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転載記事******■■ Japan On the Globe(946) ■■ 国際派日本人養成講座 ■■ 国史百景(19): ウズベキスタンの桜 ソ連に抑留されてウズベキスタンで強制労働に従事して亡くなった日本将兵の墓を、地元の人々は大切に護ってきた。__________■■■ 講演会のお知らせ ■■■「樋口季一郎とユダヤとドイツ 真の日独友好」 樋口隆一・明治学院大学名誉教授2016年5月14日16:00-18:00ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川〒606-8305京都市左京区吉田河原町19-3参加料 無料 定員 80名Email:proflecture2016@gmail.com あて、お名前、ご所属、連絡先をお知らせ下さい。参考 JOG(085) 2万人のユダヤ人を救った樋口少将(上) 人種平等を国是とする日本は、ナチスのユダヤ人迫害政策に同調しなかった。http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h11_1/jog085.html ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄■1.ウズベキスタンの桜 中央アジアの内陸部にあるウズベキスタンの首都・タシケントに、1500人の観客を収容する壮麗なレンガ作りのナヴォイ・オペラ・バレエ劇場がある。1966(昭和41)年4月、震度8の大地震が市を襲い、市内の建物の2/3が倒壊した中でも、この劇場はびくともせず、市民の避難所となった。 劇場の外壁にはプレートがはめ込まれ、ロシア語、日本語、英語、ウズベク語でこう記されている。__________ 1945年から1946年にかけて極東から強制移送された数百名の日本国民が、このアリシェル・ナヴォイ―名称劇場の建設に参加し、その完成に貢献した。[1] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 劇場周辺の庭には染井吉野や枝垂れ桜、八重桜など30本の桜が植えられ、春には美しい花を咲かせる。 ナヴォイ劇場だけでなく、タシケント市の中央公園にも600本の桜が植えられ、「さくら公園」と呼ばれている。さらに、そこに通じる大通りに250本、大統領官邸にも100本の桜が植えられている。 すべて日本から苗木を空輸し、日本人の造園の専門家がついて、ウズベキスタンの人々が植樹したものだ。今回は、ウズベキスタンに、なぜこれほどの桜が植えられたかを辿ってみよう。■2.「なんとか、日本人のお墓を整備してもらえないだろうか」 事の発端は、2000(平成12)年10月19日夕刻、ナヴォイ劇場とその前庭広場で「日本の祭り」が開かれた時だった。当時の在ウズベキスタン大使・中山恭子氏が同国の伝統音楽や、宮崎からやってきた親善訪問団による「木剣踊り」などを見ていると、訪問団の二人が大使に相談したいことがあると言ってきた。 その一人、池田明義さんは戦後、シベリアに抑留され、ウズベキスタンのベカバードという場所で強制労働に就いていた。そこには一緒に働いていた仲間のお墓があるはずなので、ぜひ墓参りがしたい、という。 中山大使は急遽、タクシーや通訳の手配をして案内させた。翌日の夕方、池田さんは戻ってきて、大使に報告した。「自分達が作った水力発電所は今も立派に動いている。でも、お墓に行ったらとても悲しかった。ベカバードの日本人墓地は、荒れ果てたままになっている」と唇を噛み締めていた。 そして「なんとか、日本人のお墓を整備してもらえないだろうか」と言い残して、日本に帰っていった。 その後、すぐに中山大使はベカバード市を訪れた。市長のジャロリジン・ナスレジノフさんが、まず水力発電所に案内してくれた。シルダリアという大河から水を引いて大きな貯水湖を作り、そこから6~7本の太いパイプで水を落として発電する、という巨大な発電所である。水力発電所は赤レンガ作りの立派なものであり、貯水池も向こう岸が霞むほどの大きなものだった。 ベカバード市長は、案内しながら、こう話してくれた。__________ ベカバードはこの発電所が建てられた当時砂漠でしたが、この発電所や運河のおかげで今は緑豊かな大勢の人が住む町になりました。ここで風速五十メートルを超える突風が吹いた時にも、周辺の建物は全て壊れてしまいましたが、この水力発電所だけはビクともせずに動いていました。五十五年間、毎日、一日も休まずウズベキスタンに電力を供給してくれています。[1,p207] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄■3.「何という風景でしょう」 それからベカバード市の共同墓地にある日本人墓地に向かった。ウズベク人、トルコ人、ロシア人などのそれぞれのお国ぶりの墓地の中心部辺りに、大きな野原があった。案内してくれた人が「ここが日本人のお墓です」という。 何もない枯れ野原で、目についたのは小さな垣根だけだった。その中に入り、足元を見ると、ちょうど人が横たわっているような盛り土が、幾筋もはるか遠くまで並んでいた。 墓標もない。ただ頭のあたりに、はがき大の小さな鉄板が刺してあり、記号と6桁の数字が彫ってあった。捕虜の番号だろう。大使は立ちすくんだ。__________何という風景でしょう。一体どうしたらいいのだろう。しばらくの間、その場に立ち尽くしてしまいました。 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄■4.「あそこに眠っているのは、自分の大切な友達なんだ」 墓地を訪れた後、市長は中山大使を、日本人のことをよく覚えているという90歳の老人の家に連れていってくれた。子や孫、曾孫に囲まれた賑やかな一家だった。 老人は「お墓をお参りしてくれたのか。あそこに眠っているのは、自分の大切な友達なんだ。どうも有難う。お参りしてくれて有難う」とお礼を言った。 大使が「日本人のことを覚えていらっしゃいますか」と聞くと、こう答えた。__________ それはもう、よく覚えているよ。自分は若い頃タシケントに住んでいたが、ベカバードに水力発電所を造ることになり、ここで働くようにと言われてやってきた。 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 日本人抑留者が3千人ほどやってきて、すぐに仕事を始めた。__________ 日本人っていうのはとってもいい人達だった。几帳面で、自分の仕事をとても大切にするんだ。時間がきても仕事が終わらなければまだ続けている。うまくいかない時にもいろいろ工夫してやり遂げる。また、誰かが病気になるとみんなで助け合っていた。日本人が作るものは全ていいものだった。本当にすごい人達だった。とても大切な友達だったんだ。 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ こういう話を老人からいつも聞かされて、家族も町の人々も皆、日本人のお墓は大切にしなければいけないと思ってきたという。整備するだけの余裕はなかったけれど、草を刈ったり掃除をしたりして日本人墓地を大切に保存してくれていた。 同様に、ウズベキスタン全体では、大戦後、2万5千人の日本人抑留者が強制労働に従事して、道路や運河、発電所、市庁舎、学校などを作った。ナヴォイ劇場はその一つである。どの地方でも、日本人が勤勉に働いていた様が語り継がれていた。下に続く
2016/04/10
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上からの続き■5.「父はここで眠るのが一番幸せだと思いました」 中山大使は「誰もがお参りにいけるようにお墓を整備したい」と思ったが、作業に取りかかる前に、まず埋葬者の遺族の意思を確認することとした。日本に遺骨を持って帰りたい、という人もいるのではないか、と思ったからだ。 遺族を探し出すのは難儀したが、「父の遺骨をどうしても日本に持って戻りたい」という人が見つかった。とりあえず現状を見てみたい、とのことで、元抑留者たちと一緒にウズベキスタンにやってきた。 その人の父親のお墓は、コカンド市にあった。地元の人々が赤い鳥居を立ててくれている。その人は墓地を訪問した後、中山大使にこう語った。__________ ウズベキスタンまで来て本当に良かった。父はここで眠るのが一番幸せだと思いました。お墓を訪ねたら大層綺麗になっていた。お花を飾ってくれていたし、箒(ほうき)の目まで立っていた。そして、周りにいたウズベキスタンの人々に話を聞いたら、みんなが「ここで働いていた人達は本当に優れた人達だった。尊敬している。だからお墓を守っている」と話してくれた。 父が、みんなに、こんなにまで温かく見守られているとは思ってもいませんでした。父の遺骨を日本に持って帰るために、兄弟で少しずつ貯金をしてきました。でも、日本に帰ったら、兄弟達にきちんと話をして納得してもらいます。父はきっと、ここで仲間達と一緒に眠るのが一番幸せなのだろう……そういうふうに感じたからです。そして、貯めてきたお金は代わる代わるお墓参りに来るのに使いたいと思います。 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ こうして、元抑留者や遺族の間では、、「遺骨を日本に持ち帰るより、戦友達と一緒に、ウズベキスタンの人々に温かく見守られながら、ここで眠るのが一番いいだろう。それに反対する人は関係者の中にはいないだろう」という結論となり、墓地整備に踏み切ることになった。■6.「日本人墓地の整備はウズベキスタン政府が責任を持って行う」 こうして大使館側では資料収集を始め、また日本側でも呼応して募金活動が始まった。約2千万円の浄財が集まり、整備の目処がついた所で、ウズベキスタン政府に日本人墓地の整備をしたい、とお願いした所、スルタノフ首相からすぐに返事が返って来た。__________ ウズベキスタンで亡くなった方のお墓なのだから、日本人墓地の整備は、日本との友好関係の証としてウズベキスタン政府が責任を持って行う。これまで出来ていなかったことは大変恥ずかしい。さっそく整備作業に取り掛かります。[1,p224] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 対外経済関係省が中心となって、墓地整備の作業が始まった。同省のエリヤル・ガニエフ大臣が自ら各地の墓地を訪れて、「ここに車が通れる道を作れ」などと具体的な指示をした。 それぞれの地域では、住民達が集まって石を切り出し、磨き、垣根を作り、墓石の周囲になるべく雑草が生えないように砂利を敷き、丁寧に作業を進めてくれた。政府の声がかりがあるとはいえ、多くの人がボランテイアで参加してくれた。 各地域で大勢の人々が作業に参加したため、1年ほどで全ての墓地整備が完了した。白い墓石が並び、それぞれの墓地に「鎮魂の碑」、四つの市に「抑留者記念碑」も建立さた。■7.「ここに桜を植えたい」 墓地整備が進んでいる最中にも、中山大使は最初に訪れたベカバード市の墓地の殺風景な光景が忘れられなかった。__________ 亡くなった当時、ほとんどが二十代、三十代の若者でした。何とかして日本に帰ろうと耐えていたことでしょう。日本を思って毎日を過ごしていたに違いありません。帰郷がかなわず五十数年間訪ねる人もないまま、日本から遠く離れたウズベキスタンの地で眠っているのです。 周囲の墓地には、木が大きく育ち墓を守っています。野原のような殺風景な日本人墓地に立った時、ここに桜を植えたいと強く思いました。春になれば綺麗な花を咲かせてくれるだろう。何年か経てば太い枝が墓を覆ってくれるだろう。きっと異国の地に眠る霊達も喜んでくれるに違いない。 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ そこで中山大使は、集まっていた募金の一部を桜の苗木に使えないか、と協力者たちに相談した。元抑留者からも「抑留されていた頃、もう一度日本に戻って桜の花を見たいと思って頑張った」という話も出て、皆、大賛成だった。 ウズベキスタン側からも、「建設中のタシケント市の中央公園を日本の桜で埋められないだろうか」という提案があった。こうして冒頭に記したように、各日本人墓地とともに、中央公園とそれに続く大通り、大統領官邸、ナヴォイ劇場などで、合計1300本もの桜の苗木を植えるという国家的大事業が始まったのである。■8.「ふるさと」の歌 2002(平成14)年春には全ての墓地整備が完了し、白い墓石が並び、いつでもお線香をあげてお参り出来るようになった。それぞれの墓地に「鎮魂の碑」、四つの市に「抑留者記念碑」も建立された。 同年5月、鎮魂の碑と抑留者記念碑の除幕式に日本から麻生太郎日本・ウズベキスタン自民党友好議連会長、中山成彬同事務局長はじめ、遺族、元抑留者、ボランティアなど多くの人々がタシケントに集まった。 式の後で三つのグループに分かれて、各地にある全ての墓地を訪ね、花を供え、お線香を焚いて、時には日本酒を注いでお参りをした。誰からともなく「ふるさと」の歌が流れ、全員が声を合わた。人々の頼に涙が伝った。 鎮魂の碑や抑留者記念碑の費用は日本で集まった募金で賄ったが、実際に石を切り出し、墓石を磨き、道を造り、桜を植えてお墓の世話をしてくれてたのは地元の人々だった。ウズベキスタン側はそうした作業にかかる費用について、本来、自分達がやるべきことだからと一切受け取らなかった。 それではと墓地整備のためとして全国から寄せられた募金で、13カ所の日本人墓地の地域の学校に日本製のコンピュータを寄付した。教育熱心なウズベキスタンの人々は大変喜んだという。 この春も、ウズベキスタンの桜は見事な花を咲かせたろう。墓を護ってくれているウズベキスタンの人々とともに、墓地に横たわる日本の抑留者たちも、美しい桜の花を愛でながら、遠い祖国の山河に思いを寄せたことだろう。(文責:伊勢雅臣)
2016/04/10
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転送記事*****■■ Japan On the Globe(941) ■■ 国際派日本人養成講座 ■■ Common Sense: 日本共産党小史 ~ 国民政党なのか、外国工作機関なのか 日本共産党は世界共産化を狙うコミンテルンによって設立され、その資金と指示で武闘路線を歩んできた。■1.日本共産党は改憲政党だった 近年、SEALDs(シールズ=自由と民主主義を守るための学生緊急行動)という学生団体の安保法案反対デモの様子が新聞で報じられている。そのSEALDsの行動予定が日本共産党の機関紙『しんぶん赤旗』に掲載されており[1]、同党の関連団体か、少なくとも志を同じくする団体のようだ。「護憲」を叫ぶSEALDsの若者たちは、日本共産党が日本国憲法制定時に反対した唯一の政党であることを知っているだろうか? 昭和21(1946)年8月24日、衆院本会議で野坂参三は共産党を代表して、反対演説を行った。 野坂の主張は「世襲の天皇制が残っている限り、とうてい民主主義憲法とは言えない」という点と、「我が国の自衛権を放棄して民族の独立を危うくする危険がある」という2点だった。日本共産党の改憲の主張は、その後も長く続いた。__________ 昭和48年(1973年)2月に行われた第12回(共産党)党大会では、「民主連合政府綱領案」が採択される。ここでの方針は、自衛隊は憲法違反の軍隊なので解散させ、その上で憲法改正を提案し、「最小限の自衛措置をとる」としていた。合憲の軍隊を持つということである。[2,p225] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄「世襲の天皇制」云々は別にして、防衛論議としては筋の通った主張である。共産党が今もこの政策を表明していたら、SEALDsから反対のデモをしかけられただろう。 それが今では、集団的自衛権に対しても「憲法を破壊し、『海外で戦争する国』をめざす歴史的暴挙」(日本共産党ホームページ)などと、徹底した護憲政党ぶりを見せている。 この見事な豹変振りは何なのか。日本共産党とは一体どんな政党なのか。それは同党の100年近い歴史を辿ってみれば、明らかになる。約40年も党員として過ごし、党ナンバー4の政策委員長に上り詰めながら、離党した筆坂秀世(ふでさか・ひでよ)氏の著書[2]を参考に、考えてみたい。■2.「共産党はコミンテルンの歯車の一つだったに過ぎない」 日本共産党は大正11(1922)年に結成されたが、その誕生からして、日本人が日本国のために設立した国民政党ではなかった。ソ連共産党が設立し世界に共産主義を広めるための組織・コミンテルンの日本支部であった。この異様な「国際性」は、日本共産党のその後の足取りにも顕著に見られる。__________戦前の党の綱領的文書は、このコミンテルンで作成されたものであり、当然のことながら、そこにはソ連の意向が色濃く反映されていた。・・・ このコミンテルンの方針には、「日本のプロレタリアートおよびその共産党に、・・・帝国主義戦争を内乱に転化し、ブルジョア=地主的天皇制の革命的転覆を招来するという任務を課している」・・・などとなっていた。 つまり、戦争を内乱に転化し、共産革命を成功させることが最終目標だったということである。「帝国主義戦争を内乱に転化」と謳っているわけだから、当然、武力闘争路線である。[1,p24] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ さらに筆坂氏は「活動資金までコミンテルンに依存していたこともあり、共産党はコミンテルンの歯車の一つだったに過ぎない」[2,p35]としている。 世界共産化を狙うソ連と、共産主義から国柄を護ろうとしていた日本は冷戦状態にあり、その最中で日本共産党はソ連の指示で動く尖兵だった。 日本の政党とは、日本人が日本のために、ある理想を議会政治を通じて平和的に実現しようとする組織ばかりだと思っていたが、日本共産党は外国人が外国のために作った、しかも武力闘争を基本路線とする工作機関だったのである。 日本共産党が、戦前、戦中に非合法政党として取り締まりを受けてきたことは事実であるが、実際に外国の指示に従って「内乱から革命へ」を目指していたら、どこの国でも非合法の謀略工作として治安維持のために取り締まるのは当然だろう。■3.尾崎秀實「ソ連を日本帝国主義から守る」 コミンテルンは「帝国主義戦争から内乱、革命」という謀略をどう展開しようとしたのか。これについては、日本国内で暗躍していたゾルゲ諜報網の動きを見れば理解できる。日本共産党は日本の官憲に抑えられていて有効な動きができなかったが、ゾルゲ諜報網はソ連のために大きな働きをした。 リヒャルト・ゾルゲはドイツ紙の記者、およびナチス党員として在日ドイツ大使館に出入りしていたが、実はコミンテルンのスパイであった。ゾルゲは日本での活動で、「日本軍がソ連と戦う意思はない」という情報を掴み、ソ連に流した。ソ連はこの情報をもとに、極東に配備していた精鋭部隊を対ドイツ戦に投入し、これがソ連勝利の一因となった。 ゾルゲの情報源となったのは、朝日新聞記者出身で近衛文麿内閣のブレーンをつとめていた尾崎秀實(ほつみ)であった。尾崎はゾルゲに機密情報を流すと共に、朝野に中国の蒋介石政権との支那事変を煽り、和平工作を妨害した。[a] 尾崎もコミンテルンの活動家であり、逮捕後の取調べで、「我々のグループの目的・任務は、狭義には世界共産主義革命遂行上の最も重要な支柱であるソ連を日本帝国主義から守ること」であったと供述している。ゾルゲと尾崎は昭和16(1941)年に日本の官憲に逮捕され、裁判で死刑になっている。■4.終戦後の革命運動 日本共産党結成に参加していた野坂参三は、ソ連に逃れて秘密訓練を受けたり、アメリカ共産党とも関係し、大戦末期には延安で中国共産党と合流して日本兵に向かって脱走を呼びかけたり、と「国際的」な活動をしていた。 戦後、帰国して、日本共産党を再建し、衆議院議員ともなったが、ある手紙にソ連のシベリア抑留の肯定と延長を求める文面があって国会で大々的に追及された。こういう人物が、その後、24年間も日本共産党の議長になるのである。 しかしソ連崩壊後の情報公開で、野坂はスターリンの弾圧から逃れるため同志・山本懸蔵らをスパイだと虚偽告発して銃殺刑に追いやったことや、終戦後に延安からモスクワに行き、ソ連情報機関の内通者となって資金も受け取っていたことが発覚し、平成4年(1992)年に党を除名された。[2,p61] 敗戦後、占領軍に解放され、合法化された共産党は、昭和20(1945)年12月8日、真珠湾攻撃の記念日に「戦争犯罪人追及人民大会」を開き、天皇を含む戦争犯罪人名簿を発表している。これを筆坂氏は「終戦直後に『日本人が日本人を裁け』などと喜び勇んですることなのか」と批判している。 昭和22(1947)年には、国民の生活が困窮する中で、革命に火をつけようと、日本共産党は大規模なゼネラル・ストライキを計画したが、占領軍司令部の命令で中止させられた。 昭和25(1950)年6月には、前年の中国共産党による中華人民共和国成立と北朝鮮の侵攻から始まった朝鮮戦争を受けて、革命の波及を恐れたマッカーサーが日本共産党を「民主主義的傾向を破壊」するものとして共産党幹部の公職追放を指令したため、日本共産党は事実上、非合法状態に追い込まれた。 野坂参三、徳田球一は公職追放を受けて、中国に亡命。ソ連共産党や中国共産党の援助によって「北京機関」を結成し、「日本の解放と民主的変革を、平和の手段によって達成しうると考えるのはまちがいである」として、中国革命流の農村部でのゲリラ戦を訴えた。下に続く
2016/03/09
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転載 続き■5.日本共産党と在日朝鮮人「祖国防衛隊」による内乱 北京の徳田球一を通じて、中国共産党からの「指導」が日本共産党の地下指導部に伝えらた。同時に朝鮮戦争を後方支援すべく、金日成の指示を受けて在日朝鮮人による「祖国防衛隊」が結成され、全国各地で火焔ビン闘争が展開された。 こうして朝鮮戦争下の三大騒擾事件が起こったが、その最初が昭和27(1952)年5月1日の「血のメーデー事件」である。デモ隊が日比谷交差点での警察官隊列を棍棒と竹槍で突破し、占領軍司令部ビルへ殺到し、「アメ公帰れ」などと怒号した。警察官の負傷者832名、うち重体8名、重傷71名、破壊された警察車両30台というから本格的な内乱である。 さらに6月25日には朝鮮戦争開戦2周年を記念して、大阪の吹田駅で「朝鮮戦線向けの軍用列車を阻止」しようと、警官隊と衝突。7月には、共産中国を初訪問した帆足計(ほあし・けい)らの歓迎報告会から発生したデモ隊が警察隊と衝突し、火炎ビンが乱れとんだ。 これらの闘争で検挙された件数は、同年だけで204件、検挙・起訴された者は1605人に上る。このうちのかなりの割合が、在日朝鮮人であった。[4]■6.中国、北朝鮮、日本共産党の麻薬取引 1952(昭和27)年、国連の麻薬委員会で米国代表が「中共と北朝鮮は、日本共産党の活動資金を賄うために麻薬取引をしている」と非難した。 朝鮮戦争を戦う米兵の間でヘロインが蔓延し、米国は詳細な調査の結果、コミンテルンの後継組織としてソ連が結成した国際共産主義運動組織「コミンフォルム」が、中国共産党、朝鮮労働党を指揮し、大陸から日本へ麻薬・覚醒剤を密輸していた事を掴んだ。その日本側の受け入れ窓口が日本共産党だった。 日本共産党は「祖国防衛隊」とともに、在日朝鮮人女性を「愛国的売春」などという宣伝文句で米兵相手の売春婦に仕立てあげ、米軍基地近くのキャバレーなどで、米兵にヘロインを売らせていた。昭和28(1953)年、日本国内でヘロイン密売で摘発された人数は、在日朝鮮人261人、中国人363人だった。 米兵をヘロイン漬けにして戦闘能力を奪いつつ、その利益を軍資金として日本共産党と「祖国防衛隊」は火焔ビン闘争で後方支援を行うという天才的な謀略である。[5]■7.今度は中国共産党に服従? 中国とソ連が激しく対立するようになると、日本共産党はソ連側に立ったが、毛沢東から激しい攻撃を受けた。毛沢東は、毛沢東思想と自身の神格化、中国共産党流の武力闘争路線を受け入れることを要求した。 日本共産党内には毛沢東の要求を受け入れる輩もいて、党は分裂した。毛沢東思想に共鳴する新左翼として連合赤軍などが生まれ、彼らは「毛沢東思想で武装した軍隊」だと自称していた。連合赤軍は、内部粛清として集団リンチにより12名を殺害し、またあさま山荘に籠もって、警察と対峙し、社会に大きな衝撃を与えた。 ソ連が崩壊して、日本共産党は平成10(1998)年に中国共産党と和解した。しかし、近年の中国は、南シナ海に傍若無人な拡張主義をとって、ベトナムとも対立している。筆坂氏は、この点に関する日本共産党の態度を激しく批判している。__________ 問題は、日本共産党である。中国共産党と断絶していた時代なら、この中国の無法を厳しく断罪したはずだ。だが中国共産党との関係が正常化した今、口をつぐんでいる。・・・ ベトナム戦争以来、ベトナム共産党と日本共産党は良好な関係を築いてきた。ベトム戦争でも最大限の支援をしてきた。中国の横暴と戦うベトナムを今こそ支援すべきではないのか。それができないようなら、覇権主義、領土拡張主義を批判することも、ご都合主義だということになる。これは、チベットやウイグルについても同様である。 チベットやウイグルの現状は、民族自決権の侵害そのものである。日本共産党は、民族自決権の尊重を強く主張してきた。それは正しいことである。だが、日本共産党はこの重要問題について、なぜ語ろうとしないのか。[2,p110] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 共産党が心底から世界の平和と諸国民の幸福を願っているなら、相手がどの国であっても「民族自決権を尊重せよ」との声を上げるべきだ。それを自党と中国の関係によって、口をつぐむ、というのでは、ご主人様がかつてのソ連共産党から中国共産党に変わっただけなのではないか。■8.日本国民のための「国民政党」になったのか? 日本国民の幸福を第一に考える日本人なら、こういう日本共産党から離れていくのも当然だろう。筆坂氏は、東日本大震災の体験で、日本共産党の過ちを悟った元幹部・山下文男氏を紹介している。山下氏は陸前高田市の病院に入院している時に、津波に襲われた。その時のことをこう語る。__________ 僕はこれまでずっと自衛隊は憲法違反だと言い続けてきたが、今度ほど自衛隊を有り難いと思ったことはなかった。国として、国土防衛隊のような組織が必要だということがしみじみわかった。とにかく、僕の孫のような若い隊員が、僕の冷え切った身体をこの毛布で包んでくれたんだ。その上、身体までさすってくれた。やさしさが身にしみた。僕は泣いちゃったな。[2,p245] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 自衛隊はまさしく国民のための、国民による組織である。それに対して、日本共産党はソ連共産党が設立し、ソ連と中国の共産党のために戦う武闘組織であった。中国の横暴に口をつぐむ姿勢からは、日本国民のための「国民政党」、というポーズは擬装ではないのか、との疑いを禁じ得ない。(文責:伊勢雅臣)
2016/03/09
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読んだら、拡散!転載記事********■■ Japan On the Globe(937) ■■ 国際派日本人養成講座 ■■ The Globe Now: 中国「100年マラソン」の野望「過去100年に及ぶ屈辱に復讐すべく、中国共産党革命100周年にあたる2049年までに、世界の経済・軍事・政治のリーダーの地位をアメリカから奪取する」■1.「自分が信じ込んでいた仮説は、危険なまでに間違っていた」 過去30年にわたって中国専門家としてアメリカの歴代政権の対中政策に関わってきたマイケル・ヒルズベリー博士が著書『China2049 秘密裏に遂行される「世界覇権100年戦略」』[1]で、自分がいかに中国に騙されていたかを赤裸々に語って、話題を呼んでいる。__________ わたしは、1969年に中国との連携を後押しする最初の情報をホワイトハウスに提供したひとりなのだ。以来、数十年にわたって、技術と軍事の両面で中国を援助することを両党の政権に促してきた。その間を通じてわたしは、アメリカのトップレベルの外交官と学者が共有する仮説をすっかり信じ込んでいた。・・・すなわち、「中国は、わたしたちと同じような考え方の指導者が導いている。脆弱な中国を助けてやれば、中国はやがて民主的で平和的な大国となる。しかし中国は大国となっても、地域支配、ましてや世界支配を目論んだりしない」というものだ。・・・ こうした仮説は、すべて危険なまでに間違っていた。現在、その間違いが、中国が行うこと、行わないことによって日に日に明らかになっている。[1,162] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 一人の専門家が、これほど率直に、かつ1冊まるまるを使って自らの過ちを世に公表した事はかつてあっただろうか。文章は冷静で淡々としているが、紙背からは、30年も中国に騙されていた責任を痛感し、まだ間に合ううちに世界の人々に真実を知らしめたい、という静かな執念が感じられる。■2.「100年マラソン」 博士が「危険なまでに間違っていた」と悟ったのは、次のような経緯だった。 1990年代後半のクリントン政権下で、博士は国防総省とCIAから「中国のアメリカを欺く能力と、それに該当する行動について調べよ」と命ぜられた。そこで諜報機関の秘密資料にあたったり、中国の反体制派をインタビューするうちに、従来の「中国の平和的な台頭」という仮説とは矛盾する事実が続々と出てきた。__________ やがて見えてきたのは、タカ派が、北京の指導者を通じてアメリカの政策決定者を操作し、情報や軍事的、技術的、経済的支援を得てきたというシナリオだった。これらのタカ派は、毛沢東以降の指導者の耳に、ある計画を吹き込んだ。それは「過去100年に及ぶ屈辱に復讐すべく、中国共産党革命100周年にあたる2049年までに、世界の経済・軍事・政治のリーダーの地位をアメリカから奪取する」というものだ。この計画は「100年マラソン」と呼ばれるようになった。共産党の指導者は、アメリカとの関係が始まった時から、この計画を推し進めてきたのだ。[1,281] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 中国はアメリカの伴走者を装って助けて貰い、十分力をつけてから、最後のラストスパートでアメリカを抜き去って勝者としてゴールインする、という戦略なのである。■3.「100年マラソン」が引き起こした中ソ対立 博士が「100年マラソン」の戦略に気がつくと、中ソ対立もそれが原因だった事が、改めて了解できた。 1969年、中国はアメリカに、ソ連と対抗するための協力をしたいと申し出た。ニクソン政権はそれを受けるかどうか決定するために、博士に分析を求めた。 博士は国連本部事務局のソ連職員アルカディ・シェフチェンコと仲良くなり、彼の意見を引き出した。彼は、何十年も中国はソ連の援助に頼る弱者を巧みに演じてきたが、その後で「ソ連の指導者は中国が共産圏の支配、ひいては世界支配を目論んでいると考え、中国人を憎み恐れている」と語った。 ソ連から来た他の国連職員もこう警告した。「中国に脇役に甘んずるつもりはない。彼らには彼らのシナリオがあり、世界という舞台の主役を射止めるためなら何でもする覚悟だ。アメリカが中国の誘いに乗れば、予想もしない結果を招くだろう」と。 しかし、当時、中国の経済規模はアメリカの10分の1に過ぎなかった。その中国がアメリカを追い抜くことを夢見るなどというのは非現実的なことのように思えたので、ヒルズベリー博士は米政府に直接的な中国支援を推奨した。__________ こうして中国との新たな関係が始まり、それは、わたしたちが考えもしなかった重大な結果をもたらすこととなった。[1,593] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄下に続く
2016/02/08
