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最近、哲学の原理についてなんとなく新しい考えがまとまってきている(創発してきている)感覚があったのだけど、今日久々にブレイクスルーが起きた。 ここで詳しくは書けないが、なぜフッサール現象学がデリダ的な批判をはじめとして、独我論云々といった様々な誤解や批判を招いていたのか、その理由もより深く了解できるようになった。それは道具立て(用語)の問題もあるのだが、それ以上に、現象学のもつ根本的な「哲学的な方法的構え」の不徹底さに起因するものだったのだ。 僕の考えによれば、現象学が招いてきた多くの誤解や批判や混乱を根っこから解消し、デリダ派に代表されるような懐疑論者ですら、「絶えざる差延」(方法的相対化)という方法を禁じ手にして参加せざるをえないようなさらに開かれた言語ゲームへと深化させることができる。 言ってみればこれは、デカルトに対してその意義を最大限認めつつも、さらにその原理を徹底したフッサールと同じような原理的深展を、フッサール現象学やそれを継承している竹田青嗣現象学に対してもたらした、ということができるだろう。 久しぶりに心地よい知的興奮を味わった。とはいえ、これを形(論文)にするには相応の時間を確保しなければならない。いつになることやらわからないが、これはがんばって書いていかなきゃな。
2009/04/01
つづき。 その岩田さんをして、そのブログで「恥ずかしながら存じ上げなかったのですが、、、、ええ?、、同い年なんだ。久しぶりに天才に会ってしまいました。すごいです。プレゼンテーションやコメントがこんなに筋道たっている人って希有ですね。」といわしめたのが、甲田烈さん。http://georgebest1969.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-caf7.html 岩田さんと同じ若干37歳。 僕も岩田さんと同じように感じた。 甲田さんは構造構成主義研究への投稿の打診(こういう内容のもので投稿してもよいのかといった相談)をしてきてくださったのが最初のきっかけ。 やはりどこかでみた名前だなあと思っていたら、ちょうど甲田さんの著書『ズバリ図解哲学』を読んだところだったのだ。この類の本は、簡単にしようとするあまり?哲学者の原理を損ねているものも多いのだが、甲田さんの本は、僕の知る範囲の判断だが各哲学者のエッセンスを損なうことなく古今東西の哲学者の「理路」を提示していたので、かなり感心しながら読んだ。 『手にとるように哲学がわかる本』も東洋哲学も網羅していて凄いです。そして実際に投稿してきた論文も、数ある投稿の中で最も最初から完成度が高く(その理路の有用性、汎用性は言うまでもなく)、この人は相当すごい実力者だなとその思いをあらたにしたのでした。 甲田さんの論文も構造構成主義研究3に掲載されています。 で、初めてお会いしたのが、その理論論文研鑽会。想像以上のインパクト。かつプレゼンの内容はもとより、岩田さんがいっていたように、これだけあらゆる次元のコメントに的確かつ建設的に返答できるひとは滅多にいない。 ほんと、久しぶりに天才にあったなぁ、というような込み上げる嬉しさがあった。 また驚いたのが、『ズバリ図解哲学』は池田先生と同じように1回で書き下したとのこと。やはりこういう凄い人はいるんですな。 飲み会も、みんなお互いに気があったようで飲み会も盛り上がった。僕もなんだかとても愉しかった。 いっとく君も天才的な才能があるので(そして良い意味でヘンなので)、きっと甲田さんを気に入るだろうと思っていただけども、案の定すごい意気投合したようで、U君ともともに朝まで語り明かしたらしい。 池田先生も珍しく遅い時間までおられて、後日会ったときにやはり甲田さんをかなり高く評価されていた。 「あれだけ明晰に語れるのはもう頭の中で全部考え終えているんだと思う」と自身と重ねていた。そして「甲田さんはそのうちブレイクしそうだね」とおっしゃっていて、「僕もそう思います」といった。 こういう人と出会うのは他にはかえがたい嬉しさがあるものだ。 なんというか「この人かなり好きだなぁ」という感じ。趣味は何かと問われると答えに窮するのだけど、敢えて言うならばたぶんそういう人達と会うことだと思う。 甲田さんやいっとく君と話していて、ある原理を深めるであろう考えの輪郭がより明確になった感じがしたのでした。
2009/04/01
最近、もっと強くなりたい、とよく思う。 それは身近な人が病気になってしまったというのもあるけど、ワークショップとかをしていてもそう思う。 もっと自分が強ければ、どんなに厳しい状況であっても、もっといろんな人の助けになり、守ることができるのにと思う。 強さとは何か? これは長年なんとなく考え続けてきたことだ。 井上雄彦は、最後の漫画展で、 強さとは やわらかく あたたかいもの と言っていた。 直観的にはその通りだと思ったが、原理的にはもっと言い当てられるような気もしていた。 そして最近ふってきたのが、 強さとは、大切なものを守る力のこと だからそれは優しさだったり、やわらかさだったり、温かさだったり、経済力だったり、知力だったり、体力だったり、しなやかさだったりする。 だから人は、大切なものを守るための強くなろうとするのだ。 大切なものが自分だけであれば体力やある程度の経済力があればよく、優しさや温かさは必要ないかもしれないが、大切なものが身近な人であれば、やわらかさや、温かさは必要不可欠なものになる。 それがない人を、僕らは本当の意味で「強い」とは思わないのはそのためだ。 井上雄彦は、そこを言い当てたのだと思う。 大切なものを守る力が今よりもっともっと無かった頃、そんな自分の力のなさが悔しくて泣いたことがある。 そして、あの悔しさは、僕の原動力になっている気がする。 (以下、これに関連して『崖の上のポニョ』の話。一部ネタバレ注意)。 宗介は目の前でポニョをさらわれてしまう。 泣きはらしたような顔で、茫然自失だが、リサ(お母さん)がなぐさめるために与えたアイスを食べている。 家に帰って、落ち着きを取り戻したのちに、5歳の少年はリサの前で、遠い目をしながらこうつぶやく。 「僕ね ポニョを守ってあげるって約束したの」 にもかかわらず、守ってあげられなかった自分がふがいなく、どうしようもなく悔しかったのだろう。 彼はいい男になると多くの人(おそらく特に女性が)思うのは、そういうところなんだと思う。 何も知らないうちに「ポニョ、宗介好き!」と宣言するポニョには、見る目がある。 そういう視点でみると、ポニョの話は「大切な人を守る」というモチーフで貫かれているのがわかる。 リサは宗介やおばあちゃん達を守り、おばあちゃんも宗介を守ろうとする。宗介はリサやポニョを守ろうとする。 ポニョのお父さんやお母さんは世界を守ろうとする。 みんな大切なものを守ろうとしている点で同じなのだ。 だから大切なことは、大切なものを守ろうとする意志同士がぶつかりあわないようにするための考え方の原理や、価値観や、制度を構築していくことなのだ。 それが21世紀に生きる僕らが大切なものを守るためになすべき最大の課題なのだと、僕は思う。 (↓ポニョの予告編)http://jp.youtube.com/watch?v=g3pK1jMgIDU&feature=related
2008/11/19
師走とはよく言ったものですが、なぜ12月は忙しいのでしょうか? 「そんなこと考えているから余計忙しくなるんだ」というつっこみももちろんありですが、心を亡くしちゃおしまいよということで、あらためて考えてみました。 いろいろ思い浮かぶと思いますが、僕の考えはこうです。 「みんな忙しいから」 これに尽きると思う。 年末年始に向けて仕事が前倒しになり、年内の締め切りも差し迫ってくる。しかし、それが自分だけなら、これほど忙しくはならない。 みんなが同じように忙しいため、差し迫った依頼や催促などが突如舞い込んでくる。もちろん、こちらも思い出したかのように書類を送ったりする。この「多忙の相乗効果」が忙しさに拍車を掛ける。 加えて、複数の忘年会、クリスマス、大晦日、年賀状書きなどイベントも多く、そんなことやっている場合じゃないのに、「まあそれはそれだし」といわんばかりにみんなで集まったりするので、結果、多忙を極めることになる。 こんなことがわかっても、忙しさが減ることはないが、「自分が今まさに忙しい理由」を幾分か納得して過ごすことができるかもしれない。たぶん、これは哲学の役立ち方の一つのバリエーションなのだろう。
2007/12/21
