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ちょっと前の話になってしまいましたが・・・ 友人達との温泉ツアー途中のお食事処で 友人Tさんと偶然 バッタリ・・ということがありました。無理もないのです。わたしがオススメした 場所なので。まさか 同じ日に行き当たるとは思わなかったけど。彼女は 実家のご両親と ご両親のお兄さま夫婦を連れて このお食事処に ランチに来たようでありました。お父様が 81歳。そのお父様のお兄様(彼女にとっては おじさま)が 83歳・・おじさま御夫婦は 旅行途中とか。食事中、あまりジロジロ見ると失礼と思い、でも横目でチラ見したわけですが(だって 動きが面白いんだもん) そのおじさま(83歳)が バチバチ テーブルの上のお料理の写真撮ってるわけ。さすがのわたしも お店のお料理は なかなかお写真撮れないっていうのにね。。「ブログでも書くんかしら。」なんて内心思ってたんですがね、、あとで Tさんに聞いてびっくり。何でもこのオジサマ、75歳からパソコンのお教室に通い始め いろんなものをドンドン極め、今、写真に凝ってるとかで こうやって旅先で撮った写真なんかを しっかり整理されて Tさんのもとに 送ってくれちゃったりするらしい。パソコン・・??のTさんにとっては 神の手 だと。年とってもなお いろんなことにチャレンジする姿勢、これは若さを保つ秘訣ですかね。あと もうひとり。かわいいお年寄りの話。ハイ、それは 義母です。義母は お陰さまで先週末、7月より入院していた病院を退院し、某施設に入居いたしました。9月初めには いつでも退院してもよい・・という状況でしたが 施設側の『入居ラッシュが続いているので 充分なお世話ができるよう 受け入れ態勢を整えてから・・』という理由で 今まで待っておりました。施設長さんの 明るい人柄なんかも ○ですね。定員20名・・という こじんまりした平屋建て(しかも新築)の施設で 義母も気に入ったよう。いや 気に入ったかどうかはわからないのですが 「ご飯もおいしいし、(入居者の人と)おしゃべりもできる・・楽しい。」というから 一人暮らしより ○なのでしょう。2回ほど様子を見に行ったのですが 以前あれほど 「○ちゃん(とうしゃん)は いつ単身赴任終るかい?」 (義母は とうしゃんの死を知らない、海外赴任ということに なってる)と 言っていたのがウソのように とうしゃんのことは まったく触れないしね。この前なんかは 「△クンは 早くお嫁さんをもらわんとね。」と。はい △クンとは義弟のことで、、、、 嫁もおりますし 20歳越えた娘もおりますです。この時は 「嫁はおるがな。」というわたしのひと言に ハッと我にかえったかのように「あぁ、 ボケた。ボケた。」と 笑ってましたが。さすがに 繰言は多いですわね。「ホント (今回の入院では)迷惑かけたねぇ。すまんねぇ。お金も使わせて悪かったねぇ。 (パジャマとか 買って行ったからね)」を わずかな時間の中で 10回以上は繰り返していたので 明らかに義母は老いていってるのでしょうが 不謹慎ながら かわいいなぁ・・と。「食べるのが 楽しみ。結構食べれるがね。」と言って かわいく照れる義母。今日は 義弟が 単身赴任先から一時休暇で帰ってきているので 義母を おすし屋さんに連れ出しているはずですよ。糖尿で 普段は節制した食事だから たまには こういうこともよいでしょう。こういう穏やかな時間が 長く続けばいいなぁ。。。。 ハイ、それでは久し振りに 夕飯の図・・でも。最近凝ってるもののひとつ、ちりめんと新ショウガの佃煮風。お友達の 蜂蜜夫人(佐賀旅行で知り合った アノ方ね)に教えていただきました。万能調理器で千切りにした新ショウガを ひと煮立ちさせて水にさらしアク抜きしたあと チリメンジャコと 炊き合わせます。鍋いっぱい作って これが 二回目。あっという間に なくなります。ごはんが ごはんが 進むくん・・であります。チリメンとゴボウの炊き込みご飯ゴボウは ほとんどアク抜きしなくても オッケーのようです。ビジュアル的ににはパッとしませんが もち米も入っているので すごくおいしいのよ。デパートの友の会会員セールで 大量のチリメンを買っちゃったもんでね、、、、張り切って食べなきゃね。これは 無選別のちりめんちゃん(だし用)ってのを使ってます。選別してないので チリメン、かえりチリメン、小魚、イリコ、赤ちゃんイカ(見えるかな?)まで入ってますのよ。 あと サラダね。サラダ・・といっても お肉が入ります。いつもは カリッと焼いた鶏ももをスライスしたもの。今日は豚カラね。それに野菜。レタス、ルッコラ、ベビーリーフ、パブリカ、蒸し焼きしたシメジやマイタケ、かいわれ などなど、なんでもあり。決め手は ソース、、、ドレッシングね。いつぞや 福岡の有名ホテルの料理長がテレビで言ってたんですわ。 分量はかなりあやしいので書きませんがマヨネーズ+サラダオイル+オリーブオイル+酢+塩+黒胡椒+醤油+にんにくのすりおろしこれ、やばいくらい おいしいです!
2009/10/16
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まずは 保険証。ご心配いただいて ありがとうございました。いやはや 恥ずかしながら 消えてから 早一週間ですよ。何かのポケットに入れた・・という あやふやな残像記憶。同じところを3回以上もチェックし・・・けど、、、、ない。2・3日前に 紙ごみの整理したから あの時にまぎれちゃって捨てたか?・・とか 偶然 ごみ箱に落ちちゃって 今頃処理場か・・・・・なんてね。。。『今日中に見つからなかったら 明日市役所で再発行してもらいましょう』の 期限の日。そんな時でございますよ。掃除機をかけておりましたワタクシ。いつもだったら まあ傾き姿勢は直立姿勢から30度・・というとこでしょうか。ところが この日 我が家の『リビングばかデカ机』の向こう岸に(川か?) 食べカスらしいもの散乱地域を見つけ 掃除機体勢『第一匍匐(ほふく)・・・・小銃を右手に持って右腰付近で保持し、左ひざを地面に付けて右足を後方に伸ばして、左腕で上体を支えながら前進する。 by 陸上自衛隊教範)』を 実施したところ、対岸の飾り棚(今はもう 書類ファイルの入ったカゴなどや 読みかけの雑誌などが置かれている)の下段の棚と床との5センチほどの隙間奥に なにやら 四角い小さな物体が!冗談抜きで わたしが なくしたと思ってた場所より 5メートル近く離れた場所で ございましたよ。はぁ・・・ も一つ。これは こういうこともあったなぁ・・ということで書き留めておきますので 読み流してください。消えた○○の行方・・・二つ目『位牌』とうしゃんの実家の位牌。去年だっけかなぁ。ブログにも書いたかもですが とうしゃんの実家に 墓参りと称して とうしゃんの父方の兄弟が来ました。義弟(とうしゃんの弟)は 単身赴任先にいて 不在。義妹(義弟の嫁)と義母(とうしゃんの母親)が応対したらしい。問題は 一行(叔父・・義父の弟(北九州)、叔母・・義父の妹(県内))が 帰り際 「仏壇を新しく作るから・・」と とうしゃんの じいちゃん、ばあちゃん、伯父さん(亡くなった・・・この人が長男)の位牌を 持ち帰っちゃったらしい。残ったのは とうしゃんの父親の位牌だけ・・という。親類筋に 仏壇屋関係の人がいるから? ・・・「北九州の叔父さんは 新しく仏壇を作れと たぶん 強く言われたんだろうなぁ・・・」と 義弟は同情していたけど・・・田舎に住んでた一人暮らしのじいちゃんを引き取り 亡くなった長男のかわりに 当地に墓も移し先祖供養をしてきたのは 義父。そして じいちゃんを看取ったのは 義母。そこに この家の長男であるとうしゃんが亡くなった訳だから 善意に解釈すれば 「先祖の供養は ウチで・・」ということで 叔父さんが位牌を持ち帰った・・ということかもしれない。けど 義弟に何の相談もなく 持ち帰ったのはね・・・さすがに悪いと思ったか 叔父さんも 詫びを入れてきたりもしたけど・・・お骨は こっちにあるわけだし。とうしゃんが亡くなった時 いろんな事情を考えて とうしゃんのお墓を わたしが建て、、、、いずれ先祖代々のお墓の方は同じ墓地に移そうと 義弟と計画していたんだけどね。。。なんだかねぇ。。<いろんな事情>・・・ブログ2006.7.16.都内某所で行われた『盂蘭盆会』より 一部抜粋お墓は、転居してから・・郷里に・・・という話の中で、我が家の抱えている状況についてお話しました。去年義父を亡くしたこと。義母は脳こうそくを患い、現在は、ヘルパーさんの手を借りながら、平常の生活はできるところまではきたものの、元来、人一倍いろんなことを気に病む性格ために 親族・母の友人たちの総意で とうしゃんが亡くなったことは伏せてあること。海外赴任しているという 悲しいウソをついていること。 そのほか、いろんな事情も加わって、高齢の母には その命をまっとうするまで 長男の死は伝えないままにしておこうかと考えている・・というようなことを 義弟といっしょに ついついお話してしまいました。ウチの事情を聞いたご住職が 「そういう事情がありましたか・・・おかあさまに ご長男さんの亡くなった事は告げずにおく、・・・それでよろしいんじゃないでしょうか・・・」「そして、奥さん・・・・」と わたしの方を向いて 話を続けられました。 「奥さん、このことで、決して自分を責めたりはしないこと。ウソも方便というではないですか。・・・・・」 まだまだ温かい言葉は続いていましたが、ご住職のひと言ひと言が わたしの 心の琴線にふれてしまい、涙が止まらなくなってしまいました。義弟から、義母には伝えないでおいて欲しい・・という申し出のあった時 いつまでこういう状態を続けていられるか と 本当は かなりの心の葛藤があったのです。そしてそれは 今もずっと続いています・・・・・ その重い気持ちが 少しだけ軽くなったような・・・・・そんなこんなで 新しい仏壇の開眼供養が 来週の日曜日にあるということで 義弟といろいろ話をする機会があって・・・・・ ひょんなことから 義弟の嫁がアキレス腱を切って入院しているということを聞き、 今日(日曜日)、お見舞いに行ったわけです。義弟嫁ちゃんには ホントお世話になってるのです。義母の近くに住んでいるということで いつも義母の病院の送り迎えなんかをしてくれている明るい義弟嫁ちゃんと 他愛もない話をして・・・義母のとこに行けば 必ずといっていいほど 「○ちゃん(とうしゃん)は まだ 帰ってこれん?(海外赴任してることになってるからね。。。)」と 繰り返し聞かれることに心が痛み ずっと 義母のところに行きそびれている自分がいるんだけど。。。明るい義弟嫁ちゃんは 「お義姉さん、お義母さんから 『○ちゃん(とうしゃん)から 電話かかってくるかね?』って聞かれて 『この前 電話かけたって言ってたけど。』って お義姉さんが答えたとしても お義母さんは気がつかんほど いい具合にボケてるから。。」なんて言ってくれる。今までは 義母には 何か食べるものを持っていったりしてたんだけどね、糖尿病だから 有田の時に買った湯飲み茶碗を持って(今頃) その後 とうしゃんの実家に行った訳さ。。 なんだかね、ひと回りも ふた回りも ちっちゃくなった義母がいてね。けど 「久しぶりやね。うれしい!」って 喜んでくれて・・・・「今 Mちゃんのお見舞いに行ってきたんよ。」って言ったら「Mちゃんて 誰かえ?」・・・・・・ それでも わたしのことは 誰だかわかるらしく「一緒に暮らしたのは いつやったかなぁ。懐かしいなぁ。。」って。・・・・・たぶんね、横浜に住んでた頃 家族で年に2回は帰省して 1~2週間は滞在していたからね、義母の頭の中は いろんなものがワープして その頃の 一緒に料理していた姿とか 一緒に出かけた記憶とかが ポーンと よみがえってきたんだろうね。。だから 一緒に暮らした・・って。とうしゃんの実家のリビングの壁には 家族の歴史ともいえる写真がアチコチに 額に入って飾られていて・・・・それは 義弟夫婦の新婚旅行の写真だったり・・・義父が撮った わたしたち夫婦の写真だったり・・・長女の小さな頃のあどけない笑顔の写真だったり・・・ ・・・・ いかんね。年取ると 涙腺が弱くなって。 義母は あれほど今まで繰言していた とうしゃんのことなんかには ひと言も触れないしね・・・・かえって それが 切なく、、、 優しくしてあげんと いかんね。。たくさん 行ってあげんといかんね。。
2009/06/14
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体調の悪い時にね、食欲があまりなくて・・・でも これだけは食べれた・・ってものがありましたの。やめられないんだよなぁ。KKかむかむいちごみるく チューイングキャンデー と 当地の 塩炒りピーナッツ。結果、どうです。2キロの増量。。。あらら。 なおかつ 増量キャンペーン実施中 ってのに、それにも懲りず、復活を確かめるかのように行ってきました、マダムのランチへ。一緒に行ったのは ダブルTさん。以前も書いたけど T・aさんは 昔の仕事仲間。T・mさんは 長女を産む時、母親学級で知り合った人。 3人とも 偶然同じ年に同じ産院で子供をもうけ、わたしの横浜在住中に T・aさんとT・mさんとは 同級生のママ友として 知り合っていたという。。。 行ったのは隣の市のイタリアン。地中海料理っていったかなぁ。。隠れ家・・・というか、民家の一部のレストラン。それも 超、わかりにくいところ。 以前たまたま行きまして わたし的に 大ヒットするお料理がありまして 忘れられなくってね、、、どうかな?と思いながら ソレとは全然違うメニューの レディースセットを頼みました。海老とホタテのサフランソース、タイのカルパッチョ、真ダコのマリネ他全7品・・・ソース絶品。マダムのお食事は 上品そのもので・・・・・ 文化的なお話やら 時事問題やら 青少年問題などを 話題にしつつ、、、 えっへん。 どれもこれも ソースがおいしいのよ。(また書いてる)いきなり オードブルの タイ・・真ダコ・・etc.のお皿の ドレッシングのちっちゃなお野菜とソースが フォークとナイフでは ちょっと取りきれなくて・・・・ それは 3人とも同じ思いだったようで・・ 3人ほとんど同時に 「舐めたいくらいだわね。」 ・・・どこが上品か! ぶぶぶ。。。マダム それはなりません。食べ終わったお皿を取りに来た奥さん(シェフの奥さんかな?)に 「ドレッシングが美味しくて お皿、舐めたいくらいで・・」って。こんなこと言えるのが オバサンの証拠。 「シェフが 喜びます~~~」って 奥さん 奥に引っ込んだけれど・・・・ そのあと スープのあと、メインと一緒にパンとサラダが出てきたんだけど・・・ほんとは 2種類のはずなパン、 「シェフからのサービスです・・」って もう一種類 甘い系のパンが。 この写真とは ちょっと違うけれど デザートは 抹茶のケーキっぽいムースと いちぢくのゼリー 。絶品でありました。 魚介にしても お野菜にしても 素材がいいんだろうね。お野菜は お庭の畑で 作っているらしいし。 思わず、家に帰って 畑・庭仕事をしましたとさ。 ナスやら トマトやら ししとうやら モロヘイヤやら・・・・ 青少年問題の話題ではね、、、(ん?青少年問題か?) 近ごろの高校生、雨が降っても カッパも着ないし、長靴も履かぬなぁ・・と。いや、ゼロとは言わないけれど・・・・昔は 車が今ほど各家庭になかったせいか、青少年は ずぶぬれになりながらも 登校していたことよ・・って。 今じゃ どうよ。そういう時は 親が子供を学校に送るのが当たり前・・・みたいな。いや、たまに どんなずぶぬれになろうとも 大きなスポーツバッグとバッグ(教科書が入っていると思われる)を ちゃんと 自転車にくくりつけ、健気に登校している子、いるわねぇ。そう、たとえば○○君・・・運動だってハナマル、勉強だって、東大一直線みたいな・・・そして 性格まで立派ときている・・・なんていう 『隣の芝生』的な話にも及びながらね・・・出来る子は何でも出来る、時間の使い方が上手なんだ・・・って話に行き着くわけだけれど・・・・ これは 仮名@家の話だけど・・・・やっぱ その家のお子も 雨が降ったら親が学校に送っていくのが当たり前と思ってるフシがある。親だって その日の仕事やら予定やら いろいろ抱えているから 道路の混み具合やらなにやらから逆算して 「7時○分までに用意しなきゃ 車では送っていけんよ!」って 念を 押すじゃない。 そしたら 明らかに その約束の○分を過ぎた頃に ・ なんでこんなに 弁当が ギリギリにしかできんのか!~~ とか・制服に アイロンがかかってない~~ とかそのくせ どんなに時間がなかろうと オノレのヘアスタイルのセットには 余念がなく・・・・「お母さん、遅い!」と 玄関先で キレる子供。。たった一歩だけ 母より 先に行く子供が そういうことを言う。たった一歩だよ。 タッチの差よ。 そりゃそうだ。母は、家の明りを消し、ガスは大丈夫か?アイロンはオッケーか?ヘアアイロンは??・・なんてことを すべてチェックして出て行かなきゃいけないわけだからね、、、、 テレビのスイッチの ひとつくらい 消しやがれ!!・・って。 挙句の果てに 朝の5分10分の差で 自分の予定の時間に いろんなことが食い込んできて、結局は 自分の時間を犠牲にして・・ってことになる。 突き放せば 子供も自立するんだろうけど 突き放すことも出来ず・・・ 誰が悪いか って話になって そう 結局 育て方が悪かったのね。。。って。 はい、 我が家の話であり、、、、両T家の話でありました。 男の子であろうと 女の子であろうと そうかわらんのね・・と お互いを慰めあい・・・・とか何とか言いながら 確実に受験は近づいているわけで・・ とどのつまり どうすんのよ!・・って話。 思い切り愚痴りあい、はたまた笑い転げ、いろんなことを発散した ひと時でありました。 友達っていいね。 あらら、、、、いろいろ いただきものとかあって そういうの載せる予定だったんだけど・・・ 長くなったので また次回にでも。
2009/06/03
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なんだろなぁ。。どうも調子が出ません。わたしのね。脱力感と言うか。。。ブログ放置状態で すみません。 ご心配いただいた娘達、次女は すっかり元気です。長女のぎっくり?も 先生の処置が良かったのか もう なんともないそうです。(すごいねぇ)しかし、きっとまた 同じようなことを繰り返す恐れがあるらしいので 要注意らしいですが・・・・ けど、、思いがけないことが なんだか いろいろ 起こります。 土曜日、某ショッピングセンターで買い物後、駐車場を出て ちょっと行ったところで 警察官に止められました。は? 助手席の次女さん、シートベルトしてませんでした。なんで?・・確認してなかったわたしが 悪いんですね。。。死守していた栄光のゴールド免許が 次回より消えます。ブルー免許か。。。。気持ちもブルーだ。。。次女さん 迷惑かけ料として 10000円くれました。儲かった。いえ、わたしが買い物の際に借りてたお金、チャラにしてくれた・・ということなんですが。 同じ日のことです。家に忘れた携帯に 実家の母の行ってるはずのデイサービス先より着信が。電話をかけると 母の具合が悪いと・・・。ろれつが回らないらしい。よみがえる悪夢。 救急車で搬送。。。。 こちらは仕事をキャンセル、病院に駆けつける。CT、MRIの結果・・・・・前回のような病変(脳梗塞)は今のところ見られない。ただ 少し遅れて出ることもあるから・・と。。こういう場合 普通はどうするのか?と聞くと、経過観察の入院、2週間・・とな。。。前回入院の時、脳梗塞の治療の為の点滴で 肝機能が悪くなり 途中で治療中止。おまけに 血栓を早く溶かす薬というのは 全身で出血を起こす傾向がある「諸刃の剣」だと 前回 主治医から説明を受けた記憶が・・・・おまけに 老人にとっての入院・・・異空間はこたえたらしく、挙動不審が目立ち 認知症老人のレッテルを貼られた母。 思い切って言ってみました。「連れて帰っては だめですか?」と。だって 前回も 退院して一週間くらいで 挙動不審は落ち着いて 入院中のような昼夜逆転もなくなり デイサービスにも通い、穏やかに過ごしているんだもの。。。 ちょっと驚いた様子の主治医でしたが・・・ 「飲み込みが悪いとか、むせるとか・・何か変わったことがあったら すぐ連絡をすること。」という条件付で 点滴を受けて帰宅。時間にして 病院滞在5時間。疲れました。 あと 心のもやもやは・・・ね。。。『使い捨てカメラ』・・って あるじゃないですか。 横浜時代に使ったらしい『使い捨てカメラ』が 現像にも出されず何台か放置されてたわけです。たいがい そういうのは 娘が修学旅行に行った時とか、旅先で『あ、カメラ忘れた。』ってなことで 使うわけになるんだけどね・・・マメに現像だしてたつもりでも こういうのが 荷物の片隅に残ってたんだよね。。思い切ってカメラやさんに持って行って 何日か前に出来てきたんだけどね。。。。 いかんわ。。元気な頃のとうしゃん、写ってる。ニジマス釣りに行って 家族で楽しそうにしてるやつ。 心がざわざわですわ。。。あと他にも 一つ二つ、同じようなことがあって・・・ 昔、とうしゃんが お気に入り登録してくれていた ジョナサンケイナーの星占い見てみました。。なにげにね。。。めったに 見ないんだけど。。。 イギリスで一番人気らしい。具体的なアドバイスを行う他の星占いと違い、詩的・暗示的・抽象的な占いをする人。読むと内省的な気分になる。・・と言われておる。 先週のわたしの運勢 で 今週は 満月のパワーが わたしに 大きな力を与えてくれるんだわね。 10月は とてもいい月なんだわね!今わたしが 感じていることを 行動に移せばいいのね!そうなのね!・・・完全に暗示にかかってる。しかも イイトコだけ。 ま、いっか。今週は なんだかすごい週になりそうな予感。だって いろんな人と会う約束がいっぱい。初めて会う人、久しぶりに会う人 てんこ盛りの 今週。まだ会わないけど、昨日なんか 20数年ぶりに小学校の時の仲良しから 電話がかかってきました。びっくり。そういう星まわり、引き寄せあうように いろんなことが集中する時期ってあるんだねぇ。いい週になるといいなぁ。いや、いい週にするぞ! あいかわらず、レス・訪問 滞りがちで申し訳ありません。ボチボチ・・行かせてもらいます。すみません。 m(._.)m
2008/10/13
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父が亡くなったのは 長女の生まれるちょうど一年前の 平成2年12月10日です。近所の主治医、母、子供達、孫達に見守られ 自宅の自分のベッドの上で・・・眠るような最期でした。しかし この日より約一年前、父は一度 死んでいました。病院のベッドの上です。。。持病の狭心症ではなく 脳梗塞の発作で病院に運び込まれて何週間か経ったころ(回復・発作・そして回復・・と繰り返していたが、経過は良好と見られていた)突然、その時は やってきました。映像として記憶しているのは 3つ。・主治医が ペンライトを父の目にかざし、時計を見ている姿。・「ご家族は 廊下に出てください。(といっても たまたま わたししかいなかった)」・・と言われ 廊下に出たこと。・「助かる可能性は とても低いが 気管切開を行うか・・・」と主治医が 廊下で わたしに聞いてきたこと。どういう順番でこれらのことが起きたか どれだけ時間が流れていったかは まったく記憶にありません。それまでの家族の総意というのは 『無理な延命措置はやめてください』というものでした。それまで 狭心症の発作のたびに苦しむ父を、、、脳梗塞から嚥下障害を起こし苦しむ父を、、、見ていたから・・・ただ 判断を迫られたわたしは 思わず 「たとえ1パーセントでも 父の命がつながる可能性があるのなら お願いします。」と 答えていました。医師の提示した『助かる可能性』・・というのは それほど低かったのです。その後ICUで 昏々と眠り続ける父の姿を見ながら 自分の判断は正しかったのかどうか 自分を責め続けました。呼吸はさせられているけど 意識がもどらない。。。何日経ったのかなぁ。。。母や姉達が そういうことは可能かどうかはわからないけれど 積極的な治療(栄養をつなぐという意味で)は止めてもらうように頼みにいこう・・などと相談をしていました。あの 『無理やり生かされている姿』を見るのは しのびない・・と。そのときです。知らせを聞いて病院に駆けつけてくれた父の親友(現役時代からの仕事がらみの友人Hさん)が 「たいへんじゃ!わたしが手を握って「○○○さん!」ち 声 かけたら ほんのちっとやけど 握り返したで!」と。奇跡の起きた瞬間でした。その後も 父の回復の兆しをHさんから聞いた 会社時代の古い友人、社長さん・・・・次々と 父に声を掛けに来てくださいました。熱い想いに 感謝でした。その病院の若い主治医が 後で言うには 『信じられない瞬間であり出来事』だったそうです。そして その後の父の生命力、回復振りは 自分の人生観を変えた・・と あとで お手紙をもらいました。みるみる回復した父は 退院し 自宅で過ごすこととなりますが・・・・そこは まったく元通りに・・というわけにはいきません。老人ボケ・・と言われて不思議ではない年齢でもありましたし、脳梗塞の後遺症がそうさせたのかはわかりませんが とんでもないことをやったり 言ったり。。。一番びっくりしたのは 止められていたタバコ、(もともとヘビースモーカーでしたが )どこで見つけたのか 隠れて吸い あわや火事!の ヒヤリ。エピソード1で 出てきた マッサージ椅子の一部を 炎上させました。(あとで交換してもらえましたけど。。。)あと 「帰る」と言ったり 「○町に行く!」「△町に行く!」と言ったり。。。そういうときには 母からのSOSは わたしに。(当時 姉は 仕事を持っていて 日中 留守していたので。)父が亡くなってから、、、、 その ○町は 父が単身赴任して いきいきした時間を過ごした町であり、△町は 父が商売でかかわった関西の町・・ということがわかりました。。。でも 当時、それがどこにあるかもわかりません。「そんな町、ないよ。」と言いたい気持ちを抑えて 車の助手席に父を乗せ あてもなく 車を走らせる。「ここかい、おとうさん?」「いや、ちがうなぁ。」「ほんなら ここかい?」「ちがうごとある・・」実にならない そんな会話を繰り返しながら 場所を変え、、、 父が疲れて 「もう帰ろう。」と言うのを待つ。。。はじめのうちは 悲しくやりきれない気持ちが大半を占めていたけれど それを繰り返すうちに そう いやでもなくなってくるのよねぇ。さて、今日は どこに行くかな・・ って。どこに連れて行って おとうさんのこと 喜ばせてあげようかなぁ・・って。思えば 父と一緒の時間って あまり過ごしてなかったんだよね。仕事人間だったから 帰りは遅かったし。父の反対押し切って 大学は東京に行っちゃったし。連れ戻されて 一諸に暮らしたものの 結構 口答えもしたし。だって 頑固なんだもの。。。今 考えると あてもなく 父とドライブしたこの時間が かけがえのない時間だったような・・・すべてを受け入れられた。。。このブログに来て下さる方たちの中には 自ら闘病されている方、闘病している家族を支えている方・・いろんな方がいらっしゃると思います。『生きる』って すごいことだよねぇ。人間の生命力って すごいと思う。万が一の奇跡だって起こすことがある。どういう形であれ 今『生きている』ということは 希望の光があるっていうこと。今日 絶望の中にいるとしても 明日は今日より イイコトがあるかもしれない。今日出来なかったことが もしかしたら 明日はできるようになってるかもしれないしね。あきらめないで・・・・・明日という日が 今日よりも幸せな一日でありますように。
2008/09/09
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前回ブログは 月曜日にチョコチョコ書き溜めたものをアップしたものでしたが、その後 なかなか持久力がなく 書きっぱなし状態になっていまして すみません。薄皮をはがすように回復していますので ボチボチ レス 書かせてもらおうと思います。並行して 次のブログもアップしてしまいます。行き当たりばったりですみません。 お盆の頃だったか センチメンタルな思いに浸るあまり 父のこと をブログに書きましたが 実は続編がありました。今まで日の目を見なかったのは 記憶のカケラをつなぎ合わせることに時間がかかったことと 日常の出来事をブログにアップすることに追われてしまったからですが、このところ 思うことあり 書き綴ろうと思います。たぶん 長くなります。読み逃げしてください。 エピソード1経営者としてはダメでしたが 別な方面で商売の手腕を発揮した父は びっくりするような武勇伝がいくつかあります。ある製薬会社からは 父のおかげで原料の調達が出来、製品開発ができた・・と お中元・お歳暮は欠かさず届き、それは父が現役を退いてからも続き ある年などは 当時30万円はするといわれたマッサージチェアを ドンと 送ってきたりもしました。しかし、今日の本題に入る前に触れたいのは その部分ではなく 父が多くを語らず 墓場に持っていった話。 若い頃 実家の戸籍謄本を見るたびに ?? と思っていたこと。 戸籍上、わたしは 女ばかりの姉妹のはずなのですが 間に一人 男子の名前。それも『養子』・・とある。しかも 籍に入れた後 すぐに 籍を抜いた形跡がある。子供心に 隠し子かなぁ・・なんて思ってた。(笑)絶対君主制の我が家では 父に聞くこともはばかられ 母にそっと聞いてみるものの 「知らんなぁ。その人、なんか 事情があるみたいで。」と。母も暢気。 ずいぶん大人になってから その人が千葉から父に会いに来る・・ということで 食事を一緒にすることになりました。会ってみてびっくり。結構 おじさんでした。どう見ても 隠し子ではない・・と確信。千葉の薬品業界で成功したというその人が 毎年 我が家に米屋の高級羊羹を送って来る人と同一人物であることが その時 わかりました。「お父さんにはね、言葉では言い尽くせないほどお世話になったんですよ。」と繰り返すそのおじさんの言葉に 何やら 大人の事情に巻き込まれたそのおじさんのことを 父は自分の戸籍を汚してまで便宜を図ってあげた・・ということはわかりました。もうそれ以上は 聞くまい・・と。 ただ その時 おじさんが手土産に持ってきた成田山羊羹の包みを開けてびっくり。どこかの教育委員会じゃあるまいけど(禁句か・苦笑)お札の束がありました。当然 電話で 押し問答が続きました。向こうも折れず、結局 そのお金は 父方の墓所を改修する際に使われ 新しくその時建て替えられた墓石の横側には 建立者として 父と兄弟他そのおじさんの名前も 刻まれています。そして 今では その墓で 父は眠っています。。。えぴそーど2に 続く
2008/09/09
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先月だったかな、友人のTm子ちゃんより 高校のクラス会の連絡がありました。(以下、イニシャルがたくさん出てきますが 単に備忘録として書いておりますので 読み流してください。) でも 最後に どっかん、あるかもよ。 言っておくけど、長いよ。電話をくれたTm子ちゃんは 現在 滋賀県在住。横浜在住のNnちゃんが 里帰りのついでに母校のあるわが県に立ち寄るので 自分もその時期に合わせて帰郷するわ・・との事。 Nnちゃんが 同じ横浜に住んでいたことは 新しく送られてきていた同窓会名簿で知ってはいたものの 連絡するでもなし。。。そうやって随分友達をなくしてきたものだわ。。 Nnちゃんは 乳癌をを患ったらしく 今も闘病中との事。旅行できるくらい元気になったんだろう、安心したわ・・と Tmちゃんは 言ってたけどね。Nnちゃんとの思い出話は またの機会に。 内輪だけの集まり(7~8人?)で 某有名温泉旅館に一泊して・・って話だけど わたし、その日は夕方から夜にかけて用事が立て込んでてね、、、ま、所詮 泊るなんてできるはずもなく・・・どうせ昼から こいつら騒ぐんだろうと思っていたら 案の定 昨日 滋賀のTmちゃんより電話がかかってきました。 「T先生がドライブ(○布院らしい)(笑)したいって言いよるけど 車 出せる?」 「あはは、いいけど・・・T先生 昼から来るの!?(笑)そんならわたしから幹事のGに 電話しとくわ・・」と。 いやぁ、懐かしい・・・Gは 短大卒業後 すぐに結婚し、それもご商売をされている家に嫁いだから なかなか大変だ・・ということを聞いていたけどね・・・・ 緊張しながら電話をかける。クラスのムードメーカーであったGとは 30年ぶりくらい?「もしもし、さくらですが・・」と こっちが今の苗字言ったところで 知るはずもないんだけれど・・・「ひらりちゃんやろ!すぐわかったわ!」 あららら。。。 さんざん喋りまくり 結局 「ドライブに行くのはいいけど わたし 途中で帰らんといかん。」ということを言うと、「じゃぁ、帰りは T先生の車に乗り込んで帰るけん、気にせんでいいわ!!先生この前 店に来て 車、出すけん・・ち 言いよった。」と。 ほんと、それでいいんかいな・・と 一応T先生にも電話することに。 Gから 「先生な、珍しい電話番号やと 暗~い声で 『はい、Tです。。。』って出るけんな、 『先生 どしたんですか、(具合)わり~ん(悪いの)ですか!?』ち 言っちゃりよ。そしたら 喜ぶけん。」ぎゃはははは!! なんじゃそりゃ!! こんなに明るい かつて昔には 『便所の百ワット』(無駄に明るい)と言われたGだけれど 商家に嫁いでの苦労、嫁姑の問題、そして 愛娘を亡くす・・、あとそのほかにもいろいろね、、、あったようだわ。 ついでに言うと、、いや、ついでに言っちゃぁなんだけど、、T先生は わたし達の大学受験目前の時に ご主人亡くしてるんだよね。。。今は 息子さんが闘病しているらしく・・・ 高校3年間は なんだか不幸が重なる時で、、、国語の先生が亡くなり、、、そして 今日の日記の最初に出てきた滋賀在住のTmちゃんのお父さんが亡くなり、、、そしてT先生のご主人・・・まだあったかなぁ・・ホームルーム委員をやっていたわたしは、なんだかこの時期 たくさんのお葬式に参列していた記憶があるのですよ。。。なんだか暗かった 高校生活。。 そのT先生とは 学生時代に『東京・大学巡り』と称して遊んで以来、まさしく30年近いご無沙汰。 恐る恐る電話をかける。 あれ?、受話器を持ってる感じだけれど 『はい、Tです。。。』///・・・ が ない。。。 かわりに 犬の声『ワンワン!!』 はぁ??? あいかわらず、無音。・・・・・・・・・・ 思い切って 「T先生のお宅でいらっしゃいますか?」 すると 「ひらりちゃんやろ~~~!!」 ・・・・・げっ?そんなにすぐわかる声でもあるまいに。。 ま、とにかく喋りまくる。いかん、肝心の用件を言わんと 用件を。 「先生、ドライブのことですけど。。行きは わたしと先生で2台で行って 帰りは 先生の車にみんな 乗るんよ!!先生大丈夫!?」 と わたし。 ↑すっかり タメグチ 「え、この老体に 運転せ~っちゅうんかい!?」 「 ぎゃははは! 先生、今いくつですか?」 もうすぐ65とか言うのだけれど、、、あとで何回計算しても 計算が合わない。なんか、絶対 サバ、読んでるなぁ。 ま とにかく明るい。「20年乗った車に5人も乗せて 坂下りて よかろうか・・」「先生!!、20年も 同じ車、乗ってるん!!」「いや一回買い換えたけどな。(なんじゃそれ)20年乗ったわりに 5万キロしか 走っちょらん。(だ~か~ら~20年じゃなかろうが!)」 ・ ・約30年ぶりの恩師に こんだけツッコミ入れてよかろうか・・というくらいに いろんな話も盛り上がり・・・ 挙句の果てに 先生、電話は 自分がかけた・・と言う。 どうもね、、、わたしが うちの子機で 先生に まず電話。呼び出し音もならぬうちに 充電切れ。 ↓先生は ここで 見慣れぬ番号からかかってきた・・と その番号に電話(うちのIP電話の番号が表示されたから・・) ↓しかし、ほとんど同時に わたしも 親機から先生に かけていたわけで・・・・ だから・・・ かけた時 犬がワンワンワン! だったのね。 IP電話。時々 こういうことが起こる。電話代、どっち持ちか わからん。 しかし 「あはははは!」で終るわたしたち。 なんだかね、、先生や いろんな友人と話してみて 思ったこと。・・・・それは 明るいなぁ・・ってこと。 わたしを含め、世間的にみると 皆 けっして 楽しいばかりの順風満帆な人生ってわけではないよね。 現実問題としてね、これからも年齢的に 親の介護、子供のこと、連れ合いとの事、はたまた 闘病・・と 抱えるであろういろんなことが まだまだあることでしょう。 でもね 自分の今いる場所で 精一杯に 『今』を 楽しまなきゃ・・・皆、そう 思ってる。なくしてみて、いなくなってみて、 初めて気づく幸せ・・っていうのを それぞれ感じたことがあるから・・かな。。 『明日死んでも悔いのない生き方』・・・まだまだ そこまで自分を高めることは出来ないけど、、、『きょうは こんな面白いことがあった、こんな人と会えた』って プチ幸せな気分になれる毎日でありたいな。 大きな力をもらえた 旧友、恩師との 声の再会でした。 さ、再会の日には しゃべり倒して声をからさない為にも のど飴、水分の補給には 注意しましょう! どっちか 買おうかな。。。今 闘ってる。。。6,000セット突破御礼!スイーツどっさりワクワク♪早い者勝ち急いで~≪お試し版≫魅惑のドキドキ☆スイーツ福袋【送料無料】国産豚肉使用♪美味しいとこどり!なんと♪9種のハム&ソーセージ食べ比べ!!夢のオールスター☆ハム福袋【送料無料】どっちもきっと たいした量じゃないよね。って こんな載せ方 あるか?
