オバかの耳はロバの耳 

2010/11/05
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7.対ロシア戦準備の六六艦隊日清戦争の勝利により、遼東半島が日本に割譲されたが、ロシアはドイツ、フランスと語らって、日本に対して清国に返還するよう圧力をかけた。三国干渉である。恐露病患者と言われる山県は、この際ロシアと結んで、英独仏の欧州連合軍を破るべきだという意見を持ったが、従道は兄・隆盛の遺志を継いで「次は日露戦争である」という信念を曲げなかった。明治28(1895)年3月、軍務局長となった山本権兵衛は、対露決戦用に六六艦隊の構想をまとめた。戦艦6隻、巡洋艦6隻で、ロシアの東洋艦隊と対抗させようという案である。これに要する多額の予算に対して、議会で追及を受けたが、従道は「なにしろ軍艦は鉄で作りますので、金がかかりますので、よろしくおねがいします。ご質問があれば、次官に説明させます」と、なまくら問答で議会を通してしまった。従道と権兵衛の苦心により、日露戦争直前の明治35(1902)年における海軍の保有トン数では、ロシア19万3千トンに対し、日本は12万9千トンと、3分の2ほどの戦力となった。不足分は、ロシア側に比して射撃速度、命中精度がそれぞれ3倍という練度、下瀬火薬などの先端技術、独創的なT字戦法などでカバーしたのである。

8.「三人が死んでも『三笠』ができればよか」日本海海戦で旗艦として活躍した戦艦「三笠」は、この六六艦隊構想で計画されたものだったが、明治31(1898)年秋の発注段階では、海軍予算は尽きていた。すぐに手付け金を払わねば、発注先の英国のビッカーズ社は契約を解除するという。この時点で、海相を引き継いでいた山本権兵衛は困って、内相に横滑りしていた従道に相談した。話を聞いた従道は、「それは一大事」と、同じく薩摩出身の文相・樺山資紀(かばやま・すけのり)を呼んだ。樺山は「いますぐ手付けを送れ。なに、金は別の予算を流用すればよか」と過激なことを言う。従道もこう言った。

そうじゃ、別途の予算を流用するのは、海軍大臣としては違憲かもしれんが、この建艦は国家の重大事じゃ。もしこれが違憲として、責任を問われたら、われわれ三人が二重橋の前で腹を切ればよか。議会も文句は言うまい。三人が死んでも「三笠」ができればよか。

こうして「三笠」は日本海海戦に間に合った。こうした従道の陰の働きで、日本海軍は日本海海戦において、英国の著名な戦史家H・W・ウィルソンが「歴史上、未だかつて、このような完全な大勝利を見たことがない」と評する大勝利を得た。[c]しかし、その大勝利を見ることなく、従道はその3年前に60歳で没した。縁の下の力持ちとして、「ロシアから日本を守る」という兄・隆盛の遺志を着実に果たした生涯であった。(文責:伊勢雅臣)





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Last updated  2010/11/05 11:01:44 PM
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