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自分の給料は自分で稼ぐぞ!良い言葉でもあるが出すぎたことでもある、サラリーマンは会社にとっては一経費でしかすぎない。会社員が給料に見合った働きをすると思うのは結構なことだが会社にとってその評価をつけようが無いのも本音だろう。モチベーションとしてヤル気のない従業員がいる部署は職場環境として労働条件がそろっているとはいえなくなる。だから多少の夢を見させてやるのも上司従業員の仕事でもある。実際のはなし持ち場の仕事量をこなしてくれれば十分なのである。以上の点で比較すると水商売の連中は一従業員でありながら自分の給料をコントロールすることもできる。会社組織として福利厚生、社会保険、住民税に所得税なんてものはバックレ(しらばっくれる事)上等のお店も多い。だから瞬間が勝負で従業員も稼げるものは稼がないと自分の生活が出来ないと言うところでもある、ほとんど社長兼お茶汲み係ののりで自分で何でもやらないといけない不思議な雇われ人の立場でもある。だから豪傑の方もいる。貰った給料は全て歩合給なのでもらったそばから増やそうとする。手ごろなギャンブルは全てチェックし流行ていたスクラッチで全給料を使い果たし残ったのは○井で買ったベストのみという話も良くある。ある時払いの催促なしはありえないが、給料の感覚は一般サラリーマンとは明らかに違う。計画性が無いというよりも店に出ればお金は転がっていてお客を見ればその日が暮らせるという感覚に近いのだ。営業の神様的な存在の人が片道分のガソリンを積んだ車で営業商品が売れなければ帰ってこれないという状況で営業していたという話も聞いたことがあるが、自分を追い込む感覚は重要だがあえてしなくても毎日生きるか死ぬかを平然とこなしている世界もある。
2005.01.31
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ボンテージ=特殊な人という認識は現代ではだいぶ薄れ、ボンテージ=着こなしのアクセント、アクセサリーで一部取り入れるおしゃれなイメージに取って代わられた。自由を剥奪された奴隷や家畜にもっとも似合うボンテージは飼い主の奴隷に対する愛情表現の一つで余裕のある飼い主はその奴隷や家畜を自慢しあうサロンを開き多忙な日々のくつろぎのひと時として楽しんだという経緯から発展してきた。そもそも奴隷や家畜には自由があってはならないが自ら進んで奴隷になるのは人間くらいのものだろうか?人間に上下関係をつけるカースト制度や士農工商のような政治的な統制は日本人として知っていなくてはならないものだろうが、具体的に体験することのなくなった現代ではイメージもリアルには膨らんでこないものだ。西洋文化到来以前の日本のちょんまげも形によりその人間の生まれや育ちそしてその能力すらも表現していたものだったそうだ。時として今流行の小林薫のような人間が犯罪を犯しても生きれたとしたらちょんまげによりこいつはとんでもない性犯罪者で近寄ったらいけないということを表現しながら町内を引き回しされたに違いない。もっともそんなレッテルを頭に載せて社会復帰も出来るわけ無いだろうから、当時のお侍さんはお仕置きとして最後のお慈悲に死刑を宣告しただろう。今はその性犯罪者予備軍にメーガン法を導入する是非を説いているが犯罪者がちょっとした工夫で地域社会に貢献することが法律や刑罰によって可能であるのならばその罪の意識は前科者の心にしまわせ寛大な気持ちで社会は迎え入れてあげるべきだとも思うが、かえってメーガン法のように後ろ指を指され続ける状況を導入してしまうことにより、寄り付く場所をなくしてしまった前科者はさらに凶悪な犯罪者に育成してしまうことにならないだろうか?場合によりセクハラだ何だと簡単に流行語を吐き出すように言う馬鹿がいるが、それが誤った判断によるもので正常な一社会人の生活を大きく狂わせる根源だった場合が多々報告されているし、一度犯罪者記録として必ずIDに刻まれてしまい取り消せない場合は立場として談判に及んだ当事者はどう責任をとるのだ?裁く人間が狂っている場合はどうなるのだ?ボンテージによりもともとあった考えも理性も全て縛る。考えることが出来ない状況を楽しむ。今は奴隷や家畜の市民権も高くなってきた。奴隷であること縛られることを自ら選ぶことが出来るのは住みにくい社会のひずみから派生した精神崩壊者に他ならない。お犬様など家畜が服をきて街を散歩する時代だ、犬の公然わいせつ罪もそろそろ導入されることだろう。
2005.01.13
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どこがよいといったら埃が立たないこと、清潔感とは対照的に生皮をまとうイメージは正気の沙汰じゃない猟奇的なものを感じる。死体を自分のイメージどおりに作品にしたエド・ゲインの影響力はいまだ衰えることをしらないが、彼のやった所業は悪魔ですら逃げ出す万物の常識を逸脱したものだ。その破壊的なイメージは聞く人の頭蓋骨にこだまし続け消し去ることの出来ないしこりとなる。物心付いた子供に見せたり聞かせたりした場合、思考判断力に亀裂を生じることはまず間違いない。映画にもなったのであえて語ることも無いだろうが、革ジャンをまとうように人の皮をまとい満月の夜に踊る様は何に対して歓喜しているのだろうか?地味で保守的な環境は繊細で些細な出来事も人の歴史を大きく不思議なものにするのだろうか?当然そのインパクトの強さは最初の数秒が芸能生活の要であるロックミュージシャンに継承されているようだ。革ジャンをまといドクロの首飾りをこよなく愛し、一皮向けば人間皆同じと非人間的な名言を吐いたキースリチャードもドクロの良く合う尊敬すべきミュージシャンだ。死んだものから得られるエネルギーは負のエネルギーとなるだろうがあえて不吉な数字を守り神のようにたたえ仲間のために集まり続けるヘルスエンジェルスも輝くドクロとおそらく皮に対しての慟哭は常人のはるかに上を行く。皮とドクロ、疾走してこそ分かり合える爽快感と連帯感をハーレーが作り出してくれるというのは信仰に他ならないだろう。疾走するための皮というよりもコミュニティー形成の目的での皮のイメージは日常という大気を切り裂くために皮で武装するミュージシャンとは違うようだが、強くなるために武装する必要性を感じないはちきれそうな肉体が皮を寄せ付けないのが彼らのスタイルなのだろうか大体が皮ベストだ。永遠の共通言語と独立国家をイメージした皮ベストの説得力はインパクトとはちがうエネルギーを発散している。自分の葬式代と革ジャンがあれば人間は生きていけるんだ、といったかどうかは解らないが、「革ジャンを着せて葬ってくれ」と走り書きしたシドビシャスも死と皮の良く合うミュージシャンだ。おそらく彼の音としての歴史はどこにも見当たらないが、その生き様がメロディーを奏でるのはなぜだろう。天才的な死のイメージを創造し誰も寄せ付けない、死に様で作品を完成させる。皮を着こなすスピリチャルは永遠に腐らないものなのだろう。
2005.01.12
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テーマに新規登録がうまく出来ない。そもそも解りにくいのは自分が馬鹿だからと一蹴してしまいたいのだが、瀬良には時間も金も人脈も奪われて今は無い。そういうわけで精神的にも経済的にも追い込まれながら時間を見つけて書き込んでいるのだ、もっととっつき合いやすい流れにのりたいものだ。社会主義国家における管理と統制を日常の労働から睡眠までも生産プログラムに組み込むための抑圧ファッションをブルジョアに率先して体験させるために仕掛けたパンク。ボンテージファッションに身を包んだセレブをみてマルコムは大笑いしたに違いない。瀬良も笑いたい、仕掛けたとおり風船が膨らみ膨張が限界に達し自然暴発することは必死と思われても、あえて新たな仕掛けをして針を突き刺す快感を瀬良も自ら体験したい。そのためには馬鹿で結構乗りに乗りまくるイケイケいけちゃんを育成することは必要不可欠なことなのだ。自分では恥ずかしくて出来ないよんだから誰か僕のために踊ってくれないか!捨て駒になってくれないか?ついでに死んでくれないか?ロックの歌詞にもよくあるよね。やるだけやらせて口封じ。いつの時代も羊の皮をかぶった狼とか堅気のふりする根っからのヤクザはいるもんだし、そういうやつらが歴史を作ったなどとほざくのは今の時代横目で見ていて腹立たしい。少しぐらいは経済の雲行きも霞が晴れて少しは何かやるにもやりやすい世の中ならば、少しは太ってもいいかなって思うことも出来るが、人の成功は妬みの対象であら捜しが思考の中心と化している今現代に皆で仲良くなんてあるわけ無いだろう。さて、この上パンクファッションの歴史をあえてぶちるつもりは無いが、最先端の名の下に全く機能性を無視しながら法外な利益率をだしたセックスの商品群を例に考えれば当然のようにセックスピストルズという広告塔があってこそ仕掛けたプロデューサーが大もうけしたのだし、ピストルズが解散しようが自爆しようがマルコムには全く関係なかったわけだろうし、捨て駒がこれだけ歴史に名を残せたことをありがたく思えぐらいは何かの拍子に特集されても自分で言うことも無いぐらいのご身分にまでなった。そのコンセプトを髣髴とさせるデザインは街を歩けばたたみつけることが出来るが、戦略と一致しているかという部分ではまだ単独勝負が関の山だろう。商品はよいものを作っては儲からない、仕掛けたとおりに馬鹿が踊るのがファッションの真骨頂なのだ。人前に出たがりの馬鹿諸君、やっぱり俺のためにちょっと逝ってくれないか、捨て駒になってくれないか?ロックでいいじゃん死んでよお願い。