朝方の特別講義始めます。 後輩のSWさんの日記をテクストとします。 以下そのテクスト(SWさん、良質のテキストをありがとう)。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 数字の不思議 2007年12月05日最近聞いた話。 1を3で割ると0.333・・・となるわけですが,0.333・・・を3倍しても0.999・・・で,1にはならないんですよね。 この状況を解決するには,0.999・・・=1である必要があるわけなんですけど,どうなんですかね。普通にこれを主張している人もいるそうです。 ウィキペディアに「0.999...が1に等しいことの証明」というのがありました。いやーすさまじい。 で,どうも0.999・・・=1らしいです。「どう考えても0.999・・・=1なんだけど納得できない」というのが一般的な感覚みたい。 ちなみに,リンク先を一通り読んだ現時点でも,僕は納得できない派ですwまあリンク先は長文かつ複雑なんできちんと理解は出来てないんですが・・・ 1-0.999・・・=0ってことなんだよなー。確かに,9は無限に循環するので0.000・・・0001という解答はありえない。つまり「無限」という概念をどう感覚するかの話ってことになるのか。 あるいは,1=2÷2みたいな感覚で,0.999・・・を小数というよりはなんらかの概念であると理解しちゃえば納得できるのかも。やってみて僕は納得できませんでしたがw あ,待てよ。0.333・・・×3=0.999・・・ってとこは疑えないんだろうか。つまり,0.333・・・×3は1であって0.999・・・ではないというような。だって1÷3=αとした場合,α×3は1だからねえ。これは俺の中では結構ありかもしれない。 ・・・あーでも,0.333・・・×2=0.666・・・なんだから,3倍したら0.999・・・になるよな。これも駄目かなあ。 3分の1=0.333・・・をどうやって導き出すかというと,1÷3を筆算でやるわけですよ。そうすっと3が永遠に並ぶというのは理解できる。3分の2=0.666・・・も同様。で,0.999・・・については3分の3なわけで,これはどう考えても1なので・・・と考えると,ひとつの考え方として「0.999・・・なんて状態はありえない」というのはどうだろう。 0.999・・・という数字は俺の現時点での知識では0.333・・・を3倍することでしか得られないわけだけど(だって3分の3から行こうとしたら1になっちゃうからね),0.333・・・を3倍した数字は1であって0.999・・・ではないと。ついさっきの議論を引っくり返しちゃってますが。 このへんが妥協線かなあ。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ さて、これらをテクストとして、以下特別講義はじめます。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ とてもいい線いってると思うけど、これはそんな複雑な話じゃないのです。これは、数(概念)で考えるとわけがわらかなくなるという一種のトリック(まやかし)なのです。こう考えれば何も不思議ではなくなります。リンゴが一つあります。 3つに正確にわけました。 無理矢理数値化したところ、一つのリンゴが0.33333・・・になりました。 でも、3つあわせたら1だよね。だってもともと1だったものを3つにわけただけなんだから。 それを概念(数字)で表すと複雑になり、わけがわからなくなり、「納得できなくなる」というただそれだけのことなんだ。 なぜ、こうした倒錯が起こるかわかるかな? それは概念(数値)を実体として捉えてしまうからなんだ。 哲学の難問(アポリア)も全部だいたいはそうした錯誤の結果生まれている疑似問題。そしてそこから膨大なスコラ議論(あーでもない、こーでもないという些末な議論)が生まれてくる。 これを“本当の意味で理解できたら”、あらゆるモンダイはモンダイじゃなくなる。 「この世には、不思議なことなど何もないのだよ、関口君。」 という京極堂の台詞の意味はこういうことでもあるんだよ、○○君。」 哲学的なアポリアに取り組んでいる人は、このことを深く強く理解しておかないと、疑似問題に一生を費やすことになります。 もっとも、その人が愉しんでやっている分にはモンダイないのですが、少なくとも、「哲学」や「研究」が「学問のための学問」に終止しないためには、このことは分かっておいたほうが良いでしょう。京極堂とは京極夏彦の小説シリーズに出てくる主人公の一人です。哲学にも非常に造詣が深く、現象学的な視点からトリック組み入れているので、現象学を小説で理解したいという人にもお勧めです。参考書として挙げておきましょう。デビュー作:姑獲鳥の夏 陰摩羅鬼の瑕 これはハイデガーの存在論を組み込んでいます。哲学者木田元の解説も見物です。以上、朝方の特別講義終わります。
2007/12/06
先日、夜中眠りかけながら、また一つ根本的なことがわかった。 一見背反するとされる二つの原理の元は一つだったのだ。そうして、“ 未 来 と 過 去 は 逆 転 し た ” のだ。 そうか、そういうことだったのか、だからあれもこうなって、あれとこれも同じ起源だったんだ、といろいろなことが一気にわかっていく。知のケミストリーってこのことだな。 気づきの深度が深いほど、その理路の射程は遠大なものになる。分かってしまえばなぜ気づかなかったのかと不思議なぐらいだが、そうでありながら、それに気づいた瞬間、このことをこの深度において分明にわかった人はあまりいないのではないかと思った。これまでこうした直観を外したことはない。 あらゆる文献を渉猟したわけではないのに、なぜそうした確信が成り立つのか? それは、本質的には直観的なものはあるが、それを敢えて説明すればそれらの存在的距離はあまりに遠いため、両方の底に同時に着地した人はいないだろうという論理的な判断によっているといえなくもない。そして、この二つの原理それぞれの根底まで降りてくという矛盾を矛盾させない知的肺活量と、その水圧に耐えつつ、明かりのない深海を静かに見渡す知視力なければ、それが同じ海嶺から出てきた異なるプレートであることに気づくことはできない。 だから、そうした関係性の本質的気づきに対する快感は、その存在的距離に比例するのだ。 ってことで嬉しい。 その内実については、いつかどこかに書きます。 僕はどこまで分かり続けることができるだろうか。愉しみだ。
2007/11/15
ちょっと前のことになるが、ジュンク堂に行って、研究に役立ちそうな本を計70冊ほど購入。 数十冊は読んだかな。ギリシャ哲学に関する本をかなり買ったが,やはりしっかりした研究書は,原典まで遡ってまとめてあるので信頼できる。 たとえば,タレスについてだけみても,本によってかなり精度が違う。 比較してみるとよくわかるのだが、噂や根拠のないものをそのままタレスはこうだったと書いているものが多いが,よくできた研究書はその真偽についても可能な限り文献の裏付けを得て確認している。 タレスは1冊も自分で本を残していないというのは知っていたけども,「万物の根源は水である」という言明について語られているのは,アリストテレスの本の中の2カ所のみだということは知らなかった。 日蝕を当てて(しかし日蝕のメカニズムに関する理論は知らなかった),航海のために役立つ星座を知らしめたりしていたのは確からしい。 うむ,この本は素晴らしい。心から賛辞を送りたい。 詳しすぎて売れないだろうけど,研究書というのはそういうものだ。がんばれ,研究者。
2007/06/23
某有名J大学名誉教授(哲学)はこういった。 人間の命は、動物とは違うのである。なぜなら、人間は笑うことができ、話すことができ、愛することができるからだ。他の動物は笑うことができない。だから人間は他の動物を食べてもいいが、人間の命は格別に尊重されるべきであり、自殺してもいけないのである。 何をおっしゃいますやら。人間と動物の違いは、そのように屁理屈を捏ねて正当化するかどうかだけですよ、と思ったが、大人な僕は黙っていた。 これはキリスト教の教義そのもの。それはそれで別に異論を唱えるつもりはないんだが、それなら「これはキリスト教の教えによると、」というべきであり、一般的な学問の話としてするにはあまりにナイーブ過ぎるようにも思った。とても良い人だったし、天国には行けるんだろうけど。
2007/03/07
その後、メモリがいっぱいになった自分を再起動するために寝た。 起きた。ぼーっとしている。やっと準備が整ったなと思う。 それでトコトコ書き始める。1/3はすでに書いてあり、1/3は電車の中で原稿の裏に書き付けていたので、写しているようなものだ。そして残り1/3を埋めていく。 この原稿を書いている(考えている)中で、なにげにすごい発見をしてしまった。 古今東西のあらゆる哲学が、何をしてきたのかがわかったのである。哲学が扱ってきたテーマは、生、死、存在、時間、認識、世界といったあらゆるテーマがあるが、当然ながらそのどれでもない。 切り口こそ違えども、すべて“それ”に取り組んでいたのだ。 “それ”を一言で言い当てることができるようになったのだ。 むしろ、“それ”を主題として扱うものこそ、哲学だといってよい。“それ”は哲学を哲学たらしめる定義といっても良いかもしれない。 こういうことを主題化して明示的に言ってのけた人は、今までいなかったんじゃないかと思う(もしかしたらいたかもしれないが)。 これはけっこうすごいことだと思う。 さて、“それ”は何でしょう? 答えはまたいずれ!(←もったいぶるな)
2007/02/19
