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筆者にレコード屋が潰れてしまったみたいだねと声をかけてくれた男性はお店の取引先がよこした集金係りだったのだろうか。お店の中にあった品物を手にしながら首を傾げていたところだったので、換金できるものがあるのか物色中の金貸しだったのかもしれない。 個人経営のレコード屋が潰れるのは良くあることだ。自宅兼事務所で営業している彼らにとって商品が売れようが売れまいが関係ないという考えで店を開いている。もともと自分で聴くために買ってきたレコードだったものが並べられている店もある。飽きた順から売っていき収入があれば新しいものを買う。だから聴きたい音楽が無くなった時点で商品入荷が無くなり閉店ということになる。
2005.02.25
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ある日、煙突のような階段を登っていくとぺらぺらのドアが開け放たれていた。店内を覗くと見慣れない人がレジの前にたっている、商品のほとんどが無くなっていて閑散としていた。筆者に気が付いたその人がレコード屋は潰れてしまったようだねと話しかけてきた。追い返されるように店を後にしたが信じられなかったので後日また行ってみた。やはりドアは開いたままでカラの下駄箱が目に入った、洗面台にドクロは置かれていなかった。かつて店だったところは空っぽの空間になっていた。
2005.02.24
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このお店は無名のアーティストの作品を多く扱っているところだった。精力的に活動している新人や、センスと実力が伴っていながらも認知度が低いバンド。フアンは数えるほどしかいない特殊な分野で一流とされているマニアご用達の変態バンド。いずれにしろ作品数が圧倒的に少ない商品ばかりを扱っていた。お店に置かれている商品はアーティスト自らが持ってきたものもあったようだ。ある海外アーティストは自分の手作りの作品とともに来日し店頭に並べてくれと売り込むとのことだ。事務所に所属しているわけでもなくマネージャーもいない。日本までの旅費も自分持ちだ。そこまでして来日してくるのは彼らなりに訳があるようだ。日本人は熱狂的なファンが多いというのが理由の一つだそうだ。日本のファンの多くが直接買いに来てくれる。ファンの熱意に感動し創作意欲が沸いてくるということのようだ。ところでこのアーティスト朗読している詩の内容「神はお前を許さない、俺達もおまえを許さない」などと永遠に語っている。こんな作品を作るアーティストの創作意欲をかりたてるファンの存在を想像すると普通の人なら背筋が寒くなることだろう。
2005.02.23
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急な階段は靴のかかとが飛び出てしまう。おまけに天井も低くて煙突を登っていくようだ。公衆便所のようなぺらぺらなドアを開けると洋書がならんだ下駄箱が目に入ってくる、隣の使われていない洗面所には赤い蝋燭が頭で溶けているドクロが置いてあった。レジを前に座っているお店のオーナーと思われる男性はいつも全身黒装束だった。流行のゴス系ミュージシャンというよりも普通のお兄さんで太目大柄だった。外見からは隠しきれない健康的な体臭をいつも発散していた。オーナー風の店員の他にもう一人小柄な女性がレジを前に座っていることがあった。居ることすら気が付かないほど存在感がなく部屋の備品と言ってもいいくらい無機質だった。うつむいた顔を上げることもなくお客が来ても挨拶もしない。その代わり手元だけは自然に揺れていて、何かを書いているようだった。レジの横に手作り詩集が平積みにされていた。彼女が持ち込んだ自分の商品のようだった。質の悪い紙を和閉に製本したもので手に取るだけで壊れてしまうと思われる粗末な作だった。にもかかわらず手に取っただけで1500円ですと言われる。さらに値段1500円と手書きで書かれた値札が睨みをきかせていた。彼女に聞いてみたいことは色々とあった、しかしながら商品購入のお金を払うとき以外、話をするきっかけなどなかった。また何を聞いても帰ってくる答えはいつも「わかりません」だけだった。存在感もなく特徴もない空気のようで外からの干渉を一切断ち切った孤高の存在、それでいてお店の雰囲気を台無しにしても許されてしまう彼女はどういう女なのだろか。経営者と親密な関係でもあったのであろうか。雇用主と彼女の関係などお客にとってはどうでもいいことではある。しかし、商品やお店の雰囲気を期待して来店しているものにとって彼女がいることは非常に迷惑なことだった。
2005.02.22
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大学はレコードを買い漁る事に明け暮れたまま卒業してしまった。学生にしては考えられないぐらいの大金と時間を費やして集めたレコードだったが、革命的に優れた作品に出会うこともなかった。80年代という一つのジャンルが終わり、90年代というもう一つのジャンルが出現したにすぎなかった。時代の変化はごく僅かだったに違いない、大きく流れが変わったわけではなかったはずだった。しかし90年代の訪れとともに、レコードへの興味は薄くなってしまった。レコードからCDに時代が変わっていったことも気持ちが離れていったことの一つかもしれない。もともと音楽にすがっても感じ取るだけの感性がなかったのかもしれない。そしてある日突然、筆者のレコード収集人生は終わってしまった。結局レコード集めは一時の熱病にすぎず、筆者の人生までも変える事はなかった。ただ、それからの生活は心の中心が欠落したままだった。熱中するものを持たないまま将来がどうなるかなど誰に聞いても答えが返ってくることなどなかった。そのままレコードを買い続ける生活を成り立てさせればよかった。筆者以外のレコード収集家だったら即答することだろう。 無情にも月日は流れた。無我夢中で通ったお滝橋通りを歩いてみる。ダイカンプラザは昔のままだし、汚いレコード屋もまだ残っているようだ。まだ時間が早いせいか公園の周りにはお客と思しき人達の姿はなく代わりに浮浪者が風景に溶け込んでいた。見かけによらずレコードに詳しい新宿レコードのオバちゃんはいなかった。早業を駆使してジャケットをチェックしているマニアはまだ居るのだろうか?ピンクのレコードジャケットにVINILとプリントされている看板の老舗から出てくる若者とすれ違った。「またもどってくるか?」と聞かれたような気がした。