2005.01.11
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いつの時代も特集されるファッション、裸で歩くことのほうがまだましと思えるような恥ずかしいファッションから生活臭丸出しの寝間着風ファッション。全て含めてファッションなんだがなぁ。瀬良としては裏原ブランドのような持ってて凄いでもバリューじゃないような代物には諸手をあげて賞賛できない。時代はリメイク、古着風新品と推移しつつあるようだからその流れの中にはデザイナーから直に買える独占商品んのような感じと雰囲気がするので、会員制クラブのような特殊なノリを楽しむ意味では、面白い。ところでファッションデザイナーって量産できるものをデザインしてそれがバランスよく価格帯と流行を掴んで売れればラッキーの話なんじゃないのか?一部閉鎖的なマニアが集うファッションショーでお抱えのデザイナーは集まりがなくならない限り失業しないだろうけど。だいたいは工業生産品規格を守れないデザイナーが生き残れる時代じゃないからね。サロン的に展開し俺様は客を選ぶんだっていったって作るものは作らないといけないしそれがどこでも手に入るレベルのものだったら頭の悪いガキ意外はなんだかなぁって寄り付かなくなるのが関の山だろう。場所、価格、デザイン。どれをとっても完璧と思っていた人は沢山いただろう今回のSKKIN瀬良は大好きだったが、一目ぼれはするけど買えない着れない、百歩譲って無理やり着てしまうと頭がくらくらする。瀬良にとってのファッションは頭がくらくらするものなのだ、何度も言うが頭の悪いガキは子供だましの適当商品で頭がくらくらするだろうが、スゲーいい素材、手間隙かけすぎの各パーツ、着てみて初めて意味を理解することができる商品をもってはじめて頭はくらくらする。なにもコスプレしなくてもファッショントランスは出来るんですよ、ただし商品に魂がこもっていてのはなしだけどね。しかし残念、都内某所で片思いでお目にかかれるSKKINも消滅、○井とかで最近のラインを展開しているびょんCOOLであつかっている商品はお前なぁまじめに仕事しろよハゲって感じでレベルが低いじゃないか。細部にわたって病気のような素材選び、かなり無理と自信を喪失させる着心地。チャイニーズシルクの美しさを楽しむもその高級素材を惜しげもなく微妙な首筋に頭部のフードに使ってしまう馬鹿ぶり。上げたらきりのなにエゴイストなコンセプトが買いだったのに今のSKKINはそれが商品に生きていない。マーケットの展開が下手なのか意識してそうしているのかわからないが流通商品が極端に少ない。値段が高騰し幻の商品になる魂の商品を世に出し数年でヤル気、勢いが失速してしまう自爆系のファッションデザイナー、ジャウニに敬意を払いたい。肉体を感じさせる魂の服をありがとう。
2005.01.10
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夢に出てきたのはそのボロさ加減だった。ファッション流行的にはそろそろきたか新品古着という感じだった。なぜ夢なのかというとエドウィンのCMでブラピが着てるなんだか汚い服というイメージと汚いブラピが自分のファッションリーダーだからなのだろう。思えばカルフォルニアに始まった感のある汚いブラピは身近の変質者信号が黄色ぐらいの時代を象徴する一直線アイコンだった。その演技力は作風ごとに頓珍漢な役柄を見事にこなしていると誰もが周知することだし、セレブ関係では最強と思っている。映画なんてオファーがかかれば適当に沢山出ておこうかな、やることそれしかないんでぇ~。という作品ごとにその投げやり感を見事に表現しているデニーロにとは比較にはならないが。魂なしの自動人形としてのデニーロに対し魂の入りの自動人形でたぶん違う世界から来た自分の分身も使っているんじゃないかと思われるブラピはポストビリーミリガンかと思わざるを得ない多重面格俳優であろう。話がそれたのでファッションに戻ろう。スナッチやファイトクラブでみる彼のこれも頓珍漢な着こなしもファッションリーダーとしては欠かせない要素だ、ミリタリーパンツにテラージャケット、ついでに着古しのスエッパーカーをあわせるなどはつぎはぎのアップリケの微妙なバランス構成を楽しむ手芸的な発想を感じる。サイズの合わない超高級ブランドにたとえそれが本物でもパチモノにしか見えない超高級アクセサリーを全身に身につけメッセージ性のかけらも無いようなタトゥーをアクセサリー同様、全身に刻み込む自虐的で節操の無い生き方を見事に表現したワルファッション、その精神を支えるものが家族の愛だとか友情だとか皆を守るために日々ウエートトレーニングに励む女王様募集のマザコンだったり、なにか青臭いところを残す危なさに拍車をかけているエッジファッションに流行の先端を見た。今後ストリートよりもお家で展開するパジャマ的な適当さに注目したい。またまた話がそれているようだ。その夢にまで見たブラピ的ぼろさの象徴アバクロ関係だがかなり沸騰しているようだ。ミリタリー系の汎用性の強さにアバクロのブランドテイストとその価値が高まりそうな勢いを感じる。製品的な力強さはGAPに感じるものが漂うがコスト的にはワンオフが量産されるということに商品の完成度の高さがある。年明け早々、アバクロのトラックジャケットを購入した。ハーフジップアップが期待を裏切らないことを願いつつも、期待を裏切ってくれてこそその商品がワンオフである。フルジップのパーカーなどは試着の段階ですでに不安にさせるものがあるが、使いかたにより壊れていくことを新品の段階で楽しむことが出来る。愛着をわかせ所有欲をみたし気持ち的にリラックスできることを計算したうえで作られている商品。これらの微妙アイテムが今後の古着市場を拡大させる起爆剤になっていくことには違いないだろう。
2005.01.09
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気分的に休日ではない。いつもは一人でいることが無い休日、今日に限っては一人なのだから休日らしからぬというのもうなずける。今ひとつ行動力が出ないとうのも気分的な要素だろうし、原因がわかっているだけに何かやろうとするためには何が必要で何が不必要であるかは解る。普段どおりのことを休日には出来ないが今から会社なり事務所に戻り昨日までやっていた仕事の続きをやってみれば普段よりはかどってみたりするだろう。但しそうすることを望んでいればの話だ。休日に何か面白いことをしよう。子供の頃は無限にあると思われた時間の中で何をやってみても面白かったような記憶がある。直に飽きてしまっても夢中になってやれた。今になって何か面白いことを作ろうと思っても一つ興味の対象になるものは数少なくなってしまった。余生、これからの人生というものを指折り数えてすごすための面白いこと。そんなものは無いのだ。これからを生きる勢いのなくなった人生を奮い立たせる面白いことなどあるわけが無い。それこそ気分的に嫌なことが起きるのを避けるための刺激は簡単に人を奮い立たせるだろうが、仮に体験することが可能な場合現実をはるかに超える事件を除いてだが。人生などの長期計画も考えすぎだがとりあえず、今数分にわたって直面することで面白いことを考えた場合、思いつくことがない。やるべきことが皿洗い、部屋の掃除、風呂掃除、洗濯。日常的なものはあまり考えてやるものでも無いしむしろ自動的に自分でありながら自分以外の精神が行うもののような気もする。気が付いたときに出来ている事柄は面白いという分野のものでは無いだろう。それでは今出来る面白いことは何だろう、自分の気持ちを総動員して行った後の感傷に浸る。あくまでも個人的でその詳細は万人向けではない何か。異邦人でありふれた街中で突如起きた殺人という惨劇に犯人が「太陽がまぶしかったから」という名文句を吐いた。その名文句のために人の命が奪われてしまうのが許せるのかといったら社会的には許せない、しかしながら精神的には許せることだろう。自分を維持するために必要な諸行が悪と称され人間らしからぬ鬼畜のしわざと談判されても。本人にとっては心のために必要だったということだ。楽しむための気持ちや心までは法律で取り締まることが出来ないというのが人間の過ちの一つだ。取り締まるのならば見えないところや夢ですら取り締まってこそ安全な社会ではないのか?
