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A氏:ISO9001にかかわらず、環境でも労働安全衛生でも、マネジメントシステム審査は、規格に企業の特徴に対応した解釈の巾があるから、審査員も大変だろうね。 今まで来たこともない会社にいきなり訪問し、それなりの審査をしなくてはならない。 審査結果もきちんと文書にして派遣された審査機関に報告しなくてはならないからね。私:しかし、一方で高圧的な審査員が生まれたのも確かだね。 もう10年くらい前になるが、関東地方のある都市郊外の小さなビジネスホテルに泊まったことがある。 度々利用したので、そのホテルの経営者の親父さんとは知り合いになった。 あるとき、その親父さんが「俺も長い間この商売をしていろいろなビジネスマンを知っているが、昨日泊まった人は『新人類』だ」と怒っていた。 部屋の衣紋掛けの数がすくないの、タクシーは時間通り来たのに、遅いのとか、偉そうに文句ばかり言うのだという。 実は、この「新人類」がISO の審査員だったんだね。 ところで、「精美堂」という会社のHPのカテゴリー「ISO関連」を開くと2001年からのISO9001の毎年の維持審査状況が詳しく載っている。 2003年頃来た審査員はちょっと異常で、会社は審査機関にクレーム書を出しているね。 そのクレーム書もインターネットで公表されているよ。A氏:どんなクレームなのかね。私:次の10件だね。 項目だけ、列記しておく。 詳細は、HPをみてほしいね。 1.別な意見を言うと偉そうに激高する審査姿勢 これは俺も他の会社の例を知っているが、審査員がその会社のマニュアルに「記録の保管」と書いてあるので、JISの訳通り「記録の維持」と書けというのを会社側が「保管のほうがわかりやすい」と拒否した。 そうしたら、「たった2文字の修正なのに言うことがきけないのか」と机を叩いてどなったそうだ。 元の英語はmaintainで、辞書をひくと多義語で「保管する」という意味もある。 このほうが適切で、JIS訳はよくないね。 もっとも、この審査員は、昼飯時とか、駅までの送り迎えの車の中の会話では、おだやかな人だったというから、審査の場は人格を変える魔力があるのかね。2.他社の情報漏洩3.審査時間内に審査員としての倫理なきコンサルセールス4.貴審査機関の他の審査員を非難するなど審査の信頼性を破壊する発言 途中で審査員が変わると、前の審査員がOKにしたものを批判することがあるね。5.審査の基準が目茶目茶6.当社の実態に無知なアドバイス(審査とコンサルの混同)7.典型的なしつこい文書過剰要求(審査とコンサルの混同)8.マネジメントレビューの回数まで介入(審査とコンサルの混同) 5.から8.までは基本的にshallの無視だね。9.基礎的なビジネス素養の欠如10.エビデンスがない安易な不適合指摘A氏:俺の元いた会社に来た審査員はどうだったかね。私:この10のクレームのどれかは当たっているのではないかね。 どれも当たっていないという審査員は残念ながら少ないだろうね。
2011.10.10
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「シートン動物記」集中逆読み7冊目 カランポーは、ニューメキシコの北部に広がる高原。そこに栄養たっぷりの牧草が生い茂り、ウシとヒツジの大牧場が展開する。ロボ:このウシの国を支配するオオカミの王がロボである。ロボは体が大きく、頭がよく、頑強であった。また、オオカミの群れを率いるリーダーであった。 このロボはその地方の人にとっては有名であった。「わが偉大なオオカミ」「オオカミ王」とも呼ばれていた。 ロボの遠ぼえは、すぐロボとよくわかり、その遠ぼえの翌朝には被害が出ることは分かっていた。つれあいのブランカ:白のロボの仲間は案外少なく、五頭であった。ロボの激しい気性が影響したのかもしれないという。 その中に真っ白のメスのオオカミがいた。これを地元の人はブランカと呼んで、ロボのつれあいではないかといっていた。ロボ退治の失敗:このロボの群れによる被害をなくすために、当然、牧場主は退治するためのあらゆる手段をとったが、ロボの知恵の前には無力であった。 あらゆる銃から逃れ、毒餌を見破り、猟師をあざわらった。