2008/04/09
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そういえば こういう法則がありました。 ウチの次女、何か大きなイベントの前には 必ず高熱を出す。日曜日、スプリングコンサートで トロンボーンを吹き、バイオリンを弾きまくった次女、今回は 大丈夫じゃん・・・ってね。・・・・・・・甘い甘い。。。次の日の月曜日は 部活・休みだったのですが、、、新学期、某委員会の長を仰せつかっているとかで 議案書作りに出かけていきました。わたしもこの日は 自分の用事、連続アッシー君、おまけに実家の母の目医者付き添いまで入り目いっぱいのところ、よせばいいのに 夜には次女を連れ出し、今度の日曜日にあるバイオリンの発表会の衣装の買い物。(長女は ピアノのコンサートへ)これがまずかったのかなぁ。。。帰った頃から 『なんか寒い』。。。こういうときに限って 体温計、行方不明。ちょっと尋常ではない熱のようだったので 近くの深夜営業の薬局まで車を走らせ 体温計とヒエピタを買う。帰宅して計ってみると なんと39.7度! ひぃ~~・・・この前の熱発の時の飲み残しの薬があるので 何とか しのぎましょう。。 次の日、火曜日。日中は 熱、下がるんだよね。そしたら また学校に出かけていきました。わたしのいない間に。お前はモーレツ社員か!(コレも死語ですか?)夜の塾は休ませましたわ。(この前も休んだしなぁ、、、英語に至っては2週に一度、熱発で 欠席してますわ。) 本日(もう日が変わったけどね)水曜日は まったく平熱に戻り、フツーに学校へ。部活&委員長会議。これが 春休みの生活か?休みがない!!なんだったのか、あの熱は。。。来たるべくバイオリンの発表会に向けての知恵熱か。そんなこんなの 毎日。4月というのに 結構寒いのです、。日中は 結構ポカポカしていても 朝晩、冷えます。 いきなりですが・・・・ 何日か前、3月の29日のこと。 横浜時代の仲良しママ友、I さんからメールをもらいました。○○川の 桜の写真。Iさん一家は 去年都内に引越し、○○川が 近くなった・・ということで 写メしてきてくれたのでした。 わたしのハンドルネームは 『さくらひらり』というくらいですから 桜には 特別な思い入れがあります。Iさんが写メしてくれた○○川の桜。○○川は とうしゃんの会社の入っている高層ビルの すぐ下を流れている川です。この季節になると毎年とうしゃんが 「みんなに見せてやりたいよ。」と言っていた桜。。。残念ながら一緒に見ることはできませんでしたが わたしが初めてその桜並木を見たのは 一昨年の3月28日。小学校の卒業式に出席できなかった次女のために 小学校の先生方、父兄の方々、学年の皆さんが 心温まる卒業式をやってくれたあの日。式に出たその足で とうしゃんの勤めていた会社へ出向いた時です。その桜の美しさが忘れられず 一年後、、、 昨年の上京の折に またそこの桜を見たいな・・と。3月の29日だったかな。きれいだったなぁ。Iさんが そのことを覚えててくれて写メ送ってくれたのが とってもうれしくて この時期、東京の桜は満開なのね、と しばしあの時に想いを寄せるわたし。でもね、、、ちょっと焦ったのです。確か 開花予想では 当地は全国トップだったハズ。もしや バタバタしているうちに 当地の桜 終っちゃったのかな・・・って。 さすがにそんなことはありませんでした。東と西の逆転現象だってね。ちらほら 桜のニュースを当地でも聞くようになりましたが 我が住宅団地の公園の桜のつぼみは まだ固い。。。こういうことらしいです。平年の開花日は、3月23日=高知▽24日=熊本▽25日=長崎、宮崎▽26日=福岡、佐賀、鹿児島となっており、トップの高知に続く2位以降は九州各地がずらりと並ぶ。関東は東京と横浜が28日で、基本的に桜前線は南から北へと進むのがこれまでの常識だった。 開花が東と西で逆転した理由は、1年を通して温暖だからといって必ずしも早咲きになるとは限らない桜の特性にある。開花に不可欠なのは、冬の寒さとその後の気温上昇。桜の成長は秋になると止まり、冬季の一定期間、5度前後の気温にさらされると眠りから目覚める「休眠打破」という現象が起こる。春に向かう季節に気温が上昇するほど、開花が促される仕組みだ。しかし、この冬の西日本は寒さが必要な昨年11月から今年1月に気温が十分に下がらず、気温の上昇でつぼみが膨らむはずの2月の気温も平年より1度低かった。そのため、西日本の開花は遅めとなり、一方で気温の変動が比較的開花に支障をきたさなかった東日本から東北では早咲きが際立つ傾向となっている。特に盛岡では平年より9日も早く(4月14日)、予想通り開花すれば統計開始から5番目の早さとなる。 どぉりでね。もうちょっと 当地の桜便りは 『待った』というとこだなぁ。。 うちの チューリップ。季節はずれに一個20円で買った球根。買う時期も遅かったが 植え込みも遅く もはやもう咲くまいと・・・でも 頑張ってくれてます。ピンクと黄色で なんでこんなに 背の高さが違うんだろう。。?(゚_。)?(。_゚)?こちらも休眠打破・・といって欲しいもんだわ。
2008/04/02
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それは 一本の電話から始まりました。 な~んて 小説風の書き出しにしてみたかったりして。8月のはじめに 実家で受け取った 一本の電話。それは 母の従姉妹の Tおば からの電話でした。実家の母の実母(つまりわたしの祖母・Mさん としましょう)は ウチの母が7歳の時に幼い子供達を残し 他界しました。祖父は その後 後添えをもらったりしましたが Mさんの弟(=わたしは 『○○ん(地名です)じいちゃん』と呼んでいた)は 姪であるウチの母のことを不憫に思ったのでしょう、とてもかわいがってくれていた・・と聞いています。それは 母が結婚してからも続き、わたし達が生まれてからも 田舎の祖父の家に泊まるのと同じくらい この『○○んじいちゃん』 のところに泊まった記憶があります。この『○○んじいちゃん』の娘が 電話をくれたTおば になるわけですが 電話の趣旨は 次のようなことでした。親戚の人が古い写真の整理をしたところ 一枚の写真が見つかった、その写真には 若くして亡くなったMさん(祖母) 、そして母をかわいがってくれた『○○んじいちゃん』 はじめ 一族が写っている。。。たぶん明治時代の写真であろう その写真を 母に見せたいとのこと。Tおば は 一つ屋根の下で母と暮らしていた時期もあるようです。それゆえ 母のことを実の姉のように思ってくれているのです。 以上 長い説明で恐縮ですが そのTおば に写真を借りる旅・・ということで 向かうは 空港に近い県北の地。同行をお願いしたのは 毎度おなじみ 同級生K君のお姉さま。 迷いながらもたどり着いたTおばの家は 某町の旧家。Tおばは 30年前、この家に 後添えに入ったのでした。Tおばとは 、かれこれ25年ぶりくらいの再会になります。「こっちの座敷に あがりなさい。」という おじさん(Tおばのご主人)の声を横に Tおばは「こっちのほうが気が楽だから。」と 別棟の2階へ。母屋の新築の時に仮住まいとして建てたこの別棟は 今は 1階は倉庫として 2階はTおば の いけばな教室の部屋として、Tおば の癒しの間となっております。ここで Tおば は 写経などもします。冷房を入れなくても 吹く風も爽やかで なんともいえない優雅な空間です。 一時間半近く 昔話に花を咲かせ そして コピーする為に写真を預かり 玄関前で記念撮影をと。「おじさんも是非!」とお願いすると おじさん ステテコ姿から着替えに入り 、、、すると Tおばまで 着替えに入り、、写真を撮るまでに とっても時間がかかったのでした。50メートルボーリングした井戸からは 冷たい水が ふんだんに出ます。畑や庭の水やり用にと 家の四方八方に 管を引いています。Tおば78歳。おじさん85歳。笑顔が優しい とっても元気な似合いの夫婦です。 次の目的地、母の実家跡へ。Tおばの家から北上し そして 半島の中心部へ少し進むと 母の生家があります。母はこの神社の 宮司の長女として生まれました。母に見せたら これは 三の鳥居だとか。下の道路から 一の鳥居、二の鳥居。。。(写っていませんが) 子供の頃の記憶と言うのは、、、 自分がちっちゃいから周りが皆大きく見えるものですが、、、 オバサンになった今でも 充分大きく見えました。上のほうの駐車場に止めて下っていったのですが 直前まで雨が降っており 石段が 滑る滑る。恐くて 下のほうの一の鳥居の方まで降りることが出来ませんでした。目を閉じると 幼い頃の思い出が 甦ります。わたしの記憶では 一の鳥居と二の鳥居の間くらいの参道左側に 萱葺き屋根の祖父の家がありました。今は 倉庫を残すのみ。遠い夏の日にやった昆虫採集。あの頃はそんなことが出来ていたのですよ!跡継ぎは東京に出て行き そして亡くなり 母の末の弟もこの地にはいなくて 川崎に。もはや この地に帰ることはないでしょう。。。 祖父の家の庭や参道にあった椿の枝と ヤブラン を 母に お土産。撮影場所は 実家の通称『石庭』 色がイマイチわかりませぬなぁ。場所を変え 廊下で。ヤブランの紫、わかりづらいなぁ。。 山道を進みます。第三の目的地。昼食場所。あかねの里。食事をし 温泉へ。実はね、ここには思い出が・・・ 開業2日目に ログハウスに 家族で泊まったのです。かれこれ13~4年前の話です。当時第三セクターの経営で 鄙にもまれな 一品ずつ出てくる懐石料理の数々。お味は非常に良かったのですが 何せ 開業二日目目の為 お給仕のおばちゃんたちの手順の悪さで 『出』が遅い。おまけに 次女発熱というハプニングもありました。 しかし 次女は熱があるというのに 青い空の下 赤い顔をして飛び回って遊んでいました。今となっては あれもこれも良い思い出です。今は 『町』の経営となった ココ。お客も少なく、、、、 大丈夫でしょうかね? ひとつ 出会いがありましたよ!お食事どころに あの幻の焼酎 『兼八』が。フロントで しっかり 取引業者を聞き出す。買う気はないのよ、高いから。ただ、、、 製造元にもなく、 ネット上でも、、、 あるとしても 抱き合わせ販売のこの焼酎の存在する場所を 確認したかった。電話してみました。いつも在庫があるというわけではないが たまたまあるとのこと・・・・一本 (一升瓶ね) 8XXX円。(限りなく9000円に近い)ほぉぉぉぉおお! 最初から立ち寄ることに決めていた義弟推薦の酒屋には?ありました。兼八。さっきと同じもの。。。なぬっ? 11XXX円。言っておくけど 定価は 2100円よ。すごいね。 帰途に着いたとたん土砂降りで 地元に着く直前には晴れ上がるという 持ち前の強運で この日は終るのでした。 おまけの話は 明日また。(たぶん)
2007/09/04
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久しぶりに のんびりした休日です。 ・・・でもないか。朝から 公園の一斉清掃あったし、次女は部活に行ってる。 昨日のこととなりましたが いよいよ 吹奏楽コンクール 当日を迎えました。最後の体育館公開練習のためのギャラリーを召集したのが お昼前。でもその前に実家の母の元へ行き デイサービスへの送り出しなどがあった為、午前中は 相変わらずドタバタ。夕食作りに手をかけまいと 前夜からいろいろ仕込んで行ったんだけどね、こういうときに限って 親類のおばちゃんから電話がかかってきたりする。母は デイサービスに出かけた後だったから その旨 伝えても ウン十年ぶりの親類のおばちゃんの話は長い。子供のときによく遊びに行った先のおばちゃんだから むげに電話を切るわけにもいかず・・・・そのあと 母の主治医のところに 治療費の支払い・・とかね。『・・なんで 今日なんだよ。。』って 思いましたわ。。。そんなこんなで時間との戦いで過ごした午前でしたが いよいよ午後には コンクール会場に出発。会場への自家用車の乗り入れが禁止なので 当初はジャンボタクシーなどを手配する予定だったんだけどもね、以前のブログにも書いたように この日 市・中心部では 大きな祭り開催中。おまけに ミスチル全国ツアーの初日とあって マスコミ関係によってタクシーは ほぼ貸しき切られていた・・・ミスチルコンサート。長女は いそいそと 出かけていきましたよ。くそっ、わたしも行きたかった~~~!!気を取り直して。我が校は コンクール会場にも比較的近いので それぞれの車に部員を乗せて 会場へ。邪魔にならない位置で 部員を降ろし・・・・3年生部員は この日で最後とあって 緊張の面持ち。2年生部員は 来年もあるという余裕か いたってリラックス。画像の交換の話なんかしてる。1年生部員は・・・知らんなぁ。祈る思いで聞いた演奏。。。昨日まで 制限時間の一秒前で終わったり・・と 非常に心臓に悪い演奏だったのですよ。制限時間越えると 失格だしね。きっと本番は あせって速くなるだろうとは思っていたのですが 案の定 指揮がいつもより速いテンポで これまた 心臓に悪い。役員として ここまで部活にかかわってくると まるで自分が演奏しているかのような臨場感。 ~なんとか 大きなミスもなく 演奏無事終了。演奏終了後の写真撮影では みんな 笑顔笑顔。 燃焼したんだよねぇ。指揮した顧問も 満面の笑み。みんなの目が 演奏中に笑っていたのが よかったと。。そして 大きい期待の中 6時半近くに いよいよ審査発表。いくつかの金賞候補の学校が まさかの銀賞で 会場 大きなどよめきの中 わが校の番が 近づく。隣に座った、3年生の役員のお母さんKさんが 「色が悪かったら わたし、暴れるで!!」 と。 なんだかね、わたしも極度の緊張だったのでしょう、両腕が酸欠状態だったのか ジンジンしびれてたのよ。 なんでだろ?「○○市立 △△△中学校、 ゴールド 金賞!! 」 キャ~~~~~!!やりましたっ!!よかったぁ、 隣のKさんが暴れるのを しびれた手で 押さえ込まなくてすんだわ。。。 すべてが終了し、場所を移して 我が校父兄見守る中での 報告会。県代表の座は逃したものの なかなかの位置につけての 今回の『金』受賞。部長のEちゃん 泣きながらのスピーチ。いろいろ不協和音の聞かれる中 ほんとに部長として頑張ったと思うよ。いろんな話の後 「Eちゃんが部長だったから 頑張れたんだよ! 大好きだよ!!」と 部員たちが。それに答えて「わたしも みんなのことが大好きだよ!!」と Eちゃん。いい光景だったなぁ。指導に来てくださっていた 先生の携帯にも 電話。みんなの 大きな声が 賞を告げる。顧問も よく頑張ってくれました。指揮した顧問、ビリーもやってたけど その後 指揮で4キロ痩せたとか。この前、先生に言ってあげたわ。『○○先生! ビリーより 吹奏楽ダイエットのほうが 効果あるんじゃないんですか!』 と。我ながら 失礼なやつです。もう一人の顧問の先生(わたしの家庭菜園、心の師匠)は すべての練習をビデオに撮ったり カラー刷りの部活便りをこまめに出してくれたり、なんといっても 部員のお父さん役をしてくれました。部員の悩み相談から うるさい親たちの窓口にもなってくれてね。そして コンクールメンバー以外の一年生。卒業生からの差し入れのキャンデイを コンクールメンバーの一人一人に メッセージ入りで袋分け。みんなで心をひとつにして作り上げたものって 音楽だけじゃないよね。自宅に帰って 仏壇のとうしゃんに報告。実は バッグに写真を忍ばせて行きました。しかし、、、、、、、、とうしゃんが亡くなったのは 次女の小学校卒業式の前の日だったからね、とうしゃんは 次女の中学の制服姿も見てないし ましては 吹奏楽部に入って○○○○○○(あえて伏せます。以前から読んで頂いている方は お分かりかと思いますが)吹いてるとは 夢にも思ってないだろうね。「おとうさん、びっくりやろうね。」と 笑いました。そういえばね、会場でちょっとおかしいことがあったのよ。授賞式には なるべく父兄は同じ場所に集まって喜びを分かち合おうと とてもいい場所を とったのよ。でも 露骨な場所取りはブーイングだから さりげなくね。会場のほかの場所にいる父兄を見つけると 「おいでおいで!!」と 手招きして周囲を固めていく。オバサンパワー満開よ。が そのオバサン集団の一角に ひとつだけポツンと 席が空いていたわけ。よもやその状況で 誰もそこには座るまいと思いつつ 「ここ、ここ!」と サインを他に送っていたその瞬間、坊主頭のにいちゃんが チョンと そこに座った。「えっ!!だ、だれ!!」と みんな目を見合わせる中、結果発表が始まったわけだけどね。我が校の金賞発表で わたしたちが騒ぐ中 そのにいちゃん、耳、ふさいでるんだよ。そして 何校かの結果発表のあと そのにいちゃん関係の学校も 金賞だったらしく ひとり大きくガッツポーズ。わたしたち ・・・・・・ 後に 声なき大爆笑。ま、めでたい、めでたい。いったん自宅に帰り 次女は着替えて 隣市まで ちょい豪華なディナーを 二人で食べに行きました。何度か(わたしは)行ってる 野菜ソムリエのいるレストランなんだけどね、時間も時間だったから 最後は二人の貸切だったわ。オードブルの酸味のきいた冷製トマトにかかっている クリームソースのお味が絶妙で なんだろなんだろ・・と 二人で言っていたんだけどね・・・・・・わからない。後で聞いたら ニラのムースだって。にゃ~るほど!!ちょうど食事中 9時の時報が鳴って 時計から音楽が流れ始めたんだけれど それが 自分たちの演奏した曲の一部分でね、二人で大ウケ。長女が ミスチルのコンサートから戻ってきたのは 夜の11時半を回ってからでしたよ。シャトルバスに なかなか乗れなかったらしく。。。こちらも大興奮。あぁ、これで 一息ついたよ。あ、でもね あと何日かしたら 某県に 長女が コンクールを受けに行く。。。ピアノのね。。。武者修行ですわ。玉砕必至。コンクールにはじまり コンクールに終る この夏か?今から 親の反省会(別名 プチ打ち上げ)に行ってきますわ。今電話がかかってきて 決まったのよ。 じゃ!