2005.01.08
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忘年会はやらなかったというよりも出席したくなかった。新年会は出席してしまった。酒を飲んでいる場合ではないだろうというのが本音だがかなりの量を飲んでしまい。二日酔い気味になってしまった。というよりも新年会で出された料理は直になくなり酒のつまみにもならない。なぜ居酒屋で瞬時になくなるほど空腹でいるのか解らない。新年会と称して経費を使って普段食わないぐらい食べているという感じなのだ。だから飲んでいるしかない人と食べているだけの人に分かれてしまったのだ。新年会をするのは結構だがどんな会でも意味があるだろうし飯を食いまくっている姿は雰囲気を壊す以外の何物でもないだろう。所詮は生まれ育った環境が人よりも先にとらないとなくなってしまうという所だったのだろう。食事にありつけないのは自分が悪い他の皿と同様に盛り分けられたものには不平不満をあらわにする。自分が食べたいものを食べたいだけ頼めば場の雰囲気は悪くならないしそれを見ている者の気分も害さないだろう。たしなみという言葉も知らないしこれから学習するにしても遅すぎるのだ。自分はそんなやつらとの付き合いを考えなくてはならない時期に来ている。そいつらは自分勝手にやりたいのだから一人でラーメン屋にいって思う存分食べる道を選べばよい。その場には誘ってもらいたくないのだ。また、そんな様を高みの見物のように構えてみているものも一緒にいる。本音もたまに聞くことがあるが、生まれながらの嘘つきに出来ているようでやはり前者同様にお育ちが悪いようだ。金は払わなくても飯は食うという感じの表現がふさわしい。自分だけが利口だと思っているのか、答えを知っていてその結果予想は常に的中するわけではないのだが予想に対しては責任も追わない。相するように言われましたから行ったとおりにしているだけです。そんなことは言っていないそんな風にやってくれと頼んだ事もない。結果が都合の悪いものになったときには責任を負ってあげることをしたくない人物だ。常に高みの見物をきめていたいようだ。そんな人物とどうして一緒に仕事が出来るか?本音で話さなくてもいいが任せてくれという信頼感があればまだしも一緒にやる意義がある。調子に乗らせればどこまでも付上がるようだ、呼ばれたから来ただけです自分の意思では在りません。貴方が呼んだんですから、この場は貴方が責任を持ってくださいとでも言いたいのだろう。近寄っていて得のない人たちであり、近寄っただけ気分的に損をする人物だ。
2005.01.07
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年の頭に限って抱負だとかいいたがるか自分にとっても他人様であっても抱負なんか最初っから変わることなんかない。出来ることすら出来ない世の中なのは周りを見回してみたり時報ニュースに耳を傾けてみれば解ることだ。具体的なことをいちいちあげていたらきりがないがそういう時代なのだから、抱負なんてものをあえて言ったり聞いたりすることが馬鹿らしいことなのかよく解るだろう。平和な時代を取り戻したかったらルールを良く見直してみればいいことだ、今の世の中なりふりかまっていたら生活が出来ないだろう、だから今まで考えもしなかったとんでもないことをしでかすやつが現れるのだ。とんでもない仕事でうまくいったらとんでもない仕打ちでそれを奪おうとする。こんなことを考えているんだけどとか言った時点で目を付けられ、こんなことをやっているのだけどといった時点で待ったがかかる、それでもはじめてしまったらやり続けるしかないだろう、色んなやつらが群がって貪られるのがおちだ。だまって静かに嵐が過ぎ去るのを待つか、閉じこもって仕事をこなし外の様子を伺うときだけ普通を装って外出するのが世渡りの基本だろう。これをやらないようにというルール、それをやったら犯罪者にしますという法律でがんじがらめに縛りつけ世の中がうまく機能し自動的に国際社会の仲間入りが出来たらラッキーだぐらいしか考えられない学者や政治家先生のお言葉をびくびくして聞きながら生きているのも釈然としない。言われていることを全てこなすほど聞き覚えが良くない。あまりにも多くのことを普通の人が考えてしなくてはならない。誰でも出来ることが多すぎて人間の限界を超えてしまう日も近い。今年の抱負は平和、来年の抱負も平和、これからの抱負も平和。常に変わらない食事と生活を望むのが国民だ、しかし人は一瞬一瞬違うものだから全てに当てはまるものは平和しかないのだ。平和を維持できないのだから平和にするための道元が必要だ平和のために払われる労力と場合によってはさせないための圧力。鎮圧すべき行動も平和に見られなくても必要だ。平和に平和を楽しみ、平和な生活によいしれ平和に飽きたら平和に刺激をもとめる。平和な暴力、平和な感動、全て平和を維持してこそ平和な精神を持ち続けることが出来るのだ。そのためには統制を実行する、升目に当てはまるように割り当てられた平等が余計な行動と思想を束縛するのだ。行動と精神の隔離、これを今年の要とするがよい。何をやっているかわからない悪の縮図を市民の中にはぐくんでしまうような経済構造を持ちながら国際社会のリーダー的存在を気取るような愚考を行使するのが日本であるのならば今後は日本人であることの誇りを持って日本を再建もしくは終焉のための行進を開始すべきである。
2005.01.06
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食事をするときに人間に値札が付くような気がした。場所は牛丼の吉野家、もうすでに10年以上も利用しているのだが吉野家が悪いというわけではない。吉野家に客として行き席に着くと店員は注文を聞きに来るそしてどんぶりに入った食事を運んできてくれるのだがそのどんぶりは席に割り振られた番号を目印にやってくるのだ。お客様と商品の管理はどこの店も同じように解りやすくしているだろうしそうしなくてはならない、またどんなに商品的に金額が高い物でも食事でも皆同じように最終的には会計をしなくてはならないのだから当たり前のことをして儲けているにすぎない。しかしだ吉野家の店内はお客が店員の通る通路を囲むように座るように出来ている。全てのお客に対して従業員は即座に対応できるようになっている。素晴らしいことだが吉野屋に来る人間は瀬良を初め食事は一人で500円以内でもよくとにかく時間をかけない無駄話はしないということで利用する。決して吉野家で時間をかけて酒を飲んだり重要な話はしない、いやしてもよいしかしながらその本来の目的と利用する目的内容にふさわしくはない。スピードを重視した配置はお客の回転率、従業員の稼働率を計算している。それに逆らってまで無理に利用する人間の根性がわからない。本日も吉野家を利用した。瀬良の目前にはやはり瀬良と同じ目的をもって食事を待つことが数秒と考えているお客が座っている。そしてその目の前を店員が通り抜けていく。当然、吉野家では不自然ではない。が、それを一般家庭でやってみたら不自然になる。今は新年会のシーズンだそれを会社の上司の前でやってみたまえやはり気分が悪い。吉野屋だからこそ完成された流れなのだ。それを崩すことがいかに吉野家的には馬鹿で愚かしいことであるかは誰でもがわかるはずだ。ましてや一般世間様の常識としても噛み合わない、利用するものの徳は吉野家ですらもっていかないといけないのだ。それが解らない利用者は永遠に吉野家を卒業できない。吉野家にこれからも人生のマナーを学ばなければならない。いくら吉野屋で食事をしようとしても立ったまま食べるやつは居ないだろうしまた数分の時間も食事に割けない人間が仕事が出来るはずはないだろう。人生のピンチこそ食事をしないと力が出ない。吉野家に来てお弁当にしていくのは上司が働く部下のために数個まとめて買っていくというのが正しい利用の仕方ではないのか!!誰もが振り向く巨体のデブが吉野家にきてお弁当を一個持って帰るという心理状態は自分が人前でどんぶりめしをかき込んでいる様を恥ずかしいと思う羞恥心からお弁当を注文するとしかおもえん。人前で食事が出来ないほど恥ずかしい人生を送っているようなやつが公共の食堂を利用することが社会のためにならないことは子供でもわかる。吉野家の弁当を持ち帰るデブは吉野家に来てはいけないのだ。改めて吉野家を利用する人間にの作法を教えるべきだ。吉野家会員制計画、をもってまず日本国を立て直すべし。
2005.01.05