賞金王タナリーの挑戦:賞金はついには、千ドルになった。タナリーというテキサスの有名な賞金稼ぎがこの谷にやってきた。オオカミ猟のために凶暴なイヌたち、最高級の猟銃、数頭のすぐれた狩猟用のウマをつれてきた。しかし、テキサスの平原でなく、谷の多いガランポーでは苦戦し、イヌは逆にやられる。 タナリーは体勢を立て直し、二回目の挑戦をするが、失敗する。 三回目の挑戦では最愛のウマが崖から落ちて死ぬ。タナリーは失意のうちにテキサスにもどっていった。 次の年、二人の猟師がやってきて、工夫した毒薬で餌を作るが、しかし、見破られる。シートンがカランポーへ:ニューヨークにいたシートンに牧場主からロボ退治の依頼がくる。シートンはロボに対する興味もあり、仕事をやめ、カランポーに行く。 シートンは知恵を絞り毒餌を作るが、見破られる。新しいワナも失敗する。シートンの計画:シートンは、ロボの群れの弱点をつくことを考えた。群れをちょっと乱すオオカミとしてブランカに注目する。ロボはメスオオカミに弱かったのであろう。 こうして、メスオオカミを狙ってロボをだます方法でワナを配置したブランカの死:この計画は成功した。ワナが消えていて、追いかけるとブランカが岩にはさまって動けなくなっていた。こうしてブランカは死んだ。シートンたちはブランカの死体を持ってひきあげた。ロボの嘆き:一晩中、ロボのほえ声がした。たたかいの声と違い、嘆きの声であった。そして、死体のある牧場の家に近づいた。 そこでシートンが気がついたのは、ロボが慎重さを失い、無用心な動きをしていることであった。シートンはこのチャンスを生かし、ロボをワナにかけることを考えた。百三十個のワナ:シートンは全部で百三十個のオオカミ用の強力な鋼鉄製のワナを集め、一帯のけもの道に設置した。そして、ワナにブランカのにおいをつけ、死体の足あとをつけた。 翌日、何の変化もなかった。ところが、あるカウボーイが北の谷で朝、すごくさわいでいるのが聞こえたというので、翌日、その場所をおとずれると、4本の足をワナにはさまれたロボがいた。最愛のブランカのためにワナに落ちてしまった。捕らえられたロボ:シートンたちが現れると、ロボは必死の抵抗をした。しかし、力尽きたとき、静かになった。シートンはロボを捕らえて牧場につれて帰った。遠い視線:捕らえられたロボに肉と水を与えても、ロボは見向きもしなかった。目はかなたの草原に向けたままであった。 力を失ったライオン、自由をうばわれたワシ、愛する者をなくしたハトはかならず死ぬという。ロボはその三つを失った。もう彼には死の選択しかない。死の存在を動物は知っている(2006.05.28の日記参照)。彼は死を選んだ。 翌朝、ロボは死んでいた。ブランカとの死での再会:納屋にはブランカの死体があった。 カウボーイがシートンとともにロボの死体をそっとブランカの横に置いて、言った。「ああ、ロボよ。ブランカのために命をかけて悔いなきロボよ、さあ、あまえの場所はここだ。おまえは愛する者と、ただ、一緒にいたかっただけなのだ。」 シートンは、この経験の後、決して動物にワナや銃などの暴力を使わないと自分に誓った。そして、自分のサインにロボの足あとマークをつけるようになった。
2006.06.24
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A氏:「文書」の審査・承認が必要だとすると、ハンコを押す2つの欄が必要だね。私:通常、作成者の欄が追加されて、3つの欄となるね。 しかし、中小企業では、作成から承認まで同一人が行うことが多いから、審査欄を削除して最低、作成・承認の2欄にしている例が多いね。 それでも、2回同じサインをしなくはいけないね。A氏:それでは、「文書」の審査を要求しているISO9001の要求を満たしていないのではないの?私:その場合、マニュアルで、審査は承認者が行うと明記しているね。A氏:俺の元いた会社では、審査欄が2つあって、部長が承認欄に捺印するが、2つの審査欄には課長と次長が捺印していたね。 もっとも次長は、判を押すだけで課長が実際に審査しているのだがね。 作成は係長だね。 これは印だけでなく、実際に作成している。私:君のところは大手企業だから、機能があいまいな次長とか副課長が多いからね。 