次世代研の3次会(徹夜組)での話。 そこにいたのは,その日はじめてあった阪大の院生二人(二人とも来年から学振になるという。優秀だし、とてもよい感じの人)や,各大学の院生やネキダリスのメンバーなど10人ぐらい。強烈に凝縮された才能空間になっていた。 構造構成主義に関連する難問についての議論が,すごい勢いで飛び交っていた。随分とレベル高いなあと思いながら聞いている。 すると,ある院生が以下のブログに書いてあった答え,教えてくださいよ,と提案してきた。 http://plaza.rakuten.co.jp/saijotakeo0725/diary/200701090000/ 彼はエスプリの僕の論考に出てくるI君である。彼の哲学センスは相当なものがあると僕は思う(彼も来年から学振)。 で,その話にみんなも興味をもったらしいので,ちょっと話してみることにした。 「じゃあ,その前にみんなはどう思うか,それぞれ言ってみて」とみんなにふる。 さっきまであれほど,構造構成主義について活発に議論していた皆の動きが止まる。 少したってから,それぞれが答えていく。 哲学的にいえば,T大で教育思想を専攻しているU君はさすがにいいところまで行っていた。一番惜しかったのは阪大の女の子だった。理屈よりも自分の実感を大事にしたのがよかったのだと思う。しかし、いずれも難問を論理的に解く,というところまではいっていなかった。 で,みんなが解けないのを確認してから,僕がちょっとエラソウに教え始める。 これはね、カクカクシカジカと考えれば,この難問は難問ではなくなるんだよ。難問に陥っている状態とは,論理的な考えが僕らの実感とズレている,そのズレの理由(構造)をコトバで言い当てられずにもがいている状態なんだ。 それは、そうした難問を誰かに突きつけられても,反論することができない状態ということを意味する。 それをこうして言い当てて、難問の問題性を無くしてしまうことが,哲学的に考える,ということもであるし,難問を解き明かすということなんだ。 なぜみんなに考えてもらったかというと,こういうのは推理小説と同じで犯人がわかってしまえば,なんだそんなものかと思ってしまうのと同じで,この難問だって,もし僕がすぐに解き方を話したとしたら「なんだ,そんなことか」と思ってしまうだろう。 そんなの簡単だと。それは上手に解けていれば解けているほど問題性は跡形も無くなるから,どうしてもそう思ってしまう。 しかし実際,みんなはこの難問の前で動きがとまったよね。そして誰もそれに他の人も納得するような答え方をすることはできなかった。 だからこそ難問を解いてあげることには意味がある。 僕は,こういったことを語った。 具体的な話を題材に,難問にチャレンジしてもらい,その上で難問を解き明かすということしてみせて,その意義を体験させるということをしてみせたというわけだ。これがほんとの「哲学する」ということの演習なんだと思う。 暗に,プロならば事後的にそんなのたいしたことないといっても意味はなく、そうした難問を先に解いてみせるということが大事なんだということも伝えたつもりでもある。ちょっと偉そうだったかもしれないが、たまにはいいだろう。年下ばっかりだったし。僕より年下のひとは得だと思う。なぜなら僕が遠慮することなく,話すことができるからだ。目上の人に対しては、僕は「そうじゃないんだけどなあ」と思っても、遠慮していわないこともけっこうある(ちゃんとした学的関係が構築されている人は別だけども)。 僕の周りでは、上下関係なく,忌憚の無い、しかし建設的な議論が飛び交っている。それは僕にとって心地よいことだ。構造構成主義やそれに関連する題材(難問)を通して,素直な若い研究者が才能を延ばしていってくれるのはとても嬉しいし,愉しみでもある。 自分と対等に議論できるような強い原理的思考力のあるひとが育ってくれることは,嬉しいことだ。それによって自分も鍛えられることになるからだ。そうした凝縮された空間にいることで,僕自身日々成長しているし,まだまだ成長できると確信している。 こうしてみんなで朝まで飲み,語り,次世代研の最終回番外編は終わりましたとさ。
2007/02/13
先日は,池田清彦先生主催の勉強会だった。 3名の院生に発表してもらった。 一人目はS君。ブルーナー研究で,非常に勉強になった。ブルーナー研究を教育思想として研究しているひとはあまりいないので,オリジナリティは出しやすいが,他方(デューイなどと比べれば)希代の大学者というわけでもないので,思想研究するにあたって独自の難しさがあるようだった。 思えば彼との出会いは印象的だった。 前期中にこの勉強会のあと近くの居酒屋に行った。池田先生と僕が先頭で店に入ると,近くの席で飲んでいる学生の一人が池田先生の顔,僕の顔をみて言葉を失っている。 ん,なんだろうと池田先生と顔を見合わせる。彼は「あの,池田先生と西條さんですよね」といった。 話を聞いてみると,どうもちょうど池田先生と僕との対談本『科学の剣 哲学の魔法』を読んだばかりだったらしく,あの本にはけっこう写真が入っていることもあって,気づいたということだった(その後,飲み会中に写真を取って欲しいとやってきた)。 前日に竹田先生との勉強会後に飲んでいたときに、後で出てくるI君がやってきて「後輩で是非、西條さんに会いたいといっている人がいるんです」といっていたのを思い出して、いってみたら、やはりその後輩がこのS君だった。それが契機となって池田先生の授業に潜らせてもらうようになり、時々研究室に遊びにくるようになった。そんなこんなで勉強会にきてもらうことになって,今回の発表につながる。 縁があったということなのだろう。 2人目の発表はU君。デューイの「経験」についての発表だった。この概念はかなり誤解されているようで,僕も気になっていたところだったので(どちらにも読めるところがあっていろいろ読まないと判断が難しい)とても勉強になった。デューイ研究は膨大な資料,研究論文があるため,もはややられ尽くされており,なかなかオリジナルな研究をすることは困難なようであった。S君とは悩みの構造が反対だったのが興味深い。 今後より広い視座から研究を進めることに関心があったようだったので,愉しみだ。 彼は大人しいのだが,熱い思いを秘めている。一度口を開くと流暢に語り出し,話を聞いているのは愉しい。 3人目の発表はI君(このI君は『現代のエスプリ』の僕の論考にも出てくる)U君を紹介してくれたのがこのI君である。彼の発表はエマソンとデューイ思想のエッセンスを掴みながら,教育における「個」と「公」のアポリアを解明するという画期的な論考。 まず非常に文章がうまい。相当書き慣れている,という感じがする。論文の構成(流れ)もよくできており,論文の完成度は相当なものだ。 論文としてはほぼ完璧だったのだが,アポリアを解明する理路としては,原理性に欠ける箇所があったのでいくつか指摘した。 まず,彼の論文の随所にみられる「条件さえ整えば,人は必ず○○にめがけて○○する」という語法が気になった。 これは竹田青嗣先生の著作に時折見られる語法だ。 「これ竹田節だね」というと,彼は「あ,わかりました?(笑)」と言っていた。 彼は竹田青嗣先生の著作に強い影響を受けており,現在も直接指導を受けている(この論文もみて頂いたらしい)とのことだったので,これは自然なことだ。 自分にとって説得的と感じられる語法をマネていくことは,とても大切なことだと思う。 僕も竹田先生の著作からは,多くの大事なことを学んだ。 だが,この語法に関しては、使用の際には注意が必要だとも思う(うまく使えばいいのだが)。 というのも,「条件さえ整えば,人は必ず○○にめがけて○○する」などということは,人間の同質性,人間の本質は単一性を前提としなければ成立しないからだ。 人間の本質は単一である,ということはある種の真理主義を前提としているとまではいかなくとも,それは可疑性が高い言明だ。 そうした前提を了解してくれる人には説得的な理路足りうるが,「人間の本質は多様である」という信念をもっているひとに了解されることはない。 『現代のエスプリ』の論考では「原理性の深度はその理路が基礎づける射程に比例する」というテーゼを提起したが,まさにこの「条件さえ整えば,人は必ず○○にめがけて○○する」という語法は,「人間本質の単一性」という前提の上にしか成立しないため,その基礎づけられる射程は限られてしまうのだ。 したがって、こういう語法を絶対に使ってはならない,ということではないが,少なくとも原理的な理路を構築する際には「使用上の注意をよくお読みの上ご使用下さい」ワードにして捉えておいた方がよいだろう。 じゃあ,どう書けば良いのかといえば,僕なら 「特定の条件が整えば,○○にめがけて○○しやすくなる」 あるいは 「多くの人が○○にめがけて○○するためには~という条件が必要となる」 ぐらいにしておくだろう。 え,違いがわからないですって? 「条件さえ整えば,人は必ず○○にめがけて○○する」っていうのは,ほとんど刺激と反応(S→R)で説明する行動主義の亜系みたいなもので,機会論的人間像が前提となっているともいえなくもない。なにせ「条件」→「行動」というのだから。 それは「経済力と社会的地位という条件さえ整えば,人は必ず結婚する」といっているようなもので,こう考えてみると,そんなわけはないとすぐにわかる。 僕の提示した修正版は, 「経済力と社会的地位といった条件が整えば,結婚しやすくなる」 といったぐらいのもので,これはそんなに無理がない(根本仮説性は排除できないにせよ)。 とはいえ、竹田先生がこの語法を使うときは、社会システム全体について言及していることが多いようにも思う(印象だけで確認していないのでこれはかなり不正確)。その文脈で、この語法を使う時は,括弧付きで「社会全体の傾向として」ということが含意されるため、結果としては「多くの人が○○にめがけて○○するためには~という条件が必要となる」 というニュアンスを帯びるため、それほどマズイことにはならないのだ。