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一月は誕生日の重なる月のためプレゼント選びで年が始まる。しかしながら今年は毎年続いたプレゼントも一人減ってしまった。その代わり八月が増えた。結果的にはプレゼント出費は変わらないのだが一月はお金がない中の出費なので一人へって幾分は気持ち的に楽なところがある。他人に対する感情など所詮その程度のものなのだろうが身内になるといっても血のつながりがない分、別れはあっさりとしたものだった。この先もそんなことは多く訪れるだろうが、心の痛手は慣れてあまり痛みを感じなくなってしまうところが人として成長するということなのだろうか?痛みは嫌なものだから避けようとするのは当然のことだろうし、感じている痛みもいちいち感じていたら気持ちもそれに伴う体も持たないということなのだろう。自己防衛のためにい被害が多大に及ばないように出来ているようだ。弟はでかいバイクに乗っている日本製の何とか言うバイクだがかなり自慢できる代物で話のネタには必ずでてくる。バイク関係のプレゼントなら大歓迎の単純な男だが、毎年同じような代物だとプレゼントするほうも飽きてくる。昨年あまり会話がなかったのでイメージ的なものが沸いてこないが瀬良自身の豊富を象徴づけるものでもいいとは思う。そしてその豊富とはいかなるものか?本日も実はここにいる必要はないのだが来ている。何をするのかは自身の中では決まっていたのだが別段普通と変わらないことしかしていない。それではいけないのだいけないことに気が付くために今日はここにいる。明日あさってから昨年と同じような日常が繰り返されるだろう。裏切りでも放棄でもいいから毎年ではない事が必要なのだ、誰を信じるという事も今となってはわからない。冷静になればなるほど自分が誰と何かをするということの前に自分が準備しなくてはならないものがあるはずなのだ。瀬良は自暴自棄になり視野狭窄がおこっているのかもしれない。しかし、一度は何かに訴えかけられてそのことに対してはちゃんと供養したのだが、今一度何かが訴えかけている。信頼を寄せた人物も商売上の何かをイメージして語りかけてきているような気がするし、その後言われるままに出来るという自分なりのビジョンが描きにくいのだ。結局は今自分を守れるのは守るために幾らかの金銭的な準備と使用するに当っての決断しかないだろう。年末感じた何かは昨年自分を悩ませたそれとは違うもののようだった。足元がふらつきバランスを崩す。それが嫌がらせを意図しているかのように頻繁に起こる。もう好きなようにするがいいとも思う。付き合わせるのも大概にしてもらいたいという本音が漏れている。やれるようにやるだけだしそんなに簡単にくたばるわけにもいかないが、言いなりになるのもごめんこうむる。これを豊富としたい。
2005.01.04
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昨年はどうだったとか言っている最中に近所で火事があった、全焼の大火事だった。原因の大体が寝タバコ等で片付けられてしまうそうだ。地元民として30年間も同じ場所に住んではいるが家の前の消火栓が開くのを始めてみた。事件は突然やってくるが事件に対して地域の準備はしていても自分の準備は全くされていないことに気が付いた。火事になったらという問いかけに対しては火事にならないように注意するとか自分で出来ることをもっともらしく言うことは出来るが、もらい火の場合はどうする事もでないだろう、そして何を持って逃げるとの心の準備も出来ないまま飛び出し、命があれば燃え盛る自分の家を見つめるだけというのが関の山だ。火事は火の元が特定されていて被害が広まったとしても、加害者にはならないという。刑事事件にはならないと聞いたことがある。火が出るのは不注意だろうが気が狂っていようが、火を出したものは犯罪者にはならない。その被害が死傷に至ったとしてもだ。そうは言っても普通の人は火を出して隣の嫌な隣人を焼き殺してやろうとは思わないし、だいたいが罪悪感で同じ場所に住んでいることは出来ないだろう。また、同じ考えをもって火をつけた場合は当然犯罪になる、放火は非常に罪が重いらしい、どのぐらい重いのかは調べていないが殺人と肩を並べるぐらいの重さとみていいだろう。ドンキホーテの火災も犯人の逮捕にはまだいったっていないようだが、さっさと捕まえてもらいたいものだ。三人もの人が恨みつらみか何かはしらないが、個人の気まぐれで殺されてしまったわけだから、世論としてはそれなりの罪をとわれ遺族には気の済むような結論をもって解決してもらいたいものだ。
2005.01.03
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今年は初日の出が拝めそうだ、かなり冷え込んで夜空がさえてきた。今年の年の瀬は毎年と違った趣がある。たしかに、世の中の見え方が変わってきたのが社会人デビューの会社からアメリカに旅立ったときだった。社会の枠から外れる惨めさも体験した、そして初めて体験する困難超えも若さゆえある程度クリアした。そして思った、瀬良たちは普通に飼われている。ドロップアウトギリギリをじりじりと進みながら今日に至る道のりのなかには、飼われたことのない人種との付き合いがあった。虎穴にはいらずんば孤児を得ずの例えのようにルールを守りさえすれば無害普通の一般社会と変わらない経済がそこにはあった。一部特殊な生態系とも呼べる生簀のような町、繁華街に生きる人種の弱肉強食にして欲望の食物連鎖が人間社会のふりをして維持されている架空の世界とも思える異空間。そこに人を見ようとしたのがまだ青臭い理想論を押し通そうと学生気分のまま会社の乳を吸っている大きな赤ん坊に怪我は得た程度の感覚で一般社会からかけ離れた独自の文化思想で生きている生簀の人種にはまったく当てはまらないことに気が付いただけだった。そこに人との付き合いはなかった、人としての価値は特殊な価値観が生み出す幻想を追い求めることのようらしい。そして何を信じるか誰を選ぶかでその身の振り方と自身の価値が決定ずけられてしまうことになるのだ。人として道理をわきまえそして、地域の社会に貢献すべし。全く役に立たない長物である、またお笑い種である。自分のみの狭い領域でうごめく微小国家が唯一命綱としてつながっているところは地獄のようである。生きても地獄、死んでも地獄という無縁地獄にはまって血をすすって生きる生き様を夢や希望、そして将来の栄光につなげようとしても絶対に無理だろうと改めて確認したのが昨年だったのだ。今年は青臭い過去のせらを鎮魂するための重要な年にしたい。それは迷い多き若さを落ち着け、霞の中に漂う邪悪さと永遠に浮かばれる事のない無限の苦痛からの開放を哀れみをもって実行し世界を現実のものとして鎮めることであろう。あと数分で清浄の光がさまよいうごめくものを焦がし、成仏させてくれることだろう。
2005.01.01
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ついに年を越すことが出来た、思い返せば一時はどうなるか心配だった2004年だった。というのも信頼していたアシスタントには社内告発され情報ソースをリークされた。それを入手したチンピラが激怒し瀬良は袋叩きにされてしまった。会社になりかけていた仕事も壊滅状態に信用を失い廃業を検討した時期もあった。様々な戦いと事後処理に追われたが結果的には現状を維持するような流れにはまとまったが、すでに心傷ついていた瀬良としてはうつ状態に陥り仕事の作業は始終停止したままだった。仕事に対しての情熱は常に地域社会に貢献というのが世間の大儀だが関心にもこの名文はどんな世界にも通用する常套句なだけに、どんなにやる気がなかろうが鬱になろうが瀬良としては肝に銘じて実行していたのだった。それが名目上地域社会と所用する現実が地に落ち、その場でうごめく分子どもが瀬良の目には汚物にも劣る嫌悪匂を漂わせるようになってしまった。
2004.12.31
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今年の仕事が終わった。厳密に言うと仕事ではない。パンのために生きるか仕事のために生きるかというと。パンは欠かせないし仕事もパンを買うことが出来るが仕事をしないで恵んでもらうこともできる。仕事をしてもいなくても生きていることには変わりない。インターネットでの生活も不安なところだらけだが自分が存在するサーバーにデーターさえあればサーバーが壊れない限り永遠に自分はそこに存在することになる。理屈的には生きていることになるが、自分が存在していながらサーバーが壊れてしまえば自分は死んでしまうことになるのだろうか。誰かに任せられている何かの摂理に準じて存在しているという意味を理解すれば今自分が生きている事も不確かなことだ、地球というインフラがなくなってしまえば自分は存在しなくなる。ネットは自分たちの手のひらなのだろうが自分たちは神ではない。例えば自分たちの影もひょっとしたら意識があるのではないかとも思うが、自分たちがいなくなってしまえば影の存在もなくなってしまうのだ。光の粒子がなくなってしまえば光が作り出す世界も消滅する。大昔から決まっていたことを繰り返すだけで、知らないのは自分だけもしくは人類だけということになるのだ。第九は天才の創造物だが音という波長がなくなってしまえば聴くことが出来ない、聴覚、振動がなくなってしまえば細胞に訴えかけるものがなくなってしまうのだ。天才は10という数字を怖がったのか、完成は終末でありそれは死の象徴として恐れ訪れるのを拒んだかもしれない。年の終わりに終わる前の数字9が奏でられるのは天才が望んだことなのだろうか。人間は完成を恐れる、どんな天才だろうが完成はしないことが人類の唯一のすくいなのだ、それを知っているから天才と呼ぶにふさわしい。