2007/08/05
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夏だから仕方ないのですが 毎日暑いですねぇ。なんだか食欲もねぇ・・と思いながら 昨日 近所のスーパーに行ったら カツオ一匹580円!50センチくらいある でかいやつ。2匹あったので 「両方ください!」と。 ・・・またやってる、おじさん買い。一匹は 自分ち用。一匹は 実家用。早速 実家に電話をしたら 今日は魚扱いの苦手な家政婦のおばちゃんだった。。。「今、てんぷら揚げてるんよ。」と。。あらら。。。 次女は 久しぶりの午後から部活練習オフで 図書館に行って勉強してる。それを拾い 実家へ。義兄のところを覗くと 夕方5時前だというのに もうご飯を食べてる。聞けば 「朝から根(こん)をつめていろいろやってたから 朝も昼も何も食べてない、でもさすがにお腹がすいたから食べよる・・」とのこと。義兄が 仕事が休みのこの日、何をやっていたか・・ということについては また いつか書くわね。結局 ここでもカツオをさばくハメに。刺身にして義兄に持っていくと おいしいおいしい・・と。半身で 刺身、りゅうきゅう(しょうゆ、みりん、ねぎ)が 完成。もう半身は 骨を抜いて小さめに切って冷凍しました。今度わたしが母のところのご飯を作りに行く火曜日に 生姜を入れて 甘辛く煮ましょう。おばちゃんが コレでもか・・ってくらいの量 揚げていた天ぷらを ちゃっかり夕食用にいただき 帰宅しました。 しかしね、うち、3人の家政婦のおばちゃんたち、ローテーションで動いてるんだけれど・・・・・・それぞれとってもいい人なのよ。でも 3人の中では いろいろあるのよ。。。月曜に来るおばちゃんが この前、「わたしが今度来るとき、天ぷらしょう!」と言ってたんだけどね、、、知~らない。 今日は 夕方 車検に出していたさくら車を受け取りに行くことになっています。車の名義変更の件もあったからディーラーに頼んだんだけどさ、、、ちょっとおもしろかったのですよ。電話帳でディーラーを探して電話した時に対応してくれた人、その店の店長さんだったらしいんだけれど 面白いことに もう一店 店長を兼任しているらしく その店が 実家と目と鼻の先で・・・・その店は とうしゃんとも何度か行ったことのある店だった・・・実は だからこそ、その店は最初避けた・・というところもあったんだけどね、妙なところでつながってて 結局 この店に出すことになってしまったのよ。 名義変更も ホントは 自分でしようと思い続けて一年。車は相続の対象になるから 案外めんどくさい手続きもあるし、なんといっても転居したから 車庫証明取り直しやら何やらで足踏みしてるうちに 結局車検の時期になってしまい、エィヤ!と 結局 丸投げしてしまいました。 そこに ちょっと しょうもない問題も絡んできてね。横浜のときと同じナンバー取得。数字のとこね。 次女の部活の関係で さくら車は 部員輸送にかりだされているんだけれど 実は 先週一回 ホール練習があったのですよ、コンクールと同じ会場のホールを使って。5時間近くの練習時間の間 楽屋口に駐車できる許可車両として あらかじめ10台ほどナンバーを申請しているんだけれど・・・・途中で車検入るけど ホールへのナンバー変更申請したらいいかな・・なんて思ってたんだけれどね ・・・守衛のおじさん、一回行ってみてわかったんだけれど 頭は 石でできているのか・・っていうくらい 硬いお人だったのですよ。規律を異常に重んじる・・というか。まちがったことしたら ピピッって 笛 吹かれそうよ。この前も 登録した車が一台来てない・・と 申請用紙の登録番号と照らし合わせながら・・・ちょっとガミガミ。ま、ああいう大きいところでは そうしないと やってけないところがあるんだろうけどね。だから先週のホール練習の合間に 来年の会場取りの用事で 事務所の場所を聞いたときに、「廊下中心に書かれている白線に沿ってお進みください。」って言われたんだけど、、、白線の上からハミ出さないように歩いちゃったわよ。 ・・というわけで 今週の第二回ホール練習を前に 希望ナンバーを取得したい(横浜のときと同じ)・・ということで 余計な出費が増えると言うこと。。・・・・・なんなんだろうな。。。 土曜日の朝、母をデイサービスに送り出し、夕食の用意やら掃除やら何やら済まし、車をディーラーに持って行きました。先々週提出した各書類も 相続・・ということで ココは実印、ココは認印・・と 結構ややっこしく、陸運事務所に持っていって二度手間にならないように いくつかのパターンの書類を作り・・・自分でやらないでよかった・・と つくづく思ったのでした。代車の中でね、わたしが運転席に座り、担当の店長Aさんが助手席に座り 一通りの説明を受けた後 Aさんがしみじみ言うのよ。「さくらさん、いろいろたいへんでしょ。」と。とうしゃんが亡くなったときの子供の年齢とか わたしに 問いかけながら・・・ね。うちは ご近所に同じような人がいるから そのテの質問を もろに浴びせてくる人はいなかったけれど 不意打ちで ちょっとたじろいでしまいました。Aさん;「うちには 大学生が二人いましてね・・・あ、わたし さくらさんと同じトシなんですよ。。(おぉ!)自分に万が一のことがあったら・・て 自分に置き換えて考えたら さくらさんのところ たいへんだろうなって思って。」・・・だって。・・・あぁ、経済的なことをいってるんだろうな・・とは思ったけれど あまりにもAさんが善良そうな人で 自分に置き換えて暗くなってるから さくら;「いやぁ、遺族年金もあるからね。これは 子供が高校卒業するまでは 生活できるぐらいの額は いただけるんですよ。だって 主人が厚生年金で 今まで がっぽり取られてたんですから。」と 明るく。・・・そう振舞うしか ないじゃん。Aさん;「遺族年金とかあるんですか!?」と 少し明るく。・・・・そうだよね。こういう立場になるまでは わたしも知らなかったよ。さくら;「ただ、一番お金のかかる大学生になると なくなるんだよね。・・・・・でも 学資保険とか入ってません?ウチも 子供が生まれたばかりのときに知り合いの人に勧められて わけわからず高い掛け金払ってきたけど 今こういうふうになって それがこういう形で役立つとは思いませんでしたよ。それにね わたしたちの年齢って もう結構いいトシだから・・・Aさん それなりの貯え、あるんじゃないですか?」と。なんでこんなところで おっさんを慰めてる?とか思いながらもね、、、、Aさん、ほんといい人なんだろうね、しみじみしちゃってる。 昔 安達祐実主演で 『家なき子』って あったじゃない?あの決めせりふ、覚えてる?『同情するなら 金をくれ!』 ・・・ って。こころのなかで思ったね。『同情するなら まけてくれ!!』って。 リアルすぎるかい?我ながら なんてやつだ!って 思ったけどね。わたしにしては珍しく 今回、値引き交渉はしてないのよ。 そしたらね 心の声が届いたのか Aさん;「それでですね。名義変更の実費はいただきますけど 本来いただく手数料に関しては 車検を一緒にお申し込みされたということで サービスさせていただきますよ。」 さくら、心の声; (「ぃよっ!もうひと声!」)Aさん;「それでですね。オイル交換、サービスいたしますよ。」 と。 Good job! ディーラーで車検してもらうときの交渉とか 今までは みんなとうしゃんの役目だったから これが すごく得したことかイマイチわからないけどね。とにかく 『サービス』という言葉には わたし 弱くて・・・・でも うれしいね。
2007/07/30
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久しぶりの ゆったりした一日。天気も悪いわねぇ。梅雨入りしたんだってね。わたし もっと前に梅雨入りしたのかと思ってたわ。ありゃ、沖縄か?梅雨入りしたのに ピッカラカ~ンだ!って いつか吠えた気がする。体内時計狂いっぱなしだわ。忘れてくださいね。 今週初めから ボチボチ運動もしているわたし。冗談抜きで あばら骨の痛みは 一ヶ月かかりましたね。咳の出初めからみると 一ヵ月半以上だわ。そろそろ、ジムも本格復帰を!と 今日は午後から二つもレッスンに参加してきました。一つはエアロフットセラピー。そしてもひとつは ピラティス。先週金曜日の同じ時間に ジムに行った時、エアロフィットセラピーたるものを ガラス越しに ジ~ッと見てたんですよ。今考えると かなり怪しい。『これをやると また痛みが走るかなぁ』・・と思いつつ、自転車こぎとかして フラフラ帰ろうとしたら レッスン終わった先生が、「いかがですか~?」って。「いやぁ、初めてこの時間に来たから、何だろうと思って見てたんですよ。ちょっと肋骨痛めて運動できなかったものですから。わたしにはまだ無理かな?」・・・ってな具合にね。そしたら 「体をほぐしていくヤツですから 是非どうぞ!」とのことでね、本日参加してみたわけ。 参加するまで 『エアロフィットセラピー』かと思っていた、 目まで悪いわたし。『エアロフットセラピー』ね。各関節のほぐしに30分。結構汗もかきました。そしてマットを出し 座り込んで 足のツボ押しよ。ココは婦人系、泌尿器系、前立腺ね とか、ココは神経・ストレス系とか、あと 胃腸系も 食べ過ぎの時のときのツボと 食欲不振の時のツボがあったわね。食欲不振?ま、これは わたしにゃ、関係ないさね。 ひととおり 指のツボ押しが終わったら先生が 「じゃ、行きますか!」・・って。みなさん、 「ほ~!」 って。嫌な予感。。。 『指ヌキ』の時間でした。 手の人差し指と中指で 一本ずつ足の指を挟んで 「えぃっ!」て軽く引っ張る。 ピキッ!と 小気味いい音のする人。何にも音のしないわたし。音のしない人がほとんどなんだけれど、先生が順番に回っていくのよ。隣のおやっさん、先生から 『ピキッ!』てやられた瞬間、「いてっ!!」・・・・・・まじっすか?。。。そして わたしの番。「ピキッ!」瞬間のことですが そこそこ いとうございました、はい。 次に受けたピラティスの担当は このジムでも超人気のA先生です。プールでのプログラムには何度か出たことがあるのだけれど、抜群の話術と とっても気さくなところが人気の秘密。何ヶ月か前、マットの上で わたし 一人で柔軟運動やってたのですよ。腰痛があった時で ちょっとかばいながらやってたら この先生がやってきて 腰痛体操とか タオルを使った胸式呼吸のコツ・・とかを じきじき伝授され。。。30分以上よ。オバチャンたちも いっぱい集まってくるし、「先生 特別レッスン代、一人ずつ取っていこうか。」な~んてね。そしてそして この先生、ナイスバディ。豊満ちゃうのよ。無駄のない体・・というの?憧れね。今日は 腹筋を意識したプログラムばかりでね、なかなか奥が深かったわ。ピラティスは胸式呼吸で、いつも受けてたヨガとはちょっと勝手が違う。肋骨大丈夫かな・・と思いながらも 何とかやり終えました。 今日のこの二つのレッスンを受けてね、呼吸の大切さを実感。痛みのあったときは 息も止めたものね。おおらかな呼吸というのは 痛みがあったらできないのよ。咳はもちろん、息して激痛なんて、そうあることじゃない。今回の肋骨ヒビ騒ぎで、フツーに呼吸できるっていうことが どんなに素晴らしいことかを 身を持って体験しました。 そういえばね、、、、、姉が こんなことを言ったことがある。 あれは ホスピスに入院してから しばらくたった頃。もう最期が近かった ある夜。わたしは 泊まりこんでいた。 目を閉じた姉の様子を時々うかがいながら、もう寝たかな・・と 何度も 姉の顔を見ていたわたし。 この頃、姉は足にもむくみが出ていて、、、だるいんだろうね、足をさすってあげたり膝の屈伸をしてあげたら 「気持ちいい~」って すごく喜んでくれた。目は閉じていても うつらうつらしてしているんだろうね、、、、そして 突然 目を開けたりしてね。。。。。そして ポツリ、か細い声で こう言ったんだよ。 「ひらりちゃん、人間は なぜ 息をするんかなぁ。。。。」 ・・・・・・・・・ 「あ、そうか、、、生きているから 息を するんやね。。。。」そんなふうに 言ったんだよ。深いね。。。魂の叫びだよね。そして、、、苦しかったんだろうね。 。。 なんだか 思い出してしまった。。。
2007/06/15
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昨日の気まぐれなお天気とは うってかわって 本日 雲ひとつない晴天です。弁当を持って 次女は いそいそと 出かけていきました。絶対来るな・・と言われたからね。家の片付けなんぞをしておりました。外は 相当な暑さです。でも 和室は 木漏れ日が気持ちよいのよ。(色がきれいに 出ないけど)お化けケヤキのお陰で 吹く風も爽やかよ。あ、ウチの和室は 二階にあります。この涼しげな和室で・・・・アイロンかけ、してました。 (;´▽`A`` あっちぃねぇそしたら ちょうど昼ごろよ。 ん?次女よ。「お母さん、見にきていいから 冷たいお茶 いっぱ~い 持ってきて!」だとよ。フン、わたしは おまえの お水係じゃねぇよ。・・って 思ったけどね、 やさしいさくらさんは(?) 車をびゅ~んと走らせ、学校に行きました。あら、車、置けるじゃない・・と 置いたんだけど すぐ先生が ダメだって。お茶だけ渡して帰宅しました。うぅむ。自転車で行くか。それは やっぱり骨に響くよね・・・で 結局 歩いていくことに。たぶん 1キロくらいなんだけどね 山越えしなきゃいけない。(おおげさな)炎天下だからね。最初 あの怪しい帽子をかぶってたけれど(もちろんマスクなし) 頭がガンガンしてきたので 日傘にかえました。カキ氷屋さんも 出てたわ。もうかっただろう。おじちゃん、11時まで200円で売って それからあと、300円にしたって。他の中学校や小学校に行ってる仲間と 連絡取り合って。ま、すっごいおじいちゃんだったから 許してあげるか。でも すんごく まずかった。せっかく見ようと思った『渡る背中・・』その他、だったのだけどね、ちょっと部活関係のおかあさんから「さくらさん、ちょっと。。。耳に入れておきたいことがあるんだけれど・・・」ということで 見れなかったわ。次女の学年じゃないけど 他の学年で ちょっとトラブルがあるようだわね。次女が わたしに 体育大会を見せたくなかった理由は ま、いろいろ出番が多かったことと あと リレーと 100メートル走を 見られたくなかったからのようだわね。走るのは 遅い方じゃないんだけれど・・・100メートル走で 学年一速い子と 当たってたみたいで・・あと 運動部の子ずらっと・・とね。エェカッコしぃの次女としては ぶざまな姿を見せたくなかったというわけ。結果、マァマァの順位でつけて みんなからも 速い速い!と言われたらしいから 一応 面目躍如かな。わたしは 体育大会が終わると同時に 家へ帰ってシャワー。さっぱりしたところで 今日の朝 片付け途中になっていた 和室へまた直行。従姉が来た時 あれほどすっきりした和室も 書類と アイロンがけの衣類・・でちょっと ごちゃついてきています。そして 片付け途中で見つけた 姉からの絵手紙。。。そう、姉の お別れ会の時に 斎場に飾ったアレ・・ね。従姉と いろんなグッズで見栄え良くしたアレ、義兄から 「そんなことは聞いてない・・」と言われたアレ・・(笑)その絵手紙が どさっと 出てきたわけ。ブティックの大きい袋に まとめて 入れていたの。しまいこむ前に ちょっと みなさんに 見ていただくかな。ほんの 一部です。わたし達の帰省を心待ちにしてくれていた姉は 実にたくさんの絵手紙を 送ってくれました。これは 帰省したわたしたちが 横浜に戻った後かな?はがきもたくさんです。運動会シーズンなのでしょう。あと いろいろね。次の3枚は 入院中のものです。病室に ハガキや色鉛筆・水彩を持ち込み、暇さえあれば 書いていたようです。悲しいかな、ホスピスに転院してからは 「元気になったら 書きたい・・」と 枕元に セットを置きつつ、 ついに それはそこで開かれることはありませんでした。。ハガキ 上より; 早く目が覚めるので 明かりを求めて移動する・・と 書いてあります。そんな中、ロビーに 明るいところを見つけたのでしょう。退院患者のお礼のお花や なんともいえない手作りの小鳥達が置いてある・・と言っております。このころ 治療の副作用か・・・・ 線が たよりないです。。ハガキ 下 左;動ける時、気分のいい時は ばあちゃん(母)に電話してね。・・と わたしはテレホンカードを 何枚かプレゼントしました。それを使って 横浜にも たくさん電話をかけてきてくれました。受話器をとると 決まって こう言います。「ひらりちゃん。・・・〇子です。今いいかなぁ?・・・時間、かからんけんな。すぐ終わるけん。。。。」・・・・・そう言いながら 話が 尽きないのです。あぁ、今にも かかってきそうだよ。この公衆電話のハガキには 抗がん剤治療のあとの検査結果の報告。副作用なく、いつも笑っている・・と 結ばれています。ハガキ 下 右;お見舞いでいただいたプリンでしょう。食欲のなくなった時にいただいて ちょっと元気が出てきたのかな?「やっぱ食事やなぁ。ご飯を食べんと 元気にならんわ。」 と 。ウチの娘達に 頑張れ! 〇ちゃん(自分)頑張る。・・と。そういって 自分に喝を入れていたのでしょうね。。。。 思い出話に おつきあいいただいてありがとうございます。姉の絵、やさしいでしょ。妹のわたしが言うのも なんだけど・・・・・自慢の姉でした。姉の供養になれば・・と 書かせてもらいました。
2007/05/26
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お天気が続きます。暑いです。外にいる時に汗かくのはわかるのですが 家の中で結構じっとしてるのに 汗かいて・・・なんか変な感じ。 ちょっと思い出したことがあるので 心の軌跡・・ということで 書いてみるかな。 何日か前だったけれど ちょっとウトウトした時に 突然 とうしゃん出現。『手』の出演。。。いや、『腕』か。いろいろな事件が 巷で起きているから?いや、それよりも前のことだよ、確か。 もちろん腕だけが フラフラ出てきたんじゃなくて(それじゃ、ホラーだ) ちゃんと顔もついてきたから とうしゃんて わかったんだろうけど、妙に『手』が 強調された 夢だった。。。 長い指、手首辺りがちょっと毛深くて、がっちりした腕。まちがいないんだよな。 思わず触ってみたら やわらかさも 毛深さも まさしく 『とうしゃんの手』なんだ。。。 「なんだ 生きてるんじゃないの!!」って言ったところで 目が覚めた。 ・・・・・・・・・ なんか切なかったなぁ。 なんで 『手』なんだ?わたしに 何か 手を貸してやろう・・・って 思ったのかな? あぁ、こんなこと書いてたら スコーンと 涙のツボに はまっちゃった。。。 自分の見た夢なんて こういうとこに 書きたくはないんだけどね・・・・・体調イマイチだと どうもいけない。。。 あぁ それとも、、、、 うたた寝の長女を起こそうとした時、「今、 おとうさんが 『ただいま』って 帰ってきたところだったのにぃ。。」と 言われたせいかな。。。なんだかふと 夢のこと、思い出しちゃったな。 さて、、、洗濯物、干そう!
2007/05/24
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陶器市に行った3日はだったお天気も 4日からは毎日。そんななか迎えた5日は 全国的に こどもの日。\(*^▽^*)/ そして 我が家的には 結婚記念日。(゚‐゚*) だからっていうわけでも あるよなないよな・・ですが 記念植樹でもするかな!と こんな木を 買っていました。さくらんぼの 木。これどうよ。はは、これは ウチで 採れたんじゃない。ご近所からのいただきもの。おいしかったのよ。一本580円の木で とらぬ狸・・を決め込む女。 悲しいお知らせ;いつか 家庭菜園に植えた 一鉢90円の『高級ネットメロン苗』・・・・・・・・・土に 還りました。。。枯れた。セレブなメロンは ウチの土は 合わんのか。。。。代わりに 庶民の『プリンスメロン』を植えました。あれ?『タイガーメロン』も植えてなかったっけか?あくまで メロン収穫に命をかける(そこまでないが)女。ま、お遊びですから。ちゃんと 茄子とか里芋とかも植えたのよ。話がそれましたが 『さくらんぼの木』を植える場所!よ。気をつけないと こんなことになるからね。倉庫を倒す勢いの花柚子。 買ったときには 50センチくらいだったんだけどね。10年間、横浜に行ってる間に野放図に伸びた このなんともいえない枝ぶり。いっぱい実は成るけどね。それに、なんといっても アレ よ。うちのシンボルツリー。(住宅メーカーが勝手に植えたんだけどね。)おばけケヤキ。家をも倒す勢い。夏は 涼しいんだけどね。秋には これみ~んな落ち葉だものね。ちょっと考えねば。。。ここまで 大きくはならないだろうけど 『さくらんぼの木』は よ~く注意して 菜園側の 出窓の下に植えました。の中。わたしが 雨の中植える理由?答えは簡単です。・・・・・・水遣りしなくていいから。ついでに 前日 義母のとこから貰ってきた 『すずらん』も 植えました。ウチ、すずらん、結構あるのよ。今度お写真公開しますね。いっぱいあるんだけれど 義母が 「持って帰れ、持って帰れ。」言うからね。とうしゃんの実家の庭のすずらん、お見せしたいわ。見事よ。ま、こんな一連の作業を ゲホゲホ咳き込みながら 雨の中 やりました。そう、咳が なかなかね。とれませんのよ。お年頃だから。いや、今の風邪は こんならしいよ。長引くって。 そして 時間は流れ 夕食。いつもだったら 記念日は 『パエリア』 なんだけどね。この前テレビで見た 『こいのぼり寿司』にしましたよ。うろおぼえのまま・・・色がイマイチだけどね。ほら、マックスちゃん ご要望どおり、食べ物です!使用食材;卵・いくら・紅鮭・まぐろ・海ぶどう・海の幸サラダ・きゅうり・三つ葉・ブラックオリーブ・・・・・新しく出来たスーパーに行ったら やたら珍しいものが売ってて 買いすぎました。ま、いいっか。こどもの日だし、結婚記念日だから。以上、昨日5月5日の一日。
2007/05/06
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管理ページをぼんやり眺めていて 気付いたこと。 ブログ開設 一周年だぁ!! 眠れぬ夜のネット放浪で知ったブログの世界。日記も家計簿も それまでは三日坊主がいいとこのわたしが なんとなくブログを始めたきっかけ・・・・ それは 前にも書いたけど、、、遺されたわたしたちの日々の姿を とうしゃんや 当時遠く離れていた姉に発信する目的がありました。悲しいこともあったけれど だからこそ 人の温かさもたくさん感じるようなできごとも次々起こり、少しずつメモはしていたけれど、自分の記憶力も自信なくなってきたしね。。メモをたよりに 過去を振りかえる形ではじめたブログ。心の隙間を埋めるように 何かにとり憑かれるようにしばらくは日記記入率100パーセントが続きました。 それが今では 56.7パーセント。 ま、いろいろあるわね。 あの時あのタイミングで始めなければ きっとブログの世界にも入らなかった。そして 今となっては 忘れてしまって書けないようなこともいっぱいだな。大波小波 波に揺られながら 自分のブログの方向性がわからなくなることもしょっちゅうですが、おつきあいいただいている皆さんには感謝です。 愚痴を言ったり、楽しかったことの報告をしたり・・・・たぶん、とうしゃんがいたら こういうことは 茶の間での会話になっていたのかな。ツッコミいれたりしてね。 そう、お茶の間感覚。茶飲み友達として どうぞ今後ともよろしくお願いいたします。
2007/04/03
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一年前のこの日は、とうしゃんとの最後のお別れの日でした。17日に息を引き取ってから 21日の告別式まで いったい何をしていたのか・・記憶がとぎれとぎれです。4月に入ってからはじめたブログは メモを頼りに過去を振り返りながら書き進めました。その記録だけが頼りの 何日間かです。一周忌に寄せて いろんな方から お供物をいただいたり お参りをいただいたり、ブログの皆さんにも温かいメッセージをいただいたり・・・本当に感謝です。その中で とうしゃんの 旧い二人の友人Oさん、Aさんから相次いでいただいたメールを 少し紹介しながら 思い出を語り とうしゃんの供養にしたいと思います。あまり詳しく書くと すぐに個人が限定されてしまうような内容なので たぶん直ちに 次の日記をかぶせてしまうと思います。ひとりごとです。読み流してください。ただ 今のこの気持を どこかに残しておきたいと思ったので。とうしゃんは 大学卒業後、ある会社の研究開発機関に籍を置きました。今は誰でも一台や二台持っている通信手段の 〇〇の前身となる部門です。メールをいただいたOさん、Aさんは 入社年度こそちがうものの同年齢で 同僚だった方達です。その会社時代の勤務は多忙を極め、 帰宅は午前零時をまわってから。シンデレラボーイと よくふざけて言っておりました。夕食を真夜中にとるような生活だったので それじゃぁ体を壊すよ・・と 夕飯をとりに一度帰宅してもらい また再度出勤・・・途中から そういう体制に変えたりもしました。。ハードな毎日だったけれど 自分の好きな道・・ということで頑張れた部分もあったのでしょう。しかし、結婚して何年目のことでしょうか、一年目くらいかな、所内で移動があり 違う研究室に配属となりました。新しい配属先のほうが 当時花形になりつつある部門であった為 周りからは羨ましがられたようですが 本人としては 不本意だったのでしょう。研究開発をする人間の行く末・・・・若い人間の頭脳が必要な場所だ、いつまでも 古い人間が残っている場所ではない・・という思いが膨らんでいったようです。実際 当時の上司達の中には 外部の企業へ早いうちに転身した人も多く、大学の先生になるとか 子会社のどこかへ配属・・そんなふうなパターンが多く・・・ とうしゃんとしてのその時の未来設計図は その会社にとどまることではなかったようです。そしてその時 本人が出した結論。 『会社を辞めて 医大を受けるから・・』えぇっ、そんなぁ。。。。 そんなこと 急に言わないでよぅ。。。見た目、破綻のない人生を歩みそうな人に思えたのですが 実際いろいろ話してみると J〇Lの航空機関士の試験を受けた時の面接風景の話をおもしろおかしく話してくれたり・・・結婚してから初めて聞く話も たくさんあり、、、聞く分にはおもしろいのですが 伴侶としては ドキドキものです。その意を決したときに買った問題集が この前の引っ越しの時に見つかったのは ちょっと切なかったのですが、その後、どういう成り行きだったか 老けた(!)医大生になる夢は断念し、配属先の新しい研究室で勉強させてもらったIC関連の方面で 外資系の会社から転職のお話をいただき 最初の職場を去ることになりました。そして何年かそこで働いた後、今度はまた 彼の専門である通信畑の会社へ転職をし、そこで 最期を迎えました。。。 転職なんてもってのほか・・と考える親の世代からしてみれば 将来安泰が保証された会社を捨てて なぜ自分から あえて未知の世界に飛び込むか・・ということで いろいろと言ってきたようです。転職先の新しい職場のことが たびたび新聞紙上でとりあげられ たとえそれがどんなにいい話であったとしても 心配は尽きないようでした。親というのはそういうものなのでしょう。しかし、同僚からしてみれば 将来に対する不安はとうしゃんと同じで、 とうしゃんの思い切った転職は 『あっぱれ』モノだったようで、のちに大学で教鞭をとるようになったOさんも 「羨ましくてしょうがなかった・・」と ウチにお線香をあげに来てくれた時に そう言っておられました。でも 結果からすれば 『生き急いだ』ということか・・・ そう言って涙ぐんでくれたOさんの姿を いただいたメールのやさしい文面に重ねながら 涙・・・でした。あともう一人、メールをくださったAさん。Aさんとは もっといろんなお話をして 関東を離れたかった・・・・彼ととうしゃんは モノの価値観、趣味、そして トシを重ねていくにつれての体型(!)までよく似ていて、なぜか、お互い『ワンちゃん』と呼び合う。あれはいったいなんだったんだろうか?(笑)まだわたしたちに子供のいなかった新婚の頃、そのAさんワンちゃんの家に 二人してお邪魔して手巻き寿司を食べたり・・わたしがワンちゃんと会ったのは その手巻き寿司の時と とうしゃんの告別式の時だけ・・・でも 接近遭遇はしているのよね。。。こちらが家族で外出して 戻ってみると 玄関の『ドアノブ』に なにやら袋が・・・ 開けてみると、中華街で買ったと見られる紹興酒やピータンなどなど。バイクのツーリングの途中で フラッと立ち寄ったとか。なぜ、連絡してこない?(笑)またまたある時のこと。とうしゃんが突然、「ワンちゃんのトコに行こうか」と 秘蔵の酒を 袋に詰め始めた。 ワンちゃんことAさんの自宅は 神奈川でも海沿いの市。わたしたちが 新婚時代を過ごした町です。わたしたちの住んでいた山の横浜とは 距離を考えると ちょっと身構えなければ 行けるものではありません。ワンちゃん、家にいるの?という問いかけに 「きっといるさ。そんなに行くとこないよ。ワンちゃんは。」と。(笑)・・・・・・フ~ン。じゃぁ 行こうじゃないの・・と 高速に乗り 車を走らせる。引っ越したワンちゃんの家を探し当てたものの、留守。とうしゃんが「ワンちゃん、今どこにいるの?」と 携帯に電話。ワンちゃん;「今、長野。親戚の結婚式の披露宴の真っ最中!」飲んだくれたワンちゃんの 高揚した声が 携帯越しに 何メートルも離れたわたしまで聞こえる。。 まったく、あんたたちね!!・・という感じです。。。そんなこんなで 分かり合えているのか 分かり合えていないか なんとも判断しがたい二人でしたが 心のうちでは 分かり合えていたのでしょうね。気のおけない間柄というか。。。仕事にかこつけては 時折食事をしたり いっぱい飲んだりしていたようでした。そして とうしゃんが亡くなる半年くらい前にも 会って食事をしているのです。先日いただいたメールは その時のことに触れ こういう風に綴られていました。・・・・・・前略・・・・・・・・・・一緒にいるとくつろげる仲でした。でもそれなのに何も言っていませんでした。何で何も言わないで逝っちゃたんだ、と今でも思います。どうやって受け容れたんだ、とも思います。言ってもしょうがない、私が困るだけだから言わないでおこう、と考えたのかもしれません。同期だった〇〇さんとはその後もワンちゃんのことで話しています。お互い、同じ年の友達を失って自分の行き方、残りを本気で考えなければと思うようになったのかもしれません。ワンチャン、ありがとう。そして安らかに。このほか 「前から言っていた野宿ツーリングに行こう。」と具体的な話までしていたようです。この前後に とうしゃんは 確か新しいバイクに買い換えたんだった。悲しいことに 買い換えただけで ほとんど乗ることはなかったけどね。。。そして このメールは、わたしに対するいたわりの言葉で結ばれていました。そう言われてみると・・・・・・ワンちゃんことAさんと とうしゃんが会って食事した日のことを 今でもよく覚えています。帰ってくるなりとうしゃんが 「自分のこと、言おうかな・・と思ったけど やめちゃったよ。心配かけるだけだしな。それにあいつ、きっとどこか体の調子悪いよ。老けちゃってたし。僕達くらいの年になると 体に一つや二つは何か爆弾抱えてるものだよ。ボクなんて 見ようによっちゃぁ、癌には見えないでしょ。」・・・・・確かに、そのようには見えない・・・・・だったけどね。。。昨夜遅くに Oさん、Aさんへの返信メールの文章を考えながら いろんなことを 思い出してしまいました。。。Aさんワンちゃんに まさか、「あの時は Aさんが老けちゃってて体の具合が悪そうだったから・・」とは言えず(笑)、「あの時は 余計な心配かけないように 言わなかったようです。」と。。。そして とうしゃんが新しく購入したツーリングバイクを 弟に送るべく、業者に問い合わせていたあの時が とうしゃんの自分の命への覚悟の瞬間だったと思う・・・と。。。どこか達観していたようなところがあり、主治医からも 担当の看護師さんからも こんな患者さんには出会ったことがない・・と言われたとうしゃん。家族に対しても 病気に対する弱音は そう吐かなかったように思います。この人のどこに こんな強さがあったのでしょう。一周忌を過ぎた今、改めて思います。なんだかとりとめのない話になってしまいましたが 今日、この日の思いを 記しておきたくて 書いてみました。。。
2007/03/21
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すみません。前のブログのレスを書く前に 先に 書かせてもらいます。今日、この日の想いを 綴っておきたいと思うので。またまたここ何日か、バタバタです。昨日16日は 長女の高校事前説明会がありました。帰宅後、すぐに次女を小児科へ。実は前夜より熱がどんどん上がり 腹痛も訴え、金曜日のこの日、学校を休んでいましたが 次の日の土曜日は法事。たぶん病院に連れて行く余裕はないだろうと この日、向かった病院でしたが、インフルエンザB型に限りなく近い・・という ありがたくない判定をいただき 帰ってきました。A型はシロ・・と判定がでたのですが B型は 色が変化しつつある・・と。熱が出始めてあまり時間が経っていないと こういう結果になるらしいですね。ウチは予防接種を受けているので あまりひどくはならないだろう・・という見解のもと とりあえず解熱剤 及び お腹の薬で様子見、熱が下がらないようだったら、またくるように・・とのことでした。B型自体も お腹にもくるらしいし、巷では お腹をやられる風邪も流行っているようで・・・別にお腹が痛いだけで下痢もしてないから インフルエンザ・・かもね。そしてなんだかわたしまで 熱っぽい。。。のどが痛くなってます。自宅でのお経上げの為に 部屋の模様替えやら何やらで 午前3時までかかりました。。。 もっと早くやっておけよ・・という感じですがね。祥月命日の17日、ここ何日間の寒さと雨がウソのような好天に恵まれました。そんな中 無事に一周忌法要、そして納骨を済ませました。お骨を納めて もっと寂しい気持になるかとも思いましたが この住宅団地から地続きの霊園というせいか 遠くに行ったという気がせず、その点良かったと思います。この一年、いろんなことが たてつづけで 記憶の向こうに飛んでしまった日々もあります。しかし、一年前のこの日に向かう何日間かの記憶は 遠い昔のことのようでもあり、 つい昨日のことのようでもあり・・・切り取られた何日間かが 自由自在に空間移動している感じで、なんとも不思議な感覚です。一年前のこの日は、翌日に予定されていた次女の小学校卒業式に出席する方向で、綿密な計画が練られていました。わたしと次女が卒業式に行っている間、看護師さんに留守番に来てもらい、 その時に とうしゃんは シャンプーをしてもらうことが決まっていました。そのための タオル、シャンプー、洗面器などの用意が、しっかりされる中、わたしは 何かにとり憑かれたように急に思い立って、あるものを買いに行きました。湯沸しポットです。夫婦って おもしろいもので 生活の中でのちょっとした意見の食い違いというか そういうものありませんか?多くは それまでの生活習慣から発しているものとは思うけれど・・・長い夫婦生活の中で だんだん、どちらかの意見が主流をなしてきて淘汰されていくものですが・・ 他人にとっては 『どっちだっていいじゃないの。』っていうようなこと。お茶は ご飯の前に出すか あとに出すか・・とか、カレーライスの玉ねぎは ざくっと切るか、みじん切りにするか、とか。他人にとってみれば どうだっていいようなことでも ことと次第によっては 夫婦喧嘩にも発展する可能性も秘めています。実際、この玉ねぎの件とお茶の件では 夫婦喧嘩に発展した過去があります。よほど お互い ムシの居所が悪かったのでしょうね。今となっては 夫婦喧嘩も 懐かしいけどね。。。そして、、、もう一つの『わたしの主張』のテーマ(!)が 湯沸しポット。とうしゃんの主張は 『湯沸しポットを用意して いつでも好きな時に自由に 温かいものが飲める様に』それで、湯沸しポットを 昔、買ったのですが、、、、毎日ポットのお湯を こまめに替えるとしても わたしとしては なんだかポットのお湯って いやでね。。。飲みたい!と思ったときに サッと 『やかんで お湯を沸かす派』なんです。とうしゃんも 思うほど家でお茶飲まなかったしね・・・・・・だって 会社でコーヒーや紅茶、10杯くらい飲んでたらしいから。だから、昔買ったポットは とっくに捨ててしまっていました。ほんと ど~でもいいようなこと、書いてるね。。。そんなわたしが何を思ったか 去年のこの日、ポットを買おう・・と思ったわけです。 ただし、湯沸し保温ポットじゃなくて ただの湯沸しポット。ティ〇ァールの。なんでなんだろう?きっとその時は 『自分達が卒業式に行っていない間に とうしゃんが温かい飲み物を欲しがったら いつでも用意してもらえるように』・・・だな。そうして我が家にやってきたティ〇ァールの湯沸しポット・・だけど。。。結局、とうしゃんには 何も飲んでもらえないままでした。。。皮肉なことに とうしゃんがいなくなったあとに 大活躍。来て下さるお客様に出すお茶の為に。。。飲みたい時に 恐ろしく速く お湯が・・・・沸く。もっと早く 買っておけばよかったな。。。去年のあの日あの時、とうしゃんと入れ替わりのように ウチにやってきたポットは 毎日わたしたちに 温かいお茶や コーヒーや 紅茶を 届けてくれています。 明日もあさっても とうしゃんに コーヒーをいれてあげましょう。 あぁ、、、頭が ガンガンしてきたので もう寝ます。おやすみなさい。
2007/03/17
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朝、ブログ開いて焦りましたね。管理画面が出ないんだもの。ABCストアさんが 解決してくれました。どうもありがとうございました。<(。_。)>感謝です。しかしなぁ、ポチッと押した瞬間 、地域情報流出だもの。おすすめリンクだっけか?地元の〇〇銀行にどうぞ・・とか 〇〇ホテルは どうですかい?とか。せっかく 住んでるところ内緒にしてるのに。。(アッ、もうバレバレ?)(笑)ブログの設定変えるの終了するまで 個人情報流れっぱなしだったわね。楽天クレーマーさくら、走るか?(笑) ま、気を取り直して 一日遅れですが ひなまつりの話題を。ひなまつりというと いろいろな想いが つながります。。。子供の頃のひなまつり。母が 床の間に いろんな箱を上手に重ねて段を作り 赤い布を敷き、雛人形を飾り・・・・そんな光景が思い出されます。その雛人形、決して上等のものではありませんでした。なんでも父が 母にお金を渡し 上等な雛人形を少しずつ揃えていくように・・ということで まず最初の年は 『お内裏様』『お雛様』だけを買うように言ったらしいのです。。言っておきますが 母は はっきりいって経済観念があまりありません。父の存命中は 父がずっと お財布を握っていたようです。母にもともと経済観念がないのか、父がずっと取り仕切っていたから母に経済観念が根付かなかったのか・・・・それはどっちかわかりませんが・・・わたしが記憶する中での 若い父と母の様子・・・買い物は近くの個人商店で ツケで買い物。そして一ヶ月まとめて小切手で支払い。食費、電気代、ガス代・・・みんな そんな感じ。小切手を切るのは 母でしたが たぶん現金としては 母はいつも手元にあまり持っていなかったのでしょうね。例えば、4000円の米代を払うのに 5000円の小切手を切り 1000円現金化して イン マイ ポケット ならぬ イン 母ズ ポケット。そんなことが許される時代だったのでしょうね。そんな母に託された雛人形。一番上段の2体だけ買え・・と言われたのに 見に行って即決 段飾り雛人形一式買ってしまった母・・・・・だからね、なんだか愛嬌があるの。みんないいお顔なんだけれど、なんだか『でん』としてない・・というか・・・・5人囃子なんて 軽いんだろうね、あっち向いたりこっち向いたり・・・(ま、これは 母の飾り方が悪かったんだろうケド)(笑)その雛人形を 毎年わたし達娘たちの為に飾ってくれて年月は流れ。。。。。 わたしが結婚し、孫(わたしととうしゃんの子供)の顔を見ないまま、、、、、父は ある年の12月に他界しました。。。 そしてその翌年の12月、ウチに女の子が生まれました。(長女)父の命日と出産予定日が同じ日だったのよ。あんな厳格な人に似た子が生まれてきたらどうしようかと思ったら 全然違ったわね。(笑)帝王切開の予定になったから 少し早まっちゃったケド・・・・・大喜びの母は 次の年のひなまつりに間に合うように お金をくれました。「これで 雛人形、買いなさい」って。『えっ、こんなに?』って思ったわよ。何せ 世の中の物の値段とかあまり知らない母だからね・・そんな母は 父が亡くなり 自由にお買い物ができる黄金期に入ってたのよ。でも もともと地味な人だし、父も質素倹約をモットーにしてたから 母が自分に贅沢するなんてことは まったくナシ。でも他人のこととなると 大盤振る舞いしちゃうのよ。たとえば 親類の結婚式でのお祝い、「ひらりちゃん、5万にしようかね、10万にしようかね?」って言うんだもん。倍違うがね・・・そんな ある意味豪快な母から貰ったお金、今考えたら 少し イン マイ ポケットすりゃぁよかったんだけれど とうしゃんと雛人形、見に行って 段飾りの お派手なヤツ買っちゃったわけよ。段までお派手。漆塗り。。。ちょっと他と比べて小ぶりのような気がしたけど 家で飾ると やっぱ場所取るわ。母は 「立派な雛人形や!」って喜んだけれど 住宅事情に合わない合わない。。。次女も生まれ、何回か飾ったけど・・・・・・ で、転勤でしょ。とても転居先では全部は飾れないだろうと、、、連れて行ったのは お内裏様、お雛様と3人官女まで。ぼんぼりと 金の屏風、あと、ちょっとの飾りくらいかな。五人囃子以下そのほかの人たちは 実家、トランクルーム・・と 雛人形一家離散となりました。 そして おととしだったかな?姉から 「ひらりちゃん、ひらりちゃんとこの 雛人形、飾っていい?」と 電話がありました。二つ返事で「飾って!飾って」と返事したその年、義父が2月に亡くなり、急遽帰省。 その時実家で見た床の間のにぎやかだったこと。母が昔買った、愛嬌のある雛人形、ウチの雛人形の男衆、昔母が何かで入院した時に暇にまかせてつくった和紙の花嫁人形。。などなど、 お人形さん大集合でした。すご~くあたたかい いい感じの床の間だったのです。 去年は 姉もたいへんだったからね、実家の雛人形、飾らずじまい。ウチも とうしゃんが大変な時期だったから ウチの雛人形も 飾らずじまい。 今年こそは全員集合!と思ったんだけどさ・・・・気力がわかなかった。。。そして もひとつね、我が家のひなまつり恒例のことがあります。散らし寿司作ってね、おのおのが飾りつけやるの。それは 子供達が小さい頃から 毎年やってる。。。去年の今頃は とうしゃんも まったく食欲がなく、吐き気が強くなって 食べ物を受け付けなくなってたんだけどね、なんとこの日、「ステーキが食べたいな・・・」って言うのよ。「ウソ!食べれるの!?」って言いながら 上等なお肉用意して サイコロステーキ作ってあげたの。それまでの食欲のなかったのがウソみたいに 「おいしい!おいしい!」って食べたの。 娘達に 「おいしいよ、食べてごらん」って。娘達は 自分のお雛様をそれぞれ一生懸命つくりながら、ステーキつまんだりして・・・・この日は とうしゃんが 食事らしい食事した 最後の日になってしまいました。。。 あぁ、なんか泣けてきちゃったわ。。。。。そして今年、雛人形は飾れなかったけれど、食卓のお雛様は出来たわよ。なんだかいろんなことが記憶喪失に陥ってて 具材の準備が うまくいかなかった。お寿司も いつもはチラシ寿司にするのに 今年は タダの酢メシの 手抜きバージョン。 具材は 卵焼き(いただき物の卵で) スライスサーモン ウズラの卵 生麩 昆布の佃煮 ひじき煮(いただき物の生ひじきで) イチゴ かまぼこ ミツバ(いただき物) これくらいかな? 海老とか ないな・・・わびしいな。。。 椎茸なんかもなかったね。。。それはそうと いただき物で成り立ってる我が家の食事って 何?いただき物特集組むか・・・・ と話をひっぱる。。。そしてこの日のメニューは 結構豪華よ。このお雛様だけかい?と思われないように 一応書いとくわ。 はまぐりのうしお汁 ひじき、人参、大豆を 煮たヤツ 鶏ササミと ミツバ・菜の花の マヨネーズあえ ホタテの刺身(殻つき) ↑はまぐりを買いに行ったのに 魚屋のにいちゃんに 殻つきホタテ、ケース買いさせられた・・・18個・・・・まだまだひっぱる・・・・・じゃぁ、我が家の今年のお雛様を ご覧ください。長女:5歳、いや、15歳の作品。何で、ハスに構えてんの?体、まがってるよぉ!母:(自称、永遠の18歳)の作品。どう?次女:3歳、いや13歳の作品。しかしなぁ、なんで顔が2階建て?
