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2026.04.26
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カテゴリ: 雑感
以前、このブログで筒井清忠氏の「日本型『教養』の運命」を取り上げたことがありました( こちら )。明治の後期、日本の一般庶民の間で爆発的に流行した「修養」こそが、日本独自の教養主義の源流であるという指摘には、目から鱗が落ちる思いがしたものです。西洋の教養主義が王侯貴族の独占物であった高級文化に由来する(「教養」と「権威主義」が結びついて「教養主義」となった)のに対し、日本のそれは、そのような高級文化とは無縁の名もなき庶民が実践する「修養」と地続きであった…であれば、日本型「教養」には社会階層を超えて人々を結びつける連帯の「希望」があるのではないか。亭主はそんな妄想を抱いたものでした。

一方で、竹内洋氏の「教養主義の没落」が描き出したのは、大正から昭和にかけて旧制高校や大学を席巻した教養主義がマルクス主義と深く結びつき、戦後の大学教育の大衆化の中で「非エリート」となった学生たちが、彼らの親世代との間の世代間闘争(=学生運動)を引き起こすとともに、急速にその威光(権威)を失っていく様でした。

そこで、亭主は教養主義の元になったという修養主義がそもそもどういうものだったのかに興味を持ち、大澤絢子氏の著書「『修養』の日本近代―自分磨きの150年をたどる」(NHK出版、2022年)を手に取りました。



本書の腰巻に「何が『働くノン・エリート』を駆り立てたのか」とあるように、修養主義とは庶民が「自己啓発による人格向上」と「立身出世」を分かちがたく結びつけ、人生の価値を見出そうとした運動でした。当時は日露戦争の戦勝により、日本が「西洋列強に並ぶ一等国になる」という明治以来の国家目標を一応は達成し、次なる坂の上の雲を見失っていた時代。人々は、激変する社会の中での不安のへ救いや経済的成功による立身出世への希望を、もともと仏教系の宗教に由来する「修養」に見出したというわけです。(「修養」と「自己実現・立身出世」が合わさって「修養主義」が生まれたという図式化も可能でしょう。)

驚かされるのは、この「修養主義」が今日に至るまで日本の企業文化の深層を滔々と流れ続けている点です。大澤氏は、宗教に対して必ずしも寛容ではない日本社会において、修養主義が「宗教っぽいもの(擬似宗教)」として機能してきた側面を鋭く指摘します。

かつて松下幸之助氏や、ダスキンの創業者・鈴木清一氏といった著名な経営者たちが実践した社員教育。それは時に宗教(カルト?)的な色彩を帯び、現代の眼からは異様にも映ります。が、それが熱心に受け入れられ、「日本型経営」として成功を収めた背景には、庶民の間にあらかじめ「修養」という土壌が耕されていたからだと見ることができます。(かつて語られた「国民性」の正体もこれ。)

一般に、宗教における「修養」は現世の煩悩から解放されることを目的としています。高級文化を担う「教養」も、本来は現世利益とは無縁のもの。これに対し、「修養主義」は修養によって現世利益を最大化することを目指す点で、一見真逆です。が、似たようなことは西洋でも起きており、プロテスタンティズムにおいて禁欲的で勤勉な労働を「神から与えられた天職」とする考え方が資本主義を準備したと言われています。日本の「修養主義」がプロテスタンティズムにおける勤勉志向と類似の役割を果たすことで、明治期日本の資本主義が準備されたというわけです。

振り返ってみれば、今も書店の棚を埋め尽くすビジネス書や自己啓発本の隆盛は、修養主義がいまだに健在であることを物語っています。「今のままの自分ではいけない」「もっと自分を磨かなければならない」という強迫観念にも似た向上心。それは、かつての修養主義が形を変え、より強固に資本の論理に組み込まれた姿なのかも。

ここで、冒頭の「希望」に立ち返るとき、亭主はある種の皮肉を感じずにはいられません。高級文化を担っていた「教養主義」が社会の急激な大衆化とともにその威光を失い、見る影もなく衰退しつつある一方で、庶民の泥臭い上昇志向から始まった「修養主義」は、企業社会という鎧をまとい、今や社会全体の規範として君臨しているかのように見えます。

これは、「教養」によって大衆を社会向上への連帯に導くという教養主義的な発想がそもそもエリート側の希望的観測に過ぎず、現実には「修養」という名の大衆的な自己啓発がかつての「教養」をも飲み込み、それを「世渡りのための道具」へと変質させてしまった、ということかもしれません。現世利益とは無縁のエリート的教養が庶民を包摂するのではなく、現世利益を至上とする修養主義が社会全体を支配する側に回るという、いわば逆転現象が起きているかのようです。

先に亭主が妄想した「社会的連帯への希望」は、実のところ「自己責任」という名の終わりのない自分磨きの競争へと姿を変えて実現しつつあるのかもしれません。






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Last updated  2026.04.27 07:56:10
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