2004.12.30
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雨が似合う人がいる。阿部薫と鈴木いずみがBOONに特集されていた。出会う人に雨が似合うと思わせることが出来るのは、雨に打たれるにふさわしい生き様だという意味合いなのだろうか。いずれにしろ惨めな様が目に浮かぶ。雨に打たれても気にしないという投げやりな感じが伝わってくる。この二人は結局が自殺という結論を選んだ。人生80年の現代に20代や30代で自殺を選択するとは命をずいぶんと贅沢に使う生き方だとは思うが、生命力にあふれ毎日を完全燃焼で駆け抜けている人にかぎってあっさり死んでしまうものだ本人たちも死ぬということに関しては無縁のものであり、世の中で言われているような死ぬようなことをしても自分は死なないと思い込んでいるほうが多いと思う。がむしゃらなスピードを持った人生のスピード狂は自分の置かれている死の領域すら居心地の良い場所として少しでも長い間底に居座りたいと感じているだろうし、誰かに言われても危険に気が付くわけでもない。当人の感じるものが寄り付かせる危険は他人が判断できる範囲では偽善にすぎず、自分の見ている前で悲劇が起こるのを黙ってみていたのかと非難が集中することをおそれての保険に過ぎない。むしろ黙って生き様を見ていられる人のほうが真のやさしさをもっているはずだ。俺死んじゃったのという一言は色々と解釈されるに値するのかは全く本人には関係の無いものだろうが、見つめる目が優しければ優しいほど生きていたら聞いてみたなぁと色んなことを思い浮かべるだろう。若松監督のエンドレスワルツはずっと意識の片隅にはあったのだが、結局見ることが出来なかった。阿部薫に激似の町田町蔵もスピードは鈍いものの阿部薫と同様の表現者だとも思う。表現の一手段に映画なり音楽なり文章なりが存在している町田氏と阿部氏の違いは時間の経過を受け止めることが出来たか出来なかったかだけだろう。山本監督の南方熊楠もどうなったのか完成したのかいまだその後を聞いていないが。どうしても監督として撮りたいテーマを追求するも追い詰めるまでの集中力は日常生活を無気力にしてしまうほどのエネルギーを要するだろうし、それが普通の人の生活に該当しないことは普通の人ほど良くわかるから理解しがたいという防衛の言葉で自分自身を武装する普通の人であるべき戦いがある。何かはそれぞれが持ちえるもので多くはない、何かを追求するに当って色々な人が使う時間は的を得て外すことなど出来ないぐらいの真剣勝負だろうし、所詮一個人で出来ることは詰まっている物をさらけ出すことぐらいしか無い。
2004.12.29
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付き合ってよい人、悪い人。一応、外見は同じように人間に見えるが、影響力として瀬良を含む全ての人間は自分以外の影響を受けざるをえない。人付き合いの中でだんだん判ってくるのであるが波長の会わない人や一緒にいて楽しく無い人、何をやってもその人とはうまくいかない人。勿論、その逆もありうるわけだが、付き合ってみないとわからない。以前、抽選や賭け事をする際に連れて行くと必ず当る儲かる人物がいた。なぜか性格も生活もまるで違うのにひょんなことから知合いになり、一緒にいる時間を多く作るようになった。容姿も瀬良とは似てもにつかないうえ肌と肌が触れ合うときには、彼女の皮膚は瀬良の何倍も強いようで触れるところが痛かった。結局、彼女とは生活の面でうまくいきそうもなく、彼女の本命の彼氏であるランディーという飛行機乗りのオヤジとくっついてコロラドまでいってしまった。その後、彼女との通信はまったくないが、その驚異的な勝負運はいまだ例に出して語っている。今の時分うまい話を持ちかけてくるやつは注意して近づかないといけないとは思うが、うまい話を持ってきてくれた上で話も実際の儲けも人生最大、生活も大いにかわってばら色の生活という方もいるだろう。しかし、そのときはよくてもあとでとんでもないツケがまわってくるかもしれない。一本の電話からいま売れに売れている商品があるのだけど一口載らないかとの話が舞い込んだ。貯金、株、商売、とりあえず低迷しているので金が金を生むなんて調子のいい話よりも地道なことのほうが現状を壊すことはない。しかしながらいつも財布のお金しか使わない瀬良は財布の金を出資してみることにしたのだ、数ヶ月前も知合いに金を貸したばかりだったしそれも帰ってくる保証は無い。瀬良自身が生活する分の金銭的余裕は無いが将来の安全を金で帰るとも思えないので、余った金を貸したりすることにはあまり抵抗が無かった。確かに個人でも何らかの在庫を売りさばくことが容易な時代でもある、商品が手元にあればなんとかなるという算段もあった。しかしその心配も必要はなかった、話を持ちかけたやつが全部処理してくれた、つまり増えた金を受け取っただけだった。何度かそんな話があったが、そいつから音信が不通になってしまった。増えた金もどのぐらい生活に影響を与えてくれたのかもわからない、前と全く同じような生活しかしていない。ただ、うまい話のわくわくするような興奮もなくなってしまったし、使った時間も無駄になってしまったようだ。普通のやつが手を出す話ではなかったのだろうし、そいつは見るからに普通だった。今となってはその当時のことはなんとでもいえるのだが、今そいつがいないということは明らかな事実だ。
2004.12.28
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天災、戦争、犯罪、暗い影ばかりがよぎり瀬良の未来ですら不安にさせる。ということは精神的ないたぶりを好むマゾにとっては絶好の時期なのではないか!世の中には沢山のマゾを拘束する好材料が広まりわたっている。わざわざ自分の体を不遇にしてしまいお慈悲をもらうというのは社会的な身分戒律が健在の一部の国だけのことではなく人体改造マニアの間ではアンビテーションと称する肉体切断を自ら望むものもいるようだ。命のための健康とはもはや意味を成さない世の中になっているようだ。精神的健康のためには肉体の欠損、危険な病気に冒されるリスクを承知でみな危険な肉体改造に励むのだ。いまだ冷め遣らぬ戦火の袂には劣化ウラン弾など放射能汚染を伴う兵器も多用され、地域住民への影響はその体を立てぬほど変形させ日常生活もままならない援助物資に頼るだけの細々とした日々に追い討ちをかけている。モダンプリミティブに総称される変身マニアたちは生理食塩水を頭部に打ち込みトランス状態を楽しむという、また性器を本来在るべき形状から甲状腺異常の患者のように肥大させその豊満感を快感につなげているという。まさに神をも恐れぬ愚行が平然と日常を闊歩しているのだ。100年に一度起こるとされている大型の地震が赤道直下で起きた。可能性がゼロであったとしか思えないような無防備の中被害は甚大なものになっている。戦争級のダメージの被害者は戦火も犯罪、変態も関係ない一部のブルジョアジー階級にその大半を占めているとのこと。避暑のための休日が悪夢と化してしまった。しかしながら刺激を求めていなかったわけでもないだろう。いずれこうなるなってみたいとおもっていたのではないだろうか?平常心を保てる日常に物足りなさを感じていたものも何人かはいたはずだろう。今までどおりに老い朽ちていく人生に希望を無くしていたものもいたのではないだろうか?死にながら興奮してエネルギーをみなぎらせているマゾはかならずいるはずだ。不謹慎な事に気が付いていると瀬良は思う。しかしながら不謹慎なものの存在に気が付かないものが不謹慎変質者に捕食されてしまうおそれが十二分にあるくらい世の中が今なのだ。トンネルを抜け出し人類として進化するためにはマゾの精神構造を多少なりとも判らなくてはならないはずだ。みずからを差し出し鞭打たれることにより、怒りと理解しがたさと実際に存在する痛みにあきらめてこそ人間として自立するのだろうか。
2004.12.27
