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昭和の思いで 昭和の接客法有楽町のガード下の写真をよく撮ります。わざと古くしているのかもしれませんが、不思議に心地よい空間です。このような薄暗いゴミゴミした雰囲気を今の若い人はみたこともないでしょうに、案外若い人がお客さんになっています。まんぷく食堂http://www.cinema-st.com/food/shoku001.htmlネットで調べますと、朝食だけが安いようです。ランチや夜はファミレス程度の価格帯みたいですが、量はたっぷりあるようで、まんぷくになるみたいです。問題点は接客態度らしいです。それは昭和三〇年、四〇年代の再現らしいのです。それで思い出しました。昭和の買い物です当時の東京では買い物にいきますと、店内に誰もいません。性善説の時代だったのでしょう。レジもそのまま、商品も取り放題状態で誰もいません。客が信用されていた時代です。大きな声で「すみませ~ん~」と何回も大声で言います。いえ、「すみません」より「くださいな」だったかもしれません。大声で「くださいな~」とか、子供は「ちょうだいな~」とか、変なイントネーションで叫びます。何回も怒鳴らないと誰も来てくれません。やっとお店の人が出てきます。大抵、そんな大声で言わないでも聞こえるよ、というような雰囲気を表情に漂わせています。まず第一に「いらっしゃい」と言ってくれることは少ないのです。たまにはありますが・。下手をすると「なんですか!」という第一声です。ここでひるみますと、お使いが果たせません。「あ、あの醤油を一合ください(ここは酒屋さんです)」と、そっと空き瓶を出します。そして夏ですと、もう一つ買い物があります。「あの、冷えたビールありますか」「冷えたの、何!」怖いです。「あ、あの、いつものキリンビールを二本ください」「キリンビールは一本だけ! サッポロビールがよく冷えているからね」「あ、そ、それでいいです・・・」お店の人は怖かったです。「何を差し上げましょうか?」なんて聞いてくれたら、宝くじに小当たりしたようなものです。 そのうえ、昔はビールの冷やし代をとられました。幾らだったか? 五円かな? 井戸に吊せば只です。ですが共同井戸なので、西瓜を吊してたらなくなった、なんて裏のケチおばさんが叫んだこともあったので、井戸では冷やせません。 当時の買い物はお店屋さんが売ってやる! という時代でした。そう言う風潮はいつからだったのでしょう。江戸時代、大店の経営者はお金持ちで庶民より一段上だったのでしょう。貧しい庶民がやっと溜まった小銭をもって買い物に行くと、けんもほろろだったかもしれません。士農工商なんて嘘です。商士工農・・ですかね。昭和の終戦直後時代は品物を持っている人が威張っていて、欲しい人は頭を下げて言い値で買っていた時代がありました。そのときの感覚がまだ残っていたからかもしれません。昭和の買い物は、お客が「すみません」とか、「お願いします」とかいって品物を出して貰い、お金を払ってお釣りと品物を渡されると「どうもありがとうございます」と頭を下げて感謝いたします。運が良ければお店の人が会釈を返してくれるます。個人商店で買い物をすると、お店の人とのコミュニケーションが楽しいと言われますが、当時は楽しくなかった。友人関係のお店なら楽しいでしょうが・・。今、思い出してみますと、いつもドキドキして買い物していました。お釣りがたりないなどといいますと、こっちが悪いみたいに言われて、もめることもあります。幼い頃から暮らしている町で、買い物にいきますと、大きくなったわね! などと、普段愛想が悪いのに、突然言われることもあります。幼いときのあまりうれしくないエピソードを話してくれたりします。自分が年をとってくると、顔見知りの子供が成長するのを見て、つい懐かしくなって、あれやこれや話しかけてしまうことがあります。ですが、言われる方はうれしい話題ではないのです。やがて昭和四十年代ごろからスーパーが次々開店してました。人々がスーパーに流れていくのも、個人商店の接客法に問題があったからだと思われます。買い物依存症気味の私はこう思うのです。物を買うのは何が楽しいのか、それはお金を支払うときに、快感を感じるからではないでしょうか。財布の中の福沢諭吉が減っていくのは寂しいですが、支払う度に私は買い物したのよ。王侯貴族よ! ちょっと大袈裟です。でもたとえ十円でも支払うときにふっと快感を感じませんか?「すみません」とか、「どうも有り難う」とか、自分から言っていたら、この快感は感じられないのです。お金を払うときに、すまなさを感じるほどです。最近強く感じますのは、日本のメーカーの電話対応が悪すぎることです。とくに大メーカーは、お役所のように融通が利きません。そのうえ自社の商品知識がなさすぎます。PCの故障をメーカーに問い合わせた中で、対応が良いのはDELLだけでした。やはり顧客対応のよさが物を売る、買っていただくということに繋がっていくのでしょうね。
