツァイス・イコンの製品。珍しく35mmフィルムを使う二眼レフなんです。発売は1935年です。世界で初めて電気露出計とセルフタイマーを内蔵したカメラでした。このコンタフレックス、お値段がハンパない。標準50mmレンズ付きで2,200円と云うと、当時、高級住宅が2軒買えました。日本では歌舞伎俳優の六代目尾上菊五郎が所有し、楽屋の飾り棚に並べては来る客、来る客に「どうでえ」と自慢してたとか。弟子の一人が「親方、いつ写真撮るんですか?」と聞いたところ「ベラボウめ、あんなモンで写真が撮れるけえ」という返事が返って来たと云います(笑)中之島公園の猫たち-「SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK-」整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。
Sep 12, 2015
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あした義母の3回忌の法要があるので、これから新幹線で新横浜まで移動します。息子があしたの法要終わったら車で大阪まで帰ってくると云うので、深夜になるけど、ミミちゃんの面倒みれるので、今回はミミちゃん病院預けはなし。お家で1日半、ひとりでガマンしてもらうことに。明後日には、朝の新幹線で私が帰ってきます。ヨメは東京時代の友達と会うので、もう2泊、品プリで泊まります。今、桐島洋子さんの著作「いくつになっても、旅する人は美しい」を読んでいます。桐島洋子さんと云えば大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した「淋しいアメリカ人」。ずいぶん昔に読みました。1937年(昭和12年)7月生まれですから、御年81歳。私より13歳年上ですが、頭の回転は私の方が13歳年上かそれ以上劣ってる(笑)高校卒業してスグに文藝春秋に入社。20歳で雑誌「文春」の記者になりました。そこからが波乱万丈の人生ですね。19622年、ダイビングで知り合った26歳年上のアメリカ人退役海軍中佐と熱愛関係になります。相手は婚姻中で妻があったのですが、桐島さんは妊娠し、1964年に「未婚の母」として、長女かれんを産みます。これが後々、歌手で女優の桐島かれん。妊娠中も編集の仕事をやめたくなかったので、いつも大きなブラウスを着て出勤、職場に内緒で、最後の2ヶ月は病気休暇をとって出産。その後1週間で職場に復帰しました。桐島かれんは、千葉の知り合いの未亡人に預けられたのです。桐島さんは1965年、次女ノエルを身ごもり、やはり長期休暇を取って会社には内緒で産むつもりが、このときは業務多忙のため適わず。しかたなく退社してフリー・ライターになります。ところが「出産休暇」のために予定していた2ヶ月のヨーロッパ旅行にはお腹が大きいまま出かけます。「船上出産は医療費がかからない」ことを知っていて、マルセイユから帰国の船に乗り、到着直前のクリスマスの朝にノエルを出産。これがエッセイストの桐島ノエルで、かれんと同様に未亡人に預けられました。1967年、件の愛人がベトナム行きの船の船長になったため同乗し、戦争下のベトナムに赴きます。書類を偽造してプレス・パスを入手し、「従軍記者」として戦地を取材。このときの記憶を桐島さんは、こう語っています。「仲間が同じ塹壕で暮らしていて、若者が戦争が終わったら、こうしたいと熱烈な思いを語ってくれて、医者になって傷ついた子供達を治したいとか、土木技師になってベトナムの復興に尽くしたいとか、そういう若者がその翌日には何人かが、冷たい躯になってその辺に転がっていて、悲しくて涙も出なかった」。桐島さんは生き残ったものの罪悪感を抱えながら生きてきたのです。帰国後の1968年に、ベトナムでみごもっていた長男ローランドを出産。これが写真家の桐島ローランド。ローランドは愛育病院に託されました。こうして見ると、桐島洋子と云うのはひとりとして自分の手で子育てせず、母親のかざかみにも置けないと思いますが、桐島さんの発想は普通の日本人ぢゃないから、凡人にははかりきれないのですね。50歳代から人生の収穫の秋である「林住期」と宣言して、ノエルさんの住むカナダと日本を活発に行き来しています。「林住期」とはヒンドゥー教社会において適用される理念的な人生区分のことです。バラモン教法典においては、バラモン教徒が生涯のうちに経るべき段階として、次の4段階が設定されています。・学生期:師のもとでヴェーダを学ぶ時期・家住期:家庭にあって子をもうけ一家の祭式を主宰する時期・林住期:森林に隠棲して修行する時期・遊行期:一定の住所をもたず乞食遊行する時期上の画像は1970年に発表した処女作「渚と澪と舵-ふうてんママの手紙」です。一緒に映っているのは3人の子供たち。これの刊行を機に帰国。そして1972年にアメリカ社会の深層を抉る衝撃の文明論「淋しいアメリカ人」を発表するのです。ところが件のアメリカ人 愛人は、1968年になってやっと離婚したと思ったら別の女性と結婚。そこで愛人との関係を清算するためも、ローランド出産後すぐ、桐島かれんのみを連れてアメリカへ旅立ちます。