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2025.05.05
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カテゴリ: 音楽
亭主はついに、というかようやくクラシック音楽論の核心を捉えたと思しき本に出会いました。件の本は「聴衆の誕生—ポストモダン時代の音楽文化」(中公文庫)、著者はこのブログでも何度か言及した渡辺裕氏です(例えば こちら )。



実はこの本、初版が1989年3月に春秋社から刊行され、その後1996年に増補版、2004年に新装版、そして2012年には中公文庫に収められて今日に至っています。亭主が近所の書店で先日手にした文庫本は2018年の再版なので、かれこれ30年以上の長きに渡り読まれ続けていることになります。

この本を読むと、亭主がこれまで十数年にわたり感じてきたクラシック音楽文化全般に対する疑問や不満(?)が見事に言語化されており、さらにはその原因や歴史的由来と執筆当時までの状況変化(本書が書かれたのはバブル景気時代!)が実に見通しよく総括されています。

数えてみると、著者は当時まだ三十代半ば。この若さでここまで透徹した論評を書けるのも驚きで、本書が出版後直ちにサントリー学芸賞の栄に浴したことも当然のように思われます。(それに比べ、亭主がこの本に出会うまでに35年もの年月を要してしまったことがなんとも情けないところ。…とはいえ、それは本書のメッセージをフルに受け取れるようになるために必要な準備期間だった(=分相応)ともいえますが。)

さて、本書を舌足らずの要約で紹介するのは面白みを半減させるだけなのと、今や安価な文庫本としてどこでも手に入るので、少しでも気になる読者は是非手にとってほしいところです。が、これで終わりではブログとして締まらないの少しだけ触りをご紹介しましょう。そのキーワードはずばり「 近代的聴衆 」です。

「近代的聴衆」とは何かを一言で言えば、19世紀以降にウィーンで盛んになる「真面目な音楽」(=芸術音楽)を支えたブルジョア階級の聴衆です。また「真面目な音楽=純粋音楽」とは、何らかの「内容」を伝えるためのメディアとしての音楽ではなく、それ自身で自立した音楽(典型的には器楽やオーケストラ作品)を指します。

ここで重要なこととして、近代的聴衆は「演奏そのもの」ではなく、作曲家が意図した「真面目な音楽の形式・構成」を 耳で聞き取る ために「 集中的聴取 」という音楽鑑賞スタイルをとるようになります。

従って、この聴取態度で前提となる演奏家の役割は、作曲家と聴衆との間を単に媒介するだけです。なので、演奏家自身の「主観的解釈」を披露したり、増してや「名人芸」などを持ち込んだりして集中的聴取を妨害してはならない(!)というルールが支配するようになります。

また、真面目な音楽の推進者たちは、 もともと不人気だったそのような音楽のコンサートを興行的に成り立たせる ために、娯楽的な音楽よりも真面目な音楽が「より高級である」という 価値観 、さらには「より聴かれるべし」という 倫理の問題 としてキャンペーンを展開し、近代的聴衆の支持を得ることに成功します。(その時代背景には「音楽の国ドイツ」というアイデンティティに基づく国民国家形成の機運の盛り上がりもあったでしょう。)そして、演奏される音楽も、同時代の作曲家のそれからベートーヴェンなどの「巨匠」の「名曲」へとシフトしていきます。

このような近代的聴衆の集中的聴取こそが、こんにちまでも続く「暗い客席で咳払い一つ立てず静かに音楽に集中する」という 、クラシック音楽のコンサートにおける極めて禁欲的な聴取スタイルの元になったわけでした。

一方、娯楽のために音楽を聴きにコンサートに脚を運ぶ聴衆にとっては、こんなメンドーな聴き方が楽しいはずもありません。彼らにとってのコンサートとはまず社交の場であり、音楽はその場の雰囲気を演出する単なる小道具の一つ。また、一応は音楽を聴くのが目的だとしても、その楽しみは音楽そのものというよりは演奏の名人芸であり、オペラであればその歌唱力や演技の巧さでしょう。(これはカストラートが大活躍した18世紀、B. マルチェッロの「当世流行劇場」に描かれたオペラの聴衆の態度の延長上にある態度とも言えます。)

19世紀から20世紀初頭にかけては、このような娯楽目的の聴取が低俗で不道徳であると陰に陽に批判された時代というわけです。これは、長命だったリストが、その前半生に名人芸でミーハーな聴衆をキャーキャー言わせていたものの、後半には修道僧のような出立ちで「真面目な音楽」派として振る舞っていたことにも象徴されるというもの。

近代のクラシック音楽文化ははこうして「娯楽的な音楽」やそれを目的とする聴取態度を切り捨て、「真面目な音楽」派が主導権を握ったわけですが、20世紀に入るとそれに対する反動が色々と出始めます。例えば作曲家側では調性の破壊(新ウィーン楽派)、家具の音楽(サティ)、偶然性の音楽、ミニマルミュージック(ライヒ)など。

特に、サティ以降の音楽は、そもそも作曲家の意図からして、音によって作品の「形式・構成」を聴衆に伝える(表現する)ことにはなく、真面目な音楽とは別の音楽の有り様を提示した点がその眼目です。

亭主もサティの「ヴェクサシオン」(1分程度の曲を840回繰り返す曲)などの話を耳にして「何ともクラシック音楽らしからぬ馬鹿げた音楽だな」という印象を持っていましたが、実際まさにその通りというわけで、彼の音楽は集中的聴取を拒絶するための音楽と言えます。(サティは自分の音楽があたかも「真面目な音楽」のように演奏され、あるいは聴かれているのを眺めて「してやったり」と悦に入っていたかも?)

そうこうするうちに、今度は自動式ピアノやレコードといった複製技術の発達により、コンサートという限られた機会を前提とした音楽享受スタイルがマイナーになっていきます。別の言い方をすれば、これまでコンサートを中心に動いてた音楽の商業化(興行ビジネス)のあり方が一変する事態となったというわけです。

以上は本書の第1章「近代的聴衆の成立」、および第2章「近代的聴衆の動揺—1920年代」までの大雑把な梗概で、亭主にとってはこの2章を読むだけでこれまでの断片的な知識が見事に整理整頓されたという解放感を味わうことができました。

が、本書の分析の面白さはこれに続く第3章「近代的聴衆の崩壊」、第4章「新しい聴取へ向けて」にあります。

さらに、7年後の補章でそれまでに起きた世の中の変化、および自身の研究の深化を受けて語られる著者の戸惑いや、25年後の文庫化に際して付けられた書評の達人・三浦雅士さんによる卓抜な解説記事も読み応え十分。

これを読まずしてクラシック音楽文化を語れない、初出から35年を経てもいまなお必読の一冊と言えそうです。









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Last updated  2025.05.05 17:59:39
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