2005.02.19
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大学生になったばかりだった。特別に目的があったわけで大学生になったわけではなかった。それで進学を希望した理由を聞かれると周囲の勧めが強かったというのが最大の理由だろう。自分の両親は職人だった夫婦共稼ぎで自営店を切盛りしていた。朝から晩まで働いて唯一の楽しみは家族そろっての夕食と晩酌だった。両親が望んだことは自分たちが出来なかったことを実践してくれる子供になってもらいたいということと、家と職を持ち安定した家庭を築いてもらいたいということだった。どんな職業でも勤まるように学問を修めるまでは親には責任があると感じていたようだ。だから最終学歴に大学までは卒業させなくてはという覚悟があったに違いない。 いざ本人が大学生になってみると今までとなんら変わらない日常があっただけだ。中学、高校のように制服が存在しないので、何を着ていくか考えるのが面倒だった。毎日同じ服を着るようになっていたので友人も筆者を容易に探すことが出来た。卒業するのに必要な授業単位を取続ける毎日が一年は過ぎた、なぜかその年だけは忙しかったが次年度になると急に時間をもてあますようになった。緊張感がなくなった。授業も代理出席という便利な事ができると気が付きたまにしか出席しなくなった。ある日、学友と新宿で出会った。小田急線で新宿に行く途中に同じ車両で偶然出くわしたのだ。彼はレコードを買いに行くと言う。筆者は目的があって新宿を選んだわけではなかった。彼がこれから新宿にレコードを買いに行こうとしているということが、自分の中の漠然とした目的と摩り替わった。その日から自分は彼と一緒に見て回ったレコード店に通うようになった。週に4回以上、新宿のレコード店を見て回るのが自分の習慣になった。貧乏学生は欲しいと思ったレコードをキャッシングしてまでも買った。手提げ鞄が一杯になるぐらい買ってきたレコードは一回ぐらい針を落とすだけでレコードの山に埋もれていった。部屋ではレコードを枕に眠った。新宿で手に入れるレコードは世界で一枚の価値があった、当時の自分はそのよう信じていたに違いない。海賊版やプライベートレーベル、インディースレーベルに脚光があびだしたときには聴きもしないのに狂ったように買い漁っていた。
2005.02.18
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大勢の人達が勝手に振舞っていた。そのくせ行政面ではいたるところにカメラを取り付けて何かを監視しているようだ。結局のところ取り締まりますという漠然とした言葉が一番効果的で、街頭から商売をしようという人達を消してしまった。おそらく大金を投じて設置したカメラの本意とするところが、簡単な発言に凝縮しているのだろう。はっきりとした目的も言わずに巨額の投資をしたが何の成果も出せなかった。さすがに情け無いので強制取締りに乗り出したようだが、歌舞伎町の仕事人は強かで目に見えるものを見せないようにしながらふだんと同じように仕事をこなしていく。行政には真実を捕まえる手立ても迫力も無い、どんなにお金をかけても知りたいことの手がかりすらつかめないのだからと歌舞伎町の住人はわらっていることだろう。よく仕事帰りに部下を連れて立ち寄っていた屋台があった。モーゼという黒人がやっていた。オレンジ色のバンにシシカバブを調理するキッチンが付いている。モーゼは筆者が二度目に立ち寄ったときに顔を覚えていてくれて「ボス」と呼ぶようになった。彼のつくるシシカバブは食いきれないぐらいに量が多かった。筆者にだけは特別大盛りにしてくれていたようだ。彼が真っ黒な顔をしているのは仕方の無いことだが、見ているほうが暑苦しくなってくるので何度が飲み物を差し入れしたことがあった。そのたびにシシカバブが大きくなるような気がした。著者にも事情があり歌舞伎町を離れることになった。モーゼにはそれっきりあっていない、その後なんどかオレンジのバンがコマの前に停まっているのを見かけたが、屋台の中にいるのはモーゼではない黒人だった。今は黒人の労働者を歌舞伎町やそれ以外の地域で見かけることは多くなった。最初に来た者が後から呼ぶ者のために住む場所と仕事を準備してやっているのだろう。モーゼの屋台も自分以外の者にシシカバブを焼かせることで商売がうまく行っているに違いない。屋台のアクセサリー屋もすぐに顔ぶれが変わる。次から次とカモになる労働者がやってくるからだろう。外国人を住まわせる場所も名義だけは日本人と言う場合がほとんどだ。大家も家賃さえちゃんと払ってくれれば誰が住んでいてもいいという考えなのだろう。築20年を過ぎた木造アパートなどは不動産屋すら案内したがらない、家賃収入が見込めるのであれば誰が住んでいようとお構いなしといったことなのだろう。歌舞伎町は日本人の労働者で成り立っている町ではない。
2005.02.17
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大雨が降っていた。ズボンの裾もずぶぬれで、靴の中までみずびたしだった。もはや傘は役に立たない状況で差していることすら滑稽だった。そんな状況でも行列は続いていた。寒くもなかったし惨めでもなかった。皆、今日のお目当てを手にしようと開店前から並んでいるのだ。その光景からは熱狂的な信仰に近いものが発散されていたに違いない。思い思いのファッションからは何か共通の毒のようなものが見え隠れしていた。無言で集まっている人の目からは近寄りがたい光線が発光していたが、その場から離れてしまえば周囲を気にしてしまうほど不似合いで派手なメイキャップであることには誰もが気づいていた。それでもUkエジソンが開店する時間まではみな自分が愛して止まないアーティスト遠藤ミチロウになりきっていた。おそらく頭の中には「おまえらのまずしさにカンパイ」などという歌詞が渦巻いているに違いない。開門とともになだれ込む事もなく、けだるそうに店内に吸い込まれていく少年少女たちの気持ちは駆け込みたいほどドキドキしていたに違いない。しかし、心を支配している遠藤ミチロウがそれをさせなかったのだろう。「ここまで出終了です」エジソンスタッフがある少年の前で在庫分の整理券を回収した。目の前で締め切られた少年の悔しそうな表情は厚いメイキャップで読み取れなかったが人生で初めて味わう悔しさだったろうと思う。しかしながら心の師と仰ぐスターリンの歌詞は常に惨めさと悲しさをうたう、噛み締める悔しさは冷蔵庫の臓物と一緒にしまいこまれるのがオチだと思いながら彼は満足していたに違いない。そしてミチロウは歌う「実践できて楽しいかい?」雨の日に5000円で買った、中古版ザ・スターリンのファーストアルバム「TRASH」は現在では入手困難。限りなく購入不可能な商品になっている、ブートのCDですら数万円の闇値が付いている。