かれんは東海岸の保育所に預け、単身アメリカを放浪しさまざまな職業につきます。ロスアンゼルスで新しい恋人ができたため、子どもたちを呼び寄せ、"万が一の場合の子供たちへの遺書"的な意味もこめて書いたのが、前出の「破天荒なシングル・マザー」としての経験を書いた自伝的エッセイ「渚と澪と舵 ふうてんママの手紙」と云うワケです。ところが、この本が日本で異常な評判。まったく新しい女性像として、読者の心をワシ掴みしたのですね。アメリカに送られてきたファンレターを読み、日本で文筆生活をして生きていこうと決意。そう云う経緯で帰国しました。そして問題作「淋しいアメリカ人」の刊行。大宅壮一ノンフィクション賞を受賞すると云うワケです。これ以降、女性の生き方についての本などを多数執筆し、1976年の「聡明な女は料理がうまい」がベストセラーに。その印税を使って一家でニューヨーク郊外の緑あふれる高級避暑地、イーストハンプトンの大きな借家で1年間暮らしました。ここでの生活は著書「マザー・グースと三匹の子豚たち」に描かれています。女性雑誌「クロワッサン」が、1978年から"新しい女性の生き方を追う雑誌"へと路線を変更すると、"カリスマ・シングル・マザー""生きかたの見本"として20代の女性読者たちの憧れの対象になるのです。1982年、12歳年下の美術鑑定家で料理評論家の勝見洋一と結婚します。このとき桐島さんは45歳。結婚5年目から、署名捺印した離婚届をお互いが持ち、自由な関係にしておいたのもいかにも桐島さんらしい。ところがサントリー学芸賞に勝見が受賞したことで桐島さんは批判の矢面に立ちます。なぜなら、桐島さんはこのサントリー学芸賞社会・風俗部門の選考委員を務めていたからです。結局、選考委員を辞任し、2002年には勝見とも離婚し友達関係に戻りました。勝見は2014年に横浜の病院で病死しています。しかし、こんな親子関係でギクシャクしないのかと思ったら、親子姉弟みんな仲いいのですね。昨年発刊された「おとなスタイル」にこんな記事が載ってました。桐島さんは云います「いい母親に見られたいとは思ったことがない。それよりも子どもたちにも、格好いいおとなに思われたかった」すると桐島かれんさんも「確かに格好よかった。それに楽しそうに生きていた」と。下の画像は「終戦直前まで住んでいた、第2の故郷 上海に、久しぶりに行ってみたい」と桐島さんが云いだして、桐島さん、かれんさん、ローランドさん3人の母、娘、息子の旅をしたときのこと。桐島かれんさんが証言します「お母さまはいつもおしゃれをしていて、元町の輸入品を扱うスーパーマーケットへ買い物に行くときも、アオザイ姿だったりする。それが私は恥ずかしくて、少し離れて歩いたりしていた。友だちの家に遊びに行くと、エプロン姿のお母さんがジュースを出してくれたりするのよ。そういう"普通のお母さん"に憧れたの」「私の友だちがうちに遊びに来ると、お母さまはいつも家で原稿を書いていて。誰かが「おばさ~ん、喉渇いた」って言うと」「そこに水道があるから、自分で勝手に飲みなさい」(笑)「それと、おばさんではなくて、洋子さんとお呼びなさい」「友だちはみんな、ポカンとしてた」「その頃、私たちが住んでいた横浜のマンションは、部屋の入り口に古い革のスーツケースがあって、その上にお母さまがベトナム戦争に従軍記者として同行したときに被った、迷彩色のヘルメットがドンと置いてあった。壁には大きな世界地図。家具は茶色い船家具で統一されていて、アフリカの楽器とか、世界で集めた調度品や絵画があった。ピアノの上にはインドのミラーワークの織物がかかってたわよね。当時、友だちの家のピアノにはたいてい、白いレースがかかっていたから、我が家は変だなって思っていた」さて、私がいま読んでる「いくつになっても、旅する人は美しい」。桐島さんの放浪の発端となったベトナムについても書いておられます。久方ぶりに訪れたときは「マジェスティックホテル」に泊まられたそうだ。昔のことを思い出してでしょうね。以前は外国人専用の高級ホテルでしたから。ベトナム戦争当時、桐島さんはこのホテルを利用しようとして、ベトナム人と間違われ、ドアマンにけんもほろろに追い返された経験があるそうです。しかしこのホテルも、今はもう、年老いて、いささかうらぶれた感じがしたらしい。私にも同様のホテルがあって、それはラオスの首都ビエンチャンの「アヌーホテル」です。まだ、ラオスが共産化する前、いったい何度行ったでしょう。当時からアヌーホテルはちょっといかがわしい感じのするホテルでしたが、それでもビエンチャンでは第一級のホテルだった。このころはメコン川のスグ近くに建っており、メコンの夕日がまぶしかった。私の青春そのもののホテルでした。検索すると、いまもアヌーホテルは存在してますが、ほとんど顧みられないホテルに成り下がってますね。でも、もう少し寿命が続いて、機会があれば一度は再訪してみたい。なかなか思い立てないですけどね。なんせラオスは観光資源皆無のところですから。さて、桐島さんのベトナム話ですが、初めてサイゴン(ホーチミン)で食べたフランス料理のおいしさは衝撃的だったと述べられています。