2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
全6件 (6件中 1-6件目)
1
私にはひとつ下の弟がいる。先日彼に、初めてのジュニアが誕生した^▽^。送られてきた写真を見ると、なんと弟にそっくり。。。 ̄ー ̄;男の子で良かった~。あの四角いあごが女の子だったら。。。 ̄ー ̄;;;メールによると、夜7時には家に帰り食事の支度、後片付け、洗濯、赤ちゃんの入浴と、多いときは残業100時間/月の人とは全く別人のような彼の行動だった。携帯の待ちうけ画面を弟Jr.の写真にして、それがあまり私には可愛く見えないのだが、彼的には宝物のような存在になっている。あの弟が、もう自分の子どもがいるようになるなんて、ちょっと不思議。弟の思い出は、小学生のころから大学生のころまでで止まっている感じだ。よく親が子どものことをいつまでも子どもとして感じるのと似ているのかな。私と弟は子どものころから仲が良く、よく二人で遊んでいた。母親談だと、幼いころ公園に連れて行くと、二人でころころと(母親の言葉)遊んでいて、とても母親的には楽だったという。小学校の低学年のときには、強いお姉ちゃんが強制的に弟をお人形遊びに参加させて、彼はりかちゃん人形を持って姉とよく遊んだ。小学校中学年になっても、お姉ちゃんが夜になると弟の部屋に行き、ふとんで一緒に遊んで一緒に寝るので、父親が心配して夜弟の部屋で寝ることに禁止令がでた。小学校高学年になると、ひどい姉が弟の好きな人のことを彼の同級生に暴露し、弟はかんかんになって姉に抗議するも、傍若無人な姉の前で全くなすすべがなかった。大学生になり、社会人になって、お互い恋人ができるようになると、かなりきわどい話までしていたように思う。私の恋人に、よく弟の話を嬉しそうにしすぎたせいか、弟の話がでると嫌な顔をされることもあった。それが数年前、弟が自分の恋人の話を私と電話でしていたとき、私の不注意な発言が彼をとても怒らせてしまった。弟の彼女のことを批判的に言ったのはそれが初めてでは無かったと思うが、話を聞いていて、(どうしてそういう人を選ぶかなー)と思った私は軽くひとこと、「気に入らないわねー」と言った。すると普段とても穏やかな彼が、烈火のごとく怒り出したのだ。詳しいことは忘れてしまったが、電話を切った後これはまずいと思った私は、もう一度電話をかけて謝った。すると、いつもは「いいよ、いいよ。」と言ってくれる彼が、とても怒った口調で「気に入らない、とは何だよ。失礼じゃないか。」それからは、表面的な彼女の話しかしなくなった。私は信頼を失ったことを悟り、いろいろとアプローチしたように思うが、ちょっと離れた存在になった感じがした。それから弟は結婚し(私が失言した人とは別の人だが)家庭ができると、ほとんど個人的な話はしなかった。また私は留学準備、そして留学と自分のことで手一杯だったのだが、今回のこのJr.の誕生で、彼の気持ちを聞いたときに私が知っている子どものころの弟と、何にも変わっていないんだなーと、とても懐かしくなったのである。もう会社でそれなりのポジジョンを築いていて部下も何人もいて、立派な社会人なのだがやっぱり私は子どものころと変わらず、このおじさんが可愛いし、大好きである。弟に赤ちゃんが生まれたことで、彼のことを立派な大人として認めることができるように私はなったのかもしれない。お互いに、独立した大人として、これからも仲良くしていきたいなー。
2006.01.28
コメント(10)
アメリカに留学していて、強く感じるようになったこと。。。それは自分が日本人であり、アジア人であるということだ。最初に日本人を強く感じたのは、夏にテレビで第二次世界大戦のことがよく放映されていたとき。もちろんパールハーバーから始まる歴史物語、原爆のことも、天皇制のことも、たっぷりやっていた。アジア人と感じるときは、自分ひとりだけ白人の中にいたりするとき。特にこの市は白人率が90%らしいので、アジア人や黒人が少数でいることが当たり前だ。それでも以前にアイルランドに短期滞在したときも同様な状況だったし、日本で仕事で沢山のアメリカ、カナダ、そしてオーストラリア人たちと会っていたこともあり、そんなに敏感ではないのだが、カリフォルニア、ニューヨークなど大都市から来た友人たちは口を揃えて言うのだ。「アジア人、黒人が少ない。」中には「だから居心地が悪い。」という人も数人いる。フランス人とつき合っている友人が言っていた。「夜バーとかに行くと、アジア人って私だけなのよね。」