ある会社で、ISO9001をとるとき、無意味な捺印をやめようとして、「文書」の欄を作成・審査・承認の3つの欄に機能的に統一したことがある。 従来は、ハンコを押す欄が5つくらいあったんだね。 そうしたら、従来、ハンコを押していた副課長がと次長が押す欄がなくなった。 副課長と次長から文句が出たので、3つの欄の欄外に押すようにしたというね。 要するに、これらの人は「俺が見た」という証拠を形式的に残したいだけなんだね。A氏:失礼な言い方かもしれないが、犬の小便みたいだね。 「審査」の中味がないんだね。 それから、作成・審査・承認には日付が必要なのかね。私:通常は日付が必要なので、ハンコでもデータ印といって、日付が入ったものを使うね。 ISO9001の拡大で使用が増えたようだよ。 その「文書」の発効日が必要だからね。 しかし、「文書」によっては、3つの欄の上に年月日を書くものもある。 これに書けば、データ印は不要だが、つい、欄外なので記入を忘れるという弱点があるね。 データ印がおすすめだが、「文書」作成がパソコン化してきたので、よほど、経理的に重要であるような「文書」以外はパソコンの文字入力になってきているので、データ印は「記録」確認には使うが、「文書」には使わなくなっているようだね。A氏:君は「文書」にハンコを押すのを好まないね。私:特に社内用の「文書」にはね。 ISO9001以前から、ある超大手企業では社内用「文書」の承認には承認者の名前のカタカナのトップの文字を書き、この文字を丸で囲んで承認としていたね。 佐藤ならサだけだね。 同姓なら、名前のトップのカタカナを一文字追加するだけだ。 承認で同姓同名というのはあまりないだろうが、あれば、どちらかに二重丸をするんだろうね。A氏:俺の会社では、ISO9001以前は、購買の注文書は工場長が承認印を押すことになっていたけれど、厖大な量なので、工場長は印を秘書の女性に渡し、その女性が機械的に捺印していたね。私:これは「記録」への捺印の話だが、ある中堅企業の社長は叩き上げで、現場をよく知っていたんで、営業マン約200名の週報に全部目を通していたね。 読んだという証拠にこれも赤のサインペンで苗字の一文字をサインしていた。 そして、コメントがあるとその赤ペンで書いていたね。 「文書」の作成・審査・承認や「記録」の確認などにハンコや署名の仕方があり、各社いろいろだが、その会社の知的体力があらわれているね。
2011.10.24
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A氏:ISO9001をちょっと読んだけれど、「検証」という言葉が出てくるね。 例えば「7.4.3 購買製品の検証」の規格文を読むと「必要な『検査』又はその他の活動」とある。 「検証」と「検査」はどう違うのかね。私:用語定義集のISO9000(ISO9001ではなく、最後の1は0である)では「3.8.2 検査」のところに、「必要に応じて測定、試験又はゲージ合わせを伴う、観察及び判定による適合性評価」とあるね。 それから、「検証」は、「3.8.4 検証」で「客観的証拠を提示することによって、規定要求事項が満たされていることを確認すること」とある。A氏:ということは、「検査」は現物を扱う現場作業的な内容になっているのに対して、「検証」は事務的な仕事内容を感ずるね。私:その通りで、「検証」は必要だが、「検査つきの検証」と「検査なしの検証」が考えられるね。 ISO9001の94年版では「購入検査・試験」という項目があって、 「購入検査の量及び内容を決めるにあたっては、下請負契約者先(2000年版から『供給者』に変更)での管理の程度及び提供された適合の証拠を示す記録を考慮すること」 とあった。 これが外注から納入品に添付される「検査記録」で、これにより、その書類添付の確認で合格として、「検査」を省略できたね。 一時、ISO9001の拡大とともに、外注の「検査記録」が流行したね。A氏:94年版ではなにか、「検査」という言葉が多いような気がするね。私:2000年版の大改訂で、「検査」という言葉が基本的になくなり、「監視及び測定」に置き換わった。 それはISO9001をサービス業にも使いやすいようにということで、サービス業であまり使われない「検査」という言葉をなくしたんだね。