なんせ、もともとフランス領でしたからね。私もビエンチャンに行ったときは、どんな屋台に毛が生えたようなレストランでも、席につくと自家製ワインがスッと出てきたのには驚きました。ラオスもまたフランス領だったところです。桐島さんは最近になって、ベトナム戦争以前に近いフレンチのお店をホーチミンでみつけたらしい。「ボルドー」フランス人の男性カップルが、フランスで修行中のベトナム人をスカウトして開店したそうです。ネットで「Bordeaux France Restaurant Ho Chi Minh」と検索するとでてきましたね。なかなかに小粋な雰囲気のお店です。桐島さんが従軍記者だったときは、おびただしい死を見送った戦場から街に戻るなり、血と汗にまみれた軍服を引きむしるように脱ぎ捨ててアオザイに着替えたと云います。川風を浴びて歩きに歩いては、悲しい記憶を少しでも吹き飛ばそうとしていたのです。
Mar 1, 2019
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私が仕事でロサンゼルス(LA)を訪れたのは、もう何十年も前のことです。当時の仕事が航空関係だったので、LAではもっぱら現地や日本の旅行会社めぐりを、会社のLAスタッフとともに。なのでボナベンチャー・ホテルに泊まったぐらいの記憶しかなく、ずっと現地スタッフにアテンドされてたので、ここが「リトルトーキョー」だよと云われても「あぁそう」程度。とにかく治安が悪いから気を付けてばかり云われてました。昔、リトルトーキョーに「ホテル加宝」と云うのがあったらしい。ホテルニューオータニ ロサンゼルスが売却されて、今ではリトルトーキョーで日系ホテルと云うと「ミヤコホテル ロサンゼルス」くらいしかありませんが、「ホテル加宝」も日系?残念ながら、ここは中国人オーナーでした。しかし、ホテル加宝は潰れてしまったのです。中国人オーナーがビルマ人にホテルを売ってしまったのです。そしてビルマ人はホテル加宝の土地におもちゃ屋の倉庫を建ててしまったらしい。ところが、そのビルマ人が同じリトルトーキョーの「チェットウッド」と云うホテルも買ってしまいました。こっちは、ちゃんとホテルとして経営するために。こっちは1階がおもちゃ屋で、2階、3階がチェットウッドホテルになっています。ホテル加宝にしても、チェットウッドにしても、同じリトル東京にあると云ってもミヤコホテルのような一流ホテルではありません。1泊の料金はシングルルームで30$(約3,200円)くらい。なのでチェットウッドではバスとトイレは共用です。要するにバックパーカーの宿みたいな。その証にチェットウッドのロビーには日本のマンガ雑誌や文庫本がどっさり置いてあるそうで、さらに自分で調理が出来るキッチンもあります。なんとキッチンではお米を自分で炊いて無料で食べ放題だったらしい。ただし、お米はビルマ米です。ここには米国の市民権を持ってる日本女性のマネージャーがいるらしいが、彼女はもともとホテル加宝のマネージャーだったそうな。ただ情報が少ないので、このマネージャーが今も居るのか、今もご飯が食べ放題なのか分かりません。興味のある方はご自分でメールなり電話してください。LA在住のMrs. Lindaさん、こんなとこでよろしかったでしょうか?(笑)LAの南に隣接する「コンプトン」とLA中心街の南西にある「イングルウッド」は間違っても行ってはいけないと云われてました。ふたつとも犯罪率がアメリカで最も高い都市として有名だからです。それでもひどいひどいと云われたのは10年以上前のことで、今ではずいぶん良くなっているようですね。このコンプトンとイングルウッドに似通ったとこが、リトルトーキョーのすぐ南側にあります。「スキッド・ロウ」。ここは全米有数の膨大なホームレス人口を抱えており、薬物中毒者が多く、貧困層やマフィアによる殺人、強盗、薬物売買など犯罪多発地帯なのです。ホームレス人口はおよそ7,000人~8,000人に及ぶと云いますから、大坂の「あいりん地区(釜ヶ崎)」の比ではありません。よくニューヨークが危険と云われますが、セントラルパークを中心に、ヤバイ地区と安全な地区がハッキリ分かれています。しかし、土地勘がないからでしょうが、私にはLAは至るとこで安全なとことヤバイとこが混在してるように感じました。なので道歩いていても、知らない間にヤバイ地区に紛れ込んでしまいそうな。LAではスキッド・ロウ以外にも、「サウス・ロサンゼルス」とかヤバイとこは多くあります。だいたいヤバイ地区に立ち入ると分かりますね。先ず路上が汚い。ゴミやタバコが散乱し、ホームレスがストリートに座っていたり寝転んでいたり。こう云う地域に知らずに足を踏み入れたら、迷わず元来た道を引き返すことです。間違ってもカメラなんて向けてはいけません。特に夕暮れ以降はね。私はLA滞在中、ずっと車移動してました。しかし、こんな地域は世界中いたるとこに有りますよ。タイだって、現地人でも足踏み入れないとこも。アフリカや難民をかかえてる地域はもっとヒドイでしょう。スキッド・ロウの場合はキリスト教国のアメリカですから、私たち日本人が考えられないくらいボランティアや一般市民の援助もあるハズです。それでも人が多過ぎるのでしょうね。とても全員を救済するには至らない。ここの住民の内訳は白人18.6%、アフリカ系アメリカ人34.6%、アジア系15.1%、ヒスパニックとラティーノ27.9%など。アフリカ系アメリカ人と云うのはどの州でも困窮者が多いですね。心配なのは、今回の新型コロナウイルスの蔓延です。この地域でも消毒作業はおこなわれたみたいですが、何しろ人が多過ぎるのと、みんな栄養あるもの食べてないので体力も抵抗力もない。それでもトランプは選挙を意識して、発症者数が世界最多なのは「名誉の印」だと主張したり、経済活動復活をかかげているのですから、いいかげんなものです。