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上からの続き■4.「今になって、自分の単純さが悔やまれる」 1978年、カーター政権下で米中関係は正常化され、アメリカは中国を積極的に支援し始めた。中国は最初の5年間に1万9千人の中国人留学生をアメリカの大学に送り込み、その後、さらに増やしていった。 1981年にレーガン大統領が署名した「国家安全保証決定令」では、中国軍の戦闘能力を国際レベルにまで底上げするために、先進的な空陸海の技術を中国に売ることを許可するものだった。 またアフガニスタンに侵攻したソ連に対して、アメリカは反ソ・ゲリラを支援して泥沼化させ、これがソ連崩壊の大きな要因となったのだが、その際にも中国から20億ドルもの武器を購入して、ゲリラ勢力に提供している。 レーガン大統領はソ連打倒という点では巨大な貢献をしたのだが[a]、その手段として中国を強力に支援して、ソ連への圧力とするという戦略をとったのだ。 レーガンは中国の危険性にも気がついていて、対中支援の指示書にサインする際にも、「対中支援は、中国がソ連からの独立を維持し、独裁体制の民主化を図ることを条件とする」という但し書きをつけたのだが、この条件はなし崩しにされた。「民主化」を図っているという中国側のポーズに誰もが騙されたのであろう。 アメリカのビジネス界も、中国市場が世界最大となるという見通しのもとに、米政府の対中支援を支持し、積極的に中国進出を図った。しかし自動車などの重要産業は中国政府との共同出資を義務づけられたため、中国側に経営を握られ、技術も盗まれていった。 自由を求める学生や若者を大量虐殺した天安門事件が起こっても、ブッシュ政権下の中国支持者は、ヒルズベリー博士も含めて、これはタカ派の過剰反応で、トウ小平率いる「穏健派」を保護すれば、彼らはやがて中国を民主化への道に戻すだろう、という一つの仮説にしがみついていた。博士はこう後悔している。__________ 今になって、自分の単純さが悔やまれる。優れたアナリストなら、一つにすべてを賭けたりはしない。[1,1733] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄■5.孫子の兵法「100年マラソン」の手段は、かつてのソ連のように、核ミサイルなどの軍事力のみでアメリカを凌駕しようという単純なものではない。 中国の戦国時代に発達した『孫子の兵法』[b]に基づき、諜報、謀略、外交、経済など、すべての手段を使って相手を圧倒することを目指している。直接的な軍事力は総合的な国力の10%以下でしかなく、戦わずして相手を屈服させるのが最高の勝利だと考える。 たとえば2013年の米政府内の調査によれば、中国はパトリオット・ミサイル、イージスミサイル防衛システム、オスプレイなど多くの兵器システム設計にサイバー侵入したと見られている。 サイバー技術は機密情報を盗むだけでなく、攻撃にも使われる。米軍の弱点は、あまりにも最新の情報通信技術に頼りすぎている点にあり、サイバー攻撃によって兵器の通信・制御システムがダウンしたら、米軍の動きは麻痺してしまう点が大きな懸念となっている。 経済分野においても、中国政府のバックアップをうけた国営企業が世界市場でシェアを広げつつある。世界の大企業500社のランキングであるフォーチュン・グローバル500には、2014年に中国企業が95社もランクインした。 その一つ、世界最大の電気通信会社の一つ「華為技術(ファーウェイ)」のネットワークを使うと情報を盗まれる恐れがあるので、米英政府は国内での同社の機器の販売を禁止している。 テロ集団や独裁国家を支援することも、米国打倒の手段の一つである。2001年9月11日の同時多発テロの直後には、タリバンとアルカイダが中国製地対空ミサイルを受けとった事実が確認されている。アメリカの特殊部隊がそのうちの30発を発見した。 アフリカ諸国には2兆ドルもの無条件融資を餌に、反欧米プロパガンダの浸透を図り、独裁政権を支援してきた。さらにその他の地域でもシリア、ウズベキスタン、カンボジア、ベネズエラ、イランなどの独裁国家を手なずけている。パキスタンとリビアに核技術を提供した証拠も見つかっている。 こうしてサイバー攻撃や、国営大企業の世界市場進出、テロリストと独裁国家の増殖により、アメリカの覇権は着々と浸食されつつある。■6.「100年計画は予定より早く進んでいる」「100年マラソン」のゴールは2049年だが、近年、GDP(国民総生産)で日本を抜いて世界第2位となり、アメリカの軍事力もあって、中国内では前倒しの可能性が論じられている。__________ ・・・中国の指導者のなかには、100年計画は予定より早く進んでいると結論づけた者もいる。学者や諜報機関の職員は、少なくとも10年、もしかすると20年も計画より先に進んでいると言いはじめた。こうして中国の指導者たちは、マラソン戦略に戦術的変更を加えるかどうか、つまり、ラストスパートをかけるかどうかを討議するようになった。[1,4429] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄「ラストスパート」では、アメリカに助けられている伴走者というポーズをかなぐり捨てて、一気にアメリカを抜き去る。近年の尖閣海域での傍若無人ぶり、南沙諸島の軍事基地建設、サイバー攻撃の頻発、AIIB(アジアインフラ投資銀行)設立など、中国が今までの弱者の擬装をかなぐり捨てた可能性はある。 アメリカ側も中国が正面の敵であると認識し始めた。アメリカ外交政策を論ずる大本山である外交問題評議会(CFR)は、従来「親中派」の牙城だったが、今回出した特別報告書ではリチャード・ハース会長が序文にこう書いている。「中国は今後数十年にわたって、アメリカにとっての最も深刻な競争者であり続けるだろう」「中国の経済軍事両面での大きな膨張は、アメリカのアジアにおける利害、あるいは全世界におけるアメリカの利害に対して、大きな危険をもたらすだろう」。従来とは打って変わった敵対的な認識である。[2] 今回のヒルズベリー博士の著書も、米世論の急激な転換に大きな役割を果たしているのだろう。 ヒルズベリー博士は、中国の「100年マラソン」に打ち勝つための12段階の戦略を展開し、それを行う時間はまだ十分ある、としている。 その内容は、「孫子の兵法」を逆用したもので、いくつかは弊誌852号「孫子に学ぶ対中戦略」[b]で、太田文雄・防衛大学校教授の著書から紹介したものと共通している。特に中国内の環境破壊や汚職のひどさを中国国民にも知らしめ、民主化勢力を支援する事は、中国共産党独裁政権のアキレス健をつく戦術である。 アメリカの強みは、共和党と民主党で目指すべき方向は違っても、いざ国防・国益の問題となったら一致団結するという点だ。中国の擬装が明らかにされた以上、米国は今後、断固として中国に対峙するだろう。■7.日本はどう対処するのか ヒルズベリー教授は、日本に関しては次のように語っている。__________ 中国のマラソン戦略が実行可能かどうかを測る試金石となるのは、日本が西の領海でますます攻撃的になる中国にどう対処するかということだろう。少なくともこれまでの20年間、中国政府は、ライバル国(この場合は日本)のタカ派を卑劣な手段で攻撃するという戦国時代の戦略を推し進めてきた。日本を悪者にする作戦をアジア全域で開始し、日本国内の聴衆にもそのメッセージを浴びせた。[1,4275] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 我が国は「100年マラソン」との戦いの最前線で、中国と直接、対峙している。しかし、我が国の弱みは、中国の使う「軍国主義」プロパガンダに乗って、野党や左翼マスコミがいまだに「100年マラソン」の擬装を支えている事だ。敵国の国論を分裂させる「心理戦」が、孫子の兵法の一つなのだ。 まずは中国が「100年マラソン」に勝ったら、どのような世界になるのか、日本国民はよく知るべきだ。その姿は、現在の中国内の事実を見れば明らかである。 真実を語る民主派や報道記者[c]、宗教関係者は投獄され、テレビやインターネットも最先端のIT技術による検閲を受け[d]、チベット[e,f]・ウイグル[g]などの異民族は搾取・弾圧され、民衆は環境破壊と低賃金に喘ぎ、党や政府、国営企業の幹部が汚職に励む。 我々の子孫をそのような世界に住ませたくなかったら、まずは我々自身が、中国の「100年マラソン」という野望の正体をよく見極めなければならない。(文責:伊勢雅臣)
2016/02/08
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転載記事**********■■ Japan On the Globe(932) ■■ 国際派日本人養成講座 ■■ 人物探訪: 大村智教授、一期一会のノーベル賞「自分はもっと何かをしなければ済まない」という初志が、多くの人々の助言、助力を呼び寄せた。■1.「自分も学び直そう」 大村智(さとし)が東京・墨田区の夜間高校で物理と化学の試験を監督している際、ふと目にしたのは、一人の生徒が鉛筆を握っている手の指に油がこびりついている事だった。 改めて生徒たちの姿を見ると、洋服の所々に油をにじませている生徒もいる。昼間は働き、夜はこうして勉学のために登校してくる。大村は改めて、その姿に感動した。 大村は自分の高校生時代の生活を思い出した。裕福な農家の長男として生まれ、何一つ不自由なく過ごした高校時代は、勉強などしないでスキーや卓球に明け暮れていた。高3の2学期からは受験勉強をしたが、大学に入ってからも、勉強に打ち込んだ覚えはない。 昼は油にまみれて働き、夜はこうして必死に勉強に取り組んでいる夜間高校の生徒たちを見て、自分はもっと何かをしなければ済まないという気になった。大村は胸の奥から湧き上がるようなエネルギーを感じた。「自分も学び直そう」。■2.信条は「一期一会」 今年のノーベル医学・生理学賞に輝いた大村智・北里大特別栄誉教授が研究者への道を歩み出したのは、この瞬間だった。 大村は、12月7日、ストックホルムでの受賞記念講演で、信条としてきたのは「一期一会(いちごいちえ)」だと語った。茶会に臨む際に「一生(一期)に一度の出会い(一会)と考えて、真心を尽くせ」という茶道の心得である。 この夜間高校での生徒たちとの一期一会の出会いで、「自分はもっと何かをしなければ済まない」という初志を抱いた事が大村が研究人生を踏み出すきっかけとなった。この時に「生徒たちも頑張っているな」という程度の思いで終わっていたら、今回のノーベル賞もなかっただろう。 その後の大村の研究人生も、この初志を遂げるために様々な人々との出会いを大切にし、それらの人々に導かれ、助けられて、ついにはノーベル賞に至ったのである。■3.出会った人々の助言助力で研究者の道に 夜間高校の教師から研究者への転身の過程でも、大村は出会った様々な人々に導かれた。 教師となった2年目の春、山梨の実家に帰った時、大学時代の恩師を訪ね、学び直したいという決意を伝えると、学者仲間の東京教育大学教授の小原哲二朗を紹介してくれた。小原への紹介状を得て、その講義を聴講するようになった。 小原の研究室に出入りしているうちに、大村が夜間高校の教師をしながらも、本格的に化学の研究をしたいという希望を持っていることから、有機化学の分野では世界的に知られている東京理科大学の都築洋二郎の研究室に大学院生として入るのがいいのではないか、と勧められた。 その勧めに従って、ドイツ語などを猛勉強し、東京理科大学の大学院修士課程に入学したのは、昭和35(1960)年4月だった。昼は大学院で勉強、夜は高校の教師、週一日の高校の研究日を金曜日として、金土日の3日間は大学で実験をする、という生活が始まった。 都築の研究室では、核磁気共鳴(NMR)を応用して有機化合物の構造を調べるという、当時の最新技術を研究する幸運に恵まれた。ただし、NMR装置は当時、東京工業試験所に1台あるだけだった。人づてで、この装置を夜間だけ使わせて貰う、という許可を得て、徹夜の実験を繰り返した。 研究室では、細かな指導は講師の森信雄から受けた。森は大村を弟分として可愛がり、実験のやり方から論文の構成まで面倒を見た。徹夜でNMR装置を使って集めたデータをもとに、森の指導を受けながら、最初の研究論文をまとめた。 都築は「日本語で論文を書いても外国人は読めないから実績として認めないし、研究成果も正当に評価してもらえない。論文は必ず英語で書きなさい」と指導していた。それで論文は英語で書いて、学会の欧文誌に投稿しようということになった。都築の教えを守って、大村はその後に発表した11百編近くの論文の95%を英語で書いた。 こうして大村は研究者の道を歩み始めた。その過程で、出会った人びとは大村のために助言・助力を惜しまなかった。大村の「自分はもっと何かをしなければ済まない」という真剣な志ちが伝わったからだろう。■4.「だったら世界を目指せばいいじゃないか」 大学院修了の目処がついた頃、山梨大学の助手としての採用も内定した。父親は大村が地元に帰ってくることには喜んだが、秘かに将来を心配し、山梨でも学識のある偉い先生に相談にいった。 大村の経歴を見た先生は「この経歴だったらあまり将来性がない。せいぜいよくても大学の講師どまりだろう。このまま高校教師を続けて、将来は校長にでもなればいいのではないか」と言った。 父親は大村にその意見を正直に伝えた。大村は思った。「日本では講師どまりかもしれない。だったら世界を目指せばいいじゃないか。その方がやりがいがある」。 昭和38(1963)年4月、大村は山梨大学工学部発酵生産学科の助手として赴任した。しかし東京で最先端の研究をしていた大村にとっては、ここでの研究は手応えがなかった。そこに東京の北里大学樂学部で化学の研究員を一人募集しているのが、どうか、という話が持ち込まれた。 条件は大学新卒者と同じということだったが、大村は「やります」ときっぱり返事をした。下に続く
2015/12/27
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上からの続き■5.北里柴三郎の「大医は国を治(ち)す」 昭和40(1965)年4月から、大村は北里研究所での勤務を始めた。この研究所は、近代日本が生んだ傑出した医学者・北里柴三郎が創設したものである。大村は北里柴三郎の業績を調べてみて驚いた。各種の資料を読めば読むほどその偉大さに敬服し、深く傾倒していった。 北里柴三郎は明治18(1885)年、ベルリン大学の主任教授ロベルト・コッホのもとに派遣され、研究に打ち込んだ。日本が開国して間がないので、祖国の名を欧米に高めようと、「世界的な学者になるつもりで勉強している」と語っている。 やがて世界で初めて、破傷風菌の純粋培養に成功し、血清療法を開発した。共同研究者のベーリングは第1回のノーベル生理医学賞を受賞したが、北里は惜しくも逃した。 北里の名声は欧米に広まり、いくつもの有名大学から誘いを受けたが、断固として断り、帰国した。明治天皇から「帰朝の上、我が帝国臣民の概病(結核)に罹るものを療せよとの恩命あり」とその理由を述べている。 帰国後は北里研究所を創設して、ペスト、赤痢の病原菌の発見など世界医学史上に残る研究業績を上げつつ、伝染病患者の治療、各県の衛生担当者の教育、免疫血清の製造と、大車輪の活躍をした。「大医は国を治(ち)す」が北里の若い頃からの志だったが、それを見事に実現した一生だった。[a] 大村のその後の歩みはまさに北里の足跡とよく似ている。北里との出会いが大村に指針を与えたのだろう。■6.ティシュラー教授の誠意に打たれて 大村は北里研究所で次々と成果をあげていった。他大学や企業からも誘いの声が掛かるようになったが、化学、薬学、医学、細菌学などにまたがる学際的な研究のできる環境に満足していたので、誘いはすべて断った。 安月給で、研究用の材料を自腹で買ったり、部品は自分で手作りするなど、待遇は不十分だったが、研究のやり甲斐を感じていた。 東京大学から薬学博士号も授与され、昭和44(1969)年、34歳にして助教授に昇進した。周囲からアメリカへの研究留学を勧められ、大村は自分を売り込む手紙を5つの大学に送った。 驚いたことに、すぐに電報で週給7千ドルで客員教授として迎えたいという返事が、東部の名門ウェスヤーレン大学のマックス・ティシュラー教授から来た。英文で多くの論文を発表していた大村の名前はアメリカでも広まっていて、他の大学からも手紙で返事が来た。なかには週給1万5千ドルなどという誘いもあった。 しかしティシュラー教授の誠意に打たれて、週給では最低だったが、ウェスヤーレン大学を選んだ。ここからノーベル賞への道が開けていく。 大村がウェスヤーレン大学に着任した時、ティシュラー教授はすでに化学界のボス的存在で、大物研究者が次々と訪れてくるのに、大村は驚くばかりだった。しかもティシュラー教授は彼らに大村を自分の同僚として紹介した。 そんな形で紹介された研究者の一人が、大村をさらにハーバード大学のコンラッド・ブロック教授に紹介してくれた。ノーベル生理医学賞を受賞した権威である。大村が当時、勧めていた研究を説明すると、ブロック教授は身を乗り出さんばかりの興味を示し、共同研究を進めよう、ということになった。 ブロックはハーバード大学でも大村のためのデスクを準備し、大村も積極的に訪問するようにした。この積極性でアメリカでも一期一会の縁を生かしていった。■7.「泥をかぶる研究」をチームで 2年間のアメリカでの研究留学を終えるのに際し、大村は北里研究所から頼まれていた約束を果たした。アメリカの企業から研究資金を得る、という依頼である。 ティシュラー教授が、かつて務めていた世界第2位の医薬品企業メルク社に口利きをしてくれたので、提携交渉も順調にいった。年間8万ドル(当時の円換算で2千4百万円)の研究費を出してくれ、共同研究で得られた特許はメルク社が保持するが、北里研究所にロイヤリティを払う、という内容である。 大村の考案した研究アプローチは、微生物が生み出す化学物質の中から人間に有用なものを見つけるというものであった。日本では伝統的に味噌、醤油、酒など、微生物を活用した発酵食品が発達しているが、その延長線上にあるアプローチである。 1グラムの土壌の中には1億個もの微生物がおり、そこから特定の微生物を取り出しては、その化合物を調べる、という、大村自身が言う「泥をかぶる研究」を進めていった。特定の微生物を分離する人、その化合物の構造を調べる人、化合物の働きを評価する人など、それぞれの人が縁の下の力持ちとなって、共同研究を行う。 大村はこうした共同研究体制は日本人の方が向いていると考えていたが、さらに一人ひとりの研究員によく配慮することで、チームを引っ張っていった。 こうして、ある微生物が産出する物質で、寄生虫退治に劇的な効果を持つものが発見された。エバーメクチンと命名されたその物質は、皮膚にダニが棲みついた牛にごく微量を投与するだけで、きれいに治ってしまった。 この薬は動物薬としてメルク社から販売されると、その後、20年間も動物薬の売上げトップを続け、そのロイヤリティで北里研究所には200億円以上もの研究費がもたらされた。■8.「袖触れ合う縁も生かす人が成功する」 動物の寄生虫退治に劇的な効果をもつエバーメクチンを人間の疾病にも使ってみよう、という事から、オンコセルカ症の治療薬として「メクチザン」が開発された。 オンコセルカ症はアフリカの熱帯地域に広まっている感染症で、小さなブヨが人体を刺して吸血する際に、寄生虫を移す。その寄生虫が眼の中に入って患者を失明させる。世界で年間数千万人がオンコセルカ症に感染し、失明や重度の眼病にかかる人は数百万人と推定されていた。 それが年に1回、メクチザンの錠剤を飲むだけで、寄生虫の幼虫はきれいに死滅してしまう。メルク社はこのメクチザンを世界に無償提供することとし、大村もロイヤリティを返上した。 メクチザンは1987年から使用されはじめ、現在では年間2億人ほどの人々が服用している。WHO(世界保健機構)の発表では、西アフリカ諸国でメクチザンによるオンコセルカ症制圧に乗りだし、それによって約4千万人が感染から逃れ、60万人が失明から救われたとしている。 このプログラムにより、2020年にはアフリカ全土でオンコルセンカ症は制圧できる、という見通しが立った。 この業績に、2001年のノーベル化学賞受賞者・野依良治氏は「大村先生は多くの人を感染症から救った。医学生理学賞を超えて平和賞がふさわしい」と語っている。[2] 大村教授はノーベル賞受賞式に旅立つ前に、大学院時代を過ごした東京理科大で講演し、成功の秘訣を「出会いを大事にすることだ。つきあいを大事にする人としない人では大きな差が出る」、「袖触れ合う縁も生かす人が成功する」と述べた。 大村の偉業は、多くの人々に導かれ、助けられ、支えられて、成し遂げられた。まさに「一期一会」の精神で、多くの人々との出会いを大切にしてきたからだろうが、その姿勢も「自分はもっと何かをしなければ済まない」という初志に支えられていたのだろう。 そういう志を持っていればこそ「袖触れ合う縁」を生かせる。そして、そういう人には世間も助力を惜しまないし、天も必要な時に必要な人に出会わせてくれるのだろう。(文責:伊勢雅臣)
2015/12/27
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転載記事*****◆手嶋龍一『「情報なき国家」がたどった運命を知れ』を読み解く※要旨・1938年9月のミュンヘン会談。この現代史の行方を決めた会談の当日、1人のアメリカ外交官がチェコスロバキアのプラハに降り立った。・後にスターリンの全体主義に鋭い警告を発して、対ソ封じ込め政策を提唱するジョージ・ケナンだ。アメリカ外交界の至宝と言われたロシア専門家のケナンは、この重要会談をプラハで目撃し、日記にこう記している。「ヒトラーは途方もない誤りを犯そうとしている」ケナンの慧眼は怜悧にそう見抜いていたのである。・ケナンの赴任から2年後、今度は1人の日本人外交官がプラハに着任した。前任地のリトアニア・カナウスで「命のビザ」を発給し、6000人のユダヤ難民を救った杉原千畝だった。・杉原はプラハでもユダヤ難民に日本への通過査証を発給していたが、その事実はほとんど知られていない。当時のプラハはナチス・ドイツの完全な支配下にあり、三国軍事同盟を結ぶ日本の真正の同盟国だった。にもかかわらず、杉原は本省の意向にあらがってビザを大量に発給していた。・だが、ヒュウーマニストとしての側面だけでは、これほど大胆な行動は説明がつくまい。杉原は、バルト海に臨む小国リトアニアの領事代理として、欧州全域に独自のインテリジェンス・ネットワーク(情報網)築き上げ、亡命ポーランド政権のユダヤ人情報将校から質の高い機密情報を入手していたのである。ユダヤ難民を救った「命のビザ」はその見返りでもあった。・対露情報の切り札、杉原を急遽、リトアニアに赴かせたのは1939年5月に中央アジアの草原で勃発したノモンハン戦争だった。スターリンはノモンハンで関東軍に痛打を浴びせたのを見届けて、ナチス・ドイツと独ソ不可侵条約を結んでいる。・日本にとって北方の主敵であるソ連と欧州の友邦ナチス・ドイツが突如として「悪魔の盟約」を交わしてしまったのである。それにより、日本の統帥部は戦略の基軸を失ってしまった。・杉原が「命のビザ」と引き換えに、全欧の情報網からつかみとったインテリジェンスは一級だった。ヒトラーが1941年6月に独ソ不可侵条約を破り捨て、対ソ戦に突入することをスギハラ電は、精緻に予測していた。だが、日本の統帥部は戦略の舵を定めるために、スギハラ電を役立てようとはしなかった。・このスギハラ情報網を引き継いだのは、ストックフォルムの駐在武官、小野寺信だった。戦後の日本の運命を決めた米英ソによる「ヤルタ密約」こそ、ポーランド系ユダヤ人の情報網から入手した最高にして最重要のインテリジェンスだった。・情報なき国家がだどった運命について、いま一度、思いを致してみるべきだろう。※コメント手嶋氏の洞察力は鋭い。海外人脈からくるスタンダードな情報が、それに磨きをかけている。歴史と現在の状況を追いかけることにより、問題点が見えてくる。※参考文献イロンナ・コラム
2015/12/09
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転載記事*****8■■ Japan On the Globe(929) ■■ 国際派日本人養成講座 ■■ 地球史探訪: スターリンが仕組んだ日米戦争 米政府内に潜伏した200人以上のソ連スパイがルーズベルト政権を操って、日米開戦を仕組んだ。■1.「ルーズヴェルトが日本に真珠湾攻撃を促した」 日米戦争の直接の引き金を引いたのは、米国が日本に突きつけたハル・ノートであるが、その提案者ハリー・D・ホワイトについて、アメリカの保守系サイトで5億件以上のアクセスを持つ「コンサバペディア」は次のように紹介している。__________ ハリー・デクスター・ホワイト(1892年10月9日~1948年8月16日)はアメリカの経済専門家で米財務省高官であった。・・・彼はまたソ連の秘密諜報員であった。・・・ 1941年5月、アメリカとカナダで働くKGB(JOG注:ソ連の諜報機関)の軍事担当補佐官ヴィタリー・パブロフとホワイトは昼食をともにした。「雪作戦」の目的は、日米関係を悪化させるソ連の試みを含む一連の政策イニシャティヴをホワイトに与えることだった。・・・その中には中国からの日本軍の撤退といった妥協を許さないレトリックでくるんだ強い要求があった。ホワイトはそれに基づき役割を果たした。 ルーズヴェルトはホワイトの対日経済制裁の提案を受け入れた。1941年7月26日、ルーズヴェルトは、事実上、両国間の通商を終了することになる全面的な経済封鎖を実施し、アメリカ国内のすべての日本の金融資産を凍結した。・・・日本の内閣はワシントンで合意に達するよう必死に模索した。日本はソ連・シベリアに対するすべての計画を放棄し、日本が必要とする資源のため、代わりに南方に期待を寄せた。ホワイトの関与と影響力により、アメリカは、ホワイト・ハウスの国益よりクレムリンの利益を優先した外交政策を設定したのである。[1,p183] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ これは米国内の一部の特殊な見方ではない。アメリカの「草の根保守」約1千1百万人のリーダーであるシュラーフリー会長はこう語っている。__________ 皆さんに訴えたいことは、きちんと情報を得ているアメリカの保守主義者は、ルーズヴェルトが工作をして日本に真珠湾攻撃を促したという事実を理解しているということです。[1,p157] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄■2.200人以上のソ連スパイが米政府内に ルーズベルト大統領(引用文では「ルーズヴェルト」だが、本誌の慣例でこう記す)がソ連スパイに操られているという見方は、かなり以前からあった。 たとえば、ルーズベルト大統領のライバルであった共和党下院リーダー・フィッシュ議員は1984(昭和59)年に『日米・開戦の悲劇』を著し、「大統領はその絶大な権力を使って、ついに米国を日本との戦争にまきこむことに成功した」と批判している[a]。2001年には歴史研究家ロバート・スティネットが、公開され始めた米国の公文書から同様の説を立証している[b]。 この見方を決定的にしたのが、1995年にアメリカ国家安全保障局が公開した『ヴェノナ文書』である。これは第2次大戦前後にアメリカ国内のソ連スパイたちがモスクワの諜報本部とやり取りした秘密通信を、米陸軍情報部が傍受し、解読した記録である。 これらの機密文書が公開され、その研究が進んできた結果、当時の米政府内に200人以上のソ連スパイが米政府官僚として働いていたことが立証されつつある。[1,p178] 前述のウェブサイトやシュラーファー会長の言葉は、これらの研究に基づいた米国内の歴史観の見直しが、急ピッチで進んでいることを示している。 本号では、これらの研究成果に基づいて、ソ連スパイたちがいかに米政府を操って、日米両国を戦争に巻き込んでいったのか、概観してみよう。■3.「資本主義国どうしが戦争をするように仕向け」 ソ連の指導者レーニンは、1919(大正8)年に世界共産化を目指す組織コミンテルンを創設した。世界のすべての資本主義国家を転覆・崩壊させるために、レーニンが提唱したのが「敗戦革命論」であった。これは資本主義国どうしが戦争をするように仕向け、敗れた国の混乱に乗じて共産党が権力を掌握する、という革命戦略である。 この戦略の重点対象がアメリカと日本だった。アメリカでは同年9月、コミンテルン・アメリカ支部としてアメリカ共産党を設立させている。 また日本は1931(昭和6)年の満洲事変の結果、ソ連と直接対峙することになり、コミンテルンは日本と戦う中国を支援するとともに、対日経済制裁を起こすよう各国の共産党に指示した。 この指示を受けてアメリカ共産党は1933(昭和8年)、「日本の侵略に抵抗する中国人民の闘い」を支援する世論を形成して、アメリカの力で日本を押さえるべく、「アメリカ中国人民友の会」を結成した。 会長となった左翼系雑誌『ネイション』の編集者マックスウェル・スチュアート、機関紙『チャイナ・トゥデイ』の編集長フィリップ・ジャッフェは、ヴェノナ文書でソ連のスパイだった事が判明している。 同年、ドイツでヒットラー政権が成立すると、ソ連は日独という二つの反共国家に挟まれた事態に脅威を覚え、アメリカやイギリスなどとも手を組んで、広範な人民統一戦線を構築するよう世界各国の共産党に指示した。■4.「平和」と「民主主義」を守るための反日親中運動 アメリカでの人民統一戦線設立のために採られた手段が、当時、米国最大のアジア問題のシンクタンク「太平洋問題調査会」(IPR、Institute of Pacific Relations)の乗っ取りだった。 このシンクタンクは、アジア太平洋沿岸諸国のYMCA(キリスト教青年会)が布教を強化する目的で設立した機関だったが、その事務総長や機関誌編集長、研究員として共産党員が入り込み、反日的なブックレットなどを次々と刊行して、欧米諸国の外交政策に多大な影響を与えた。 1937(昭和12)年に、盧溝橋で夜間演習中の日本軍に、蒋介石軍に紛れ込んだ中国共産党員が銃撃を浴びせたにより、日中の戦闘が始まると、アメリカの反ファシズム団体は一斉に反日親中運動を展開した。 当時、会員数4百万人を誇る「反戦・反ファシズム・アメリカ連盟」は「アメリカ平和民主主義連盟」と改称して、「平和」と「民主主義」を守るという一般民衆受けするスローガンを掲げた。そして全米22都市に支部を持つ「中国支援評議会(The China Aid Council) を設置し、日本の中国「侵略」に反対するデモを行い、対日武器禁輸を国会に請願する活動を開始した。 この「中国支援評議会」の名誉会長がルーズベルト大統領の実母であり、常任理事にはマーシャル陸軍参謀総長の夫人が就任している。マーシャル陸軍参謀総長は、戦時中、IPRに反日パンフレットを大量に作成・配布させ、また宣伝映画『汝の敵を知れ』を作らせ、日本が世界征服を企んでいるとする偽書『田中メモランダム』や「南京大虐殺」を宣伝させた。下に続く
2015/12/07
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上からの続き■5.親ソ親中反日のルーズベルト政権 ルーズベルトが大統領になったのは1933(昭和8)年で、世界は大恐慌の真っ最中であった。これを資本主義の失敗と考え、誕生したばかりのソ連の共産主義こそ経済体制の理想と考える知識人も多かった。 ルーズベルトは、大統領に就任すると直ちに、ハミルトン・フィッシュ下院議員らの反対を押し切ってソ連との国交を樹立する。 経済面では「ニューディール(新規まき直し)」政策と称して、社会主義的な政策を打ち出した。農産物価格を維持して農民に利益を保障し、労働組合を支援した。連邦政府の財政規模は急拡大し、「ニューディーラー」と呼ばれる官僚たちの権力が肥大化した。 ソ連のスパイが200人以上も米政府内に入り込んだのも、ルーズベルト大統領自身に共産主義への親近感があったからだろう。 しかもルーズベルト大統領の母親はデラノ一族の出身で、この一族はアヘン戦争の頃から、中国とアヘンを含む貿易で財をなしていた。前述の「中国支援評議会」の名誉会長を母親が務めたことも、これが背景にある。■6.ルーズベルト政権が突っ走った日米開戦への道 こうしてソ連スパイが多数巣くうルーズベルト政権は、スターリンの指示通り、対日戦争への道に邁進した。 1940年10月7日付けで、海軍情報部極東課長アーサー・H・マッカラムは日本を開戦にまで追いつめる8項目からなるアクション・プランを作成して、大統領の側近に提出した。ここには、蒋介石政権への援助、日本との全面的通商禁止など、ルーズベルト政権が後にとったシナリオが記述されている。[b] 1941年7月23日、日本軍による真珠湾攻撃の4ヶ月以上前に、蒋介石政権を助けるために、150機の爆撃機、350機の戦闘機による中国大陸からの日本爆撃計画が提案され、大統領自身が承認のサインをしている。 提案者のロークリン・カリー大統領補佐官はソ連の工作員であった事が、ヴェノナ文書で明らかにされている。ただし、この計画は欧州戦線への爆撃機投入が優先されたため、実施の前に真珠湾攻撃が勃発した。[c] 1941(昭和16)年11月26日、ハル国務長官が日本政府にハル・ノートを突きつけた。ここでは中国、ベトナムからの日本軍の全面撤退、蒋介石国民党政府以外の政府(すなわち日本側がバックアップしていた汪兆銘政権)の否認、三国同盟の死文化など、それまでの日本の政策を全否定することを要求していた。日本政府は翌日米国との打ち切りを決定した。 実際にはハル長官は90日の停戦を骨子とする緩やかな妥協案を作成していたのだが、ルーズベルトは財務次官ハリー・デクスター・ホワイトが6月に作成していた強硬案を採用したのである。冒頭の「コンサーバペディア」が解説したように、このホワイトも、ソ連の工作員だった。 こうしてソ連工作員たちに操られたルーズベルト政権により、日本はアメリカとの戦争に追い込まれていったのである。■7.スターリン戦略の世界史に残る成果 スターリンの工作の仕上げは、日本降伏の半年前、ソ連のクリミア半島ヤルタで開かれたヤルタ会談だった。ルーズベルトとスターリン、イギリスのチャーチル首相の3首脳で、ソ連の対日参戦と引き替えに、満洲の権益や、日本領土である南樺太・千島列島をソ連に与え、ポーランドやバルト三国などをソ連の勢力圏として認めたものであった。 それも、日本どころか、中国や東欧諸国など当事国の同意もまったくなしに密約がなされた。戦後、東欧諸国がソ連の鉄のカーテンの中に置かれ、満洲から北朝鮮、中国大陸がすべて赤化したのも、このヤルタ会談が原因である。 この会談でもソ連のスパイたちが暗躍していた。ソ連スパイだったアルジャー・ヒスは国務長官の首席顧問として、ヤルタ会談のほとんど全ての会合に出席した。彼は事前に米政府の立場に関する全ての最高機密のファイルを与えられて、ルーズベルトは「背中に鏡を置いたままポーカーの試合をする」(ウィリアム・ノーランド上院議員)状態の置かれていた。[1,p151] また陸軍参謀総長ジョージ・マーシャルは、敗北を覚悟した日本が和平への道を探っているという事実をルーズベルトにはひた隠しにし、さらに「日本との戦況が悪化し、ソ連の支援がなければ勝利は覚束ない」と虚偽の報告をしていた。[e] マーシャルは日本降伏後に勃発した中国での国共内戦でも、蒋介石政権へのアメリカの支援を妨害し、共産党の大陸制覇を助けた人物である[e]。 こうしてスターリンの「資本主義国どうしが戦争をするように仕向ける」戦略は、北朝鮮、中国から東欧にまで共産主義を広げるという巨大な成果をもたらしたのである。■8.東アジアに残るスターリンの亡霊 2005(平成17)年、第二次大戦勝利の60年目にバルト三国の一つであるラトビアの首都リガで、ブッシュ大統領はヤルタ協定を「史上最大の過ちの一つ」と批判した[f]。 冒頭に登場したシュラーフリー会長は「ブッシュ大統領、ヤルタの屈辱を晴らす」という論文で、その発言を高く評価し、こう語っている。__________ 当時、反共派のアメリカ人は「ヤルタ会談は本当にひどいもの」であり、「ルーズヴェルト大統領はスターリンに魂を売ってしまった」と思っていました。私たちにとって「ヤルタ」とは侮辱の言葉と同じ意味を持っていました。[1,p153] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 東欧諸国は、レーガン政権を中心として日欧が結束した冷戦により、ソ連を打倒したことで解放されたが、アジアにおいてはいまだに北朝鮮と中国に共産党政権が残存して、それぞれの国民を圧制下に置き、周辺国に軍事的脅威を与えている。 日米を戦わせて、その漁夫の利によって共産主義を広げようとしたスターリンの亡霊は、東アジアではいまだに生き残っている。スターリンの残した国際政治での「戦後レジーム」は中国共産党と北朝鮮労働党の圧政という形で残存していると言える。 これらの国が圧政から開放されて、国際政治での戦後レジームが終わった時、「太平洋戦争は日本の侵略戦争だった」という歴史観での戦後レジームも終わるだろう。(文責:伊勢雅臣)
2015/12/07
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転載記事*****◆手嶋龍一『スギハラ・サバイバル』を読み解く※要旨・「スギハラ・サバイバル」と呼ばれるユダヤ人はおよそ6,000人。彼らを救った外交官、杉原千畝は類い稀なる勇気を内に秘めたヒューマニストだった。だが、彼がもう一つの顔を持っていたことは意外に知られていない。第二次世界大戦に突き進もうとしていた日本に突然変異種のように現れたインテリジェンス・オフィサーだった。リトアニアを情報拠点に、欧州全域に諜報網を張り巡らし、複雑怪奇な欧州政局を精緻に読み抜いて誤らなかった。杉原の諜報網を支えたのは、ポーランド軍のユダヤ系情報将校たちだった。「命のビザ」は彼らが提供してくれる貴重な情報の代償だったのである。・ロンドンにあった亡命ポーランド政府は、敵陣営であるはずのスギハラ諜報網を介して、独ソ双方に潜ませてある情報要員から最高機密を受け取っていた。それゆえ、英国のインテリジェンス・コミュニティは、早くから杉原が何者であるかを知り抜いていたのである。・杉原が築いたインテリジェンス・ネットワークは、後にストックホルムの小野寺信駐在武官に引き継がれていく。ロンドンは彼らが東京に打電する情報を超一級のインテリジェンスとして傍受していたのである。・杉原情報、それを受け継ぐ小野寺情報は、紛れもなく超一級のインテリジェンスだった。だがそれゆえに、日本の統帥部はかれらが本国にもたらした、情報の価値を無視し続けた。杉原・小野寺情報は、いぶし銀のような光を放っていたのだが、国家の舵取りを委ねられし者たちは顧みよとしなかった。敗戦が色濃くなっていくなか、軍部は仇敵ソ連を仲介役に終戦工作を進めつつあった。それゆえ、ソ連を対日参戦に誘い込んだヤルタ密約などあってはならない現実だったのだろう。優れた情報(インテリジェンス)が辿る哀しい宿命なのである。・自らの想像力をはるかに超える事態は将来必ず起きる。それに応えうる人材こそが、国家の安寧を保証する。・「ええ情報を得るには、命に代えてもええ友達を持つに限る。そういうこっちゃ」松山雷児は言った。・「チウネ・スギハラこそわが組織のダイヤモンドと心得よ」ポーランド秘密情報部の幹部だったユダヤ人が、戦後アメリカに移住し、歴史編纂官のインタビューに応じている。開戦時に、ポーランド陸軍の首脳陣に大きな発言力を持っていた老齢の女性がスギハラの価値をこう示唆したと証言している。「人材の出し惜しみはわが組織の致命傷となる。最良にして、最高の情報士官を投入せよ」これがその老婆のご託宣だったという。※コメント産経新聞に、第二次大戦末期にソ連が対日参戦する密約を結んだとの情報を入手し、大本営に打電した「小野寺電」が参謀本部に着信していたのは確実との記事が出ていた。ながらく「小野寺電」は、ちゃんと届いていたか明らかになっていなかったが、大本営の情報参謀だった堀栄三氏が、小野寺氏の妻、百合子氏にあてた書簡が見つかったようだ。情報をいかに扱うか、常に、トップや幹部は意識しなければならない。
2015/12/07