A氏:しかし、逆に「検査」という言葉になれている製造業では「監視及び測定」という日常使っていない用語になって、かえって分かりにくいね。私:しかも、「監視及び測定」の用語は定義集にないしね。 94年版では「検査」という言葉は40個くらいあったのが、2000年版では2個になった。 君が「7.4.3 購買製品の検証」で見た「検査」は、その2個中の1個だね。A氏:何故、残ったのかね。私:10年もたってそのままだが、修正漏れだろうね。 ところで、「検査」という用語は、日本のJISでは、「品物をなんらかの方法で試験した結果を、品質判定基準と比較して、個々の品物の良品・不良品の判定を下し、又はロット判定基準と比較して、ロットの合格・不合格の判定を下すこと」とあり、「検証」という言葉がないね。 日本語では「検査」は「検証」を含んでいるようだね。 明確に分離していない。A氏:何故だろう。私:「検証」と「検査」という言葉の分離から、「検証者」と「検査員」を分離できるね。 これは日本の「検査員」は合否判定までしているが、欧米の「検査員」は測定データだけの提供で、合否の最終判定は「検証者」が行うという分業となっているようだね。 「検査員」はブルーカラー、「検証者」はホワイトカラーと考えると分かりやすい。 日本ではその区別は明らかでないがね。 言葉というのはその文化的な背景を無視できないね。
2011.04.18
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A氏:先々週から毎月曜続いた「環境側面」の「特定」と、「環境目的・目標」の「決定(設定)」の違いは勉強になったね。「設計で電力を使う」は、設計活動にある客観的な事実を定めることだから「特定」。 「設計課で昼休みに消灯する」のは人の主観的な判断が入るから「決定(設定)」だね。 設計課の「省エネ」には、「昼休みに消灯する」以外に、「パソコンの未使用時の自動電源停止」、「パソコン画面の液晶化」など、いろいろ案がある。 それらから人が評価して「昼休みに消灯する」に決めたんだからね。 人の主観的な意思が介在するね。私:「特定」と「決定」の重要な違いの認識は品質のISO9001にもあるんだよ。 何か不良品で顧客からクレームがあったとする。 修理とか、良品との交換とか、当座の処理はするが、ISO9001ではさらに未来に向けて「再発防止」を要求している。 これをISO9001では「是正処置」と言っている。A氏:「是正」というからには「是正処置」は「修正」とか「修理」することかね。私:全く違うね。 「修正」とか「修理」は、トラブルの事後処理だね。 「是正」だけならそういう解釈もできる。 しかし、これに「処置」がついて「是正処置」となると、意味が百八十度違う。 「是正」の「処置」ではない。 再発予防行為だから、未来に向けての「改善」のことだね。 今後の対策のことだね。A氏「是正措置(そち)」とも違うんだね。 これも起きたトラブルの事後処理のことで未来に向けての「改善」を意味しないね。私:「改善」活動に事後処理の「是正」という用語を使ったので、混乱しやすいね。 これは日本語訳だけの問題でなく、もとの英語でも「是正処置」をcorrective action というために、「修理・修正」を意味するcorrectionと混同しやすい。 だから、用語規格に両者は異なるという注記があるくらいだね。 ところで「改善」は、今までの仕事の方法を変更して、良いものにして、2度と同じトラブルを起こさないようにすることだね。A氏:それと「特定」と「決定(設定)」はどうからむの。私:トラブルの再発予防を考えるには、起きたトラブルの「原因」を正確に客観的につかまないといけない。 この原因を捉えることをISO9001では「原因」の「特定」という。 そして、その原因をつぶし、改善となる方法をきめる。 これを「是正処置」の「決定」という。A氏:「原因」を「特定」し、「是正処置」を「決定」するというステップだね。 自社の業務の「環境側面」や「危険源」を「特定」し、その環境影響や危険を軽減する「環境目的・目標」や「労働安全衛生目標」を「決定」するのと同じ順序だね。