May 24, 2020
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イギリスは、第6代女王にして初代インド皇帝でもあったヴィクトリアの時代、インドで製造したアヘンを、清(中国)に輸出して巨額の利益を得ていましたね。中国貿易の大半を握っていたのは「イギリス東インド会社」ですが、北京政府はヨーロッパとの交易を一貫して「朝貢」、つまり清皇帝に対して貢物を献上し、清皇帝は恩恵として返礼品を持たせることと認識していたため、直接の貿易交渉に応じようとしなかったのです。イギリス東インド会社は国営会社ではなく、設立したのはロンドン商人たちで国王はそれを承認したにすぎないし、当初はアジアの物産を取引する貿易に終始する会社でした。ところが1757年のプラッシーの戦いでフランスを破ってから、インドの徴税権と行政権を行使するようになり、軍隊を保有して反乱鎮圧や他国との戦争を行うインドの植民地統治機関へと変貌していったのです。1773年になってイギリス東インド会社は、ベンガル阿片の専売権を獲得し、次いで1797年に製造権も獲得しました。そのベンガル阿片を清に対して組織的に売り込んでいったのがアヘン戦争の発端です。清政府はアヘン貿易を禁止していたのですが、中国人のアヘン商人が官憲を買収して取り締まりを免れつつ密貿易を行い続けたためにアヘンはどんどん蔓延していったのですね。中国では、明代末期からアヘン吸引の習慣が広まり、清代になってやっと輸入禁止にしたけど、それも焼け石に水。その背景には18世紀以降、急激に人口が増えて職につけない人が激増。治安は低下するは、自暴自棄になった人々が巷に溢れたことがアヘン吸引に拍車をかけました。ついに清政府は林則徐を欽差大臣に任命してアヘン売買の巣窟 広東に派遣しました。林則徐は、吸飲してる者やアヘン販売者の死刑執行を宣言し、イギリス東インド会社の商人に対し期限付きでアヘンの引き渡しを要求しました。しかしイギリス東インド会社は知らぬ顔。ならばと貿易停止、商館閉鎖の強硬手段に出ると同時に、アヘン2万箱を押収して焼却しました。イギリス政府は清のアヘン投棄に抗議して開戦に踏み切ります。これが1840年から2年間にわたり行われた「アヘン戦争」です。要は貿易保護と云う名目に隠れた「侵略戦争」です。結果は歴史の示す通りイギリスの勝利に終わり、1842年に南京条約が締結されます。香港割譲のほか,江南5港(広州、福州、厦門、寧波、上海)の開港。清代に貿易を独占していた広州の中国側の商業組合「公行」の廃止。賠償金として2,100万$を四年分割で支払いなどを約した上、追加条約により不平等条約への端緒となった条約です。「アヘン戦争」をなぜ「英中戦争」とか「中英戦争」とか云わないのでしょう?それは両国の軍事力にとてつもない格差があり、イギリスが一方的に攻め立てることになったからです。当時、イギリス国内でもアヘンは麻酔薬として利用されていましたが、一方で中毒性のある危険なものであることも分かってました。清政府がアヘンを没収して焼却したことに対し、非人道的な密輸品だったにも関わらず、イギリス政府と商人は自分たちの「財産」に対する侵害だと問題視したのですね。イギリスの議員の中には有害なアヘンを中国に密輸することは人道上問題であるとして軍隊の派遣に反対する議員もいました。その議員のひとりが、先日「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」と題して更新したときに、出演女優リリー・グラッドストーンの遠縁にあたるとご紹介した、後にイギリス首相になったウィリアム・グラッドストンです。彼らの反対で議会は紛糾しましたが、結局、派遣賛成271票 vs 派遣反対262 のわずか9票差で賛成派が競り勝ち、軍隊派遣が可決されてしまったのです。グラッドストーンは第1次から第4次まで、つごう4回に渡って首相を務めています。イギリスに併合されたアイルランド問題についても、グラッドストーンはアイルランドの小作人保護を目的とするアイルランド土地法など、最終的にアイルランドの解放に取り組みました。しかし、彼の取り組みに対して、保守勢力の抵抗でついに生前には実現できなかったのです。1914年、第四次グラッドストーン内閣になって、ようやくアイルランド自治法が成立するのですが、第1次大戦の勃発によって実施は延期。戦中、戦後から運動が先鋭化して独立を求める激しい武力闘争が続きました。1921年になって、北アイルランドを分離してアイルランドの独立を認めると云う妥協が成立しましたが、その後も北アイルランド紛争が激化していったのですね。アヘン戦争が行われたとき、グラッドストーンはまだ野党のヒラ議員でした。それでも「正義は中国人にある」とアヘン戦争反対を唱えたのですね。「異教徒で半文明的な野蛮人たる中国人側に正義があり、他方のわが啓蒙され文明的なクリスチャン側は、正義にも信仰にももとる目的を遂行しようとしている」と。彼は生涯、どのような戦争も反対をつらぬいた政治家です。