しかし、この語法だけ取り出して,安易に自分の理路に組み込むと、原理的な破綻を呼び寄せることにもなりかねないので注意が必要ということなのだと思う。これと関連するのだが,何かを基礎づける原理的な理路を提示する場合,あるいはメタ理論を構築する場合,「原理」と「根本仮説性の高い理路」を意識的に分けて書く必要がある(こんなことを指摘するのは僕ぐらいのものだろうけど)。 原理は特定の方向性や価値観を含まない方がより原理性の高い理路となる。 池田先生が『構造主義科学論の冒険』にふつう「形式主義」というと悪口だが,自分はそう言われたら喜ぶ書かれていて,なるほどと思った。つまり,形式(構造)は中身がないため,あらゆるものに妥当するというのだ。 それと同じで,原理(これも構造の一種だが)もコンテンツ(内容)はない方が,その射程は広がるのである。 内容があると,その理路の基礎づけられる射程はその内容下に限定されるからだ。 原理的な基礎付けをした上に,現代社会の難問を解明するために何らかの方向性を打ち出すのは良い。そしてその部分は多少根本仮説性の高い(疑う余地のある)ものであってもよい(というか,ある程度そうならざるをえない)。 大事なことは,この二つの構造(原理と内容)を分けて考える(書く)ということだ。 そうすれば,根本仮説性の高い理路(ソフト)を修正する必要が出てきたとしても,原理の部分(ハード)はそのままで,ソフトだけ修正すればよくなる。そしてソフトを入れ替えれば,他のテーマにも導入可能になるのだ。 無論,これは彼の実力不足ということではない。むしろ逆で,こうした指摘を呼び起こすということが彼の実力が相当なものだということを物語っている。こういうことは自分で原理(メタ理論)を作ってみたことがないとわからないのだ。逆にいえば,彼は相当イイ線いってるということだ(優れた原理を構築し始めているということだ)。 彼にはいずれ1冊本を書いてもらおうと思った(なぜそうしたことが可能かといえば、ナカニシヤの編集長さんから「西條さんが監修で書かせたい人に1人1冊,1年で4冊,10年で40冊のシリーズ本を出したい」というオファーを頂いているため)。意図したわけではないのだが今回3名とも全員教育学を専攻しているということで教育思想特集となった。 一連の発表を通して,教育思想研究にとって研究対象となる「デューイ」や「ブルーナー」といった人物(のテクスト)は,心理学でいうところの「データ」に該当するものなんだな,ということがわかった。 だから教育思想において,人物研究を行わないということは,心理学でいえばデータを使わないようなもので,教育思想研究としては認められないのだ。 「デューイ」といった膨大だが,分析し尽くされている「データ」を選ぶか,「ブルーナー」といったそれほど豊かといはいえないが稀少な「データ」を選ぶかといった選択が,教育思想の出発点となるのだろう。 いずれにしても,心理学が「データ」分析に終始して,「で,だからなに?」という研究で終わってしまうことが虚しいように,教育思想が「人物研究」に終始して,「で,だからなに?」となってしまうことは虚しいと,3者とも思っているようだった。 それは健全な感覚だと思う。 データを通して,教育思想について何を語れるかが勝負なのだろう。心理学におけるデータが,心を説明するためのツールであるように,人物研究はあくまでもそのためのツールとして捉えつつも,同時に院生としてはその分野で認められるためにもその作法や技術を身に付けていくことが大事なんだろうと思う。 また今回の議論を通して,デューイ・プラグマティズムと構造構成主義の異同もよりはっきりした形で掴めたので、これも収穫だった(内容は誰かが論文化するだろうからここには書かない)。以上のような、原理と根本仮説を分けて理路を構築するといった話は、彼らにとって目から鱗だったらしく、飛躍的な知的成長期を迎えるためのエッセンスを掴んでもらえたようだ。今後の展開が愉しみ。その後,みんなで飲み会に行き,結局朝までいろいろ話し込んで愉しかった(最近若いな自分)。
2007/01/22
今日は竹田青嗣先生の哲学勉強会がある。 で,ヘーゲル『精神現象学』読解のレジュメを作っているが,無闇に難しい。 たとえば以下のような感じ。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 3 絶対自由と恐怖 意識は有用性のうちに自分の概念を見出しはしたけれども,しかしこの概念は一方ではまだ対象であり,他方ではまさにこの故にこの概念はまだ目的であって,意識はまだこの目的をすぐには手に入れてはいない状態にある。有用性はまだ対象の述語であって,「主体」ではなく,言い換えると,この主体にとっての無媒介で唯一の現実態ではない。(略) しかしながら有用なものが具えている対象性の形式を撤回するということ即自的にはすでに「出来」しており,この内的な変革から,現実の現実的な変革が,絶対自由という新しい意識形態が現れてくる。 《西條解説》 意識は,自己概念が「~とっての」という有用性と不分離なものであると気づいているが,まだそれが主体の基底をなす唯一の原理であるといった考えには至っていない。しかし,即自的には,有用性が対象に備わっている性質であるという形式は撤回できているので,これを契機として,絶対自由という新しい意識形態が現れてくる。え,解説になっていないですって? 僕にとってはなっているからいいんです(ってことにしましょう)。その後,池田ゼミに出る。ギリギリまで竹田ゼミでは発表準備をして,5限の池田上級ゼミに出る。 学生たちの発表は素朴ではあるが,議論が盛り上がる題材を容易してくるし,みんな素直そうな子ばかりでいい感じである。 今日は最近の履修問題の話題が出た。池田先生の意見は僕のそれととても似ていた(ゆえに割愛)。個人的には池田先生が大学院に行きながら定時制の先生をやっていたときの話はサイコーだった(ゆえに割愛)。 その後,竹田ゼミに行き発表する。僕の解釈はそこそこ妥当なものだったようだ。が,歴史背景を押さえていないとどうにも解釈不可能な場所があってそれは無理だった。いつもながら竹田先生の解釈はすばらしかった。1冊の本を5年もかけて読み解く根気は僕にはないから完全解読の本が出るのが愉しみ。 その後,みんなでお好み焼きやに行く。激ウマ。ビール最高
2006/10/31
朝5時に起床。午前中ひたすら論考を仕上げていく。いつこの好調期が終わるかなと思っているけど,まだ知的フィーバー「777」は続いてくれるらしい。 午後からはいつものようにS研にいく。 ちなみに,ここは一流の研究者(もちろん臨床もする)ばかりで,議論の質は異様に高い。 いってみれば,室長クラスは皆一騎当百の強者で,部長は一騎当千の勇者。臨床と実証の双方において,その知識,実践力,洞察力,建設的態度,批判的吟味,いずれをとっても超一流で,医療実証系でここまで強いひとはちょっといないと思う。ちなみに哲学にも理解があったりするし,ユーモアのセンスもある。ついでに身長も185ぐらいある。あるある研究者である。 それで,毎週あるジャーナルクラブでは海外の最新のジャーナルから論文を5,6本レビューする勉強会に出させていただいているのだが,これが本当に勉強になる。 今日も,薬物療法よりも視床下部への刺激治療の方が,パーキンソン病を劇的に治療することができるという実証研究や,1日100円もかからずにかなり効果的に鬱病を直してしまう海外の研究が紹介されていた。パーキンソン病,そのうち治せる病気になるかもしれないと思った。 最新ジャーナルを読んでいると,科学は日々進歩していて,やっぱりすごいなあとあらためて思う。ふつうの科学哲学者や科学論者は,こういう実証科学の現場を知らないから,容易に社会的構築主義的な科学論とか相対主義に飛びついて満足しちゃったりする人も出てきてしまうのかもしれない。僕は,ここで王道の医療系実証研究の現状を学ぶことができているので,哲学に偏らないで済むという意味でもとてもよい機会を与えていただいてると思う。ちなみに,学会や研究会での僕を知っているひとはにわかに信じられないかもしれないが,ここでは「自分が特に語るべきことは何もなく,みんなの議論を聞いていた方がためになる」と思ってしまうため,ひたすら聞き役に徹していて,前期が終わる頃まで一言も発言しなかった。 これまで「勉強会の場で黙って聞いている人は,何を考えているんだろうかなあ,消極的なのかなあ」と思っていたけど,自分がその立場になってみて,そうじゃない人もいるかもなと思った。 単に「自分が話すより,みんなの議論を聞いて吸収した方が勉強になる」と思って黙っているひともいるんだきっと,と思った。 その後は,W大に行き,竹田先生らとテニスをする。 8月のOB線で取り入れたムチの原理を使ってみる。 ほとんど力を入れることなくものすごいサーブがバシバシ入る。 入ったサーブは一球も返ってこなかった。 これはすごい方法をみつけたもんだあと思う。 ともあれ,メンバーがよいのでいつもながら本当におもしろかった。 その後は,構造構成主義を歴史学に導入している学生が,関西からきている友達を連れてきたいということで,いろいろ話を聞き,自分なりにアドバイスをする。彼は構造構成主義を使って新たなモデルを作りたいらしい。がんばれ。 そして,彼ら二人を連れて再び社会人ゼミを終えた竹田先生等と合流して飲みにいく。激安でうまい。いいところをみっけた。今度の勉強会の飲み会はここに決定。 竹田先生は,二人の関心を聞いた上でいろいろ語ってくださり,その話の中にいくつか深い洞察があって,また理路が進展した。すごい人だなあとあらためて思った。 構造構成主義の第一回シンポジウムの,池田・竹田・西條鼎談の件をオファーしたところ,快諾していただいた。そのついでというわけではないが,構造構成主義の2巻か3巻にも論考書いてくださいとお願いした(現在も,『現代のエスプリ』に「哲学の再生」というテーマで書いていただいている)。そんなこんなで,最近の生活は,科学と哲学の往復運動から成り立っているんだなあということを再認識した一日でした。関係者諸氏にあらためて感謝申し上げる次第です。