2007/03/04
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平穏な毎日を願ってるんですがね・・・・まぁ、行事は続きます。今日は 義父の三回忌の法要でした。まったく、このところのわたし、ますます、あわただしいね。それでもって、丸一ヵ月後は とうしゃんの一周忌だよ。しかし、丸2年が三回忌なんて ややこしいね。まぁ、それはいいんですが、その法要の予定が午前11時から。主人の実家までは 車で約30分。そこら辺を頭に入れて 午前9時過ぎに 朝パンを仕入れようと、近くの『あったかパン』の置いてあるコンビニに行ったわけです。(遅いか?)昼は どうせご馳走が食べれるから・・ということで 軽めの調理パンを仕入れ、コンビニを出ました。外は、大雨です。ここから自宅近くの次の信号まで なだらか~な登り坂です。コンビニの敷地を出たとたん、なんだかちゃんと車が動いてくれません。???ががががが~~~。・・・・・いやな予感・・・・・ちょっと行ったところのマンションの駐車場の入口のところに 何とか止めました。おそるおそる見てみると・・・うわぁっ!!タイヤ、バースト。。。 いや、炎上はしてませんけど・・・パンクなんていう甘っちょろいものではありません。いえ、気にはなっていたのよ、前輪タイヤ、替えなきゃな~って。来たか、こんな時に。。携帯も持っていません。→家家に戻るか、コンビニから電話するか・・で コンビニに戻りました。コンビニに入りかけた瞬間、コンビニの広い駐車場に レッカー車?あり。あれ?と近づく。携帯で にいさんが お話中。電話終わるやいなや、「まさか、タイヤ交換なんてしてくれる会社じゃないよね?」(笑)聞けば ロードサービスで いろんなことやってくれる会社のにいさんでした。JAFのライバルか?・・『仲良し』って 言ってたけど。(笑)保険にロードサービスがついてたら料金がタダになるとかで いろいろ電話してくれたけど 保険屋さんがロードサービスのどこそかに電話しろとか、うるさい。目の前にいるっちゅうのに。事務的に進めようとする。←ここまでに ずい分時間がかかったよ。とにかく時間がない!「キャッシュで払うからキャッシュで!(3150円)。。。。にいちゃんに 直(ちょく)でお願いして いいんでしょ?」・・・と。やってもらいました。地獄で仏。アクシデントの中での強運。家に戻り、礼服に着替えたのが 10時25分。主人の実家に着いたの、10時58分。・・・フ~、2分前だよ。前もブログに書いたけど 義弟の たっての希望で とうしゃんが亡くなったこと、義母に話してないでしょ。そしてウチの実家の母にも内緒にしてたわけだったのよね・・・・・・・この前の 姉のことがあった時に・・・・話しました。この状況は なんともいえない状況だった。。。姉の病状が思わしくなくなった12月頃から 義兄は 『その時』のことを想定して、いろいろ動いているようでした。『そうなってから』でもいいんじゃないの?という想いも わたし的にはあったんだけど じっとしていられなかったんだろうね。葬儀社のこと、教会のこと・・・いろいろあったけど・・ 姉が亡くなった事は 誰の口から ばあちゃん(母)に伝えるか。・・・・これもそう。 「そりゃ、△△にいちゃんやろ。」「そりゃ、そうやわな。・・で、ひらりちゃん、そのあとで、XXくんが亡くなった事も言ったほうがいいんやないか?やっぱ、うそはいかん。」・・・・なんていうかんじにね。で、実際に亡くなったとき。病院には わたしと義兄がいたわけだけど、布団の用意なんかは 家政婦さんにお願いしていたから問題なかったんだけれど、、、いきなり姉の亡骸を連れて帰って、「ばあちゃん、〇〇が亡くなったんです。」っていうのもどうか・・・って話になって 先遣隊として わたしが一足お先に帰ることになったわけよ。正式には 義兄が話すということで。実際帰ってみると わたしより先に家政婦のおばちゃんが 母に話していたようで すでに母はもうボロボロ涙を流していました。。。あらら・・という感じではあったのだけど・・「で、おかあさん、XXさんのことだけど、、、、本社に転勤したって言ってたけれど・・・亡くなったん。〇〇姉(ねえ)と同じ 癌で、3月に。。」姉の話では 母は わたしが離婚して帰ってきたんじゃないんだろうか・・と心配していたみたいでした。 「離婚したばっかりで お金がなかったら、庭をやったり、家をきれいにしたり・・そんなことできるわけないやん。家、すごくよくなってるよ。今度見に行こう?」ってな話を 姉は母に してくれていたようでした。 母は わたしの話を聞いたあと、「そうやったん、ひらりちゃんも たいへんやったなぁ。」とボロボロっと涙を流して・・・そうこうしているうちに帰ってきた義兄が 母に土下座して「お義母さん、ごめんな。〇〇を 死なせてしもうた。守りきれんで ごめんな。」母は 「わたしが 姉ちゃんに(介護で)無理させたからや。ごめんな。ごめんな。」それで終わりだった。。。・・・よかったよ。わたしが見る限り、二人分の死の悲しみ・・ではなくて 1.5人分、いや1.2人くらいの悲しみで 済んだか。。。もしかして ボケちゃって わかってないのかな?なんて思ったりしたけど そうでもなかったようで。 肩の荷がまた一つ下りました。 とはいえ 主人の母は こんなふうにはいきません。行くたびに とうしゃんの話題が出ます。きっと今日は お坊さんまで お経あげのあと、「ご長男さんは?」という話題になるだろうと 覚悟していたのだけど・・・・・・ パンクで 助かりました!お経の前 パンクの話で始まり、 お経の後 パンクの話で終わり、、、お坊さん、在りし日のおじいちゃんの姿にも触れ、(村山富市さんのような、ああゆう長~い眉毛だった)「この世にいるあなたたちは、日々雑多な生活に追われ、亡くなったおじいちゃんのことを 時々忘れることもあるけれど、おじいちゃんは 阿弥陀様のそばで あなたたちのことを 眠らずに 守ってくれているんですよ。」と。そして お坊さんの帰ったあとも おばあちゃん、長女に 「〇ちゃん、あんた中学生?いや高校に行くんか?どこに行くんかい?」を 食事の間 3~4回繰り返しただけで とうしゃんのことには いっさい触れませんでした。 今日は とうしゃんのことで ドキドキしなくて済んで ホット安心。 帰り、タイヤも替え、オイルその他も交換し、車は 万全よ。とうしゃん車、車検も近いし、もしとうしゃんがいたら、早めに新車に乗りかえてるとこだろうけどね、、、もうちょっと、これでいくか。。。燃費、悪いけれど。。。しかしなぁ、今日、雨だったとはいえ あのタイミングで あの場所でのパンクでほんと よかったよ。 最近従姉が来た時は 高速も 山道も走った。。。遠出もしたし、人も結構乗せた。。。あぁ、考えただけでも おそろしい。。。。。。
2007/02/17
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ブログにご訪問くださった方々、そしてブログにコメント下さった方々、私書箱にメールを入れて下さった方々・・・ありがとうございます。わたしのぼやきにおつきあいいただいて ほんとうにありがとうございました。みなさんの想いを たくさん感じて・・・ 涙です。そして わたしは・・・元気です。 金曜日から遠方より従姉が来ていて しばらく我が家に滞在するので パソコンは ひかえています。ひと言ずつでも コメントをお返ししたいのですが 気持ちの余裕も 時間の余裕もないので、もうちょっと時間をおいてから・・と思っています。すみません。今日は 真夜中に ブログの発信のみにて失礼いたします。ちょっとうれしいことがあったので・・・ 書きたくなったのです。 今日は 従姉と娘達と ある作業に追われました。 連休に行われる予定の 姉の『本葬及びお別れ会』。いろんな準備を義兄は進めているようですが その中の一つに 遺品展示というのがあるらしい。(遺品・・いやな言葉だけど)姉は 古布で服を作ってもらったり、着物(実の母の形見の留袖や大島)を洋服に作りかえてもらったり、趣味の服を いくつか持っています。それと薬剤師時代の白衣なども含め 義兄は用意しているらしい。きっと姉の書いた絵手紙も必要かな・・と思ったので電話をしてみたところ 「明日貼り付けるから なるべく早く持ってきて・・」ということでした。 姉は 筆まめな人で 自分の作品を惜しげもなく手紙に使っているのですが たぶん大半は 遠く離れていたわたしたちのもとへ送られていると思います。 あわてて家中を探し 姉からの葉書・巻物を掻き集めたのが金曜日の真夜中のこと。『貼る』ということを聞いたので、大切な記念となった手紙に 鋲でもささっちゃいかんなぁと いろんなものを用意しました。背景になる『和』の素材を家の中で探したり、100均に材料を買い出しに行ったりして 朝から夕方までずっと 和紙に貼ったり、アジアンテイストの織物にくっつけたり・・・・などなど 結構いい感じのものが たくさん出来上がりました。自己満足ですが。ほとんど表装の世界です。思い出を話しながら いい時間を過ごしました。 何回か電話したら 「会社のほうに持ってきて・・」ということだったので、夕方近くに持って行ったのですが・・・従姉が途中で具合が悪くなったりしてちょっと待たせたのも(ちょっとよ)悪かったのかもしれないけれど、、、「こんなことは聞いてない。」という話になってしまった・・・ ま、少しは予想される反応だったので、コレで驚きはしない。(苦笑)『貼る』んじゃなくて 『置く』んだと。そのほかにもいろいろ。「ご実家のおかあさんに。」と従姉が持ってきたおみやげを 「もう母は いないんです。」・・・・・・(驚)従姉が あとで 「お母さん、いつ亡くなったん?」と聞いてきました。・・・・あのぅ、、、、生きてます。。。 話を これ以上義兄の機嫌を損ねない範囲に納めて 帰りました。こういう思いをしているのは どうもわたしだけではないということを あれからいろんな人から聞いていたので わたしも ホット安心(なんか変かな?)そして 強くなりました。従姉も 帰りの車の中で 「ありゃ、相当混乱しとるで いかんわ。」従姉が どこら辺の人間か お分かりでしょう。(笑) と ここまでだったら ちっとも『うれしい話』ではないのですが・・・・ 帰り、いつものスーパーで夕食の買い物をしていたところに 携帯の着信音が・・・見れば 甥っ子です。長男のほう。めずらしい・・というか ・・・・・初めてよ。 何かと思えば、『おふくろ(姉)が世話になったお礼』と『きっと おやじ(義兄)が迷惑かけているだろうことのお詫び』でした。弟(次男)から、「おまえから電話しとけよ。」と言われたらしい。 仕事のことでも 葬儀のことでも わけわからんことばかり言うから 自分は三日間逃亡していた、口きいてない・・と。 おい!お前、仕事は?と言いたかったけれど。(笑) おふくろ(姉)が優しくて そんなオヤジをいつも許してたから おふくろがいなくなって 何も出来ないオヤジがいる・・・特に おふくろが亡くなってからの様子は どうみてもおかしい。実の息子が あきれるくらいだから きっと ひらりちゃんにも とんでもないこと言ったり、 してると思う。おやじが 何、言っても はいはい、って言っといて。今、ほんとにおかしいから。ほんとにごめんな。おやじから なんかいやなこと言われたら 遠慮せんで この携帯に電話してな。 そういう内容だった。うんうん、わかってるよ。あなたたちのおとうさんの優しさは いっぱいいっぱい知ってるから。。。 気が短くて 親子喧嘩や兄弟喧嘩はしょっちゅうだけれど、長い結婚生活で ただの一度も 姉とは喧嘩したことがないらしい。姉は 「ほんとにこのひとは とびっきり優しい人よ。」っていっつも 言ってた。姉は幸せだったよな。亡くなったウチの父や 母達に対しても ほんとうに優しくしてくれていた、、そして、今も優しくしてくれている。 。。 ま、それだけに この頃の義兄の姿は ショックだったんだけど。そんなふうに変えてしまうほどの 大きなうねりの真っ只中に 義兄は 今いるわけだから そのうちに すこしずつ またもとの義兄にもどっていくだろう。なんだか、この電話、とってもうれしくてね。涙腺弱くなってるし、、、、、、スーパーの買い物に また戻ったんだけれど 目と鼻 真っ赤。あの広い店で泣いてるの、たぶんわたしだけだ。(笑)必要なものだけ かごに入れて レジは 娘に頼みました。 〇〇姉さん、いい子に育ったね、息子たち。 △△兄ちゃんの『優しさ』と 〇〇姉さんの『おおらかさ』を持った ほんとにいい子達だよ。
2007/02/10
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あまりにも長すぎて・・・まえからのつづきです。次の日 義兄から言われた 信じられない一言。「あんた、余計な口出しせんでくれ!俺がやりたいようにやるから!」・・・・・・キツかったな。。。義兄は 前の日に わたしが口を挟んだことを 何か誤解しているんだろう。。。自分の考えを否定されたような思いでいるんだろうな・・・・やり場のない思いが、こういう言葉になって 口から出てくるんだろうな・・・・・わたしとしては 姉にとってこの場所が 『残された時間を過ごす』のではなく、『今を生きる』場所になって欲しかった。そのためにも病室は 和やかな穏やかな空間にしたかった・・・だから、枕元で怒鳴る義兄に向かって 「やめて!」と叫んでしまった。これは 我ながら 大人げなかったと思うけれど。わたしが自分の好きな時間に毎日行くことによって そんな状況がまた起こる可能性があるんだったら、それは誰にとってもプラスにはならない。毎朝、義兄に電話して姉の様子を聞き、義兄が来て欲しいという時間だけに行くようにしよう・・・そう決心しました。この日から何日間か回復し、カルピスをはじめ栄養ゼリーをも食べることの出来た姉が、 「先生も、いろいろたいへんやなぁ。」とか、「わたしが水を飲まんと おとうさんがまた騒ぐから。」そう言って にっこり笑うのです。。。・・・またまた涙でした。義兄のいないところで 院長ともいろいろ話をしました。こういう病院は スタッフ次第。本当に 今 いいスタッフが揃っているようです。実際、患者や わたし達家族の前では いやな顔一つ見せず、ケアをしてくださっているのですが 院長の話ではどうやら担当の看護師さんが ナースステーションで泣いているらしい。家族の思いも全部受け止めてしまって きっと耐えられなくなったんだろうなぁ。。。 そんな会話も 眠っていたと思っていた姉が聞いていたようで、それから何日間か、日勤、夜勤と 看護師さんが交替するたびに 姉は「ごめんね。」と謝っていたわ。。。。あ~。こうやっていろんな雑音が聞こえ始めると、聞こえなくていいようなものまで聞こえてくる。。。今度の連休に『本葬及びお別れの会』を行う葬儀社の社長。ウチの実家の方に来てくださっていた牧師さんに「もう、、、言うことが ころころ変わってね。他の誰も相手にしないから わしが来てるんですわ。」だって・・・・・誰のこと?と思ってしまったわ。きっと舞い上がった義兄が 本葬についての打ち合わせで いろいろ言ってるんだろうなぁ・・とは想像出来たけれど、『葬儀屋さん。あんたそれが仕事だろ!』と言ってやりたかったわ。でも 口をついてでたことばは「義兄も はじめてのことで気が動転しているんです。いろいろ大変とは思いますけれど、どうぞよろしくお願いします。」・・・だよ。あぁ、疲れた・・・おまけに そのお別れ会の時、義兄の従弟が芸大出の声楽家とかで 何曲か歌ってくれるように頼んでいるらしい。その伴奏をしてくれんか・・と頼まれたんだけどね。3・4曲って 言ってたけどね。それと 『千の風になって』も。断っても別に腹は立てんから・・・と言ってたけどね。。。。甥っ子も 「無理せんほうがいい。」 と言うし・・・・・・断ったのよ。。。一曲ならまだしも 冷静に そんなもの弾けるわけないし。。。。腹立てん・・と言ったけれどもね、でも なんか、ギスギスしてるんだわ。。。そう感じるわたしが おかしいのかなぁ。落ちてる時は なんでもないひとことが グサグサ刃のように 心に突き刺さる・・・ そうやって気持ちが堂々巡りしていると、人に対してやさしくなれなくてね・・・義兄は 「穏やかな最期だった。」ってみんなに言ってるけれど 亡くなる前日の晩、泊り込んだわたしが見た姉の様子、ほんとにキツそうで、意識はあるものの、いや あるがゆえに 「足、ちぎって捨てたい・・」って言って ずっとうなされて、ため息ついてた。それの繰り返し。睡眠薬もまったく効かないようだった。。。わたし、そんな姉の足を ずっと さすってあげることくらいしか出来なかった・・・・姉にとって 最期に向かう時間は いい時間だったんだろうか・・なんて考える自分もいる。。。。あぁ、気分が落ちまくっている・・・・いやなことばかり、ブツブツ言ってるよなぁ。 自己嫌悪だわ・・・・疲れてるね。何書いてるか わからなくなりました。いつか消すわ。。。ごめんなさい、こんな日記に延々つきあわせて・・・
2007/02/09
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今日のブログは 果てしない愚痴になるかと思います。吐かせてください。わが県には ホスピスを持った病院というのは 二つしかありません。姉が最期の時を過ごした病院は そのうちのひとつ、全国でも珍しい独立型のホスピスでした。広大な敷地の中に佇むその病院は 木をふんだんに使い、明るい色調で なんだかとてもホッとする空間でした。各個室から木のデッキに出ると 四季を感じることのできる木々や花々にあふれた庭に通じています。玄関を一歩出ると 遠くの山々、そして違う方向に目をやると 海も見ることのできる抜群のロケーションです。そしてこの病院は わたしの自宅から 車で5分の場所にあります。庭の通路は ベッドごと散歩も出来るそうです。姉は入院した頃、「元気になったら敷地内の菜園で野菜を作りたい。」・・と師長さんに笑顔で話していました。ラウンジには暖炉もあり ボランティァの方たちが 飲み物のサービスなどを やってくださっています。残念ながら姉は 庭を散歩することもなく、菜園で野菜を作ることもなく、最期の時を迎えてしまいました。ただ、ボランティァの方たちが入れてくれたコーヒーを 美味しい美味しいと飲むことは出来ました。入院希望者も多く、何週間待ち・・などということもザラにあるようですが、たまたまウチの場合、比較的待ち人数の少ない時期に当たったようで、申し込みをしてから早い時期に この施設に入ることが出来ました。そして、これも不思議なめぐり合わせなのですが 実家の母の主治医(実家近くの開業医)がこの病院の顧問医師を務め そしてなんと院長のお嬢さん二人のピアノのレッスンを 横浜に引っ越す前のわたしがみていた・・・という偶然も重なりました。そしてその院長が 姉の主治医となってくれました。素晴らしい方です。姉の入院していた約40日の中で、実にいろいろなことがありました。新しい年を迎えることは無理だろう・・という前医の予想を越え、このホスピスに移ってからは しばらくは穏やかな日々が流れました。ホスピスといっても 「別荘感覚で利用してください・・」と 院長先生がおっしゃるように、家と この病院を行ったり来たり・・という患者さんもいらっしゃるようで、姉も そういうふうにしたい・・と言っておりました。しかし、一月中旬くらいから 何度かの命の危機が訪れるようになり、そのたびにインフォームドコンセントが行われました。そして ある日のこと、思いもかけないことが起こってしまったのです。そう、わたしが 最初に博多へ行った前々日のことです。この日、わたしと義兄は カンファレンスルームに呼ばれました。どうやら、前夜泊り込んだ義兄が 水分の飲みこみが悪くなった姉を見て 心配のあまり 夜勤の看護師さんに 「水分が取れないから点滴を・・」とお願いしたようでした。そのことが 院長の耳に入ったのでしょう。院長が 「点滴をしようにも血管がどこにあるか探せないくらいの状態なんですよ。血圧も極端に下がっています・・・・どうしても・・とご主人がおっしゃるのなら 皮下から・・という方法をとりますが・・・こういう状況の中で点滴を望むというのは・・・・ ご主人はどういうお考えからなのでしょう?・・・・」・・・みたいな話になったわけです。すると、義兄は「とにかく最善を尽くして欲しい。わたしは素人ですから医学的なことはわかりません。あなたは 医者なんでしょう・・・最善を尽くしてください。」・・・・・・そういう話の運びになってしまった・・・「ご主人のおっしゃる最善とは??」と 院長。なんだかかみ合わないやり取りが続き、とにかく義兄は かなり感情的になっている・・それだけははっきりとわかりました。あまりに らちのあかない会話が繰り返されるので そこに、わたしがちょっと口を挟んでしまいました。。。「姉は、どういう意思を持っていたのでしょうか?わたしの知るかぎりでは 姉は延命としての点滴などの処置は望んでいないと聞いています。・・・・点滴することによって姉にとって これ以上 辛い症状も出てくるのでしょうか?」・・・・そんなようなことを言ったような気がする。別に点滴を否定しているわけではない。事実だけを言ったつもりだったのだけれど・・・・そして 点滴することによって起こる可能性のある症状、しないことによって起きてしまう事態、、、悲しいけれど 知っておく必要があると思いました。。。すると院長が、「そうなのですよ。入院時、ご本人からそういうふうに伺っているし、記録も残っている。・・・どうしてご主人が 今になってもまだ点滴を・・とおっやるのか。。。それは ご主人が納得する為でしょうか?」・・・・・何もせずに最期のときを迎えるということは 家族に後悔が残るから・・ということなのでしょう。なんだかんだ言いながら95パーセントの患者が 点滴などの処置を 受けているそうです。義兄が 「わたしと妻は一心同体ですから!」院長が「一心同体などということはいくらご夫婦でもありえませんよ。」 ・・・まだいくつかの会話がされたように思いますが、とにかく まるでかみあわない。なんだか 途中の肝心な言葉が抜け落ちた会話を聞いてるようで 看護師さんと目を合わせて驚いてばかり。そして 聞く耳を持たない義兄。ここにくるまでに点滴をたくさん受けてパンパンに腫れていた姉の手足も思い出されて、、、、、なんともいえない重苦しい空気でいっぱいでした。そして そんな会話が繰り返される中 義兄は 「ひらりちゃん、後はあんたが聞いといて!!」と 部屋から出て行ってしまいました・・・・・・・・『食べれなくなったら栄養補給の為に点滴、また 症状の緩和の為に点滴』・・・目的により、それは 多くの病院で行われていることです。そこには 「少しでも元気になって欲しい。」という家族の思いもあります。しかし、患者本人にとっては 体の状態として好ましくない状況になるということを とうしゃんの主治医から聞かされていました。すでにあちこちのからだの機能がギブアップした状態の中に水分が入る(もちろん栄養分も)ので 一時的に元気になったように見えても 体がむくんだり 腹水がたまったり・・・そして 一時的にカラダも元気になったように見えるかもしれないが がん細胞も元気になる・・・・手に入るものは 幸せな時間ばかりではない・・ということです。患者本人は 言いようのない倦怠感に襲われることでしょう。それに耐えなければならないのは 患者本人です。「水も飲めなくなっているという状態が どういう状況なのか、わかっているのだろうか・・・・」と困惑気味の院長。終末期の医療というのは 患者本人の問題だけでなく 家族の心の中をもケアしなければならない・・と まざまざと感じる瞬間でした。義兄にしてみれば 愛する姉の死が 目の前に迫っているのはわかっているつもりだけれど、一日でも一時間でも たとえ一秒でも、『少しでも元気な』姉と一緒にいたい。だから「点滴を・・」と言う。「覚悟はしている。」と口では言いながらも 現実として受け入れられないいっぱいいっぱいの気持がそこには ある・・・・医師にしてみれば 点滴をすることによって 生きている時間が長くなるか短くなるか・・それはその人の持つ生命力だから、なんともいえない。でも万が一、時間を手に入れたとして 生きる時間が長くなることによって 痛みを感じたり、患者本人にとって苦痛の時間であったら ・・・・本当にそれが幸せなのか・・・というところでしょう。。。自宅で看取ったウチのとうしゃんの場合、本人が それを(点滴を)拒否しました。姉の場合、あれほどの全身転移の状態でありながら、ここまで痛みがほとんど出ていなかったのは奇跡とも言えましたが、現実として ここ何日かの姉には 局所に痛みも出始め、かといって モルヒネなどを使えるほどの体力は残っておらず、それでいて意識もしっかりしている。。。。次第に だるいだるい・・と訴える時間も増え、それは見ていてかわいそうでした。しばらく話したあと院長が 「本人とも話してみよう。様子を見ながら 皮下からの点滴でいくか。そうしないと ご主人も納得せんなぁ。」というようなことを言いながら部屋から出ていきました。残されたわたしは 看護師さんと一緒にしばらく話したあと病室に戻ったのですが そこで目の前に飛び込んできた信じられない光景。。。常軌を逸した義兄の 院長へ対する怒りの言葉の数々。罵倒といっていいほどの。。。 あくまで言っておきますが 病院側は 本当によくやってくださっていました。今思えば、自分の思い通りにならない義兄の 心の中の叫びが 堰をきったように溢れ出してきたがゆえの行動だったのでしょう。普段おもしろいことを言って軽口をたたく義兄からは想像できない、わたしが今まで見たこともない義兄の姿でした。 わたしも通ってきた道だから いっぱいいっぱいになっている気持ちもわからなくもないし、姉のことを思うあまりのことだとは思うけれど・・・しかしなぁ・・・大人げないよ。病人のまえで交わされていい会話か?・・・・・そんな中、姉は薄れゆく意識の中で闘っているようでした。あまりもひどい義兄の姿に わたしも涙が止まらなくなり 思わず、「〇〇兄ちゃん、もうやめて!ちょっとおかしいよ!」と叫んでしまいました。それにも構わず、院長に向かって怒鳴り続ける義兄。挙句に、「ひらりちゃん、もうあんた 帰って!」院長がすかさず、「ここは、来たいと思う人が来る場所です!」興奮した義兄は「この病人を連れて帰れというのですか!!」え~?ちがうだろう。何、勘違いしてるんだ???院長は一生懸命、誤解を解いてくれていましたが。。。それほど義兄は 混乱していたのでしょうね。その場にいたたまれなくなったわたしは 病室から庭に出て一生懸命気持ちを落ち着かせようとしました。泣きながら庭を散策し、菜園で見つけた菜の花を手折って病室に戻りました。意識が低下し ほとんど昏睡状態に陥っていると思われていた姉の手に菜の花を握らせると なんと姉がそれを鼻のところに持っていき、におうではありませんか。そして自分の胸の上にそっと置き、自分でタオルケットを掛けました。それを見ていた院長が「水分、とれるかもしれんぞ。」と叫び、あわただしく水、氷の用意がされました。飲みこむことが不可能かと思われていた姉が またまた奇跡を起こした瞬間でした。そして院長も 偉かった。。。義兄に謝っている。今までの自分に 『おごり』があった・・・みたいなことを言いながら 義兄に謝っている。すごいなぁ、この人。。。ここからは 一時間以上、いやもっとか、二時間近く・・ベッドの姉をはさんで 義兄と院長の穏やかな会話が続きました。二人が小学校一年からの同級生同士であること。初めてのデートのこと・・姉の枕元にいつも置いてある杖が 初めてのデートの時に〇〇さま(神社)に登った時に買った杖であること。・・・・・・そして 姉のことを 命を懸けてでも守るということ・・・・・そうこう いろいろありながらも、姉は奇跡的に一週間近く、わたし達との貴重な時間を得たわけです・・・・それは 何ものにも代えられない時間ではありました。このあと 「いやな思いをさせて悪かった」・・・と何度かわたしに謝った義兄でしたが・・・・・すみません、長すぎて 一回では終わらない。つづきます。