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転載記事*****From 上島嘉郎@ジャーナリスト(『正論』元編集長)12月5日から映画「杉原千畝 スギハラチウネ」(東宝)が公開されます。主演の唐沢寿明さんが連日テレビ各局のバラエティ番組に出演してPRしている作品です。ポスターには、「ひとりの日本人が、世界を変えた──激動の第二次世界大戦下日本政府に背き命のヴィザを発行し続け6000人にのぼるユダヤ難民を救った男の真実の物語」と謳われています。さらに公式サイトの《INTRODUCTION》にも、「あなたは知っていますか?激動の第二次世界大戦下。外交官として赴任していたリトアニアで、 ナチスの迫害から逃れてきたユダヤ難民に、日本通過ヴィザを発給し、 6000人もの命を救った1人の日本人がいたことを──その男の名は、杉原千畝。」と。「命のヴィザ」の話はこれまでにもドラマ化されていますが、先の大戦にもこんな立派な日本人がいた、という“個人的な美談”として描かれるのはなぜでしょうか。巷間流布されている杉原千畝の勇気ある人道的行為とは、リトアニアのカウナス日本領事代理だった杉原が、日本政府の命令に背いて日本通過ヴィザを発給したことで6000人のユダヤ人が生き延びることができたものの、杉原は訓令違反によって戦後に外務省を解雇された、というものです。しかし、元外交官の馬渕睦夫氏によると、「訓令違反」も「解雇」も事実ではないそうです。当時の日本外務省の杉原宛訓電には、日本通過ヴィザ発給には最終目的地の入国ヴィザを持っていること、および最終地までの旅行中の生活を支え得る資金を保持していることの二条件がありました。馬渕氏によれば、これらは通過ヴィザの性格上よくある条件で、日本政府がヴィザ発給を拒否したのではありません。また杉原が、昭和22年に外務省を退職した理由も、被占領下で外交事務が激減したことに伴う人員整理の一環で、退職金もその後の年金も支払われており、けっしてヴィザ発給を理由にした懲罰的な解雇ではなかったのです。杉原はカウナス領事館閉鎖のあとも順調に昇進し、昭和19年には日本政府から勲章(勲五等瑞宝章)を授与されています。もしヴィザの発給が日本政府内で問題視されたとすれば、叙勲はないでしょう。これらの事実を踏まえ、馬渕氏はこのように述べています。「ウソに基づく美談が作られ、マスコミがこぞって取り上げ、ドラマ化されたり、教科書の副読本になったりと、大フィーバーが起きました。杉原氏が、与えられた困難な状況の中で、日本政府の訓令に反しない範囲で人道的配慮を尽くしたことは賞賛されるべきですが、なぜ、日本政府がユダヤ人へのビザ発給を拒否したとの虚構が捏造されたのでしょうか。日本政府をどうしても反ユダヤの悪者に仕立て上げる筋書きがあったと勘繰られても仕方ありません」(『日本の敵─グローバリズムの正体』)事実、ナチスドイツの迫害からユダヤ人を救ったのは、杉原千畝だけではありません。昭和13(1938)年3月、シベリア鉄道で逃れてきたユダヤ人たちが満洲国と国境を接するソ連領オトポールで足止めされたとき、当時のハルピン特務機関長だった樋口季一郎は、関東軍参謀長だった東條英機を説得して満洲入国を許可し、満鉄総裁だった松岡洋右が手配して上海租界まで彼らを移送しました。このとき樋口は、ドイツ政府の抗議に対し、「ドイツとの友好は望むが、日本はドイツの属国ではなく、満洲国もまた日本の属国ではない」と訴え、東條も首肯しました。この樋口は、終戦時には占守島の指揮官としてソ連軍に最後の痛撃を加え、その後スターリンから“復讐”ともいえる「戦犯」指定を受けましたが、ユダヤ人たちの救出活動で助かっています。ナチスドイツからのユダヤ人取り締まり要請に対し、当時の日本政府は総理大臣、外務大臣、陸海軍大臣、大蔵大臣で構成する「五相会議」で対応を協議し「猶太人対策要綱」を決めました。陸相板垣征四郎が、神武天皇の「八紘(あめのした)を掩(おお)いて宇(いえ)となす」という言葉を引いて、「特定の民族を差別することは、神武天皇以来の建国の精神に反する」と述べたように、結論はヒトラーのユダヤ人迫害には与しないというもので、それが日本政府の意志でした。当時の日本は唯一、政府が反ユダヤ主義に与しなかった国と言ってよいのです。杉原千畝がいくらユダヤ人にヴィザを発給しようとも、日本政府がそれを拒否していたら彼らは日本に入国できなかった。「ひとりの日本人が、世界を変えた──」杉原はこう称えられるのに、なぜ東條英機や松岡洋右や樋口季一郎のユダヤ人救出は、日本人の意識に上らないのでしょう。それどころか、東條や松岡、板垣はA級戦犯として記憶され、「野蛮な侵略国」の指導者としてしか顧みられない。これについて馬渕睦夫氏は以下のように述べます。「私が心配なのは、杉原氏をダシにして、日本政府は反ユダヤだったというウソが、今後も世界のメディアと日本のメディアに、繰り返し流される危険があることです」(前掲書)先の大戦時にも立派な日本人はいたが、日本国家は悪で、野蛮な侵略国だった──。映画「杉原千畝 スギハラチウネ」の結論はどんなふうになっているのか…。未見なので、決めつけはしませんが、ポスターに記された「日本政府に背いて」という言葉に、私は製作者たちの「日本国」への悪意を感じざるをません。
2015/12/04
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転載記事******* Media Watch: 朝日新聞、マスコミ界の北朝鮮 ~ 永栄潔『ブンヤ暮らし三十六年』から 真っ当な報道記者は、こうして排除されていく。■1.『ブンヤ暮らし三十六年:回想の朝日新聞』 朝日新聞や『週刊朝日』などで36年の「ブンヤ暮らし」を務めた永栄潔(ながえ・きよし)氏が、その内幕を描いた『ブンヤ暮らし三十六年:回想の朝日新聞』が話題を呼んでいる。Amazonでは20件ものカスタマーレビューが寄せられ、うち星5つが16件、星4つが2件という高評価だ。 弊紙でもこれまで登場いただいた朝日新聞記者の素顔が描かれていて、なるほど、こういう人物が、こんな風に朝日の中をかき乱し支配していったのだな、と納得できる場面が多かった。 本稿では、そのうちの印象的な場面をいくつかご紹介しよう。弊誌では朝日が行ってきた偏向報道を何度も論じてきた[a]が、それがどんな風に生み出されてきたのか、がよく判るだろう。■2.本田雅和記者の豪腕 最初に登場いただくのが本田雅和記者。日本軍が中国で「百人斬り競争」をしたとでっちあげて、山本七平氏から「論理的にありえない話」と論破された本多勝一記者[b]、沖縄のサンゴ礁を自分で傷つけた上で環境破壊を戒める記事をでっちあげた本田嘉郎記者と並んで、「朝日の3ホンダ」と並び称される一人である。 本田記者は、「従軍慰安婦」問題が昭和天皇の責任であったと追求する市民団体による「女性国際戦犯法廷」(平成12(2000)年)を準備段階から支援し、積極的に報道するのみならず、主催団体と一緒に北朝鮮にまで渡航して、協力を求めている。 その4年の後、北朝鮮が送ってきた横田めぐみさんの「遺骨」が偽物と鑑定され、「北朝鮮を制裁すべし」との世論が高まっていた最中に、その中心であった安倍晋三・経産相(現首相)と中川昭・経産相(故人)がNHKの「女性国際戦犯法廷」に関する番組に「圧力をかけた」と、本田記者は朝日の第一面で糾弾した。 しかし、中川氏がNHK幹部と会ったのは番組放映の後なのに「放映前」と書き、幹部が安倍氏には予算説明に行ったのに「安倍氏が呼びつけた」とした。安倍・中川両氏から「事実無根」と訂正・謝罪を求められ、NHKからも公開質問状が寄せられたというなんとも強引な捏造報道をする人物であった。[c]■3.「崩御」か「死去」か 永栄氏は、その本田記者と大激論をしたそうだ。昭和天皇が病床にあった昭和63(1988)年暮れ、二人は『週刊朝日』編集部に属していた。ある日、緊急部会が開かれ、天皇が亡くなられた時の言葉遣いをどうすべきかが諮られた。編集局、出版局ごとに意見をまとめて、全社で統一することになったからだ。 本田氏がさっそく手を挙げて、こう言った。__________ ぼくは、『死去』がいいと思います。『崩御』は絶対に反対です。『崩御』という時代錯誤の用語を使うことは、天皇制を認めることになる。ただ、そんな用語のことより、ぼくは、われわれがいま取り組むべきは天皇の戦争責任を追及することだと思います。新聞は一度も天皇責任に正面から切り込まない。新聞がやらないのであれば、『週間朝日』でやるべきです。そのことを議論しませんか。[1,p49] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 他の人からは「ご逝去ではどうか」という案が出て、編集長から意見を求められた永栄氏は、こう語った。__________ 崩御が特別な用語だというのはその通りだろうが、崩御を使うことは天皇制を認めることになるという理屈が分からない。天皇は憲法に「国民統合の象徴」とあり、天皇は憲法上も特別の存在であるわけだ。・・・天皇や皇后が亡くなったことをいう崩御という言葉があるのに、ご逝去にするというのは、「朝日は天皇の敬意を払うつもりはない」という意思表示と受け止められないか。そのことも考えておくべきだ。ただ、近代日本の苦闘と天皇への共感共苦が底にあるなら、「死去」でも構わない。[1,p49] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 本田氏は、永栄氏の発言中も「おかしいですよ」「議論が逆立ちしているよ」と何度も挙手した。発言が終わると真っ向から反論し、いつしか二人の論争が延々と続いて周囲はうんざりしたという。■4.「噫(ああ)軍神乃木大将」 最後に、編集長が「それでは『ご逝去』ということにしましょう」と締めくくった。どこの部も「ご逝去」で上層部に提案したということだったが、実際に昭和天皇の崩御を伝える号外、新聞見出し、『週刊朝日』とも、すべて「崩御」で統一されていた。どうしてそうしたかの説明は、編集長クラスにもなかったという。 永栄氏は「乃木大将夫妻の自刃[d]を知った夜の朝日社内が思い出されておかしかった」という。__________ 明治天皇の大葬で猫の手も借りたい編集室に乃木希典・静子夫妻自決のニュースが飛び込む。「この忙しいときに馬鹿が」「記事のないときに死んでくれりやあいいのに」などと罵声が飛びかい、見出しをどうするかが問題になる。「心中だな」 「共同自殺や」。その場にいた生方敏郎の 『明治大正見聞史』 (中公文庫) に出てくる挿話だ。 挿話はこう続く。主筆が隣室から出てきて、「このさい慎んだらどうです。聞き苦しい」と言う。そこへ社長が出社する。「乃木が死んだってのう。馬鹿な奴だなあ」。「社長万歳!」 の歓声が一斉に起こる。にもかかわらず、翌朝の新聞が「噫(ああ)軍神乃木大将」と、誠忠無二の人の殉死を悼む記事で埋まっているのを見、生方は唖然とする。そんな話だった。[1,p50] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 朝日社内には北朝鮮のような強力な社内統制があるようだ。■5.「クビにしてやる」 その統制がどのように行われるのかを窺わせる逸話も、永栄氏は語っている。永栄氏が入社早々の頃、朝日は日本の報道機関で唯一、北京に特派員を置いていたが、その報道があまりにも他紙と違うので、戸惑ったという。 当時、文化大革命が進む中で、それを伝えた日本の各社北京特派員は次々と追放され、朝日の秋岡特派員のみが北京に残っていて、差し障りのない報道だけをしていた。[e] それに対する批判が高まると、当時の広岡知男社長・主筆が、「相手の嫌がることを取材したり書いたりする必要はない」という趣旨を朝日の第一面に書いていたのに永栄氏は驚き、「私たちは日々、相手の嫌がることを取材している。こういうことをお書きになるなら、社長をお辞めになるべきだ」と社長に手紙を出したが、咎められることもなかった。 永栄氏の剛直さは見上げたものだが、社長としては一介の新人社員の手紙など無視しておけば済むと思ったのではないか。ところが、社論に背く報道がなされると、対応が違ってくる。『週刊朝日』が昭和46(1971)年12月10日号で、「林彪のナゾを負う----ここ三ヶ月の中国首脳二十五人の動静全調査」という特集を組んだ。林彪副主席の動静が同年10月1日を最後に報道されなくなり、側近たちの名はそれ以前から公式報道から消えている事実を調べて、林彪の周辺で何かが起きているのではないか、と書いた。 突然、姿を消した林彪の行方を追って世界のマスコミがさまざまな分析をするなかで、中国現地紙から林彪一派の動静を調べて、異変が生じている可能性がある、と書いたのは、報道機関としてごく真っ当な取り組みだった。 ところが、編集長の工藤宜(よろし)氏自宅に、まだ夜も明けきらないうちに、外報畑の元香港特派員が電話してきて「クビにしてやる」と言ったそうだ。朝日では一介の記者でも、主流派に身をおけば編集長クラスに対してこういう口の利き方ができるようだ。 実際に工藤編集長はその後、数週間で解任されたそうだ。「相手の嫌がることを書いたりする必要はない」と言っていた社長のもとでは、中国の「嫌がることを書いた」工藤編集長を飛ばすのは簡単なことだったのだろう。こうして真っ当なジャーナリストは左遷され、社論に忠実な似非ジャーナリストが出世していく。[1,p277]下に続く
2015/12/02
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上からの続き■6.「こんなもの、載せられるか!」 社論に沿わない記事がいかに排除されるか、永栄氏はご自分の経験も書いている。 1980年代前半、永栄氏が大蔵省を担当した時は、消費税論議の真っ最中だった。消費税導入を説く経済学者や経済研究機関のレポートが相次いで発表されており、永栄氏はそれらの提言を短い記事にまとめた。__________ その晩、君和田正夫デスク(のち編集担当専務、テレビ朝日社長)に、「うちは消費税反対なんで、ボツにしたぜ」と言われた。社論に合わない見解は、消費税のような国民的論議が必要な事柄でも載せないと知り、やはりそうなのか、と思った。・・・「おかしいですね」と言おうかと一瞬思ったが、不肖に言う必要のないボツを告げる君和田さんの済まなそうな表情に接し、「わざわざどうも」と不肖は答えた。[1,p191] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 2003(平成15)年3月、アメリカがイギリスなどの有志連合とともに、イラクを空爆したおり、朝日の社説は「空爆已(や)むなし」だった。朝日の従来の論調からは理解しがたい社論で、どういう事情でこうなったかは判らないが、当然、朝日の読者には「戦争は避けるべきだ」と考える人も少なくなく、そんな意見が読者から「声」欄に寄せられ、採用された。__________「声」欄は、不肖が当時属していたオピニオン編集部の管轄だった。「声」欄のゲラを読んだその日の当番局次長がオピニオン編集部に怒鳴り込んできたらしい。局次長は「こんなもの、載せられるか!」と怒り、ただちに差し替えられたという。不肖はその場に居合わせなかったが、出先から戻って騒ぎを聞き、「読者の意見なのだから、このまま載せると突っぱねればよかった」と言った。入社同期の同僚が「いや、社長も論説も、上が全部、駄目だと言ったらしいんだ」と声を潜めた。[1,p192] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ この時は、永栄氏の同僚はみな空爆に反対で、一人の若い女性記者などは「空爆已むなし」の社説に抗議して、会社を去ったという。こうして、その時々の社論に盲従する人ばかりが朝日に残り、出世することになる。■7.「どんな些細なことでも、自分の目で見、耳で聞く」 永栄氏が富山支局の新米記者になって、最初に担当したのは警察担当だった。ある日の未明、車が交差点脇の電信柱にぶつかり、折れた電信柱が民家の屋根に倒れかかったという事故が警察の当直簿に記録されていて、それを3百字ほどの原稿にしてデスクに提出した。 デスクは「朝早うから、ご苦労さんやったな。ところで交差点だけどな、四差路かいな、三差路かいな」と聞いた。「四差路だと思いますけど、もう一度、調べてきます」と答えると、デスク曰く「調べてくる? 現場に行ったんと違うかいな。それからな、『思います』はあかん。あんたがどう思おうが、四差路は四差路やし、三差路は三差路や」。 交通課に聞いて戻ると、「電信柱はどのへんで折れたんかいな」「屋根瓦のほかに被害ないやろな」「前にも同じような被害に遭ったということはないやろな」と聞かれ、そのたびに交通課に聞きに行って、職員一同に大笑いされた。 それらを書き込むと、最初の原稿の3倍くらいになったが、デスクが修正した原稿には、追加情報は何も残っていなかった。__________ 要するに、不肖への訓練だったのだ。どんな些細なことでも、自分の目で見、耳で聞くことの大事さを教えようとしたのだろう。悪戦苦闘だったが、視界がいっぺんに広くなった気がした。[1,p63] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄■8.報道機関か、プロパガンダ機関か こうした事実報道の基本を叩き込まれた事もあってか、永栄氏が特ダネをものにして社内表彰を受けたのも、大阪本社管区内では他の誰よりも多かったかも知れないという。しかし、先輩たちには、何度もこう言われた。「永ちゃんは書けるのに、ほんま、惜しいわ。ウチと方向が違うからなあ」 しかし、「方向が違う」というだけの問題ではない。林彪の行方を探求しようとると怒鳴り込んだり、数人切れば刃こぼれしてしまう日本刀で100人斬りをさせたり、と朝日の主流派は「特定の方向」ありきで、それに向けて事実を隠したり、捏造までしているのである。 朝日新聞社の中にも、永栄氏やそのデスクのように丹念に事実を調べる所から出発する本物の報道記者は少なくないはずだ。しかし、そういう真実の報道をしようとする人が「方向が違う」記事を書くと没にしたり、左遷してしまうのが朝日の体質のようだ。 自由民主社会においては、正確な事実を提供して、国民に向かうべき「方向」を考えさせるのが報道機関の役割だ。特定の「方向」に沿って事実を取捨選択したり、時には捏造したりするのはプロパガンダ(思想宣伝)機関である。 朝日新聞社は、自由民主主義社会に必要な報道機関と言うよりは、北朝鮮や中国にこそふさわしいプロパガンダ機関のようだ。(文責:伊勢雅臣)
2015/12/02
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転載記事**** 国史百景(15) 西郷隆盛に学んだ庄内藩士たち 西郷に学んだ庄内藩士たちは「新しい日本をつくる同志」となった。■転送歓迎■ H27.11.08 ■ 44,690 Copies ■ 4,100,456Views■無料購読申込・取消: http://blog.jog-net.jp/■1.庄内の人々の西郷隆盛への敬慕 世の中には不思議な付き合いがあるものだ。西郷隆盛と庄内藩(現在の山形県庄内地方)の人々との交流である。 明治元(1868)年の戊辰戦争では、庄内藩は西郷隆盛率いる明治政府軍に降伏したのだが、西郷の高潔な態度に感激し、その後、藩主自ら70余名の藩士を率いて、薩摩に赴き、西郷に親しく教えを請う。 西郷は明治10(1878)年の西南の役で戦没し[a]、「逆賊(天皇への反逆者)」の汚名を着せられるが、明治22(1889)年、明治天皇が正三位を与えて汚名を晴らすや、旧庄内藩の人々は西郷の語った言葉をまとめた『南洲翁遺訓』を刊行し、風呂敷包みに背負って、全国に配布して回った。 庄内の人びとの西郷への敬慕は現代まで続いており、昭和51(1976)年には南洲神社が創設され、「財団法人 庄内南洲会」が西郷の人徳を称える活動を続けている。 人びとが一人の偉人をかくも純粋に敬慕した、いかにもわが国らしい美談である。今回はその経緯を辿ってみたい。■2.庄内藩の人々を感動させた明治政府軍 慶応3(1867)年12月、江戸の薩摩藩邸に結集していた浪人たちが、江戸の治安を乱していた。江戸の治安維持を任されていた庄内藩士千人を中心とする5藩は、薩摩藩邸攻撃を命ぜられ、邸を砲撃し、焼き払った。この事件をきっかけに、鳥羽伏見での明治政府と徳川幕府との戦いが始まり、以後1年半ほどの戊辰(ぼしん)戦争が続く。 庄内藩は会津藩、米沢藩などとともに幕府側に立ち、新政府側に立った秋田に攻め入って連戦連勝を重ねた。庄内藩はもともと良民を手厚く保護する藩政をとってきており、藩主・家臣・領民の結束が強かった。藩政を支えてきた商人・本間家も、スナイドル銃などの最新兵器購入のために莫大な献金をした。 米沢藩、会津藩の降伏後も、庄内藩は最後まで藩領土への新政府軍の侵入を許さなかった。しかし庄内藩以外のすべての藩が降伏したので、明治元(1868)年9月、新政府軍に恭順の意を示した。 このように最後まで頑強に新政府軍に戦ったので、庄内藩の人々はどれほど厳しい降伏条件を突きつけられるのか、と心配していた。 しかし、勝者として庄内藩鶴ヶ岡城に入ってきた新政府軍は刀を持たず、丸腰だった。新政府軍の兵士の中には勝ちに奢って乱暴狼藉を働くかも知れないので、それを防ぐためだった。逆に敗者の庄内藩士には帯刀を許し、武士の面目を持たせた。これには庄内藩の人々が驚いた。 しかも、新政府軍の使者としてやってきた薩摩藩の黒田清隆が示したのは、驚くほど寛大な条件だった。11代藩主・忠篤の謹慎、弟・忠宝への代替わりと、16万7千余石から12万石への減封であった。 さらに黒田は、藩主の上座に座って、いちおうの「言い渡し」を終えると、ただちに藩主の下座に降り、「役目のために、ご無礼をいたしましたが、お許しください」と、礼儀正しい態度をとった。武士道を弁えた黒田の態度に、庄内藩の人々は心を動かされた。■3.「この世に、そんな素晴らしい武士がいるのか」 明治2(1869)年、庄内藩の家老として敗戦処理を進めた菅実秀(すげ・さねひで)が東京に出てきて、黒田に寛大な処置に対するお礼を述べた。すると、黒田は「あれは私の処置ではありません。すべて西郷先生の指示でやったことです」と明かした。 新政府軍の指揮官だった西郷は、庄内藩が降伏した翌日にはすぐに帰ろうとした。まだ降伏したばかりで、後で何が起きるのか分からないので、黒田は西郷を止めた。__________ けれども西郷先生は、『戦いは……勝てば、もうそれでいいよ。あとは、同じ日本人……。新しい日本をつくる同志じゃないか。もう敵でも味方でもないよ』と、おっしゃったのです。[1,32] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 菅は「この世に、そんな素晴らしい武士がいるのか」と感動した。そして菅から西郷の話を聞いた庄内藩の人々の感動も察して余りある。 翌明治3(1870)年、18歳だった前藩主・酒井忠篤は70余名の家臣を引き連れて、西郷に学ぶために鹿児島を訪れた。西郷は彼らを歓迎し、いろいろ話を聞かせてやった。 忠篤は西郷の教えに感激し、大名気分を捨て去り、家臣たちと寝食を共にして過ごした。これら庄内藩の人々が西郷の言葉を記録に残したのが、後に『西郷南洲翁遺訓』としてまとめられたのである。■4.西郷の涙『遺訓』の中には、西郷が庄内藩士たちに語った肉声がまざまざと感じられる一幕がある。こんな一節である。__________ ある時、西郷先生が、こうおっしゃった。「国民の上に立って、政治にたずさわる者は、つねに慎みの心をもって、どこにいても品行正しく、贅沢をしないように心がけ、自分の仕事に一生懸命に取り組むような……、つまり人の手本になるような人でなければならないね。・・・ ところが、近ごろの政府はどうだい。今は、これから何もかもはじめなければならないという、いわば時代の出発点に立っている大事な時期なのに、豪邸に暮らし、高価な服に身をつつみ、美しい女性を愛人にし、そして関心があることといったら、個人の財産を築くことばかり……。こんなことでは、何のために明治維新をなしとげたのか……、その本来の理想を達成することなど、とてもおぼつかないよ。 あの鳥羽伏見の戦いにはじまって、五稜郭の戦いで終わった戊辰戦争は、日本を再生するための“義”の戦いだったはずだよね。けれど、その戦いの結果できあがった新政府が、そんなありさまさ! 今のままなら、どうなる? 結果的に、あの戦争は今の政府の高官たちの“利”のための戦いだった、ということになってしまうよ。 こんなことでは、世の中の人々に対して、そして何より、あの戦いで戦場に散っていった戦没者たちに対しても、私は……本当に申しわけなくて……」 そうおっしゃると西郷先生は、こみあげてくる思いを抑えきれずに、しきりに涙を流されていました。[1,781] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 戊辰戦争を西郷の相手側として戦った当の庄内藩士たちも、この西郷の言葉には、涙をこらえきれなかったのではないか。下に続く
2015/11/13
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上からの続き■5.「日本を再生するための“義”の戦い」 西郷は「戊辰戦争は、日本を再生するための“義”の戦いだったはず」と言ったが、その「義」に関して次のように語っている。__________「節操や道義……恥を知る心、こういうものを国民が失ったら、国は、とても持たないね。これは、西洋でも同じことだよ。 たとえば、政治家や官僚や公務員などの上に立つ者が、国民から利益を得ることばかりを求めて、社会正義を忘れてしまったならば、どうなる? 国民もその真似をして、その心は、どんどん拝金主義に向かい、いやらしい貪欲な心が、日を追うごとに国民の間に広がっていくよ。 ・・・ そうなってしまったら……、いったい、どうやって国を維持すればいいんだい?[1,1245] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 道義を国民が失ったら、国は持たない。明治政府の高官たちが私利私欲にふけっている姿は、自ら国を壊している。それでは「日本再生のための義の戦い」と信じて、命を捧げていった戦没者たちに申し訳ない。その思いが西郷の涙となっていた。 西郷が戊辰戦争を「日本再生のための義の戦い」と捉えていたことを知れば、『戦いは……勝てば、もうそれでいいよ。あとは、同じ日本人……。新しい日本をつくる同志じゃないか』と、庄内藩の人々に寛大に接した理由も理解できる。 西郷は庄内藩士を「最後の最後まで徳川家に忠義を尽くした立派な武士」と称えていた。今後は日本の再生のために、ともに忠義を尽くして欲しい、というのが、西郷の願いだった。■6.「西洋は野蛮じゃ!」 明治維新という「日本再生のための義の戦い」は、黒船の来航に象徴される欧米諸国の脅威の下で行われた。その欧米諸国について、西郷は省内藩士たちにこう語っている。__________ ある時、西郷先生が、こうおっしゃった。「“文明”というのは、どういうことかわかるかい? それは、道徳心が人々に広くゆきわたって、それが実践されている国のようすを、称えて言う言葉なんだ。けっして宮廷が大きくて立派だとか、人々の服装が美しくて綺麗だとか、そういう外から見た、フワフワした華やかさを言うのではないよ。 ・・・ 私は昔、ある人と議論したことがあるんだよ。その時、私は、こう言ったのさ。 『西洋は野蛮じゃ!』 するとその人は、こう言った。 『いや、西洋は文明です』 そこで私は、 『いいや、いいや……、野蛮じゃ!』と、たたみかけた。 すると、その人はあきれて、 『どうして西洋のことを、それほどまでに悪くおっしゃるのですか?』と、不満そうに言い返してきた。 そこで私は、こう言ってやったのさ。『ほんとうに文明の国々なら、遅れた国には、やさしい心で、親切に説得し、その国の人々に納得してもらった上で、その国を発展させる方向に導いてやるんじゃないかな? けれど西洋は、そうではない。時代に遅れて、ものを知らない国であればあるほど、むごくて残忍なことをしてきたし、結局のところ、そうして自分たちの私利私欲を満たしてきたじゃないか。これを“野蛮”と言わないで、何を“野蛮”と言うんだい?』 私がそう言ったら、その人は口をつぐんで、もう何も言わなくなったよ」 そう言って、西郷先生はお笑いになりました。[1,1069] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 当時、欧米諸国はアジア・アフリカの諸国を植民地化し、搾取していた。支配者がその様では、国民全体が植民地根性を抱いて、私利私欲のために働くようになる。西洋の「野蛮」がアジア・アフリカに「野蛮」を生み出す。 西郷は「文明」とは「道徳心が人々に広くゆきわたって、それが実践されている国のようす」と考えた。西洋諸国に植民地化されてしまえば、そんな文明国にはなりえない。 そうした西洋諸国の「野蛮」から、国を守ろうとすることが「攘夷」なのであった。[1]の著者・松浦光修・皇學館大学教授は次のように喝破している。__________「攘夷」によって先人たちが護ろうとしていたものは、単なる“国益”ではありません。ここが大切なところなのですが、最終的に護ろうとしていたのは、“道義”なのです。[1,1106] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄■7.『後世への最大遺物』 西郷から「最後の最後まで徳川家に忠義を尽くした立派な武士」と称えていた、そんな忠義の武士たちであったからこそ、西郷の道義あふれる振る舞いに感じ入り、前藩主が70余名もの藩士を引き連れて、西郷のもとに学びに来たのである。 庄内藩士たちは、西郷の言葉に学んで「新しい日本をつくる同志」となったのであろう。西南戦争の12年後、明治天皇が西郷に正三位を追贈して名誉を回復されるや、『南洲翁遺訓』をまとめ、全国に広めようとしたのも、「新しい日本をつくる同志」としての志に違いない。 西郷隆盛を『代表的日本人』の一人として描いた内村鑑三は、『後世への最大遺物』と題した講演で次のように語っている。__________「誰にも遺すことのできるところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある。それは何であるかならば、勇ましい高尚なる生涯であると思います。[1,2992] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 西郷隆盛と庄内藩士たちの「高尚なる生涯」は、現代の我々に贈られた「後世への最大遺物」そのものである。それをどう活かすかは、我々の生き方にかかっている。(文責:伊勢雅臣)
2015/11/13
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転載記事******** ChannelAJER プレミアムメールマガジン」です。 第539号は、福住蟷螂先生です。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~日本の国柄(くにがら) 第88号 福住蟷螂 占領軍の「行き過ぎた増長」とは、「勝者」であるからだけではなく、欧米白人種の有色人種への差別意識からも出ています。ポツダム宣言には「宗教の自由」が明記されています。近衛文麿が自決した翌日、12月17日に占領軍総司令部は「神道指令」を発令しました。現在も日本人が問題視していませんが、これは、宗教弾圧です。理由として政教分離と言っているが、神道を全く知らない欧米人が犯した間違いです。神道は日本人の宗教です。皇室の宗教です。「八百万(やおよろず)の神」を祀る自然物信仰で、民族の習俗と言っていいものです。多くの日本人が初詣を始めとして、様々な機会に詣でます。お神籤を引きお守りを買っています。教義がありません。ただ一つの宗教儀礼はお祓いを受けて身を清めることです。東京裁判の時、連合国の検事側が「皇道」と「八紘一宇」を侵略の標語であるとして問題にしたことは、既に述べました。法廷での論争で、連合国の判事たちも日本の主張を認めました。判決には、八紘一宇は、全世界に普及すべき運命を持った人道の普遍的な原理であり、それを実践するのが皇道であったという旨が、書かれています(清瀬一郎『秘録東京裁判』)。現代の神道学者鎌田東二氏は「『八百万神道』は、二千年世紀にいかにして戦争と差別なき創造的な共同社会を建設していくかという問いに対する……応えである」と書いています(『神道とは何か』PHP新書)。神道は戦争とは無縁の宗教です。心を静め争いを起こさない宗教です。教義を持たないという意味で、西洋流の宗教とは全く別なものと考えるべきです。キリスト教徒は誕生初期に迫害されました。ローマ帝国の国教となったが、教義の違いで二派が対立して争います。教皇が皇帝を破門しました。11世紀末から13世紀中頃までの7回に及ぶ十字軍のイスラム教徒への虐殺・掠奪。17,18世紀の30年に渡るユグノー戦争と三十年戦争は、国家・民族間のキリスト旧教徒と新教徒の凄惨な戦争でした。各国が必要に迫られて政教分離を受け入れたのです。-----------------------------------------------------------------------------●経歴 昭和16年、東京生まれ。 昭和34年、都立九段高校卒業。 昭和40年、東京大学文学部哲学科卒業。 同年より41年間、私立錦城高校(小平市)に勤務、担当、現代文。
2015/11/13
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【拡散】南京虐殺をやらかしたのは中国兵である証拠がアップされる!!!【画像あり】http://www.news-us.jp/article/428677646.html
2015/10/30
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転載記事********新渡戸稲造博士の遺徳を讃え、博士の愛用品や新渡戸家伝来の甲冑などを展示した「十和田市立新渡戸記念館」が廃館の危機にあります。是非拡散ご協力をお願いしたく、その後の情報を共有させていただきます。十和田市長の小山田久氏が突然、「新渡戸記念館の耐震性に問題がある」と言い出したことに始まるこの問題は、建築の専門家からその「耐震診断」について疑問を提示されており、(設計書なしでの耐震診断だった)「補強は可能で、設計図面を用いて 再診断を行って検討するのが適切」という意見や、「建物は、近代建築の大家東大名誉教授・ 生田勉氏の建築作品であり、地域資源 としても貴重。 保存活用について考えてほしい」との声が寄せられ、さらには、市議会から継続的展示に関する賛成決議が全会一致でなされたにも関わらず、市長は応じず、廃館を断行する姿勢だったことから、資料の所有者である新渡戸家は、記念館の廃館・取り壊し決定に対する差し止めと、設計図書に基づいた耐震診断の再調査を求めて、やむを得ず青森地裁に提訴しました。その後9月16日、新渡戸記念館廃館取り壊し撤回に賛同する14756名の署名とコメント、Fax等の手書きによる署名3843名分(廃館取り壊し採決直前6月25日に提出した 2799名分と合わせると6642名分)を提出するも、十和田市の姿勢は変わらず、さらにその後、耐震診断を行った人物の息のかかったメンバーで構成される青森県建築判定会議が、その耐震診断にお墨付きを与えた状況のまま、第1回公判に入っています。その耐震診断には、有識者による反論・不正箇所の摘出もされており、それが行政訴訟の材料となるものの、市長からは「(新渡戸家側が)建物を無断使用している」「(鍵がなく)管理できない。 何かあれば市の責任になる」として鍵を没収し、館内への立ち入りを禁止しようとしたり、(新渡戸家では、今まで通り 「市から要請があれば、立会いの下で鍵は いつでも開けます」という姿勢とのこと)『記念館だより』という定期刊行物にも市の 検閲が入り、出せなくなってしまうなど、嫌がらせと取れる行動も相次いでいるとのことです。状況は、随時下記のfacebookページ、http://editor-ex.jp/Lbk78509/24331ならびに下記ホームページにアップされていますが、http://editor-ex.jp/Lbk78509/34331十和田市は当初、新渡戸記念館を建てる時「資料を永久に保存する」と新渡戸家に約束し、大正 14 年から現在地にあった新渡戸家の「私設新渡戸文庫」を昭和 39 年に取り壊し、同家の協力を得て記念館を建てており、そのため敷地である十和田市開拓の祖・新渡戸傳(明治 4 年没)の墓所境内(新渡戸家所有)の土地を新渡戸家は無償で市に貸与し、市の都市公園としてきた経緯があります。「武士に二言はない」。信頼性に疑問が持たれている耐震診断を、公正に再調査することなく一方的に物事を進めようとする強引な姿勢もさることながら、記念館設立時のそもそもの約束が守られず、その時に受けた恩をないがしろにする姿勢に対し、私は「武士道の危機」を感じます。こんな状況を放置してはならない、と思います。新渡戸稲造博士の愛用品や新渡戸家伝来の甲冑が並び、室町時代の物もあるという貴重な文化遺産、約8000点もの資料が失われてしまうこの危機を救うため、ぜひ皆様にお願いがあります。1.ぜひこの情報を拡散してください。 (基本的にこの無料メールマガジンは転送自由です。 転載・引用の際は、引用元を明記してください)2.現在ボランティアで運営されている記念館・ facebookページを応援しましょう。 http://editor-ex.jp/Lbk78509/44331 http://editor-ex.jp/Lbk78509/543313.新渡戸記念館の廃館・取り壊し撤回を求める 署名活動もまだ継続しています。ぜひご協力ください。http://editor-ex.jp/Lbk78509/64331弊社には、他にも記念館を守るための取り組みや情報など寄せられてきておりますが、まさに11月、新渡戸稲造博士を「人生の先生」と尊敬する李登輝元総統にお会いするので、何かお願いできないか考えてみたいと思います。(内政干渉になるので直接的なアプローチは難しいですが)特に一緒に台湾に行かれる方は、また何かご協力させて頂くことなどあるかもしれません。共に日本の誇る精神文化を、守り抜いていきましょう。それでは、また。今日も皆様にとって幸多き1日になりますように。リアルインサイト 鳥内 浩一追伸:本日このお知らせを流した理由。それは、本日が新渡戸稲造博士の命日だからです。(カナダ時間では15日)ぜひその志が、精神が、生きていることを、博士に伝えましょう。そしてそれを、次代に繋ぎましょう。