冬にスキー場に行ったときも、NYから来た友人が頂上でランチを食べているときに同じようなことを言った。「アジア人って、自分たちだけ。」始めはちょっと自意識過剰じゃない?と思ったが、言われて意識して見ると、確かにそうなのよね。韓国人、中国人も多くいるはずだけど、バーに行ってもあまり会わない。でもそれに気づいてちらちら周りを見るのは、私的にはナンセンスだ。センシティヴになると相手にもそれが伝わる。雰囲気を壊すようなことは、自分で自分をより一層居心地悪くするだけ。同じクラスの日本人女性が、「あの先生、留学生を差別していない?」と言ったことがある。彼女はアメリカが長いから、それなりに感じることはあったのだろうか、しかし私は別の受け取り方をしていた。教えるのにあまり慣れていない、または大きくブランクがあった様子の若いアメリカ人女性。どうしても話しやすい人(つまり同じアメリカ人)に向かって話してしまうのかも。私は生まれたときからクリスチャンの家庭で育ち、自分もカソリックなので、宗教が同じ人々というだけで安心感があるのは事実である。同じ信仰を持っていて、その知識あるという、連帯感。それも大きく影響しているのかもしれない。ただ、終戦記念日前の嫌になるほどのパールハーバーの放送を見てから、日本人はやはりこの部分での位置づけがアメリカ人の中に多くあるのは認めざるを得ない。高校をアメリカで過ごした知り合いたちは、授業で必ず取り上げられるこの日本の攻撃に、嫌な思いをした人もいるし、先生の配慮を受けた人もいるが、やはり強く日本が非難の的にされていることに辛い思いを持っている。私の個人的な意見としては、本土ではないのにあれだけ大きく取り上げる、そして、日本からしかけてきたから広島・長崎の原爆は当然のことだという論調は、政治手段としか考えられない。軍人3000人が犠牲になったアメリカから遠く離れた島でのことが、日本本土で20万強の市民の原爆を使用しての殺戮を正当化してしまうのだ。すごい、もうあっぱれ、というしかない。それと同時に私は思う。負けるのが分かっていて、それでも尚戦争を進めていった日本の指導部。「武士は食わねど高楊枝」の精神、そのままじゃない。大量の日本人が死んだのは、指導部の判断ミスであることも確かだ。とにかく、アメリカに来て、アジア人そして日本人としての自分がマイノリティーであることをしっかり感じるようになった。でもその上で、自分としてどうするのか、と考えるときに、日本人、そしてアジア人の良いところをアピールすることが大切だなと思う。それと同時に、この国では受けの悪いマナーなどは、この土地にいる限りはしっかり修正するべきだ、とも考える。でも思うけど、日本人って素敵だと思う。沢山優れた点を持っていると思う。日本人で良かったな、って今までこんなに思ったことは無いだろう。この間、ディナー・パーティで、アメリカに来て初めて着物を着た。そのとき、日本の伝統を誇りに思った。本当に美しいと思った。もっと日本のことをアピールできるといいなー。
2006.01.24
コメント(7)
いつも音楽療法に関してはそうなのだ。私が最初に「音楽療法」という文字を頭の中に思い描いてから音楽療法の講座に通うときも、本命の学校には同じ時期に仕事が重なって行けなかった。だから代替策として、あまり本意ではない科目履修と通信教育を始めた。これが良かった。この通信教育から通学をして、そこで発達心理のゼミの先生に出会う。これによって私の道が大きく飛躍した。彼は私の研究を別領域から応援してくれ、よくしごいてくれた。卒業後は、院の授業をもぐりで、でもちゃんとメンバーとして参加させてくれて、発達心理学との共同研究会を運営もさせてくれた。こんな不出来な私にチャンスを与えてくれた。また彼の推薦状が、奨学金に大きく影響したことは想像に難くない。留学したいと思い、奨学金の試験を受けるときも、仕事先の私を応援してくれていたおじいちゃんのボスがロータリアンだったので、彼の口から先に、Rotary Foundationを受けるように進められた。私はそれ以前から受けたいと思っていた矢先だった。ある時、テレビで緒方貞子さんを観て、「なんて美しくて賢い高齢の日本女性がいるんだろう。」と強い印象を受けた。そのときは、国連難民高等弁務官ということはつゆとも知らなかった。その後、そのロータリアンのボスから、緒方貞子さんのドキュメントの本を貰った。読んでとても感銘を受けた。その数ヵ月後、緒方貞子さんが私の教会に講演にやってきた。そのとき初めて、彼女が同じ教会のメンバーであることを知った。