2007/02/09
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なかなか元気が出ず、ブログの更新が出来ませんでした。ちょっとくらい元気がないときは 気持ちを奮い立たせて元気なブログを書けば なんだか元気をもらった気がして 前へ一歩ふみだすことが出来るのですが・・・・・実は 最愛の姉が 1月31日に亡くなりました。肺がんでした。。。タバコも吸わないのに ・・・・・パソコン初心者のわたしがブログを立ち上げた理由は・・・・・ もちろん天のとうしゃんに わたし達の元気な姿を見ていて欲しいということ、そして 当時遠く離れていた姉に 毎日の様子を発信する目的もありました。そう、もうおととしの12月のことになってしまいましたが 一年と少し前のある日、いつも元気に横浜のわたしのところに電話をかけてくる姉に元気がありません。時を同じくして義弟(わたしの妹の夫)から、電話がかかってきました。血液検査の結果に異常がある・・と。義弟は医師です。姉は 義弟に時々、健康のチェックをしてもらっているようでした。 以前ブログにも書きましたが 3年前 実家の母は 骨折をきっかけに入院し、誤えん性肺炎などを併発し 命の危機にさらされました。入院という急激な環境変化から 普段の母からは想像できない様なボケ症状が現われ 奇跡的に肺炎が癒えたあとも とても家で介護できる状況ではありませんでした。そんな中、主治医の反対を押し切って 退院後の自宅介護を 姉は申し出たのです。 「おかあさんは 施設に入ったりしたら死んでしまう・・」姉は そう言い続けました。 この姉とわたしは 年が14、離れています。そして・・・・腹違いの姉妹です。 姉の実の母親は 姉を産んだ半年後 やはり肺の病気で天に旅立ったらしいです・・・・その後 父は 母と見合いし、結婚し、わたし達が産まれました。見合いの席で 当時2歳だった姉が(この年齢については 母と姉の記憶に若干ズレがありますが。) 母に向かって 「 ウチの 新しい かあちゃん?」と言ったとか。母は その言葉で結婚を決めたと言っておりました。母親が違おうが わたしには わたしが産まれたときから 姉はまぎれもない わたしの姉でした。そして わたしの人生においても いろんな道筋をつけてくれた人でした。「お母さんは わたしに愛情をたくさん持って育ててくれたんよ。だから どんなことがあっても お母さんの面倒は わたしが責任を持って看る。わたしはきっとばあちゃん(祖母)のように90歳くらいまで 長生きするよ。」・・・・・そう言い続けて 母を家へ連れ帰りました。それなのに・・・それなのに・・・・・仕事をしている日中は家政婦さんに母をお願いし、夜は姉が面倒を見る・・といった生活の中で 母は どんどん元の人格をとりもどしていきました。現在のほがらかな母がいることが出来るのも 姉の献身的な介護があったからに ほかなりません。当時の母は 排尿のコントロールが出来ず、それこそ一時間おきくらいに 姉を起こす・・というような状況が続いていたようです。棟続きの家の中で 母の押すブザーで姉が飛び起き・・・・そんな中、姉は熟睡などすることなど なかったことでしょう。そんな生活を姉は2年近くも続けたことになります。慢性的な疲労と思われていた姉の様子も どうやらただならぬ状態だと感じたわたしたちは 約一年前の暮れ、クリスマスの時に家族で帰省しました。とうしゃんも 体調の波のある時期でしたが 車を使って なんとか帰省が出来たのでした。いずれ戻ってくるであろう自分達のマイホームのリフォームの手配をしたり、入院していたとうしゃんの母親を見舞ったり、実家の母の介護に行ったり・・そんな忙しい一年前の暮れでした。その時の姉は・・・ まっすぐ歩けない、目の焦点が定まらない、何もする気力が起こらない・・・・あきらかに異常を感じる状況でした。脳の方の検査を絶対早くやってもらった方がいいよ・・と とうしゃんと言い残し、横浜へと 後ろ髪がひかれる思いで帰りました。横浜へ無事戻ったよ・・の連絡を義兄に入れた時に聞いた、信じられないことば。それは・・・検査の結果、『肺がんの脳転移』だと・・・・姉の数々の体の症状は 転移した部位が視神経を圧迫したゆえにおきた体の異常で、一刻の猶予もないところまできていました。すでに 体のあちこちに癌細胞が転移し、余命3ヶ月との宣告。とうしゃんの病気を何より心配してくれていた姉に、何でこんなことが おこらなきゃいけないのでしょうか・・・あんなに元気だった姉に・・・・・言葉もありませんでした。しかし、姉は強かったです。持ち前のバイタリティ、生命力、運の強さもあったのでしょう。脳の転移に有効な、全国にも数少ないサイバーナイフが当地にもあり、これを早速受けることになり これも奇跡的に脳に関しては ほぼ完治という状態になりました。見た目には 以前と変わらぬ元気さを取り戻した姉は ほんとに素直な患者で 主治医を全面的に信頼し 抗がん剤治療も次々と受けました。ほんとに頑張ったよ。。。。抗がん剤が効いているうちは 「わたし、薬については あえて調べないよ・・・」と きっぱり言いきりました。姉は 今でこそ自営の義兄の会社を手伝っていますが もともとは薬剤師です。・・・・・さすがに 最後の抗がん剤、イレッサの時には 山のように書類を集めていましたが・・・・・何度かの入退院を繰り返して迎えた 去年の12月。つい2ヶ月前のことです。仕事もしながら自宅で療養していた姉に ついに肺炎症状があらわれ、再入院となりました。食欲がまったくなくなり、吐き気も起こり、見ているのもかわいそうな状態でした。「新しい年を迎えることはできないでしょう。」と言う主治医の見解のなか、12月21日、ホスピスへのご縁をいただきました。このことについては いずれ書くことにしましょう。。。どんな状況になろうとも 生き続けることを信じ、 頑張りぬいた姉でした。「絶対、退院するんよ。」と ベッドの上で 靴を2度履いたそうです。ホスピスに転院したあと 食欲のまったくない姉の為に アレだったら食べるだろうか、これだったら飲んでくれるだろうか・・と わたしもずいぶんいろんなものを買い、そして 毎日姉のもとへ通いました。わたしが見つけてきた、ある薬品関連会社が製造元のマンゴージュース。食欲のまったくなくなった姉は これを冷蔵庫で凍らせてシャーベット状にしたものを 本当に良く食べてくれました。「絶対よくなって家へ帰る。」・・そう言うかと思えば 「ひらりちゃんの持ってきたマンゴーのおかげで命がつながってる。」・・・そんなふうに 気弱に言ったりもしていました。口では気丈なことを言いながら 心の中は不安でいっぱいだったことでしょう。ほんとうに わが姉ながら 強いです。ベッドに横たわる姉と 毎日毎日 いろんなことを話したなぁ。小さい頃の話、これからの話・・・・離れて暮らした何年間を埋めるくらい いろんな話をしました。「ひらりちゃんが来てくれると ホッとするわ・・・ ありがとね。」行くたびに 相手を気遣う言葉をかける姉。看護師さんに対しても 誰に対しても。。。毎日通っていたあの場所に もう姉がいないと思うと なんともいえない脱力感、喪失感です。。。クリスチャンである姉のために 姉の尊敬する牧師先生が 足繁く通って下さいました。 ご高齢にもかかわらず 凛としていて 素晴らしい方です。義兄の意向で 亡くなった次の日には荼毘にふされ、新聞にて告知の後、2月の連休あたりに『本葬』及び『お別れの会』をするということになったそうです。姉夫婦は 小学校からの同級生なので 級友たちが発起人になっての会らしいです。姉の病室に 姉の絵手紙教室の先生からいただいた巻物の手紙が残されていました。 〇〇さん 今、貴方に頂いた絵手紙を 全部見てます どれもやさしい絵です こんなステキな人と お友達でいれて 嬉しいです ほんとにほんとに ありがとう癌という病気。。 なぜ、大切な人ばかり わたしのもとから奪っていくのだろう。。。
2007/02/07
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今日、出先で見た『徹子の部屋』に お料理の服部先生が出ていました。『愛エプ』で 芸能人のお料理を毒見するアノ人です。医学博士なんだね、一応。近ごろ何かと言われている『食育』について触れていました。食を通した教育・・ということだね。 今の風潮の中で『コショク』が増えてるんだと。孤食;親子が 同じ屋根の下に住んでいるのに、食事時間帯も違う、食べてるものも違う・・・コミュニケーションがないっていうことね。個食;家族団らんで食べていても お父さん、お母さん、子供達のメニューがバラバラでファミレスのメニューみたいなやつ。昔、家族揃うと同じもの食べていたよね。そして お父さんだけに ちょっといいものがついていたりする・・・小食;字の通り、食が細い・・ということか。固食;ばっかり食い! ウチの子、この傾向にある。。。粉食っていうのもあったけど、これは ワスレタ・・・ なんでもね、人間の基本習慣というか、『コレが基本』ということ===挨拶はきちんと、 うそをついちゃいけない、 人のものをとっちゃいけないとか=== は8歳までに躾けないと あとはだめなんだって・・・まぁ、『三つ子の魂、百まで』って 言うからね、そりゃわかるんだけれど。脳細胞は 8歳から10歳のあいだに ことのほか発達するらしいけれど この時期に躾けても反抗期で反発しちゃうらしいよ。フ~、確かに・・・それでもって『ばっかり食い』だ。『ばっかり食い』っていうのは 同じおかずばかりを食べ続けるでしょ。食事のメニューに しょっぱいもの、甘いもの、辛いもの、酸っぱいものがあろうと 口の中は 『しょっぱい、しょっぱい、しょっぱい・・』そしてやっと『甘い、甘い、甘い』ってなるわけだよね。本来、しょっぱいものを口に入れたら、ご飯を口に入れて味を中和して塩梅を整える・・こういうのを『口中調味』というらしいけれど、これをしない、というか できない『ばっかり食い』ばかりをしていると、相手の気持ちを考えることが出来ない、いい人間関係を築くことの出来ないお子ちゃまのできあがり~となるらしい。まぁ、すべてコレが正しいとはいいきれないけれど、なんとなくそんな気もしてくるよ。 はぁ~、遅いよなぁ~。 そういえば、服部先生、ずい分痩せていました。一日、スクワット300回やってるんだって・・・・そういえば昔、わたしも スクワット、ちょっとやって 少しは一時的に痩せたんだよ。しっかし、長続きのしない女だなぁ。細々とブログを続けていることが ウソみたいですよ。。。 そしてね、コレは書こうかどうかずい分迷ったんだけれど・・・・心がズド~ンと重くなる出来事。。。 すぐ近所の、娘の同級生のお父様が 何日か前にお亡くなりになりました。葬儀も何もかも終わった後、班長さんから連絡受けてね・・・密葬だったらしいから 仕方ないんだけれど。最近見かけたばかりなのに、どうして??と思っていたら・・・・今日、聞いた話・・・公にはなっていないけれど 自死らしい。。。これは 娘達も知らせていない。。。 生きたくても生きることの出来ない人がいるのに なぜ??と思ってしまうけれど、本人には それを選ばざるをえないほど 鎖でがんじがらめにされた心があったのだろうね。なんだか信じられなくてね、目が冴えて眠れそうにない。。。
2007/01/19
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今月初めに喪中欠礼を出して以来 懐かしい人からの電話、葉書、メール、品物、お花代が毎日のように届いています。それぞれに気持ちがこもっていて ありがたいことです。 病弱な両方の母親には とうしゃんのことを内緒にしている・・という事情から 喪中欠礼を出す人出さない人の線引きには神経を使いました。その結果 今まで年賀状のやりとりをしていた義母の友人をはじめ 高齢のお仲人さんまで、今年はご挨拶を失礼をさせていただくことにしてしまいました。 だから、欠礼を出した後 連絡があったのは ほとんどわたしがらみの人たちです。遠くに住む昔の同僚、教え子のお母さん、高校時代にお父様を亡くした高校のクラスメート、ママ友達、古い友人・・などなど いろんな人から あたたかい気持ちをいただいています。10年、20年会ってない人たちが ざらなので 決まって最後に「ちゃんと食べて その細いからだが 折れないように。」的なことを言われるのですが・・・・・・・ちがうっちゅうに ・・・・「年齢を重ねるうちに 肉を10キロ以上蓄えました。」と言うと ひどく驚かれます。 生意気盛りの頃ピアノを教えていた女の子は なんと中学の先生になっているとか・・・トシを取るはずだよね。どの便りもみなうれしかったけれども、昨夜もらった電話は ことさら心に沁みました。今、福井の方に住む彼女Tさんと知り合ったのは わたし達が新婚の頃の都内の某逓信病院でした。 結婚しても 仕事を続けていたわたしは 新設の教室の講師を任され、超多忙な毎日を送っていました。土曜日にもびっちり仕事が入り、土日休みのとうしゃんに車で迎えに来てもらったり(とうしゃんが独身時代を過ごした町が勤務先という偶然も重なりました。)それなりに充実した毎日でしたが だんだん、からだに変調がきてしまいました。生理のたびに寝込むほどの痛みと発熱。こんなことでは 赤ちゃんどころじゃない・・と 行き始めた『不妊外来』。そこで出会ったのが Tさん。同じ悩みを持つ仲間としても意気投合し、逓信病院という関係上、夫の職場が同系列と言うのも 親しくなった理由です。ウチにも遊びに来てもらったり そうこうしているうちに とうしゃんが 郷里に転職のお話をいただき、この地に転居。そして この地でも不妊外来に通ったわたしは 見事妊娠。そして ちょうど同じ年に 彼女も妊娠。当時 葉山の方の社宅に住んでいた彼女と お互いの妊娠を喜び合いました。二人とも女の子が生まれたということも なぜかとてもうれしかったものです。その後、幸せに暮らしているとばかり思っていた次の年の暮れに 一通の喪中欠礼葉書が届きました。彼女のご主人が 30代の若さで肝臓癌で亡くなったということが書かれていました。お嬢ちゃんのMちゃんが1才の誕生日を迎える前に亡くなったそうです。やはり 会社の健康診断は毎年受けていたのに 病気が発覚した時は手遅れの状態だったとか。。。すぐ入院手術、だがそのまま入院が続き、6ヵ月後に亡くなったらしい。。。言葉をなくしてしまいましたが しばらくしてから その時に考えつく出来る限りの慰めの言葉と お花代を送ったような気がします。 あれから14年。お互い 受験生をもつ母です。お父さんのことはまったく覚えていないけれど幸せをギュッと凝縮して与えてもらったMちゃんと お父さんとの思い出がたくさんあるがゆえにいなくなった悲しさをいっぱい抱えているだろうウチの子たちと どっちが幸せだろうね・・という話を彼女がして ちょっとしんみり。いづれにしても こどもは宝だよね。難しい時期の子供を抱え、「頑張ろうね。」と 誓い合いました。いまでこそわかるお互いの『想い』に しばし時を忘れました。彼女も ご主人が亡くなったあと郷里に戻り これはすごいと思うのだけれど ご主人の実家に入りました。今はお義母さんと娘のMちゃんとの3人暮らしらしいです。お義母さんとも とてもいい関係を続けているようで「去年、自分の実家の近くに家も建ててもらって 仕事から自分が帰ってくると ご飯まで出来ているんだよ。」と イキイキと話す彼女。ほんとにいい関係なんだな・・と まぶしかったです。 折も折、この日の夕方、義母からめずらしく電話をもらっていました。ココ2週間くらい 忙しさのあまり 義母のところには行ってはいませんでした。昨日も 中学の懇談会の為 わたしは昼からずっと留守をしていたのです。義母は 誰かが入院したんじゃないかと ずっと心配して電話をかけてくれていたようです。こちらが考えもしないような心配を延々して 一人で行き場がないようになっていることが多いのです。大好きなお義母さんだけれど 心配が過ぎるのと、行けば「Kちゃんは元気かね?連絡あるかい?」という言葉が繰り返されるので ウソをつくのが息苦しくなることがあります。自分の息子が この世にいないなどとは夢にも思っていない義母は いつもとうしゃんの赴任先と信じて疑わない北欧の国の話をします。義父と 以前この地を旅行した時の話を繰り返す義母のことを 時々うとましく思ったりする、優しくない自分がいたりします。いけないね こんなことじゃ。高齢の義母が この世を旅立つまで とうしゃんのことは知らせない・・と 義弟と誓ったからね。徹しなければね。今日か、明日か お義母さんのところに 立ち寄ってみるか。。。
2006/12/16
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なんだかさ、目の調子が悪くて・・というのは言い訳なんだけど おととい車ぶつけちゃったのよ。いや、かすっちゃったというか。目が痒いというかゴロゴロするから、眼科に行こう!と 家を出たのですよ。そしたら 芋づる式にいろんな用事を思い出したのです。いつも秋の今頃に お世話になる、カーボンヒーターを前の日に出したら 南無阿弥陀仏でした。お~。新しいの、買わなきゃならん・・と 郊外型ショッピングセンターの大駐車場を移動していました。デパートから 端の方にある大型家電ショップに行くべく。そしたら、あんなのあり?(ありですね。)カーブが終わったら 真ん中に突然(突然のわけはないが)、ポールが立ってて ガガガ~~ってひっかけちゃった・・・視界にはいらなかったのよ~。へこみはしなかったけれど 黒い痕が。今日洗車したら、目立つよぅ。あぁいうの消す、なんとかいうやつあったよねぇ。なんだっけか?今日こそ、眼科行こうと 張り切って家を出たのですがね。でも 洗車で時間かかっちゃって。通常800円が今日は200円。ご近所のMさんおすすめ。でも並んでる~。その後に墓地の予約の予定が入っていたから きれいな車で行こうなんて思ったのが運のツキ。出鼻からくじかれちゃったですよ。でも なんとか約束の時間に お寺に着きました。広~~いお座敷で墓地の契約をしたわけですが・・・このご住職、今までの印象は わりと無口。問いかけたことにはちゃんと答えてくれるけれど、特に電話などでは なんだか話がイマイチかみあわない・・・お会いして話せば そうでもないんだけれど 若さゆえに人慣れしてないんだろうか・・・くらいに思っていまして、そんな人に対しては さくらさんも 比較的寡黙になっていたわけです。いろんな書類に判を押し・・を繰り返しているうちに、このご住職 だんだん饒舌になってきましてね。墓地の隣の広大な一等地の敷地が なぜ 開発されないままになっているかの話から 御自分の話まで 始められたのです。去年、一年入院していたとか。。。そんなところに 管理任せていいのか?と思ったんですが・・・かなり広い墓地だしね。。。若く見えるけれど 42歳だそうで! 20代後半か、30代前半かと思ってたわ。顔立ちがよろしいから 思いっきり若く見えるのでしょうね。学生時代の交通事故がもとで 脊髄損傷。何とかここまでやってきたが 41歳の時に ついに どうしようもなくなった・・・「男の厄年ってあるんですよ。」と。そうかぁ・・・このままでいると 口と目しか動かせなくなる・・と 主治医から言われたとか。かといって手術しても 絶対良くなる保証はない。毎日泣いて暮らしたとか。そうだよねぇ、お子さんも小さいしね。そして 少ない可能性に賭けて 手術を決意手術が終わって目が覚めたら 頭が痛いんだって。なんでも、それは聞いていなかったらしいが こめかみに穴あけて鉄の棒(ボルト?)をさして ギュ~ッって 首の固定のために ひっぱられてたんだってよ。聞いていたら 手術はしない・・ってとこよね。今も ボルトが頭の中に 5個入ってるって・・・お元気そうだけれど わからないものですね。。。。。聞いてるこっちも オウェ~って感じよ。そしたらチャカチャカ携帯いじり始めた・・おい!客の前でそれはないだろう!と思っていたら「術後一週間目の 傷跡です。」っていって 写メール、見せてくれたわ。ひぃぇ~~勘弁してください、お代官様~~。ものすごかった~~わたしはね、新婚早々、骨髄炎で某逓信病院に入院し 足の大手術を受けたことがあるのですよ。足首の骨、腐っちゃって。腰骨移殖という・・・恐ろしい・・・・とうしゃん、足繁く通ってくれたよ。神奈川から東京まで・・それはどうでもいいんだけれど、その時 脊髄損傷で 半身不随になった人 何人も見てきたわけです。16年入院しているなんていう人もいました。そんなことを話したら ご住職びっくりでしたね。運が良かったのだと。このご住職の場合、かなり難治例だったようで、どこに行っても 断られて たらいまわしだったようで・・・・難しい手術をやってくれた病院っていうのが かなりの田舎の病院だったから またびっくりしました。他県から招かれた その道の名医らしい。頚椎の異常を ちょっと指摘されているわたしといたしましては お世話にならないことを祈るばかりですが いい話が聞けてよかったと思った次第です。ここでこんなお話聞けたのも 何かご縁かな・・と。でも ここで 時間がた~んとかかったおかげで 銀行のはしごする予定が 半分しか行けなかったわ。昼から学校で進路説明会だったからね。神奈川とは全然違う受験事情に びっくりよ。その後・・・・・退塾届けを一緒に出すかね・・と 嘆き節のSちゃんママと お茶しましたよ。似てるんだな、Sちゃんと 長女。おおいに語り合って・・・・日は暮れて。。。。。で、結局 眼科には行けなかった一日でした。
2006/11/10
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昨日早朝、久しぶりに雨が降ったようです。なんとも美しい虹が・・・と惚れ惚れしながら空を見ていたのですが 足元を見てびっくり!玄関通路に しみが!!この前 葉型を入れてもらったあそこです。犯人は ハナミズキの落ち葉。真っ赤に色を染めた落ち葉の色素が 中途半端な雨で 染み出たらしい。。。急いで 間に入ってくれているSさんに電話。不測の事態だったようで・・というか こんな仕上げするヒトめったにいないらしいから 前例はないみたいだわ。確かに 葉っぱのアクがでるかもな って左官屋のおじちゃんが言ってたけど、こうもリアルに色がつくとなぁ。。。葉型の ちょうど葉っぱの部分に落ちてくれりゃ芸術作品なんだけれど・・・ポカッ (._+ )☆\(-.-メ) ォィォィ、ソンナコトアルワケナイヤロ!結局 なんとかいうやつを上塗りするようになりました。 [◎凸◎;]+¥|h¥cjj5$v¥%c6vk¥%#$そして、今日から 庭です。テラスのある東側のスペースは 生垣で表からは見えないので、物干し台の横に畑を作る予定。農耕民族の血が騒ぎます。昔は こちら側にも芝生を敷いていて ちょっとずれた位置に いい土を入れてもらって畑を作り サトイモとかアスパラとかトマトとかを作っていたのですよ。その畑だった位置には今 横浜から持って帰った、でっかい倉庫が建っているので 畑の位置をずらすしかありません。 全体の芝生は去年 全部引っこ抜いてもらっています。留守している間に(その前もだけど) 雑草が異常に繁殖し 家を貸していた住人は そんな芝の手入れなどをするはずもなく カヤの根っこが 我が家の芝生を占拠していたようです。知り合いの庭師のおじちゃんも 一度は『お手上げ』と言っていたのですが ウチが横浜にいる間に 全部掘り起こして抜いてくれたようです。この道ウン十年のおじちゃんの 人生最悪の作業だったらしいです。結構高い請求が来てびっくりだったけど、 近所の友人達に言わせると そりゃすごい作業だった・・って。おじちゃんも 「あの時、近所の人から冷たいジュース出してもらった、うまかった~」って言ってましたわ・・・ここでも近所の皆さんにお世話になってますぅ。。。おじちゃん、そして ご近所さんに 感謝です。玄関側の庭は 以前のように芝生を敷き詰めると また大変なことになるので 芝の面積を少なくするために(といったって たいした面積でもないけどね) 家に近いところは 枕木を入れます。駐車場からの通路になるようにね。義兄のところが鉄材関係の会社をしているので JRから枕木が手に入るのです。枕木にもいろんな種類があるということを 今回初めて知りました。玄関の時もそうでしたが 図面は あってないようなもの。殆んど行き当たりばったりの作業です。ちゃんと見ていないと とんでもないことが起こるのです。その一つが 門。2・3日前に もともと白かった門の色変えに 先日外壁の塗装をやってもらった『お祭りおじちゃん』が来ることになっていました。アイアン表札がブロンズ系の色だし、ちょっと緑がかった色、そう、屋根の色が 深いモスグリーンだから そんな色にするか・・それともインターホンにあわせて 濃いグレー??・・なんて言っていたのです。ちょっと用事があって留守して 帰ってみたら お祭りおじちゃんが モスグリーンに塗っていました。表札がモスグリーン系だから それに合わせたのか・・って 思えなくもないけどね。思ったよりも明るいよ。。。。屋根と同じ色だっていうんだけれど、屋根より明るい色に見える。。。広い面と狭い面とではちがうんだね。今までそれを言われ続けていたけど なんとなくすべてがうまくいってたから実感はなかったのよ。やっとわかったよ。え~~~っ!というわけにもいかないから 我慢しました。ポストの口も 同じ色に塗ると言っていたから 一度家に入って深呼吸してから 「インターホンと同じ 濃いグレーにしてもらえますか?」と 言いに行きました。「あ、持ってきてないなぁ。」と言ってたから 後日か?と思っていたら いつのまにか いい色に塗ってんじゃん黒にちょっと白入れてブレンドしたって。おい、できるんじゃんこっちは グッドな色よ。門の緑は ギリギリ許せる色かなぁ。。。留守していたわたしが 悪かったわ。。。。ということで 庭の方も 見ておかないとね。意思の疎通は出来ているつもりでも お互い別のことを考えてるっていうことあるからなぁ。そこが『他人』ていうことよね。そういう点、夫婦って おもしろいと思いません?まったく趣味も違うし、全然違う生活をしていた二人が一緒になり 同じもの食べて生活していたら なんだかいつのまにか同じようなこと考えていて 同時に同じ言葉を口走った・・なんていうことない?お~~「ハッピー、アイスクリーム!!」だっけ?そういうときに言う言葉家を作る時の内装にしたって 不思議と意見がぴったり合った。。。でも、今頃 あちらで叫んでるかなぁ?「ボクの趣味は そんなんじゃないよ~~!」って。ははは、知~らない!
