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東アジアでは「誰が盟主か」というのがいつも大問題になると書きましたが、正確にいうと「誰が全世界の盟主か」ということです。18世紀にマッカートニーというイギリスの外交官が清と通商条約を締結しに北京に来ました。清の官僚は、マッカートニーに九回額を床に打ちつけるお辞儀をすることを条件に彼に皇帝への拝謁を許可しようとしました。支那の周辺の国と同じようにイギリスも支那の皇帝の配下として扱おうとしたのです。マッカートニーは「これはイギリス国王に対する侮辱である」として激しく抵抗しました。このように中華思想というのは、本来は全世界は皇帝の支配下にあるという発想です。この中華思想が19世紀前半のアヘン戦争で木っ端微塵になりました。その直後に日本が明治維新を起こし、列強への道を歩みだしました。この時の日本は、「日本が世界の盟主だ」とはさすがに考えませんでした。東アジアの盟主となってその独立を守ろうと考えたのです。それ以後、本家争いは全世界を対象としたものではなく東アジアに限定されたものになりました。しかし東アジアに限定した本家争いというのはもはや無意味になっています。軍事的には全世界が軍隊の行動範囲になっているし、経済も世界中が密接に関連しています。この無意味になった「東アジアの盟主」に未だにこだわっている理由はいろいろあると思いますが、その一つはそれに変わる理念がないということです。支那の中華思想はアヘン戦争でダメージを受け、共産党政権の成立で息を絶たれました。支那共産党は儒教を禁止したのです。そしてそれに変わるものとして共産主義を掲げました。ところが最近になって資本主義を積極的に採用し、表看板とはまるで違うことをはじめています。しかもその内部は日本などとは比較にならない経済格差と少数民族の独立運動で、分裂の危機にさらされています。だから中華思想という伝統的で分かり易いもので、一般の支持をつなぎとめようと考えているのです。朝鮮は伝統的に一番強大な国の配下になってその安全を図るという戦略を採用していますが、最近まではアメリカに頼っていました。しかし最近は、アメリカより支那とのビジネスが多くなっています。そして支那の経済成長にのった格好で経済は順調に推移しています。最近の南朝鮮の反米・親支那の原因はこれです。南朝鮮も表向きは「民主主義」を掲げていて儒教は消えています。日本は元から国民に共通の正義がなく、大東亜共栄圏も消えてしまいその残り香だけという状態です。このように、東アジア全体で「本家争い」の思想的基盤が消えてしまい、残り香だけになっています。
2007年01月31日
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日本が戦争に負けた結果、「大東亜共栄圏」という発想が侵略主義だということになってしまいました。本当のところは、日本が儒教の本場でありアジアの盟主という資格で列強から東アジアの独立を守ろうとしたものです。これが「侵略主義」ということになってしまったのにはいくつかの理由があります。一つは「勝てば官軍、負ければ賊軍」ということです。戦争に勝った方は、自分たちが正義の味方だということを主張して、その方向で世界の世論を誘導したということです。敗戦国である日本に対しては「極東軍事裁判」というとてもまともな裁判といえないことで戦勝国の価値を強制しました。もう一つは、支那が満州を自国の領土にしようと考えたからです。満州は支那の領土であったことはなく、清王朝の時代は支那人が満州に移住することも禁止していたのです。支那が満州を侵略するに当たっては、日本が侵略者だとしなければならなかったからです。そこから様々な日本軍の犯罪が捏造されています。また日本人に正義の概念がなく、新しい外来の思想を自然現象と考え、その中で自分の居場所を得ることが正しいという「あるべきようは」の発想も大きな役割を果たしています。アメリカが「民主主義」という新しい自然物を持ちこみ、それを日本人が新しい「正義」だとして御輿にかついだのです。そしてそれと反する従来の日本の思想を全て「帝国主義」「封建的」と否定しさりました。また日本が儒教の本場だという発想が荒唐無稽であり、ただの日本人の思い込みだったことが「大東亜共栄圏」の弱点だったことも影響しています。このようにして「日本が儒教の本場でありアジアの盟主だ」という発想は敗戦と共に消え去りました。そして日本人は新しい外来の価値観に乗り換えると、過去をすべて否定し忘れ去りますから、自分たちが何でこのような行動をとったのかが分からなくなってしまいます。現在は支那が「アジアの盟主」を主張し朝鮮が伝統的にそれに従っていますから、支那が満州やチベット、ウイグルを侵略していることには沈黙しています。日本人もむやみに「反省している」という状態です。このように東アジアは伝統的に「誰が盟主か」というのが国際関係の基本になっています。
