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2026.01.25
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カテゴリ: 音楽
昨年の暮れに、A新聞で「古楽の現在地」と題する連鎖コラムが4回にわたって掲載されました。第1回では古楽復興運動の立役者だったアーノンクールの活躍を取り上げ、2回目以降では彼らを異端扱いしていたクラシック音楽界でもその考え方や音楽に対するアプローチが徐々に広がっていく様子が紹介されています。

なかでも最終回で引用された「古楽の探究は、クラシックがまとう『教養』の呪縛を断ち切り、当時の人たちと同じように、現代の奏者と聴衆がともに大作曲家たちの冗談やいたずらを楽しむためにあるんです」という鈴木秀美さんの言葉、あるいは「僕らが再現したいのは、以前に鳴り響いた音色そのものではなく、どこまでも自由を許す寛容の精神なのです」という濱田芳通さんのそれは、「古楽の精神」とは何かを端的に語っていると思われます。

ところで、引用の中にある「クラシックがまとう『教養』の呪縛」とは、教養と言われるものが往々にして権威主義・エリート主義と一体になっていること(=教養主義)に対する批判を含んでいます。これはクラシック音楽に限らず芸術・文化一般に言えることで、教養が権威主義と結びつくと人の自由な思考や感性を縛り、寛容さを失わせる方向に働いてしまうことを表しています。

以前にこのブログでも紹介した「 教養主義の没落 」という竹内洋氏の著作では、日本における教養主義が、明治後期から戦前昭和にかけて「西洋古典崇拝」をベースにして旧制高校・帝大の学生エリート文化として発展し、戦後の高等教育の大衆化とともに廃れていく様が豊富なデータに基づいて描かれていました。その様子は、明治期の日本が礼賛した西洋文化の一部であるクラシック音楽の受容に始まり、大衆娯楽に対抗する「高級文化」として威光を放つ昭和前半から徐々に「オタク文化」となりゆく昭和後期ー平成時代までの栄枯盛衰の歴史によく対応しているように見えます。

とはいえ、こうして教養主義が時代遅れな過去の遺物のようにディスられている様を見ると、アマノジャクな亭主としては「教養とはそんなに悪いものか?」と反感を覚えるところも。

ここで少し冷静になって考えれば明らかなように、 「教養」と「教養主義」は同じではない ので、これらを明確に区別して考える必要があります(前述の引用記事中にある「『教養』の呪縛」も本来は「『教養主義』の呪縛」というのが正しい)。

この視点から面白く読めるのが表題の「日本型『教養』の運命」(岩波書店、1995/2009)という本です。この本、実は前述の竹内洋氏の本の中でもしばしば引用されており、彼の仕事の出発点のひとつにもなったと思われるものです。



本書によれば、まず「教養」という言葉には、(1) 専門に対する基礎としての教養(「教養レベルの語学力」といった用法における意味)、(2) 幅広い知識としての教養(大学における「一般教養」(パンキョウ)という場合のそれ)、(3) 文化の習得による人格の完成という意味での教養、の3通りの意味があります。

これらの中で教養主義と強く結びつくのは(3)の意味における教養で、人文的教養とも呼ばれます。従来これを身につけることは、他者に対する理解を深め、社会や人生に対する洞察力を高めるという点で人間形成にとって根幹的なものと考えられてきました。

では「日本型『教養』」とは何か?

本書によれば、日本における教養の概念は、西洋文化に接する以前において庶民から武家まで広く浸透していた「修養主義」、努力を通して人格を向上させるという二宮尊徳的な精神が「文化の享受」と結びついて形成されたものです。これは、日露戦争後に「修養書」と呼ばれる本が数多く現れたことなどからも裏付けられています。(修養主義を具体的にイメージさせるものとして亭主が思い出すのが、中学生の頃に友人に誘われて参加した宏正会の朝の集会です。)

そのような教養という概念の下で生まれた教養主義は、エリート文化であるにもかかわらず大衆的な修養主義から派生したという点で両者の間は地続きになっている(断絶がない)点に特徴があるというわけです。これは、もともと貴族文化に発するエリート文化と大衆文化が明確に別れている(断絶がある)ヨーロッパ諸国の場合と対照的です。

著者の筒井氏によれば、日本の学生エリート文化においてもそのような断絶を生む可能性があったものの、それを抑止する要因として働いたのが「人民の中へ(ブ・ナロード)」を掲げるマルクス主義の流入にあったとのこと。

筒井氏はこの点に日本型「教養」の限界を見る一方で、将来への希望も抱いています。なぜなら、それが広く大衆を包摂する可能性を持っているからです。

SNSなどを通して大衆ポピュリズムが席巻する昨今の世の中を憂う年配者である亭主としては、我々も当事者として教養と教養主義を明確に区別し、冷笑的になることなく前者の「文化の享受を通して人格を完成させる」という精神を取り戻す必要があると感じました。






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Last updated  2026.01.26 21:51:12
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