2006/10/25
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こうみえて 結構気に病んでいることが いくつかあるのですが ちょっとここ2・3日、とにかく気になってしょうがないことが 一つ増えてしまいました。私が二人の子を産んだN産婦人科の看板から 名前が消えている・・・・・2・3日前のこと、長女の塾のお迎えの時に いつもと違う道を通りました。いつもと違う道といっても この団地から車で5分程度の距離のところ。道路が若干狭めなので、いつもは敬遠していた道です。道路沿いに病院の駐車場があるのですが 一台も止まっていない。えっ!と 奥の病院に目をやると 灯りがまったくない。びっくりしながらも確かめようとしたのですが 目の前の信号が青に変ったので 発進せざるをえませんでした。次の日 日中のうちに確かめに行ってみたのですが 看板の文字は消され、人の気配はありません。なんだか寂しさがこみ上げてきて その場で泣いてしまいそうでした。生理痛がとても酷かったわたしは 新婚の頃から 産婦人科の病院に通っていました。妊娠の兆候も見られず、結婚してからますます生理痛がハンパじゃなくなり、発熱して寝込むほどになっていました。そのせいで、結婚しても続けていた〇〇〇音楽教室の講師もやめました。たくさん抱えた生徒達に迷惑はかけられないと思って。。。そして都内の病院で、子宮内膜症という ありがたくない病名をいただきました。内膜症というのは 生理が繰り返されることによって ますます悪化するのです。薬で生理を止めたりとかいろんな治療をしましたが そうこうしているうちに とうしゃんがUターンして それに伴いわたしも 大学病院にある不妊外来に転院し 通い続けました。そこで 腹腔鏡の手術も 通算2回受けました。たぶん、非常に悪化した例として 学会発表されているはずです。2回目の手術が終わった後、悪いところは全部とりきれたから もしかしたら妊娠できるかも・・というお話を頂き 天にも登る思いだったのですが 排卵誘発剤を何ヶ月飲もうと 注射を何回うとうと 妊娠の兆しは なし。もしかしたら 主治医も半分あきらめたのかも・・ですが 「毎月ここまで通ってくるのはたいへんでしょう。近くの産婦人科で注射はうってもらって 何ヶ月に一回かだけ こちらに見せにきてください。」と。そこでわたしが選んだのが 近所でも評判の良いN先生のところでした。N先生は とても穏やかな方で親身に見てくださり わたしも何ヶ月か通いました。今考えてみたら そう長い年月でもなかっただろうに、子供を授かりたい一心のわたしにとっては 出口の見えないトンネルの中にいるような、気持ちのやり場のない暗い毎日でした。そして迎えた平成3年の3月。「今度の注射でダメだったら 福岡の方の病院を紹介するから そこで〇〇〇法をやってもらおう」。と 先生が。体外受精と違い、取り出した卵子と精子を混ぜ合わせ 受精の前に ただちに母の卵管に戻すというやりかたです。そのほうが自然に近いということで 体外受精の前に挑戦をしてみれば・・ということでした。あぁ、ついにそこまで来たか・・という思いで帰宅したその時のことが ついこの間のことのように思い出されます。しかし、この いわゆる最後のチャンスで妊娠!N先生も ご自分のことのように喜んで下さいました。特別大きな病院ではないのですが アットホームな雰囲気で なんといっても 奥様が監修をしていると言われていた食事が素晴らしい。3時のおやつに お夜食。さりげなく飾りにミントの葉が添えられていたりする・・・別にミントは好きではないけれど 心遣いがうれしいじゃないですか。見た目にも お味においても素晴らしく 毎回写真を撮っていたほどです。赤ちゃんの写真よりも多いかもです。入院が楽しみでしょうがなかった。。。姉なども、「あの時のひらりちゃんの食事がすごかったけん 自分の入院の時の食事のしょぼさに がっかりやったわ。」と言っていました。骨盤の大きさなどから 初めの子は帝王切開に決定。そして思いがけず 続けて次女も授かりました。帝王切開をしたあと 傷口をキレイにする為に テーピングや腹帯で締めるのですが わたしは肌が敏感で テープやゴムに負けてしまい 長女の産後 傷口が大きく広がってしまっていました。先生が それを次女の出産の時に、「きれいに縫い直して縮めてあげるからね~。」と 笑っておっしゃったのが忘れられません。つい2・3年前だったか 横浜から帰省していたわたしは どうも調子が悪くて 次女のお産以来初めてこの産婦人科を受診しました。10年以上もたっているのに 受付の人が 「あらま~~~!!元気だった??」N先生にも 「先生、覚えていらっしゃいますか?」とお話したところ、「忘れるわけ無いじゃない!」と うれしいお言葉をいただいたのです。子宮ガン検診に行こうと思っていた矢先のことで、ショックです。。。いろんなお産友達に電話して聞いても みんな知らなかったらしく 驚き、ショックの色を隠せない感じ。ある友人は 義理のお姉さんの乳がんを 先生に見つけてもらったのに・・と 声もありません。病院のホームページは消えてるし。。。。。2チャンネルを覗いてみると、 『7月末で 病院をやめることになった。』と 先生は患者さん達に告げたそうで 落胆した患者さんたちが 書き込みをしていました。継続の嘆願があまりにも多くて もう少し続けるかも という書き込みも。そして今日、病院に行ってみましたが 8月いっぱいで閉院したというような張り紙が玄関にあり、工事のおじさんたちがはいっていました。おじさんたちにも聞いてみましたが 知るはずもありません。う~ん。どうしたんだろう?どうしちゃったのよ、先生!!病気なのかなぁ?後継者がいないということは こういうことなのかなぁ。。。。。
2006/10/12
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これは 昨日のこと。義母のところへ、遅ればせながらの敬老の日のプレゼントを持って出かけました。糖尿も患っている義母のために 甘いものはだめだけど みたらし団子でももっていくか・・と 途中の和菓子やさんに立ち寄ってびっくり。『本日、お彼岸の為、本店のみの営業となります。』おぉぉ、、、ココで初めて お彼岸ということに気付くわたし。この頃、いやずっと、日にちの感覚ないんだよなぁ。ウチのとうしゃんのあちらへの旅立ちの式が春のお彼岸だったから ホントにあれから半年経ったんだ・・と実感。 義母は 横になって、テレビを見ていました。普段着に・・と持っていった2枚の上着のプレゼントに 何度も何度も ありがとう・・と。「母の日にもらったパジャマ、今ずっと着てるんよ。着心地いいわぁ。」こんな風に言われると うれしいですねぇ。「ひらりちゃんの所へ遊びに行きたいけれど、足がこんななだから行けなくってなぁ。なんか送ってあげようと思ってたけど、住所が分からん。そこの電話番号の上に 住所書いとって。」。。。。「うん、別に なんも送ってくれんでもいいよ。今度、リフォームが終わったら 連れて行くけん。。。。」義母の家のすぐ近くに住む義弟の嫁から 以前、こう言われていました。『もしおかあさんが お姉さんのところに行きたいって言ったら電話するけん、急いで仏壇隠して!』・・・住所を書いたら、タクシーに乗って急に来たりするだろうか・・・そんなことを考えながらも、 同じ話を繰り返す母には それほどのパワーはもうないかなぁ とも思う。。。。 「で、〇ちゃんから 電話あるかい?」と 義母。この質問が一番困るのです。 自分の息子が亡くなったとは夢にも思っていない義母には あれほど毎日のように電話をかけてきていた息子から ぱったり電話がかからなくなったというのは 不思議でならないでしょう。とうしゃんて そういうマメさがあったからなぁ。。。 とうしゃんの勤めていた会社の本社のある北欧の国に 義両親が旅行した時のガイドさん。日本に奥さんがいながら、仕事先のその国でイイヒトが出来てしまい、そのまま、その地に住み着いてしまったのだとか・・・「〇ちゃんも、そんなことになってるんやないやろうか・・・」 ・・・義母は そんなふうに思ってるらしい。そういう話を 義弟から聞いたときは わたしも のけぞりました。義弟も、自分の中で話をどんどん膨らませる母親を笑いながらも こんなだから、事実は話せない・・と 言います。不謹慎かもしれませんが 『この前、電話かかってきたのに、おかあさん、もう忘れたの?』っていうくらいボケてくれたらいいのに・・なんて 義弟たちとも話していたくらいです。『とうしゃんは死んだんじゃない。本社に転勤になっただけ、なっただけ・・・・ウソも方便、ウソも方便・・・ 』と心の中で念じながら 義母の目をまっすぐ見ることができませんでした。面と向かってわたしには、義母はそんなことは(イイヒトできちゃった発言)言わないまでも、転勤先から電話もかけてこないなんて 変だと思ってるだろうなぁ・・・・ 義弟は、「兄貴も忙しいんやろう。電話もなかなかかけられんやろうから、みんなで行くかい?」と 義母に言い、そう言われると義母も 「わたしは無理じゃ、みんなで行っておいで。」と。。。わたしは そこまで言えないなぁ。。。。なんだか、苦しいなぁ。 3人で食べなさい と 『おはぎの会』というところからもらったという『おはぎ』を もらって帰ったけれど、、、いや、おいしかったけれども、なんとも後味が悪かったです。。。。。
2006/09/24
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5年前の今日、あなたは どこで何をしていましたか?・・・・そういうふうに質問されたら?・・・・昨日の夕食のおかずを思い出すのにもちょっと時間がかかるわたしですが、この日のことは くっきりと映像が思い浮かぶのです。この年、長女は小学校4年、次女は小学校2年。長女はとても忙しい秋を迎えようとしていました。わたしはというと、近所の友人二人と 日課は ウォーキングでした。日中にやっていたウォーキングも さすがに夏は汗びっしょり。続けることで基礎代謝も上がってきたのか 体重も少しづつ落ちていき、(そう言いながら 今よりは5キロくらい痩せていた記憶があります。)、落ちていく体重がおもしろくなって、ウォーキングも どんどんエスカレートしていきました。暑くてやってられないわ・・と ウォーキングは 夜の部に移行。夜9時に集合、だいたい一時間半、時にはそれ以上、歩くこともありました。住宅地となっている丘陵地をいくつも『はしご』しながら この日も汗びっしょりになって 帰宅しました。「帰宅したらゴキブリ体操をするのがいいんだよ。」という友人の教えに忠実に 仰向けになり 体操を始めました。 ゴキブリ体操知っていますか?それまで歩いて 血液がみんな下の方にいっているから それをほぐしましょう・・ということでしょう。仰向けで両手両足を90度上に上げ、ブラブラさせるのです。そう、ちょうどゴキブリの断末魔のように。 いつものようにそれをやっていたら、二階でパソコンをやっていたとうしゃんが 「ゴキブリ体操なんてやってる場合じゃないよ。テレビ見てごらんよ。アメリカじゃ すごいことが起こってるんだよ。」テレビをつけたわたしの眼に飛び込んできたのは あのテロの映像。記憶の中でのこの日は 映画の一場面と見間違うようなショッキングな映像と 間の抜けたゴキブリの自分(笑)のツーショットの中で とうしゃんの声が 響いています。思えば、この秋から我が家には いろんなことが次々と起こり始めました。長女は 作曲のコンクールから始まり、区の音楽会のピアノ伴奏、体験学習、ピアノ発表会・・と 超多忙な秋を過ごし、ついに初冬に 高熱が続き、緊急入院になってしまいます。その直前の千葉旅行では 東京湾アクアラインの『海ほたる』で (千葉で大集合があるのか)ヤーさんの団体に出くわすし(笑) 山の中で車は止まってしまうし、なんだか、今までと違うサイコロの目がでてき始めた・・という感じでした。 とうしゃんも、あとで「あの頃から、ウチ、変になったよね。」と よく言っていました。今さら言ってもしょうがないことですが 寂しげな秋の風に当たりながら、ちょっと思い出してしまいました。
2006/09/11
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昨夜、同級生のK君のお姉さまから電話をいただきました。同級生のO君の奥さんのK子さんとのメールのやり取りで K君のお父様がお亡くなりになったこと知ったのが2日前。K君からは とうしゃんが亡くなった時に電報などをもらったまま何もしていなかったことが気になっていたので、家族だけでの密葬とは聞いていたけれど、気持ちばかりのお花を贈りました。K君のお姉さまは、お父様の看病に5ヶ月間病院に泊り込み状態だったとか・・自分のことよりも ウチのことを気遣うお姉さまの言葉に 鼻の奥がツーンとすることもしばしば。実はこのお姉さま、かつてご主人が急逝され、住んでいた関東近県の町から、郷里に戻ってきたという経緯があります。確かそのあと、実家のお母さまも闘病して(癌だったと思う)看取られた・・というおぼろげな記憶も・・・資格を取って、お父さんの世話をしながらバリバリ働いている・・というようなことを K子さんから聞いたような気がしますが、そのお姉さまが しみじみと言う言葉。「やっぱり、どんなに日が経っても 無性に涙が出てきたりすることがあるのは、もうどうしようもない仕方ないこと。でも、日にち薬も すこ~しづつ効いてくるんよ。でもいいね、ひらりちゃんは。子供さんがいるもの。この子達のために生きよう・・って言う気持ちが持てるもの。『誰かのために生きよう』っていうのは、ものすごく力を与えてくれるのよ。羨ましいわ。〇〇(弟、つまりわたしの同級生)なんかひどいんよ。『明日から、どうするんかい。また、働くんかい?』だって。時々フラ~ッと来て 看病したような気になってるヤツの言う言葉やわ、まったく。そんなすぐに、気持ち、切り替えられるわけないやんねぇ。9月くらいになったら、K子ちゃんもヒマになるっていうから、その時はおうちの方に寄らせてもらうわ。お茶しょう。ランチしょう。」・・・なんだか、とってもうれしかったです。お父様を亡くしたばかりのお姉さんを励ますつもりが、励まされてばかり。いやぁ、このヒト、大きいわ。こころがあたたかいわ~。このお姉さんに初めて会ったのは 約10年前。弟のK君が ウチの実家のすぐ近くの教会で結婚式を挙げるというので、ちょうど横浜からの帰省中ということもあり、娘達を連れ 式の終わりころにお邪魔しました。そのあとお姉さんと何度か手紙のやりとりがあり、『弟がやっと結婚して 肩の荷が下りたわ。まぁまぁの男やし、いい縁もいろいろあったのに いいトシになっても結婚せんから、男が好きなんかと思っちょったわ。』と、さらりと 言ってのけたから、 なかなかイケテルおねえさんだな・・と 密かに思っていました。でも、その当時わたしは(今もか)筆まめでもなく、 いろんなヒトと音信不通にしてしまっていて、お姉さんとも それきりになっていました。ご縁、復活か!ヒトの縁というのは おもしろいですね。ここで出てきたO君もK君も 同級生といったって 小学校4年生の時のクラスメートなのです。わたしは、たまたま4・5・6と同じ先生だったので、大人になってクラス会をやった時、いつ一緒だった友達かわからなくなってしまった思い出があります・・・K君に至っては 一年きりで転校してしまって・・・O君は・・と考えたら・・・以前・・・・・「あ、そうか。なんかいつも一緒にいたような気がすると思っていたら、吹奏楽部で苦楽を共にした仲やったわ」・・と 嫁のK子さんに漏らしたら、それを聞いたO君が「ひ、ひどい!」と言ったとか言わなかったとか・・・学生時代含め何年間かは みんな東京で、K君の柴又の下宿で、他の友人達も一緒におでんパーティやったな、大学から持ってきたというあの鍋は デカかった・・とか、箱根へのドライブをK君達から誘われたけど 忙しくて行けなかった・・・とか、断片的な記憶はあるのだけれど・・・おかしかったのが 学生時代。学生寮の仲間何人かと 『都電に乗ってみよう会』を企画して、都電沿線の誰かのお墓(歴史上の人物・誰だったかも覚えていない・・・)にお参りしたあと、おいしい和菓子でも食べて・・なんていうお気楽なツアーの最中、わたしは 本屋さんに立ち寄り 単行本を買いました。今では乗り物の中で本なんか読むと気持ちが悪くなるわたしが、その時は大丈夫だったのか、都電の中で 本を読んでいました。何気なく ふと顔をあげると、な、なんとO君ではありませんか。ふつうなら 『運命の出会い』というやつでしょうが、もうその時にすでに のちに嫁になったK子さんが、ボランティア活動中のそのグループの中にいたというから おもしろいものです。ハマっ子のK子さんが 郷里で就職するO君のもとに嫁に行き、どんな経緯でこうなったかは覚えていないけれど、この夫婦は、我が家の歴史には かけがえのない登場人物になっています。家族ぐるみの楽しい思い出もいっぱい。のちにUターンして郷里で結婚したK君の新居で、みんなで飲み会したこともあるなぁ。ちょっと詳しく書きすぎたかなぁ。K子さんは このブログの存在のことを教えている数少ない友人の一人だから・・・不適切な部分、「そりゃ、やばいよ。」「そりゃ、ちがうよ。」ってトコがあったら、モザイクかけるから メールちょうだい。(笑)ちょっとした出会いが おもしろい。一期一会。楽しいね。ココ何ヶ月か それをつくづく感じているわたしです。
2006/08/23
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昨日の子供達の空き瓶回収のボランティア活動の時の話です。お向かいのAちゃんが、次女のことを迎えに来てくれました。Aちゃんと次女は同級生です。ウチが横浜に引っ越したのは 次女が2歳のときですから、昔、親達のおしゃべりの輪の中で、空気を共有していたなどという彼女達の記憶は ないでしょうね。こちらに引っ越して来てから20日近くになるのに わたしがAちゃんに会ったのは ココに来て初めて。大きくなったね。次女のこと、よろしくね、・・と 目を細めながら、想いは 遠き日へ・・・ここへ家を建てて、家族ぐるみで旅行したりバーべキューをしていたメンバーが創成期メンバーだとすると、Aちゃんの家族は、初期のメンバーではありません。仲良しだったお向かいさんが ご主人の仕事の都合で転居したあと、すぐ入居して来られました。どんなヒトが引っ越して来ようが、すぐ仲間に引き入れようとする脳天気なメンバーばかりで、Aちゃん一家も、すぐみんなと仲良くなりました。その後のバーベキューや飲み会のメンバーにも、すぐ入ってくれていたと思います。ウチが転勤で引っ越して間もない頃、横浜の家でテレビを見ていたわたしの目に 衝撃的なニュースが飛び込んできました。水の事故、特に川の増水による事故が相次いだ年で、「またか~。」という思いで見ていた時に、見慣れた名前が・・・Aちゃんのおとうさんが、家族と一緒の旅行先で、水の事故で亡くなったのです。遺されたご家族一人一人の顔が目に浮かび、何日か眠れなかったことを覚えています。お医者さんだったご主人は、とっても『いいヒト』という感じの方で 確か30代半ば。奥さんも若かったと思います。お子さんは、多分当時小学校高学年のお兄ちゃんを頭に、全部で3人・・・帰省するたびに立ち寄る近所の仲良しの家で、「Aちゃんのところは、お父さんはいなくなったけれど、お父さんがちゃ~んと遺してくれていたから、考えようによっては、よかったのかもよ。夫婦喧嘩はせんでいいし、自分の好きなように生きていけるし・・・」と 友人達が言っていたのを 思い出します。その時は、自分も同じ境遇になるなんて夢にも思っていませんから、そんなもんかな・・と 聞き流していましたが・・・・確かに今、Aちゃんのお母さんはエネルギッシュで、趣味に生き、子供のお稽古事の付き添いに生き、とても優雅に生活しています。もちろん、経済的にしっかりしているという前提の上に、しがらみのない(いや、しがらみのない生活なんて ありえないなぁ)、ヒトも羨む生活が出来ているのでしょうが、同じ境遇になった今、彼女も、ここまでくるには、いろんな葛藤があっただろうな・・という想いが心の中で広がってきました。「それまでポンポン買っていた新刊書を図書館の本で我慢して、その図書館の帰りに奮発して 子供達と一緒に〇〇〇〇〇ジェラードを食べるんよ。こんなことに幸せ、感じたことなかったわ。」と 彼女が言った・・というのを 人を介して聞いたことがあります。幸せの見つけ方、幸せの拾い方、上手な時間の使い方、などなど、彼女から教えてもらうことは たくさんありそうですね。彼女、いい歩き方してる。なんといっても、いい子に育ってるんだもの、彼女の子供達。まだ、こちらに戻ってきて 彼女とは世間話ばかりで、その辺の話はしたことないけど、そのうちに、いろいろ話すこともあるかもね。わたしも何年か経った時に、「子供達、いい子に育ったね。」なんて、ヒトに言われてみたいわ。
2006/08/22
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朝一で、義弟のところに電話しました。といっても、義弟は単身赴任中なので、嫁のMちゃんと、姪のHちゃんしかいませんが・・・本日、とうしゃんの実家にお坊さんがみえる事になっているので、何時くらいに行ったらいいか聞こうと思って。あ、そうそう、義弟の家はとうしゃんの実家のすぐ近くです。同じ市内なのですが ちょっと田舎。ウチから山越えして車で15分から20分くらいといったところでしょうか・・・しゃべりはじめてびっくり。声、出ないジャン!!今朝起きて、誰ともしゃべってないからわからなかった・・・昨日は、こっちに来てから初めての雷雨で(雨はこの地、半月ぶりだったらしい)、義母との買い物の時にも まだ少し雨が降ってた・・・ちょっと濡れたせいかね・・・Mちゃんも わたしの声にびっくりしたらしく、「お義姉さん、無理しなくていいわ。ただのお盆参りやから。お坊さん、いつ来るかわからんし・・・それに、『長男さんお元気ですか?』とか聞かれたら、また、苦しいウソ、つかんといけんよ。」・・・・おお、そうか。若いのに、読みが深いわ・・・自分の発した声にもびっくりだったけれど、Mチャンの言葉にも納得。お参りは あとでこっそり行こう。昨日、義母をデパートに連れ出して、何時間か一緒にいたのだけれど、半年会わない間に 義母もずい分老いたな・・という感じです。暮れに家族で帰ったときは、義母は入院していて(糖尿で)病院に何度か見舞いに行きました。80才は越しているので仕方ないことなのでしょうが、会話のつじつまが ところどころ合いません。わたしは、義母のところに行く途中で、ほおずきを買って行ったのですが、それをたいそう喜んだにもかかわらず、ショッピングセンターで、「ほうずきを買わんといけん・・」と繰り返します。結局、他の花を買い、家に戻ったのですが、バケツに突っ込んでいったほうずきを見て 「これ、どうしたん?」わたしが、「さっき持ってきたやん。」と言うと「あ、そうやったかね。立派やね。ありがとね。」といった具合。 帰りの車の中で、「おばあちゃん、なんかちっちゃくなったね。」と 子供達にきりだすと、次女がこんなことを言いました。(この日、子供達はおばあちゃんから、結構なお小遣いをもらっていたようです。)「ばあちゃんちのゴミ箱に 名前の書き損じのポチ袋がいっぱい捨ててあったよ。」「〇ちゃん、漢字が難しいから、思いだせなかったんやろ?」と、わたし。「いや、ちがう。名前はひらがなで書いてあったよ。『ちゃん』の、『ち』の字が さかさま向いたりしてた・・・」う~~~ん。そうか~~~義母は 何年か前に脳こうそくを患っています。義弟が、昔の半分くらいしかわからん・・と言っていたのは こういうことか・・・義弟の言うように こんな義母にとうしゃんのことを話したら 完全に義母は壊れてしまうでしょう・・・・・ 帰宅後、夜になって、玄関のピンポンの音。どうも、インターホーンは壊れているみたい、向こうの声は聞こえません。・・・ありゃりゃ、また修理か・・・行ってみると 懐かしい顔。斜め向かいに住んでいたNさん。娘のRちゃんも一緒です。Nさんは 転勤でこの地に来て住み、そしてこの地が気に入り、他県の自分の家を売って 一本違う区画に家を買いました。みんなでワーワーキャーキャー言って 旅行したり飲んだくれていた時のお仲間です。ところが、転勤族なので、今では長女夫婦を自分の家に住まわせ、自分たち夫婦はご主人の転勤先の広島に住んでいます。子供が4人いて そのうち下3人が わたしのピアノの生徒でした。Rちゃんもぜんぜん練習しなくて わたしを悩ませた生徒でしたが、大学でカナダに留学していた時に、「心のよりどころはピアノだった、あの頃やめなくてよかった。」・・みたいなことを、何度か、わたしに報告してくれました。うれしいね、こういう話聞くと・・・Rちゃんは、今林業の勉強をしているとかで、広島の山奥に単身住んでいるらしいです・・・「この前、チェーンソーやってて、ちょっと怪我したけど大丈夫、たった6針縫っただけやったから・・」みたいな話を平然と続けます。いや~~、みんな、たくましく成長してるもんだわ。「Rが 広島にお先に戻るから とりあえず挨拶だけに来たんよ。わたしたち夫婦は また盆に来るけん、その時みんなでお参りさせてもらうわ。」・・・・そう言ってなんだか大きい箱を置いて帰りました。やっぱり、お盆、みんな来るんですね。実家の初盆の時、お参りに来た人に 『初盆会 〇〇家』とノシのかかった品物を渡していたような気がして 葬儀のあと返しのときにお世話になった〇越デパートの外商の人に確認したら、 「この地域(横浜)では そんなことしませんよ。初盆のお参りも よほど親しい人とか親戚でなければしませんし・・・」と。同じことを、葬祭コーディネーターののH氏も言いました。向こうで、向こう式に初盆済ませて安心していたけれど、どうやら、こっちはこっちのやりかたでやらなきゃいけなそうだな・・・・みなさんのところは どうしてます?いや~~仕事がまた増えたぞ。それだし、超特急で一階だけでも片付けなきゃね。みんな、来そうだわ。たいへん!!たいへん!!