2007年01月30日
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江戸初期に、日本こそが儒教の本場で東アジアの中心だという思想が出来、それが昭和の大東亜共栄圏まで繋がっていました。日本の敗戦後、この発想は悪の極致とされ「帝国主義、軍国主義」だということになりました。日本人は独自の正義の体系を持たず、その時々で支配的な思想を外部から導入し、それを自然の一部と考えて従います。戦後は、アメリカがもたらした「民主主義」がはやりになり、「人類普遍」の原則だと考えて、学校でもそう教えています。これに照らして、戦前の日本を全て「封建的」として否定し去ったのです。しかし、こういう態度では「何故日本人は当時こういうことを考え、その結果として現在があるのだ」という正確な現状認識ができません。日本人のこの奇妙な態度を見てそれを利用しているのが、現在の支那や朝鮮です。日本人自身が「戦前の日本は帝国主義・軍国主義だった」というので、「そうだそうだ、悪いのは日本だ」と唱和し、「日本人の犯罪」を捏造しているのです。しかし、この問題の本質は「誰が儒教の本家であり、東アジアの盟主か」ということです。冷静に考えてみて日本が儒教の本家であるわけがありません。儒教がどんなものか理解していないし、儒教の定める形式をまるで守っていません。朝鮮は儒教の優等生となることで支那の圧力を緩和しようというのが伝統的な戦略ですから、日本人よりもはるかに儒教を良く知っています。儒教の視点から見たら、日本はまさしく野蛮国なのです。江戸時代の朝鮮通信使(幕府への朝貢使)の多くは日本への訪問記を書いていますが、これには儒教的見地からの日本の野蛮さと自国の優越を強調しています。こんな野蛮国に膝を屈してご機嫌伺いにいかなければならない無念さがよくにじみ出ています。日本が戦争に負け無防備になったとたんに支那や朝鮮は、日本を東アジアの辺境と位置づけしようと考えました。その結果が今の日本への態度です。江戸時代までの日本は中華思想を拒否して鎖国をしていましたから、今の状況は日本にとって江戸時代以前より悪くなっているのです。
2007年01月29日
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江戸時代に、日本が儒教の本場であり東アジアの盟主であるという思想が出来ました。盟主であるからには、配下の国々を守る義務があります。18世紀までの平和な時代には、とりたてて現実の世界に影響を及ぼす思想ではありませんでした。しかし1840年にアヘン戦争が起こり、支那がイギリスに惨敗するという事件が起きて日本でも国防の大問題となった時点から現実への影響を持ち始めます。やはり支那などには東アジアを任しておけず、アジアの盟主たる日本が頑張って東アジア全体を防衛しなければならないという考えが起きてきたのです。吉田松陰、勝海舟などの志士たちの考えも概ねこれです。また薩摩藩主で江戸時代一の名君だと評判だった島津斉彬もこの考えを積極的に主張しました。ロシア領のカムチャッカとスペイン領フィリピンを奪い、満州に軍事拠点を設けて、日本が盟主となって支那・朝鮮と同盟して攘夷を行うべしと考えたのです。幕末に水戸藩から起きた「水戸学」という尊皇攘夷思想が大流行しましたが、島津斉彬はこの水戸学の重要なメンバーで、日本中の大名や志士に大きな影響を与えた人物です。この路線は、明治維新後も日本人の外交の基本になっていきます。なにしろ明治維新は日本の独立を全うするためになされたものですから、日本が東アジアの盟主となって欧米の侵略に対抗するというのが基本だったのも当然です。特に日清・日露戦争によって強大な国になり、日本はますますこの戦略の有効性を疑るものはいなくなっていきます。日本が積極的に推進した「大東亜共栄圏」も幕末の志士の考え通りのもので、日本が盟主となってアジアの安全を守るというのが基本的な発想なのです。
2007年01月28日
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日本が儒教の本場になったという説ほど奇妙なものはめったにありません。江戸時代に幕府が国教にした朱子学では、支那人以外の野蛮人は儒教の正統を継げないと考えていますが、日本人は支那から見たら東夷という野蛮人なのです。ところが江戸時代の日本の儒教では、日本こそ儒教の本場になったと考えるのが主流になったのです。それから導き出される結論は、日本の伝統的なものは全て儒教の教えに適っているというものです。以前に私のブログに書いたように、山崎闇斎という有名な江戸初期の儒者は、この発想から日本古来の神道は儒教の教えそのものだとしました。そして垂下神道というものを作り上げました。また天皇も古来から続いていて儒教のいう聖人だとしたのです。支那の儒教では聖人とは血統ではなく道徳的な資質を備えた人をいいます。しかし日本の天皇は血統だけを問題にするので、儒教とはまるで無関係なはずなのです。このように、支那が野蛮人の女真族に占領されたのをきっかけに日本が儒教の本場になったと解釈し、儒教をどんどん日本的なものに変えていきました。儒教では、皇帝は天から命令を受けて全世界(当時の支那人や日本人から見た全世界とは東アジア)を支配するものです。全世界を支配するものには義務も生じます。自分の支配する世界の道徳的秩序と安全を保障しなければなりません。配下の国が外敵から攻撃されたら助けなくてはならないのです。日本が儒教的世界の中心であれば、世界の安全を守る義務があるわけです。