2009.07.18
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昭和の思いで 友人の渡った踏切人生を60年以上過ごしてきました。いつから幼児ではなくなり子供になったのか。いつから子供ではなくなり少女になったのか。私はそれが何歳の頃だったか覚えています。でも大人になったのは何時でしょうかね・・。細かく言えば、結婚したとき、子供が生まれたときなどかもしれません。そのような経験をしますと、今まで見えていなかった物が見えるようになりました。物の感じ方が変わったり、理解できなかった事が理解できるようになりました。しかし、大人になったのとは違う感覚です。目が悪いので眼鏡を掛けたような感覚です。それで、経験が人を大人にしていくのではないのだろうと思います。人が何かを超えたとき、変化を感じたときを、そこを人生の踏切と考えることもできます。踏切は渡ると景色が一変することがあります。商店街から住宅街へ入り込むこともあります。町から田園風景に変わることもあります。大きな団地の中に迷い込むこともあります。寂れた町から盛った町へと変貌することがあります。踏切は時に命を落とすこともあります。此岸から彼岸へ渡る橋のようです。昨日、昭島に行ってきました。何故出かけたかは月曜日以降に写真でお知らせするかもしれません。ちょっとした思い付きだったのです。ですが、私はまたあのことを思い出してしまいました。もうあれから40数年経っているのに、その思い出のために出かけたわけではないのに、やはり思い出してしまいました。昼頃、駅頭に降りたち、見た昭島の町は初めて訪れた町のようでした。北口駅前にはモリタウンという大きなショッピングモールができていました。この変貌ぶりは驚きました。実は忘れられない記憶がこの町にあったのです。それは40年以上も前のことです。高校三年生でした。私たちの仲良しグループに昭島に住む友人が参加しました。私たちの仲良しグループは5人になりました。1年の頃から仲良しだった私を含めた三人組に昭島の友人ともう一人が合流したのです。私たち五人はいつも仲良く群れている、そう言う関係でした。そのときまで、後から合流した二人は卒業して別の大学に進めば、自然に疎遠になっていくような関係だったはずです。そのような友人関係でも彼女は昭島で、私は国分寺に住んでいました。二人は同じ方角なのでいつも一緒に帰っていました。たわいない話をして笑いながら帰りました。時々みんなで昭島の彼女のお宅に遊びにも行きました。当時はまだ立川は米軍の飛行場でした。拝島駅近くには今でも横田基地があります。昭島は基地近くの町として有名でした。白ペンキの米軍住宅が建ち並んでいた頃のことです。その友人は卒業間際の3月のある日、踏切を渡りました。此岸から彼岸に渡ったのです。それは大学受験の最中でした。学校は卒業式まで休みに入っていました。1回だけ登校日がありました。卒業式のリハーサルがあったのです。登校しなくてはいけないのに、私はさぼって行きませんでした。誰もが受験勉強のためだろうと気遣い、何も言われませんでした。当時の私はクラス委員をしていました。昔で言う級長です。ですから級友を式場へ誘導する役目があったのです。が、さぼりました。私が登校しなかったその日に、友人は踏切を渡ったのです。日を待たずに葬式が執り行われ、出席できる友人は参列していました。私は葬式にも行っていなかったのです。それは、昔のことです。我が家には電話がありませんでした。私の家はそれほど裕福ではなかったのと電話をかける必要性も少なかったからです。急用の電話は隣の瓦屋さんが取り次いでくれました。急用ではなくとも取り次いでくれましたが・・・。緊急の時には電報が来ました。ですから私に知らせることはできたのです。でも、受験でナーバスなのだろうと担任の先生も友人も気遣ってくれ、知らせがきませんでした。 葬式の2日後、受験会場で隣のクラスの子に逢いました。その時、事件を教えられたのです。新聞にも載っているといわれました。昔は新聞記事になったのです。そのうえ当時は顔写真まで載っていたのです。しかし私は新聞も読んでいませんでした。なぜ新聞も読まなかったのか。今となっては悔やむだけです。帰ってから、教えられた日の新聞を開きました。記事と写真をみました私はパニックに陥り大泣きに泣きました。私もその日、何かの踏切を渡ったのです。その後、残された四人は初七日にいきました。それからも法事で何回かお線香を上げに行きました。3回忌の次の年の命日にも行きました。友人の母親は線香を上げに行った私たちに形見分けをしてから、もう来ないで欲しいと言いました。その頃の私たちは若すぎたのです。子を失った親の気持ちを理解することが出来ませんでした。友人の死を共に悲しみ、共に語り合うつもりだった私たちは、冷水を浴びた思いでその家を後にしました。もちろん、母親の気持ちはなんとなく判ってもいたのですが・・。 