2015/10/17
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転載記事*********【RPE】(総理必読)★少子化問題は●で解決できる???RPE Journal=======ロシア政治経済ジャーナル No.1273 2015/10/7==================今日は、「少子化問題は●で解決できる」です。●を埋めたら、本文にお進みください。▼少子化問題が解決されつつあるロシア私がメルマガをはじめた1999年、ロシアの人口は、「年間70万人」という超スピードで減少していました。「このままだとロシアは消滅する」と、マジメに心配している学者さんもたくさんいたのです。1999年、ロシアの合計特殊出生率は、なんと1.17(!)だった。それがですよ、2012年は1.7、2013年も1.7。死亡率の低下も手伝って、人口が「自然増」しはじめている。<ロシアの出生率 記録更新2015年6月19日 Sputnik日本ロシア保健省は、ロシアの2014年の出生率が、過去最高となったと発表した。2013年の出生率は、1990年代以降初めて死亡率を越えたが、2014年はさらによい結果が出た。自然増加数は3万3600人で、死亡率も低下している。ロシアでは2014年、出生率が前年比0.8パーセント増となり、出生数は192万9700人から194万7300人となった。これは、新生ロシア史上、最高値だ。>「少子化問題」に苦しむ日本としては、「どうやって出生率増やしたの????」ときいてみたいですね。▼「母親資本」とは?ロシアで少子化問題が解決されつつある。人口が「自然増」に転じている。なぜ?その秘密の一つが、「母親資本」(マテリンスキー・カピタル)という制度です。「母親資本」とはなんでしょうか?要は、「子供を二人産んだ家族は、大金がもらえる」という制度。導入されたのは07年ですが、当時「平均年収の二倍分もらえる」という話だった。日本の感覚でいうと、「子供二人産んだら800万円もらえる」という感じでしょうね。しかし、もらうお金の「用途」が決まっている。主に、・住宅関係(住宅の購入、修繕など)・教育関係(子供の教育費)2015年度の「母親資本額」を見ると、45万ルーブルでした。これって、日本円で【90万円】程度です。「90万円もらえのなら、子供二人産むわ!」日本人の感覚では、ちょっと想像できないですね。それで私は長年、「母親資本」なんて効いてないと思っていた。しかし、実際出生率は上がっているわけで、「なんなんだろう?」と疑問に思っていたのです。ところが最近、「モスクワから300キロ離れたところに家を買った」という人に会い、考えが変わりました。「300キロ」というとめちゃくちゃ遠く感じますが、ロシアは国土が広大。日本人の「300キロ」とは感覚が違います。「で、いくらしたの?」と私は聞きました。「40万ルーブル」(80万円!!!)この会話で私は、「悟った」のです。「そうか、母親資本90万円は、田舎の人にとって大金なんだ。それで【家が買えるほど】の」要するに、「二人子供を産むと、家を買える」から、出生率が増えている。もちろん、「母親資本」が唯一の理由とはいいません。しかし、これが「大きな動機」になっていることは間違いないのです。「少子化問題は●で解決できる」●の答えは、「家」です。▼「母親資本」を日本風にアレンジすれば?とはいえ、「90万円」日本でもらっても、それで「子供二人産みましょう」とはならないでしょう。日本で「家が買える金額」といえばいくらでしょう?東京など大都市ではもちろん無理ですが、たとえば長野県松本市の近郊なら、2000万円 ぐらいあれば、まともな家が建ちます。ですから、「3人子供を産んだ家庭には、住宅購入資金2000万円まで支援します」としたら、「じゃあ、そうします」という家庭も増えるのでは?「財源どうするんだ、ボケ!」そんな声が聞こえてきます。別に2000万円、一括でその家族に上げなくてもいい。「住宅購入資金のローン(たとえば20年、30年)を、2000万円まで国が肩代わりします」とすれば?そうすれば、国は、20年とか30年とかかけて、3人子供を産んだ家庭に代わって、ローンの返済をしていく。すると、「3人子供を産んだ一家庭」につき、国の月々の負担は、10万円ぐらいなものでしょう。(計算していませんが。)子供一人当たりの支援額は、月3万3333円となります。これですと、かかわる人みんなにメリットがあります。・3人産んだ家族 = 夢のマイホームが手に入ってうれしい。・銀行 = 国が払ってくれるなら、とりっぱぐれない。・国 = 出生率が劇的に増え、未来は安泰この話、「社会主義的だ!」と生理的に受けつけない人もいると思います。しかし、「新自由主義」的に好きにやらせてたら、少子化はとまりません。もちろん、「子供産みやがれ!」なんて強制はできません。でも、「子供3人産むと、こんなお得なことがありますよ」というのは強制ではないでしょう?そこで、一つの提案をさせていただきました。ぜひ総理にも教えてくあげてください。「領土問題」も大切ですが、プーチンにあったとき、「ロシアは、プーチンさんの叡智で、少子化問題を解決されたそうですね!その方法を教えてくれませんか?」といえば、喜んで教えてくれることでしょう
2015/10/07
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転載記事************◆玉井忠幸『亡国の宰相・菅直人:官邸機能停止の180日』を読み解く※要旨・政治家にとって人生とは結果でしかない。その成し得た結果を歴史という法廷において裁かれることでのみ、評価されるのだ。1806日の首相在任記録を持つ中曽根康弘・元首相の言葉である。・「ここには、熾烈な重圧があります。翌日の新聞に踊る大きな批判記事の活字など、たいした問題ではなく、この国の将来は自分の決断ひとつにかかっていると、感じたときの恐ろしいほどの重圧感です。その重圧感に立ち向かわせるのが、若き日の直感と、成熟により獲得した知恵なのです」(中曽根康弘)・2011年3月に起きた東日本大震災という戦後最大の国難に、時の菅直人政権はどう立ち向かったのか。国家の指導者としての菅氏の働きぶりに、中曽根氏のいう歴史法廷はどういう裁きを下すのだろうか。・日本の政治はこれからも大きな変化を積み重ねていくだろう。そして、私たち政治記者は引き続き、変化する政治の姿を丁寧に記録し、多くの有権者に伝える責務があると自覚している。本書は、東日本大震災発生から菅首相退陣までの日本政治の動きを検証し、読売新聞の政治記事を大幅に加筆修正してまとめたものである。・震災直後から、自衛隊と米軍は、過去に例のない大規模な被災地支援・救援救助の共同作戦「トモダチ作戦」を展開する。2009年の政権交代後、鳩山政権は日米同盟関係をずたずたにしかけたが、非常時にあっての自衛隊と米軍の結びつきを再強化しただけでなく、国民の米軍に対する視線にも、大きな影響を与えた。・米軍は震災直後に発動した「トモダチ作戦」に、最大時で1万8000人の兵力を動員した。・米軍が注目したのは、被災の激しかった仙台空港だった。海岸に近く、津波の直撃を受けた同空港の滑走路は、がれきや車などで埋め尽くされ、、使用不能になっていた。米軍はここを「キャンプ・センダイ」と呼び、空軍部隊や沖縄駐留の海兵隊を投入した。・自衛隊と米軍の連携は、現場同士の調整に多くが委ねられたが、その後ろ盾となる政府間の連携と交渉で、米側の窓口になったのがジョン・ルース駐日大使だった。・本国政府への連絡は、ルースが携帯電話などで行った。ワシントンは真夜中だったが、ルースはホワイトハウスのスタッフに「大統領を起こせ」と命じた。オバマ大統領の有力な資金協力者であるルースの強みは、オバマに直接、働きかけができることだった。・ルースはオバマに、「同盟国の日本で未曾有の大震災が発生した」と報告、支援準備を要請した。・菅首相は、課題に対応するための「プロジェクト」には反応よく飛びつくのに、問題意識や情報の共有、根回しをしない。政策面でも、瞬間、瞬間の「最適解」を、整合性を気にせず追求するから、一貫性に欠けていると映る。・当時、政府関係者からは、「民主党は政権をどう動かすか、官僚という『ボタンの押し方』が分かっていない」と嘆きが漏れた。※コメントさまざまなトップがいる。今回は反命教師として学びたい。いつ自分が、どういったリーダーになるか分からない。つねに準備して想定しておくことが大切だ。★玉井忠幸『亡国の宰相・菅直人:官邸機能停止の180日』
2015/10/02
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転載記事********http://matome.naver.jp/odai/2136583421428687401十和田市の小山田市長は 世界と日本に偉大な功績の「新渡戸記念館」を潰そうとしています カナダに新渡戸稲造の「記念庭園」があり、天皇・皇后両陛下もご訪問◇新渡戸記念庭園とは新渡戸記念庭園(Nitobe Memorial Garden)は、カナダ・ブリティッシュコロンビア州のバンクーバーにある日本庭園。ブリティッシュコロンビア大学のキャンパス内にあり、同大学の植物園 (UBC Botanical Garden and Centre for Plant Research) の一部を構成する。1933年に同州ビクトリアで客死した新渡戸稲造を記念したもので、北米に所在する日本庭園の中で高く評価されているものの一つである。"新渡戸記念庭園(Nitobe Memorial Garden)は、カナダ・ブリティッシュコロンビア州のバンクーバーにある日本庭園。"出典新渡戸記念庭園 - Wikipedia"ブリティッシュコロンビア大学のキャンパス内にあり、同大学の植物園 (UBC Botanical Garden and Centre for Plant Research) の一部を構成する。"出典新渡戸記念庭園 - Wikipedia"1933年に同州ビクトリアで客死した新渡戸稲造を記念したもので、北米に所在する日本庭園の中で高く評価されているものの一つである。"出典新渡戸記念庭園 - Wikipedia"North America's Top 25 Japanese Gardens、米国の日本庭園専門誌『数寄屋リビング(ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング)』が北米に所在する300箇所超の日本庭園から選んだ2004年の調査では第4位。"出典http://www.rothteien.com/topics/na-survey.htm天皇皇后両陛下も訪問された 出典y-sonoda.asablo.jp天皇皇后両陛下も訪問された2009年にカナダを訪問された際に新渡戸記念庭園(Nitobe Memorial Garden)を散策された。
2015/09/28
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転載記事***********第503号は、稲村公望先生です。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~フーバー大統領回想録(その17)未定稿ルーズベルトとチャーチルは、致命的な間違いを1945年2月のヤルタで犯した。スターリンが12の国々の独立に対して干渉を加えることを追認しただけではなく、数世代に亘って国際関係に危険をもたらす世界に害を与えるような、悪い勢力の動きを助長するような秘密の協定が多数結ばれた。スターリンが傀儡の国家を七つ作ったことを知りながら、自由で妨害されないとか、全ての自由な人士の参加とか、言葉を繕って、スターリンの暴虐に水を差さないで隠蔽した。テヘランに於いて、軍事的な観点から妥協をしたことを最も強力に主張した向きも、ヤルタでは、そうした主張もなかった。アメリカの手が汚されずに自由な人間から尊敬される国として存続するのであれば、自由な人類と品性の為にも何か一言反論をすべきであった。これでもかと、日本は和平をもとめる。1945年の5月、6月、7月と、日本は白旗を掲げて和平を求める打診をしてきたが、トルーマンはこれを拒否した。トルーマンは、ルーズベルトの無条件降伏の愚かな条件に従う義務は無かったのである。ヨーロッパの軍事指導者が(日本との和平に反対して)認めなかった。日本との和平はただひとつの譲歩で達成できた。精神世界でも、日本国家としても元首である天皇(みかど)の保全と言う一点であった。天皇の地位は、千年以上の信仰と伝統に基づくものである。米国側が、最終的に受け入れたのは、数十万の人命が犠牲になった後であった。Refusal of Japanese Peace Proposals of May-July、 1945Fifteenth. The fifteenth time of lost statesmanship was in retrospect to Japan in May, June and July, 1945.Truman refused to take notice of the Japanese white flags.Truman was not obligated to Roosevelt's "Unconditional Surrender" folly.It had been denounced by our own military leaders in Europe. Peace could have been had with Japan with only one concession .That was the preservation of the Mikado who was the spiritual as well as secular head of the state. His position was rooted in a thousand years ofJapanese religious faith and tradition. And we finally conceded this after hundreds of thousands of human lives had been sacrificed.(つづく)
2015/09/23
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転載記事**********第501は、日本経済復活の会 小野盛司会長の小論文です。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~池上彰は財務省を代弁して日本の借金の解説をしたテレビ朝日が2015年9月19日夕方6時56分から池上彰の「そうだったのか、みんなの知らない日本」という番組を見た。大変偏向した解説で、彼は財務省を代弁しているだけだった。最初に日本には1000兆円以上の借金があるという話。このままではギリシャのようになるというのだが、最も重要な点、つまりギリシャのように通貨発行権がない国とは違い、日本には通貨発行権があるから、いつでも通貨を発行して借金を買い取ることができるという決定的な違いを彼は意図的に隠した。日本の借金の返済方法として3つの方法が提案されているのだそうだ。これは財務省の考え出した「方法」であり、少しでも経済の知識があれば、馬鹿馬鹿しくてこんな見当違いの方法を提案しない。方法1:対外純資産が367兆円あるのを使う?? 8割が民間の所有だから政府は使えるわけがない。方法2:政府資産の売却?? 国会議事堂、国道等売却できないし、年金積立金等も返済に使えない。 デフレ時に、政府資産を売却すれば更にデフレを悪化させる。方法3:国民の金融財産(1700兆円以上)を没収して返済?? 国の借金が国民の金融財産を超えたら破綻だって?? 単に国債を発行すれば極めて低金利で資金はほぼ無尽蔵に入るのに、こんな馬鹿なことを政府がやる必要は全くない。池上彰が隠した重要な事実がある。その目的は国民を騙して消費増税を受け入れさせることだろう。12848;国の借金とは国が国民から借りたもの。ひたすらに借金返済の恐怖を語るのみで、借金は国民に返すのだということにはわざと触れなかった。12842;日銀がお金を刷って、大量に国債を買い上げていること、つまり借金の返済が急速に進行中であることも隠した。もちろんやろうと思えば、刷ったお金で借金は全部返せる。日銀券発行では返したことにならないという主張なら、政府貨幣発行による返済という手段もあるのだということも述べるべきだが、それも隠した。しかし、滑稽なのは、政府貨幣に関する説明だけは丁寧に行ったのだ。なぜ政府貨幣発行でも借金は返せるのだということを隠すのか。財務省の意向だとしか考えられない。池上氏は、国の借金の大きさの国際比較はGDP比で考えると説明した。更に借金があること自体は問題にならないが、借金が増える事が問題なのだと説明した。そのくせどうやって借金の対GDP比を減らすことができるのかということに関しては一切説明しなかった。減らす方法を示しているのは、マクロ計量モデルの乗数だ。内閣府も計算している。結論としてはGDPを増やせばよいだけだ。つまりGDPを増やすには財政を拡大し経済を活性化すればよい。国の借金は増えるが、GDPのほうがもっと増えるから、借金のGDP比は減っていくというのが内閣府の結論だ。二階敏博氏による二階ペーパーにも同様の主旨のことが書かれている。結論から言うと、池上氏の説明は全く財務省の代弁だし、財務省流では日本経済は衰退を続けるだけだったという過去の事実がある。池上氏に猛省を促したい。
2015/09/23
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転載記事****■■ Japan On the Globe(918) ■■ 国際派日本人養成講座 ■■ Common Sense: 私の見た戦後左翼の正体 読者の体験談から浮かび上がる「戦後左翼の正体」(伊勢雅臣) 前々号「戦後左翼の正体」では、多くの読者からおたよりを戴きました。その中で、実体験に基づいてそれぞれの方の見た「戦後左翼の正体」を語っていただいたお便りを紹介させて戴きます。■1.過激派に怒る院生とおばさん(T.Tさん) T.Tさんは東大在学中に、大学紛争を経験しました。__________ この下宿に移って、間もなく1年が経とうかという頃、東大の各学部は、医学部への機動隊導入を機にそれぞれの学生自治会でスト決議をまとめ、全学ストに入った。 入学以来左翼的な思想、社会観のシャワーを浴び続け、そうとう左翼的な感覚に染まってはいたが、たちまち主導権争いの内ゲバを始めた全共闘について行く気には到底なれず、どうしていいのか分からぬまま、集会などがあれば様子を見に出かけていた。 下宿の茶の間での会話で、(下宿先の家主の)院生の長男が、研究室に全共闘のヘルメット連が乱入占拠し、研究室を追い出されてしまったと憤り、おばさんはそれに輪をかけて憤った。 後から考えれば、それは世の大人としてはごく自然な反応だったろうと思うが、困ったのは、おばさんが私を全共闘の代弁者のように見なし、左翼勢力への反感や、生活上の不満なんかをいっしょくたにして私を憎がり始めたように感ぜられたことだった。 こちらは現実の全共闘にはむしろ敵対的な感情を抱くほどなのに、傍からいろいろ言われるとつい、動機論的な弁護の口調になったりして、おばさんから左翼の代表、兼だいじな長男の敵だと見做されたようなのだ。 あの頃は正直、辛かった。もともと自分の中に纏まった考えがある訳でもなく、世間の何たるかも知らぬまま、ある種の政治状況の中に放り出されたのだ。教室というヒントの場からも切り離され、自分なりの世界観や社会観への手掛かりを得るために、一人あてどない読書に日を送るしかなかったのである。 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄(伊勢雅臣)「入学以来左翼的な思想、社会観のシャワーを浴び続け、そうとう左翼的な感覚に染まってはいた」が、「たちまち主導権争いの内ゲバを始めた全共闘についていく気持ちには到底なれ」なかったT.Tさんは、当時の学生の平均的な姿でした。 また、「研究室に全共闘のヘルメット連が乱入占拠し、研究室を追い出されてしまった」と憤る院生の長男さんは、何の関係もないのに被害を受けた人々の典型です。「左翼勢力への反感」を語るおばさんの姿も、「世の大人としてはごく自然な反応」でした。 過激派の活動は、このように左翼思想のシャワーを浴びながらも暴力的な活動についていけない一般学生、その暴力的活動を憤る世の大人たちから、かくも隔絶したものでした。 なお、T.Tさんが、「動機論的な弁護の口調」になったという点も重要です。動機、すなわち目的は手段を正当化する、というのが左翼の考え方で、革命という崇高な目的のためには「現体制での違法な行為も許される」という考え方だからこそ、研究室に乱入占拠したり、内ゲバ殺人まで犯します。 過激派とは人体で言えば、ガン細胞のようなもので、健全な法治国家、民主国家を暴力で冒す存在です。■2.一般学生の運動はたちまち過激派に支配された(T.Tさん)__________ 医学部への機動隊導入を機に、過激派やそれに近い活動家が導入粉砕で一般学生を煽り立て、それに乗った各学部の学生たちがクラス決議などを経て学部の「スト権」を 「確立」し、各学部が相次いでストに入りました。煽り立てられてそれに乗った一般学生は自分たちの意思の積りでストに入ったのです。 最初はノンセクトの積極的な連中が主流であるかに見えた全共闘はたちまち過激派の支配主導するところとなり、それから大学の主要な建物を全共闘が占拠するようになったのです。 それら建物には地方の大学から続々と過激派学生が集まり、学内はごみためのようになりました。 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄(伊勢雅臣)学内の問題を解決するための一般学生の運動が、たちまち過激派に支配され、ついには他の大学からも過激派学生が集まってきた、というあたりに、左翼運動のメカニズムが見てとれます。 目的のためには暴力や違法手段も正当化されるのであれば、より過激な暴力を振るう一派が主導権を握る、というメカニズムです。合法的な手段で目的を達成しようとする一般学生は排除されてしまいます。■3.「機動隊員のジュラルミンの盾と学生の角棒での殴合い」(TN生さん)__________ 支那共産党政権の中華人民共和国が1949年に発足した年に生まれた66歳になるいわゆる団塊世代の一人ですが、19歳で初めて新宿大久保の看板屋に就職し、華やかな歌舞伎町など都会の生活にサクセスを夢見ていました。 しかし新宿といえばベトナム戦争の白人帰還兵や地方から出てきたフーテン、ベトナム戦争反対と叫ぶべ平連、ヒッピーまがいの連中などアメリカやイギリスの流行にすっかり取り込まれた世代が跋扈していました。 そうした60年代後期の風景にあって、夜ともなると新宿駅の地下道、東口からヘルメット姿に顔にはタオルを巻き角材を手にした学生が多勢飛び出してきては、都電通りや伊勢丹の通りをスクラムを組んでデモ行進をするわけです。それを鎮圧する機動隊と激しい殴合いをするわけです。 遊びでくり出した人々も歩道で眺めるといった具合で、目の前の機動隊員のジュラルミンの盾と学生の角棒での殴合いの光景に田舎出のノンポリの私は若者同士が何故こんなことをしているのか?呆れて見てました。 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄(伊勢雅臣) 現在では想像もできないでしょうが、当時の新宿ではこのような「機動隊員のジュラルミンの盾と学生の角棒での殴合い」が日常茶飯事だったのです。「若者同士が何故こんなことをしているのか?」とは当然の疑問です。 左翼思想で暴力を肯定された過激派青年たちは「ゲバ棒を振り廻すこと自体によろこびを感じている」[a]所まで精神を冒されていたのでした。真っ当な教育を受ければ、これらの青年たちがどれほど有意義な人生を送れたかことか、と思うと、左翼思想の害毒の恐ろしさが判ります。■4.「なんでこの人たちは政治家に対してこんなに口汚いのか?」(犬飼裕一さん)__________「言葉の暴力を平気で振るうような人間たちに、『平和』を語る資格はどこにあるのか」まさにこれで、私は子供の頃から、「なんでこの人たちは政治家に対してこんなに口汚いのか?」と、小学校低学年の頃から不思議でした。 まるで暴力レイプ魔や爆弾テロリストについて非難するような口調で、自分と違う考えの政治家を罵る。「低能、嘘つき、人格破綻・・・・恥知らず・・・」といった調子です 。例えば新聞では、選挙で選ばれた風格あるおじさんの顔写真の下に「詐欺師!」とかいって罵っている。 私の考えでは、マルクス主義の最大の犯罪は、イデオロギーというよりも、この種の罵詈雑言を許す態度。 今回の「戦争法案!」もそうですが、マルクス主義者には異なる意見の人々に対して、最初から議論しようという意思がない。他のマルキストに対する「内ゲバ」もそうですが、互いに全否定のレッテルを貼って、後は暴力、殺しあいです。 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄(伊勢雅臣)民主主義は、多様な思想、言論が許されることを前提とした政治体制ですが、左翼の本質は、「自分たちだけが正しい思想を持っている」という独善主義です。 従って、「異なる意見の人々に対して、最初から議論しようという意思がない」し、罵詈雑言を浴びせかけ、「全否定のレッテルを貼って、後は暴力、殺しあい」となります。「左翼は自由民主主義体制の癌」とは、こういう所からも言えます。下に続く
2015/09/23
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上からの続き******■5.年金暮らしで街宣を続ける元教師(TN生さん)__________ 70年代に入り中国と言えば毛沢東万歳、文化大革命、紅衛兵といったニュースが流れ、田舎で入社した会社の先輩が「これからは労働者、農民の味方、毛沢東の時代だ。古い封建的なものを捨て新しい文化を作り出すんだ・・・。」そして労働組合を作ろうとなった。日中友好協会へ入会、毛沢東語録、人民日報を手にするようになった。 ある時、戦中派の伯父貴に「労働者と農民の味方・毛沢東」を得意になって話したら「モウタクトウ?先祖がえりしてタダの権力者なのだよ。いま日本は沢山のお金を貸しているが返ってこない・・・」と一蹴され、目が覚めたわけです。 敗戦後の食糧難アメリカの脱脂粉乳の貧しい時代、先生も師範でなく労働者という訳で、従兄弟の先生も選挙があると日教組出の政治家を頼むと電話。いまは自適の年金暮らし。宴席で、いまの歴史教育はなってない!などと今更なんだ・・・・。しかし、若い時に埋め込まれた思想信条はなかなか解きほぐせないものだと思う。 いまも共産党街宣車でウグイス嬢を使って「憲法改正や集団的自衛権は戦争をする国になります!」などと安倍政権を批判する街宣を行っている。戦後体制で築き上げた地位と生活を失いたくないという国家意識の無い彼らの抵抗なのでしょう^^NHKをはじめテレビメディア新聞マスコミも同類です。 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄(伊勢雅臣) 戦後左翼が現代でも巣くっているのは、教育、法曹、マスコミ、政治家の分野ですが、これらの分野には共通点があります。いくら非現実的なことを言っていても、食うのに困らない世界だという点です。 実業人やサラリーマン、職人、農民など、現実から遊離した理想、理論を語っていたら、たちまち食べられなくなる人々とは違います。現代の左翼は、このように現実から遊離しても食べていける世界でのみ、生き残っているのです。 左翼が巣くう学校には子供を入れない、新聞はとらない、政治家には投票しない、という形で、食うのに困るようになれば、目が覚めるでしょう。■6.「左翼の学者が市民の行政に対する不信感を煽って」(Caunoさん)__________ 反公害運動の草分けの一人中西準子が「汚水をきれいな水に混ぜて処理する流域下水道に対して、汚水だけを分けて処理する方がコストが安いので、全国の市町村が中西の提案を受け入れた。」と書かれていますが, 流域下水道は,同じ河川の流域に位置する複数の市町村の下水を一箇所の処理場で処理する方式で,宇井純氏が講師を務めたNHKの教育番組や日本テレビのキャンペーンで公費の無駄遣いの象徴にされ,全国で未着手の流域下水道計画が廃案とされ,市町村毎に処理場を設置する単独下水道が整備されました。 結果として,市町村合併が進んだとき,耐用年数が残っている処理場を廃止しても処理場を統合したほうが負担が少ないため,本来必要なかった費用が発生しているということが問題です。 左翼の学者が,市民の行政に対する不信感を煽って単一の処理場で処理したほうがトータルコストが安くすむところを,自治体ごとに処理場を整備することを余儀なくした。中西さんや宇井さんの主張は,下水道行政に関った者からすると反体制のために事実の一部に目をつぶって理論の飛躍を行っているとしか感じられません。彼らを左翼と考えるのは,反体制として長年闘った彼らの経歴と彼らの理論を唯一の真実とする社会党や民主党への対応に苦慮した経験からのものです。 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄(伊勢雅臣)弊誌のこの部分の記述は[1]に依っていますが、左翼の主張に弊誌も騙されたようです。 左翼の新しいアプローチとして、地方自治体に入り込んで、国家の存在意義をなくす方向に行政を変えていく、という形があります。市町村単位の教育委員、自治体での外国人参政権などが、この一例です。 現在の体制内に入り込んで、市町村単位で徐々に左翼の目指す方向に変えていこうという「体制内左翼」は、法体制を無視して暴力を働く「体制外左翼」よりも、ある意味危険です。癌にかかればその痛みで病気と判って治療を受けますが、精神をやられては知らず知らずのうちに、健全な人生を送れなくなります。 現代では日教組の行う偏向教育やマスコミの偏向報道など体制内左翼の危険性の方に目を向けなければなりません。世界の先進国で、これほど教育、マスコミ、法曹、政治で、戦後左翼思想が残存している国はありません。明日の日本を築くためにも、日本人一人ひとりが、健全な良識と判断力をもって、戦後左翼思想と戦っていかねばなりません。 (文責:伊勢雅臣)
2015/09/23
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転送記事***戦場で、日本海軍と実際に命のとり合いをしていた元英国軍人の衝撃の告白です。自分の艦が撃沈され、海上を漂流しているところを、日本海軍の駆逐艦「雷」に見つかってしまったその時、彼は「日本人は残虐」と言う先入観があったため「機銃掃射を受けていよいよ最期を迎える」と頭上をかばうかのように両手を置いてうつむきました。しかし、死を覚悟したその瞬間、彼の目の前に奇跡としか言いようがない光景が現れます。一体何があったのか?真相を知りたい方はぜひ、こちらの映像をご覧下さい。http://editor-ex.jp/Lbk78509/14121この映像は、その奇跡的瞬間を語ることができる元英国軍人がご存命のうちに、彼らを文字どおり命をかけて探し出し、インタビューすることに成功したジャーナリスト惠隆之介氏が【無料で】お届けいたします。すべては、歴史の帳の中に埋もれようとしていた数々の事実を明るみに出すため。そして、涙なしに語ることのできない「海の武士道」をより多くの日本人に伝えるため。芝居でもプロパガンダでもない、戦場で命を奪いあった男たちの本音がここにあります。http://editor-ex.jp/Lbk78509/24121この証言を聞けば、誰が平和を祈っていて、誰が戦争を望んでいるか、きっとわかるはずです。そして、あなたの歴史観を変えてくれるはずです。実際に、今回の元英国軍人インタビューを翻訳を手伝ってくれたある学生は、作業を終えたあと、このようにコメントを届けてくれました。「ただの翻訳としてだけでなく、自分の歴史観を変える素晴らしい内容の和訳に携われたことをうれしく思います。依頼していただきありがとうございました」いかがでしょうか。ひとりの若者を感動させ、歴史観を変え、そして、出会えたことに「ありがとう」と言わせるだけの映像は、そうありません。余談ではありますが、彼はイギリスで学んでいる若者です。ぜひ、あなたの周りの若い方々にも、同じ体験をさせてみてはいかがでしょうか。若者だけに限りません。映像をご覧になって他の誰かに届けたいとお思いになれば、下記URLをぜひご案内ください。http://editor-ex.jp/Lbk78509/34121無料で公開している映像でございますので、お気軽にどうぞ。それが、惠隆之介氏の願いでもあり、必ずや、よりよい日本をつくっていくことにつながるでしょう。それではまた。皆様とともによりよい未来を創っていけることを、心より楽しみにしています。リアルインサイト 中森 護
2015/09/09