2006/09/21
最近,調子がよい。 自分で作った理路ではあるのでこういう言い方は妙かもしれないが,日々構造構成主義に対する理解が深まっている。 原理に対する理解が深まっていくという感覚,これは甲野先生がやっているような古武術の技の原理の追求とおそらく相似形だろうと思う。 なるほど,これはこういうことだったのか,だからこうなっていたんだな,といった気づきを得ることは,知的な快感そのものである。 哲学の原理と武術の原理は,後者に行為が伴う点で決定的に違うと思うかもしれないが,実は,行為レベルでできなかったことができるようになるという点でも相似形を為している。 原理に対する理解が深まるということは,これまでなら,こういう切り返し(批判や質問)があったときには,ここまでクリアカットに返すことができなかっただろうことに対して,より深く強く答えることができるようになる,ということなのである。 よりすーっと相手に入っていけるような思考の筋道を得たという感覚でもある。 これはいわばコトバのやり取りにおける「武術」の進展といえるかもしれない。
2006/09/14
最近つくづく、自分は仕事をこなすスピードが速くないなあと思う。 大学院生の頃けっこう速い方なのではと思ったことがあるが、池田先生、内田先生、無藤先生など良質の仕事を光速で仕上げる人を知るにつれ、自分は非凡なほどではないということがわかった。 ただ、これは甲野先生がいつもおっしゃっている感覚に近いと思うのだけど、理路の深展ということに関しては、あらゆる経験を重ねるなかで、自分の中で自然に深まっていくので、この点は不便に感じたことがない。 その意味では、アイディアが枯渇したり、先に進まなくなったりといったような、いわゆる学問的な意味での「スランプ」を味わったことがない(いつかそういう時期が訪れるのだろうか。そうなったら他のことして遊ぶしかないな)。 むしろ、よくもまあと自分でも思うほど、深まっていく。しかし、それを表現する速度が追いつかないために、書くべきことばかりがたまっていくことになる。 しかし翻ってみると、忙しい忙しいと言いながら、僕は原稿を執筆している時間は長くない気がする(←おいおい)。むしろ、その論件に気を留めながら、なんとなく考えていたりすることの方が多い。寝ながら考えることも多い。 仕事が進まないのは、そういう時間に多くのリソースを割いているということもありそうだ。「無用の用」ともいうが、一歩間違えると「時間の浪費」と紙一重なので、さじ加減がむずかしいところ。 僕の場合は、新たなアイディアがひらめくというよりも、おお、これはこういうことだったのか、とより深い気づきが得られるという感じである。気づいてしまえば、なぜ、気づかなかったんだろうと不思議に思うほど、最初からそこにあったかのごときことなのだが、しかし深度が深度なだけに、相当深くこのことを考えた人でなければ、それを意識的に言語化することはできないだろうという感じもある。 思うに僕はそういう高深度のコトバから、凄さを知覚している気がする。 そういうコトバをリアルに発するためには、深く深く潜り、その思考風景をみてこなければならないので、その人の「凄さ」を見抜くには、一言あれば事足りるのである。 思想的な本を読むときに、序文やあとがきを読めばわかるのはなぜかといえば、そこにその人の思考風景の深度がフラクタルに反映されているからに他ならない。 逆にいえば、「こんなこと言っているようじゃ他もたかがしれてるなあ」というように、思考の浅度をみとることができるということでもある。 思考の深度、それは知識の量や読書量、経験量、年齢、身分、そういったこととはまったく関係がない。 それは深いか浅いかだけである。 ただそれだけをみる。 その感度だけでいい。 学者として直接交流がなくとも、長年の友情に近い心情が芽生えることがある。 それはこの深度に関係していると思う。 「この理路にたどり着くためは、この深度のセリフを発するためには、同型の思考経験を辿ってきたに違いない」と確信するに足るような思考風景をみたときに、学者の間に年齢や身分や時間を超えた尊敬と友情の念が芽生えるのである。 先に進むということは、深く潜るということは、ある種孤独な経験でもある。 もちろん、それは自負でもあるのだが、あるところから先は、本当の意味で理解してくれる人はどれだけいるのだろうかという一抹の寂しさを伴う体験でもある。 前人未到の境地に踏み込み、いままでみたことがないような絶景をみたとしよう。それ自体、ある種の至高体験に違いないが、誰ともその興奮を分かち合うことはできないのはやはりちょっと寂しいことである。寂しいというか、それをともに分かち合うことによって味わい尽くすことができないとでもいうか。 「あの風景、ほんと凄かったよな!」と言い合える仲間が少しでもいるのと、まったくいない場合を考えればそれは容易に想像付くであろう。 それと同様に、思考風景の深度が深くなればなるほど、到達者はほとんどいなくなってしまう。しかし、その分得られる知的快感は高まっていく。 これこそ学者冥利に尽きると僕は思う。 だから、ごく稀に、このひとは同じ思考風景をみてきたんだなと思える学者と出会うという僥倖に恵まれると、その過程で味わうであろう苦難や知的興奮を共有できるため、長年の友のような感覚になるのだと思う。これを本当の学友という。 それは、事後的に経験を共有することによって、時間と空間の溝を埋めるということでもある。 ときに仲間同士よりも、同レベルのライバルとの関係において非明示的な友情的な思いが芽生えるのも同じ理由からである。 ということで、さらなる思考風景と知的エクスタシーを得るべくトコトコと進んでいくのであった。
2006/09/08
今日は,竹田青嗣先生の哲学ゼミ。 ターゲットは,ヘーゲルの『精神現象学』。で,今日は僕が担当箇所をレジュメにまとめてくる番なのだ。 ヘーゲル『精神の現象学』(上下巻)買ってきた。24000円。高い。やっぱり古本で買うべきだな。こういう本は。厚い。10cmぐらいある。こんな厚い本売れないだろ。重い。数キロある。ダンベル代わりになる。武器にもなりそう。枕にはならない。硬いから。しかし,よくこんなに書くことあったな,とこういう本をみるといつも思う。金子武蔵(たけぞうと読む)もよく訳したもんだなあ。金子さんの注だけで300頁近くある。さて,読みますか。
2006/07/25
今日の夜は竹田青嗣先生の少人数哲学ゼミだった。 前半は竹田先生による『純粋実践批判』の講義。 難解な著作のエッセンスが一枚にまとめられていた。かなり昔にまとめたノートをもとに作ったということだったが,エッセンスの抽出の仕方は天才で,脱帽する他なかった。原文直接引用箇所も明示されていたのも後学のためにも役立てそうだ。どうやってやったのか聞いてみたところ,僕がやっている方法と基本的には同型のようだったが,このレベルで,という話になるとこれは職人芸という他なく,いくら学ぼうとしてもできるようになることではない。しかし,「そういうことが可能なんだ」ということを目の前で見せられる経験は得難いものだと思う。“そういうことができる可能性がある”っていうことがわかるだけでも,可能性が開かれるので仕事の仕方はかなり違ってくるのである。後半は『純粋判断力批判』のつづきで,院生が的確にまとめて発表されていて良かった。そこでは,カントの理路の検討と,それに関する竹田先生との議論を通して,自分の「関心」の所在を再認識できたのが大きな収穫だった。 僕の関心は「構造構成主義」という「使える」理論を作る,あるいはより強靭な理路と深度を備えるということにあり,それと照らし合わせて,「使える」原理を出している哲学(者)に関心があったのである。だから,もっとも優れた(という意味は原理的な検証に耐える)理路を残した哲学者の代表的な著書に興味があるのである。 そうした僕の関心からすれば,中途半端な(という意味は原理的な検証に耐えられず後に完全に乗り越えられた)理路の哲学(者)には,あまり価値を感じないのである。 もちろん,それが,その時代において,力強く理路を進展させたという意味で,価値があるとは思うのだが,やはり「底にあたっている理路」にこそ関心があるのだと思う。 だから,必然的にそういう観点からの「読み」になってしまうのだが,竹田先生は,その限界も十分認識した上で,その理路がもたらした当時代的な(歴史的な)意義をつかみ取ってくれるので有り難い。と,こんな風に今年度は,学問的なことで感じたことは,忘れないように,すぐに書き留めるようにしたい。と思う。できるだけ(ほんとか)。
2006/05/23