2007年01月27日
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全てが支那中心の中華思想に対して、周辺の異民族の対応は様々でしたが、日本の場合は支那と付き合うのを止めてしまったわけです。支那の中華思想を拒否したわけですが、そうかといってそれに対抗する独自の体系を作り上げたわけでもありません。統一した体系を作る代わりに、人間関係で社会を運営することにしただけです。つまり、「日本は自分でやるからほっといてくれ」ということになったのです。そうはいっても、表面的な国家組織は支那の律令制度を導入したりして非常に中途半端なことをしました。その結果、日本の知識人は生半可な儒教の知識を持ち、日本は儒教が行われていないことに劣等感を持つようになったのです。この劣等感は千年以上にわたって作り上げられた非常に歴史の長いものです。特に江戸時代になってから、幕府が自分に都合の良いように捻じ曲げた儒教を盛んに普及させました。江戸初期にはこの劣等感が嵩じて、江戸市内で西に転居したときに「これで聖人君子のいる支那に少し近づいた」と喜んだ儒者も現れたのです。この儒者が誰だったか忘れてしまいましたが、高名な儒者です。調べるのもめんどくさいのですが、皆さんの中にご存知の方がおられたら教えてください。私はこの話を日本の有名な歴史学者から伺ったのですが、彼は「こんな馬鹿も現れた」という表現をしていました。ところがちょうどその時に、支那の明王朝が野蛮人である女真族(満州族)に倒されるという大事件が起きました。この女真族が建てたのが清です。支那人の皇帝が殺され野蛮人が皇帝になったのを見て喜んだのが、劣等感に悩まされていた日本の儒者でした。江戸幕府が導入してさらに日本的に捻じ曲げた儒教は朱子学という排外主義に凝り固まった一派で、野蛮人は支那の正統な皇帝にはなれないと主張していたのです。支那の皇帝を宣言した野蛮人は正統な支配者ではないから、儒教の正統は今や日本にしかないと日本の儒者は考えたのです。この「儒教の本場は今や日本だ」という発想がその後の日本に大きな影響を与えました。
2007年01月26日
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支那の発想は、その地理的特性とその中に多くの異民族が混在しているという事情から出来上がりました。いろいろの個性的な要素を無視して、天からこの世の政治を委託された皇帝を中心にした序列で世の秩序を維持しようとしたのです。これは世界の中心とその周囲、さらには辺境という序列で出来上がっています。人間で言えば、中心は支那の皇帝で、周辺は官僚群、辺境は野蛮人たる異民族ということです。地理的に言えば、中心は長安や洛陽という都、周辺は支那本土、辺境は異民族の国々です。古代は産業による国力の差があまりつかなかったので、人口の差がそのまま国力の差になりました。だから多くの人口を持つ支那に周辺の国は対抗できませんでした。その結果、支那を中心とした中華思想が周辺国に重圧を与えました。中華思想はその民族の個性を無視し、競争を抑圧する発想です。日本人はこの支那の発想を嫌い、7世紀末に鎖国しました。日本の王は天皇を名乗り、支那の皇帝と同格であると宣言したのですが、これは同時に中心の支那と辺境の野蛮人という発想を拒否したものです。勿論、支那人は皇帝と同格の存在を認めませんから両者の間の国交は断絶しました。こういう状態が7世紀末から19世紀まで1200年間続いたのです。モンゴル高原の騎馬民族は、はるかにシルクロードからローマまで繋がるステップを行き来していましたから、支那以外にも文明が存在することを良く知っていました。だから支那を中心とした中華思想など相手にせず、支那への侵入を繰り返していました。ジンギスカンの孫のフビライは支那に王朝を建てましたが、その王朝の人種的序列はモンゴル人が最高で、次が他の騎馬民族、次がトルコなど西域人で最低が支那人だったのです。支那人はこの時代を思い出すのも嫌なようで、これへの反発から出てきたのが強烈は排外主義の朱子学です。一方、陸続きで支那に対抗できない朝鮮やベトナムは、支那の秩序を受け入れて身の安全を図りました。支那が一番で自分たちはその次であり、支那の文明を理解しない日本人や騎馬民族は野蛮人だということになったのです。このように支那周辺の諸民族はそれぞれの事情により、中華思想への対応が分かれました。
