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私 : 今月の「異論のススメ」 は「 死」に関連して宗教 にふれている。
人々の活動の自由をできる限り拡大 し、 富を無限に増大させるという、自由と成長を目指した近代社会 は、 確かに、「死」を表立って扱わない で、 「死」を論じるよりも「成長戦略」を論じる方がはるかに意義深く見える と 佐伯 氏はいう 。
しかし、かつてないほどの自由が実現され、経済がこれほどまでの物的な富を生み出し、しかも、誰もが大災害でいきなり死に直面させられる今日の社会 では、 「成長戦略」よりも「死の考察」の方が、実は必要なのではなかろうか と いう 。
「死生観」は、ひろい意味での宗教意識と深くつながっている。
なぜなら、 多くの宗教意識は、この現実を超越した聖なるものを想定し、その聖なるものによって人々を結びつけ、また、この聖性によって、人々の現実の生に意味を与えるものだからである という。
A 氏 : たいていの社会には、漠然としていても、何らかの宗教意識があり、「イスラム」はかなり明白 であるが、 米国は「プロテスタント」中心のいわば宗教大国 であり、 西欧では、かなり薄められたとはいえ、西欧文化のいわば母型として「キリスト教」 があり、 それらが、ゆるやかに西欧人の「死生観」を形づくっている。
明治の近代日本では、「神道」の国家化と反比例して「仏教」は排斥 され、 戦後になると、すべて宗教の立場は著しく低落 し、 宗教は、近代社会の合理主義や科学主義、自由主義や民主主義とは正面から対立する とみなされ、そして、 近代以前に人々が自然にもっていた「死生観」も失われていった。
私 : 先日、「オウム真理教」の元幹部たちが死刑に処せられた が、 もしも、われわれが、多少なりとも「仏教」の教説を知ってお れば、 この団体が若い人たちにこれほど大きな影響力をもつことはなかったのではないかと思う と 佐伯 氏はいう。
佐伯 氏は、そういうが、 「オウム真理教」はもともと殺生を禁ずる「仏教」の一派 をもとにしていて、 ヨガ道場を皮切りに麻原は独自の考えを発展させ、いわゆるキリスト教の終末思想のように、倒錯した世界観を形成 させる。
罪の多い現代地球人は一旦半絶滅させてカルマ(宿業)を強引に清算しないと救われない、自分たちがそれを実行しないといけないになっていき、要は、徳の高い自分たちが、殺してあげて魂を一旦宿業清算し、後は自分たちが真理に基づいた文明を作るという妄想を持つ。
これを信じた信者がサリン事件まで起こす。
A 氏 :その意味では、 戦後の「宗教意識」の排除が、逆に、秘教的なカルトへと安易に寄りかかる道を開いた とも思われ、 佐伯 氏のいうように、 「 オウム真理教」に走った若者を 既存「仏教」が吸収できなかったのは、問題だった ね。
「 仏教」の教えの根底には、現世の欲望や我執を否定し、無我や無私へ向かい解脱を願うという志向 があり、 「さとり」を開くことによって生への執着や死の恐怖を克服しようとするところがある。
これは、西洋のような「絶対神」をもってきて、神との契約の絶対性や神の教えの道徳的絶対性を説くやり方とはかなり異なっていて 、 西洋では人は神に従属しているが、日本の「宗教 意識」においては絶対的な神は存在しない。
むしろ、 清明心であれ、静寂であれ、無常観であれ、「無」へ向かう性向が見られることは間違いないであろう と、 佐伯 氏はいう。
私 : 佐伯 氏は、 もしもこのような「宗教意識」が今日のわれわれにある程度共有されておれば、これほど騒々しく他人の非を責めたて、SNSで人を誹謗 し、 競争と成長で利益をえることばかりに関心を向ける社会にはならなかったのではないか と思われ、 今年から学校では道徳が教科化された のなら、 ぜひとも、日本人の「宗教意識」や世界の宗教の簡単な解説ぐらいはすべきではなかろうかという。
ブログ 「オウム真理教と閉塞の時代 危機感植え付け遊びを本気に」 でふれたように、 高度経済成長も一段落した1960年代の昭和の終わりの若者の鬱屈 を 片山杜秀 氏が 指摘 し、 それが 「オウム真理教」は吸引 したように、 佐伯 氏は、現在の 「宗教意識」 を論じるよりも「成長戦略」を論じる方がはるかに意義深く見える世相の「 鬱屈」を指摘しているようだね。
「 オウム真理教」に走った若者のことを考えると再発防止の一つ とも言えるね。