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街では毎年の恒例事業クリスマスケーキの販売が盛大に行われている。大いに結構、豚のように食べそしてそのもののように太り惰眠を貪る。もはや考えることを拒否し何の疑問も持たず踊らされることの快感に身をゆだねることが日本人総マゾ計画の一部であることと思えてならない。日本人総労動力=マゾ、日本国民の精神構造の一部として奴隷であることを甘んじて受け入れる傾向は日常生活のいたるところで容易に見かけることができる。それが国家原動力の大部分を占めいていることは働くことの義務を教育という取ってつけたような場当たり的な仮面の下に隠し、国力の維持のための犠牲的精神のすべは独自の歴史と支配欲に駆り立てられた一種族の末裔の思うところに集結する。民主主義の大儀は血塗られた歴史を継承するための遺伝子の成せる技であり、死に絶えて当然と思われる窮地をことごとくすり抜けて生き延びている忌まわしい下等生命体に起因しているとしか思えない。どこか違う世界から迷い込んできた特殊文明に滅ぼされ蹂躙されたほうがよっぽど、忌まわしき生命を継承してきた細胞の終焉による大多数の薄く純粋な構造をもつ細胞の繁栄と未来を期待させることが出来るだろう。つまり終わるべきものが存在しその存在を存命させるためにうら若き希望と将来が浪費させられているのだ。例えば民事再生法による企業の存続が世界的低レベルで悪評高き銀行に適用されていた時期を思い出してもらえれば容易に理解できることであろう。沈み行く船にはねずみがいなくなる、それが自然の摂理なのだ。現代の悪霊は死を招かない。死に行く運命をくるわす悪霊を排除しない限り、日本国民に未来はないはずだ。
2004.12.25
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休日前だったので帰りの電車が混むことは判っていた。当然のように終電は足場がないくらいに込んでいて、ドア付近は体が浮くぐらいの状況だったようだ。隅のほうに追いやられていた瀬良としては押し付けられるがままになっていたために、その状況を体験することはできなかった。瀬良はフツーのサラリーマン生活は卒業してしまったので朝の通勤ラッシュに必要迫られて身をおくことはもはやない、朝と夕方の二度にわたり電車の中で恋人同士でも不可能なフリーペッティングをすることが精神的に非衛生的でその後遺症を症状を推測する事も恐ろしいことだ。自分が蝕まれる状況であることを知っていながらその環境に甘んじているなんてつくづく通勤従事者はマゾ体質であることを容易に確認するのである。そんな耐え蝕まれる毎日を送る中ですくすくと彼らのなかで病気が拡大し成長している様を触診してしまえる瞬間が訪れた。マゾたちは同じ波長を共有しているようで一人のマゾが発する信号を容易に受信することが出来る。今日の車内は非常に虐待の対象を捜し求める波長で満ちていたのだった。一人の方が強く当ったと同時に同じ力での反作用が起こりそこに精神部分での接点が生まれ広がっていった。次は蹴りを入れてみるそれに対し同じ力が反発しか弱く力が効果的に働く素材としての肉体が激痛を伴ってサド感性を刺激したのだった。そのサディストはひ弱だった豆腐のようで刺激を吸収し素材としての形状を成さなくなる恐れのある危険な肉体の持ち主だった。此処でサディストとしての条件を検討しなくてはならないサディストは朽ちてはいけない。マゾとは明らかに違う部分で硬質で安心感があり決して取り乱してはいけないのだ。前述のサディストまがいはマゾだったのだ、マゾがサディストの振りをすると結果は明らかに間違ったものとなってしまう。サディストが壊れてしまう状況が容易に想像できたが、公共の場で進行する激情の本流を堰きとめることは出来なかった。満員電車をおりお互いの気持ちを確かめ合うためにそのマゾたちは停車した駅に降り立った。己の存在が消滅しまうというのはプレーではないのだが、彼らはどういうわけか公共の場でむらむらしてプレーに入り込んでしまった様子だ。なじりあい掴み合いそして公衆の面前にさらされる痴態。閉鎖的な空間でのみ楽しむことの出来る貴重な時間も余裕の感じられない激情の浪費にしか見えない、環境的に迷惑な状況であるが誰れもとめに入らず、その行く末を期待する下衆なマゾたちの好奇な視線が追う。皆死ぬまで争うことを期待しているのだろうが寒風吹きすさぶ駅のホームで口をあけて何かが起こるのを待ち続けるマゾたちの痛ましい姿が心地よい。
2004.12.24
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結局は個人の保身を中心に踊らされているだけが弱者の立場かというのに気が付かれない様に努力するのが企業努力かということなのか!労働力というのは燃料と大差ないというのが企業の考え方でそれは会社に対して出資しているという位置づけの株主の方がえらいわけだ。つまり社員というのは株主であり、従業員というのが世の中で言われている正社員というわけだ。正社員の中でも自社の持ち株を持たされているものもいるだろうが会社内にも会社外にも敵の多い会社であればあるほど、株を他社に売られてしまう事もありうるわけだ。働いている分、会社の内部事情に詳しいわけだから会社の株と社内情報もセットで販売なんて技も使えちゃうのに、君と僕とは立場が違うのよーんとばかり経営者が遊んでばかりいたりすると、社員一丸となって会社を守るために会社資本に貢献しますと株を買ってくれたりしながら実はいいネタありまっせとばかりに競合各社に社員一丸となって株売っちゃうぜかってくれよ旦那、ついでに俺たちもやとってくれよぉー。とリストラのツケを一致団結して返させてもらうぜー。ということに気も付かないで、やばいぜ俺もうしらんけんね、といってもにがさねえぜ経営責任取れや、ということもできるわけだぁ。瀬良さん私ストレスたまりすぎちゃって、今日付き合っていただけませんか。「こんな僕でよければ、どう付き合っていただいても結構ですけど。」サディストはどんな状況でも誘いを受けなくてはならない、どんな要求でも甘んじないで受け入れやっちまわなくてはならない。瀬良さんもっともっと今以上にやっちまってと言われても決して恐怖してはならない。これ以上やってしまったら死んじゃうんじゃないだろうか、犯罪者、殺人鬼の名札をもった疫病神が自分の周りを飛び交いだす。やっちまえ、そいつが言っているんだからやっちまいなよ。止めを刺してやんな。疫病神はいつも囁くだけ囁いて瀬良が気が付いたときには跡形も無く消え去っているのだ、ただし名札だけは置いていく。肉に刺さってとれない体の一部になってしまう名札、はがそうと思って力を入れれば肉に血がにじんでしまう。俺は犯罪者にはなりたくねえんだよぉ。声をけしてくれぇ、耳から血が噴出してくればそれだけ声が遠のくかもしれない。耳がなくなっても、頭の裏にこだまして逃げることは出来ないんだ。今日はどこまでやって欲しいんだ、女でも男でも瀬良を見上げながら目は恐怖と好奇心でいっぱいだ、「何をやってくれるの、もっとやってください。」訴えているんだ、望みをかなえてやるしかないだろう。
2004.12.23
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新宿は瀬良が10年以上も通っている仕事場だ、フツーのサラリーマンは決まった時間に決まったように職場に通う。一見くだらないことのように思えることの中にこだわりがあり、秒単位で神業のような計画性が感じられる。会社員時代に誇っていたこだわりは今現在の生活には全くかかわっておらず、むしろ膨大な時間をかけて単調に従順に磨きあげたサラリーマンとしてのゆるぎない感性には価値観のかけらも見当たらない。会社を逃げるように退社したものの末路は誰でも最初は同じだとおもう。時間の消化が全く出来ないことに気が付き単調な時間の浪費を懐かしむ運命が待っている。会社に依存して何から何まで世話になっていたものは、今後自分の力のみで処理していかなくてはならないが、具体的にそれが何なのかは全く解らない。少しずつ気が付かされる現実には驚愕の一言しか出てこない「俺は知らない、こんなことでは生活が出来ない」しかし泣きつくところなどあるわけもない。そしてなにか悪者を見つけては気持ちを紛らわすわけだが、愚痴が何かを解決してくれるわけでもなく世の中で言われている「負け犬の遠吠え」の実践としかならない。今どうしているのという興味本位の元会社の同僚、そして学生時代から理想しか話さない現実味のない友達と称するものとの会話。全く無駄な時間と貴重な生活費が消耗していく、ニュースでは誰が儲けたとか誰かがしくじったとか最悪なニュースが垂れ流しになっているが、耳が傾くのは金の話ばかり。本当に理性が壊れるのはこの瞬間だと思われる。しかしながら自分は最初から壊れている理性に関して観察していた、自分の理性も壊れているんだということを実践することで表向きの普通さを演じていたのだった。人を殺してまでも金銭を奪いそれで自分も生き延びる、死の瞬間に決定する自分の価値に対してどんな悪者ですらあまりに小汚く惨めに死んでいる自分を見下ろすのは嫌だと思うが、薄汚れたまま消滅していくことが最初からわかっていたら、自分に忠実になんでもしてしまうだろう。生きるということがつらすぎると思うやつは自分では死ねないのだ。誰かに結論をだしてもらいたい、忌み嫌っていた社会からの評価でも甘んじて受け入れるだろう。だから、社会道徳をも超越した獣のような考えが膨らむのだ、考えというよりも原始本能としての殺掠、細胞維持のためのカニバリズム、生命あるものの本質に限りなく近づいてしまうのだろう。歴史とルールがそれを許さないのは当然だしかし進化の未来には原始回帰現象が待っているということの不確かな証明にはなっているようだ。