2005.02.16
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新宿ゴールデン街の名前は三島由紀夫、澁澤龍彦の名前と一緒に本の世界にあった。新宿を舞台にした寺山修司の映画は何度見ても画面が揺れていて気持ち悪くなったし、吹き溜まりのような場所が写っていた、それでも皆がそこに行けば大人になれるような幻想が漂っていて子供ながらに近づいては穢れてしまう場所であるという印象を受けていた。まさか自分が恐れていた場所で仕事をするようになるとは思っても見なかった。職場として新宿や歌舞伎町を捉えていたのだが、個人的にもよく利用した。買い物や食事、地元でお金をばら撒くよりも清々した。新宿にあるというだけで価値を感じたものだった。歌舞伎町も探せば美味しい料理を出してくれる所も多いし、色んなものが混在しているところが町をよく知る人以外の立ち入りを禁止しているみたいで、会員制の町の気分に浸っていたところもあった。歌舞伎町はよく知っているつもりだった。酔っ払ってふらふら歩いても安全な気持ちになっていた。いつもの通りでいつもの店が並ぶ中、自分は恐れながらも心の師と崇拝していたゴールデン街に足をむけてしまった。何を飲んでよっていたのか解らないまま、座ったカウンターは何処を触れても年月が染み出しているようだったし、常連の気配がこびりついていた。お客は自分と連れのもう一人だけだった。なぜこんなところに来たかと言ったら、単純に連れにいいところを見せようとしていただけだったようだ。何一つ今に至るまで読みふけってきた作家の名前も出なかった。生き字引のような店主と交わす会話もなかった。何分くらい座っていたのか自分は居眠りをしてしまっていたようだ。ビールが二本とつまみ一品、二人で2万円とられたことに後で気が付いた。
2005.02.15
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20年ほど昔、学生時代の友人たちと手に入れたばかりのフロンテで新宿を目指した。246号線も三宿を過ぎ道路が立体交差になると、始めて来たにもかかわらず新宿が間近だろうと感じだ。お滝橋通りにまだ新宿ロフトがありその隣の更地で立ちションベンをした。いざロフトに行こうと思って階段を下りるともう閉店だよとスタッフに追い返された。そもそも、新宿を目指したのはARBが好きな仲間でなぜか突発的に出た話題だった。当時熱狂的なARBファンの九州男児はこの企画に足が震えて参加できなかった。そのぐらいARBと新宿は関係の深い地域で四六時中ARBの歌を聞いているファンにとっては新宿に行くと聞いただけで人生最大のイベントになってしまうのだ。歌の歌詞のように新宿ロフトで飲み明かすことはいきなり出来なかった。それではとロフト近辺の情報を突き止めていたTがARBの事務所に行こうと言い出した。勿論皆はARBのスタッフに会える心底思っていたが、事務所の場所を確認しただけで終わった。企画が貧弱でその後の行動が伴わなかった。自分たちのイベントは終わってしまった。その後ありきたりの金の無い学生に戻った自分たちはお滝橋の公園に行き缶コーヒーをのんだ。何をするかと皆が一様に考えていたことを口にしたのは自分だった。皆もそれなりに何か考えていたところだったろうが、新宿をうろつくことには賛成してくれた。平日の新宿など今でも活気は無い、いまでこそひっそりと深夜居酒屋やしゃれたバーなどがあるが当時は風営法のあおりでお店はどこも閉まっていた。ポルノ映画館に学生がぞろぞろと入っていったが何か気分が悪くなってすぐ出てきた。自分たちは夜が明ける前に学生寮に帰って昼まで寝た。
2005.02.14
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哀歌エレジー。新宿歌舞伎町、哀歌がにあうのは故郷を捨ててこの町にきた人達の思いが強いからなのか?「東口をでたらそこは私の遊戯場、歌舞伎町」歌の歌詞にそぐわない真剣勝負の商売人が口元をゆるませて笑っている。歌舞伎町は商売人にとっては遊び場ではないし、心底遊べないからこそ歌舞伎町で仕事が出来るというものだ。椎名林檎だって歌舞伎町の住人として本気に見えないからこそ歌舞伎町的なのだと思う。
2005.02.11
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流行の神様はかなり飽きっぽくて同じことは二度笑わないようだ。だからコマ劇前の広場はいつもフォークギターの青年もしくは浮浪者の印象しかない。大きなイベントごとはこの神様の気まぐれで発作的に起こされているようなので、なぜコマ劇前でやらなくてはならないのかなのと疑問に感じる。歌舞伎町に集まる人が何かを期待しているのは街を歩いていれば肌で感じることができる。街頭でのキャッチ行為、ビラマキが全面的に禁止されている昨今ではあるが、筆者も歌舞伎町でイベントを開催したときに当日券を街頭に出てよく売りさばいた。「世界一いかがわしいところです、貴方も好きですね。ダンナ」この常套句に騙されてきた人は数限りないと思うが、悲しいかな鼻の下を伸ばしてのこのこと覗きにいってしまう運命をたどることになる。その日、その時にその場に居合わせたことに千載一遇のチャンスを得たと思う男は多い。どんな時代でもやじ馬というやつはいなくならない。社会人になっても責任ある立場になっても、突発的な風がマリリンモンローのスカートをめくり上げることに視線が釘付けになる殿方はおおいだろうし、エスカレータや階段で何かを期待してしまうこと自体は犯罪では無い。それだけ世の中の男性にとっては期待感というのは原動力になり気持ちを和ませてくれる重要要素なのだ。しかし、掻き立てられた妄想は成仏させなくてはならない、いつももやもやと正常な気持ちをぼやけさせてしまう。何かを期待して訪れた街では失敗する事も成功する事も全部まとめて必要なことなのだ