先日の日記で書いたと書いた「レポート」を載せておきます。30分ぐらいでざっと書いたもの。終わり方が,きわめて「レポートらしい」。なぜ,こんな風にレポートらしくなってしまったか。普段はこういう文章の終わり方はしない。したがってこの理由は一つで,おそらく同じ人間でも,置かれた立場によって「書き方」は変わるのである。だから普段教える立場にいる人でも,学生の立場になると,きっとこういう書き方をしてしまうに違いない。余談だが,レポートと言えば,昨今の学生の中には,ネットに載っている文章をそのまま写そうなんていう写経精神をいかんなく発揮しているお坊さんのような方もいるみたいだが,案外ばれるものだから,ふつうに書いた方がよいと,思わないでもない。まあ,わざと単位を落とすことで修行したいというのであれば止めはしないが。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「哲学とは何か?——哲学的思考法の有効性と危険性,そして限界と使い方」西條剛央 この本は,“哲学すること”の意味を教えてくれた。現在,一般的な学生が「哲学」という学問に持っている印象は,「難解」「意味がわからない」「役に立たない」というものといえよう。しかし,竹田先生は,そうした印象を抱くのもやむをえない面があるものの,それは本来的には「哲学」というものに対する誤解に基づくと主張している。そして従来の職業哲学者は,「哲学をする者」という意味での「哲学“者”」ではなく,特定哲学者,あるいはその人の書いた書物を検討するという意味で「哲“学者”」であるという。僕なりに表現すれば,前者は「哲学実践者」であり,後者は「哲学書(者)研究者」ということになる。 高校までの教育は最初から想定される「答え」を探しあてるというゲームということになるが,これは「哲学」ではないのは明らかである。「哲学の授業を受けた」という反論もあるかもあり得るが,高校の哲学の授業は,なんという名前の哲学者が,どのような本を書いて,どのような考えを述べたのかを概説する類の授業であり,それは哲学者についてのお勉強の域を出るものではない。 それでは「哲学する」とはどういう意味であろうか。それを竹田先生の『言語論的思考』の一節をふまえつつ一言でいえば,<哲学とは言葉によって掛けられた呪を言葉によって解き明かし,その難問を終わらせてしまうこと>ということといえよう。以下にこのテーゼに基づき議論を展開していく。 人間は言葉を獲得したが故に,言葉の呪縛を常に受け続ける存在ということができる。自ら「自分は何のために生まれてきたのだろう?自分の人生の最終目標はなんだろうか?」と考えたことは,哲学に関心がないひとであっても一度や二度はあるだろう。また,若い頃「君何のために生きているの?それがわからないのに本当に生きているといえるの?」という問いを他者に突きつけられて,考え込んでしまったという経験をしたひとも少なくないだろう。 このように人間は,自ら問いを立てたり,あるいは他者に突きつけられるという形で,言葉による呪縛を受ける存在なのである。 そして,そのときにこそ「哲学」は役立ちうるのだ。 そうした際に,「これらの問いには“人生には達成されるべき最終目的がある”という前提や“何のために生きているか知らなければ本当に生きているとはいえない”という前提に暗黙裏に依拠していることに気づき,「人生は生きるプロセスそのこと自体に意味があるのであり,そうした問いに答えられなければ本当に生きているとはいえないということにはならない」と納得することができるようになるかも知れない。 これが先に述べた,<哲学とは言葉によって掛けられた呪を,言葉によって解き明かし,その難問を終わらせてしまうこと>ということの内実ということになる。このような形で,哲学は,我々の人生に密接に関係し,また日常生活においても役立ちうるのである。 ただし,「前提」自体を問い直すという特性をもつ「哲学的思考」は使い方を間違えると,危機的状況に陥る危険性にも留意しなければならない。明示的,非明示的は別として,我々が依拠している前提を問い直し,その結果,それが完全に覆される際,我々は危機に陥る可能性がある。例えば,アイデンティティの危機などもそれにあたるだろうが,それは自分や自分の生活,人生の基盤を壊してしまうようなことにもつながりうるのである。したがって,たとえば場合によっては,自らの依拠していた前提が誤っていると気づいた場合でも,突然それを受け入れる必要はなく,その代わりとなるような「前提」が準備された時点で乗り換えるということがあってもよいだろう。 ここまで有効性と危険性を論じてきたわけだが,この時点で「それでは哲学的思考法は正しいのか,間違っているのか」といった二者択一的な問いを立てることも可能だろう。しかし,哲学的思考法を実践するならば,すでにこの問いの立て方自体が妥当なものはいえない。 なぜなら「哲学的思考法」とは,ひとつの「考える方法」「思考ツール」であるからだ。方法は手段に他ならない。そして哲学的思考法も手段(方法)である限り,絶対的に正しいものは原理的になり得ない。なぜなら本来的に「方法」の妥当性は,各人の関心や目的,状況などに応じて規定されるものだからだ。 以上のように,哲学的思考法の有効性や危険性,限界をふまえて,いくつかのタイプの「哲学的思考法」を身につけることが大切なのだと思う。そうすることによって,各人が関心や状況に応じて,それらを使いこなし,より豊かな人生を送ることができるようになるだろう。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
2006/04/23
先日の日記の続きである。竹田青嗣先生の授業に潜らせていただくことになった。基礎演習だが満席である。じゃまにならないように一番後ろの席に着く。いきなり先週からの課題だったらしいレポート作成課題が出た。 『自分を知るための哲学入門』を読んで,講読範囲の中から任意のテーマを自分で選んで「タイトル」をつけ,自由に論ぜよ(35分)。 読んだことがある本だったこともあったため,自分の考えをまとめるよい機会だと思ったのでその場でパソコンで書いてみた。読み返してみると終わり方が無難でいかにも「レポートらしい」感じがして笑えた。それにして,レポートを書くのなんていつぶりだろう。修士課程の頃以来だから,5,6年ぶりか。ちょうど昨日「哲学とは何か?」という内容の講義ノートを作っていたところだったこともあり,ちょうどいい機会になった。関心のあるテーマであれば,レポートを書くこともなかなか楽しい。その後演習の班ぎめなどをやっていて,竹田先生がみんなの名前や班や性別を間違える者だから,みんな大ウケしていて,やたら盛り上がっていた。そうこうしているうちに時間は過ぎ,最後の25分ぐらいで今日の講義が行われた。「哲学の誕生」というテーマ。以下ノート代わりにとったものを掲載しておきます。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー竹田青嗣講義「哲学の誕生」 現在は「哲学なんか無駄に難解なだけで役に立たない」という「反哲学」というべき流れの中にある。その一つが近代実証主義のオーギュスト・コントということができる。その後マルクスの「哲学は世界の解釈であり,大事なことは世界を変えることだ」という有名な台詞も反哲学の一つとして挙げることができよう。 しかし,こうした「反哲学」の考え方は,哲学に対する誤解に基づくものである。また哲学には答えがないという考えるひともいるが,竹田はそうは考えない。つまり哲学には答えがあるのである。 また哲学は役に立たないように思うかも知れないが,近代社会,市民社会の設計を哲学者がやったということを忘れてはならない。もうひとつ,近代における人間とは何かという人間観も哲学者が打ち立ててきたことも指摘できる。 哲学的な理路は少しずつ進んできたし,それは一度原理的に進展すればその前のステージには戻ることはない。そして,それぞれみんなは専門とする学問領域が異なっていても,ヨーロッパ近代哲学を学ぶと,流行に惑わされず,深く強く考えることができるようになるということを言っておきたい。 では哲学の方法とはどういうものか? ふつうの人は,山にこもったオタクのようなおじいさんが,悟りに至り,難しい言葉で書くという印象を持っている人もいるかもしれない。竹田がそうだったから。 しかし,これが誤解である。哲学にはちゃんとした「方法」がある。それを一度理解できれば哲学の基本はよくわかるようになる。哲学のポイントは一度理解できれば使えるようになる。 では,そのポイントとは何か? ふつうは物事を考えるときに,直感したものを補強するように進めていく。しかし哲学とはそのような「信念補強的な考え方」をとらない。哲学とは「信念検証的な考え方」をする。つまり,なぜ自分はこのように考えるのだろう,なぜ相手はそう考えるのだろう,というように反省的に考える。 ある考えを補強していく「信念補強的な考え方」をとるかぎり,世界に並立する多様な考え方が存在することを普遍的に言い当てる原理をいうことはできない。だからこそ,なぜそのような事態に陥るのかを考える必要があるのである。 哲学の基本3ルールは次の3つである。1)物語の禁止と概念の使用2)原理の提出3)再始発 これは単純にみえるが深いのである。このことについて説明する前にまず哲学と宗教について述べる。哲学的問い「なぜ人間は生きて苦しむのだろうか。なぜ人間は死ななければならないのか。なぜ私は私でほかの人ではないのだろうか。なぜ世界は存在していっさいが無ではないのだろうか。