2004.12.22
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ピンチな状況を抜け出すためにあれこれと考えるのは普通だと思いますが、一部シノギと呼ばれることを生活のためにしていかないといけないかたがたがいてそのあれこれはとても常識では思いつかないとんでもないものが多い。考えるやつらは自分では手を出さない場合が多いので相当無茶な事も考えてくる。最初は目的のためにあれこれと集められた人たちも主張は全く無視されて都合のよいように働かされる。最終的には考えを実行する人たちが全てかぶるわけだが、最初に言い出す発案者は火の粉が自分にかからないように考えているので都合の悪いことには名前が出てこない。結果的に良いことは起こらないとわかっていてもシノギをせざるを得ない人たちが居る事も事実だ。理性を持ちながら物の道理をわきまえシノギにたずさわりいくらかのはした金を貰いながら世の中から嫌われていくのだ。
2004.12.21
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誰かから聞いたことがあるだろう、君は「~な感じがする」「~に似ている」自分から言ったことがあるだろうか?今気が付いた方もいるだろうが貴方は自分では自分のことをがわからないし知りたくもないのだ。しかしながら貴方が自分の価値を知っていたらどうする、おそらくたいしたことを考える人が少ない世のなかだら販売価格を設定すると思う。自分の価値は100円です。そこでまた思うだろう、自分は何て安いんだろうそして自分が高くなる方法を考え出すわけだ。自分を高く買ってくれる方いませんか。いまなら特別出血サービスです。でも、値段は交渉次第。自分が言ったことには責任を持たなくてはならないとくだらない義務教育が教えてくれた、それを実践するために自分の詳細を作らなくてはならない。紙と鉛筆は義務教育の砦だからそれを用意することだけは皆実践できる、日本国は教育熱心で個人は究極の営業をかけて生きていくことを選択するように教育されている先生ありがとう感謝の気持ちは忘れてはいけない。さて教育の真髄を実践するために自分販売の市場を調査しなくてはならない。自分の売り込みのための個性を強調し同じ人間でありながら人間を参考に他人に似たような自分を作り上げる、全く同じで完璧。そしてそいつの値段表を見れば100万円になっている。では自分はちょっと控えめにして99万円の値段をつけて市場を探すが参考にした他人が売られている市場は限定10人だった。仕方が無いので違う市場を探したら自分は120万円ということだった。初めて気が付いた自分の値段。自分は120万円の値段で売ることが可能なのだ。もはや参考にするものは無い相談する他人も要らない。先生ありがとう義務教育万歳、自分のことは自分で責任を持って社会に貢献しなくてはいけない。他人なんて全く当てにならない、自分のことは自分で切り開いていかなくてはいけないのだ、お母さんお父さんありがとう。一個人としての価値を伸ばすのは自分の知識と行動周辺だけで十分である。そうだ自分を販売するには時期がはやい、今まで自分に値段をつけられなかった人間社会である。これからは自分が本当の人間であるから自分以外の人間に自分を評価査定させてはいけないんだ。自分を売り込むのは自分、認めさせるのも自分、こういうものだと解らせるためには自分以外はみな詐欺師と思わなくてはならない。騙される前に騙せ、喋らせる前に喋ってしまえ、やられる前にやってしまえ。他人様よあなた方は黙って俺様のやることを見ていればいいのだ。俺が一番優れた商品なんだ俺は120万円以上の価値がある。さて、今回の商品を見てみましょう、とりあえず相場的には安パイかと推測されますね。時期が時期ですので今付けられる最高額かと思いますね。比較検討できる範囲の商品にすぎませんし、今後駆け込みの売り込みも望めますので、様子を見てみるのも一案です。とりあえず足の速い商品には違いないので賞味期間の短縮と転売価格の設定が必要ですね。それでは買い注文を出しておきます。
2004.12.20
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聞きたいことはこれだけありますとA4用紙にぎっしりと質問事項が書かれていた。それにいちいち答えるつもりも無いがこれだけは言いたいということもいくつかあった。また、初対面のA4用紙の送り主に対してどのくらい気を使ったら良いのかわからないことであるし、いつものサービス精神でいわなくてもいいことを話し、しなくてもいいことをしてしまうのも歩に合わない話になってしまう。お互いが満足できないという出会いは不幸な出会いだからだ。これから付き合いを続けていくには多少の不都合があったほうが良いというのは誰しもが思うことだと思うがどうだろうか?自分は赤ペンを取り出し一行線を引いてみた。此処の質問にだけ答えてあげようかな。
2004.12.17
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結局自分は変なやつを引き寄せる媒体として定めを受けてこの世に存在しているのだと改めて思った。しげしげと自分の周辺や一日の自分の行動などを記録し客観的に判断し、一応第三者の意見も踏まえて観察してみるとあまりにも変なところやトラブルの多い場所、変なやつが集まるところ変なやつが生息しているところを生活の中心として出歩かなくてはならない場所に自分が30年近くも住んでいることにいまさらのように驚いた。近年まれに見るトラブルの連続からノイローゼ気味になり人知の及ばない何か別の世界の力が働き自分を苦しめているのではないかという錯覚に陥り、著名な霊媒師等に相談するとそれは間違いなく悪霊の仕業であるという答えが返ってきたので、早速除霊を試み貴重な財産を散財する事にしたが、除霊も無事に終わっても全く生活と環境は変わっていなかった。そして自分で自分を観察することにしたのだった。自分はこのとき改めて自分の価値の低さに気が付いたのだった。それは腐ったりんごが一つでもあると新鮮なりんご瞬く間に腐ってしまうりんご箱の理屈と同じであるということだ。改めて自分がどんな人種の末裔であり、これから自分を守るために周囲の環境をどのように改善しなくてはならないかは早急に検討しなくてはならない。まづ、日常における気のなる箇所をあえて避けてみる、避けられないものに関しては時間で避けてみる、そしてディメンションにおける回避が不可能という判断に陥った場合は自分の存在の抹消もしくはその不愉快な存在の抹消を実行しなくてはならない。命をかけるという昔から言われていることはこういうことなのであろうか?結構単純なことであり、愉快であるか不愉快であるかそれを決めるのは人間全般の感覚でありそれが一般的でない理解できないものであることが多いのは、その立場により決定を実行に移せる固体が個性的であるからなのだろう。革命家による所業も大義名分も全く関係のない世の中になりつつあるのは戦闘地位外の平和な産業も同じことだろう、結果的に実行できる人を集めることができることと集結する人を意義に駆り立てる些細な感情を持ち合わせることそれにより国が生まれるのだ。。。。
2004.12.16