2005.02.10
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歌舞伎町で商売する方々は昔から同じ方法変わらぬサービスを提供し続けるお店と誰もが考えもしなかった奇抜なアイディアでサービスを提供するお店とが混在している。変わらぬサービスを求めて歌舞伎町に遊びに来る人達も気持ちのどこかに冒険心があるようで、初めていけないものを見てしまったときの興奮を呼び起こしたいと願うかのようにドキドキしながらドアの隙間を覗かずにはいられないのが心情のようだ。何かをやってくれる期待感と新鮮さをいち早く経験した優越感が再び街を活性化させる人の流れを生み出す。人の流れは歌舞伎町を愛して止まないファンだけでは無く地方から偵察に来る同業者もいる。流行っていることを地元でも流行らせようとアイディアを持ち帰る。地域によっては歌舞伎町では廃れ人の集まらなくなったサービスでも他地域では確実に根付いていて元祖は当店ですぐらいのことを言ってのけるしたたか者もいる。莫大な数のアイディアと日本の風俗文化を作り出してきた地域だけに流行に敏感な人達の注目度は高い。コマ劇場の前に広場がある。普段は浮浪者や酔っ払い、フォークギターを抱えた演説家達が仲良く転がっている場所だ。個人が気ままに使うことを黙認するような開放感のある広々とした空間で「なぐられや」なる元プロボクサーがストレス発散商売を商って人気を集めていた場所でもある。Jリーグの開幕が日本最大のイベントになったときはこの広場にも巨大モニターが設置され、キックオフを最大限に盛り上げた。映画館に囲まれているのが特徴である広場の舞台にトロイの木馬が出現し映画の宣伝効果をあげてもいた。また人気映画俳優が自らファンサービスをする場所でも有名である。歌舞伎町を象徴する新宿コマ劇前広場には流行をひきつける磁場がある。誰もが気楽に遊べる遊び場を装いながら面白い生贄を求めている。おそらく流行の神が祭られているのだろう。
2005.02.09
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歌舞伎町という街を職場にしている方々はたくさんいる。表向きには歓楽街といっていても沢山の労働者に支えられて街が成り立っている。無論、訪れる人を楽しませるために迎え入れる方たちは工夫し遊びの達人を装いはするが自らは遊べないのである。また乱痴気騒ぎのお供をすることが実際の仕事でもありお客さんの送り迎えが終わった後は寂しい後片付けが残っている。そんな働く人達を癒すのも歌舞伎町の役割である。特に歌舞伎町での営業業者専用ではないが皆からよく利用されるお店は多数ある。以前にも書いた「まっちゃんの屋台」もそういった癒しの場所だった。雑居ビルが商業の中心になる歌舞伎町ではさまざまなお店が雑居ビル内に店を構える。したがって癒しの空間もビルの外からはその存在すら気が付かない。また外見の不気味さと店内のアットホームさのギャップが都会のオアシスという表現にぴったりと当てはまる。某リービル内の健身○も筆者が訪れることの出来た都会のオアシスだ。このようなお店には自分の心に秘めておきたい取って置きの場所のような価値観が芽生える。たとえそれが有名店になって誰でも知る存在になったとしても再び訪れたときは所々残る思い出に再会し感傷に浸れることだろう。歌舞伎町には一人でも入っていける自分だけの魅力的なお店も多いのだ。
2005.02.08
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浄化作戦により安息と平和を手に入れた歌舞伎町。つかの間の静寂は嵐の前の静けさのように不気味でこれから起こる不幸の予兆を感じさせもする。筆者が歌舞伎町二丁目を取材と称して徘徊していたときなど、区役所通りも風鈴会館を左に見た坂の途中では呼び込みたちの活気は今の数百倍はあった。昨日今日歌舞伎町に入りたての呼び込みに腕をつかまれたりして嫌な思いもしたが、それはそれで街の生きているような活力を感じたものだった。その区役所通りをまっすぐ職安通り方面に歩いていくと左側に駐車場がある。バッティングセンターの向かい側には韓国屋台が賑わいを見せてた時期でもあった。その韓国屋台に混じって名物屋台があった。みな「まっちゃん」と呼んだその屋台主は言い値で飲ましてくれるありがたい存在でもあった。屋台を訪れる人たちにはいろんな人がいてポン引き、文屋、キャバクラ嬢、酔払いサラリーマン、とにかく色んな人達が飲んでいて決まって名刺をピンで屋台に張っていく。そうすることにより皆が「まっちゃん」と一声かければくつろげる空間を提供してくれる屋台が盛り上っていったのだ。そんな屋台が消えた、道交法違反だとも聞いたが屋台なので車輪が付いていれば問題ないとも聞いていたので意外だった。しばらくして新しい屋台で現れた「まっちゃん」はなんだか解らない理屈で昔の屋台は押収されてしまったとぼやいていたが、ちゃんと筆者のことは覚えていてくれて言い値で飲ませてくれた。またしばらくして、屋台は消えた。屋台では親しく話をしてくれたポン引きもヤクザももう話を聞かせてくれることはなくなったのでその後の「まっちゃん」の行方はわからない。歌舞伎町界隈はいつもやり場の無い不満が渦巻いていてドンドン膨らんでいっているようだ。
2005.02.07