2006/08/12
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復活宣言はしたものの、絶不調でブログ更新出来ないどころか パソコン開くことすら出来ない毎日でした。無線ランのカード(?)も どこかにしまったっきり、まだ出てきません。有線でつなぐと なんだかうっとおしい・・そんなわずらわしさもあり・・・ そして、やっぱり夏風邪は あなどれないです。熱→声枯れ→咳・・といった 風邪のお決まりコースです。引っ越し後、寝込むまではいきませんが いろんな雑用で動き回っていたら 咳がだんだんひどくなってしまい、夜は特に咳が激しく 眠れなくなってしまったので 今日はついに医者に行ってきました。やっぱりお医者さんの薬は効きますね。少し、いいような気がします。といっても、問題は 夜から明け方にかけてですが・・・近況及び引っ越しの記録の続きを 今日また少し。7月31日(月)横浜、引っ越し当日。早朝から、物置の解体業者がやってきて物置を解体。部品が やたら細かい。これもあとで、問題勃発。 8時半には 引っ越しトラックもやってきて 長~い一日の始まりでした。ピアノは2~3日前に お先に移動しています。これもすごかったです。やっぱりグランドは重いんですね。4人がかりでした。当日の引っ越しが無事終えたのは お兄ちゃんたちの頑張りと そしてわたしの友人たちの『お掃除大作戦』のお陰でした。長女の小1小2の時のママ友達の I さん、Mさん、Kさん、Sさんが お風呂、台所、トイレに至るまで 磨き上げてくれました。新築で入居して 約8年間過ごした我が家、ずい分汚したものです。Sさんの息子のR君から、この日の朝、「お前、引っ越すの?」とメールが来たのが笑えた・・と あとで長女が言っておりました。 わたしは、この友人たちのお掃除大作戦の時、何をしていたんだろう?・・・うぅ~ん・・・銀行にも行かせてもらった。そして???・・・断片的にしか記憶がないのです。ただ舞い上がっていただけなのでしょうね。お別れに・・と次々来てくれる訪問者に、いったい何をしゃべっていたんだろうね。これも、映像は浮かぶが・・・細かくは 記憶喪失???ちょっと落ち着いたのが夜の7時過ぎかな。横浜出発の時間まで、Mさん宅で、I さん、Mさん、そして、娘たちが工作教室でお世話になったママ友達のYさんとお茶させてもらいました。 M さんちを出たあと、次女の幼稚園時代の友人で、最近中学で再会したKちゃんちに寄ったのですが、Kちゃんママに抱きつかれて泣かれてしまったので、気が張ってたわたしも ついつい・・・そうそう、九州への移動手段は フェリーです。神奈川のA港から 引っ越し先の郷里のB港まで、なんと直行便がでているのです。荷物も積めるし、人も運べる・・・と フェリーを選びました。しかし、台風が来たらどうするつもりだったんでしょうね。これはイチかバチかでしたね。一ヶ月前の予約は かなりバクチでした。 そして奇遇なことにA港近くには 新婚の頃を過ごした町Hもあるのです。Kちゃんのうちで思ったよりも長居をしてしまったので、時間が気になってしょうがなかったのですが、高速をすっ飛ばしたら 思ったよりも早くAの町に近い高速のインターに着いてしまいました。そこでついついいつものクセで、子供達に、「おとうさんとおかあさんが 新婚の時に住んでいた町、見せてあげようか?」・・と、心の旅路の始まりです。厳密に言えば 子供に披露しようとした家は とうしゃんと結婚して2番目に住んだ高台の町Hにあります。多分、山を造成した住宅地なのでしょうが、頂上(?)近くにゴルフ場あり、プールあり・・の ちょっと変った町でした。恐がるわたしを助手席に乗せ 得意げに猛スピードで坂を滑走(?)し、微妙な段差でジャンプ!!・・・ジェットコースター気分を楽しんでいた地獄坂(とうしゃんだけが楽しんでいた)もある町です。「ほら、ここがお父さんと泳ぎに来たプール。そして、このゴルフ場は10時くらいになるとアルバイトのオバサンたちが 一斉にボール拾いを始めるんだ・・・」などと説明しながら、かつての我が家を探すのですが・・・・・ が~~ん!!記憶が切れている・・・見つからない・・・暗いというせいもあるでしょうが、むきになってグルグル探し回っても見つからな~い。2年も住んだ家が・・・情けなかったですね。人間の記憶ってこんなものかと・・・フェリーの時間も迫ってくるし、ついに断念しました。もうこの町には来ることはないだろうから、見ておきたかったんだけどもね。かつての恩人の住む町も横目に見ながら、「とうしゃんのことも知らせてないしなぁ・・」と いろいろな思いをその辺に置き去りにしていくような なんともやりきれない気持ちでした。でも、来てよかった・・・・うん、そう思います。さようなら、横浜。さようなら、神奈川。 そうそう、家を出るとき長女が 「ほらおとうさん、一緒に行くんだよ!!」と言ったのが なんだかジーンときましたね。 深夜に乗り込んだフェリー。実は2回目です。「こんな直行便ができたんだ。」と つい半年前、とうしゃんが予約して4人で帰省したのに・・・今回は 3人だ。・・・なんだかね・・・・・引っ越しの〇〇〇のおにいちゃんが 「僕たちも同じフェリーで行く予定ですよ。」と言っていたけれど、結構混みあってる感じ。ウチ、トラック2台だよな・・・〇〇〇のトラック、一台しか載ってないような・・・・・おまけに、個室のエアコン、イマイチ調節がうまくいかず、ほぼ22時間ぐらい乗船していなけりゃいけないのですが、どうもココで風邪を引き込んでしまったみたいです。夜が明けたら、体のふしぶしが猛烈に痛く、体が熱い・・多分、相当熱があったのでしょうね。寝たきり老人のような船中の一日でした。 とはいえ、無事郷里のB港に 翌8月1日夜に到着。翌朝の引っ越しが早いことはわかっていたので 友人のK子さんご推薦のスーパー銭湯に宿泊。ちゃんとベッド付きの個室あり、24時間入浴可。泉質も良く最高でした。サウナだけでも塩サウナ、高温サウナ、低温サウナ と3個あるのです。熱も体の痛みも おかげでだいぶん吹っ飛んだ感じです。恐るべし、さくらひらりの体!!この日宿泊者が めずらしく少なかったらしく、ほぼ、貸切状態。まぁ、真夜中や早朝に温泉入ってるヤツって そうそういないわな。贅沢なプライベート温泉でした。日中に来れば マッサージもついてたみたい・・今度、くるぞ!!今日は ココまでにしておきましょう。話が長くてすみません。
2006/08/10
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秒読み・・・引っ越しもそうなのですが、これはいっこうに はかどらず。もうひとつの 秒読みは・・・昨日20日は 今月末の吹奏楽コンクール地区予選に向けての父母会でした。子供達は区の公会堂を借り切っての一日練習。その時間の中で 公開練習含む・・の父母会でした。この、子供達の入っている吹奏楽部のことについては ブログの『定期演奏会』のところで書きましたが(と言っても、書いた当時は 長女しか入部していませんでしたが)部活が 今の子供達の生活のほとんどを占めていると言っても過言ではありません。『ただ楽しく通っているだけの部活』から 顧問がかわったことにより『結果の出せる部活』へと 大きく方向転換したのが去年。コンクールなんて出たことないっていう部が 去年からコンクールには出るわ、各地で出前演奏はするわ、ほんとに頑張っています。 吹奏楽コンクールは2つの部門に分かれていて大編成のA部門。こちらは、課題曲と自由曲の2曲を 制限時間内に演奏します。〇テレの『笑ってこらえて』が吹奏楽ブームのきっかけを作ってくれたので ご存知の方も多いでしょう。 そして、ちょっと小さい編成のB部門。自由曲一曲のみです。 去年わが中学はB部門に初挑戦しました。 思ったよりも良かった結果に気を良くして 今年はA部門に初挑戦。恐ろしい。もっと恐ろしいのが 一年生だけでB部門にも挑戦です。あぁ、恐ろしや。だいたい、一つの中学でA,B両方出るなんてところは 上の大会に行くような強豪のところです。 過酷なオーデションで惜しくもAには入れなかった2・3年生でBに出るってとこでしょう。5月に楽器を買ってもらった次女達が出るっていうことに 先生のチャレンジャーぶりがうかがえます。 B編成の一年生の曲は、「最下位はとるな!とったらクビ」と顧問から脅されている、顧問の教え子のA先生が指揮をします。(大学生です。)クビって言ったって 何の報酬もないボランテァです。やってくれているその熱意に脱帽です。 いや~、しかし演奏を聴いて びっくりしました。まず、次女達、B編成。2ヶ月前、各楽器のドレミもわからなかったような子供達なのに 曲になってる!一年生。初々しいです。そりゃ、細かいことを言えば いろいろあるけれど、今までこの一年生の演奏をぼろくそに言っていた顧問が 「おまえら、銀、とるかもな。」なんておだてるものだから、調子づいてきています。そして、おねーちゃんたちのA編成。さすが場数をふんだだけに、以前とは比べものにならない迫力がでてきました。しかし、全国への代表も出しているこの激戦区で 上位に名を連ね県大会に行くのはむずかしいでしょうね。父母会の最後に、「今年とは言わないから、今の一年生が三年生くらいになる時でいいから、県(大会)に連れてってよ~」って 顧問が小さな声で言ったのを みんな聞き逃しませんでした。 帰宅すると、おやつだけ食べて何時間も爆睡する二人に苦々しい思いでしたが うなづけます。 通しで連続8回、休憩なしの2時間ぶっ通し練習・・休憩はさんで また繰り返す・・なんてのをやってるらしいです。隠れ運動部ですね。そりゃ、寝るわ。(もっとも、すごい学校の練習は もっともっと上をいっていますが・・・) 子供達、このように頑張っています。 目標を持つということが こんなに力になるのかと びっくりしています。先生の指導力の素晴らしさだよね。 あともう少し。コンクールまで。 それで 私も二日間、完璧に時間を取られます。わが校は 父兄ですらチケットが入手できないという状況になりました。 せっかくゲットしたチケットだからね、行きますよ!引っ越し?・・・ゴミごと一緒にお引っ越しになりそうな様子にだんだんなってきましたね。本の山。もうすでに何百冊も捨てましたが 本日、近くのブックオフの人が引取りに来てくれて 150冊売れました。とうしゃんの専門書の類は そういう業者に託送の手配済。少しでもとうしゃんのいた分野の人に役立ててもらえたらいいな。ところで、木製の滑り台があるのですが いる方いらっしゃいませんか?かわいい柄です。(笑)母が お祝いに買ってくれたものです。(そんなことはどうでもいいわね。)クローゼット開けて存在を思い出し、びっくりしました送料のみ買い手負担で品代O円で。(送料高そ~)自宅まで取りに来てくれる人、歓迎。(笑)2日間限定売り出しで~す。ちょうど書き終わって送信しようかナァと思ってた時に 吹奏楽部の部長のおかあさんから電話がありました。引っ越しの前日の夜orその前の日の夜、吹奏楽部の打ち上げ兼送別会。ひと言で言うと 飲み会のお誘いでした。「決して無理はしないで下さい。でも、いい方の日を選んでね。」と言われました。 行けるのかしら???・・・・・・・・・
2006/07/21
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こんなはずじゃなかったのに、朝からほとんど出ずっぱりです。銀行2件。・・・ねずみ男さんがついて来るって言ったけれど、断って一人で行きました。バッチリ書類はそろっているかのように見えたけれど、両銀行とも叔父と叔母のサインと実印がいるとかいう書類をつきつけられました。(いや、別につきつけられてはいないけどね。心情的には そういう気持ち) 叔父たちにハンコ貰いに行ってる暇はないので、速達で送りました。まだまだ日にちがかかりますね。近くの洋菓子店で焼き菓子の詰め合わせを買い、中学校へ。校長へ挨拶。 校長には、昨日別件でも お騒がせしたので、その話も含め、しばし談話。実は、昨日娘が 変質者に遭遇したの・・・まったくね~、ヒマなおっさんもいるものだわ。 学校が、「お母さんからも警察に電話を。その方がパトロール強化してもらえるから」・・・とか言うから電話したら 近くの駐在さんにかわって えらく感じ悪くてね・・・まったく!!ここで怒ってる場合じゃありませんね。 中学は明日から一応 夏休み。いろいろ最終的な書類の記入なども終わり こちらは一件落着。学年主任、今までの担任の先生をはじめ保健の先生にいたるまで挨拶に来ていただき恐縮でした。ここでの先生方は ほんとに転居先に連れて行きたいと思うほどいい先生ばかりでした。 廊下で、次女が数学の若い男の先生と 追いかけっこしてます。なんじゃ? 同じ小学校だった男の子が長女に「〇〇、元気でな!!」と 声をかけて走っていきました。・・・悪ガキだと思っていたけれど、いいやつだなぁ。向こうの先生も いい先生たちだといいナァ。 帰ってピアノの最終レッスン。今日の生徒さんは 3歳の時から6年間みていた生徒さん。体が小さくて 何度もやめようかという時期を乗り越えて このごろやっとピアノが楽しくなってきたとのこと・・・6年か・・・あぁ、わたしも トシとるはずだわ。これも 一件落着。そして 次女のバイオリンレッスン最終日。年配の先生ですが 次女のことを6年以上 ほんとに根気よく みてくれました。先生の期待に答えることなく(?!)終わってしまいましたが・・・しかし、これも一件落着。 学校、塾から帰ってきた子供達に聞いてみました。こちらでの中学、最終日の感想を。特に長女なんかは 涙でグジョグジョになるだろうからクラスのみんなに用意した品物、渡せないとまで言いましたから、心配していました。 ・・品物を渡すのは先生に頼んだらしいです。もうひとりの転校するクラスの男の子が 何も持ってきていなかったから・・w(゚o゚)w オオー!・・・・・あら、そう。母 「で、泣かなかったん?」娘 「だって、明日からも引っ越しまでずっと コンクールの曲の練習で毎日学校行くんだもん。」 あぁ、そうか・・・部活がありましたね。 そしてそして、義弟から電話がありました。 わたし、義母に引っ越しのことをまだ言ってないのです・・・・ご住職に いくら『ウソも方便』と言われたといっても 結局は作り話をしなければいけないわけでしょ。亡くなったとうしゃんが まるで生きているかのような話をつくるわけだから・・・ そしたらなんと、義弟が話してくれたんだって!『兄貴は〇〇〇の本社に転勤。3年くらい帰ってこれない。義姉さんところの△△のおかあさん(わたしの母)も あんまり具合がよくないらしいから 兄貴がいない間マイホームにもどってくる。兄貴はなかなか帰れないから 何ならみんなで行くかい?』・・てな話をしたらしいです。若い時ならまだしも、トシとって「さぁ、ヨーロッパに行きましょう。」とは言わないだろうと・・・見事な作戦。頭が下がります。 義母も 孫たちが帰ってくるということで とても喜んでいるとか。□□さん、ありがとう。 お義母さん、ごめんなさい。これも、一件落着・・かな?あとは、片づけだ~~~ |||(-_-;)||||||
2006/07/19
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初盆も無事終わって やっと一息と言いたいところですが 現実には 引っ越しが秒読み段階であることが肌で感じられるようになり よく眠れなかったり いやーな夢を見るようになってしまいました。らくらくパックになったことで気をよくしていたのですが 大事な『捨て』作業が ちっともはかどらないのです。あ~ぁ。 日記書いてる場合じゃないなと思いながらも、すぐにここに逃げてきたくなります。(笑)そして、大変なことを忘れていました。・・・本日月命日。 (゚ロ゚;)エェッ!?今日が17日ということは 朝確認したのに・・・友人が訪ねて来てくれて 言われて初めて気付きました。完全にボケてます。・・・自己嫌悪・・・ 盂蘭盆会、追記です。初盆の時に 九州から義弟(とうしゃんの弟)が来てくれた事は 前回の日記に書いた通り。その義弟の話です。15日(土)の初盆が終わったあとのことです。この日こどもたちの所属するブラスバンドが 地域の小学校の夕涼み会で出前演奏をするというので お寺から帰ったあと子供たちは 部活に直行でした。わたしと義弟は 近くのすし屋で昼食をとりました。その席で義弟が 私たちの今後の暮らし向きについての話を始めました。そうだよね、一家の主が亡くなったら そういう話が出てくるのは当然だし、みんなの気になるところではあるだろうな・・・・・。で も、その点については 「お陰さまで とうしゃんの遺してくれたもので、やっていけるから・・」と 何度言っても話を譲らず、義母の亡くなったあとの話ではあるけれども と具体的な金額をあげながら 義母の遺すであろう預貯金などは自分に気兼ねなく使って欲しいというようなことを言うのです。今、義母にはとうしゃんのことは伝えないでいるが、もし、義母がそのことを知ったら きっとこうするだろうから・・・と 言い続けます。その場は 「まあまあ 気持ちだけで」ということで話をおさめたのですが 昨日16日(日)、帰り際に またそれとは別に 「たった二人兄弟の 弟としての気持ちだから・・・お金はいくらあっても邪魔にはならないから・・」と 大金を置いていってしまいました。気持ちはうれしいのですが、はっきりいって ちょっと困ってしまいました。今年早々、とうしゃんが買ったばかりのバイクを 「自分は、もう乗れないから。」と 弟に送り届けた時も そのバイクの新車価格相当の大金が送られてきました。その時は そんなつもりではないから・・と すぐ送り返しましたが・・・地方公務員の義弟は とうしゃんが初めての手術をした時も 九州からいきなりかけつけてきてくれた心優しい人です。そして 次の訪問は 葬儀の時。 「せっかく、横浜まで来たのに 見舞いやら、葬式やら、観光どころじゃなかったから どこも行ってないやん?」・・ということで 「どこか行ってみたいところがあったら言って。」・・と聞くと 『靖国神社』と『兜町』と『上野の美術館』・・と バラエティにとんだ3箇所をあげました。もちろん、一人で行ってもらうのですが(笑)・・・ネットで 調べてあげようかな~と思って。 さすが、とうしゃんの弟ですね。理由がおもしろいです。『靖国神社』・・・小泉さんの代わりに。 (ノ゚ο゚)ノ オオオオォォォォォォ-・・・・・実際15日に行って、素晴らしかったと感動していました。『兜町』・・・今、損失を出している株の あだ討ち。 連休だから やってないぞ~。・・・・・ここには たぶん 行ってないだろうなぁ。『上野の美術館』・・・自分の奥底に潜む芸術性を開眼させる為・・・ ウソウソ!・・・・・行ったのかナァ? 本当に本当に いい人なのです。う~ん、でも お金のことは 困っています。とうしゃんが知ったら きっとこう言うよ。「〇〇、そんな気をつかわなくてもいいのにナァ」って・・・暮れに帰った時も 自分に万が一のことがあっても お金の心配をかけるようなことはないから・・・って弟に話していたのに・・・・・・・・・う~ん・・・・ボチボチ考えますかね。・・・・
2006/07/17
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ここ何日か、いろんな用事がたてつづけに入り、はっと気付けば 昨日15日、初盆(新盆ともいいますね)のお参りの日を迎えていました。お盆を関東式の7月でやろうか、それとも九州に帰ってから旧盆でやろうかと ずっと考えていたのですが、うちは7月末に引っ越しという大計画があるので こっそりこちらで(?!)やって帰ろうと お寺に先月問い合わせをしました。ご住職さまは 四十九日の時のように、うちに来て下さるという前提で話をされていたのでなかなか日程が取れず、どうしようかと思っていたのですが 「引っ越しを控えて自宅ではたぶん荷物もいっぱいだろうし・・・で、こちらが お寺に伺わせていただく。」ということを申し出ると、「じゃぁ、朝が早いけれども・・」と まさしくお盆の 昨日15日9時に入れてくださいました。おまけに こっそりやるつもりが 義弟(とうしゃんの弟・とはいえわたしより年上)にバレてしまい(笑)、はるばる九州から来てくれて 金曜日の夜から泊まってくれています。あいかわらずの、おばかなカーナビと 連休初日の すでに始まっている渋滞のおかげで うちから寺まで40分弱で行けるところに 1時間と5分かかりましたが 何とか無事到着。山の横浜から 方角で言えば真西に進む東京都下へのプチドライブでした。このお寺は 葬儀のコーディネーターをやってくださったH氏が紹介してくれたところですが ご住職が 式の時も四十九日の時も、心にズンと響くお話をしてくれました。そして昨日もまた わたしの涙腺は 弱ってしまいました。お経のあと、まず、『お盆』のいわれについての話から始まりました。お釈迦様の弟子の一人に 目連さんという方がいる。ある日、神足通(じんそくつう)(行きたいところに自由に行ける能力)という神通力によって、亡き母はどうしているだろうかと捜した。天界、人界・・どこにも見当たらない。そして地獄・・・ 餓鬼道を探していると、そこに堕ちている母親の姿を発見したのだった。身体は痩せ衰え、それはそれは哀れな様子。目連は鉢に飯をもり差し出すのだが、母が口元へもっていくと、たちまち火炎と化して食べることができない。生前、非常に目連にやさしかった母が、何故餓鬼道に堕ちたのか不審に思った目連は、やはり神通力で調べてみた。 夏の暑いある日のこと、目連尊者の家の前をとおりかかった人が水を一杯めぐんでくれるよう頼んだ。目連尊者の家の水瓶(みずがめ)にはあふれるほど水があったが 母は蓋(ふた)をとろうとせず、何度も乞うその声に母は「この水は目連の水だ」と答え、水を分けようとはしなかったのだ。母は、目連尊者を大切に育てるためとはいえ施しを忘れ 道理を見失なった生き方をしたのだった。そしてそのおろかさから餓鬼道に落ちたのである。目連尊者は自分のために母が餓鬼道に落ちたことに驚き悲しみ、そして苦しむ。そして、お釈迦さまに 何とか母親を救う方法はないかと 泣きながら尋ねた。すると、お釈迦さまはおっしゃった。 「私やおまえが母を救うことはできません。また過去の行いを取り消すこともできません。しかし母ができなかったことをおまえは行うことができます。多くの人に飲食を供えるのです。七月十五日は修行僧が長く厳しい修行を終える日です。この日にすべての修行僧の徳をたたえ、食事を施しなさい。そうすれば修行僧たちは、餓鬼で苦しむ者のために喜んで回向してくれるでしょう。この功徳によってお前の母や餓鬼道で苦しむ多くの者は全て極楽に生まれ変わる事ができましょう。」目連尊者はお釈迦さまの教えにしたがい、百味、百果の食べ物を用意した。そして食事には多くの人々が集まったそうである。その後、目連尊者が 母のもとを訪ねると そこに白い雲に包まれ うれしそうに天にのぼる母の姿を見ることができた。それを知った仏弟子達は大いに喜び、歓喜の踊りを踊った。この踊りが「盆踊り」の始まりだといわれている。それ以来、仏教徒の間では、7月15日が先祖を偲ぶ日として定着していったようだ。というようなお話でした。 そして、次に 我が家の話。お墓は、転居してから・・郷里に・・・という話の中で、我が家の抱えている状況についてお話しました。去年義父を亡くしたこと。義母は脳こうそくを患い、現在は、ヘルパーさんの手を借りながら、平常の生活はできるところまではきたものの、元来、人一倍いろんなことを気に病む性格ために 親族・母の友人たちの総意で とうしゃんが亡くなったことは伏せてあること。海外赴任しているという 悲しいウソをついていること。そのほか、いろんな事情も加わって、高齢の母には その命をまっとうするまで 長男の死は伝えないままにしておこうかと考えている・・というようなことを 義弟といっしょに ついついお話してしまいました。ウチの事情を聞いたご住職が 「そういう事情がありましたか・・・おかあさまに ご長男さんの亡くなった事は告げずにおく、・・・それでよろしいんじゃないでしょうか・・・」「そして、奥さん・・・・」と わたしの方を向いて 話を続けられました。 「奥さん、このことで、決して自分を責めたりはしないこと。ウソも方便というではないですか。・・・・・」 まだまだ温かい言葉は続いていましたが、ご住職のひと言ひと言が わたしの 心の琴線にふれてしまい、涙が止まらなくなってしまいました。義弟から、義母には伝えないでおいて欲しい・・という申し出のあった時 いつまでこういう状態を続けていられるか と 本当は かなりの心の葛藤があったのです。そしてそれは 今もずっと続いています・・・・・ その重い気持ちが 少しだけ軽くなったような・・・・・ こんなことをお寺で話すつもりはなかったのですが ついついお話してしまったのは・・・ お寺が それはそれは素晴らしかったからなのです。とうしゃんのきらいな『キンキラキン』ではなく、和洋折衷というか、モダンではあるが なんともいえない落ち着きの和の空間もあり、「あぁ、こんなところにあるお墓だったら とうしゃん、喜ぶだろうナァ。」と ついつい思ってしまったからなのです。・・・それは 九州に戻るわたしたちには 叶えられないことですが・・・ 『和』を求めるご住職と 『洋』を主張する友人の建築家の意見の結集で、こういう形になったらしいのです。丘陵地に建てられているので 本堂を出ると、な だらかに山の方へと続く広大な緑の芝生が目にはいってきて、しかし 洋風かと思いながら階段を下りていくと 和風庭園もある・・・ 檀家制度もやめ、寄付金も一切受け取らないという方針だそうです。 義弟も 「兄貴が この寺見たら『いいとこに連れてきてくれた』ちゅうて きっと喜ぶやろうなぁ。」と 思わず感嘆の声をあげたほどです。人生の不思議なめぐりあわせに またまた感謝でした。こんな言葉はふさわしくないのかもしれませんが ほんとに素敵なお寺とご住職さま。上京することがあれば 是非また立ち寄りたい ふと そう思ってしまいました。外の暑さを忘れる清清しい空間の中での盂蘭盆会(うらぼんえ)に 「無宗教で。」と言っていたとうしゃんも きっと喜んでくれていることでしょう。遺影の小さなほうの写真も持っていったのですが、なんだか昨日は いつもより笑っているような気がしました。
2006/07/16
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今日は昼に一つブログを書き始めたら、自分でも予想外の展開になって なんだかスコ~ンと どこかに落ちていく感じがしました。けれど 「いかんいかん、このままでは5月の二の舞だ。」とばかりに、ぐっと両手に力を入れながら 今日の続きを書いています。昼書いたブログに コメントくださった方々、すみません。今日はお返事書けそうにないです。そのうち 書けると思いますが・・・いや、わかりません、書けなかったらごめんなさい。子供たちは、午前中で部活が終わり一応フリータイム。こういう日は この頃ほとんどないのです。次女は友達何人かと、近くのプールに行くとか・・・そして長女は・・・というと この子もプールに行きます。違うプールですが・・・・・ 長女は 「泳げない。」 と言うのです。特に中学に入ってからは それが大きなコンプレックスになっているようです。お友達は ほとんどみんな小学校の頃スイミングに通っていたようで、中学での水泳の授業は 泳げることが前提だとか。いつも『タイム』をとるのだそうです。「泳げませ~ん。」と訴えると 「それらしいやつで泳いどけ!!」と言われるのだと・・・みんながスイミングに通っていた小学校低学年のころは 長女はピアノだ、作曲だ、と 彼女のこれまでの人生で一番頑張っていた時期でした。いや、あの時、短期だったけれどスイミングに、何度か通わせて25メートルぐらい泳げていたんですよ。そうそう、そのあと 入院したりして、あの頃から泳ぎどころかピアノとかも なんだか やってるんだかやってないんだかっていう感じになってしまったんだよね。それに 転校先の学校で いきなり授業で「泳げな~い。」じゃねぇ。その地で我が家は 長女が4歳まで暮らしたのですが その時の仲良しのお友達、水泳やスキーでメダル取るほどの腕前・・・そこに、「まったく泳げない 。」じゃねぇ。あ~~~ぁ。 それで、親ばかと言われそうですが 中三にもなって スイミングのレッスンを受けようというわけです。それも何せ多忙。通常コマではとれません。ダメもとで 何件かのスイミングスクールに プライベートレッスンをやっているか電話したら、そのうちの一件だけが 入会金などがいらず、1回ずつのチケット制とのこと。で、やってきました、Dスイミングスクール。 女性コーチをと希望していたのですが 何せ昨日申し込んでの今日ですから 今日は男性コーチになりました。結果から言うと 30代前半と見られるこのコーチ、とっても良かったようです。おまけで言うならば、このスイミングスクールの男性コーチ、(今日は3人見ましたが)みんなそこそこのイケメンでした。(笑) 上の窓から 時々見ていたのですが なんだかとっても楽しそう。結構 フォームもまぁまぁらしく 何回かかるかわかりませんが 正しいフォームを教えてもらい 水への恐怖心がなくなるだけでも来た甲斐があるでしょう。次回は あさって火曜夜、同じコーチが教えてくれるとのこと。プールのあとに 〇〇〇デンキに アイロンを買いに行きました。アイロンといっても 普通のアイロンではなく、ヘアアイロンです。これも長女のたっての希望。まぁ、わたしも欲しかったから いいかぁといったところですが 何でも言いなりだとしゃくにさわるので いくつか条件を出しました。ピアノの『ある曲』を弾けるようにする、塾の宿題やりあげる、などなど。こんなことはしたくないのですがね・・・・・おまけにOちゃんの誕生日プレゼントを買いたいのだと。あらあら、Oちゃんのはいいんですが 母も今日、誕生日なんですけれど・・・まぁ、祝ってうれしいようなトシでもないので どうでもいいのですが・・・ 昼、雨なのに傘持ってないから迎えに来てって言われて 車で行った時、「月初めだからこずかいくれ。」って二人から言われました。次女にいたっては、「貸してある5000円、返せ。」って・・・(まぁ、これはわたしが悪いんだけれどね。)(笑)誕生日プレゼントは 『あんま』だそうです。まぁ、いいっかぁ。で、ファンシー雑貨をいっぱい取り扱っている文房具やへ 友達へのプレゼントを買いにGo。おしゃれな店内に わたしの好きなコーナーがあります。全身の映る鏡。ナルシスト ではありません。歪んでいるのか、かなり細身にうつります。(笑)仕方ないので、ちょっと有名なシュークリームをケーキの代わりに買いました。 ところが 暗くなってから、友人たちから おめでとうメールやケーキ 、さくらんぼまでもが 届きました。ありがたいですねぇ。誰かが覚えていてくれたということが・・・・・Tさん、Iさん、ほんとにありがとね。今日の天気と同じ、曇り時々雨のちに晴れ、なんだか、浮いたり沈んだり 忙しい一日でした。
2006/07/02
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朝早くから 子供たちは部活に行ってしまいました。 吹奏楽コンクールまであと一ヶ月もありません。中3の長女が大人数のA編成にでるっちゅうのは まぁわかるとして、今年は1年生ばかりで B編成にもでるっちゅうので 顧問の先生のチャレンジャーぶりがうかがえます。あ、そうそう、昨日の部活で、次女が顧問から、「トロンボーンらしい音がでている。」と褒められたと喜んでいましたが それなら今までいったい何の音だったんでしょうね。自分でもツッコミいれてましたけど・・・そんな子たちの合奏って いったいどんなもんなんでしょう。おそろしいです。なんだかヒマなので、気まぐれそうなお天気とにらめっこしながら 物置の整理を始めました。意外と盲点でしたが 物置って いろんな幸せの象徴がつまってます。ビーチパラソル、ローラーブレード、一輪車、クリスマスツリー、バーべキューセットなどなど。考えまいと思いながらも「あぁ、あのころは・・・・」と 思いが巡ります。 「あ~、、、バーベキューセットのネジがはずれない!!」と プラスのドライバーを探しましたが こんな時に限って見つかりません。とうしゃんの部屋の工具箱を 片っ端から開けて探すのですが 何を作ろうと思って買ったものなのかわけわからない工具類やネジ類ばかりが出てきて、肝心のものが見当たりません。たぶん、プラスのドライバーなんて 家の中には10個くらいあるでしょうに・・・・・ やっと見つけたドライバーですが ネジ穴とのフィット感がイマイチで、はずすのにえらい時間がかかりました。 6個あるネジのうち3個はずしたところで「あっ、電動のヤツ、買ったって言ってたわ・・」と 思いだし、また、とうしゃんの部屋に。 ありました、ありました。 「ブィ~ン~~~」「おぉ、すごいすごい。」と感動したものの、手あれ防止の為にはめていたビニール手袋を巻き込んでしまい、ヒヤッとしました・・・・ こんなこと、みんなとうしゃんにまかせっきりだったものなぁ・・・・・ため息ばかりです。そんな折、道路では 「ご家庭でご不要になったパソコン、ラジカセ、またその他の電化製品・・・・などお引取りいたします~。」の 流しの軽トラ回収車のおじさんの声。一瞬、殺意が起こりました。とうしゃんの部屋の中もそうなのですが 倉庫の中にも 当面必要のない書類の類を持ち込んでいたらしく、ダンボールがいくつか はいっています。とうしゃんが開発した『あるもの』の設計図モノから書類などなど、素人にはわけわからないものばかりです。マル秘ものもかなりでてきたけれども こんなもの紙類の回収にだしていいものなんですかねぇ?こういうものはシュレッターにかけなきゃならんと言っておりましたが こんなに大量のものを うちのシュレッターにかけたら壊れてしまいます。もう知らない!捨てるぞ!!とっておいても 子供たちの勉強の役にたちそうなものはないし・・・悲しいかな、とうしゃんの理系の頭脳の血を引いた子供は ウチにはいないのです・・・・・なんだかねぇ・・・人が死ぬってこういうこと?って思いますね。あの世には 何も持っていけないんだものね。頑張って勉強したこと、仕事の業績、お金、地位・名誉(たいしてこれは ないけどね)・・・これは、とうしゃんも よく言ってました・・・・ あぁ、スコ~ンと 谷にはまってしまいました。引越しの片付けをするたびに 闇におちそうです。