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転載記事*****■■ Japan On the Globe(916) ■■ 国際派日本人養成講座 ■■ Common Sense: 戦後左翼の正体「安倍に言いたい。お前は人間じゃない! たたき斬ってやる!」と言う人々の正体を探ってみれば、、、■1.「言葉の暴力を平気で振るうような人間たちに、『平和』を語る資格はどこにあるのか」 8月30日、安全保障関連法案に反対する国会周辺の集会で、山口二郎・法政大学教授が、以下の発言をしたと報道されている。__________ 昔、時代劇で萬屋錦之介が悪者を斬首するとき、『たたき斬ってやる』と叫んだ。私も同じ気持ち。もちろん、暴力をするわけにはいかないが、安倍に言いたい。お前は人間じゃない! たたき斬ってやる! 民主主義の仕組みを使ってたたき斬ろう。[1] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 安全保障関連法案に反対なら、現在の中国の軍事膨張に対して、どう日本を守るか、という対案を示すべきなのに、そのような政策論議はまるでなく、国民が「民主主義の仕組み」に従って選んだ首相に、品位も論理もない悪罵を投げつけるだけである。 石平氏は「言葉の暴力を平気で振るうような人間たちに、『平和』を語る資格はどこにあるのか」と批判した上で、自らの経験に照らして、こう語る。__________ 今から26年前、私の世代の多くの中国人青年が北京の天安門広場でそれこそ命がけの民主化運動を展開した。しかしわれわれは、本物の独裁者のトウ(登におおざと)小平に対しても「お前は人間じゃない」といった暴言を吐いたことはない。われわれはただ、民主化の理念を訴えただけだった。だから、民主化運動がトウ小平の解放軍に鎮圧されたとしても、われわれには誇りが残った。[2] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 国会前で「言葉の暴力」を振るう日本の戦後左翼と、天安門で民主化を求めて立ち上がった中国の青年たち[a]とは、姿形は似ているが、その正体は全く異なる。戦後左翼の足跡を辿ってみれば、彼らの正体が見えてくる。■2.60年安保闘争の挫折 戦後左翼のピークは、昭和35(1960)年の安保闘争だった。同年5月19日に岸信介内閣の安保条約の改正に反対して、100万人が国会を包囲した。この時、岸首相は「国会周辺は騒がしいが、後楽園球場は満員だ」と言い放ったが、その言葉通り、一般国民は当時から安保改正を支持していた。 この年の参議院選挙で社会党は敗北し、岸内閣は支持率34%と、安保改正賛成が国民の多数派だった。新安保条約が自然成立して岸内閣が総辞職し、後継の池田勇人首相のもとで行われた総選挙でも、自民党は300議席を超えて圧勝した。 後に、岸は「安保改訂がきちんと評価されるには50年はかかる。あのときは俺は一握りの人たちとマスコミだけが騒いでいると思っていた。ああいうふうに騒いでいる連中だって、そのうちきっと安保改訂をありがたいと思う時期がくるよ」と語った。[b] その言葉通り、半世紀後の平成24(2012)年の内閣府世論調査では、「日米安保条約が日本の平和と安全に役立っている」と考える人の割合は81.2%にも達している。[3] 安保改定への左翼の批判は「安保で日本はアメリカの戦争に巻き込まれる」というものだったが、半世紀経っても日本はアメリカの戦争に巻き込まれておらず、逆にかつてのソ連や現在の中国に対する抑止力を得て、日米同盟は戦後日本の平和に寄与している。 戦後左翼の安保反対デモは、政治的主張としては誤りであり、国民の支持も受けていなかった。「一握りの人たちとマスコミ」がデモという物理的な力で、民主選挙で選ばれた政府の決定を暴力で覆そうとした闘争であった。■3.高度成長が打ち破った「社会主義への道」 経済面における戦後左翼の主張は「社会主義国家」の建設であった。昭和39(1964)年に日本社会党が綱領として採択した「日本における社会主義への道」は、次のように主張している。[4]・主要生産手段公有化と計画経済により、生産性を高め国民に豊かな生活を保障する。・日本資本主義は国家独占資本主義である。資本主義の基本的矛盾は最高度に発展しており、社会主義革命の前夜にある。 この主張を事実で打破したのが、池田内閣が始めた「所得倍増計画」だった。道路5カ年計画など社会資本の充実、貿易・為替自由化による輸出推進、優遇税制による産業高度化などの具体策が矢継ぎ早に実施された。 臨海工業地帯には、巨大な鉄鋼、石油化学、火力発電などの巨大プラントが続々と作られた。国民の生活水準も急速に上昇して、カー、クーラー、カラーテレビの「3C」が花形商品となった。 所得倍増計画の10年間、国内総生産(GDP)は年平均11.3%の伸びを示し、倍増どころか3倍増となった。「主要生産手段公有化と計画経済」ではなく、「民間企業と自由市場」が「生産性を高め国民に豊かな生活」を実現した。[c] こうして安全保障と経済成長の両面において、戦後左翼の主張は自民党の政策により、事実によって誤りであったことが実証されたのである。■4.「ゲバ棒を振り廻すこと自体によろこびを感じている」 戦後左翼の政策的主張は挫折したが、60年代後半はベビーブーム世代が大学に進学し、反抗期的ムードを原動力とした学生運動が盛りあがった。 そのピークは、東大安田講堂事件であろう。発端は、医師国家試験制度に関する実務的な問題だったが、「医局員を監禁状態にして交渉した」として大学当局が17人の学生の処分を決めると、過激派学生たちが反発して安田講堂をバリケード占拠して、卒業式を阻止した。 その後、大学当局が機動隊を導入して、安田講堂を占拠する過激派を排除したが、これに反発して全学の過激派学生がストライキと主要な建物の占拠を行った。昭和44(1969)年1月18日、19日にかけて、警視庁の機動隊8500人が投入され、封鎖解除をした。 機動隊側は「なるべく怪我をさせずに生け捕りにする」方針をとったが、学生側は上部階から火炎瓶や大きな石、硫酸などの劇物を投下したため、機動隊側で負傷者710人、うち重傷者31名もの被害が出た。学生側は負傷者47名、うち重傷者1名、逮捕者457名となった。[5] 東大教官で作家の柴田翔は暴れる学生たちの姿を見て、こう書いている。__________ 僕がそのとき考えたことは、ゲバルトは国家の暴力装置に対抗するための対抗暴力として出てきたと理解した。僕はたとえ対抗暴力であってもゲバルトには反対だったけど、現象としてはそう理解していた。ところが大学の教師である自分の目の前で学生たちがゲバ棒を振りまわしているのを見ているうちに、そういう側面もあるけれどもそれはいってみればタテマエと判ってきた。そうではなくて、連中はゲバ棒を持ちたいから持っているんだ、ゲバ棒を振り廻すこと自体によろこびを感じているんだという気がした。[6] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 学費値上げ反対とか、医師国家試験制度などというような実務的な問題を言いがかりとして、「ゲバ棒を振り廻すこと自体によろこび」を感じるような暴力的な運動が、国民の支持を得られるはずもなかった。学生運動は数年のうちに衰退した。下に続く
2015/09/09
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上からの続き■5.サークルの10人のうちの4人が内ゲバで殺された 大方の学生が学生運動に見切りをつけて「ノンポリ化」する一方、残った過激派学生はますます先鋭化し、内ゲバ(過激派派閥間の内部抗争)で殺し合いまでするようになっていった。 昭和48(1978)年に東京大学経済学部に入った池田信夫氏は、社会科学研究会の部長を務めた。この会は、60年安保の時に歴史学研究会とともに、過激派学生の拠点となり、合わせて100人以上の部員がいたらしいが、池田氏の頃は10人くらいに減っていた。その10人のうちの4人が、内ゲバで殺されたという。__________ 今でも記憶に残っているのは、梅田順彦という学生だ。まじめな学生で、サークルに入ってきたときは「経済学部で過渡期経済論をやりたい」といっていた。・・・それがしばらくすると、黒田寛一や梯(かけはし)明秀などの革マル派の教祖の本から引用した話を呪文のように繰り返して「中核を打倒することが革命の第一歩だ」などというようになった。 そのうち梅田はサークルに出てこなくなり、生協の前でアジ演説をやり始めた。「こんな所にいたら危ないぞ」といったら、「大丈夫だよ。みんなの見ている前が一番安全なんだ」と笑っていたが、1975年十月、衆人環視のなかで数人に取り囲まれて鉄パイプでなぐられた。頭蓋骨折で、即死だった。おびただしい血が食堂前まで広がって一帯が立入禁止になった。革労協が犯行声明を出したが、犯人は不明だった。 党派に入って1年もたたない彼が、東大にいなかった革労協に殺されたのは、その直前に静岡で革マルが革労協の活動家を殺害した報復だった。誰でもよかったのだ。[7,位置No.111] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ こうして全国で100名以上の学生が内ゲバで殺されたという。[8] 中国の「文化大革命」や「天安門広場」と同様の虐殺が、小規模ながら日本でも起きていたのである。■6.「体制側に転向した裏切り者」 過激派の内ゲバなどで世間から愛想をつかされた戦後左翼は、公害反対運動に活路を求めた。公害は資本主義のもたらす「矛盾」であり、公害病患者がプロレタリアートに代わる「非抑圧者」という同工異曲の構図である。 反公害運動の草分けの一人が中西準子だった。参議院議員まで務めた共産党員の子として生まれ、マルクス主義の影響を受けた中西は、東大の助手時代に反公害運動に身を投じ、23年間も助手生活を余儀なくされた。 しかし、中西は反対だけでは何も変わらないと気づき、それまでの流域下水道に代わって、小規模下水道を提案する。汚水をきれいな水に混ぜて処理する流域下水道に対して、汚水だけを分けて処理する方がコストが安いので、全国の市町村が中西の提案を受け入れた。__________ 純粋な「汚染ゼロ」の心情論理を主張した人々は何も変えられなかったが、汚染のリスクを最小化した中西は日本の下水道を変え、環境を改善したのだ。[8,1737] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 反公害運動を進める戦後左翼は中西を「体制側に転向した裏切り者」と呼んだ。彼らが真に公害問題の解決を願っていたのなら、それに貢献した中西に感謝・評価するはずである。 それを逆に「体制側に転向した裏切り者」と悪罵を投げつけるのは、彼らの狙いが公害問題の解決ではなく、公害問題を利用して「体制側」を転覆させることだからだ。公害問題という「矛盾」を改善することは「体制側」を延命させる裏切り行為となる。公害の被害者の人権などはどうでもよいのである。 同じ事が近年の反原発運動にも言えよう。原発をなくして、電気代が上がろうと、火力発電による環境汚染が進もうと構わない。原発に代わる代替エネルギーの現実的な提案もしようともしない。「反原発」とは単なる「反体制」の幟(のぼり)に過ぎない。■7.戦後左翼の残党が民主党政権を作った このように戦後左翼はもう半世紀も前から挫折し、堕落してきたのだが、その残党は、まだあちこちにしぶとく生き残っている。 たとえば、民主党政権で首相を務めた菅直人は、かつて学生運動の中心人物であり、大変なアジテーターだった。数百人規模の学生を扇動してデモを始めるが、本人は4列目にいて、前の3列までが警察に捕まる間に消えてしまう。だから、菅は「第4列の男」と呼ばれた。[d] そんな人物が、その後、市民運動を経由して、民主党に入り、首相まで務めた。菅は「議会制民主主義は期限を切った、あるレベルの独裁を認めること」と発言しているが、衣の下から戦後左翼の鎧が見える。 その菅政権で官房長官を務めた仙谷由人は東大時代に全共闘の活動家だった。安田講堂占拠の際も弁当運びなどをしていたようだ。仙谷も「自衛隊は暴力装置」などとお里が知られる発言をしている。 以上のように、戦後左翼の系譜を辿ってみると、一貫して法と民主主義、人権を無視して、暴力によって権力を握ろうと闘争を続けてきたのが正体であることが判る。彼らが権力を握れば、天安門での中国共産党のように、民主化を求める青年たちを戦車で轢き殺すだろう。 西側先進国で、わが国ほど、政治、マスコミ、法曹、教育の各界で、いまだに左翼がしぶとく巣くっている政治的後進国はない。わが国が中国に隷従すれば、戦後左翼が一気に息を吹き返して、自由と民主、人権と平和を求める日本国民を暴力で抑え込むだろう。 安倍首相の進める安保法制改革は、そんな事態を防ぐための戦いだ。だからこそ、彼らは安倍首相に悪罵を投げつけるのである。(文責:伊勢雅臣)
2015/09/09
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転載記事****◆中西輝政『日本人として知っておきたい外交の授業』を読み解く※要旨・同盟の本質とは、約束を信じられる心理あるいは互いの絆に賭けようとするスピリット、精神にあるのですから、日米でいったん合意した重要な約束事が守れなくなると、精神的な生命力の枯渇が進むことを案ずるべき。・普天間基地からの辺野古への移転は、誰がなんと言おうと実現しなければ日本は終わり。辺野古移転の話が流れてしまえば、おそらく日米同盟体制そのものが根本から崩壊する。・2005年、自民党の憲法改正草案の前文を書いたのが、中曽根康弘氏。「日本国民はアジアの東、太平洋と日本海の波洗う美しい島々に、天皇を国民統合の象徴としていただき、和を尊び、多様な思想や生活信条をおおらかに認め合いつつ、独自の伝統と文化をつくり伝え、多くの試練を乗り越えてきた」現在の前文に比べて格調があって素晴らしいと思う。しかし、舛添要一氏らリベラル中道派によってバッサリ削られた。・明治維新は民主的な手続き、具体的には選挙によるものではない。桜田門外の変を筆頭に、すべて「テロ」によって成ったもの。歴史的に見れば、明治維新とはテロリズム革命と軍事蜂起であり、「王政復古の大号令」や「鳥羽伏見の戦い」などは完全なクーデター。とりわけ小御所会議における脅迫的な会議運営や王政復古の大号令は、岩倉具視と大久保利通の二人による「決死の共謀」によって成ったもの。明治維新はいわば陰謀によって成功したとも言える。・たとえば日本に来た外国人に「日本はどんな国ですか、教えてください」と尋ねられたとき、簡潔な短い表現で日本を表現するとしたら、どのように伝えるでしょうか。こうした質問では普通、諸外国の多くは「その国が世界をどう見ているか」と知りたがる。端的に言えば「世界観」。世界の人々は、日本には天皇がおり、島国の列島で、自然が豊かで繊細な文化があることも、なんとなく知っている。しかし、それだけでは日本に本当に興味を持っている外国人には物足りない。さらに深い興味を喚起するために、「日本にはこんな神話があります」「日本の国の成り立ちはこう伝えられています」といったら、どんな神話なのか強い興味を示すでしょう。古事記のイザナギとイザナミの話をすれば、相手は喜びますし、繊細な感覚のある「面白い国」だといっそう興味を持ってくれる。・神話というのは、おそらく皆さんが想像している以上に大事なもの。どの国であれ、国家の本質や国民の心の動き、社会の構造、人間関係の基本を知ろうと思ったら、その国の地域の神話を知るのが最も早い。・ソ連のスパイ、リヒャルト・ゾルゲは日本語は話せなかったが、日本という国の本質を短期間で理解するため、きわめて熱心に神話の研究に取り組んだ。『古事記』『日本書紀』から入り、あらゆる欧文訳のある日本神話を読んでいる。そして「3ヶ月で日本を理解した」と言っている。ゾルゲはスパイなので、日本の体制の中に深く入り込まなければならない。それは皇室であり、政治家や軍人の世界。・日本のリーダーの姿を論じる前提は、まず何より「日本を知ること」から始めなければならない。・過去の日本のリーダーで興味深いのは吉田茂。吉田は、耕余義塾で中等教育を受け、その後、10年ほど様々な学校を渡り歩いている。興味深いのは、国粋主義者の杉浦重剛らが設立した日本中学(現・日本学園高校)という、当時でも変わり種の私立学校で超保守的な教育を受けていることだ。・杉浦重剛は、昭和天皇が学習院初等科を卒業された後、1910年代に宮中の東宮御学問所で学ばれたときの御進講役だった。御学問所の総裁は、東郷平八郎で、杉浦はその下で昭和天皇の若かりし頃の基礎教育、とくに道徳や修身を徹底的に教育したといわれている。その杉浦が、吉田茂の通った日本中学の創設者であり、精神的支柱だった。明治初年から杉浦は五年間もイギリスに留学して、ケンブリッジ大学を卒業した。専門は自然科学で、西欧合理主義の思考を徹底していた人。しかし、あるいは、それゆえ彼の精神論は、当時、大正期の基準で言っても「右翼」的なものだった。大正デモクラシーなどは完全に否定し、天皇機関説を唱えた美濃部達吉を「不敬の至り」として徹底攻撃した。・こうした教育を10代に叩き込まれた吉田茂の根幹にある国家観や歴史観は、戦前の日本人エリートから見てもいびつなほど「右寄り」だと見られていた。結論を先に言えば、だからこそ吉田はあの激動の時代を生き抜くことができたのだ。・吉田茂のリーダーとしての業績は一見、彼の思想やイデオロギーと両立できないように思われる。ところが吉田は、それを両立させた。そう思えるのは、『古事記』『日本書紀』から南北朝時代を通じて戦後に至るまで、天皇を中心とする日本国家の歴史が彼の中を貫いているからだ。この揺るぎない軸があるからこそ、敗戦という前例のないショックを受けても、「一からやり直せばよい」という覚悟を早々に固めることができた。12歳から徹底した皇国教育を受けてきた吉田の身体には、2600年にわたる日本の歴史が染み付いていた。・「頑固一徹」といわれた吉田茂の精神力は、どこから来るのだろうか。それはたんに個人の性格に帰するものではない。そのバックボーンこそ、一本筋の通った根深い世界観から来るものだった。日本という国はどんな国か。それは、たとえば二千年前から日本には皇室が連綿と続き、現在はそのケシ粒のようなひとこままで、そのなかで自分たちはこの縦の流れを続かせるお手伝いをしているだけだ、という価値観だ。・神話によって、天皇の祖先は神様と結びついている。だからこそ、この伝統を絶やすわけにはいかない。皇室を残すためなら、GHQの考えた奇矯な憲法も受け入れ、マッカーサーとも仲良くやっていく。この透徹した国家観に裏打ちされた徹底的なプラグマティズムが、吉田のリーダーシップの核心である。あの訳の分からない自信は、その裏に強固な日本アイディンティティの安定感があったからだ。・「日本人がインテリジェンスや戦略的思考の分野で世界基準に追いつくには、どうしたらいいですか」という質問を受ける。そのとき私は、次のように答える。「手っ取り早く戦略的思考を身につける方法はある。それは『日本人であることをやめること』です。日本人の行動原理を守る限り、世界水準には永久に追いつけない」これが私が四十数年間研究してきた末の、偽らざる結論です。・戦前も吉田は、日本人離れした外交手腕を発揮した。その一方で、物事をはっきりさせる必要がないときは、思いっきり無原則な言動をした。「憲法9条、いいじゃないか。日本は自衛権を放棄したのだから、未来永劫、軍隊を持つ必要はない」などと平然と国会で答弁している。共産党のほうが「それでは具合が悪いのではないか」と質問したほど。人間の幅がとても広く、根性が据わっている。これほどの変幻自在が可能なのは、吉田がある意味で「日本人ではなかった」から。嘘を平気で言える。自分の信念に完全に反することも言える。・こんなこと一人でできる人間は、よほど図太い。しかし、吉田にとっては「国体の維持」つまり皇室の存続こそが根本で、それに準じてさえいれば細かいことはなんら構わない。自らの心に期したその自信があったからこそ、どんな「デタラメ」でも平気でやり抜いたわけ。こういう人を「超日本人」と呼んでいる。数千人の「超日本人」がいれば日本が変わる。・リーダーには「金融」「文明」「インテリジェンス」の教養が必須である。・40年前にイギリスに留学したとき、「日本を知る鍵は、その卓越した歴史の連続性を深く理解することにある」と喝破し、今日の私の国家観・歴史観の完成へと大きく方向を示してくれた恩師、故ヒンズリー教授に本書を捧げたい。※コメント中西氏いわく、日本を変えるには、数千人の超日本人が必要であるとのこと。日本にもそういった人々はいると思う。今後も、「金融」「文明」「インテリジェンス」に関する情報を配信していきたい。
2015/09/09
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転載記事*********■■ Japan On the Globe(913) ■■ 国際派日本人養成講座 ■■ Media Watch: 「歴史戦争」を斬り返す ~ 渡部昇一『歴史の授業』から「我々の子孫にそんな思いをさせては、いかんのですよ」との思いで、85歳の老碩学が「歴史戦争」を戦っている。■1.「我々の子孫にそんな思いをさせては、いかんのですよ」 現代日本の最高の碩学の一人、渡辺昇一・上智大学名誉教授は85歳の高齢にもかかわらず、「従軍慰安婦」捏造報道[a]に対して『朝日新聞を糾す国民会議』の議長に就任し、日本裁判史上最大の2万5千7百人もの原告団を代表して集団訴訟を率いている。 氏の講演集『歴史の授業』(CD全3巻)[1]では、冷静な話しぶりの陰に、我々の子孫のために言われなき日本の恥辱を晴らそうとする氏の真心が響いてくる。氏はこう語る。(弊誌で講演内容を文章化しましたが、文意を損なわない範囲で繰り返しを省くなど簡略化しています。)__________ 朝日はついに謝罪みたいな事をしたけど、それは主として自分の読者に謝っているんですな。そんなものは痛くも痒(かゆ)くもない話でね。それで、どうしても日本の恥を雪いでもらわないと、いかんのですね。・・・ある人の話によれば、アメリカの「従軍慰安婦」の像の建った学校では、先生も説明したので、日本人のお子さんは授業の間、顔を上げることができなかった、という報道がありました。我々の子孫にそんな思いをさせては、いかんのですよ。[Disk3-2, 4:25] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄「我々の子孫のために」、その無私の一念が85歳の老碩学を動かしている。■2.朝日新聞の社長に世界で謝らせる 集団訴訟の狙いを氏はこう語っている。__________ その趣旨は、日本人が蒙った恥をどうして雪ぐか、ということです。僕等が考えているのは、まず朝日新聞の社長が、アメリカで慰安婦の像を立てている市の市長を訪ねて回る。「これはこの街に住んでいる韓国系の人たちがいろいろ言ってきたんでしょう。それはすべて私の新聞のインチキ記事によるものでありました」と謝って貰う。これは効くと思うんですよ。・・・インチキ記事に基づいた慰安婦像なんか建てておくわけにはいかんじゃないですか。・・・ それから国連の人権委員会に行って貰わねばならない。クマラスワミという女性が、日本軍は朝鮮の若い女性を20万人、拉致して、天皇の兵隊のセックス・スレーブ(性奴隷)にしたと批判している。そして日本の政府が言っても、まだ取り消さない。 取り消させるには、やはり朝日新聞の社長に行って貰うより、しようがない。「あなたが日本を批判されました。その根拠になったのは、すべて私の新聞のインチキ報道によるものです」と言って、深々と頭を下げて貰えば、クマラスワミだって「いや、それでも」などとは言えない。 それを朝日新聞社に言っても、聞かないですよ。だから成功するかどうか、分かりませんけれども、裁判所に訴えます。裁判所命令で謝ってもらうような指示を出して貰いたいと思っているんですね。[Disk3-2,5:50] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 慰安婦像を建てたアメリカの市長や、クマラスワミに、彼らの依拠している朝日新聞の記事は捏造であることを、朝日新聞の社長自身に謝らせる。こういう相手の論拠を一言で打ち砕く論法を、渡部氏は「斬り返し」と呼んでいる。■3.「毒ガスで良かったんじゃないですか」 歴史戦争に勝つためには、百の論より一つの「斬り返し」が有効だ。その分かりやすい例として、渡部氏は以下のようなエピソードを紹介している。 ベルリンで国際学会があった時、お茶の席で、あるユダヤ人が「原爆は戦争を早く終わらせて、被害を少なくするために使われたそうですね」と言った。渡部氏はすぐに、こう斬り返した。「戦争を終わらせるために、どんな手段を使ってもいいというなら、毒ガスで良かったんじゃないですか」と。そうしたら、そのユダヤ人はハーッとして、「それは考えなかった」。 言うまでもなく、毒ガスはナチスがユダヤ人大量虐殺に使った違法手段である。原爆はその毒ガスと同じだと言われれば、ユダヤ人には返す言葉がない。これこそ一言で相手の論をぶった切る痛烈な「斬り返し」である。■4.「あなたは蒋介石さんよりも、よく当時の情勢を知っているんですか」 東京裁判では、ナチスのユダヤ人虐殺と同様に、日本軍が南京で大規模な無差別虐殺をしたとされたが、これも歴史学的研究で勝負がついている。弊誌でも紹介したように[b]、南京学会で緻密な研究が進められ、もはや南京で20万人も殺害されたと公の場で主張する学者は一人もいなくなった。 台湾で蒋介石の資料が出てきて、日本軍の「虐殺」を最初に報道した『マンチェスター・ガーディアン』のオーストラリア人記者は南京にはおらず、上海で記事を書いたこと、しかも蒋介石政府からお金を貰って書いていた事が判っている。 蒋介石は実際の武力戦では日本軍に全く歯が立たなかったので、せめて報道戦では勝とうとしたが、支那人が言ったのでは世界の誰も信用しないので、白人に金を渡して虐殺の記事を書かせたのである。 しかし、蒋介石自身は、嘘をつきたくなかったらしい。南京から落ち延びて、2、3百回も外人記者と会話をして、その資料も台湾にあったが、蒋介石は一度も大虐殺を口にしていない。__________ もし、大虐殺なんかを言う人がいたら、「あなたは、よく知ってますね。一番よく知っているはずの蒋介石さんも、一度もそんな事を言わなかった。あなたは蒋介石さんよりも、よく当時の情勢を知っているんですか」と聞いてやりたいですね。それは斬り返さないといかんのです。[Disk3-2,19:36] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄下に続く
2015/09/09
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上からの続き■5.「支那事変を日本が始めたとは東京裁判でも認めなかった」 日本が中国を侵略した、というのも、中国の仕掛ける主要な歴史戦争の一手だが、これについても単純明快な斬り返しが可能だ。__________ あの日本を裁くための東京裁判ですらも、開戦責任が日本にあるとは言わなかったのです。 これは判りきった話で、昭和12年7月7日の盧溝橋事件でも向こうから撃ってきて、話がついて、話がついたら、また向こうから撃ってきて、というような事を何度か繰り返しまして、結局、日本軍に向こうの地方の軍の一番上の人が正式に謝っていますよ。 それから、8月13日にいきなり上海で戦争が起こりました。これは中国には珍しく、当時の蒋介石の虎の子の飛行機が出てきて、爆弾を落としているのですよ。 日本の船に爆弾を落としたんですが、当たらなかった。上海の百貨店やホテルに当たって、後に日本への大使となったライシャワーさんのお兄さんも、その時に死んでいるんですよ。どこから見ても、100%、向こうの攻撃であることは皆、認めている。 ですから、「支那事変を日本が始めたなんてことは、東京裁判でも認めなかった」と断言すれば、よろしい。[Disk3-2,14:05] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 開戦責任が中国にあるならば、その後、中国大陸に広がった支那事変も日本の侵略とは言えない。__________ 戦争を起こしたら、戦争の論理で動くんです。アメリカだって、日本を爆撃したのを非難されたら、「ハワイを攻撃したから戦争が始まった。戦争の責任はお前だ」と言うに決まってますよ。 支那人にも同じ事を言ったらどうですか。「支那事変は支那を戦場にしたけど、始めたのは手前たちだぞ。侵略なんかと言うな」と。[Disk2-1,16:24] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄■6.マッカーサー証言「日本がこの前の戦争に入ったのは、主として自衛のためであった」 こうして東京裁判では、支那事変の開戦責任を日本に押しつけることはできず、逆に原爆投下の犯罪性を問われるなど、支離滅裂の結果となった。__________ マッカーサーは東京裁判をずっと見ていて、これは無理だな、という事を悟ったんですよ。特に朝鮮戦争が起こりますとね。それで朝鮮戦争の途中に、ウェーキ島でトルーマン(大統領)と会いましてね、「東京裁判はやるべきではなかった」と。これはちゃんと(記録に)残っていますし、産経の『正論』に出た事があります。 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ この時、マッカーサーは朝鮮戦争に勝てないことに腹が立っていた、という。日本軍を押しまくったアメリカ軍の力はすごかったが、それを考えると、なぜ朝鮮半島で、こんなにモタモタしているのか、当時、大学2年生だった渡部氏も不思議に思ったという。 これは後で判ったことだが、マッカーサーに勝たせないという策謀がワシントンで決められていた、という。港の船を沈めたり、橋を爆撃すれば、北からの攻撃を止めるのは簡単だったが、それをマッカーサーは禁じられた。マッカーサーは、それなら原爆を使わせてくれ、と言って、トルーマンに罷免された。 弊誌441号「中国をスターリンに献上した男」[c]でも紹介したが、当時、米国の上層部ではソ連のシンパが暗躍していたのである。__________ だから、私は、マッカーサーが呼び戻されて、上院の軍事外交委員会でアジアの情勢を語る時は、国に腹を立てていたと思うのです。だから、こんな事を言ったのですね。「我々は日本を犯罪国家として決めつけた。戦争中、日本を悪魔のように思って戦った。本当はそうではない。自分は日本を統治して、よく知っている。」だから、東條さんが(東京裁判で)言ったようなことを引用して、"Their purpose in going to war was", 「彼らの戦争に入った目的は」、"largely dictated by security", 「主として自衛のためであった」と言っているのですよ。[Disk3-2, 29:10] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ このマッカーサー証言は「日本が侵略戦争をした」という史観に対して、最大の斬り返しになる事実である。■7.「ああ、日本のマスコミもひどいなあ」「これを日本は使ったことがないのですよ。日本の外務省もマスコミも」と渡部氏は批判する。秘密文書でもなんでもない、「ニューヨーク・タイムズ」に出た記事なのに。__________ 外務省もマスコミも、これを手に入れなかったはずはない。朝日新聞の縮刷版を見ますと、マッカーサーの証言はみな載っています。ただ、私が今、引用した所は抜けているのですよ。[Disk3-2, 31:00] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ この証言の翌年4月には占領が終わっているので、マッカーサー証言を自由に報道することはできたのに、それをしなかった。__________ 昭和27(1952)年に、朝日新聞がそれを出してくれていたら、、、「この国のかくも卑しくなりたれば捧げし人のただに惜しまる」という、愛する夫を「お国のために」と捧げた未亡人がいた。それが「日本の方が悪かった」と言われて、「ただに惜しまる」と。それはある未亡人ですけれども、自分の息子を失った母親も、自分の兄弟を失った弟、妹、そういう人たちも、みな「ただに惜しまる」と。昭和27年なら、だいたいの人は生きていましたよ。それを考えると、「ああ、日本のマスコミもひどいなあ」と思うんです。[Disk3-2, 31:50] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ この先人の無念を思いやる心は、「我々の子孫にそんな思いをさせては、いかんのですよ」という氏の一念に通じている。■8.「我々は論ずれば必ず勝てるんです」 このマッカーサー証言を斬り返しに使って、アメリカ人に歴史の真実を説き続けていくべき、と氏は説く。__________ アメリカから変えないと歴史戦争は勝てない。幸いに、この頃はアメリカの方でルーズベルトが戦争を仕組んだということが元大統領の言葉とか、一流の歴史家からポツポツ出始めました。もう少し時間が経てば、アメリカの知識階級から「この前の戦争は、日本だけが悪い、と言ってはいかんな」という話になると思うのです。 それが、日本の歴史戦争に勝つ一番の確実な道ですからね。習近平がなんと言おうと、朴槿恵がなんと言おうと、我々は論ずれば必ず勝てるんです。・・・ マッカーサー証言は、その転換の一番の基本になるものです。日本を侵略国と決めた東京裁判を行ったマッカーサー自身が公の場でそれを否定したということ。「日本の戦争は自衛戦だった」ということは、日本人すべての人が暗記して、もしも日本の悪口を言う奴がいたら、それを引用できるような状況にしておくべきじゃないか、と考えている次第です。[Disk3-2, 33:50] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄「我々の子孫にそんな思いをさせては、いかんのですよ」という老碩学の真心を一人でも多くの日本国民が共有して、歴史戦争を一緒に戦っていくべきだろう。(文責:伊勢雅臣)
2015/09/09
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転載記事***■■ Japan On the Globe(912) ■■ 国際派日本人養成講座 ■■ 国史百景(15): 終戦を支えた皇族たち 789万人の陸海軍将兵に戈(ほこ)を収めさせるために、昭和天皇の大御心を説くべく、皇族たちは戦地に向かった■1.「不退転のご決意を秘められた荘厳なお姿」 昭和20(1945)年8月12日、在京の皇族男子全員12人が宮中の御文庫付属室に呼ばれた。空襲で宮殿も焼け落ち、分厚いコンクリートで覆われた暑く湿度の高い御文庫に、両陛下は住まわれていた。 お出ましになった昭和天皇の憔悴されたお姿を目のあたりにして、竹田宮恒徳(つねよし)王は「天皇陛下は今まで拝したことのない程に緊張された御様子」「しばらくお目にかからない間に、なんと深いご心労を宿されたことか」と思った。 8月9日深夜の御前会議で、昭和天皇の御聖断の下に、最高戦争指導者会議と閣議でポツダム宣言受諾の政府決定がなされた。しかし、このまま戦争を無事に収拾できるのか、降伏後の日本がどうなるのか、については五里霧中の状態だった。[a] 集まった皇族方に、昭和天皇はこう話された。__________ 私自身はどうなってもよいから、ここで戦争を止めるべきだと思う。そこで自分は明治天皇の三国干渉当時の御心労を偲び、ポツダム宣言を受けて、戦いを止める決心をした。どうか私の心中を了解してくれ、そしてこれからは日本の再建に皆真剣に取り組んでもらいたい。[1,p170] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ そのお姿に触れた時の思いを、竹田宮は後にこう記している。__________ ふだんはむしろ女性的にさえ思えるほど、お優しい陛下が、この日本存亡の際にお示しになった、不退転のご決意を秘められた荘厳なお姿を、私は生涯忘れることができない。 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 最年長の梨本宮が、皇族全員を代表して「陛下の御英断に謹んでお従い致します。そして今後共国体の護持に全力を尽します」と奉答した。■2.「自分の心中をよく第一線の将兵に伝えて欲しい」 8月15日正午の玉音放送により、昭和天皇が直接、国民に終戦を告げられた。その翌日、朝香宮(あさかのみや)鳩彦(やすひと)王、東久邇宮(ひがしくにのみや)稔彦(なるひこ)王、竹田宮恒徳王、開院宮(かんいんのみや)春仁(はるひと)王に、昭和天皇から突然の御召があった。 東久邇宮以外の3名が、まず昭和天皇の御前に案内された。昭和天皇は14日と同様の緊張した面持ちで、こう話された。__________ 終戦をつつがなく行なうために、一番心配なのは現に敵と向かい合っている我が第一線の軍隊が本当にここで戈(ほこ)を収めてくれるという事だ。蓋(けだ)し現に敵と相対している者が武器を捨てて戦いを止めるという事は本当に難かしいことだと思う。しかし、ここで軽挙盲動されたら終戦は水の泡となる。自分が自ら第一線を廻って自分の気持をよく将兵に伝えたいが、それは不可能だ。ご苦労だが君たちが夫々手分けして第一線に行って自分に代わって自分の心中をよく第一線の将兵に伝え、終戦を徹底させてほしい。急ぐ事だから飛行機の準備は既に命じてある。ご苦労だがあした早朝発ってくれ。[1,p173] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 当時、陸海軍合わせて789万人の将兵がおり、特攻に使える航空機も6千機は残っていた[b]。特に中国大陸では、陸軍が国府軍を圧倒しており、突然、降伏を命ぜらたからと言って素直に従ってくれるかどうかは、まったく不明だった。 もし、前線や日本本土で降伏を潔しとしない陸海軍将兵が戦い続けたら、終戦は有名無実となる。イタリアのように内乱状態になるか、ドイツのように全土占領されるまで戦いが続くことになるか、のどちらかだった。いずれにせよ、民の苦難は続く。 昭和天皇は、これを恐れて、三方の宮を御自身の代理として戦地に派遣して、無事に戈を収めるよう説得しようとされたのだった。朝香宮は支那派遣軍に、竹田宮は関東軍と朝鮮軍に、そして開院宮は南方総軍にそれぞれ天皇の特使として終戦の聖旨を伝達しに行くことになった。■3.「満洲帝国皇帝の亡命を助けよ」 東久邇宮には、終戦決定の後に総辞職した鈴木貫太郎内閣の後を継いで、組閣の大命効果があった。誰も経験したことのない降伏後の混乱は、これまた昭和天皇の分身としての皇族内閣により乗り切るしかない、という判断だった。 皇族が政府の長となるのは、明治政府が樹立された時に、有栖川宮(ありすがわのみや)熾仁(たるひと)親王が「総裁」の地位に就いて以来のことであった。 その日の午後、東久邇宮は組閣で忙しい中、竹田宮を呼び出して、東郷外相とともにこう依頼した。__________ 竹田さんは満州に行くそうだが、もしできたら薄儀(ふぎ)満州国皇帝に会って、皇帝が希望されたならば、一緒に日本へ連れてきてもらいたい。もちろん、あなたの本来の任務は聖旨の伝達にあるのだから、無理をしてまでとの依頼ではないのだが。 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 竹田宮は、つい7月まで関東軍参謀として満洲帝国の首都・新京(長春)に赴任していたから、ソ連軍と中国軍の進駐を目前に控えた現地の混乱ぶりは容易に想像できた。果たして無事に帰れるかも分からないと思って、身辺の整理を始めた所に、さらにこの依頼である。■4.「皇族の三人や五人は死ね」 明治天皇は「男子皇族は軍人となって政治に関与すべきではない」との思召(おぼしめ)しを示され、竹田宮も軍人として生きてきた。 竹田宮恒徳王は昭和13(1938)年に陸軍大学校を卒業したが、軍の首脳部は宮をあくまで安全な場所に配置しようとした。皇族を戦死させては、という心配が軍の内部にはあったからだ。しかし、竹田宮は、陸軍省の人事局局長と電話で激しく口論した末に、中隊長として中国の前線に赴くことになった。 ただ、戦闘に加わる以上、皇族の身分を隠した方がよいということになって、「竹田宮」をひっくり返し、「竹」を「武」に代えて、「宮田武」とした。以後、「宮田参謀」が皇族であることは、軍の中でもごく一部しか知らなかった。 後に、大本営勤務となった際に、南洋方面の戦略検討のために、参謀次長と軍令部次長がラバウルの前線司令部に出向くことになった時も、竹田宮は随行を願い出た。しかし、杉山参謀総長と東條陸軍大臣は頑として聞き入れない。竹田宮は眼に涙を浮かべながら、上司の辻政信班長に嘆願した。__________ 班長さん、御願ひです。私を、ラポール(ラバウル)にやるやう、総長、大臣に班長から是非もう一度、申上げて下さい。私が皇族なるがため、当然なすべき仕事をさせて貰へないなら、今すぐ大本営参謀をやめさせていたゞきます。この大戦争に、もし、明治天皇様がお出になりましたなら、きつと、皇族の三人や五人死ね!! と仰言るでせう。[1,P197] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 竹田宮の迫力に押された辻班長は、杉山総長に宮の思いを伝えると、「そうか、それほどの御決心か!」と涙を拭い、万一のことがあったら切腹する覚悟を固めて、自ら東條大臣を説得した。東條大臣も涙ながらに、これを許したという。 竹田宮恒徳王の母親は、明治天皇の皇女・昌子内親王だけに気骨ある母親で、「皇族の三人や五人は死ね」とはその母からの手紙の中の一節であった。下に続く