そして、緒方貞子さんは、Rotary Foundation Ambassadorial Scholarであったことが分かった。ロータリアンのボスが彼女の本を薦めてくれたわけも、それが大きかった。ロータリー財団奨学生の最初の書類審査が通り、2回目の語学(英語)試験のとき、緒方貞子さんのことを書ける問題がでた。。。!まさに、私を合格にしてあげるよ、と言っているような問題だった。日本語面接をへて、私はぎりぎり合格になった。通常ではありえない、たった1日の大きな変化。本当にこんなことは滅多にない、とカウンセラーに言われた。奨学金が貰えたから、すでに年金生活者の両親から資金援助を得て留学することになった。6人の同期奨学生のうち、私だけが一人、10歳くらい上であった。アメリカに来てからは、もうRFscholarであることで、他の学生とはかなり異なった経験を沢山している。ある程度社会的statusのある人々の会合に参加し、話す機会を得、パーティー等に出かけてコース料理などをいただく。私のロータリーのメンターであるオムニアは、エンジニアリングの教授であり、学校の重要なファカルティーであるが、その彼女の家でのパーティーに頻繁に呼ばれ、遊びに行く。エジプト出身の彼女なので、食べ物はエジプト家庭料理、孫に見せるビデオがエジプトのことを紹介したもの、家の中もエジプト関係のものや、彼女の趣味で、ネイティブ・アメリカンの絵が沢山ある。全く私費で留学していたら、決して踏み入れることが許されなかった環境。いつの間にか、与えてもらったという感じ。そして今回、私はこのメンターの家に引っ越すことになった。このきっかけも偶然だった。渡米したときから来るようには誘われていたのだが、もし関係がこじれたりすれば、日本の私の所属クラブ、神奈川のカバナー、そして国際ロータリーのコーディネータにも全て報告がいってしまうのは分かっているので、なるべく距離を置いた方が良いと思って遠慮していた。しかし春学期の授業が決まった際に、現場セッションがすでに組まれているのを見て「メンターの家に行って、お孫さんたちと話をする機会を持つ方が、音楽療法のセッションにとってプラスかもなあ。。。」と考えていたのだ。でも先に述べたように、もし関係が近づきすぎてこじれたらまずいし。。。と、自分からは到底言い出すことはない状況だった。それが、ルーミーの部屋の移動で一転した。このきっかけが無かったら、私はメンターの家に移ることは決して無かった。そして、明日荷物を全部移動させるのだが、大変好条件であることがだんだん分かってきた。地下の2部屋が全部自由に使える。地下といっても、ここでは当たり前に皆なつくってあり、乾燥しているためヨーロッパのような暗くて湿っぽいところではない。通常と変わらない部屋だ。ベッド・ルームと勉強部屋がひとつずつあり、私専用のトイレとシャワー・ルームがあり、大きなクローゼットもある。もう全てセットしてあるので、インテリアに関しては特に用意するものは無い。家賃も安くしてもらえる。ネットもパソコンもすでに引いてある。電子ピアノも最近買ってあるので練習できる。食事に関しても、冷蔵庫のものをある程度使わせてくれそうだ。難点は、学校から遠いこと。車が無ければ大変だ。朝はメンターと一緒に学校にいっても、帰りはバス。または自転車で往復か。それがあっても、とてもいい環境だ。メンターが本当に私がくることを喜んでくれているのも伝わってくる。面白かったのが、私が「何かあると大変なので、契約を交わしましょう。」と言うと、彼女は少し考えて「あなたはちゃんとした学生だから大丈夫だと思うわ。ただ、ひとつだけ、もしボーイフレンドがいても、部屋に泊めるのは禁止ね。来るのは構わないけど、夜泊まるのはだめよ。私は保守的なの。」何を言い出すのかと思ったら、そのこと!でもそれに関しては私も同意見なので、笑いながら約束した。彼女との会話もそうだが、やはりお孫さん(小学校2,3年かな?)との会話が、音楽療法の現場セッションのために私にとっていいのは目に見えている。私の本命のセッションは、子供のリテラシーの向上だからだ。予定としては1年後に移ることだった。しかし、そうでなければ、もう今のタイミングしか無かったのだ。とういのも、春学期のファイナルの週が終わったら、すぐ夏のセッションが始まるからだ。休みなし。私はこの夏、12単位という沢山なクレジットをかせぐ必要があるのだ。それが終わって夏休暇は、試験終了当日に友人が来コロラドでそれから1週間遊ぶ。そしてすぐ秋学期。引越しするのは、1年後の冬の休暇しかないのだー。