Jul 28, 2023
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なぜ、トム・クルーズがこんな映画に出演したのか映画を観るまで理解できませんでした。1932年に公開された映画「ミイラ再生」をリブートした「ザ・マミー 呪われた砂漠の王女」です。こっちは昨年公開の作品。ですが、いままでのトム・クルーズ作品とはニオイが全く違う。作品を観終わっての感想。映画の冒頭と終わりはトム・クルーズらしさが出てたけど、物語の核心部分では、トム・クルーズは女王ミイラに操られっぱなしで力も半減。そもそも、この映画の元となった「ミイラ再生」はミイラをテーマにしたホラー映画の始祖ですが、現代に蘇った古代の高僧役のボリス・カーロフはもともと「魔人ドラキュラ」や「フランケンシュタイン」と云ったホラー映画専門スター。対するトム・クルーズは「ミッション:インポッシブル」シリーズや「ジャック・リーチャー」シリーズでお馴染み、小粋でかつ超人的な肉体の持ち主。やっぱどっか違うのかなぁ。実は、「ミイラ再生」とトム・クルーズの「ザ・マミー 呪われた砂漠の王女」との間には、もう一作、「ミイラ再生」をリブートした作品が存在するのですね。よくご存じの映画です。「ハムナプトラ/失われた砂漠の都」です。こっちの主演はブレンダン・フレイザー、ヒロイン役はレイチェル・ワイズだったけど、ブレンダン・フレイザーの方がよっぽどトム・クルーズより強かった。まぁ、主役のおかれたシュチュエーションが違っていましたけど。「ザ・マミー 呪われた砂漠の王女」の冒頭で、この映画の悪の化身"アマネット"がなぜ現代に蘇ったか映し出されます。それは古代エジプトのこと。次期女王の座が約束されていた王女アマネットは、強く美しい女性でした。しかし父親であるメネフトラ王に男児が生まれたため、女王として権力を握る夢が潰えてしまうのです。激怒したアマネットは魔術を用いて、保護と恵みの神と同時に破壊の神でもある「セト」と契約を交わし、メネフトラ王と生まれてきた子供を殺害。自分の恋人の肉体に邪神セトを憑依させようとするのです。しかし神官たちに真相を見破られ、神官たちの手によってアマネットの肉体は生きたままミイラにされて棺に封印。エジプトから遠く離れたメソポタミアの地に葬られるのです。そのメソポタミアは今のイラクです。その土地でトム・クルーズたちは、反乱軍の拠点を空爆するよう要請。トム・クルーズはアメリカ軍の偵察要員なのに、盗掘の常習犯なんです。空爆でできた窪みにはなにやら得体の知れないお墓が。女性考古学者のジェニー・ハルジーとともに窪みに下りていくと...偶然にもアマネット王女の墓を発見してしまうのです。その墓をアメリカ軍の輸送機で運搬中、突然、無数のカラスが飛行機のエンジン、操縦室の窓に体当たりしてきて破壊します。墜落していく飛行機の中で、上に下に振り回されるトム・クルーズとジェニー。やっとこさ、つかんだパラシュートはひとり分だけ。さて、ど~するか?トム・クルーズはジェニーにパラシュートをつけて、自ら墜落していく飛行機に残るのです。こうしてジェニー・ハルジーだけが生き残り、トム・クルーズや他のスタッフは死んでしまいます。数日後、霊安室で目を覚ましたトム・クルーズ。死んだ仲間の幽霊から「アマネットが破壊神セトを現代に蘇らせるための肉体を探している」と告げられるのです。見れば自身はかすり傷ひとつありません。そう、アマネットが探している肉体とはトム・クルーズだったので。その頃、棺桶から脱出したアマネットはまだ腐敗しきっていて、ボロボロの肉体、蜘蛛のようにはいつくばって歩いています。しかし、人間を見つけては、その生気を吸い取り、徐々に昔のアマネットに戻っていくのです。蘇ったアマネットにトム・クルーズとジェニーは見つけられ、危うく殺されそうになります。危機一髪と云うところで、謎の軍団が!その軍団こそ、ジキル博士が率いる部隊だったのです。ジキル博士はロンドン自然史博物館の地下に巨大な研究施設を持つ秘密組織のリーダーだったのです。気が付けば、トム・クルーズとジェニーは彼らによって助け出されたどころか、アマネットさえ生け捕りにされてました。その研究施設でトム・クルーズがジキル博士ともめて、ジキル博士が頻繁に打っている注射をとりあげたら、ジキル博士のもうひとつの人格であるハイド氏があらわれて、大暴れします。そのスキに、アマネットはまんまと研究施設から逃げ出してしまうのです。ちなみにジキル博士とハイド氏役をやってるのはラッセル・クロウです。こんな主役級の役者が!?