2015/09/09
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上からの続き■5.聖旨伝達 竹田宮は8月17日朝、東京・立川から専用機で飛び立った。到着した新京では、関東軍総司令官山田乙三大将以下の幕僚が、司令部2階の広い総司令官室を埋め尽くした。 竹田宮は、昭和天皇が仰せられたお言葉を詳しく語って、御決意を伝えた。「どんな返答が戻ってくるか、この時ほど心配したことはなかった」と宮は後に書き記している。厳粛な空気の中、山田大将は「謹んで聖旨に沿い奉ります」と奉答した。誰もが目頭を熱くしていた。 翌18日朝、竹田宮を乗せた飛行機は奉天(瀋陽)に向かって飛び立ったが、間もなく故障を生じて、新京に引き返した。幸い、故障は1時間ほどで修理できて、再び、奉天に向かった。翌19日にはソ連軍が進駐したので、もし修理が長引いて、新京にもう一泊していたら、ソ連軍の捕虜としてシベリアに連行されていたろう。 奉天に着いた竹田宮は満洲南部で治安維持に当たっていた第3方面軍司令部で同様に大御心を説き、さらにその日のうちに京城(ソウル)に飛んで、朝鮮軍司令部にも同じく聖旨を伝達した。 竹田宮の搭乗した飛行機は、4機の戦闘機「隼(はやぶさ)」に護衛されていた。いずれも若く優秀なパイロットで、竹田宮は京城に着いて、彼らと別れる際に、厚く礼を述べ、固い握手を交わして「今後、いろいろの情勢になろうが、くれぐれも自重して、日本の再興に尽くしてくれ」と言った。 しかし、4機が奉天に戻ると、飛行場にソ連機が並んでいる事を目撃し、既にソ連軍に占拠されていることを知った。4機は垂直に急上昇してから、編隊を組んだまま、真っ逆さまに飛行場中央に突っ込んで、自爆した。■6.皇帝溥儀の運命 もう一つの任務である満州国皇帝溥儀の救出に関しては、溥儀は満洲と北朝鮮の国境にある通化(つうか)の山中にいることが判り、17日に幸いにも電話がつながって、翌18日午後に京城で落ち合う約束をした。 しかし、その18日には、溥儀から「小さな飛行機しかないので長白山脈が越えられないから、明日(19日)午後奉天に出る」との電報が来た。 竹田宮は新京に赴任中、皇帝溥儀とは特に親しくしていた。宮が転任で新京を去る時には、溥儀はお忍びで宮の官舎に見送りにきた程だった。 竹田宮は翌日再び、奉天に戻って、溥儀との再会を果たそうとした。しかし、阿部・朝鮮総督と上月・朝鮮軍司令官が口を揃えて、「あなたの主任務・聖旨伝達の結果を一刻も早く帰って陛下に復命し、御安心を頂かれるべきではありませんか」と反対した。この言葉に竹田宮はハッと目を覚まし、直ちに東京に帰ることとした。竹田宮は再び、命拾いをした。 溥儀にとっては、京城に直接飛べなかった事が運命の分かれ道となった。奉天飛行場に出ると、ソ連軍に身柄を拘束され、そのままシベリア送りとなった。■7.「国内での不穏な動きを抑えよ」 竹田宮は8月20日、無事に帰国し、復命することができた。同様に、サイゴン、シンガポールで南方軍に聖旨伝達した閑院宮、支那派遣軍に伝えた朝香宮も、それぞれ任務を終えて、帰国した。 帰国して2日後の8月22日、昭和天皇から竹田宮に3度目のお召しがあった。昭和天皇は、占領軍の本土進駐に際して、反乱などがあってはならないと心配され、不穏な動きが報告されていた福岡の陸軍航空部隊と、広島県宇品(うじな)の陸軍船舶司令部に行って、自重するよう聖旨の伝達を竹田宮に命ぜられた。竹田宮はすぐに福岡と宇品に行き、それぞれ戈を収めさせた。 8月26日には、連合軍の先遣隊が神奈川の厚木飛行場に降り立つ日だったが、そこを本拠とする相模原航空隊は進駐軍を撃退すべく演習を続けていた。海軍上層部はこれを抑えようとしたが、言うことを聞かない。昭和天皇に差し遣わされた弟宮の高松宮が直接説得することで、ようやく24日の夕方、強行派は厚木飛行場を明け渡した。 翌25日には米軍機が東京上空を盛んに飛んだので、厚木飛行場の武装解除が半日遅れたら、戦闘状態になった可能性もあった。 こうして789万人もの将兵が、君主の号令一下、整然と戈を収めたのは史上でも例のない見事な降伏ぶりであったが、その背景には、各皇族が昭和天皇の分身として、自分の身はどうなっても良いから民を助けたい、という大御心を内外の将兵に伝えたからであろう。■8.歴代天皇陵への代拝 終戦の混乱も落ち着きかけた11月29日、7名の皇族をお召しになって、123代に及ぶ歴代天皇の御陵に代拝を依頼された。 このような終戦は自分の不徳の致すところで、それを歴代天皇に謝り、日本の今後の復興への御加護をお願いしたい。神武天皇の畝傍陵、明治天皇の桃山陵、大正天皇の多摩陵は御自身で参拝するが、残りは皇族で手分けして代参してくれ、との御聖旨だった。 竹田宮は四国と淡路島を担当した。各皇族は全国に散って、代参をするかたわら、病院や行政機関などを訪問され、多くの要人や民衆と交流した。後に昭和天皇は8年半をかけて、沖縄を除く全都道府県を行幸され、数千万の国民と交流されたが[c]、この皇族方の代参はその原型とも言えるものであった。 昭和22年10月、直宮(昭和天皇の弟宮である秩父宮、高松宮、三笠宮)を除くすべての皇族、11宮家51人が臣籍降下した。皇室の力を弱めようという占領軍司令部の意向であった。 竹田宮恒徳王も竹田恒徳となったが、その後、スポーツを通じて青年のために奉仕できればと、スケート、馬術などのスポーツ連盟の会長となり、東京オリンピックや札幌冬季オリンピックの招致に貢献し、「スポーツの宮様」と呼ばれた。(文責:伊勢雅臣)
2015/09/09
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転載記事******■■ Japan On the Globe(915) ■■ 国際派日本人養成講座 ■■ 国史百景(16): 国連本部に翻った日の丸 ~ 重光葵と国連加盟 重光葵は、日本の国連加盟を実現するために、残り少ない余命を捧げた。■1.国連総会議場にて 1956(昭和31)年12月18日朝、ニューヨークは晴天で、凍てつく寒さだった。イーストリバー沿いのガラス張りの39階建ての国連本部ビル、その横の薄いベージュ色の平たい箱形の建物が国連総会議場だった。 重光葵(しげみつ・まもる)外相はダブルの背広に蝶ネクタイ、オーバーコートに中折れ帽をかぶって、大きなガラス張りのドアを押し明け、総会場に入った。中は暖房が効いて温かい。随員たちと和服姿の娘、華子が後に続く。 高い天井の下の広大な空間に、びっしりと机が並び、世界各国の代表団が着席していた。重光は議場内の席に案内された。重光が着席するのを待って、51カ国もの共同提案による日本の国連加盟案が提出され、全回一致で承認された。議長が「日本の国際連合への加盟が決定しました」と宣言し、割れるような拍手が湧いた。 スピーチの指名を受けた重光が立ち上がる。右足が義足のため、杖をつき、足を引きずりながら、演壇に近づく。右足を失ったのは、昭和7(1932)年、中華民国への公使時代に、上海での天長節祝賀会で朝鮮人テロリストに爆弾を投げらたからだった。[a,b] 演壇は半円形で、4段の階段がぐるりと取り囲んでいた。その階段を、重光は一段一段、昇っていった。■2.「君に、国際連合への加盟を実現してもらいたい」 国際連合への加盟は、亡き松岡洋右(ようすけ)が死の直前に、巣鴨刑務所で重光に頼んだことだった。この時、重光も戦犯容疑者として、巣鴨にいた。 一貫して戦争を避けようと努力した重光を戦犯容疑者として逮捕したのは、ソ連の仕業だった。かつて外務次官の頃に、一様に共産化を恐れる欧米列強に対して防共協定を提案したことがあり、それを恨まれていたのである。 松岡は、特別に重光との面談を依頼し、3分間のみ英語で話すという条件で許された。車椅子の松岡はこう語った。__________ 君に、国際連合への加盟を実現してもらいたい。僕が席を蹴って立った国際社会に日本を戻してほしいのだ。どうか、君の手で、国際社会復帰を、果たしてくれ。この思いを、君に託さなければ、僕は死んでも死にきれない。 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 鋭さを失った松岡の目に涙が光っていた。「僕が席を蹴って立った国際社会」とは、松岡が1933(昭和8)年2月に、国際連盟総会で満洲国に関するリットン調査団報告書が採択された際に、席を立ったことである。これが契機となって、日本は国際連盟から脱退した。 松岡の国際連盟総会退場は、国民から喝采を浴びたが、実は本意ではなかった。イギリスの代表団は、非公式に松岡に提案してきていた。「満洲での日本の利権を認めるから、いちおうリットンの報告を汲んで、顧問団を受け入れろ。その顧問団は日本人を主体にする」というのだ。 松岡は「この提案を受け入れるしかない」と東京に打電したが、単なる口約束だと一笑に付されてしまった。「このままでは連盟による経済制裁が待っている」と再度、打電したら、その返事は「ならば脱退してしまえ」という指示だった。 松岡は国際連盟脱退を深く悔やんでいて、重松に今生の頼みを託したのである。■3.「私は、とにかく国交を回復できればいいんです」 東京裁判では禁固7年の刑を受けたが、4年半の拘留の後、昭和25(1950)年11月21日に仮釈放された。64歳になっていた。 この年、日本は国連加盟を申請していたが、ソ連が拒否権を発動した。常任理事国の1国でも拒否すれば、加盟は認められない。ドイツでも朝鮮半島でも、アメリカとソ連の冷戦が激化しており、日本が国連に加盟すると、アメリカの発言力が増すことをソ連は嫌ったのだ。 昭和29(1954)年、鳩山一郎内閣が誕生すると、重光は9年ぶりに外務大臣に返り咲いた。まず注目したのは、インドネシアのバンドンで開かれるバンドン会議だった。アジア、アフリカの有色人種の国際サミットで、重光は腹心の加瀬俊一を送って、各国の日本加盟への支持をとりつけた。 次に重光は国連本部に出向いて、総会議場のラウンジで、レセプションを主催した。飲み物を片手に、和やかな雰囲気の中で、重光は国連事務総長や各国代表に、日本の加盟支持を訴えた。 3ヶ月後、国連の理事会で、日本の加盟に関する二度目の審議が行われたが、またもやソ連の反対で否決された。 ソ連はアメリカ主導のサンフランシスコ講和条約を拒否した。日本の国民も、日ソ中立条約を一方的に破って、満洲で日本の居留民を襲い、日本将兵をシベリアに抑留したソ連を嫌っていた。しかしソ連の反対を覆さなければ、国連加盟は望めない。重光はソ連との国交正常化に取り組んだ。 昭和31(1956)年7月29日、重光はモスクワの空港に降り立った。ソ連の外相やフルシチョフ第一書記とも会談したが、北方領土問題については、取りつく島がなかった。ここはソ連案を呑んで、領土問題を棚上げして国交正常化するしかない、と判断したが、日本政府も譲らない。重光は交渉を決裂させて帰国した。交渉失敗の批判は聞き流した。 その後、駐日ソ連大使と綿密な事前交渉を経て、妥結が可能という手応えを掴んでから、鳩山首相をモスクワに送り出した。ソ連は重光には良い印象を持っていなかったからだ。 鳩山首相は「せっかく、ここまで進めておいて、最後の仕上げをしないと、君が失敗して放り出したような印象を国民に与えるぞ」と言う首相に、重光は笑って「何と思われようと、かまいません。私は、とにかく国交を回復できればいいんです」 10月19日、鳩山はモスクワで日ソ共同宣言に調印し、国交正常化を成功させた。新聞は、鳩山の成果と書き立てた。■4.「たった今、可決されました」 昭和31年12月12日の夜、重光は外務省の大臣執務室に泊まり込んだ。この日、ニューヨークの国連本部で、安全保障理事会が開かれ、日本加盟に関する採択がなされる予定だった。結果が出次第、ニューヨークの日本領事館が国際電話を入れることになっていた。 スチーム暖房は夜間は切られてしまい、各人はオーバーコートを着込み、持ち込んだガスストーブで暖をとりながら、寒さしのぎに日本酒をちびちびやって、ひたすら電話を待っていた。 朝5時、現地はもう夕方だ。遅すぎる。何か問題が起きたのではないかと、不安が心をよぎる。しかし、可決するまで、何度でも全力を尽くすしかない。それが自分に与えられた最後の使命だと覚悟した。 その時、机の上の黒電話がなった。雑音とともに、興奮気味の声が聞こえた。「たった今、可決されました。日本の国連加盟が決まりました」 重光が親指と人差し指でOKのサインを出すと、職員たちから大歓声があがった。総会での承認は12月18日となり、その日のうちに重光が国連総会の日本代表と決まった。下に続く
2015/09/09
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上からの続き■5.国連本部ビルに翻る日の丸 12月18日、重光は国連総会議場の演壇に立って、スピーチを始めた。訥々(とつとつ)とした言葉で、まず加盟承認の礼を述べた。そして冷戦下の国際情勢に言及し、今なお世界各地で紛争が続く中、戦争の苦しみを知る日本は、武力以外の力で世界に貢献していく意思がある、と語り、こう締めくくった。__________ 今日の日本の政治、経済、文化は、過去一世紀にわたる東洋と西洋、両文明の融合の産物です。そういった意味で、日本は東西の架け橋になり得る。このような立場にある日本は、その大きな責任を、十分に自覚しています。 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 席に戻る重光に、あちこちから「加盟、おめでとう」「心からお祝いする」と声がかかった。重光は笑顔で礼を言いながら、席に戻った。 すると机の上には、ほかの79カ国と同様に、黒地に金文字で国名を刻んだ木製のプレートが置いてあった。「JAPAN」の文字が誇らしげに輝いている。まさに日本が国際社会に復帰した象徴のように見えて、重光は感動した。 総会が終わると、日本代表団は総会議場の前庭に出た。そこには横一列に全加盟国の国旗が掲揚されている。一本のポールの細紐に日の丸が結ばれた。そして日本代表団の目の前で、日の丸はするすると上がっていく。 冬の青空と39階建ての国連本部ビルを背景に、色とりどりの各国国旗に並んでいる。その中に、白地に赤丸の美しい日本国旗が翻(ひるがえ)っていた。その時の光景を、重光は次のような歌に詠んだ。 霧は晴れ国連の塔は輝きて高くかかげし日の丸の旗■6.「あなたはシゲミツさんですね」 そこに浅黒いアジア人が、インドネシアの代表だと言って、握手を求めてきた。「私はディアンスワリと言います。あなたはシゲミツさんですね。私は、あなたのことを知っています」 重光の記憶にはない人物だった。ディアンスワリは破顔して続けた。__________ 会うのは初めてです。2回目の大東亜会議の時に、私は代表団のひとりとして日本に行ったのです。あなたは、もう東京にはいませんでしが、大東亜会議の発案者がシゲミツといって、脚にハンディキャップを持つ人だと聞いて、私は覚えていました。[1,p325] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 大東亜会議とは、重光が発案して、大東亜戦争中の昭和18(1943)年末に東京で開かれたアジア初のサミットであった。満洲国、中華民国、タイ、フィリピン、ビルマ、自由インド仮政府が集まり、各国の独立を尊重し、人種差別撤廃に貢献するよう共同宣言を出したのだった。■7.インドネシアの感謝 2回目の大東亜会議に、インドネシアは独立前だったが、代表団を送ってきた。その時は重光は外相の職を辞して、日光に疎開していた。__________ お会いできて光栄です。インドネシアが独立戦争を戦い抜けたのは、大東亜会議のおかげです。あの時、私たちは本当に励まされました。私たちだって頑張れば、フィリピンやビルマのように独立できるのだと。 私たちがインドネシアでバンドン会議を開いたのも、大東亜会議の志を引き継ぎたかったからです。 インドネシアには、今でも日本人に感謝している人が大勢います。日本はオランダからの独立に手を貸してくれたし[d]、インドネシアの子供たちのために学校を作り、若者たちには戦い方を教えてくれました[e]。 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄「独立に手を貸した」とは、日本軍の降伏後、再びやって来たオランダ軍に対して独立戦争が始まり、千人とも2千人とも言われる日本軍将兵が現地に残って、インドネシア人とともに戦ったことを指す。[d] アジアの独立に命をかけて力を貸した日本兵がいたことに、重光は心打たれ、もう一度日の丸を仰ぎ見た。■8.国連総会場での黙とう 重光の渡米中に、鳩山内閣は総辞職し、重光も外相の職を失った。鳩山は重光に「国連の件は、よくやってくれた」と感謝しつつも、この点を詫びた。だが、重光は笑って、首を横に振った。__________ かまいません。私は政界に未練はないんです。私が巣鴨を出所してから、政治の世界に入ったのは、ひとえに日本を国連に加盟させるためでした。・・・もう心残りはないのです。[1,p331] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 年が明けた1月26日、重光は湯河原の山荘で、狭心症の発作により69歳の生涯を閉じた。 死の2日後、ニューヨークの国連総会場で、総会の冒頭、議長がマイクを通して伝えた。「先月、ここで日本代表としてスピーチをしたマモル・シゲミツが、日本で亡くなりました。」 加盟演説からわずか39日後の死に、誰もが驚き、どよめきが広がった。議長は続けた。「彼は生前、日本の国連加盟に、力を尽くしました。よって、ここに黙とうを捧げたいと思います。」 全員が座席から立ち上がった。議長の「黙とう」の合図で、世界80カ国の代表たちが、静かな祈りを捧げた。 この黙とうを提案したのは、インドネシア代表団だった。(文責:伊勢雅臣)
2015/09/09
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転載記事******■■ Japan On the Globe(914) ■■ 国際派日本人養成講座 ■■ The Glove Now: 「懐かしい未来」を開く里山資本主義 里山の資源を有効活用すると「懐かしい未来」が見えてくる。■1.裏山の木の枝でご飯を炊く楽しさ 広島県の北部、中国山地の庄原(しょうばら)市に住む和田芳治(よしはる)さん(70歳)は毎朝の御飯を小さな「エコストーブ」で炊いている。 ガソリンスタンドからタダで貰ってきた石油缶に、ホームセンターで数千円ほどで買ってきた管を煙突がわりに付けて、手作りしたものだ。裏山から集めた木の枝を数本くべて炊くと、御飯はピカピカ光って旨い。 訪ねてきた客に食べさせたら、「しもうた」と思わず、漏らした。「つい先日、7万円やら8万円出して、電気釜を買ったのに、あれとは全然違う、こっちの方が旨い」と悔しがっていた。__________ 毎回できが違うかもしれないと思って気を遣うこと、いろんな木をくべることも含め、不便だといわれるかもしれません。でも、それが楽しいんですね。結果、おいしいご飯。これが三倍がけ美味しいんです。こういうものを使うことによって、笑顔があふれる省エネができるんではないか。[1,p48] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 電気代も節約でき、枝を拾うことで放置されていた裏山にも手が入る。 炊飯器のスイッチ一つでご飯を炊けるというのは便利この上ないが、その陰には、途方もないグローバル資本主義が動いている。中東で採掘した石油をはるばる日本まで運んできて火力発電所で発電し、その電気を日本各地に送る、というグローバルな物流や送電のネットワークだ。どこか一カ所で戦争や天変地異でもあれば、たちまち電気が止まって、毎朝の炊事にも事欠く。 その一方で、若者は仕事のある都市部に吸い寄せられ、多くの地方の集落が過疎化、高齢化して、いつ消滅するかと先行きを危ぶまれている。放置された森林は荒廃し、耕作を放棄された田畑が広がる。 グローバル資本主義の不安や矛盾を打破しようと、里山を活用した工夫がいろいろ進められている。エコストーブはそんな工夫の一つである。これを[1]の著者は「里山資本主義」と名付けている。■2.産業廃棄物だった木くずで発電 里山の資源活用をより大規模に実現するのが「木質バイオマス発電」だ。バイオマスとは生物由来の有機性資源で、石油など化石燃料を除いたものを指す。 岡山県真庭(まにわ)市は中国山地のど真ん中にあり、面積は琵琶湖よりも広いが、山林が8割を占め、住人は5万人足らずという典型的な山村である。 町を支えるのは、林業と、切り出した木材を加工する製材業で、大小あわせて30ほどの製材業者がある。住宅着工の出口の見えない低迷で、どこも苦しい経営を続けている。 そんな中で、製材メーカーの一つ、銘健(めいけん)工業の中島浩一郎社長は、「発想を180度転換すれば、斜陽の産業も世界の最先端に生まれ変わる」と新しい試みに取り組んできた。 それが製材の過程で出てくる樹皮や、木片、かんな屑などを燃やして発電する「木質バイオマス発電」だ。平成9(1997)年に導入した発電装置は、高さ10メートルほどの円錐形をしており、24時間稼働して出力2千キロワット/時、一般家庭2千世帯ほどの電力を供給する。 中島さんの工場で使用する電力はこれですべてまかない、夜間の余った電力は売る。これに従来、木くずを産業廃棄物として処理していた費用も含め、合計年間4億円も得をしている。発電施設は10億円かかったが、わずか2年半で回収した勘定となる。■3.一般家庭2万2千世帯分の発電所 ただ、製材工場で出る木くずは年間4万トンもあり、この発電設備では使いきれない。そこでかんな屑を直径6~8ミリ、長さ2センチほどの円筒形に固めて販売することにした。木質ペレットと呼ばれる。 この木質ペレットを燃やすには、専用のボイラーやストーブが必要だが、灯油と同じように燃料タンクに入れるだけで良い。しかも灯油と同じコストで、ほぼ同じ熱量を得ることができる。 市の後押しも得て、地元の小学校や役場、温水プールなどに次々と木質ペレット用ボイラーが導入された。個人宅用ストーブや農業用ボイラーにも、行政からの補助金が出て、広く普及するようになった。しかも、水分を蒸発させて熱を奪う、という方式で、冷房にも使える。 市の調査では、全市で消費するエネルギーのうち、11%を木のエネルギーでまかなっているという。日本全体での太陽光や風力などの自然エネルギーの割合はまだ1%なので、それに比べれば、すでに主要なエネルギー供給手段の一つになっている、と言える。 この成功例をもとに、出力1万キロワットの木質バイオマス発電所の建設が始まり、本年4月から稼働が始まった。一般家庭2万2千世帯分というから、真庭市全体をカバーできる発電量である。■4.安心、安全な社会を築く「1960年代に入るまでは、エネルギーは全部山から来ていたんです」と、中島さんは言う。 裏山から薪(まき)を切り出し、風呂を沸かし御飯を炊く。山の炭焼き小屋で作られた木炭が、都市部の一般家庭でも使われていた。 今でも60代以上の人は、子供の頃に、都市部でも七輪でサンマを焼いたり、あんかの炭火で暖をとったり、田舎の祖父母の家に行けば、いろりで薪を燃やして、なべ料理をしたり、という光景を覚えているだろう。それはわずか半世紀前の事なのだ。 逆に言えば、ガス・ストーブで暖房したり、電気炊飯器で御飯を炊いたり、という生活スタイルは、わずか半世紀間に起こった変化でしかない。その結果として、我々の生活は大いに便利に快適になったが、その半面、グローバルな供給システムで上述したような大きな不安も抱え込むことになった。 木くずを利用したバイオマス発電は、地域分散型だけに他地域の経済、社会、天候の変動に影響を受けることが少ない。それだけ安心、安全な社会を築くことができる。下に続く
2015/08/24
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上の続き■5.若者が帰ってきた バイオマス発電は、電気だけでなく、雇用も生み出す。今まで山間に放置されてきた間伐材を受け入れ、細かく砕いて燃料用のチップにする工場「バイオマス集積基地」が平成20(2008)年に設立された。そこにかつて都会に出て行った若者が帰ってきた。 28歳の樋口正樹さんは、高校を卒業後、地元・真庭市で就職先を探したが見つからず、岡山市で自動車販売会社に就職していた。それが今では、クレーンを自在に操り、間伐材を運んでいる。収入は多少減ったが、木の香りに包まれてする仕事が気に入った。__________ 働いてみるといろいろなものが面白い。汗をかいて自然の中で生きるのも、ぼくにはあっているのだと気づきました。木材産業なんて古くさいかと思っていたら、バイオマスって、実は時代の最先端なのだと知り、とてもやりがいを感じています。[1,p44] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄■6.「ありがとう」と言って貰えるうれしさ 里山資本主義は経済だけでなく、人々の生活そのものにも潤いを与えるという、身近な事例がある。 冒頭に登場した和田芳治さんの近所に住む熊原(くまはら)保さん。同じ庄原市で、高齢者や障害者の施設を運営している。ある時、デイ・サービスを利用しにやってきたおばあさんが、熊原さんにこう言った。「うちの菜園で作っている野菜は、とうてい食べきれない。いつも腐らせて、もったいないことをしているんです」 年齢は80を超えるお年寄りだが、自宅では毎日元気に畑に出て、野菜を育てている。何十年も農業をやってきたプロだから、見事な野菜が沢山できるが、老夫婦だけの家庭では食べきれない。 昔は近所に子供を抱えた若夫婦などもいて、料理したものを「食べんさい」と持っていったりしていたが、今は過疎化で空き家が増え、食べてくれる隣人も少なくなった。 それを聞いて、熊原さんは膝を打った。自分の施設の調理場で使っている野菜は、市場で仕入れた県外産ばかりだった。市場で野菜を大量に仕入れた方が安くあがる、と考えていたのだが、近隣でお年寄りたちの作る野菜を使わせて貰えば、食材費は劇的に抑えられる。 熊原さんは「みなさんの作った野菜を施設の食材として使わせてもらえますか?」というアンケートをとった。すると、施設に通うお年寄りを含め、100軒もの家から、「是非、提供させて欲しい」との返事があった。 試験的に施設で野菜を集めることになって、ある農家に行くと、たまねぎやじゃがいもをどっさり用意して待ち構えている。老夫婦の顔は生き生きと輝いている。「嬉しいですよね。ありがとうと言ってもらおうなんて思ってなかったのに、それくらいのことでたすかるんじゃね」■7.「張り合いがでました」 熊原さんは、従来の1億2千万円の食材費の1割を、地域のお年寄りの作った野菜などでまかなう目標を立てた。野菜を提供してくれたお年寄りには、自作の地域通貨を配る。施設でのデイ・サービスや、レストランで使って貰おうというのだ。 レストランは近くの廃業した店を買い取って、改葬したものだ。客数は見込めないが、近所のお年寄りは時々、ここに集まって、おしゃべりをするのを楽しみにしていた。そんな場所がなくなった、という話を聞いて、レストランの復活を思いついたのだ。 時々、このレストランに友だちとやってくるのが近所の一二三(ひふみ)春江さん。夫を亡くして、大きな家に一人暮らし。畑仕事に出たついでに、道で誰かと立ち話でもできないかと、あちこち当てもなく散歩する。誰とも出くわさなければ、一言も話せないまま、一日が暮れる。 今は、時々、友だちを誘って、このレストランにお昼を食べにやってくる。春江さんの菜園で育ったカボチャで作ったグラタンが出されると、みんなが「おいしい」と褒める。会計の時には、貰った地域通貨を使うのも、誇らしい。「また、がんばって仕事をしなくちゃ。張り合いがでました」 実は、このレストランの隣には、保育園が併設されている。春江さんたちは、時々そこで子供たちと遊ぶ。みな、何人もの子供を育ててきた大ベテランだ。子供たちの輪に入って、昔の童謡や遊びを手取り足取りしながら教える。 しばらく遊ぶと、子供たちのお昼寝の時間になった。先生が「じゃあ、きょうはこれでおしまい」と告げると、子供たちは「もっと、遊びたい! 次はいつくるの」。 その場に居合わせたお母さんの一人はこう語る。__________ 孤立した私と子どもが、保育園に行って先生に預けて帰るという、ただ単にそれだけの関係ではなくて、周りの人に生かされている、、それがすごく温かい。私もすごく安心しますし、子どもも色々な人との関わりを通して、学ぶものがたくさんあるんじゃないでしょうか。[1,p221] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 実は、子供を預けている母親の一人は、レストランの調理場で働いている榎木(えのき)寛子(ひろこ)さんだ。子育て中の母親に仕事の場を提供したい、というのも、熊原さんがレストランを開いた理由だ。こういう職場があってこそ、田舎の豊かな自然の中で子育てができる[a]。■8.「懐かしい未来」「懐かしい未来」という言葉がある。スウェーデンの女性環境活動家がヒマラヤの秘境の村で伝統的な暮らしを目の当たりにして、21世紀にはこうした価値観が先進国にも必要ではないか、という考えで、唱えだした言葉だそうな。 前節で紹介した光景は、まさに半世紀前の懐かしい過去を彷彿とさせる。農家は庭先でとれた野菜を近隣の人々と交換し合う。近隣の子供たちは一緒になって、川で魚取りをしたりして遊ぶ。赤ちゃんや幼児は、お年寄りが面倒を見る。 そんな光景が、わずか50年ほどで失われてしまったのだ。農作物は商品として市場で売られる。大きさや形が揃い、しかも大量に作られるものが買われ、少量の作物は庭先で打ち捨てられる。 若者は都会に出て行って、農村では子供は数少なくなった。あちこちの家が空き家となり、耕す人のいなくなった田畑は休耕とされる。森林は朽ち果てたままとなる。その一方で、大量の食料やエネルギーを遠い外国から輸入する。こんなグローバル資本主義はどこか、おかしいのではないか。 本稿で紹介した事例は、いずれも、この矛盾をなんとかしたい、という問題意識から出ている。 それが、いずれも、わずか半世紀前のわが国の社会のありかたを再現しているのは、興味深い。要は、里山資本主義には我がご先祖の数千年の知恵が詰まっているということなのだろう。 スウェーデンの女性環境活動家はヒマラヤまで行かなければ「懐かしい未来」にたどり着けないが、美しい自然と豊かな伝統に恵まれた我が国には、すぐ手の届くところに、「懐かしい未来」が待っているのである。(文責:伊勢雅臣)
2015/08/24