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今日も変なやつが周辺にいるようだ、頭のてっぺんの変なやつ探知機がぴんと立った。寝癖かもしれないが敏感に何かに反応する髪をを持つことはよいことだ。長い手足に端正なお顔、見せる事を生業としたプロとして通用する容姿を持っている方と同様。特殊な機能を持ち合わせいざというときに機能する装備は心強い限りだ。その優秀な髪レーダーが鬼太郎のそれのように反応した先に常にマニュアルで例に挙げるそれに全く一致する「変なやつ」がいるではないか、特徴その一:異形である、喜怒哀楽が読めないどころか感情を伝えるように働いているとは思えないような表情をしている。特徴その二:見た瞬間の印象がとても強い、つまり浮いているということだ平常の流行やおしゃれといった感覚のルールから著しく外れている。特徴その三:周囲の時空をゆがめるような人知を超えたエネルギーを発するため近寄れない、匂いとかに表現を変える事もできそうなものだが、五感以外の部分で感じる抵抗力を持つエネルギーを感じる。特徴その4:目を合わせていはいけない、何が飛び出してくるかわからない未知の恐怖を感じる。特徴その5:ことごとく自分が恐れていることが、その変なやつの周辺で怒り出す。歩く災難との言葉が一番当てはまる、常識や今までの経験や考え方が通用しないためカオス的なひょっとしたら今まで時代に無かった革新的なものの誕生に導かれる一つの起爆剤に相当する人類の期待すべきものを一瞬のうちに呼び起こし次の瞬間には何もなくなっている。思いに該当する部分を挙げてみても5つの特徴が当てはまる。そいつは前科23犯の犯罪者である鳥のような頭蓋骨になめし前の皮をかぶせたかのような女性状の生物だった。
2004.12.08
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普通の人は仲間はずれになるのを極端に恐れるはずだ。今日まで普通に会社に勤めていたが次の日から自分の席がなくなりだれも迎え入れてくれる場所がなくなるのは怖いはずだ。自分の家があれば帰路通り過ぎる町内で顔を見られるなり逃げられたり、窓を閉められたり、挙句の果てには町内の人たちが人垣を作り家にも帰れない状況にさせられたりした場合、町内の人に気づかれないようにひっそりと隠れるように暮らすか、それでも住んでいることが気づかれた時点で石を投げ込まれたりするようならば、引越しをするだろう。ショックで立ち直れないようなら遺書に自分の存在がとても汚らわしかったと謝罪文に似た遺書を書き残しこの世から立ち去ってみるなどするかもしれない。しかしながら他人様からどう思われようが全く意に介さない人物もいる、もしくはどう思われているかを良く知っていて他人様の目に映らぬように巧妙に生活しているのかもしれない。どうしてそうする必要があるのかは普通の人間にはわからない、なぜならその変なやつは何か違う構造をもった細胞で構成された地球外生物もしくは太古地球上に存在した別種族の末裔で今の社会と違った価値観生活を営みつつ、何か一族のために将来を画策しているのかもしれない。だから社会協調性の皆無な者がそこに住み追い出されること無く、一族を反映させるために現在にまで代々語継がれてきた方法をもって社会に溶け込んでいるかのように人の振りをしているのではないのだろう。
2004.12.05
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街の中を自由に見回してみるとどうしても普通の物、人よりも普通でないものを見てしまう傾向がある。自分自身が「変なやつ」なのだが自分の「変さ度」はいたって低く外見は全く普通、特徴のない見本のような人物なので変さ容姿自慢は出来ない。かなり自慢できるような「変さ度」の高い人物ほど自分の価値に気が付いていないのが残念なことだ。だが、その変さ度の高い人物を引き寄せてしまうのが自分の特技でとくに電車内のような閉鎖的なところでその力を発揮することが多い。身動きの取れない状況で起こるそれは普通の人なら泣いて許しを請うだろう、背中合わせになったその人物の背骨が下から上、上から下とうごめくのだ。そしてそれに飽きたらしいそいつは左右に背骨を揺らし始めたではないかぁ。そんな変なことが出来ることを知っているのは車内にひしめいている人間の中で自分一人なのだ。次の日、決まった時間に車中でそいつに会い目が合った瞬間にニヤリと笑われた、ハッキリとそいつからは現実外の世界から来た何者かであることが伝わりヒューマンではない何かであるというエネルギーを感じてしまった。そしてそいつはお前もそうだろうという念を眉間のアンテナから発信してくるのだ。あああああ、こいつはお仕置きして正体を突きとめなくてはならない、自分は握りこぶしにじっとりした汗を感じた。
2004.12.04
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ものすごく寝起きがわるいので、今日は午後3時に起床しました。寝るときは一日を惜しみ、起きる時はこれからおきる一日を呪うのは同じニンゲンとは思えません。いったい自分は何者なのだろうといつも思います。
2004.12.03
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しばらくブルです。自分に対して言ってみた。
2004.12.02
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さて、いきなり詐欺師扱いされたがどうしてくれよう。すさまじい恫喝でまるで891のようだった。普通の人ならばとても怖かったです、助けてくださいといえるだろうが自分の場合は仕事で今後も対決していかなくてはならない。ビジネスとはなどと漠然とした議論をするつもりはないが、お金をもらっているので価値と満足がそれに比例しているのが当然であるが、たまに変なのが居て「そいつもどうにかしてやろう」などと支払った金額以上のことが出来ればなどと甘いことを考える奴だったりする。なめられなくては言われないことだがなめられるようなまねをした覚えはないので、これから長い戦いが始まってしまったようだ。他から聞いた話だが言われれば言われるほど馬鹿にされれば馬鹿にされるほど気持ちよくなってしまう人が居るらしい。考えることなくされるがままになることがとても居心地がよいのだという。しかしながら相手を気持ちよくさせるために怒り続ける人も大変な役目だなぁとも思うが、本当は心から怒っているのでなく事務的に怒れる訓練をしているのかもしれない。怒りは人相を変え体調までも左右してしまうのが一般的な医学的な根拠だとおもうが・・・。いずれにしろ相手がどんな人であれ、瀬良は非常に気分が悪くなったのでそいつの未来がなくなるように接していきたい。世の中に自分勝手な無責任のやつを増やしたくないので、あとでどう謝ってきても無駄だということを長い年月をかけても償わせるつもりだ。
2004.05.08
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瀬良は野菜の摂取がすくない、ファーストフードのサブウェイのサンドイッチは野菜が多いので瀬良にはうってつけだ。しかしながら、朝食となると問題が発生した。朝っぱらから個人的に勝手に寝ぼけてすいません、調子が上がるまでとてもセンシィティブの瀬良は静かな朝を躍動の午前中につなげようと全身を緊張させていた。いきなり、寝ぼけリーマン(瀬良はリーマンではない)がコーラを床にぶちまける、ちょっとめがさめる。店内で面接、店長と勤労青年の会話が客席に轟く、めがさめイラつく。しかも、勤労青年と店長の会話「きみはサブウェイのサンドイッチ食べたことがあるか?大阪で一回だけです。きみは野球を見るか?すごく好きです。髪の色の制約はないから、採用」・・・・サブウェイこれからもおいしいサンドイッチを食べさせてください。
2004.05.06
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はじめまして僕。日記というのは紙に書いて本棚なぞに整然と並んでいて初めて実感がわいてくるものだ。こんな楽天なぞというもので日記を書きましょうなどといわれること事態がすでにノーフューチャーだね。日本人のマゾっぽさが最高に発揮できる瞬間は親から言われてやったお習い事から始まるんだね、「あなたのためを思って」色々と月謝を払っていただいたことで、にっちもさっちもいかなくなってた自分は職にあぶれることもなく後世大事におままごとを本職にしております。されるがままになってみて初めて親(ご主人様)のありがたさが身にしみるね。親はなくても子は育つ、こどもの日に土砂降りになったり、親の顔がわからなくなるぐらい大泣きしてもらってこそ子供には未来がある。それ以外の子供たちはみんなマゾになって主人に感謝していきることになるんだよ。少年よ親の顔をわすれろ、一番だめなマゾ先輩からの忠告だよ。これからマゾ先輩は世の中を調教するためにサディストとしてにわかデビューすることに決めました。少年に戻れたらサディストになるとこどもの日に思ったのでした。
2004.05.05
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