と思いますが、さすがにラッセル・クロウですね。演技力の違いがハッキリ分かります。そんなこんなで、アマネットに追い詰められたトム・クルーズ。しかし、そこは奇策を弄して、逆にアマネットを葬り去ってしまうのですね。で、終わり(笑)ところがDVDの特典映像を観て驚いたことが。例のアマネットの墓を輸送機で運搬中、突然、無数のカラスが襲って来て、飛行機を破壊する。ここで上に下に、右に左に振り回されるトム・クルーズとジェニー。普通だったら、ワイヤーアクションですよね、現代の映画だったら。ところがトム・クルーズはそれではアクションシーンに緊迫感がでないと...いったい何をやらかしたと思われます?実は飛行機のあちこちに投げ出されてるシーンは本物なんです。本物と云っても、まさかトム・クルーズとジェニー役のアナベル・ウォーリスを墜落する飛行機に乗せるワケにいきません。飛行機を高速で急上昇と急降下を繰り返すと無重力状態になります。トム・クルーズはこの方法を使ったのです。巨大なボーイングの旅客機を使って、パラボリックフライト(放物飛行)をおこない、急降下で生じる無重力状態のときに、撮影をしたのですな。ところが、パラボリックフライトで生じる無重力状態はたった20秒しかもちません。ど~したと思われます?なんと64回もパラボリックフライトを行って、ちょっとずつ撮影を繰り返し、そのシーンを繋げてワンカットにしたのですな。
May 10, 2018
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イングランド銀行は、イギリスの中央銀行ですな。本店がシティのスレッドニードル通りに所在するため、「スレッドニードル通りの老婦人」とも呼ばれています。中央銀行として財政・経済を支え、後に世界金融を支配する銀行となったところです。しかしイギリスのEC離脱で欧州中央銀行制度を脱退する見込みらしいです。こちらがイングランド銀行です。で、このイングランド銀行内部には3,150億ドル(2012年時点)相当の金塊が保管されているのです。いったい30兆円を超える金塊とは、どのくらいの量なのでしょうか。1つの棚につき、5,600万ドル(約60億円)相当の金塊が並んでいます。昔の007映画「ゴールドフィンガー」では悪者がアメリカのフォート・ノックスを襲撃して合衆国金塊保管所に貯蔵された金塊を強奪するストーリーでしたな。あんな映画みたいなシーンが本当にあるのです。イングランド銀行の金塊は1つ11~13kg 。現在の地金価格は1g=5,000円弱なので、金塊1つで5,000万円ほど。 片手で持ち上げようとしても上がりません。ちなみに金の保有国の順位ではイギリスは17位と低く、1位はアメリカ、2位ドイツ、3位イタリア、4位フランス、5位中国と続きます。日本は9位です。中之島公園の猫たち-SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK-」整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。
Sep 6, 2016
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私たち日本人はほんどの人が黒色の瞳をもっていますが、分類から云うと「こげ茶」なんですね。世界人口のおよそ55%以上(約40億人)が、茶色の瞳をしています。ただ、同じ茶色でも地域によって明るさが異なるのですね。日本や中国、韓国などの東アジアとフィリピン、タイなどの東南アジアでは、黒に近い茶色(こげ茶もしくはダークブラウン)が大多数を占めます。ヨーロッパやイラン、イラクなどの西アジア、インドなどの南アジアでは明るめの茶色(ライトブラウン)がよく見られます。・青い目の人でも、濃度によって区分けされてます。・青っぽいグレーが基本の目の色で、それをベースに、黄色っぽいヘーゼルカラーが入ったり、アンバー(赤茶)が入ったりして多様で複雑な目の色はヨーロッパ系の人の中では最も多い目の色です。・色みのほとんどない、グレーの目も多いです。といっても、完全に色がないことはなく、大きく分けて青味の強いグレーと、黄色味の強いグレーがあります。・「ヘーゼルカラー」と呼ばれる黄色みの強いグレーがかった茶色では、濃淡はありますが、最も薄いヘーゼルの目は「猫の目のよう」とも例えられ、太陽光の下では明るい黄色の目になります。・黄色味の強い黒眼は、日本人にも、たまにこの目の色の人がいます。・「アンバー(琥珀色)・アイ」といわれる眼の色は、赤みのかなり入った茶色です。日本人にはあまり居ませんが、九州の方には比較的多いそうです。・「ブラウン・アイ」。茶色の目です。この目の色もとても多く、黄色や灰色、赤みの強さにそれぞれ個性があります。・そして日本人にイチバン多い、俗に「黒眼」と云われる「こげ茶」系。アフリカ系、アジア系、アメリカ先住民系に多い目の色です。日本人のようにメラニン色素が多いと、波長がすべてきちんと吸収されるので、暗い色(こげ茶など)になります。しかし「真っ黒」にならないのは、完璧にすべての色が100%吸収されることはないからです。