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上からの続き中ソ対立や、中国とベトナムの国境紛争の時にも見られたが、過剰な、売り言葉に買い言葉の非難の応酬となる可能性がある。日本人には最も不得意なことであるから、中国側に反論する場合には、相手がいきり立つことを回避するためには、被害を最小限にする努力が必要である。ただ、反論をしないでいると、中国側は自分たちの主張が認められたと誤解をしてしまうので、その点はきっちりと書面で反論するなどの対応が必要である。何もしないのが最善の場合もままあるが、それは、中国側が冷静で自分の過ちを認める可能性がある場合である。 本能的に、相手を辱めることによって、あらゆる過ちが相手にあることを認めさせ、思わせるようにするのが、中国人の国民性である。善意があれば、世の中がうまくいくなどとの発想は持ち合わせていない。中国の文化では、相手をおとしめるためには、自殺さえ許さない文化があるのだ。政敵の墓を暴いて、野原にしてしまうような過酷さがある。自分たちの利益や互恵の範囲については甘いが、他人の介入については、それは厳格な文化である。万里の長城を築き、排外の策を長期にわたって構築してきた民族のやり方が一朝一夕に失われるわけがない。中国の立場をわきまえた上で、日本の立場にこだわるべきである。本音と建て前をうまく使い分けるのが中国人であるから、そんな使い分けが日本人にできるわけもないので、中国と日本とは文明圏が違うと心得ることを前提条件とすることが大切で、一衣帯水などとの政治的な甘言に惑わされてはならない。 政治的な価値観で言えば、日本人にとっては、欧米人の方が、ビジネス感覚を含めて中国人よりも遙かに近いところにいるのだ。北京のビル街のエレベータの中で、シンガポールからのビジネスマンが、「同じ華人と呼ばれる華僑の子孫でありながら、これほどまでに商習慣と価値観が異なることになるとは知らなかった」と述懐したことがある。その点からすれば、日中友好、同文同種などとの標語は誤った標語であることが明らかになりつつある。漢字が同文ではあるが、日本語に取り込まれた漢字の表記方法は、現代の漢民族の表現方法ではないし、人種的にも同種とは言い難い。日本人が、中国を、違う文化・文明と価値観の国として捉える方が、大きな対立と紛争を回避していく為には適当である。 タクシーに乗ってぼられても文句を言わない日本人、「安い」と言って買いあさる日本人、お人好しの馬鹿者が日本人という見方が、一般的な中国人の間で定着しつつある。特に日本の大企業は、技術をできるだけ低価格で中国に提供するという見方が一般的で、お人好しの馬鹿者のように捉えられている。関係が進展するにつれて、相手の弱点や誤り、失言をも逆手にとろうとするのが、中国人の常套手段である。自己批判を迫られても柳に風と受け流さなければならない。 日本企業の中国進出が相次いだが情勢の転換が起きた。市場原理主義が中国でもはびこって、そして破綻した。バブルもまもなくはじける。国内の矛盾は外国に向けられる可能性がある。中国における子会社などの総点検を行い、欧米の企業に伍し、中国市場で尊敬される日本企業に変身するか、あるいは東南アジアの友好国などに全面移転をするかどうか判断することが、中国市場担当者の経営者の喫緊の課題である。中国の人口侵略を警戒せよトウ小平が、対日攻略の方法として、難民を大量に出して、日本を困らせると発言したことがあったが、中国共産党は、いわゆる人口侵略を実際の戦略としてとっている。中国の西部の領土となった、新疆省などは、モンゴル、ウィグル人などが住む、自治区であったが、大量の漢族の移住が行われて、元々の住民が少数民族化してしまった。チベットにおいても同様のやり方で、漢族を移住させて、元々のチベット人を追い出してしまう侵略方法を実行に移している。日本に対する政略としても、人口侵略の方法がとられている。その実態を報告する記事を『朝日新聞』が、「在日華人」と題して、昨年の二月から六月にかけて掲載した。『朝日新聞は』、在日華人という概念を持ちだしているが、昨年の二月十日の記事では、「華人 広く中国文化を引き継ぐ中国系、台湾系の人々を指す。現地国籍を取得した人を華人、中国籍のままの人を華僑と区別する。在日台湾社会では、自分は台湾人であり、華人ではないという人も多い」などと書いている。旧満州の吉林省延辺朝鮮族自治州を中心に、「朝鮮族」が居住しているが、『朝日新聞』の定義では、自治州に八十万、全国では一九二万人がいるが、韓国には、四〇万人以上が、日本にも五万人の朝鮮族が、居住するようになっているが、この人々を、在日華人としている。 中国の民族観にはからくりがあり、「~族」は、下位の概念であり、上位の概念を「中華民族」としている。チベット人もウィグル人も「中華民族」である。公然たる秘密は、シナ人以外の非シナ民族は、同化吸収されて消滅すべき存在だと考えられている。五十六の民族は平等だとするが、本音は中国人とは、シナ人だけを意味する。 日本の国籍を取っても、在日華人であるという点が、極めて重要であり、この華人概念を侵略の道具として、アジア・太平洋諸国に進出を謀って来ている。しかし、一方では、中国民主化運動で日本に亡命した石平氏のように、日本に帰化したのは日本の国柄に魅力を感じた(日本の特徴は、権威と権力とが分離していることである。)とする人もおり、朝鮮族の金京子氏のように、日本国籍を取りながら、在日華人として中国政府の代弁者となる例とは異なる例もあり、中国の論法は必ずしも成功していないが、『朝日新聞』という大マスコミが中国共産党の見解を採用していることには注意を要する。 企業においても、中国人社員による先端技術の漏洩事件が相次いでおり、先年の日本電装における、技術情報の中国人社員による持ち出し事件などが表面化した事例であるが、改めて注意を喚起したい。在日華人を含めて、中国共産党の官僚組織に組み込まれた者が日本企業に入り込んで来ている。研究機関にも相当数の研究者がいるが、その中にも、政府機関の職員が偽装している可能性がある。 日本企業においても、そろそろ、組織的な人口侵略の手法と具体的な浸透の度合いについて、日本国内の工場、研究所、各種組織において点検する時期である。卑近な例としては、朝の清掃を利用して清掃会社の要員として入り込んで、机の上の情報を見て、情報漏洩を謀ろうとした事例や、職場の食堂における会話の傍受の例もあるので、多角的な点検が必要である。とある軍事基地のある街の場合に、要人が訪れる高級なサロンのホステスとして、公安機関に所属する留学生が働いている事例が見られた。精神侵略の次が、人口侵略であり、軍事侵略はその次の段階であるというのが、歴史を踏まえた一般的な見立てであり、軍事侵略を防止するためにも、人口侵略を防ぐことが必要である。(本稿は、ルシアン・パイ教授によって行われた調査を基にマサチューセッツ工科大学から一九九二年に出版された「中国人の交渉スタイル」(大修館書店、一九九三年邦訳)を参考にした)
2015/06/24
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転載記事****皆様は中高校生の韓国修学旅行は反対ですよね げっそりげっそりでは、大学生や大人の洗脳反日旅行はどうでしょう抗日連合BCアルファは、10年以上にわたり毎夏カナダの高校教師を連れてほぼ無料の長期反日洗脳旅行(中韓の反日スポット訪問)を行っています。http://www.alpha-canada.org/education/study-tour/study-to...乗松聡子はその抗日連合BCアルファの主要メンバー。バーナビー慰安婦像設置で韓国側に通じ、日系人をだまし像を建てさせようと画策。バレて除外されるとむかっ(怒り)むかっ(怒り)むかっ(怒り)むかっ(怒り)民主主義的ではない 独裁的だ爆弾爆弾爆弾exclamation×2と邦人に怒りの抗議。乗松のHPは「反日の総合商社」 世界中の反日集め日英朝中の言語対応。沖縄基地移設に反対、原発反対、なぜか在日朝鮮人の補償請求記事を優先。その合間にろくでなし子支持、カナダ学生と教師をミスリーディング、日本こきおろし。http://peacephilosophy.blogspot.ca/2010/08/august-9-memor...乗松聡子は、毎夏、日本にアメリカ人やカナダ人学生を連れて、立命館学生とともに「平和教育」という名のもと、反日活動を蛮行。今年はこれですのでお見知りおきをお願いします。立命館大学、こんなに反日ですの?http://www.ritsumei.ac.jp/liberalarts/wp/program/hiroshim...授業の概要と方法 / Course Outline and Method 「ヒロシマ・ナガサキで考えるアジア太平洋の戦争と平和──戦後70年の節目に」 ( 立命館大学 の解説ページより抜粋) このセミナーは、米国ワシントンDCにあるアメリカン大学の歴史学者、ピーター・カズニック教授と、立命館大学経済学部の藤岡惇教授が、1995年から 行ってきたもので、今年度で21年目になります。今年度は、国際関係学部の君島東彦が担当します。また、2011年度からは立命館大学国際関係学部のグ ローバル・スタディーズ専攻の英語科目 "Peace Studies Seminar"(山根和代准教授担当)と合同でセミナーを行ってきました。アメリカン大学の学生、 バンクーバーの学生、合計10-15人を京都に迎えて、立命館大学の学生約20人、立命館アジア太平洋大学の学生4人、それにセミナーの運営を手伝って くれるStudent Coordinator(SC)5人、学生合計40数人と担当教員が、広島、長崎を訪れます。 今年のセミナーは特別です。わたしたちは、2015年、アジア太平洋戦争の敗戦70年を迎えます。これまで以上に「70年前に何が起きたのか」「この70年 間はどのような時代だったのか」、振り返ることを迫られます。とりわけ重要なポイントは4つあると思います。すなわち、1)大日本帝国の植民地支配/侵略 戦争の実態、2)アジア太平洋戦争における連合国の勝利/枢軸国の敗北の意味=戦後世界秩序のかたち、3)核兵器出現の意味/原爆投下の被害の実 相、4)これからアジア太平洋の平和をどのようにつくるか、以上の4点です。 米国・カナダの学生たちとともに、広島・長崎を訪れて、被爆者の証言を聴き、広島平和記念資料館・長崎原爆資料館を見学し、広島市立大学・長崎大学 の学生と交流することを通じて、上述の4点について、考察を深めたいと思います。平和とは対話です。このセミナーでは、さまざまなレベルの対話──米国・ カナダの学生との対話、被爆者との対話、過去との対話、広島・長崎の学生との対話等々──を通じて、わたしたちのこれからの学びの方向性を見つけたい と思います。
2015/06/24
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転載記事****** 地球史探訪: 日韓国交交渉と竹島密約 河野一郎による竹島密約と、その子・河野洋平による慰安婦談話は、その場しのぎの素人外交という点で良く似ている。■1.日韓国交交渉の裏で結ばれた竹島密約 50年前の昭和40(1965)年6月22日、日本と韓国は「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(日韓基本条約)」を結んだ。今年が「国交正常化50周年」となる。 竹島問題や「従軍慰安婦」問題などで完全に冷え込んだ現在の異常な日韓関係を鑑みれば、「国交正常化」などとは、とても言える状態ではない。 実は、日韓交渉の舞台裏で、ひそかに竹島問題に関する密約が結ばれていて、それが現在の竹島問題の一因となっている。どのようなの密約がどのように結ばれたのか、その経緯を見てみよう。■2.韓国の「五箇条の要求」 1951年7月、サンフランシスコ講和会議の2ヶ月前に、韓国政府は「五箇条の要求」を米政府に伝えた。「韓日間の漁業水域を明確に決めること」は良いとしても、「韓国を太平洋戦争の交戦国として認めること」「韓国を対日講和条約の調印国とすること」としたうえで、「日本は韓国にたいして財産要求権を放棄すること」「日本は、対馬、パラン島及び日本海内の独島(JOG注:竹島)に対する領有権を放棄すること」を要求した。 大韓民国は戦後の1948年に建国されており、大東亜戦争中は存在していなかった。当時の朝鮮半島人民は大日本帝国臣民として戦ったのであり、それを「太平洋戦争の交戦国」として認めたり、「対日講和条約の調印国」として講和会議に参加させる事など、アメリカもイギリスも当然ながら正式に拒否した。 国際常識をわきまえない夜郎自大な「要求」に米英も驚いたろうが、さらに凄まじいのが「対馬、パラン島及び独島」の領有権要求である。「パラン島」とは聞き慣れないが、韓国側でも「存在の有無については自信がなかったが、仮に存在しなくても入れておいて損にならないと思い」要求に入れた、と当時の韓国側代表が回想している。対馬についても、有史以来の日本領土であり、歴史的根拠も何もないのに要求する厚かましさに米英も呆れたろう。 竹島については、米国は当初、韓国の領土と考えていたが、日本政府が領土問題に関する7冊もの資料集を提供して説得に努めたので、ディーン・ラスク国務省極東担当次官補は駐米韓国大使に次のような書簡を送った。__________独島、他の名で竹島もしくはリアンクル岩礁と呼ばれるものに関連したわが方の情報によると、ふだんは人が住まないこの岩の塊は韓国の一部として扱われたことがなく、1905年以降、日本の島根県隠岐島司の管轄下に置かれていた。韓国はかつてこの島にたいして権利を主張していなかった。[1,p30] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 根拠もなく対馬や竹島の領有権を主張し、存在すら確認されない島も要求する韓国の前近代的外交と、詳細な史実をもとに主張を展開する日本の近代的外交の違いは対照的である。■3.李承晩ライン サンフランシスコ講和会議の4ヶ月後、朝鮮戦争の最中の1952(昭和27)年1月5日、李承晩大統領は竹島を含む海域を韓国の「排他的主権領域」であると宣言した。李承晩ラインである。 この宣言が出るや、日本のみならず、英国、アメリカ、台湾などから抗議が殺到した。国交開始のために、当時進められていた第一次日韓会談は当然ながら、決裂となった。 李承晩ラインを立案した韓国の外務部高官は次のように書いている。__________ こういう画線による排他的管理は、当時の領海3海里、公海での漁業の自由といった国際海洋秩序に背馳(はいち)することで、国際社会から多くの非難と反発を受けることを十分に認識していた。しかし、・・・当時混乱に陥っていた海洋法の沿岸管理問題に乗じて反対の論理に対抗できると判断し、押し切ったのである。・・・画線と関連し、私が将来の領土問題を考慮し、特別に漁業保護水域に入れたのが独島だった。・・・私は、これから韓日間に起こりうる独島領土紛争に備え、主権行使の前例が絶対に必要であると思った。[1,p34] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ まさに「確信犯」の言である。李承晩ラインを超えた日本漁船は拿捕されたり、銃撃されたりした。13年後、日韓基本条約締結による李承晩ライン廃止までに、拿捕された船舶数328隻、日本人抑留者は3929人、死傷者は44人を数えた[2]。 日本はまだアメリカの占領下にあり、海上自衛隊は発足していなかった。アメリカは韓国に抗議しただけで、竹島を取り返してはくれず、平和憲法など韓国の眼中になかった。他国の侵略を防ぐには、独自の軍隊を持つしかないという事を実証した史実である。■4.「釜山が赤化した場合、、、」 日韓関係の転機は、1961(昭和36)年5月16日に朴正煕少将が中心となって起こした軍事クーデターによってもたらされた。約4千人の将兵がほとんど無抵抗のうちに、ソウルの陸軍本部と放送局を制圧した。朴は日本の陸軍士官学校の卒業生だった。 クーデターのわずか6日後、革命政府は「韓日会談が早期に再開されるようにする」と記者会見で言明した。「韓国にとっては、韓日交渉を妥結し、日本の賠償金で経済復興に着手することが急務だった」と、これまた陸軍士官学校の卒業生で、対日本の陰の大使役を果たした崔英澤は述べている[1,p71]。 半島のほとんど全土が戦場となった朝鮮戦争が休戦を迎えて、まだ8年。韓国では一説に200万人もの一般市民が犠牲となり、国土は荒廃していた。こんな状況で背後にソ連、中共、北朝鮮の脅威を受けながら、李承晩ラインで日本と敵対する政策は、革命軍から見れば、亡国の仕業と写ったであろう。 革命軍の声明に応えて、池田首相はその日のうちにこう述べた。__________ 釜山が赤化した場合、日本の治安にたいして大きな影響を及ぼすだろう。したがって、南朝鮮(韓国)の反共体制にたいし日本は重大な関心を払わなければならない。日本は現状においても韓国を積極的に援助したい。そのためにも日韓交渉を再開したい。[1,p74] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 同年11月に来日したアメリカのラスク国務長官は、池田総理との会談で「南ベトナムは危険な状態であり、韓国でつまずくようなことになれば、アメリカの威信にかかわる」と切り出しした。 そのうえで「悪化する韓国経済の立て直しは第一次経済開発5カ年計画のなりゆきにかかわっている、わけても対日請求権は五カ年計画の遂行と韓国経済の再建に直接関係を持っている。早急に決めて欲しい」と要望した。下に続く
2015/06/22
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続き**■5.「賠償金」問題の決着 ラスク長官の言う「対日請求権」とは、韓国側が日本の「植民地支配」に対する金銭的な補償を求めていたからである。しかし韓国併合は当時の朝鮮の最大政党である「一進会」が要求し、両国間で「韓国併合ニ関スル条約」が結ばれて実施されたものだ。併合は英米も賛成し、併合条約は当時の国際法から照らしても合法であった[3]。 しかも、日本は統治時代に小学校5千校以上からソウル大学までの教育施設、4千キロ近い鉄道路線、水力発電所など膨大なインフラを残しており[a]、それらの資産価値だけでも30~40億ドルに上るとみなされていた[b]。韓国が米国に提出した賠償要求額が21億ドルであったから、相殺するなら日本側にお釣りがくる勘定であった。 朴が初めて東京を訪れた時、前尾繁三郎自民党幹事長は「日本国民は36年間にわたる韓国支配を『強制占領』と考えていないのであり、したがって賠償すべき『請求権』は存在しない」とし、「財産請求権は日本国民が納得できる方法で解決さなければならない」と述べた。 結局、「日本国民が納得できる方法」として「経済協力」という形に落着した。その金額は何年もの交渉を経て、結局、無償3億ドル、長期低利の借款2億ドル、さらに3億ドル以上の民間借款提供で合意に至った。 1961年当時の韓国の輸出額が年間4千万ドル足らずであるから、その20年分に相当する額である。また日本側にとっても外貨準備高18億ドルの半分近い額で、並大抵の金額ではなかった。 しかし、これにより日韓基本条約では「両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む)の財産、権利及び利益並びに・・・請求権に関する問題が、・・・完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する(第二条)」とされた。[b] 日本政府は足かけ14年もかけて、請求権に関しては国際法上も筋を通した決着にこぎ着けたのである。■6.韓国側の交渉カードとして使われた李承晩ライン撤廃 残る問題は李承晩ラインと竹島だった。当時、日本政府を最も苦しめていたのは、李承晩ラインによる日本漁船の拿捕であった。朴は東京での池田首相との会談で「日本が請求権問題について誠意を見せるのであれば、韓国は平和線(李承晩ライン)問題に柔軟に対応する」と明言していた。 交渉が終盤に入った昭和38(1963)年に入ると、日本の漁船が李承晩ライン内に入って操業しても、黙認されるようになった。李承晩ラインは実質的に撤廃されたのである。 竹島については、池田首相は国交正常化の後で国際司法裁判所に提訴することを取り決めることを強く要求した。興味深いことに、当時の社会党は常に竹島問題を自民党政府の攻撃材料として使っており、それを抑えるためにもこうした取り決めが必要だと考えていた。 もっとも社会党の竹島問題での攻撃は、国家主権を守るためというより、ソ連や中国の意向を受けて日韓交渉を阻止するための戦術だったのだろうと、弊誌は勘繰っている。 韓国側は池田首相の要求を拒否し、「独島(竹島)問題は韓国民の感情を硬化させるだけなので、両国の国交が正常化した後、時間をかけて徐々に解決していくのが賢明だ」と突っぱねた。こうして竹島問題が日韓交渉の最後の懸案となった。■7.「互いにあげようとしても貰わないくらいの島」 交渉の最終段階で日本側の責任者となったのが河野一郎だった。昭和39(1964)年11月、佐藤栄作内閣が発足し、首相争いに敗れた河野一郎は副首相格で内閣に入った。 翌年1月に訪米して、ジョンソン大統領と会談することになっていた佐藤首相は、河野に「ワシントン到着までに、日韓をなんとか解決してほしい」と要請した。ジョンソン大統領はベトナム戦争で勝利を収めるとの決意を表明しており、韓国側はベトナム派兵を約束していた。米国は日本に対しても、早く日韓協定を求めるよう圧力をかけていたのだろう。 以前から、河野は「竹島は国交が正常化すれば、互いにあげようとしても貰わないくらいの島」などと言っており、その発言を韓国側は竹島問題を日韓交渉から外すために利用していた[1,p206]。国家主権の問題を経済的次元でしかとらえられない浅薄な国家観の持ち主だったようだ。 決着をつけるために、河野は韓国側との密室交渉で次のようなる密約に合意した。__________竹島・独島問題は、解決せざるをもって、解決したとみなす。したがって、条約では触れない。(イ)両国とも自国の領土であると主張することを認め、同時にそれに反応することに異論はない。(ロ)しかし、将来、漁業区域を設定する場合、双方とも竹島を自国領として線引きし、重なった部分は共同水域とする。(ハ)韓国を現状維持し、警備員の増強や施設の新設、増設を行わない。・・・[1,p208] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 河野はただちにアメリカに電話を入れ、佐藤首相に「国交正常化のためのすべての地ならしが済んだ」と報告した。現地時間1月12日夜のことだった。翌朝から日米首脳会談が始まった。 いかにアメリカからの日韓交渉妥結への圧力があったとはいえ、この密約は韓国側の要求を丸呑みしたものだった。竹島の主権が日本にあることはアメリカも認めていたのだから、日本側が「あとは竹島さえ返せば決着する」と説得していれば、アメリカの圧力は韓国側に向かったろう。 竹島問題解決の最良のチャンスは、その場しのぎの密約外交によって失われてしまったのである。■8.竹島密約と慰安婦談話 その後、しばらくは両国の限られたトップの間で密約が守られていたようだ。しかし朴正煕が暗殺された後、全斗煥、盧泰愚と続いた軍人政権に代わって1993(平成5)年に、文民大統領・金永三が政権を握ると、韓国の政治は一変した。反日派の金永三はかつての朝鮮総督府庁舎を破壊するというスタンドプレーまで行った。 金永三には、誰も竹島密約の存在を伝えなかったようだ。「わが領土独島」に新しい接岸施設を作ったり、その海域で海軍に機動訓練を実施させた。竹島は反日のシンボルとなり、近年でも李明博大統領が竹島に上陸して人気取りに利用したりしている。 河野一郎による竹島密約は、その子、河野洋平による慰安婦談話とよく似ている。両方とも、領土主権や国家の名誉を犠牲にして、その場しのぎの奇策により、目先の外交懸案をやり過ごそうとした素人外交である[C]。その害悪は50年たった今、ますます明らかになってきている。(文責:伊勢雅臣)
2015/06/22
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転載記事 スクープ ********中国共産党の”洗脳工作”が『ソース付きで証明される』急展開、米国の秘密文書でGHQのやり口が判明5拍手1: なまはげ87度 ★@\(^o^)/ 2015/06/14(日) 13:14:35.98 ID:???.net 占領下の日本国民に戦争に対する贖罪(しょくざい)意識を植え付けるため連合国軍総司令部(GHQ)が、中国・延安で中国共産党が野坂参三元共産党議長を通じて日本軍捕虜に行った心理戦(洗脳工作)の手法を取り入れたことが英国立公文書館所蔵の秘密文書で判明した。GHQの工作は、「ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」と呼ばれ、現在に至るまで日本人の歴史観に大きな影響を与えている。(編集委員 岡部伸) 文書は、GHQでマッカーサーの政治顧問付補佐官だった米国の外交官、ジョン・エマーソンが、1957年3月12日、共産主義者との疑惑が浮上したカナダの外交官、ハーバート・ノーマンとの関連で米上院国内治安小委員会で証言した記録で、「ノーマン・ファイル」(KV2/3261)にあった。 44年11月に米軍事視察団の戦時情報局(OWI)要員として延安を訪問したエマーソンは、中国共産党の支配下で野坂参三(延安では岡野進と称した)元議長が日本軍捕虜の思想改造に成功した、として「岡野と日本人民解放連盟が行った活動の経験と業績が、対日戦争(政策)に役立つと確信した」と証言。さらに「共産主義者の組織であったが、捕虜たちが反軍国主義や反戦活動に喜んで参加するまで吹き込み(洗脳)に成功したことから彼らの成果はわれわれ(米国)の対日政策に貢献できると思った」と述べている。 エマーソンは後に「(延安での収穫を元に)日本に降伏を勧告する宣伝と戦後に対する心理作戦を考えた」(大森実『戦後秘史4赤旗とGHQ』)と告白した。エマーソンが「対日政策に貢献できる」と証言した「心理戦」は、日本兵に侵略者としての罪悪感を植え付けるもので、軍国主義者と人民(国民)を区別し、軍国主義者への批判と人民への同情を兵士に呼びかける「二分法」によるプロパガンダ(宣伝)だった。 GHQは、終戦直後の昭和20年9月に「プレスコード」(新聞綱領)を定めて言論を統制し、一般人の私信まで検閲を実施。10月には、「日本人の各層に、敗北と戦争を起こした罪、現在と将来の日本の苦難と窮乏に対する軍国主義者の責任、連合国による軍事占領の理由と目的を周知徹底する」との一般命令第4号を出した。さらに、12月8日から全国の新聞に『太平洋戦史』を掲載、翌日からラジオ番組『真相はこうだ』を放送させ、戦勝国史観を浸透させた。自虐史観、今も日本人に影響 軍国主義者と国民「二分法」駆使 日本人にさきの戦争への罪悪感を植え付けた連合国軍総司令部(GHQ)の「ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」。その原点は、大戦末期の中国・延安で中国共産党による日本軍捕虜に対する「心理戦」にあった。 「日本の軍国主義者が国民に対して犯した罪は枚挙にいとまがない」 昭和20年12月8日、GHQの民間情報教育局(CIE)に強要され、新聞各紙が連載を始めた『太平洋戦史』では、「大東亜戦争」を公的に使用禁止し、冒頭から「真実を隠蔽(いんぺい)した軍国主義者」と「大本営発表にだまされた国民」を二分して対峙(たいじ)させ、http://www.sankei.com/life/news/150608/lif1506080009-n1.htmlhttp://www.sankei.com/life/news/150608/lif1506080009-n2.htmlhttp://www.sankei.com/life/news/150608/lif1506080009-n3.htmlhttp://www.sankei.com/life/news/150608/lif1506080009-n4.htmlhttp://www.sankei.com/life/news/150608/lif1506080009-n5.html
2015/06/17
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転載記事********■■ Japan On the Globe(902) ■■ 国際派日本人養成講座 ■■ 地球史探訪: 海洋国家の衰亡への道 ~ 月尾嘉雄『日本が世界地図から消滅しないための戦略』を読む カルタゴ、ベネチア、オランダに見る海洋国家の衰亡への道。■1.「日本という国家が消滅することはないという幼児のような楽観」『日本が世界地図から消滅しないための戦略』というショッキングなタイトルの新刊が出た。著者の月尾嘉雄(つきお・よしお)東大名誉教授はもともとは建築学が専攻だが、最近は地球環境問題やメディア政策など幅広い分野で発信をされている。 この本の前書きは次のような印象的な一節で始まる。__________ 国旗掲揚と国歌斉唱に異論のある人々が日本に増加しているようであるが、それをしたくてもできない民族の苦痛を想像してみれば、そのような異論が愚論であることが容易に理解できるはずである。それは日本という国家が消滅することはないという幼児のような楽観を根底とする幻想でしかない。[1,p1] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ チベットやウイグルなど、自らの国家を失い、少数民族として圧政に苦しんでいる民族は少なくない。第二次大戦後に消滅した国家は約180にもなるという。■2.消滅した古代海洋国家カルタゴ 我が国と同様の海洋国家で、長く栄えながら滅んだ国が歴史上、いくつもある。 その一つ、カルタゴは、北アフリカの地中海沿岸、現在のチュニジアの近辺で栄えた古代海洋国家である。紀元前814年に建国されたという伝説を持ち、紀元前6世紀から西地中海の海運交易を握り、エジプトからモロッコ、さらには現在のスペインのあたりまで領土を広げていった。 しかし、イタリア半島から発展したローマと紀元前264年から146年までの120余年間に3度も大きな戦いを繰り広げ、一時はハンニバル将軍が象の一群を率いてアルプスを越えてイタリア半島にまで攻め込んだが、最終的には敗北した。 ローマは通常は「敗者さえも同化する」寛大な政策をとって発展したのだが、ことカルタゴに対しては特別で、1世紀以上の度重なる戦いの報復として、カルタゴ市民を虐殺し、都市はすべて破壊した。カルタゴは地上から消滅し、その遺跡は19世紀まで発見されなかった。■3.滅亡の第1の要因:傭兵 カルタゴが消滅したのはローマとの戦いに敗れたからであるが、実際にハンニバルのイタリア半島侵攻ではローマ征服の一歩手前までいきながら、最終的にはなぜローマに滅ぼされたのか。 その理由として月尾氏が最初に挙げているのが、傭兵に依存したことである。海洋国家であるから海軍は自国民中心で構成されていたが、陸軍は大半が傭兵であった。傭兵の目的は金銭であり、カルタゴのために命をかけるという志はない。 それに比してローマは当時は共和国であり、市民は祖国のために、子孫のために、命をかけて戦うことを名誉と考えていた。いかに名将ハンニバルが何年か活躍しても、1世紀以上も戦い続ければ当然この違いが出てくる。 傭兵が頼りにならない事は、その後の歴史で何度も実証されている。たとえば、ロシアは日露戦争で当時属領として支配していたポーランド人をロシア軍に含めて送り込んだ。日本軍はポーランドの独立運動と連携して、ポーランド兵の脱走工作を行い、投降したポーランド兵数千人を松山の収容所で厚遇した。[a] 対する日本兵はすべて国民兵であり、家族のため、国家の独立維持のために命を捧げることを厭わなかった。[b] 大東亜戦争でも、日本陸軍は開戦後わずか2ヶ月でマレー半島のイギリス軍を駆逐してシンガポールを占領したが、その成功要因の一つに英軍10万の半分を占めるインド兵に呼びかけて、「インド独立のために一緒に戦おう」と呼びかけたことがある。ここで結集したインド将兵たちが、現在の「インド国民軍」の中核となった。[c] いくら経済的に繁栄しても、国家の独立を守るのは自前の防衛力である。金で雇った傭兵では、いくら優れた将軍や武器を備えていても、長期的に国家を守る真の防衛力にはならない。■4.滅亡の第2の要因:経済史上主義 敗戦の第二の原因が経済至上主義である。月尾氏は次の史家の言葉を引用している。「カルタゴの歴史は文明の浅薄さと脆弱さを示している。彼らは富の獲得だけに血道をあげ、政治的、文化的、倫理的な進歩を目指す努力をしなかった」(J・トゥーテイン) 目先の利益にだけに目を奪われていては、日ごろから防衛のための備えをすることもおろそかにされる。青少年には国家公共のために働くことを名誉とみなす倫理教育もできなかったろう。 そもそも豊かな文化伝統なしに経済至上主義の中で育てられた青少年には、祖国のために尽くし、祖国の危機には立ち上がる祖国愛も育たなかっただろう。下に続く
2015/06/03
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上からの続き■5.滅亡の第3の要因:ローマの敵意に対する鈍感さ 滅亡の第三の原因として挙げられているのが、ローマの敵意に対する鈍感さである。 第一次ポエニ戦争(紀元前264~241年)の敗戦では広大な領土放棄以外に、年間の農業生産に匹敵する賠償金を24年に渡って支払うこと、さらに第二次ポエニ戦争(紀元前149~201年)では、同程度の賠償金を50年間支払い続けることとされたが、カルタゴは、その通商での経済力でいずれも早めに完済してしまう。 それほどの経済力を持ったカルタゴを危険視して、ローマの政治家たちはカルタゴを滅亡させるべきと決心する。__________ 第二次ポエニ戦争での敗戦にもかかわらず、その後も発展しているカルタゴを脅威とする人々がローマに増加していくが、その中心にあったのがローマの政治家マルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウス(大カト)である。第二次ポエニ戦争に従軍して敗走した経験もあり、カルタゴへの敵愾心に満ちていた政治家であった。 カトはカルタゴから輸送されてきた見事なイチジクを聴衆に見せ、このような立派な農産物を生産する国がローマから三日の航海の距離にあると演説し、その最後を「デレンダ・エスト・カルタゴ(カルタゴを殲せんめつ滅すべし)」と締めくくっていた。この繰返しが次第にローマ市民に浸透し、戦争の気運が高まっていった。これが第三の教訓である。[1,p31] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ローマはカルタゴに、地中海に面した首都を捨て、内陸部に遷都せよ、という無理難題を要求して、ついに3度目の戦争に追い込む。そしてカルタゴを破った後は、その都市を跡形もなく破壊し、住民を虐殺するという、敗者に対して寛容なローマにしては珍しく残虐な措置をとったのも、こういう反カルタゴ感情がゆえであろう。 不思議なのは、カルタゴがこういうローマの敵意に対して、鈍感だったことである。経済至上主義で国の安全に無頓着であれば、他国の脅威に対しても、敏感にはなれなかったのだろう。■6.ベネチアの繁栄と衰亡 カルタゴと同様に、地中海での通商を握って、長期間、栄えながら滅んだのがベネチアである。海上に浮かぶ小さな人口島を本拠地として、697年の初代元首就任から1797年にナポレオンに征服されるまで、実に1,100年間も独立を維持した[a]。優れた造船技術を武器に、最盛期には地中海最大の海洋国家として栄華を誇った。 ベネチアについては本誌104号[e]で紹介したので、ここでは繰り返さないが、そこで強調したのは、発展の原動力となったのが貴族も平民も国家に尽くそうという強い同胞感だった事だ。この力によって、人口10倍もの大国トルコと250年間も戦い抜いたのは、カルタゴとは大きく異なる点である。 しかし、最後には衰退し、ナポレオンに屈服するのだが、そこでの要因として、月尾氏は以下の3つを挙げている。 第1は技術革新への乗り遅れ。15世紀にポルトガルで3本の帆柱を備えたキャラベル船が開発され、コロンブスのアメリカ大陸到達などの大航海時代が始まった。この船は造船単価が3.5倍にも跳ね上がるが、ベネチアは造船予算を1.5倍にしか増やさなかった。当然、保有する隻数は半分以下となり、海軍力も、交易力も大きく低下した。 第2はアジアとの交易で、アフリカの希望峰周りの航路が開拓され、ポルトガルやスペインなどの大西洋に面した港湾都市が交易の中心となったこと。従来の東地中海から中近東を通る陸上ルートは危険で、コストも高いので廃れてしまった。 第3に、国民の通商意欲の減退と、それを反映した人口の減少。海に向かう進取の気風が失われ、ベネチアの対岸の大陸部分に引き込むようになった。守りの生活に入ると、子どもの増加が財産の細分化につながるため、貴族の家庭で独身比率が高まっていった。16世紀の51%から、17世紀に60%、18世紀には66%と上昇していった。__________ これは肉体的な精力が減退したというよりは、精神的な意欲の衰退と理解すべき現象である。一八世紀末のナポレオンの恫喝(どうかつ)に戦時問題首脳会議も大評議会も弱腰で右往左往し、簡単に屈服した下地は、二〇〇年近い社会と国民の性質変化によって出来上がっていたということになる。[1,p40] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄■7.オランダの海洋覇権がいかにイギリスに奪われたのか 月尾氏の著書にはないが、弊誌で紹介したオランダの盛衰も関連するので、簡単に触れておこう。 大英帝国が築かれる前に、オランダはアフリカの希望峰から、セイロン、ジャカルタ、広東、そして長崎の出島に至るまで植民地や通商拠点を置き、17世紀の世界貿易を握っていた。 オーストラリア大陸はオランダ人が発見し、オランダのホラント州から「ニューホラント」と名付けられていた。ニュージーランドは、同様にゼーラント州から付けられた名前がそのまま残っている。アメリカのニューヨークは、もとはニューアムステルダムだった。 このオランダの海洋帝国は、その後、ほとんどイギリスに奪われ、大英帝国として「上書き」されてしまう。 かつてオランダはスペイン帝国の一領地だったが、自由と独立を求めて同盟国イギリスと共に80年戦争を戦い抜く。戦争の途中、オランダの商人たちが実権を握ると、彼らは金はかかるが利益の少ない地上戦闘はイギリスに任せ、自らは海洋権益の拡大を目指した。こうしてオランダは一大海洋帝国を築き上げた。 しかし、このオランダの姿勢は、イギリスの反感を買った。イギリスの当時の重商主義者トーマス・マンはこう語っている。__________ オランダ人が東西両インドを征服し、その交易の果実をわれわれからむしり取っている間、われわれはオランダの防衛のために血を流しているのである。[2,p219] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 1648年にスペインとの講和が成立するや、わずか4年後には英蘭戦争が始まっている。その最中でもオランダ商人の中には、イギリスに軍艦用資材を売って大儲けする輩(やから)までいて、そんな状態ではオランダは勝てるはずもなかった。こうしてオランダの海洋覇権は次々とイギリスに奪われ、世界貿易の中心はアムステルダムからロンドンに移ったのである。■8.日本が世界地図から消滅しないために カルタゴ、ベネチア、オランダと、一時は海洋大国として隆盛を誇りながら、その後、滅亡ないし衰退した国家を見てきた。 これらの国々が発展する過程に共通して見てとれるのは、国民が経済発展を目指して自由に励む姿である。国民が自由に自らの利益を追求する時、個人の創意工夫によって新しい技術が生まれ、新たな航路が切り開かれ、交易が始まる。その活動が海洋大国を築く。 しかし、いざ戦争となると、経済力とは別次元の力が必要となる。カルタゴの例で見たように金で雇った傭兵では、命を懸けてまで国を守ってはくれない。自分の家族、郷土、国家を自らの生命を犠牲にしても守ろうとする祖国愛を持った国民が必要なのである。経済至上主義では、国民一人ひとりが自分の利益を追求するだけで、そのような祖国愛は生まれない。 各自が自分の利益だけしか眼中になければ、他国が敵意を燃やしていても気がつかない。カルタゴがローマの敵意に気がつかず、オランダがイギリスの怒りを買ったのも、経済至上主義の故だろう。祖国を守りたいという姿勢があってこそ、敵国や同盟国の動向・心理にも注意を払うようになる。 また、経済至上主義では、ある程度の豊かさを達成してしまうと、それに満足してしまう。ベネチアのように結婚して子孫を作るよりも、独身のまま今の生活を楽しんだ方が良いと考える。子孫のために、何とか新たな繁栄の道を探ろうという志を持たなくなる。 カルタゴ、ベネチア、オランダの歴史は、現代日本に二つの道を示している。一つは、経済至上主義で高度成長を遂げた現状で満足してしまって、十分な防衛努力もせず、近隣諸国の敵意や同盟国との連帯に注意を払わずに、少子化と経済停滞の道を歩むか。この道では、いざ敵国に攻め込まれたら、滅亡は必至だ。 第二の道は、祖国愛を蘇らせ、自らの国は自ら守るという気概を奮い起こし、防衛の備えを怠らず、子孫のために新たな精神的、経済的発展を志す。 日本が世界地図から消滅しないための岐路に我々は立っている。(文責:伊勢雅臣)