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治安維持というのはそもそもどういう意味で発せられる言葉であるのか発言意図をつかむのに度々考えされられることがある。個人の思想で作り上げられた美化規準はどこまで一般的なモラルにじゅんずるのだろうか?一国の国家元首が下々の生活を踏まえたうえで適合な号令を出すことはまずありえないだろう。最高位に即位した者が大衆市民の生活を省みることなど不可能に近い難問だ。某隣国の経済政策があまりにもとっぴで理解しがたいものになっているのも独裁統治のなせる所業であろう。人々の生活を脅かすものが個人思想の暴走によるものである事実を人類は歴史のなかから学んできた。ユニークな発想と当速力を持った数々の独裁政権が成り立ち消えていった現実をリアルタイムに見てきたはずだ。人間が働ける労働期間というのは40年ぐらいだろうが、20年以上も同じ地域で事業を営んできた者が職を奪われた場合、死んだも同然だろう。歌舞伎町で風営法が施行された時、人々は街は死んだと囁いた。しかし、歌舞伎町は蘇った、地場産業に従事している老舗を営む営業努力の賜物だったことは言うまでも無い。そういった歌舞伎町を離れない堅実な経営者がいるかぎり街の秩序は安泰でどんな政策を実行しても良いというものでも無いだろう。
2005.02.05
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仕事で歌舞伎町を訪れるようになってから何年もの月日が経ったが人生経験で初めて見た歌舞伎町の印象は、いまだに体のどこかに残っていて、それが古傷のように離れてはくれない。痛い経験と言ったほうが正しいのかもしれない。もっとも私の職歴で営業職に初めて携わったのが歌舞伎町だった。一般書店に売られているような「営業マニュアル!ご訪問の挨拶」だとか杓子定規な営業に該当するものなど歌舞伎町にはなかったし、100点を取るような営業をしなくても良い気楽さもあったので語れるぐらいまで続いているのだと思う。また、おじゃまさせてもらうお客さんは著者が積み木で遊んでいる時分から歌舞伎町で商売してきているし、ありきたりな挨拶など星の数ほど聞いてきた方達ばかりだった。商売に精通しているお客さんほど確かな情報を運んできてくれる営業マンを大切に扱う。情報一つでもお店にとっては死活問題になるから、駆け出し営業マンが初めて挨拶に行っても出来そうな方かそうで無いかで判断される。つまり顔出した時点で営業適正を決めてしまうということになる。ただし顔を出した全店が一様に歓迎してくれり追い出したりするわけでは無いので一概に適正があるとか無いとか言えないところでもある。著者としては痛い経験ではあったが正否が簡単にでる仕事だったので気分が楽だった。歌舞伎町で働く人たちにもあっさりした開放感を感じて居ついてしまった方は少なく無いだろう。その著者がお世話になったお店が危機に陥ろうとしている。新都条例による粛清と鎮圧がそれだ。正確には「東京都迷惑条例」別名「歌舞伎町対策条例」とも言われているようだ。風俗店への客引きやチラシの配布を全面的に禁止するというお題目だが、路上で客待ちしているだけでも規制されるとのことだ。お店にとって店を繁盛させるためにはお客さんの善悪を見分けなくてはならない。お客さんが楽しんでくれそうな人か上玉の顧客として継続して利用してくれそうか?その他もろもろを見分け、聞き分け、判断するための眼力と経験を持っている人が経営しているかどうかというのがお店を経営するうえでの最大ポイントであろう。街頭に出てお客さんと話をすることで、店に来て楽しんでもらえるかどうかの判断になる。お店にふさわしくないお客さんはお断りし店内環境をよくしていく。これらのことは長年の経験によって身に付いた技術なのである。それを剥奪しようとしている条例に街を守るだけの責任を任せることが出来るのだろうか?とりあえず:つづく
2005.02.04
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今年も2月になって歌舞伎町にはまだ行ってていない。気分的に好き好んで歌舞伎町に出かけることはなくなったが瀬良にとっての歌舞伎町は腐っても鯛なのだ。足が向かないときでも何時もどこか気になっているものでコンビニに立ち寄っても、歌舞伎町ゴシップ雑誌が目に留まった。コンビニで手に入るゴシップ雑誌として他誌と比較しても掲載写真などで一番過激な内容かと思われるのが「実話ナックルズ」だが、雑誌自体に目が留まるのではなく「歌舞伎町」という文字に目が条件反射した。もっともナックルズから歌舞伎町という単語が途絶える事もない様子ではあるが、瀬良も仕事をしているうちに身についてしまった癖、こういうことを耳にタコというのだろう(笑)”噂の街”でもある歌舞伎町は噂が真実に限りなく近い場合が多々あるものだ、話のディティールがめちゃくちゃな場合は組織的に本当のところを撹乱させていることもある。狭い地域での問題がほとんどなので事件がおきると周囲で働いている人は何らかの関わりを持ってしまわざるを得ない。次の日も変わらぬ営業をするために多少のごたごたは目をつぶり口を割らないのが得策であり近所づきあいに相当するものということである。話はそれたが聞き捨てなら無いのが「歌舞伎町闇勢力VS石原都知事」とある。瀬良も気にはなっていたところだった。歌舞伎町浄化作戦、合法カジノ、小泉総理も安心して歩ける町作りを目指す等、相互関連性の無い語句が飛び出たのが去年だったと記憶する。何でもナックルズによれば2月にはいってからの歌舞伎町は警察の態度も激変し極端に強固な態度で呼び込みの鎮圧に乗り出しているとの事だ。堂々と呼び込みしていたのは、お上に楯突くような営業は控えてきたいわゆる最大手の風俗店なり業暦の長い業者だろう。昔から警察にとっても顔なじみのメンバーに、いまさらながらお前の店つぶすぞといわんばかりの圧力をかけるのも人の理性に反しているような気もするが。現実問題お店側としては即死活問題として対策を練らなくてはならないし、長く商売していれば問題解決の経験なり知恵は持ち合わせているというものだろう。表立って自分が出来ないことはその道のプロに任せるのが歌舞伎町を問わず一般社会の常識なだけに、これから歌舞伎町に入る場合はとばっちりを受けないように注意が必要だ。
2005.02.03