世の中には、珍しい緑色の眼を持つ人がいます。緑色の眼を持つ人は、世界人口の2%しかいません。緑色の眼を持つ有名人と云えば、俳優のトム・クルーズがそうですが、彼の緑色は分かりづらいので割愛。アメリカの報道写真家、スティーヴ・マッカリーが撮影した写真集「アフガンの少女」に載ってるこの少女は典型的な美しい緑の瞳の持ち主です。スパイダーマンやラ・ラ・ランドなどに出演したアメリカの女優エマ・ストーン(Emma Stone)も緑色の瞳をもつひとりです。他にも一般人で緑色の瞳を検索すると...珍しいバイオレット色の目を持つ人たちもいます。ヴァイオレットの色はレッドとブルーの混合と反射によって形成されます。出現率は極稀。アルビノと云う身体にメラニンがない人たちで、肌や髪の毛が基本的に真っ白な人たちもヴァイオレットの目をもつ場合があります。全人口の0.001%(約750万人)しかいないとされる最も珍しい瞳の色が赤色です。赤色になるのは、虹彩ではなく瞳孔(目の中心部)です。赤色の瞳は、メラニンが欠乏し、肌の色や髪の毛が白くなるアルビノの中でも、重症化した場合にしか見られません。色素が無いため、血管の赤色がそのまま見えているのです。同じ青色でも、世界で7人だけがもってる特別な青い瞳があります。なんとも神秘的な色ですね。にゃんこにもまれに居るオッドアイ。この瞳の色は、生まれつきであったり、遺伝子疾患や緑内障、事故による虹彩の損傷で発生するのですね。アメリカの女優ケイト・ボスワース(Kate Bosworth)は右目が淡褐色で左目が青色の瞳をしています。瞳の色と関係ありませんが、「重瞳(ちょうどう)」と云って、瞳が2つある人が稀にいるそうです。医学的には、多瞳孔症と云い、瞳孔が2つ以上になる症例も存在するそうです。原因は先天的である場合と、事故など物理的衝撃を受けて虹彩離断が著しく悪化した後天的である場合と2つのケースがあります。物が二重に見えるという症状がでるので、外科手術が必要となるのが普通です。
Jun 24, 2018
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きのうはロシア皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィッチが巡査の津田三蔵によって、サーベルで切りつけられ負傷した「大津事件」について述べましたが、このニコライ2世ほど悲惨な最後をとげた人はいません。そもそも「大津事件」の発端となった来日は日本人が危惧するような日本の国情視察ではありませんでした。彼は日本について、まったく興味がありませんでした。ただ父親のアレクサンドル3世が、少しはロシアの周囲にも関心を抱かないといけないと送り出しただけです。ニコライが艦内で読んだ日本に関する本はピエール・ロチの「お菊さん」と云うゲイシヤ主人公の小説だけです。と、云うワケで、ニコライはゲイシヤには強い関心をもった。あげくの果てに、「お菊さん」の舞台、長崎で刺青をしています。これも「お菊さん」の著者、ロチが長崎で刺青をしたため。さらにニコライは同行のゲオルギオス王子とふたりで稲佐に上陸して丸山芸者を呼び、深夜に帰鑑したりしてます。ニコライは明治維新がおこった1868年に生まれています。祖父であるロシア皇帝アレクサンドル2世がテロ組織によって暗殺されたため、父親アレクサンドル3世が即位し、ニコライは皇太子となったのです。アレクサンドル3世は巨体の持ち主で、並みはずれた力の持ち主でしたが、これとは対照的にニコライは中肉中背で、印象の薄い内向的な少年でした。ただ、誰に対しても愛想よく、ダンスとスケートの名手で、英・独・仏語を流暢に話すことができました。1894年に父アレクサンドル3世が病に倒れ、同年11月に崩御されました。このときニコライ、26歳。ロシア皇帝に即位することになったのです。ニコライはロマノフ家の後継者として、先祖が受け継いできた専制君主体制を子孫に受け渡すことが、自分の義務であるという信念を固く持っていました。戴冠式の数日後、モスクワ郊外のホディンカの平原に設けられた即位記念の記念祝賀会場には50万人に達する大群衆が来訪しました。ところが順番待ちの混乱から将棋倒し事故が発生、多数が圧死・負傷するという事件が起こったのです。この事故は約1,400名の死者と1,300名を越す重傷者を出したにも拘わらず、新皇帝となったニコライと皇后は何ごともなかったかのように祝賀行事に出席しました。このため国民からは「冷淡」「無関心」とも取られ、特に貧困層の反感を買うこととなったのです。 1900年代初頭になると、「大津事件」当時のニコライと違って、日本を敵視するようになります。ニコライはロシアがどんなに強硬路線を取ろうと、日本にロシアと戦争する勇気などあるはずがなく、自分が望まない限り戦争にはならないと考えていたのです。1904年2月9日深夜、日本が旅順のロシア艦隊に攻撃を加えたことで日露戦争が開戦しました。この報告を受けた時、ニコライは「宣戦布告なしだ!神よ、我らを助けたまえ」。そして日本艦隊は早々に旅順のロシア艦隊をウラジオストクに追って制海権を獲得。