2006/07/02
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これは6月7日に書いている6月6日の日記です。 ヘルパー2級取得講座第8回。 早いもので4月から始まったヘルパー講座のスクーリング8回目。なんと、実技スクーリング最終回まで来てしまいました。あらあら、5,6,7回が まだ書けてないのに 8回目を書くことに・・・すごく罪悪感を感じるのだけど・・・・ちょっと前のわたしなら 自分の中でそれは絶対許せないことだったんだけど、「まぁ、いいっかぁ。」と・・・・忘れないうちに書いておきます。(笑)通常なら、講義を受ける前一ヶ月間に 学科レポートを4枚書き上げて・・・といってもマークシートで一枚に付き20問、計80問・・・なのですが・・・何せ、開講3日前の 駆け込み申し込みで、学科レポートも、遅れに遅れて提出していました。(ちなみに、男性Yさんは いっこもまだ 出していないとか・・・プッ!・・・おまけにコイツ、「気、 抜いて歩いていたさくらさんと街で会った。」と みんなの前で、発表してやがった!)・・・やっぱ、脱力してるの、わかったんだなぁ。(涙)@(-。-) ハフゥ~本部の方に聞くと、学科レポートは きょうの8回目までに終わればいいと言われて わたし、やっと先週終わりました。(おそ~い!)この学科レポートは、受講された方は お分かりかと思いますが、引っかけ問題のオンパレードです。 『正しいものの組み合わせを 一つ選べ』の次には『誤っているものを一つ選べ』・・・結局文章一つ一つをじっくり理解して間違い探しをしていかなければ、答えは出ないのです。早くに提出し終わった仲間たちが 『まんまと罠にひっかかった』と噂しておりました。正直、「ど・れ・に・し・よ・う・か・な?」でやったやつもあったのですが、奇跡的に一回目と二回目は 満点。気負って『3回目も!』と提出したつもりだったのに・・・・・・・・オオバカです。あれほど、娘たちにケアレスミスをするな!!と言っているのに・・・・・ 返ってきた答案を見て愕然。無答がひとつ・・・・・・・母は やってはいけないミスを犯していました・・・・・・ばかばかばか!・・・・疲れていたのかなぁ。昨夜は、今日提出する10項目にわたる実習のレポート(これは、マークシートではない)作成の為、寝たのは2時半でした。いつもそれぐらいの時間に寝てはいるのですが、いつものように 『うたた寝の果てに就寝する』のと『頭を使ったあと就寝する』のでは、ちと違う・・・おまけに、今日一日、10時から5時まで、一時間の昼休みをはさんで、ずっと『ケア計画書の作成』と『緊急時の対応』。ずっと机に向かっての講義で、みんな、眠気と闘いながらの必死の形相。必要以上に質問したりして・・・そのあと一時間、これから始まる施設実習などのオリエンテーリング。『立て板に水』のおねえさんのしゃべりに頭がクラクラしてきたのは、どうやらわたしだけではなかったみたい・・・・・ この講習で皆が揃うのは、今日が最後。これから計5回の現場実習が 個別に はいるのだと・・・・・認識不足でした・・・(´ρ`)ぽか~んそして6時から打ち上げ~みんな、これを待っていたのですよ。近くの大きなお寿司屋さんで寿司会席。ほんと、ここで知り合ったみんなは ほんとに気持ちのいい仲間で、年齢層も18歳から65歳まで、とバラエティに富んでいます。もう一人の男性のHさんが 「なんさ~い?」と聞かれ、まじめそうな顔して「3ちゃ~い!」とか言ってます。(実は45歳)まったく、変な人ばっかり。(笑)でも、愛すべき人たちばかり・・・・ それぞれが、みんな素敵なのですが、今日はその中の一人、最高齢者のMさんの話をひとつ。とても65歳という年齢には見えない、キュートな方です。上背もあり、なかなか体格もよろしく、白髪まじりのショートカット。カッコいい『お金持ちのおばちゃま』という感じ。お料理の先生とは聞いていましたが、ものすごく、なんともいえないオーラがあり、お話もとってもおもしろい。 「あなた、神様は 乗り越えられない試練はあなたにお与えになってはないのよ。人生の最期に 『いろいろあったけど、結構素敵な一生だったわ』と思える毎日を過ごしなさい。」・・・そのオーラの中の包みこまれるような強さとやさしさに 今日は ちょっと涙腺が弱かった『さくらさん』でした。さぞや、何一つ不自由のない生活・・・・と思いきや・・・・波乱万丈の人生です。彼女の口癖は『経済の自立なくして、精神の自立なし。』『人生一幕一場より、何幕何場の方が 面白いじゃない。』『わたしを必要としてくれている人がいる限り、わたしはそこに行くのよ。』などなど・・・今彼女は、自分のお料理教室を一時閉鎖して、ある末期がん患者の方のための三食の食事を作っているそうです。この方のおうち、かなりの遠距離です。毎日通っているのだと・・・ 今日のように行けない日は 前日にすべて作り置きし 冷蔵庫の中に『温めれば食べられる』状態にセッティング。何せお料理の先生ですから、メニューもハンパじゃない。食の細くなったその人のためのスペシャルメニューです。自分ひとりで始めたボランティアの手作り品のバザーで、彼女の人柄に惹かれてか人が集まってその輪が広がり、昨年のバザー売上金は 約百万円。いろんな団体に寄付したらしいです。みんなで記念撮影をしたあと、Mさんに誘われて四人ほどで、お茶しました。そこで聞いたMさんの人生(五幕ぐらい)の話は 壮絶でした。はるか昔、『自分と子供たちを遊びに行かせて その留守中のご主人の浮気』からはじまるのだけど、幼い子供が三人もいたから離婚は出来なかった、そして今、何十年もたっているのに 御主人は離婚してくれないんだって・・・・・ 新聞の広告で見つけた『お手伝いさん』をかわきりに、自分で切り拓いていった数々のエピソードに脱帽。のけぞるばかり・・・ そのバイタリティに すごい!!というしかなかったわ。ごめんなさいね。興奮していて 何書いてるかわからなくなったけど許してください。 死別してブログを始めて・・・ 本当だったらお会いすることもなかった皆さんにお会いして・・・ 姿は見えない方たちに励ましていただいたり、慰めてていただいたりして 心癒される毎日・・・また、死別しなければ このタイミングでは行きはしなかったヘルパー講座で 19人の仲間とめぐり合い・・・・・ここ何ヶ月の間に、かけがえのない財産を たくさんいただいています。心から感謝です。わたしの人生、何幕何場になるのでしょうね。ところで、この講座、同郷の方がいらっしゃるのです。さくらさんていうお名前なんです。「さくらさん。」って呼ばれると なぜか振り向いてしまいます。長くなりましたが、『5日はレポート』そして、『6日は 冷酒で頭ガンガン』(あらら・・・)で コメントのお返事書けませんでした。今日は、お出かけの予定が入っているので、すぐには無理ですが ボチボチお返しします。すみません。 <(。_。)>今後とも どうぞ宜しくお願いいたします。
2006/06/06
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これは6月5日に書いている6月5日の日記です。 衣替えの途中で、とうしゃんの着ていたフリースの上着発見。PIKOのパジャマとセットになっていて、ちょっと寒い時なんかに とうしゃんが羽織っていた。確か、亡くなるちょっと前まで着ていた気がする。・・・・・そっと、におってみる。とうしゃんのにおいだ・・・・・「ほら、におってごらんよ。」と 娘たちに・・・「あっ、おとうさんのにおい・・・・・」元気な時は、「おやじのにおいだ、きゃーっ!」とかいって 逃げ回っていた、そのにおい・・・なんだか懐かしい。捨てられないものが また増えた・・・・・ これより、過去日記に潜伏予定。もしよろしかったら、5月9日『どしゃ降り、そしてちょっぴり晴れの心もよう』に飛んでやってください。
2006/06/05
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これは、6月4日に書いている6月4日の日記です。子供たちの部活は 今日がコンクールの順番を決める抽選会とかで 臨時休業。お陰で、この4連休の最後の一日は のんびりです。 いや、二人とも平和作文が宿題だとわめいていたけど、そのわりには 書いてる気配もありません。それに次女は漢検でした。できたのかなぁ?チャレンジャーは。 午後から二人に 靴下の引き出しの整理を命じたところ、すぐケンカで次女ふて寝。わたしが庭の草取りしている間に一人で整理していると思われた長女も ほったらかしたまま逃げてる~~~。こんにゃろ~~~~~!!幼稚園生でも出来そうなことが なんで中学生ができないのだ~~~???こんなことでは 引越し日が近づくにつれて、きっとわたし、血管が切れるなぁ。それにしても我が家の庭のすごいこと。ちょっと前に 皆さんの草取りに関するブログを読みながら、「今、草取りしたら楽だなぁ。」と考えてだけいたら 一雨、二雨・・・のあいだに すっかりジャングル!!「このままだと、とうしゃんの大好きなカサブランカの花が咲かな~い!」と、一念発起。 庭の左側の方に、春になるとムクムク枝を伸ばす『木』がある。(たぶん、モトは草)枝を切っても切っても 幹がどんどん太く、太くなってきている。じゃぁ、ひっこぬいちゃえば、ということなんだけど、なんとこの木(草?)、物置と塀の間のコンクリートの隙間から発生している。根っこの方の 幹の太さは直径5センチ以上・・・ふっ o(;-_-;)o結局、枝を切っただけでおしまい。 大部分は どくだみ。これ切って、干して、煎じて飲んだら 元気になりそうだよ。そういえば昔 祖母が「じいさんが、どくだみを製品化しようとして、特許みたいなものを取ろうとしたけど一足違いだった。」みたいなことを 言ってたっけ。きっと一足じゃなくて百足違いくらいだったと思うんだけど、そのとき一発あててくれてたら 今頃、孫のわたしたちだって 『ひだりうちわ』だよね。・・・お~っと、なんか見たことある葉っぱと思って掘り返してみたら じゃがいもでした。家族分3個ゲット。おそるべし我が家の庭。 とうしゃんと一生懸命植えた芝生は どこ? 古いスクーター、どうしたらいいんでしょう?買ったばかりの大型バイクはとうしゃんが義弟に送ったけど、これはどうすれば・・・・・キャブレターをどうとかしたら 買い物に使えるぞとか言ってたけど わたしはたぶん一生乗らないなぁ。昔、新婚の頃 とうしゃんの初代ラッタッタに乗ってたけど なんか恐かったです。ネットの『無料引取り』ってほんとに無料?ご存知の方、教えてください。だって、友達が、流しの(?)「ご家庭でご不要になった~~無料でおひきとりいたします。」のおじさんのトラック止めて、椅子出そうとしたら、「奥さん、こんなぼろい椅子、ただで持っていけるわけねーじゃねーか。」ってすごまれて「2000円。」って言われて恐かった~って・・・・・ちっとぐらいお金かかるのは仕方ないけど すごまれたら いやだしね。我が家の庭の右側に ものすごく生命力あふれるものが生息しています。それは・・・『紫陽花』・・・『西洋紫陽花』かな?数年以上も前、季節の終わりに 園芸やさんでクタ~ッとなっている鉢植えを買いました。すぐ、土に植え替えてやって 毎年どんどん大きくなって、その花がわたしたちを楽しませてくれています。おととしは すごかった・・・・・・あまりのすごさに、家族でいろいろ組み合わせを変えて写真を撮りました。ところが、去年は、わたしが花芽を切ってしまったのか ほとんど咲かなかったのです。とうしゃんが、気になることを言ったの・・・「テレビで言ってたけど、『紫陽花は生気を吸い取る』って昔から言われているから、庭に植えるもんじゃないんだよ。」って・・・・・・・ず~っと気になっていたのです。・・・だって、今年の紫陽花は 枝を広げに広げ この前こそ株が直径2メートルぐらいかなぁと思っていたら 今はもう直径3メートルはくだらない。隣の家の敷地にもはみだしている・・・花の数を数えてみたら 軽く50以上は あるし・・・ 前、ブログに書いた『おじいちゃんの桜の木』じゃないけど、生気を吸い取られたとしたら大変と・・・・・『紫陽花』の花言葉。 花色の変化から、『移り気』、『心変わり』。それと対極をなすようであるが、『辛抱強い愛情』というのもある。『一家の団欒、家族の結びつきを象徴する花』と言う人もいる。未婚の女性の『縁』に関する運気を吸い取ってしまうとも言われているので 未婚女性にはNG。既婚の女性にとっては、ストレスや悩みを吸い上げてくれる。ほほぅ!そうか。ウチの紫陽花は わたしのストレスを吸い取った『ストレス太り』の 紫陽花なの?なんだかちょっと、ホッとしました。
2006/06/04
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過去に行こうか 現在を綴るか 迷ったあげくに 現在です。 5月29日に書いてる5月28日と29日の日記です。 昨日28日、ブログで知り合ったMさんとデート。イニシャルで書いたってバレバレよね。(笑)同じ県内に住みながらも 距離的には結構ありそう。 「会える時に会っておかないと・・・」という彼女の言葉に強く惹かれた。(ゴメン、Mちゃん、ニュアンスがなんか違うよね。) いずれにせよ、死別という経験をしなければ 一生、出会うこともなかった人と こうやって会ってる・・・なんか不思議な感じだよね。もうずっと昔からの友達のように切れ間なくおしゃべりできるのは やっぱり 同じ悲しみや辛さを経験した同志のような思いがあるからかな?お互いのほぼ中間地点である、わたしが学生時代を過ごした某駅で待ち合わせて 楽しい時間を過ごした。あれ、今のところって 昨日の日記に書くべきだったか?まあ、いいさね。(適当)それで、本日29日。もう病院ばかりで いやなんだけれど まず皮膚科へ。何日目だ?明日が 最終判定らしい。開放だ~~!!お次に 先日の健康診断及び大学病院でのCTの結果を聞きにクリニックへ。とうしゃんが 最後にお世話になったクリニックだが きょうも 多くの人で待合室の椅子がうまっていた。 となりに バカップル発見。男、診察が終わり、女に「連休の時に塗ってたセルロイド製剤を ここんとこに塗っとくようにって言われた。」・・このあとも2・3回、この言葉を連呼したぞ。女「そうなんだ~。それでよくなるんだ~」・・・(おいおい、それを言うならステロイド製剤だろうが。おまえらキューピー人形か?そんなもの塗っても、よくなりゃしないよ!!)で、診察室に呼ばれた。CTを上部から順番に説明してくれた。脾臓は確かに大きいのだけれど 肝臓がきれいだから まあ大丈夫だろうとのコト。脾臓って胎生期に赤血球とかが作られるところなんだってね。生後、機能は失われていくんだけど、その後に何らかの異変、大量出血とかで骨髄機能が抑制されると また働き出しちゃうんだって。すごいねぇ。生命の神秘だねぇ。「ほら、これがすい臓。いい形してるねえ。若い人の内臓だわ。胸のレントゲンも こんないい形。若いわぁ。」・・・・・・・・・私「・・ん?・・・先生、『若い』って 若くないじゃないですか、私たち。」(先生と 同い年なの)すると先生「いつも、70とか80の人見てるからね。若いよこれ。こんなにハリがある。」だって。 ・・・(そういうことね)結局 ひっかかったのは ほんのちょっと、コレステロール。大きく中性脂肪・・・タハハ。体重は今のままでいいから 運動して甘いものとアルコール控えてだって・・・・・うう~ん!むずかしいなぁ。肝臓の値のところで 「正常値だね。」という先生の言葉に思わず「主人の検査値をずっとみて一喜一憂してたから 正常値というのを知りませんでした。」と言うと「ホント、ご主人は良く頑張りましたね。ご主人の頑張りはすごかったです。私の、一生忘れられない患者です。」そう、先生が語気を強めた時、思わず涙がでてしまった。 待合室にあった古い雑誌、『暮らしの手帖』に 読者アンケートの結果が載っていた。 「あなたにとって、なくなっては困るものは?」・・・『父』 『母』 『主人は「私」と答えているけれど 私は誰かなぁ?』なんて答えてる幸せな奥さん。 『自分にとって思い入れのある品物』をいう人。 『今、なくなっても困らないものを処分中だから それで残ったものが それ』という人。 『いやだという勇気』 『いつもの通り、季節の匂い』 『気持ちを察する心』・・・・・・・・・などなど。う~ん、どれもこれも大事だなぁ。 ・・・・・・・・・・・・・わたしにとって 『なくなっては困るもの』 いったいなんだろう?
2006/05/29
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これは、5月22日に書いている5月22日の日記です。(まる一日、日付の違いに 気付きませんでした。やっぱ、ぼけてる・・・修正しました。(^-^;)初めてこのブログに来た人が見たら 「なんだろう?」と 思うだろうね。今日は、午前中、某大学医学部付属病院に行った。CT検査を受ける為。過去を振り返る形で書き始めた我ブログも 時間を行ったり来たりして なんとか続けることができています。 ちょうどゴールデンウィーク前後の日記が書けていないのだけれど ちょうどその頃、体がかなり参っていた。気持ちの方も参っていたのは ここをいつも訪問して下さる方は ご存知のとおり。3月、とうしゃんがいなくなってから わたしを襲っていた胃の膨満感とむかつきが4月中旬頃から吐き気と胃痛になっていた。誰も気付いてくれなかったが 2キロ痩せた。とうしゃんの最期を診てくれたK医師(女性)に相談すると、「念のため胃カメラ、飲みましょう。」ということになった。毎年毎年 胃カメラでは 何かしらひっかかっていた。一昨年は ポリープ多数。昨年は ぎりぎりセーフ。そして今年は・・・K 医師の旦那先生が検査をしてくれた。「ひどい胃炎はあるけれども 薬を続ければ 大丈夫 。」とのこと。よかった~。・・・でも、その後のエコーで 脾臓が腫れてるって。何?どこ?って感じだったけど それで本日CTを とりにきたというわけ。この病院、出来ることなら来たくなかった。とうしゃんが もしかしたら最後に入院していたかもしれない病院・・・・・黄疸がでて K医師が在宅の主治医になった時、選択肢の一つに、ということで この大学病院の緩和ケア病棟長のN医師とのコンタクトをとってくれた。外科の医師でもあるN先生は 私たち夫婦にとって その人間性においても印象に残る医師。詳しくは、そのうちにフリーページに まとめたいと思っている。約4ヶ月前に とうしゃんと来たこの病院に 今日は一人で来ている。2回目に来た時、とうしゃんの検査の後 二人で食事をした。とうしゃんは その時 ドリアを食べた。その頃、とにかく家でも 他のものは あまり食べれなくなっていたのに ドリアそしてグラタンだけは食べることが出来た。 この二つだけは 一日に一回は欲しがった。この食堂での食事風景を どうやらN医師に目撃されていたらしい。その後の診察で、「ドリアは おいしく食べられましたか?」と 笑顔で言われた。そんなことを 思い出しながら院内を歩いていたら、涙が出てきた。受付を済ませて CT室の前のソファに座って・・・・・・こんなところで泣いているのは わたしだけだよな。いかんいかん。わたしの担当という優しい看護師さんが誘導してくれた。かなり昔に 造影剤で大きな赤い発疹が体中にでたわたしは 当時のインターン医師を かなりビビらせた。前回他の病院では 造影剤の点滴の代わりに イヤーな味の液体を飲まされたが今日は?覚悟していたら 何も飲まなくていいんだって。・・・・・びっくり。医学は 進歩しているのね。今日は この前みたいに いつまでも泣いてないよ。元気、復活!! でも ちょっとおかしかったのかな?その後で立ち寄った、いつも行かないデパートの駐車場で 5メートルくらい逆走してしまった。 (-.-;)
2006/05/22
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訪問してくださった方、ありがとうございます。 実は、2日間、いえ3日間、パソコンを開くことができなくなっていました。うまくお伝えできるかわからないのですが、この3日間の、そして今のわたしの気持ちを書こうと思います。 このブログを始めたのは・・・・それは・・・・とうしゃんの生きていた証のようなものを 子供たちに残しておきたかったこと。(記憶の中にとどめておくだけでは、一つ一つのことをずっと忘れずにいる自信がなかったから・・・・)そして、ヨロヨロしながらも明日に向かって生きていくわたしたちの姿を とうしゃんに見ていて欲しいと思ったこと。・・・・そういう想いからの出発で、何かに背中を押されるように始めたのでした。 わたしにとっては少し過去のことになったできごとを、書き残していたメモを頼りに書き綴ることによって、辛かった思い出も 少しづつ何か形を変えて昇華されていくような気がしていました。そしてたくさんの方たちからコメントをいただくことによって、心がずいぶん癒されてきました。 辛かったとうしゃんの闘病のことや悲しい思い出すら書き綴ることができたのは、実際に自分がおかれていたその時の気持ちと 書いている時の気持ちの (時間をおいているが故の いい意味での)温度差があったからかもしれません。 そして、いつものように、4月28日の日記を メモを片手に 実際には5月8日に書き始めました。書き進むうちに 過ぎ去った4月28日の想いよりも 実際に書いている5月8日の気持ちの方が強くなって 涙が止まらなくなり、心の均衡がとれなくなっている自分が そこにいました。書き終えたあとも 涙が止まりません。その後、いっそうのこと日記を削除しようと思いパソコンを開いたのですが、もうみなさんからのあたたかいコメントもいくつかいただいていて・・・・・かといって、それに書き込むという気持ちにもその時は なれなくて・・・・今までの自分には到底考えられなかったことです。 外に目をむけようと 車を走らせても、仕事をしていても、ご飯の支度をしていても 涙が止まりません。そして・・・・・あれほどいつも開いていたパソコンが開けなくなってしまったのです。 ここ何日かの間に、とうしゃんの同僚や友人の方たちからいただいた電話や手紙のせいでしょうか・・・ とうしゃんが世話していた金魚が死んだせいでしょうか・・・ 体調が いまひとつのせいでしょうか・・・ ものごとを、そんなに深く考えるタイプでもないのに・・・・・ おかしいですよね。 神経の昂りは、正直言って、まだ落ち着いてきているとはいえません。でも、今まで書き綴っていたわたしの気持ちにはウソはないし、これまで無理をしていたつもりもないので、これからも少しづつ自分のスタイルで書いていけたらいいなとだんだん思えるようになりました。 そして、今日やっとパソコンを開けることができました。 姿は見えないけど たくさんの方達のやさしいまなざしを感じて、涙、涙です。時間がかかるかもしれませんが、コメントをいただいた方たちにも 少しずつお返ししていこうと思います。そして、まだまだ過去のことで書き綴っていきたいこともいくつかあります。そちらのほうもぼちぼち再開していきたいと思います。おひまだったら、またのぞいてやってください。 もう、何を書いているのかわかりませんね。 なかなかうまい言葉がみつからずごめんなさい。また、少しずつ気持ちの充電をして、元気な『さくらひらり』として みなさんのところにお邪魔できると思います。こんなわたしですが 今後ともどうぞ宜しくお願いいたします。
2006/05/11
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これは5月24日に書いている5月1日の日記です。この日、朝から娘たちが 何かと つっかかってくる。朝、目覚まし時計が鳴ろうと びくともしない娘たち。5分おきのスヌーズ機能も 娘たちにかかると まったく意味なし。何回かのアラームのあと、やっと起きてきたが また2階でアラームが鳴り始めた。 止めに行こうともしない。何度か「止めてきて。」というのに、 忙しいとか言って相変わらず止めに行こうともしない。こちらは、吐き気をおさえて、弁当作っているのに・・・・胃のむかつきが限度を超え、ここ何日か 夜になるともどす。そういうことが続いていた。娘たちは ぎりぎりまで寝ているから朝バタバタなのに、自分たちの夜更かしを 棚にあげて、いろいろ自分の要求だけを私に言ってくる。挙句の果ては 楽器が重いから車で送ってくれだと。いや、送っていくつもりではいたが、自分たちの都合ばかりを言う娘たちに 怒りは頂点に達した。「もう間に合わない!」と 飛び出していった長女は 難を逃れたが 次女は捕まり 仏壇の前でお説教。なんともいやな一日の始まりになった。胃がおかしくなっているのは確かだから 今日は病院に行こうと思った。前回、薬を貰って飲んではいたが ちょっと良くなると飲まなくなっていたのが悪かったのかなあ。「潰瘍ができているのだろうから、胃カメラを飲みましょう。」ということになった。緊急ということで ゴールデンウィークの真っ只中、6日土曜に予定。このクリニックの駐車場は 入れにくいので、いつも近くの 大きなホームセンターの駐車場に車を置いてから行く。この日もそう。いかにも5月というさわやかなこの日、また、あの夫婦がいる。年のころは20代から30代。ご主人が車椅子。奥さんはいつも それを押している。クリニックに行った時だけではなく、前、とうしゃんと買い物に来た時もいた。時間帯はまちまち。でも、いつも会うような気がする。きょうは、喫茶コーナーで 二人でとても楽しそうに笑いながらソフトクリームを食べていた。なんだか とってもほほえましくて、心の中を さわやかな風が吹き抜ける気がした。 なんか、このごろ家族みんな、ギスギスしてる。そう思って外に目を向けると 春の花がたくさん。いつもだったら今頃、パンジーのハンギングバスケットを作ったり、春の花の寄せ植えをしている時期なのに・・・玄関周りの 鉢植えの花は 半分が枯れ、そのまま。庭なんてもう見るも無残。いくら忙しいとはいえ、あまりにも余裕なさすぎだなあ。「よし、春の花の鉢植えをつくろう!一つ、いや三つ。」帰って、いくつかの花を寄せ植えにすると 玄関がイイ感じになってきた。「よし、夕飯は 体にもスパイス!タイカレーにしよう。」鶏肉にたけのこ、ココナッツミルクに専用スパイス。和風だしを加えると味がまろやかになり 子供達も この頃は食べられるようになってきた。とうしゃんも大好きだった、このメニュー。しっかり仏壇にも お供えした。
2006/05/01
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3ヶ月後には、引越しもひかえている。でも どこから手をつけていいかわからない・・・・・とうしゃんの部屋に入ってみる。白い壁が見えないほど置かれた本棚には、 とうしゃんの専門分野の本から趣味の本、語学の本などなど あふれかえっている。とうしゃんは 去年の夏、抗がん剤治療の為入院し、そして退院した時、何を思ったか、自分の専門分野の学会誌の類を 猛烈に整理し始めた。未開封のものもたくさんあるようだった。一冊一冊、梱包している袋から出し、20センチくらいの高さにまとめると、すずらんテープで束ねては1階に運んできた。暑いし、退院直後で体力も回復していないのに大丈夫?と声をかけると、「少しは動いて運動しないとね。」と言って、何日にもわたって、いくつもいくつも本の束を作った。そして古紙回収の日に せっせと集積場に運んだ。それでもまだまだ、片付けきれなかった学会誌の類が たくさんある。部屋の片隅に 未開封のダンボールの箱。見ると、なにか大きなカッターのようなものらしい。そういえば、ずいぶん前に、学会誌の必要な部分をパソコンにとりこむと言ってたっけ。そのために、雑誌、本を一ページ、一ページバラバラにするカッターが欲しいって言って買ったんだった・・・・・使わずに終わったんだ・・・・・・とにかく、浅く広く いろんなことに興味を持った人だった。お付き合いの為のゴルフ。これは、とっとと やめた。九州に戻っていた時期には 釣りに はまった。釣ってきたカサゴの天ぷら、おいしかったなぁ。太刀魚なんて釣ってきて、「どこ、食べるのよ。」とか思ったけど、一生懸命お刺身作って食べたの、なんておいしかったか・・・・もう主のいないフィッシングウェア。アマチュア無線のセット。このカメラはどうやって使うの?ステレオ組み立てるって言って いろんなパーツ集めてる。ボール盤って一体何なのよ?バイクのパンフレット。・・・・・ 何年か前に大騒ぎして買ったワイルドなタイプのバイク。いよいよ乗らなくなって、駐車場の飾りになって、保険も切れて、どうするのかなぁと思っていたら、 「新しい大型スクーターに買い換えたい。」って言ったんだよね。(治療も始まってるのに乗れるの?)って内心思ったんだけど、それで生きていく希望が持てたら 安い買い物だと思った。「それに乗って、温泉に湯治に行けばいいよ。」って。買ったばっかりだけど、何回乗ったっけ・・・・・「九州に戻ったら、活躍するさ。」って 言ってたけど、今年に入って暫くしたら、さっさと業者呼んで、弟にプレゼントしちゃったよねぇ。あの時もう、覚悟してたんだね。パソコン、一体何台あるの?とうしゃんがいないと 年賀状だって暑中見舞いだって印刷できないんだから・・・・・DVDのコピーだって、CDのコピーだって(これは 違法だよね。でも家族で楽しむんだから いいよね。)・・・どういうふうにやったらいいの?工具箱開けるたびに出てくるいろんな部品、一体何なのよ?「こんなものでも、欲しい人、たくさんいるから、ネットで売りさばけばいいよ。」って言ってたくせに、やり方教えてくれないまま いなくなっちゃったじゃない!!飲み残した薬袋の山・・・・・・・・・もう、涙で・・・・・部屋の中がなんにも見えなくなってしまった・・・・・ 何もかもがそのままで・・・・・でも・・・・・でも・・・・・何もかもが今までとは全然違う、とうしゃんの部屋。
2006/04/28
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今日は月命日。どうもこの一ヶ月は 時間の流れが均等ではなかったような気がする。ある時はとても速く、ある時はとてもゆっくり、そして・・・時間が止まったように感じることもあった。友人のIさんが お線香をあげに来てくれると言う。本当にありがたい。彼女は、いつもさりげなくわたしを支えてくれている。 お線香をあげてもらったあと お茶を飲みながらリビングでいろんな話をした。子供のこと、お互いの家庭のこと、健康談義、不思議体験でも盛り上がり、彼女が3ヶ月で何か一曲ピアノ曲を仕上げたいという話まで出て 選曲をしたりもした。 わたしがこの様なブログを書いてるということは 最近になって姉には教えたが、友人にはほとんど教えていない。かなり本音をぶつけたりすることもあるし かなり生々しいことも書いているような気がしたから・・・・九州に住む友人のKさんには伝えたが 「知ってる人が読むと思うと 書きたいことが書けなくなるでしょ。」と 読むのを遠慮してくれているようだった。でも 「いいんだよ。」というふうなことを Kさんにはメールで伝え、そしてこの日 Iさんにも 「もし良かったら読んでみて。」 と伝えた。月命日には 何をお供えしようかと迷っていたが、少しばかりの和菓子と、そしてまた 子供たちが 「今日も たけのこご飯が食べたい。」などと言うものだから 「えっ、また?」とか思いながらも昆布とアゴだしで いつもより念入りにダシをとり、ご飯を炊き、お供えした。平和な一日が過ぎていくと誰もが疑わなかったそのすぐ後に第一の事件が起こった・・・ ウチのリビングには そのリビングの広さには似つかわしくない大ぶりのリビングダイニングセットがある。テーブルが重いのはわかるが、椅子がまた重い。四脚あるその椅子は、しっかりした木を使っていることと 座面が革張り。おまけにそのうち二つの椅子には肘あてがついているので 重さがもっと加わる。その広いテーブルの一角に わたしと子供たち専用のノートパソコンが置いてあるのだけれど みんなのパソコンをやりたい時間がかちあうので いつもし烈な戦いが起こる。二階に行けばとうしゃんのパソコンが二台いや三台ぐらい遊んでいるのだけれど どうも女性陣は使い慣れたパソコンの方がお好みで、時間調整が大変。いつもは 「何分までよ。」とか 「この番組が終わるまで。」とかいうふうに話し合いで座席を確保するのだけども この日は体力勝負にでた。わたしと次女の椅子とりゲーム。・・・・・・・で、私が・・・・・負けた。ケツ圧(?)が足りず 椅子から振り落とされた。お尻強打・・・・2・3年前も家族でふざけていて、わたしが尻もちついて30分以上動けなかった。「たかが尻もち」 と たかをくくっていたが痛みがとれず、 何日か経って整形に行ったら腰椎、そして背骨も圧迫骨折という触れられたくない苦い過去がある。 この日は10分で立てたから だいじょうぶか・・と 安心しているところに 二度目の不幸が襲った・・・この重~いリビングセットから2メートルくらい離れたところに グランドピアノが置いてあるのだが、(大体、この狭いところに こんだけ大きいものがあることが間違いなんだけど)そのピアノの下に落ちたものを拾ったあと振り向いたら そこに例の融通のきかない椅子が斜めにおいてあった。右目を強打。☆がみえたあと目の前がずっと暗かった。・・・・・再起不能・・・・・とうしゃんの月命日だから穏やかに過ごせるかと思っていたら、やっぱり私らしい一日だった。ブログを読んでくれたIさんから メールが届いた。「・・・・ご主人の生きざまを知り 、それ故にまだ息づいているように感じました。絶対さりげなく見守ってくれているよね。私がご主人でおもいだすのはなぜかいつも2年のお楽しみ会の『大縄跳びを飛ぼうとする真剣な表情とシルエット』です。〇〇ちゃん(長女)のために飛ぶんだ!という決意がみえるのです。・・・・・・・・・・・」と続いていた。 そんなこと わたしはすっかり忘れてしまっていた。そういうことを 覚えてくれていたことがとってもうれしかった。この日 ・・・写真を整理していたらこんな古いの見つかったのよ・・・・そう言って 彼女が持ってきてくれた写真を 無事だった左目で眺めながら、「あの頃にもどれたら、どんなだろう。」・・・・・・・ふとそんなことを 思ってしまった。
2006/04/17
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