私:ISO9001をとっても、会社の品質が向上しないという場合、大抵、この「是正処置」をしても再発や再々発していることが多くい。 それは最初のトラブルの「原因」の「特定」が不十分なことがあげられる。A氏:「原因」の「特定」が正確でなく、客観性に乏しいということかね。私:まず、5W2Hと言って、いつ(When)、どこで(Where)、誰が(Who)、何を(What)、何故(Why)、どのように(How to)、どのくらい(How much)というようにもれなく起きた現象を「特定」して把握する。 それだけでない。 Whyについてはさらに、5Wというのがある。 カイゼンで有名なトヨタ生産方式では、「原因」では「特定」が甘いとしてと「真因」という。 「真因」まで「特定」してそれをつぶさないと再発するというわけだ。 「真因」を「特定」するテクニックとして、「何故Why」を次の例のように5回連鎖して追求して問うので、5Wと言っている。 機械が急に停止した→何故か(1W)・ヒューズがとんだからだ→何故とんだ(2W)・渦電流がながれたからだ→何故、渦電流が流れたのか(3W)→潤滑ポンプの汲み上げが不十分だからだ→何故、不十分なのか(4W)→ポンプの軸が摩耗してガタガタになっているからだ→何故、摩耗したのか(5W)→濾過器がついていないので、切粉が詰まったからだ 対策(是正処置)はヒューズを換えることでなく、濾過器の設置だね。A氏:言い換えれば効果的な「是正処置」のためには「原因」でなく「真因」を「特定」するということか。私:ところでこの重要な5Wにもとんでもない誤用がある。 来週はその例についてふれよう。
2010.11.08
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「シートン動物記」集中逆読み8冊目 ラギーラグ(raggylug)は「ちぎれてぼろぼろになった耳」という意味。ラグlugは「耳」の意味。この物語の主人公となるワタオウサギの雄の子の名前。ワタオとは綿のような尾があることからつけられたもの。 ラギーラグは、母親のモリーと湿地に住んでいた。そして、敵の多い生活からいかに身を守るかの方法の訓練を母親から受けた。ヘビの襲来:あるとき、聞きなれない音を聞く。隠れていた草むらから思わず身を乗り出したら、目の前にクロヘビがいた。 逃げようとしたが、クロヘビは体を巻きつけた。悲鳴を聞いた母親モリーがヘビにおそいかかった。そのたたかいでクロヘビは巻きをゆるめたので、ラギーラグはなんとか逃げた。モリーはそれ以上、ヘビにおそいかからず、森へ走った。 ラギーラグも母親の雪のような白い綿毛の尾(シートンが描いたこの白く丸く大きい母親の尾の絵は、この数十年覚えていた絵であった)を追って森に走った。 ラギーラグの「ちぎれてぼろぼろになった耳」はこのときヘビにかまれた傷跡である。母親の教え:一番目は「低く伏せて、なにもいわない」である。二番目は「フリーズ」である。彫像のようになることである。三番目は「バラの茂みは、ウサギの友だち」である。それはバラのトゲは、ウサギにだけ痛みを与えないからである。 ラギーラグ通信手段も覚える。ウサギは声よりも遠くに伝達できる足音を使う。敵をまくためのいろいろな方法も覚える。水泳も覚える。この水についての勉強はラギーラグが最後に学んだ教えであった。彼は「大学院」まで学んだ。侵入者におびえる暮らし:あるとき、大きなワタオウサギの雄がこの湿地にやってきた。「なわばり」あらしである。 ラギーラグはこのワタオウサギと闘うがかなわない。母親もかなわない。こうして、親子は思わぬ敵のいじめにあう。 植民地化である。ラギーラグの勝利:親子はなれた湿地を出ようときめた。その直前、農家の猟犬が湿地にやってきた。ラギーラグはうまく猟犬をそのワタオウサギの巣に誘導した。猟犬はそのワタオウサギを発見し、殺してしまう。 親子に再び平和な日がきた。母の死: 冬が来た。親子はこの湿地に来たミンクに悩まされ、住処の自由をうばわれる。ある吹雪の夜、親子は茂みにかくれて夜を過ごすことになる。 キツネがその吹雪の夜、あえて狩に出て、茂みの親子を発見する。ラギーラグはとっさに逃げる。モリーも逃げる。 そして池まで逃げ、とびこむ。キツネもとびこんだが、冷たくてムリであった。