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家族連れでも楽しめる街づくりが今後の行政の課題ということだが、歌舞伎町は良いことでも悪いことでも味のある街であるから、確かに家族連れが歩きやすくなった後でも雰囲気を楽しむことが出来るだろう。しかしながらその雰囲気というのが近寄りがたかったり子供が泣き出してしまったりするような過激なものだったらどうだろう。雰囲気というところが厄介で景観などは主観的に整頓されていても、まとわり付く匂いとか音とかが不快な印象を与えてしまう。家族連れを例に出してクリーンイメージを打ち出そうとしても誰も寄り付かないゴーストタウンになってしまう可能性だってあるわけだ。都市伝説の巣窟でもある歌舞伎町には不気味な話題は事欠かない。例えば某トーアビルなどは青いジャージを着た人が突如として駆け上がり落下していくという噂がある。ジャージというとお笑い芸人を連想する人が多いが此処では、はっきりとしたものをイメージしてはいけない。ジャージを着ているような人が・・・と思っていただきたい。物事には尾ひれがついて簡単に都市伝説化するが実際に火の無いところには煙が立たないということで実話に基づいて話は広がっていくものだ。問題になったのはビル内の某店。連日大盛況の人気店だったとの事でホステスに入り浸る堅気も多かったようだ。その店に働くことになったホステスもお客からの貢物やらで相当いい思いをしていたとのことだ。しかしある日ジャージを着た金の持ち合わせも無いやつれた男が店内に乱入、目当てのホステスを刺し殺した後、自らも飛び降り自殺した。まことしやかに語られる情事のもつれが原因の悲劇だが、実際にはライバル店が流した悪い噂だったとのオチがつく。いずれにしろ問題の店を中心に何らかのトラブルが発生していることには違いない。歌舞伎町には不気味な話がやたら転がっている、土地の記憶として何かが起こった寂しい場所という肩書きを背負い続けて語り継がれるることになる。どんなに公費を使って街自体をきれいにしても歴史までも掃除するわけにはいかないということだ。どうぞ遊びに来てくださいという言う言葉の向こうに「注文の多い料理店」を連想させる味のある街であり続けさせる事が歌舞伎町を守る最善策と思うんだけどなぁ。
2005.02.02
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「歌舞伎町」良い意味でも悪い意味でも自分の人生ではかなりの時間をすごした所。その歌舞伎町が極端な行政改革で変わってしまった、ただし景色だけ。街に設置されたカメラが四六時中流れ行く人々を映し出し、街のゆがみを監視し続けて犯罪は減ったようだ。確かに目に見える暴力とか不気味な外国人が我が物顔で街を闊歩ている姿は減ったかもしれない。以前、風林会館の前で刀で決闘をやらかしたような事件はもう起こらないだろう。しかしながら雑居ビルの中では何が行われているかはわからないし、叫び声も一枚ドアの向こうに連れ込まれ鍵をかけられたら聞こえなくなるじゃないか。歌舞伎町は何も変わっちゃいない、むしろ不気味さが増しただけのようだ。映画「不夜城」で国籍の違う外国人マフィアを相手に商売する悪人を金城武が演じていたが、実際のところ今の歌舞伎町を作り上げているのは外国人だと思われるし。昔から長く商売している人たちも外国人たちの振る舞いに対しては見てみぬ振りをしている。歌舞伎町を目指して働きに来る奴らは堅気の連中だって荒っぽいことには慣れている。好き勝手にやらせたくない暴力団が権利を主張して立ち向かっても訳の解らない奴らに無茶なことをされたりしたら、ただでさえ対面を気にする彼らの面子だってなくなる。もはや歌舞伎町は日本人のものではないのだ。
2005.02.01
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自分の給料は自分で稼ぐぞ!良い言葉でもあるが出すぎたことでもある、サラリーマンは会社にとっては一経費でしかすぎない。会社員が給料に見合った働きをすると思うのは結構なことだが会社にとってその評価をつけようが無いのも本音だろう。モチベーションとしてヤル気のない従業員がいる部署は職場環境として労働条件がそろっているとはいえなくなる。だから多少の夢を見させてやるのも上司従業員の仕事でもある。実際のはなし持ち場の仕事量をこなしてくれれば十分なのである。以上の点で比較すると水商売の連中は一従業員でありながら自分の給料をコントロールすることもできる。会社組織として福利厚生、社会保険、住民税に所得税なんてものはバックレ(しらばっくれる事)上等のお店も多い。だから瞬間が勝負で従業員も稼げるものは稼がないと自分の生活が出来ないと言うところでもある、ほとんど社長兼お茶汲み係ののりで自分で何でもやらないといけない不思議な雇われ人の立場でもある。だから豪傑の方もいる。貰った給料は全て歩合給なのでもらったそばから増やそうとする。手ごろなギャンブルは全てチェックし流行ていたスクラッチで全給料を使い果たし残ったのは○井で買ったベストのみという話も良くある。ある時払いの催促なしはありえないが、給料の感覚は一般サラリーマンとは明らかに違う。計画性が無いというよりも店に出ればお金は転がっていてお客を見ればその日が暮らせるという感覚に近いのだ。営業の神様的な存在の人が片道分のガソリンを積んだ車で営業商品が売れなければ帰ってこれないという状況で営業していたという話も聞いたことがあるが、自分を追い込む感覚は重要だがあえてしなくても毎日生きるか死ぬかを平然とこなしている世界もある。
2005.01.31
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「営業部第一課、瀬良これから出動してきます、粉骨砕身頑張ってきます」と言い残して出動していった営業マンが家に帰り睡眠をとりその後アルバイト先に出勤、帰り道に会社の営業部第一課に出社し昨日と同じ事を繰り返す。なぜそんなことが出来るのか?営業の仕事でよいところは売上げが上がってしまえば仕事は終わり、売上げを計上してしまえば会社としては文句の言いようが無い。売上げ計上までの過程は結局のところあまり重視されない。特に経営者になると売上げ数字しか目に入らなくなる、なぜかは自分が会社を経営してみれば一番良くわかる。従業員には明確な経営方針を悟らせないようにしていても、売上げしか目に入らなくなった経営者は営業の努力を省みない態度を容易にみせる。ただでさえ人をこき使っているという印象をもたれやすい経営者についていく従業員は少ないだろう。そうして会社を支える屋台骨が崩れていくわけだ。営業過程がいかに重要なことかは運営上簡単にわかることだ。しかしながら軽視されやすい部分でもあるということはおわかりだろう。誰でもが手っ取り早く金を手にして言い思いをしたい。地味な管理の上に売上げが成り立っているという基本原理を忘れたものの末路は寂しいものだ。ということで、クライアントに行く前に味噌ラーメンに大量のにんにくを入れて食べている奴、すぐに連絡が取れなくなる奴が現れたときには経営者は自分の振りを見直したほうがよいといえる。