私達残された四人は生きているので、それから大いに青春を謳歌しました。それぞれ希望の大学に進み、勉強も恋もしました。お酒の味も覚え、よく遊びました。ディスコで踊ったりしました。後悔するようなこともありました。後悔も失敗も青春のスパイスです。苦い味、辛い味、どれもが生きている証です。 踏切を渡った友人はいまも18歳で、あの一瞬どのような痛みや苦しみがあったのか、誰も推し量ることはできません。その決意をする前に何があったのかどんな悩みがあったのか、誰も知らされていませんでした。 青春の甘さも苦さも辛さもしらないままに彼女は踏切を渡ったのです。 あの日、彼女が私と帰っていたら、踏切を渡らなかったと思います。彼女の渡った踏切は東小金井から武蔵小金井の間の無人踏切でした。 ちょうど東小金井駅が開通して数年ぐらいの頃です。線路の周囲は植木の畑が続き、家も何もない状態でした。開発のためなのでしょうか空き地も広がっていました。新駅ができて大きく発展するかと思っていましたが、何年も駅周辺も線路沿いも空き地ばかりが目立っていました。土地価格が高騰したからです。高級な空き地に中央線が東西に横切っていました。その空き地にほとんど人も車も通らない道が南北に線路を渡っていました。踏切に電車が近づくと赤の電球が上下に点滅しカンカンと音がします。いつまでもカンカンと警笛が鳴り響いています。友人はその警笛をききながら踏切へと入っていきました。両親は国鉄(当時)から悲報を聞かされます。飛んでいきますと係員の悼むような様子は形ばかりで、即バケツと石炭ハサミを渡されます。現場に連れて行かれ、悲惨な現場の後かたづけをするように言われます。遺体は形をとどめていなかったそうです。枕木の下の石や線路脇の草むらに張りついた遺体の小さな破片を石炭バサミで、はがしてはバケツに入れていきます。泣いている暇もありません。かがめた姿勢の腰は痛くなるし、その脇をひっきりなしに猛スピードの電車が走り抜けていくし、何時終わるともしれない辛く悲しい作業なのです。 このような思いをした母親の目に娘の友人達が青春を謳歌している姿が写って、どう感じていたでしょう。何回も娘を思い出し、何回も苦しみ、何回も自分自身への怒りの思いがこみあがったことでしょう。 気遣わなくてはいけないのは私たちだったのです。前にも一度同じことをブログか日記に書いていますが、もう一度書きます。死は自分だけの責任ではないのです。周囲の人も、ある意味での命の踏切を越えさせているのです。私はそれから10年以上も毎日現場の踏切を越えました。踏切の上を電車が通り過ぎるとき線路の境目なのでしょう。ガタンと体が揺れます。朝はまだいいのです。帰りの電車がガタンと揺れるとき、彼女の事を思い出すのです。なぜあの日一緒に帰らなかったのか・・。踏切に佇む彼女の姿を思ってしまいます。辛くなって反対側の窓外に視線をそらすと、暗くなりかけた外には、深い闇に沈む草むらがあります。あそこに拾いきれなかった彼女の破片がまだ残っているのではと、必ず思うのです。その草むらから目を離すことが出来ません。一瞬で通り過ぎる踏切ですが、いつまでたっても忘れることが出来ないのです。他の友人達も悔やんでいます。当日は卒業前の最後の日だからと、暫く教室に残り、みんなで馬鹿話をしたそうです。記念にと誰かがテープレコーダーにその馬鹿話を録音しました。馬鹿話の内容は楽して金儲けをする方法がないかと話したそうです。若い頃よく話すようなことです。たわいのない事を話して大笑いをして、まさかその帰りにそのようなことになるなんて、誰も思っていませんでした。なぜあの日そのようなつまらない話しをしてはエキセントリックに笑ったのだろう。なぜ、そのとき彼女の心に気付かなかったのか・・。私もその録音をあとで聞かせて貰いました。なんとも感想を言えませんでした。彼女に悩みがあるとは誰も思わなかったのです。進路も系列の短大に進む予定でした。入学は決まっていました。家庭も我が家と違って裕福でした。恋人がいたかどうかは知りません、憧れの彼はいたらしいですが・・。いつまでたっても、なぜ、なんで、と思います。誰にも、悩みを話せなかったのでしょう。私たちはそれぞれ高望みの受験先で頭がいっぱいだったのも事実なのです。何故悩みを聞いてやれなかったのか。何かしらサインは出ていなかったのか? どうしてサインに何故気付いてやれなかったのか? 友人も家族も一生背負う悔やみなのです。残された四人はトラウマを抱えたまま生きてきました。18歳のままの友人がいるので、いつまでも大人になりきれないのかもしれません。置き去りにした何かが、残された私たちを引き留めているのです。東小金井から武蔵小金井間は線路が2階に上がりました。踏切や草むらも見えなくなりました。ガタンを感じないまま通り過ぎました。私にとっては心の痛みをあまり感じずに故郷に帰れるようになったのでしょう。
2009.07.11
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