いや、本当にこのタイミングで良かった。。。これは個人的思い込みの部分も多いと思うが、やはり、神さまが私の音楽療法の道を空けていてくれるとしか考えられない。こんなにタイミングよく物事が着実に進んできたことは、私の人生の中において、無い。音楽療法に関してだけ、いつも上手い具合に道が開けるのだ。今年もどうなるか分からないが、ちょっと期待しながら、今自分のするべきことを確実にこなして行くとしよう。また、面白いことが待っているかもしれない。ついでに言っておくと、PhDに進みたいと思っていて、でもこの大学には無いから、メジャーを変えてでも私のアドヴァイザーについてとろうと考えていたら、なんと、近い将来、PhDができるらしい。本当に私はついているなー、と本当におかしくなるDavinaなのでありました。
2006.01.14
コメント(2)
大食い、早食い競争のようなファースト・セメスターが終わり、海と山に約2週間の休暇に出かけて、そして帰宅。授業までの残りの1週間は予習に当てようと教科書を購入しかし毎日、音楽を聴いて、ピアノを弾いて、ギターを練習して、アメリカの古い歌を歌って、そしてジムに行って運動する。贅沢な毎日~^▽^友人とご飯したり、チャットしたりもするも、一人で過ごすこんな時間がとても楽しい。考えたら、学期中は、これら全部できなかったのよね。いつもテストと課題に追われていて、音楽生活にこんなに浸かっていたことはなかったわ。この土地に来てから、今まで経験したことのない音楽に対する飢えを感じるようになった。日本ではこんなに「音楽~、音楽~、聴きたーい。。。」と思ったことは無いと思う。その理由にひとつに、弾く仕事をしていたからということに気がついた。そんなに難しい曲を弾くことは無かったのだが、それでもソロの伴奏やBGMなど、弾きたい、弾きたくないに関わらず、弾くのが当たり前になっていた。しかしここでは英語の教科書漬け。ピアノのクラスはあったものの、たいした量を弾く必要もないくらいだった。こんなに音楽から離れたのも10年ぶりくらいかもしれない。そして義務感からでは無く、本当に音楽を聴きたいと思ってネットのラジオを開け、本当に弾きたいと思って、学校のピアノ練習室でピアノを弾く。音楽って、こんなにワインのように、麻薬のように酔わせてくれるんだっけ。。。ずっと音楽は身近にあったのにも関わらず、この歳になって改めてその凄さを痛感するなんで、とても意外だ。私の寮は、私にとってとても居心地が良いので、多くの時間家の中で過ごしても苦にならない。8畳ほどのベッド・ルームに、12,3畳のリビング・ルーム。リビング、キッチン、そしてバス・トイレは、もうひとりのルーミーと共同だ。朝は、クラシック音楽をネット・ラジオから聴く。夜はジャズを同じくネットから。CDプレイヤーが無く、CDもそんなに沢山持ってこなかったからであるが、ラジオからだと、沢山の曲目を聴けるのが魅力だ。ピアノも、Bachとボサノバに今夢中である。というか、この楽譜しか持ってきてないんだけど、日本にいたときには弾く仕事で与えられる曲の練習で、これらを沢山弾くまでいかなかったのだ。ピアノの質は明らかに良くないのだけど(カンカンなるの。YAMAHAのピアノは、練習室にはひとつも無さそうだ。)、この心地よさは何だろう。気候が乾燥しているから音もすっきりと通るし、かなり弱い防音室だから(一応音楽学部なんですけど、ケチってるのね)、音がよく響いてくれる。気持ちよい~~~^ー^ギターの練習と、アメリカの古い曲を歌うのは、セッションとクラスで今月から始まるのでその予習なのだが、練習しながらつくづく音楽をできる幸せを味わう。これが本格的にすると辛いのよねー。お気楽よねー。という心の声も聞こえるが、まあ今はここ半年感飢えていたことをして楽しんで、またセメスターが始まったらガツガツ行けばいいじゃない、とも思う。ジムで身体を暖めるくらいに汗を流すのも快適♪やはり運動すると、立っているとき、歩いているときなどに、自分の身体のバランスが良いのを感じる。適度に運動して、音楽三昧な生活。本当に贅沢っていうのは、ここにあり、といった感じ。セカンド・セメスターの授業まで1週間を切ったけど、いつでも完全燃焼して、切り替えを早く、そして自分の中で全てのことに上手くバランスをとりながら、楽しんで毎日を過ごしていこう。
2006.01.11
コメント(4)