2005.01.30
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癒しの時代の必須アイテムといえばペット。自宅に帰ればワンやニャーがお出迎えというお部屋のご主人様は少なくは無いと思う。では、愛くるしいペットの立場としてはどうなんだろう、漱石先生のお言葉を借りてみた「我輩はニェコである、名前はニャイ」・・・この時点で人間様が愛情を込めて呼ぶタマとかスズだとかの固有名詞には一切関心を示していない。名前などニェコ様にとってはどうでもいいことと冒頭文から無視されているではないか。つまり、癒していただいていると思っている人間の勝手な思い込みでニェコさまなりワンさまの存在価値は高められ、近年見まがうほどに生活レベルは向上している。犬畜生を一生涯保証して面倒をみる人間さまは彼らにとっては奴隷のようなものなのだろうとつくづく考えさせられてしまう。さて、この犬猫営業のポイントとしては実社会でも当てはまることだが商談の流れは商談先の勝手な思い込みからはじまり会議、詮索、調査と順調に進むが時間が経つにつれ契約率が低くなるのはご経験済みだろう。つまり短時間で結論を出せる信用材料が無い場合は容易に低契約率のリスクを生んでしまうということになる。猫だからこそ犬だからこそ商談相手としての飼い主が詮索できない強みがあるわけだ。ワンリンガルだっけ?ニャンリング???商品名は忘れたがとても売れなかった商品があった(売れてたら御免)。あれは、癒しの神または勝手な家族に対する冒涜として地の果てに追いやられたと言うのが未発展の本当の理由だろう。犬猫様には絶対の信用がある。それは見るものに勝手な優越感を与えることが出来る手ごろなものという信用価値だ。出来る営業マンは犬猫を見習え!!!!とまでは言わないが、常に変わらぬ笑顔とサービスを提供してくれるだろうという印象が近づきやすさすなわち信用につながるのだ。
2005.01.28
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「いぇーい、今日のお酒が飲めるのはお客様のおかげです~」「それそれそれ~」といっきにボトルが空いてしまう奇妙な掛け声は学生時代以来久しぶりだった。当時は普段からコンパのときには必ずといって聞こえてきた合の手だったしどのぐらい飲めるのかは各自が一番と思っていた時期でもあったから毎回の飲み会はただ事ではすまなかった。学生時代の古い思出で終わるはずだったのに、毎日のように聞かされるとは人生は解らないものである。というのも学生気分も抜け社会人になってから色々あり、歌舞伎町で広告の仕事をするようになったからだ。そしてキャバクラやホストクラブに営業しに行くことになったのだが、お酒を飲んでお金がもらえる仕事があるというだけで信じられなかったし、まともな人のやることではないと思っていた。そんな人たちが馬鹿高いだけの広告費を簡単に出して目立とうとするのはすぐ納得出来た、また他に広告を載せるところが無いからしかたなく利用しているだけかとも思っていた。「案外、保守的で寂しい人たちなのかな?」と私情を絡めて仕事をしていたからこそ業界とも長い付き合いになっていると思う。キャバクラもホストも未知の業種だったが仕事内容に対する関心は薄かった。むしろチャラチャラして仕事になるということ自体が考えたくも無い事だったし、あってはならないことぐらいに思っていた。瀬良としては給料のためだけに機械的に動いていた営業だったが、お店により様々に経営スタイルがちがってそれなりに工夫があることは少しばかり気になっていたところでもある。ステージがあってダンスを披露する。ショータイム後はダンサーが接客してくれたりと長居してしまう仕組みが面白かった。基本的にお客は座っている時間分の料金を取られるのがキャバクラだったが、同じお酒を飲ませる接客業で深夜やっているホストクラブというのがある事も知った。そこは男が座っているだけで面白くもなかったがキャバクラ同様広告は契約できるし、瀬良の出入りのキャバクラのコンパニオンがはまっているホストがいるお店もわざわざ紹介してくれていたのでお邪魔せざるを得なくなっていた。お客の目的としては口説きがメインのキャバクラに対して。飲ませがメインになるのがホストクラブと言うのは大雑把過ぎるが、比較的男が利用するのがキャバクラ、女が利用するのがホスト。前者はお客を長く居座らせて、席料をとり。後者は高いお酒を飲ませて売上げにする。キャバクラに高い酒が無いとも言わないが、ホステスを口説く客は安く口説きたいしホステスもよほどの上客で無い限りあまりお客には期待していないから、数多く安く口説かれることを望むだろう。ホストはどうかといえば、数多くのお客さんに気に入ってもらう努力はキャバクラ同様するが結局自分の身入りになるのは高いお金を払ってくれる上玉が飲むお酒を提供することなので美味しく稼げるお客さまを捜すことに専念する。
2005.01.27