2007年01月25日
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支那の歴史が前漢のピーク時以後同じことの繰り返しになりつまらなくなっていった理由を、私は競争が無くなったからだと考えています。もともと支那人という民族と支那語という言葉があったわけではありませんでした。支那の中心部は、東夷・西戎・南蛮・北狄といった異民族が互いにテリトリーを接している場所でした。支那の古代の国王たちもこの夷戎蛮狄のどれかの出身です。古代の支那では、遠隔地貿易が起こり、その商社組織が国家組織だったのです。殷王国の別名は商でしたが、まさにその実態を表した言葉です。多くの異民族が住む広大な地域を商業ルートで結ぶには情報網が不可欠でした。この情報網が古代の国家組織であり、情報は漢字という人工の文字で媒介されました。漢字は特定の民族が日常使っていた言葉でなく、バーチャルなものでエスペラント語のようなものです。統一王国の周が弱くなって、各地の異民族が自立し、お互いに競争していたのが春秋戦国時代です。科学技術や社会科学がこの時期に非常に発展したのもこの競争のおかげです。そして各地の民族国家を打ち破った始皇帝の秦が真っ先にやったことが、度量衡や漢字などを統一することでした。秦を滅ぼした後の漢もこの方針を引き継ぎ、支那の価値観の統一を図りました。そのために使われたのが儒教で、漢の時代に儒教が国教になったのです。以後、支那を統一するために支配者が作り出した儒教が支那の表の世界を支配するようになり、各民族の個性は闇の中に押し込まれていったのです。この支那人の体制は支那本土だけでなく、周辺の異民族もそれぞれにランク付けし、支那の価値観を受け入れた異民族には高い評価を与えるというものでした。モンゴル人や女真人が支那に攻め込んで国を作っても、それを統一する必要から儒教を採用しました。このようにして、東アジアではさまざまな民族の自立を抑える儒教のルールが支配するようになり競争が無くなっていったのです。
2007年01月24日
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昨年12月に為替のことをこのブログで書き、今後は円安ということを書きました。その後も円安が進行しています。 昨年6月 昨年12月半ば 今米ドル 112円 118円 122円ユーロ 145 155 158ポンド 210 230 241豪ドル 85 92 96NZドル 72 81 85私は相場師ではありませんし為替の知識が深いわけではありませんが、現在のこの円安を異常だと理解しているプロが多いことだけはここで書いておきたいと思います。いくら長期的には円安といっても、為替は短期的にも変動するわけで、このまま円安が進行するとは考えないほうが良いというわけです。たしかに為替は10%ぐらいは短期間に変動してしまいます。私のブログを読んで為替投資を始めた方がおられ、今後の急激な円高で大損をしたら大変です。別に私が責任を持つわけではないので余計な話かもしれませんが、現時点での外貨投資には慎重に対応してください。
2007年01月24日
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昨年末から、雑用を片付ける合間にローマ史を読んでいます。数え切れない人がいろいろな見方からローマ史を書いています。キリスト教の立場から異教のローマとキリスト教の正しい信仰を得たローマという見方をしている者がたくさんいます。「何であのように長期にわたって広大な版図を維持できたのか」という問題意識を持っている人もたくさんいます。また、ローマは近代社会のモデルになったと考える人もいます。「色々な見方があるのだなあ」と感心しました。未だに読み続けているのですが、感じたことをボツボツと書いていこうかなと考えています。ローマ史は読み出したら止まりません。言い伝えでは紀元前753年にローマが誕生し、西の帝国が滅びたのが476年です。ですから1200年も続いたわけでよくも続いたなという感じです。東の方が潰れたのは1453年ですから、西の帝国が滅びてから1000年も更に余喘を保っています。読みながら、ローマ史の方が支那史よりもはるかに面白いと感じました。支那の場合、私が非常に面白いと感じるのは司馬遷が書いた「史記」です。春秋戦国時代から始皇帝の秦が興亡し、劉邦と項羽の時代を経て前漢までの時代です。しかし、それ以後の支那は過去の繰り返しだけという感じです。私の感じたことには納得できない方も多いと思いますが、私はそう感じたのです。
2007年01月23日
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