モリーは向こう岸につこうと泳ぐが、その向こう岸にキツネがきているかもしれない。モリーは長い間、泳ぎ、岸に着いたとき、力つきた。モリーは死んだ。今も生きるラギーラグ:ラギーラグは、キツネが去ってから母親をさがしたが分からなかった。しかし、ラギーラグは母親の教えを生かし、家庭を作り、子どもを育て今もこの湿地で元気に生きている。 シートンは、母親モリーの死を次のように言っている。「モリーは、世にいう英雄の受けのいい言動などは見向きもせず、自分が感じる小さな世界で、全力をつくして、はたらいて、そして死んでいったほんとうの英雄である。 同じように生きた数えきれないほどいる、ほんとうの英雄のなかのひとりである。モリーは今をよく生きるというほんとうのたたかいで、すばらしくたたかいぬいた英雄である。 モリーの筋肉は、ラギーラグの筋肉として、モリーの脳はラギーラグの脳として、いまも生きている。モリーはラギーラグとしていきつづけ、ラギーラグをとおしてモリーの細部が、ワタオウサギの種に伝えられていく。」 シートンの頃は、DNAという知識はなかったが、彼の言葉はそれをしめしている。と同時に、親による子の訓練が伝統的な知恵を伝える重要な部分をなしていることを示している。 日本人の親が、その種(日本人)として伝統的に大切に伝えられていくべきものはなんだろうか。しつけとして子に身につけさせる大切な誇りある日本人としての訓練とはなんであろうか(2006.06.03の日記参照)。 日本人の種は、それを怠り絶滅するか、独立した「国家の品格」を失うのであろうか。精神的に植民地化するのであろうか。 孫と会うとそれを意識しながら、とりとめのない会話をしている。 明日はこの「シートン動物記」の知的街道の終点「ジョニーベア」に挑戦する。
2006.06.25
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私:身に覚えのない「万引き」の非行歴を理由に私立高校への推薦を断られ、後に自殺した中学3年の男子生徒。 広島県府中町の町立府中緑ケ丘中学校であったことで、学校は3年時に万引きなどの触法行為があれば私学に推薦しないという基準をさらに厳しくし、入学以降の触法行為に広げた。 担任は生徒の1、2年時の触法行為の確認を指示されていたという。 A氏:始まりは、別の生徒の「万引き」を自殺した男子生徒の行為と誤って記録したことだったという。 2013年10月6日、広島市内のコンビニエンスストアから「1年の男子2人が万引きをした」と学校に連絡があり、店に出向いた教諭は7日に生徒指導担当の教諭に口頭で報告。 この教諭はパソコンに誤って自殺した男子生徒の名字を入力した。 聞き間違いか、誤入力だったかは定かでないという。 私:この自殺問題は、この間違った記録の問題と、「万引き」レベルまで記録に残しているというこの学校の生徒に対する指導姿勢も問題だね。 「ゼロトレランス」方針なのかね。 中学時代というのは大人のはじまりで、好奇心が旺盛で反抗心も強い。 つい「万引き」をしてしまうから、きめ細かい指導が必要だが、この学校はどう対応してきたのだろうか。 「万引き」をきちんと指導せず、記録だけ残し、内申書に反映させるというこの学校の教育姿勢が、記録の間違いを気付かせず、「万引き」をしていない生徒を自殺に追いやったといえる。 「万引き」記録主義と生徒の自殺問題とは同根だね。 A氏:生前、男子生徒は「どうせ言っても先生は聞いてくれない」と親に話していたという。 校長は「教員と生徒の心の交流が欠けていた。彼の悩みを聞き取ることができなかった」と話したという。 私:関西学院大の中村豊教授は、特段の配慮が求められる非行歴を担任が廊下の立ち話で確認するなど、学校の態勢がずさんだったことは否めず、一回でも悪いことをすればその子の芽を潰すようなやり方は、人権の観点からも問題だという。 生徒を信頼し、気持ちに寄り添いながら指導するカウンセリングマインドが希薄だったのではないかと指摘しているが、その通りだね。 そして、教授は部活動の指導や事務量の増加など「世界一忙しい」とされる日本の教員が、生徒と向き合う時間をより確保できるよう真剣に議論すべき時に来ているとも指摘している。 このケースの場合、そうだったか分からないがーーー。 ただ、一人の中3生徒の自殺で終わらせてはならないね。