世界はどのようにできているのだろうか」ということが挙げられる。 こうした考えが太古の昔からあったことは,宗教の存在から確認することができる。アダムとイブの話がその代表ということができる。この話の中に上記のような問いの答えが書いてある。そしてだいたいの宗教の物語には,上記のような世界の意味が含まれている。ある意味で答えられていると言える。 哲学はその後に出てくる。ギリシャ哲学の開祖は万物の原理は水であるといった。その弟子のアナクシマンドロスは「無限なるもの」(その最小単位にいろんなものが入っているため多様な世界を説明できるようになる)であるといった。その弟子のアナクシメネスは空気・気息であるとした。ヘラクレイトスは火である。ピュタゴラスは数だといった。 (万物の)原理を提出して考えると,宗教などを超えて,考えることができるようになる。 言語ゲームとしての宗教は賢い人の考えを信じることによって,うまく社会をまわしていく。教祖と信者という確固とした関係がある。そこでの判定者はその宗教の権威である。 哲学は,概念を提起するため,宗教や文化を超えることができるようになる。哲学は師と弟子の関係にある。そこでは師のいっていることは妥当な者だが,こうした概念,原理を出した方が,いろいろなことを説明するのによりよいのではないかというように,フェアな言語ゲームを行うことになる。その場合判定者は一般の人ということになる。 最後に世界説明には3つのタイプがあることを指摘しておこう。それは「物語」「解釈」「哲学」の3つである。その中の哲学とは,概念を使用し,原理を提出し,おかしいことができてたら根本からもう一度やりなおす(再出発)というものである。そして,これが科学にもつながってくる。次回は哲学と科学の関係について説明する。To be continuedーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー研究室でレジュメをみておもしろそうだったからお願いして潜らせていただいたのだが,ちょうど僕も来週「哲学とは何か」について講義をしようと思っていたので,とても勉強になった。こんな中身の濃い授業を受けることができる学生は本当に幸せ者である。きっと哲学の意味やおもしろさがわかるんじゃないかな。そして,その授業に潜らせてもらえる僕も幸せ者だ。内容は本で一度読んだことがある気もするものではあるが,やはり口頭だとよりわかりやすいし,よい復習にもなり,そして新たな発見もある。最近は講義をする立場になってきたが,たまには「学生の視点」から「授業」をみてみることで,いろいろ発見もあって,いとおかし。
2006/04/22
午前中,やっと机と椅子と本棚6つが届いた。椅子はイメージとちがったが,まあいいか。 本棚は1個組み立てるのに二人で40分かかるという。組み立ててもらうには別途お金がかかるので自分でやろうと思っていたけど,めんどくさいから組み立ててもらった方がいいかもしれないとひよりはじめている。お金より時間の方が大事だし。 ノートパソコンはにっちもさっちも行かなくなったため大学の専門機関に持ち込んだところ,とても親身になってアドバイスしてくださる方がいて,その天使のような方のおかげで,メールもネットも安定して使えるようになりそうだ。ショートカットとか新機能とかも使えるようになった。 この新パソコンは十分その威力を発揮すれば相当すごい機能が備わっていそうだ。 少なくともインテル内蔵だけあって(何が入っているのか知らないが),処理速度はかなり上昇した。「待ち時間」が激減した気がする。その分仕事のスピードは速くなるかもしれない。昼には,池田先生が,「そういえば竹田青嗣が本読みにでないかって誘っていたよ。言うの忘れてたけど」とのたまわっていたのを思い出したので,昼に竹田青嗣先生の部屋に行ってみる。 同じ建物の1階下なのですぐである。 竹田先生は,池田先生と並んで,もっとも深く思想的な影響をうけた日本人である。直接お話を伺ったところ,その勉強会どうも竹田先生が選んだごく少人数でやる少数精鋭型勉強会ということである。お誘いいただけたのはとても光栄な話であるし,また勉強になりなので喜んで参加させていただくことにした。 哲学もダイナミック・システムズ・アプローチも,質的研究も独学で身につけてきたため,僕は誰かと本読みとかしたことはほとんどない。基本的に,読書会などは時間の無駄であることが多く,自分で読んだ方が速いと思っているが,こういう勉強会は別である。優れた哲学者と一緒に読書会をする中で,その本の読解自体にも意味があるに違いないが,竹田先生の「読み方」や「スタンス」,「エッセンスのつかみ方」などメタレベルの技術も吸収したいと思っている。また竹田先生に今後の3年間の過ごし方をアドバイスしていただいた。詳しい方法については語らないが,メタメッセージを一言でいうと,今のうちは「実力」(ポテンシャル)を蓄える時期にした方が良いということである。 改めて,アウトプット(公刊)よりもインプット(勉強)に力を入れようという気持ちを新たにした。 竹田研究室は和気あいあいとした楽しげ雰囲気の研究室である。 ほかにも学生が何名かいて紹介していただけてみんな明るくておもしろい方々だった。 竹田先生のお弟子さんの院生が,池田清彦先生と竹田青嗣先生と加藤典洋先生は似ていると思うということを話していたら,ちょうどその加藤先生が扉から入ってきた。共時性か偶然か。加藤先生とは約1年弱ぶりにお会いするのだが,覚えておいてくださったのでうれしかった。 その後,講義があるということだったので急遽竹田青嗣先生の基礎演習に潜らせていただくことにした。 つづく。
2006/04/21
スノボの宿は露天風呂付きだった。4回入ったが,ほとんど貸し切り状態だった。特にサイコーだったのが,雪の降りしきる夜に,一人で1時間半ぐらい入っていたとき。顔は冷気に晒されているが,身体はあったかい温泉の中。この塩梅がまたいいんだな~。いつまででも入ってられそう。角で肘を縁にかけて,夜空を見上げていると,雪が次から次へと舞い降りてくる。一体どれほどの雪が舞い落ちているのだろう。まるで,無限かのごとく降ってくる。黒闇から次々と湧き出てくる雪を眺めるなかで,「ああ,無限ってのは,時間を含む概念なんだなあ」と思う。湯煙は舞い上がる。頭には雪積もる。“贅沢な時間”が流れる。時間にも“種類”があるのだ。
2006/02/17
某大学の採点をしている。 採点に飽きた(疲れた)ので日記を書いてみる。 この講義は通年で,150名近く受講しているので,採点はたいへんである。仕事だからしょうがないけど。 「いっそのこと全員にSをあげるから採点しなくていいですか?」と悪魔のささやきがどこからともなく(僕ではない)聞こえるときがあるのだが,根が真面目な僕は,そこまで仏になりきれないのです。 その理由はただ一つ。 まじめにちゃんとやった学生がかわいそう。 多数派とはいいがたいその学生達のために,未採点の小レポートから添削しつつ,記録をつけていく。 で,似たようなことをやったことある方はおわかりだろうが,これだけの人数になると,読むのと同じぐらい名簿から名前を探し出すのがめんどくさい。 完全に学籍番号順になっていればまだいいのだけど,どういうわけか微妙に変則的だったりするから,学籍番号からだけ検索することはできない。 そうすると,6枚ぐらい名簿を机にひろげて,番号でおおまかに方向性を検索して,そこからさらに,もっとも効率よい探し方をする。 1)ひらがなの名前や,名字や名前が漢字1文字の場合,ざっと眺めたら目に入ってくるから,それから探す。 2)番号でそのまま探す。 3)それでもなぜかみつからないときはやはり名字を頭に留めておいて,ざっとその漢字をサーチしていく。 4)何度か繰り返していると「あの名前はこの辺にあった」とかいうアンカーもできてくるので,随時それも利用する。 自分でやっていて,なんとなくおもしろいやり方だなーと思ったのでここに書いていたら,これはおおげさにいうと,「デジタル検索」と「アナログ検索」を駆使した「トライアンギュレーション」(多元的な方法を使うこと)なんだということに今気づいた。 よく「デジタル人間かアナログ人間か」なんて,二分法的に語られることが多いけども,人間ってもっといい加減なことやっているもんだよね,きっと。という考えが構造構成主義を体系化する根本にあったというのは余談。 さて,1)について補足すると,近頃は「つどい」君や,「いつか」ちゃん,「ケイ」ちゃんといったオシャレな名前のひとが散見されるので,探しやすいのだ。 また「真実」さんという名前のひともいて,ついレポートの内容も真実に近いのか気になって入念に読んでしまったりするが,もし他の先生もそうであれば,それがその人にとって幸か不幸かは神のみぞ知る。ぼくはおもしろかったけど。 ところで,文部科学省関連の「研究者人材データベース」というものがある。平たくいえば就職公募検索の公式サイトといったところだろうか。 たとえば,そのサイトでは「心理学」と検索すれば何十件という公募先がみつかるようにできているのだが,そこで以前,「真実」で検索してみたことがある。 はたまた「真実」なる概念が崩壊して久しいこの学界において,「真実」で検索してヒットするのだろうか?というわけだ。 クリックしてみる。 すると・・・ 1件ヒット! こりゃすごい! なぜすごいかって? それは,学問の世界で「真実」などという単語は死語どころかNGワードの一つといってよいからだ。 養老孟司氏が『超バカの壁』でこの単語を使っていたが,一般書ならまだしも,論文上で安易に「真実」という言葉を使うことは,安易に放送コードにひっかかる言葉を使うのと同程度,学者としての常識を疑われても文句はいえない。 そんななかで,研究者の公募サイトでヒットしたのだから驚くなというほうが無理である。 もし「真実を探求するひとを広く公募する」なんて文言があったら,少なくとも震度3ぐらいの衝撃は受けるだろう(さきほど東京近辺で起きた)。 しかし,賢明な読者は,すでにこの日記に伏線があったことに気づいたかもしれない(気づかなかった人が賢くないというわけではありません,念のため)。 そう,公募責任者の欄に「○○真実」さんという名のひとがいて,その「名」がヒットしただけだったのである。 これにより,学問界において,「真実」は文字通り“有名無実化”したのだなと実感を新たにすることになった。 少なくとも「真実を探求するひとを求めるひと」は学問界においてほぼ絶滅したと申し上げても良いことが実証されたといえよう。 しかし,そうでありながら,少なくとも,真実さんが無実化したわけではないため,「真実」は以前として実在していることもおわかりいただけたであろうか。 え,「実在」とは何かですって? それはね, ごにょごにょごにょ(訳:めんどくさいからまたいつか)。