2015/06/03
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転載記事********■■ Japan On the Globe(901) ■■ 国際派日本人養成講座 ■■ Common Sence: 「侵略」という言葉が生む思想的混乱 ~ 福田恆存『人間の生き方、ものの考え方』を読む「侵略と言うのはなぜ悪いの?」と聞いたら、学生は困った顔をしていた。■転送歓迎■ H27.05.24 ■ 43,993 Copies ■ 4,018,951Views■無料購読申込・取消: http://blog.jog-net.jp/■1.「安倍さん『侵略した』と言ってほしい」 朝日新聞デジタル版は、本年3月9日付けの記事で、次のように報じた。__________「安倍さん『侵略した』と言ってほしい」 北岡座長代理 戦後70年に合わせた安倍晋三首相による「安倍談話」について検討する「21世紀構想懇談会」の座長代理で、国際大学学長の北岡伸一氏は9日、東京都内で開かれたシンポジウムに出席した。講師の一人として参加した北岡氏は首相の歴史認識に関して、「私は安倍さんに『日本は侵略した』と言ってほしい」と述べた。 北岡氏は「日本全体としては侵略して、悪い戦争をして、たくさんの中国人を殺して、誠に申し訳ないということは、日本の歴史研究者に聞けば99%そう言うと思う」と指摘した。・・・[1] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ この記事を読んで、「どうもおかしい」と感じた。東大名誉教授で元国連次席大使まで務めた識者が、首相を「安倍さん」などと朝日流に呼んだり、「侵略して、悪い戦争をして、たくさんの中国人を殺して」などと、かつて「百人斬り」捏造記事を書いた本多勝一・朝日新聞記者[a]並みの粗雑な表現をするだろうか。 北岡発言に関しては、朝日から一部、訂正記事も出ているが[2]、真相は闇の中だ。しかし「安倍さん『侵略した』と言ってほしい」と思っている左傾マスコミが少なくないことは確かである。__________歴史プロパガンダ「従軍慰安婦」「百人斬り」「南京大虐殺」「沖縄住民自決命令」の嘘を暴く。週刊メール入門講座「歴史プロパガンダとの戦い」開講 by 国際派日本人養成講座 http://bit.ly/1IVRk4D ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄■2.「侵略と言うのはなぜ悪いの?」 このニュースで、最近、読んだ本の一場面を思い出した。評論家・劇作家・演出家など多彩な活動をしていた福田恆存(つねあり)のもとに、ある学生が訪ねてきて、アメリカの侵略主義やら、帝国主義だとか、さんざん喋った時のこと。__________私もその時疲れていたので「侵略主義と君が言っているのを聞いていると、何だか悪い事みたいだね」と言ったら、呆気(あっけ)にとられた顔をして「いいことですか」と言う、「いや、いいことではないけれども、侵略と言うのはなぜ悪いの」と聞いたら困った顔をしておりました。侵略と言うのは果たしていいのか悪いのかという価値観をよく考えないで、侵略主義などという言葉を使うところに問題があるのです。[3,p25] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 昭和37(1962)年に行われた講演だから、もう半世紀以上も前の話である。それにしても、「侵略と言うのはなぜ悪いの」などと考える事も無く、安倍首相に「侵略の反省」をさせたがる現代の左傾マスコミを見ると、半世紀前の大学生と同じレベルでしかない事が分かる。■3.「侵略」というレッテル貼り「侵略と言うのは果たしていいのか悪いのか」という設問に根本から取り組んだ論考が、長谷川三千子・埼玉大学名誉教授による産経新聞「正論」欄に寄せた一文である。[4] 長谷川氏は「侵略」という言葉が、第一次大戦で、戦争の原因をもっぱら敗戦国ドイツだけに負わせ、巨額の賠償を支払わせるために登場したという経緯を述べている。その後、「侵略」を客観的に定義づけしようという努力はなされたが、国際的合意には至っていない。__________つまり、「侵略」という言葉は、戦争の勝者が敗者に対して自らの要求を正当化するために負わせる罪のレッテルとして登場し、今もその本質は変わっていないというわけなのです。この概念が今のまま通用しているかぎり、国際社会では、どんな無法な行為をしても、その戦争に勝って相手に「侵略」のレッテルを貼ってしまえばこちらのものだ、という思想が許容されることになるといえるでしょう。[4] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 敗戦国の日本を「侵略」の罪で裁くことは、第2次大戦後に行われたが、そこでは戦勝国アメリカによる原爆攻撃や、ソ連による中立条約違反かつ日本降伏後の北方領土侵攻などは不問にされている。現代においても、中国がチベットやウイグルに武力侵攻し、住民に蛮行を行っている事は「侵略」とはされていない。 要は、喧嘩に負けた方が、リンチ裁判を受けて、いつまでも「前科者」とレッテル貼りされているようなものなのである。■4.特定の立場に立った言葉として独自の働き 福田恆存が、「侵略と言うのはなぜ悪いのか」と意地悪な質問をしたのは、次のような考えからである。__________・・・資本主義、権力、支配階級、侵略主義というような言葉が、特定の立場に立った言葉として独自の働きをもって使われていることにも注意していただきたいと思います。これらの言葉はマルクス主義というものを考えなければ出て来ない。極端な言い方をするとマルクス主義の方言であります。ところがマルクス主義者でない、もっと一般的な人々がそのことには全く無関心にこういう言葉を使っているわけです。マルクス主義者の言葉というのは、プロレタリア革命を起すということを前提として作られた術語であります。従ってその言葉は革命を起すのに都合のいいようにして ・・・全部こしらえてあるのです。[3,p23] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄「侵略」という言葉の意味を自分自身で考えずに、「『侵略した』と言ってほしい」などと語る人間は、すでにその言葉に洗脳され、自由な思考が出来なくなっているのである。 人間は言葉によって物事を考える。一部の言葉には、ある一定の方向に人間を誘導しようという魔術がかかっている。そんな言葉を使ったら、その人間の思考もねじ曲げられてしまう。前述の福田恆存の講演は、日本の思想的混乱を論じたものだが、それを言葉の問題から論じ始めたのは、この考え方からだ。■5.大工道具と電動工具 福田恆存は、言葉は道具である、という説に賛成する。しかし、その道具とは、誰が使っても同様の効果が得られるもの、という意味ではない。福田は大工道具を例に、こんな経験を語る。__________ これは私の子どもの時の経験ですが、私の家で普請をやって大工が鋸だの飽だのを持って参りました。職人が食事に行っている時、私はこっそりそれらの道具を使ってみたのです。ところが職人が帰って来るとそれがすぐ見つかってしまいました。自分の手慣れた道具を、素人の子供が使えばどこかに狂いが生じる、それは職人たちが自分でそれを使ってみるとすぐにわかるのです。何も左甚五郎のような名人ではなくても、大工で飯を食っている人間なら必ずわかる筈です。それらの道具は、その機能を最もよく発揮できる状態にあった。しかし素人の私が使ったために狂いが生じたのです。すなわちその鋸がどのように使われれば最も機能的に働くかということは、その持主である大工さんが一番よく知っているし、その大工さんが使うのに一番いい状態にある事が最も機能的であるといえるわけです。[4,p14] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 熟練の大工が「手慣れた道具」を使って家を建てるように、我々は自分自身で使い込み、手に馴染んだ言葉を使って、自らの考えを組み立てねばならない。それが人間の自由な思考である。 それに比べれば、「侵略」とか「権力」、「支配階級」などという言葉はチェーンソーや電導ドリルのようなもので、未熟練工がプレハブ住宅を大量に効率よく作るには適しているが、熟練職人が腕を振るい、精魂込めて一軒の家を作るというわけにはいかない。下に続く
2015/05/24
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上からの続き■6.「もったいない」という言葉に潜む文化感覚「手慣れた道具」という意味で、福田が例に挙げているのが「倹約」という言葉である。__________私たちは子供の頃修身でよく倹約という美徳を教わりました。進歩的な考え方、ことにマルクス主義的な考え方からすると、倹約を道徳の徳目として教えるのは支配階級が自分の支配に都合のいいように、被支配階級を貧苦の内にとじこめて置く為のものだと言うことになります。しかし私は必ずしもそういうことで片づくとは思いません。そもそも倹約とは物自体を尊ぶという事なのです。例えばよその家で出された食事を残すと「もったいない」と考える。それは第一にその食物に食物としての本来の機能を発揮せしめなかったから「もったいない」 のです。第二にその食物を作ってくれた相手の家の人の誠意を十分に受けとめ得なかったという意味で「もったいない」わけです。このようにすべて物質の中に何か心を見て行くというのが日本人の本来の生き方です。そういう点で、一種の美意識というか、文化感覚というか、そういうものが私たちの中に自ずからに備わっていたのです。従って私たちは物を粗末にすることに心の醜さを感じるのです。[4,p19] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄「もったいない」とは、「勿体」、すなわち物の本来の価値を十分に生かせずに申し訳ないと思う気持ちを表す。和英辞書を引くと、"wasteful"という単語が充てられているが、これは「経済的に無駄が多い」という効率性の概念で、日本語のような倫理的な罪悪感は込められていない。■7.イタリアでの「もったいない」 イタリア在住の知人から聞いたが、あちらのレストランでは、一人前頼んでも食べきれないほど出てきて、残しては「勿体ない」ので、どう注文するのか、日本人は皆、苦労しているという。 イタリア人の客を見ると、上流のレストランでは子どもでも一人前注文し、食べきれない分は盛大に残していく。自分で金を払って注文した以上、食べるのも残すのも自分の勝手だと言う感じとの由。 その知人は、夫婦でレストランに行くと、フルコース一人分を二人で分けて食べると丁度良いのだが、そもそも一人分の皿を二人で分けて食べることがテーブルマナーに外れてるので、店の人もいい顔をしないし、単にケチなだけだと思われて、やりにくいらしい。 その知人の推察では、もともとイタリア料理は王侯貴族向けのもので、大量に振る舞い、残ったら使用人たちが勝手に食べれば良い、という伝統があるのでは、と言う。 イタリア北部のアルプスに近い地方では、うさぎを食べる習慣がある。これは民衆料理で、領主が牛や鹿など大型動物は自分たちで食べるので、民衆には食用を禁じたため、農民たちは隠れて兎を育てて食べていた。 こういう階級社会では、倹約とは「支配階級が自分の支配に都合のいいように、被支配階級を貧苦の内にとじこめて置く為のもの」という説明も、多少は頷けるのである。■8.日本人の生き方に根ざした言葉を それに比して、我が国では、皇室からして慎ましやかな生活を美徳とし、食べ物ても衣類でも「勿体ない」と大切に使ってきた。たとえば、明治天皇は10万首近い御製(お歌)を残されたが、それらは用済みの文書の裏などに書かれた。昭和天皇は、幼い頃、養育係だった乃木大将から「つぎのあたった服を着るのは恥ではない」と教えられて育った。[b] 現代日本人も「勿体ない」という言葉を使う事で、「物を粗末にすることに心の醜さを感じる」という先祖からの文化感覚を知らず知らずに身につけているのである。__________ 私たちの家庭で父親や母親が話している言葉、私たちがそれを聞いて育ってきた言葉は、本来の日本人の生き方に根ざした、身についた言葉です。・・・しかし、親と通じない言葉を使っていて、それが一体どうして身につくかという事を考えざるを得ないのです。もし自分が本当に民主主義という言葉を理解したならば、芋の煮えることにしか関心のないお婆さんにこれが話せないわけはない。[3,p36] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄「勿体ないから、物を大切に使わなければ」と言ったら、お婆さんにもすぐ伝わる。環境保護活動家として初のノーベル平和賞を受賞したケニアのワンガリ・マータイ女史は、日本で「もったいない」という言葉を知り、「Mottainai」キャンペーンを展開した。こういう言葉からこそ、我々の文化感覚に根ざした思想が育ちうる。 現代日本における思想的混乱は、我々の文化感覚から絶縁した言葉を無自覚的に使っている所から来ている。福田恆存は半世紀も前から、この問題を警告していた。当時、ほとんどのマスコミが左傾している中で、福田恆存は多勢を相手に、一人で孤独な戦いを続けていたのである。 それから50年経ったが、冒頭の「安倍さん『侵略した』と言ってほしい」などという記事を見れば、思想的混乱はまだまだ続いているのは明らかである。福田恆存は、草葉の陰で「まだこの様か」と地団駄踏んでいるのではないか。 現代の思想的混乱は、我々国民一人ひとりが乗り越えていかねばならない課題である。そのためにも『人間の生き方、ものの考え方 学生たちへの特別講義』[4]は福田恆存が大学生を対象にした読みやすい講義録であり、絶好の入門書である。(文責:伊勢雅臣)__________演題 「父、福田恆存を語る ー戦後思潮の中にあってー」講師 福田逸氏(演出家・翻訳家、明治大学教授)第18期 第27回 国民文化講座日時 6月13日(土)午後1時半~4時20分場所 靖国神社「靖国会館」参加費 1500円、学生500円主催 公益社団法人 国民文化研究会電話 03-5468-6230『人間の生き方、ものの考え方』より《 個人も、過去というものを失ったら人格喪失者になる。・・(略)国家も過去の歴史というものを否定するようになれば、その国家がなくなったということになる。だから、革命が起って全過去が否定されると、その国家は消滅して、別の国家がそこに生じたということになる。そうなれば、その構成員である個人も大変です。今まで過去の日本の歴史に背負われて来たわれわれは、どうしていいのか分らなくなる。個人も存立できなくなってしまう。そういうように国家と個人は密接につながって離すことができないものなのです。過去を保持するということ、その一貫性、連続性というものによって、個人の場合には一つの人格を持ち得るのです。国家もそれを保持することによって、国柄、国体というものを保ち得るのです。これを否定したらもうすべておしまいです。諸君にしてみれば生まれる前の戦争ですが、あの戦争を境にして、この一貫性、連続性はかなり危なくなった。・・(略)われわれの場合は、まだ過去を保持していますし、経験として過去を背負っている。あるいは過去に背負われているからいいのですが、諸君の場合は何とか努力して、過去を経験しなければだめだと思います。》 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄■リンク■a. JOG(028) 平気でうそをつく人々 ~ 「百人斬り」の虚報はいかに創作されたか 戦前の「百人斬り競争」の虚報が戦後の「殺人ゲーム」として復活した。http://blog.jog-net.jp/199803/article_1.htmlb. JOG(792) 国史百景(4) 昭和天皇をお育てした乃木大将 昭和天皇:「私の人格形成に最も影響のあったのは乃木希典学習院長であった」http://blog.jog-net.jp/201303/article_8.html■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け) →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。1. 朝日新聞デジタル『「安倍さん『侵略した』と言ってほしい」 北岡座長代理』、H27.3.9http://www.asahi.com/articles/ASH395JYRH39UTFK00M.html2.GOHOO「北岡氏「侵略戦争」発言報道は不正確 朝日訂正」http://gohoo.org/15031601/3.長谷川三千子「歴史を見る目歪める『北岡発言』」、産経新聞、H27.3.17http://www.sankei.com/column/news/150317/clm1503170001-n1.html4. 福田恆存『人間の生き方、ものの考え方 学生たちへの特別講義』★★★、H27、文藝春秋http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4163942092/japanontheg01-22/■前号「沖縄の祖国復帰を果たした県民の思い」に寄せられたおたより■難知閑智さんより沖縄戦の意義と祖国復帰の闘いについての真実を記していただき、有難うございます。私の従兄も沖縄戦で戦死いたしました。出征の前に律儀に正座して挨拶されたことを思いだします。その後、残された兄弟の辛い悲しい青少年期のことも忘れられません。しかし、決して犬死ではなかったのでした。そのことを改めて確認することができました。現今、沖縄では支那の長期戦略のもとに左傾化・反日化が進んでいますが、将兵と県民の沖縄戦の尊い犠牲に報いるためにも、こうした謀略を国民一致の力で打ち砕くことが必要です。 是非是非、真実がひろくゆきわたり、反日宣伝が物笑いになるような言語空間の形成にお力をお願いいたします。■春樹さんよりいつもありがとうございます。そして、「国際派日本人養成講座」900号おめでとうございます。これからも我々日本人のために素晴らしいメルマガをよろしくお願い致します。ところで、今回の900号の文中に出てきました“仲村俊子さん”は、私が少額ながら寄付させて頂いている“沖縄対策本部”の顧問をされている方なのですね!実際にお会いしたことはないのですが、寄付後に送られてくる『お礼状』と『活動報告書』の中に書かれている仲村俊子さんの文章を拝見するたびに「この人とこの活動している団体は信用出来る」と感じていましたが、今回貴誌で取り上げてもらったことで、“沖 縄対策本部”の活動の正しさに確信が持てました。間違いなかった!と思いました。沖縄の祖国復帰に際して、仲村俊子さんやその他関係者の方々の果した役割は計り知れないですね。頭が下がります。また、貴誌文中にありました「沖縄戦での軍民の尊い犠牲により、本土決戦を避け得て、その何倍もの国民が救われ、国家と皇室の護持ができたのである」その通りだと思います。沖縄戦で亡くなられた民間人を含めた英霊の方々に深謝致します。追伸仲村俊子さんが顧問を務める“沖縄対策本部”は、沖縄を中国の侵略の触手から守るために日々活動している団体です。活動内容にご賛同頂けました方は、恐れ入りますが寄付へのご協力をお願い出来ますでしょうか?!http://www.okinawa-taisaku.org/■編集長・伊勢雅臣より
2015/05/24
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転載記事*********◆リチャード・オルドリッチ『日米英「諜報機関」の太平洋戦争』を読み解く※要旨・日本の情報活動は、その行動パターンを欧米の目で見ると一見、素人風であったが、1942年以前のシンガポールでの英軍の配備・作戦計画を驚くほど詳細に把握していた。・アジアでの情報活動に生涯かかわり続けた、ある英国政府当局者は次のようにいっている。「情報はチーズのようなものだ。自分の好きなものか、先週買ってみたものを買うものだ」・帝国システムの諸問題に関するOSSのドノバンからの報告は、ルーズベルト大統領の事態の見方に一定の枠組みを与え、大統領自身が報告内容に関し直接対応をとることもしばしばあった。こうした報告資料の量はかなりに上り、いまでも残っている国務省とホワイトハウスの資料を見ると、OSSの調査分析部にいた元大学教授の情報調査員らによる報告が溢れている。・ロジャー・ルイスは次のように述べた。「戦略情報局(OSS)のさまざまな研究報告と並行し、特別研究部では膨大な情報と提言を蓄積していた。実際の領土問題での決定の段になると、国際的な会議に出ていた米国代表団はこの蓄積された膨大な情報を利用した。そうすることで、米政府としての考え方に一種の一貫性ができた。政府当局者や諮問役を務める学者たちは、さまざまな問題に関して実に長い時間をかけて報告をまとめ、最終的にはかなり大きな影響を及ぼしたといえる」・インドにおけるOSSの活動は、極東戦争での同盟国間の情報外交の複雑さを物語る。それは英国と米国が理解する「帝国」の中心にインドが位置していただけでなく、戦争期間中を通じてインドの政治情勢が不安定だったためだ。・インドの経済、政治状況に関するOSSの報告の量と範囲は驚くほどで、アメリカ国務省はこれらの問題が対日軍事作戦の遂行とは不可分であると確信した。・アジアの他の地域での業績がぱっとしない英国秘密情報部(SIS)だったが、中国では成功し、重要な任務達成ぶりを示していた。中国での見せ掛けにすぎないような戦争を背景に、SISは伝統的な力量を反映し、長期的視野に基づく政治・経済報告作業に集中することができた。・本書は、公開された英諜報機関の第二次世界大戦中の文書をはじめ英米の公文書、関係者の日記、自伝、研究者による著書、論文などを広範に渉猟してまとめたものだ。・本書前半の叙述の中心であるシンガポール陥落と真珠湾攻撃をめぐる情報活動の検証は、たとえ情報活動がうまくいっていても、それが政治の方向性に沿っていないと、無視されてしまうという冷酷な現実を明らかにしている。・本書では、チャーチル、ルーズベルトのアジア戦後構想をめぐっての考え方の違いという、「大きな枠組み」が、英米の情報、謀略、工作活動に具体的に反映されていたことが詳細に明らかにされた。・太平洋戦争とは、アジアが大英帝国の自由貿易・植民地システムから脱し、米国による門戸開放・米覇権システムへ組み込まれていく過渡期であったということが、本書の諜報活動の描写で具体的に見えてくる。※コメントアメリカ側の文献を見てると一方的な見方になってしまう。英国人が書いた本書のようなものを読むと、違う視点でかかれており面白い。いろいろな国の人の書いたものを読み漁ってみたい。★リチャード・オルドリッチ『日米英「諜報機関」の太平洋戦争』
2015/05/24
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「ねずさんのひとりごと」より転載させていただきます。731部隊の人体実験・細菌戦の嘘が改めて明らかに以下は、Facebookの石川様の投稿からのシェアです。まず、本文をそのまま転載させていただきます。https://www.facebook.com/photo.php?fbid=1472058213052950&...==========米国立公文書館が731部隊(関東軍防疫給水部)に関する機密文書10万頁分を公開《731部隊の人体実験・細菌戦の嘘が改めて明らかに》今まで反日勢力に散々あげつらわれ日本の残虐性の一例として利用されてきた、悍ましい〈人体実験〉をしていたと言われる〈731部隊の作り話〉が、米公文書の公開で明らかになった。こうして冤罪はひとつづつ晴らされて行く。731部隊(関東軍防疫給水部)は細菌戦研究はしていたものの、細菌戦を行った証拠は全く見つからなかった。米国立公文書館は、石井四郎中将を始めとする731部隊関係者の個別尋問記録や、石井中将が細菌戦研究の成果を1947年6月ごろ執筆し米軍に引き渡した事を裏付ける最高機密文書も明らかにした。ナチス・ドイツと日本の「戦争犯罪」を調査する為、クリントン政権当時の1999年に編成された記録作業部会(IWG)は「人体実験」に留まらず「慰安婦問題」などの悪事を裏付ける文書も必死に探したが、それらを裏付ける証拠は何ひとつ見つからなかった。(つまり1999年以降の調査で「性奴隷」が言いがかりである事はクリントン政権時には既に判明していたという事だ。併し、同盟国 米国は口を噤んでいた)奉天(現・瀋陽)の収容施設で、連合軍の捕虜に細菌実験が行われなかったかを調べたり、日本からの風船爆弾が細菌戦に使われないかを調べたりしたが「当面は細菌戦を想定していない」と結論づけた文書も発見された。つまり米国が持っていた731部隊に関する10万ページの機密文書には、731部隊が人体実験を行ったり細菌戦を行った証拠は全くなく、戦後に言われた事は全て根拠なき捏造であったと証明されたのだ。===========731部隊というのは、もともとは昭和11(1936)年に、当時の関東軍板垣征四郎参謀長によって「関東軍防疫部」として発足した機関です。部隊長の石井四郎軍医中将が、千葉県山武郡芝山町加茂の出身で、同郷者の出身者が当初数多くいたことから、初期の頃は加茂部隊と呼ばれたりしていました。そしてこの「関東軍防疫部」には、同時に「関東軍軍馬防疫廠」も併設されています。つまり、軍馬の防疫も所轄していたのです。この二つが、昭和15(1940)年に統合されて、「関東軍防疫給水部」となりました。これが通称「満州第731部隊」です。この部隊の大手柄となったのがノモンハン事件(昭和14年)で、このとき石井軍医中将は、特殊な技術の石井式濾水機を考案し、現地での給水活動にあたりました。御存知の通り、大陸では洋の東西を問わず、糞尿を川にそのまま垂れ流す風習がありました。このため過去においては西洋でさえペストが大流行し、人口の3分の1が失われるというたいへんな事態を招いています。ですから大陸における衛生的な給水は、軍の行動にとって、とても大切なことです。このことはすこし考えたらわかります。日本は、国土の表土が衛生的に保たれ、山には森の樹々が茂り、その下の土は腐葉土や岩盤、砂利、粘土層など、幾重にも折り重なった地層があって、雨水が自然濾過されて、衛生的できれいな地下水が、全国いたるところで湧きます。ちなみに、富士山に降り積もった雪が溶けて地下水となり、これが足柄あたりで湧き水となるまでに、約30年かかります。自然は、それだけの長い時間をかけて、水を清潔で美味しい水にしてくれているわけです。ところが大陸では、まず緑がありません。黄砂の砂漠で、表土にはわずかばかりの草が茂るだけです。自然に木が生えても、すぐに刈り取られたり燃やされたりするのです。緑ができようがない。いま、グーグル・アースなどで衛星写真を見ることができますが、赤や黄色の砂漠ばかりの大陸で、かつての満州や朝鮮半島、あるいは日本軍が進駐していた支那東部に緑があるのは、当時、日本の軍関係者や民間人が「みどりの潤いがあれば人々の殺伐とした心がきっと和むに違いない」と、数十億本単位で植林事業を展開したからです。話が脱線しましたが、そんな黄土ばかりの大陸で、軍が水を確保することは、実はとても大切なことでした。だからそのために防疫をする。そのための防疫の専門部門をつくる。これは、もう当然すぎるくらい当然の活動であったわけです。防疫ですから、当然、細菌への対策研究をします。しかもそれは当時としては、世界最先端の防疫学上の第一級資料です。このため731部隊の研究資料などは、戦後、すぐに米軍がすべて接取してしまいました。この資料は、米軍にとっても、米国の薬品メーカーにとっても、きわめて貴重性の高い資料でした。ですからその接取資料は極秘扱いとされました。そして極秘であることをいいことに、まるで731部隊が細菌兵器開発の悪魔の部隊と言われるようになりました。言い出し始めは森村誠一の『悪魔の飽食』です。この小説は単なる空想話でしかないし、史実に関してあまりにも誤りが多いことが度々指摘されていたにも関わらず、いつの間にか、その小説の作り話が、あたかも真実であるかのように宣伝されました。これを利用したのが中共政府で、中共内に「731部隊記念館」をつくり、そこに実は日本人が被害者である済南事件(http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1879.html)のときの写真を「日本陸軍七三一部隊による人体実験の犠牲者の写真」として蝋人形にして展示し、かつまた学校の歴史教科書にまで掲載しました。また米国も、その史実については、沈黙を守り続けてきました。理由については、米中の関係悪化を懸念した、あるいは薬品メーカーにとって終戦時に日本から奪いとった研究データが躍進のきっかけになっていたことを隠したかった等々、いろいろな忖度があります。どれも当たらずとも遠からずとは思いますが、それによって日本が貶められる状況が続いていたことは事実です。けれども、これは先日「安倍総理米議会演説と新たな世界秩序の開始」(http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2631.html)の記事に書きましたが、今回の安倍総理の米議会演説により、日米関係は、第二次世界大戦の戦勝国と敗戦国という枠組みから、新たに「東西冷戦を一緒に戦い勝利した同盟国」という立場へと大きく変化しました。今後も日米の同盟関係は、ますます強化されていくものと思われます。そしてその中にあって、今回の「米国立公文書館が731部隊(関東軍防疫給水部)に関する機密文書10万頁分を公開」にも至っているわけです。そして公開文書の中には、どこにも日本が悪辣な細菌兵器を用いたといった記録はなかったのです。日本が世界秩序の中にあって、「第二次世界大戦の敗戦国」という立場にあったことは、同時に「敗戦利得者」と呼ばれる人や国家を勢いづかせてきました。ですから、戦前戦中の日本を悪くいうことは、それはついこの間までは「世界秩序に基づく正義」であったわけです。一方で、西側諸国の一員として、東西冷戦の最前線にあった南北朝鮮に関しては、南鮮が経済的に豊かな国であり、共産圏の北が貧しい国であるということが、東西冷戦において「共産主義は人類に幸福をもたらすものではない」ことのひとつの証明として、国際社会に「必要なこと」とされてきたわけです。そしてそのために、日本は、米国の意向を受けて、十分すぎるほどの支援を南朝鮮に与え続けてきました。韓国の間違いは、彼らの経済的成功が、「彼ら自身の経済的努力」と「反日という正義」によってもたらされたと自己肥大したことです。彼の国の経済的成功は、実はまったく逆で、「日本からの金銭、技術、人の派遣など一切合切の支援」と、「東西冷戦の最前線のモデル国として日米による民主主義という正義」を証明するためという、目的に沿って、実は「政治的につくられた成功」であったわけです。また、中共については、支那の巨大なマーケットへの期待があったという見方もありますが、実は、最後に残った共産主義という悪魔の思想に侵された支那を、内部崩壊に導くために、あらゆる経済的支援が与えられ続けていたのです。支那の民衆が貧しければ、民衆には情報力がなく、結果として政府の言いなりになるしかない。つまり隷民から一歩も出ることができない。ところが、支那の民衆が豊かになりはじめると、自然と情報力が増してくる。彼らが国際社会にもどんどん出てくる。すると、自国の持つ政治体制のあまりにも理不尽な姿に、彼ら自身が気づくようになる。これが何を意味するかといえば、中共は、もはや国家として存続することも国家を維持することもできなくなる、ということです。まだまだこれからも、敗戦利得にしがみつく人々によって、日本国内も、また東亜の情勢も混乱が続くことと思います。けれど、戦後70年、これまで敗戦利得者たちが主張していた、かつての日本に対する「嘘の山」は、これから次々と明るみに出てきます。つまり、彼らの主張は、それがどんなに立派な会社や政治家や大学教授の主張や本であったとしても、あと数年のうちに、ことごとく「クズの山」になることでしょう。世界はいま、おおきく変わろうとしているのです。最後に、731部隊の石井四郎陸軍軍医中将は、戦後、新宿区内で医院を開業し、近隣の住民が怪我や病気になると無償で診察、治療を行いました。このことは、昭和57(1982)年8月29日の『The Japan Times』で、報道されています。たいへんな人格者で、多くの患者さんから慕われました。そして昭和34(1959)年10月に、満67歳で天寿をまっとうされてお亡くなりになっています。http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2634.html★731部隊は、私も酷い人体実験などを行う日本軍で、悪魔のような蛮行の数々を行ったと聞いたことがあります。それを聞いた時は、ひどいショックを感じたものです。それが、また、米国の公文書により嘘であることが証明されたことは、とても嬉しいことですが、慰安婦や南京事件と同じく、この731部隊も、その嘘の出所を作ったのは日本人だということは、また違う意味でショックです。そしてそれを巧みに利用して来た中共や韓国。同じ構図ですね。従軍慰安婦や南京事件と・・・ほんとに世界一反日の国日本の姿が、ここでも浮かび上がります。。731部隊の汚名が晴れた反面、手放しで喜べない状況に複雑な思いを感じます。
2015/05/13
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