2016.03.17
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「シートン動物記」集中逆読み4冊目 これはニューメキシコ州クレイトンにいた黒いマスタング(野生ウマ)の壮烈な物語である。カローンと黒いムスタングのペイサー:あるとき、カウボーイのカローンは、きれいな黒いマスタングを平原の泉(アンティロープの泉)近くでみかける。調教してみたいと思う。しかし、黒いムスタングは調教が難しいタイプであった。 しかし、通常の牧場主がムスタングを嫌うのは、放牧している自分のメスウマを連れ去ってしまうことであった。 カローンが目をつけた黒いムスタングはペイサーと呼ばれた。ペイサーはついに、メスウマ九匹をつれて群れを作ってしまった。 シートンは、ニューメキシコに来たとき「ペイサーを見たらライフルで撃ってください」と言われる。そして、ペイさーを目撃するが、その美しさと気高さにみせられ、わざと逃がしてしまう。カローンの追跡:あるとき、有名な牧場主が「ペイサーが本当にいるのか知りたい。そこで生け捕りにした者に千ドルの懸賞金を出す。」と言った。 カローンは二十頭の乗馬用の優秀なウマ、幌付きの炊事馬車、そして二週間一緒に働く三人の仲間を作った。捕まえる方法は、ゆっくりと追い、次第に相手を疲れさすという持久戦であった。ペイサーの群れをウマを乗り換えて、騎手を交代させ、追いかけた。 こうして1週間追い回して、ペイサーの群れのメスウマは疲れ果てていた。しかし、ペイサーは元気であった。カローンは、一気に勝負に出た。しかし、失敗する。ペイサーは悠々と走り去った。 カローンはますます、ペイサーにほれこんでしまった。ターキィの捕獲作戦:別のカーボーイのターキィとホースシューは、アンティロープの泉に落とし穴をつくり、これでペイサーを捕まえようとした。しかし、ギリギリのところでペイサーは穴を飛び越えて逃げてしまった。カローンの二度目の挑戦:そのうちに、カローンは二度目の挑戦に乗り出した。今度は、二十頭のウマと五人のカウボーイを集めた。こうして、静かに追いかけ、ペイサーの疲れるのを待った。 しかし、結果は、今回も惨敗であった。八頭のウマが死に、五人のカウボーイは疲れ果てて落伍した。ペイサーは、無傷で自由であった。 カローンは二度とペイサーを追うことがなかった。ターキィのワナ:ターキィは、このカローンの追跡に参加していた。彼はあきらめなかった。彼は、アンティロープの泉にペイサーがよく水を飲みにくることを利用して、メスウマをおとりに使うことを考えた。そして、以前、掘った穴に隠れた。 ペイサーはこのワナにかかってしまった。ターキィのロープが飛び、足を捕らえてしまった。必死に暴れるペイサーをメスウマをあやつり、ターキィは牧場のほうに、一メートルずつひいていった。自由のために死を:そして、ついに、レオン川の谷の上に来た。下に小さな牧場とランチハウスが見えた。ターキィは「ついにやった」と喜んだ。 しかし、次の瞬間、俊足の黒いマスタング、ペイサーは、残ったあらゆる力を呼びさまし、足輪をつけたまま、谷にジャンプした。落ちて、落ちて六十メートルのがけ下に落下した。 死をとして、野生の自由を守るためにーーー。 新渡戸稲造の英文の「武士道」は1900年の出版である。シートンは、この頃の人だが残念ながら読んでいないであろう。 「武士道」のように、自由のために死を選ぶいさぎよい「品格」ある野生動物もいる。一方では、先週末の国会のように、カネのために、高い地位にしがみつくいさぎよくない「品格」のない日本人もいる。百年たって「武士道」は日本では地に落ちたというべきか。 なお、この物語には後日談がある。訳者あとがきによると、あるカウボーイがこのシートンの物語を読んで、ペイサーの最後は事実と違うと言った。そこでシートンがそのカウボーイに聞いて描いた絵がある。 それは、ペイサーが自分を捕らえたターキィを背に乗せたまま、がけから飛び降りていく絵である。まさに「武士道」の極致である。
2006.06.20
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