2006/02/01
ちょっと前のことになるが,ぐじゃぐじゃとめんどくさい研究者の人間関係に嫌気がさして,屋上の上に寝転がって空を眺めていたことがある(これはそのとき撮ったもの)。 自然はいいね,人間と関係ないから。 いつもそこにそのままある。 以前,池田清彦先生等と,哲学者の教授のもとには心の病を持つ人が集まりがちだとった話をしていたことがある。 きっと考えても仕方のないことをぐじぐじと考えすぎなんだろう。考えすぎて病むのか,病んでいるから考えるのかわからないけども。何にしても考えざるを得ないのだろうからしょうがない。 そういう人は同じタイプの人を惹きつけるのだろう。問題を共有しているともいえるから,半ば必然的なことなのかもしれない。 けど,池田先生の周りにはそういう学生はいないらしい。 なんかわかる気がする。 池田先生をみていると,人生は愉しむためにある,自分がおもしろくて笑っていれば,周りの人も笑っちゃうんだということが身体でわかる。その愉しげな生き方が強烈に伝染してくるのである。周りにいるひとはさぞかし健康になることだろう。 そのときに「虫採りしていると心理的な病気にはならないよ」と言っていた。 人間を相手にしていると病気になるひとでも,自然を相手にしていると病気にならんそうだ。 なるほどそうかもしれない。 だいたい心の病ってのは人間がらみだろうからね。 ところで,「哲学しているひと」あるいは,「哲学に向いている人」には2種類いるように思う。 ひとつは潜水病にかかっているひと。自然な状態だと深く深く考えざるをえなくて沈んでしまうのだ。自分の切実な「悩み」を解消する,つまり水面に上がるために,考え抜いて考え抜いて,「あ,そうか」となって水面に浮くことができる。 そうこうしているうちにまた沈んでいくので,浮上するためにまた哲学と格闘しなければならず,ある種の苦しみや悩みのうちで,ふつうに呼吸するために,哲学せざるをえないひと。 こういう人をみても,ふつうのひとは最初から水面にいるので,「なんで水面にあがってくるのにこんなにもがく必要があるんだろう」といぶかしく思うに違いない。「潜らなきゃいいのに」と。 そういうふつうの人には決してわからない形で,哲学書は,潜水病の人を救っているのだ,きっと。だからそれなりに需要があるのだろう。少なくとも現在では,通常はそういう形でしか役立たたないのかもしれない。 ともあれ,これはこれで哲学の素質があるということを意味する。 たとえば永井均さんはこういうタイプかもしれない。 もう一つのタイプは,傭兵哲学者。 たとえば,「私とは何か」などと真剣に悩んだことはない人。 「私は私に決まっている」と素朴に納得しているタイプ。 しかし,「私とは何か」という「哲学的な問い」はおもしろいと思うので,そのコトバのもたらす謎を,パズルのように解くことには長けているひと。 つまり,自分の切実な悩みを解消するために哲学をせざるをえないのではなく,「哲学的なアポリア(難問,謎)」を解くために,傭兵のように,外側からやってきて,易々と解決してしまうのである。 難問を解き明かして無くしてしまい,ああこれでスッキリしたと爽快感に浸るのである。 たぶん,これが池田清彦タイプ。 池田先生は,こうしたスタンスは,ヘンなところに拘泥しないで,論理だけすすっと解けるという良さがあるというようなことをおっしゃっていた。 ぼくもそう思う。 ぼく自身,そういう部分があるからよくわかるのである。 多くの哲学者が難問だ難問だとやたら悩んでいることも,「その難問はこうやれば解けるよ,解けて問題じゃなくなるよ」とすぐわかるという意味で哲学的才能があるのかもしれない,ということに気づいたのは数年前のことだ。 こうして,なんだかんだと「哲学」の世界と「科学」の世界に片足づつ突っ込んで歩くようになった。 しかし,いずれも「学問」の世界である以上,「人間の営み」と切り離すことができない。 そんな世界に嫌気がさしたら,“いわゆる自然”に囲まれてボーッとしたり,“あかちゃんという自然”とたわむれていればいいのである。
2005/12/07
Mixiの「現代思想」のコミュニティで,まこすけ侍さんが,「哲学はどのように役立つのか?」 という興味深い問いのトピックスを立てている。 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=2460041 僕も自分なりに考えてきた問いでもあるため,改めて「哲学はどのように役立つか」を考える上での留意点,考え方について考えてみることにする。これまで,哲学は「机上の空論」「何でもアリ」「哲学者のオモチャ(パズル)」「現実と無関係な観念論」といった様々な悪口がいわれてきた。 何を隠そう,数年前まで僕もそう思っていたから,この批判は故なきものではないと思う。 これからも言われ続けるであろう。 しかし,何事においても,批判したり「何の役にも立たない」というのは,とても簡単なことで,誰にでもできる。 僕はよく「批判はあかちゃんでも泣くということによってできるが,創造すること,作り出すことはずっとずっと難しい」と学生にいう。 そういう観点からも,このトピックでは敢えて「哲学が何の役に立つのか」という建設的問い掲げたところが,ユニークだ。 ぼくも『構造構成主義とは何か』を執筆するにあたり,科学に携わる人にどうすれば「哲学」という営みの意味や機能を伝えることができるだろうか,と考えながら書いてきた。 これは哲学者といわれる人は例に漏れず考え続けてきた問いの1つなのかもしれない。それゆえ,こうした問いに妥当な答えを出していくことは,簡単なことではないのだろう。簡単だったらこんな問いでは頭を悩ませることもない。 だからこそ議論する意味があるといえる。 この問いを深めていくには,ちょっとしたコツ(心構え)が必要な気がした。 したがって,「哲学どのように役立つのか?」を考える際の【考え方】について,次に,自分なりに整理してみたいと思う。 それは,常に【建設的思考】を心がけつつ,また【原理的思考により理路を積み重ねていく】ことといえるかもしれない。 抽象的でわからん,という声が聞こえてきた。 もっと具体的にいえば,この問いにアプローチするためには,まず 【“哲学”とは何か】を明示化して論じる必要があるだろう。 それなくしては,【“哲学”がどのように役立つのか?】 についても適切に考えることができないはずだ。 なぜなら,【“哲学”とは何か】とはいわば【哲学の構造】のことであり,【“哲学”がどのように役立つのか?】 とはいわば【哲学の機能】といえるからである。 これらをまとめれば, 1)自分は哲学とは~ということだと思う【哲学の構造】。 2)そのため~ということに役立つと思う【哲学の機能】。 3)たとえば~【具体例】 といったように抽象度の高いことから理路を積み重ね,具体的な方向へと考えを推し進めることによって,「どのように役立つか」を明らかにしていくことができるはずだ。 とはいえ,こうしたことに縛られず,自由に思考することももちろん大事だろう。 これは,【拡散モード】といえるだろう。 しかし,やはりそれと同時に,「哲学はどのように役立つのか?」という最初の問いに立ち戻る【収束モード】なくしては,当初の問いに対する妥当な答えを得ることはできないだろう。 さもなければ,「哲学は何の役にも立たない」と思っている人に「なるほど」と思ってもらうどころか,「やはり哲学は思弁的なオモチャに過ぎず何の役にも立たない」などという誤解を広めることになってしまうことになってしまうかもしれない。 もちろん,【拡散モード】と【収束モード】はどちらか一方だけが重要なのではなく,思考を進める上で,相補完的な関係にあり,これらの【モード】を相互に繰り返すことにより,つまり,こうした【思考の弛緩運動の圧力】により,新たな知が生み出されるのだと思う。 ということで,こうした【視点】を意識しつつ,改めて“哲学はどのように役立つか?”を考えていきたいと思った。
2005/11/02
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