USに留学して、最初の冬の休暇カリフォルニアの友人宅へクリスマス・イブから新年まで滞在し、その後、コロラドのヴェイルというスキー場へ行った。両方とも初めて訪れる場所で、日本を恋しがることもすっかり忘れていた^▽^特にスキーは10年以上ぶりに滑ったのだが、不思議なもので、以前5年ほど滑っていたことを身体が覚えており、思ったよりも楽しめたのがとても嬉しかった♪私も友人から教えてもらい知ったのだが、ここコロラド州のヴェイルというところは人気のスキー・リゾート地で、全体的に高めだ。まず、リフト代が、1日$81する。宿泊も、中心地だと$300くらいは当たり前らしい。今回は友人がなかなかリーゾナブルなパック宿泊を見つけてくれて、助かった!1泊1リフト券つきで、ひとり$100。お買い得だ~~^ー^コンドミニアムだったので、食事は自分たちで作った。アメリカの食事にあまり期待していない私としては満足、満足♪そして、ここのスキー場の素晴らしいところは、1. パウダー・スノー2. 湿気が少ないので、あまり寒さを感じない3. コースが沢山あり、しかも長い実は最初は、あまり乗り気では無かった。だが、スノボをする友人があまりにも熱心に行きたがるので、反対できなくなっていたのだ。ことろが一旦滑り始めるとアラ不思議、とても心地良いのだ。ボーゲンに逆戻りかしら。。。と、恥を覚悟で滑りだしたものの、なんのなんの、以前にやめた段階くらいまではちゃんと滑れる。おー、身につけたことはそうそうに忘れないのだ~~~滑るよりも、その事実が面白くて、同じことを何度も繰り返した。きっと友人は内心、「またか」と思っていたに違いない。日本の雪のように水気を含んでいないので、転んでも冷たくないし、痛くない。太陽がでていなくても、そんなに寒くない。標高は約3000m、そう、富士山の山頂と同じくらいの場所で私たちは滑っていたのである。そのせいで、初日、面白いことがあった。10年くらいスノボをしている友人が、はあはあと、途中途中で息を切らしているのだ。理由を聞くと「空気が薄くて辛い。」私は全く平気だったので、言われて標高が高いために空気が薄いことに気がついた!私はすでに、山岳地帯の現地人と化していたのだ。。。 ̄ー ̄;;;私の住んでいる街は、標高1800mくらいある。なので、この街で生活をし始めて初めに言われたことは、「水を頻繁に飲むんだよ。」ということだった。高山病にならないように、皆水を沢山飲むようにしている。そうやって半年、私はすっかり高地の気候に慣れていたのだ。とくもかくにも、私の10年以上ぶりのスキーは予想をはるかに超えて楽しくて、これからまた始めそうな勢いだ。スキーをこれからもするか分からなかったので、スキー・ジャケットはeBayで$8のものを、スキー・パンツは適当にあるもので済ませた。これからまた続けそうな気配。そうすると、ウエアもかっこいいのがほしーなー。でも、次の冬休暇はフランスの友人宅を訪れるかもしれないから、また行くとかなりの予算オーバーだなあ。やば、親に申し訳がたたないよ。。。。と、どこを節約するか、真剣に考えるDavinaなのであった。
2006.01.08
コメント(5)
謹賀新年 皆様、いかがお過ごしですか?クリスマスから5日まで、カリフォルニアとスキーに行ってたっぷり休暇をとっていたので、ちょっぴり遅い今年の抱負です。今年は「バランスを上手にとる」ことに集中しようと思っているの。昨年2005年は、「完全燃焼生活」でした。振り返ってみて、自分なりに完全燃焼したので、採点はA-(90点)くらいかな。基本は、取り組むこと全て完全燃焼で、だけれど、それに加えて全体像を良く見て、上手に統合すること、そしてそれを未来に向けて動かしていくこと、バランスの舵取りを上手にこなし、キープしていくこと、これですね。いくら上手く物事をオーガナイズしても、バランスをくずすと上手く機能しない。新年早々、10年以上ぶりのスキーをしたのね。高校3年生くらいから5年間ほどスキーは行っていたのだけれど、バレエのレッスンに集中するために、やめちゃったの。だから、最初友人に誘われたときはどうなることやら。。。と思って再開したのだけれど、やってみると、あーら不思議、ちゃんと身体が滑り方を覚えているわけ。そして滑りながら思っていたこと。それは、身体のバランスを上手くとれば、上手に滑れる。。。いくら上手いポジションで滑っても、もしバランスをとれなかったらスキーは上手に滑れない。バランス感覚を磨くことの大切さを実感してきたこともあって、今年はこの「バランスを上手にとる」ことに決定!来年はこれがどのくらいできているか、楽しみだわ♪
2006.01.07
コメント(2)
全6件 (6件中 1-6件目)
1