さらにクロパトキン将軍の指揮のもと、日本軍に包囲される旅順を解放しようとしたが、失敗し、旅順が陥落。ニコライの最後の希望だったバルチック艦隊も、日本海海戦において、ほぼ一方的に殲滅されてしまったのです。それからのニコライは、自身が招いたとは云え、坂を転がるように転落の一方。先ず、1905年には「血の日曜日」事件勃発。莫大な戦費や戦役に苦しんだ民衆が、ニコライ皇帝への嘆願書を携えてサンクトペテルブルクの冬宮殿前広場に近づくと、兵士は丸腰の10万の群衆に発砲。2,000~3,000名の死者と1,000~2,000名の負傷者を出してしまったのです。日露戦争の講和会議最中、黒海艦隊の戦艦「ポチョムキン」で水兵の反乱がおこり、暴動が拡大しました。反乱の発端はウジ虫です。ボルシチに入れる肉が腐ってウジ虫がわいているのを水兵が発見して訴えたところ、軍医が「たかがウジ虫じゃないか。海水で洗えばいい。肉は上等だ」といって取り合わず、それでもボルシチに手をつけようとしなかった水兵を士官が命令違反で銃殺しようとしたことから起こったのです。結局、反乱分子はロシア政府の説得に応じたのですが、水兵はすべて処刑か、シベリアへの流刑にしてしまいました。この間にも、国内の騒乱はいよいよ激しくなり、ロシアの主要都市ではデモが繰り返し起こりました。そして、ついに第1次世界大戦の発端となる「サラエヴォ事件」がおこるのです。オーストリア・ハンガリー帝国の皇帝で国王の継承者フランツ・フェルディナントとその妻ゾフィーが、サラエボを視察中、ボスニア系セルビア人の青年ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺されてしまったのです。ニコライはロシア軍総動員令を布告して、ドイツと対峙します。しかし最初期の戦いであるタンネンベルクの戦いでは、敵の3倍近い兵力を有していながら1個軍(20万人相当)を喪失するという壊滅的な敗北を経験します。兵装や輸送、通信システムなどにおいて先進的な近代機器を擁するドイツに対して相次ぐ大敗を喫したロシアは、ついにニコライ自ら前線に出て最高司令官として指揮を執らざるを得ませんでした。ところがニコライ不在の首都ペトログラード(ペテルブルク)では、アレクサンドラ皇后と怪僧ラスプーチンが政府を主導。気に入らない人物を次々に罷免していったのです。ついには皇后とラスプーチンの肉体関係さえ噂され、皇族の権威はさらに失墜していったのです。結局、ラスプーチンは皇帝の従弟にあたるドミトリー大公や姪の夫ユスポフ公らによって暗殺され怪死を遂げます。1917年1月には、改善しない戦況と物資不足に苦しんだ民衆が蜂起しました。これに軍隊の一部も反乱に合流し、ロシア全土が大混乱に陥ったのです。もはや帝政ロシアが近代的な総力戦を継続することは限界に達していたのですね。そしてついにロシア帝国が崩壊し、ソビエト連邦の設立につながる「2月革命」が勃発します。2月革命に続き、首都ペトログラードでも暴動が起こると、ニコライは首都の司令官に断乎たる手段をとるよう命じます。しかし、ほどなく内閣は辞職し、ほとんど全ての司令官の賛成によってプスコフで退位させられてしまうのです。ニコライは弟のミハイル・アレクサンドロヴィチ大公に皇位を譲ろうとしますが、ミハイル大公は即位を拒否。ここに300年続いたロマノフ朝は幕を閉じ、ロマノフ家の人々は一市民になってしまいました。しかし、ニコライの真の苦難はここから始まったと云っても過言ではありません。最初、ニコライは臨時政府によって自由を剥奪され、ツァールスコエ・セローに監禁されました。後に妻や5人の子供とともにシベリア西部のトボリスクに流されてしまうのです。ボリシェヴィキによる十月革命がおこると、一家はウラル地方のエカテリンブルクへ移されます。そこの、資産家イパチェフの家を接収したイパチェフ館に監禁されてしまうのです。イパチェフ館は高い塀と鉄柵で覆われ、全ての窓がペンキで白塗りされ、一家は外部との接触を禁じられて厳しく監視されていました。皇帝一家が地下室に集められて処刑隊の指揮官が死刑執行を告げたとき、ニコライは当惑したように「何と言ったのだ?」と訊き返しました。ニコライ、50歳のときです。壁際に固まった10代の子供たちを含む一家に処刑隊が拳銃を向けると、皇妃が皇女たちの前に立ちはだかり「子供たちは撃つな!」と叫びました。しかし、情け容赦なく銃弾は乱射されたのです。一家が処刑された年には、ミハイルら元皇族や元貴族が多数殺害されています。ニコライ一家の遺体は埋葬もされず、行方知らずとなってしまいました。ソ連崩壊後の1994年、エカテリンブルグで発見された数体の人骨がニコライ一家のものと推定され、人骨のDNA鑑定では「大津事件」でニコライの血痕がついたハンカチも使われました。最終的に発見された遺体がニコライ本人たちと確認され、2000年8月、ニコライ2世はロシア正教会において家族や他のロシア革命時の犠牲者とともに正教会の聖人に列せられたのです。
Dec 19, 2018
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