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よくお酒の席は無礼講とかいうじゃなぁ~い。「波田陽区風に」 でも、いう奴に限って幾ら飲んでも酔わないし冷静沈着、陰気な上司だったりするってあるじゃなぁい。飲ませて吐かせてマインドコントロール、弱みに付け込み押し倒しちゃう、左遷減給なんでもコントロールというのがフツーじゃない、飲めない酔えない残念。斬り。ということでお酒の席での無礼講は耳タコだけども、タコでもやらない無礼なことで社会人になった誰もが乗り越えそしてビジネススマイルと本能的な敬遠が板に付く立派な社会人として活躍していくのだろう。しかしながら皆が敬遠する会社主催の酒の場がなくては人生始まらないという方もいるだろう。うまくもてなす気の効く奴。皆が緊張してちびちびやっているところにひときわ目立つ身のこなしは先輩、同期も一目おく存在に簡単になれる。最近ではあまりやりすぎると馬鹿を通り越して見るもののトラウマになりセクハラを通り越して障害で訴えられる場合もある。仕事上の酒の席は普通の神経の持ち主は大概、緊張してリラックスなんて出来るはずもなくアルコールによって覚醒する所かそんなもの飲んだ日には悪酔い(バット)するのが関の山だろう。たしなみやおもてなしのための素晴らしい発明も価値が全く見出せなくなってしまう。酒を生かすも殺すも取り扱う人の胸先三寸なのだし、酒の席を開く者は楽しんでもらう責任がある。だから、多少デンジャラスな奴でもうまく使いこなしてこそ上司の株も上がる。当然、単純で扱いやすそうなお調子者はお上から声が掛からないはずが無い。しかしながらお酒の席を盛り上げることは大変気を使うのも事実、自分勝手で周りを気にしない輩が勤まるはずも無い。本来ならばストイックで神経質な方ほど向いているといえるかもしれない。一滴もお酒が飲めない下戸に限って幹事をうまく勤める。つまり、無礼講の形勢を冷静に判断しその場の雰囲気をわきまえてこそ初めて一目置かれて酒の場を味方につけることが出来る。
2005.01.26
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世の金の無い働き盛りが多すぎるのはなぜか?同じ労力を使っても片方では左団扇で大盤振る舞い、もう片方では真冬半そでで汗水たらして働いてもすずめの涙。その違いはいったい何処にあるのだろうか?ご自身の仕事適正として「俺は汗を流して両手で掴み取る仕事がダイスキなんだー」とか、「私は一針々心を込めて編み上げるような仕事が好きなんです」と言って憚らない方もいるのでどんな内容でも否定はしない。しかしながら”嫌じゃない”、世間でたまに見かけるクソ餓鬼みたいのがチャラチャラしながら乗っている車は健気な方達が一生一生懸命仕事しても買えないないだろうし、奴らが着ているスーツだってサラリーマンの給料3か月分ぐらいは掛かっているみたいな事を聞いた日には具合が悪くなってくるでしょう。最近では小ズルイ方法でセコク儲けた金を得体の知れないものに散在している不思議な方もいるが、やっぱり見ていて具合が悪くなってくる。おそらく世間様は黙っていないだろうと思います。平等中流が日本人の個性であるからして、尾っぽをつかまれ引きずり出されて、町内引き回しの上抹消という末路をたどるとは思います。また、反骨精神の塊の方達はもちろん立ち上がってお前よりも俺様のほうが良く出来るはずだとチャラチャラ業界に参入してくるだろう。ただし、出来ればの話。なかには、俺それサギとか外国人がらみのコーディネーターだとか人間を捨てて他人様を不幸のどん底に陥れてまで自分さえ良ければいいと開き直られている人もいるでしょうね。俺、悪いことしてるって知らなかったんだよと言い逃れを試しても今の情報化社会知らないですむわけが無い。でも、現実は対応が遅れて悪の温床になってから当局なり行政の動きがあるのが一般的なのですから、やったもの勝ちという図式は当分続くだろうね。ところでどんな世の中でも生きていかないといけない人はいるわけだろうし、瀬良も昔は営業マンとしてバリバリやっていた。当時はどぶ板営業といって、仕事をとってこれない営業マンは次から次と首をきられたものだった。営業部内でのサバイバルが毎日行われていたわけだ。結果さえ出せれば何やっても良いと勘違いしている輩も大勢いたし、普通だったら犯罪じゃんということが社内での日常という異常な環境でもあった。例えばお客さんへのアポイント電話を横で聞いていて電話をかけている営業マンよりも先に営業してきてしまう奴。自分に営業歩合が着くわけだから、はっきり言って横領なわけ。そこまでしなくてはいけない理由はさておき、してしまうその人物の精神構造が病んでいる事はまちがいない。で、商品がまだあるうちはどんな営業しても相手も納得するだろうし、お客さんに社内事情は関係ない。しかし、商品が極悪だったり物自体がなかったりしたら営業できないじゃないですか。○売新聞の営業の神様といわれた森○さんが「新聞なんて白紙でも売れない奴は営業マンとは言えないんだぁ」と言ったとかは微かに記憶があるだけだが、実際は無理でしょ。でも、何も商品が無いのに売上げを上げてくる究極の営業マンがいるんですよ。 つづく
2005.01.25
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ホスト社長は聞き上手であるうえに話し上手でもあるのだ。話させたら日没から日の出まで話しまくるぐらいの勢いがある。業績優秀の営業マンもホスト社長ほど話しまくることは出来ないだろうし、身振り手振り笑顔を欠かさないトークは鍛え上げられたアスリートの力強い反復運動を連想させる。とぎれることなく面白い話が続いていくのはホスト界の頂点に君臨し続けるのにふさわしい姿だろう。しかしながらあるべき姿とおもいつつみとれながらも、意外なことにホスト社長はあまりお酒を飲まない。お客さんは皆、ミシンのようなダダダダダーという彼のトークに、接客の主体は楽しい会話と思うことであろう。しかしながらホストクラブはお酒をたしなむところでもある。目も飛び出るような値段のお酒がふるまわれて初めてホストさんたちは自分の収入になるわけである。お客様に勧められた高いお酒は特に「ぐぐー」っと飲めば飲むほど。自分の売上げになっていくのだ。
2005.01.24
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担当した記者も手馴れたもので社長のパジャマ姿に目ざとく関心を示した。丁重に案内された異空間、ゴージャスしかもありえない非日常的ホストクラブ店内との不協和音を楽しむかのように、「お疲れのところ申し訳ない」などと白々しく言う。瀬良としては社長がいつ怒り出すか内心ひやひやしていたがそんな心配は無用であるとすぐに気づいた。当時の取材テーマは「聞き上手」だったと思う。何人かの聞き上手さんにその極意を聞くというものだった。ホストの神様的な存在の方にこのテーマは的を得ているし、真剣な取材という印象を受ける。実際、ホストさんの営業風景を取材させてもらうとお客さんの愚痴聞き側に回っているホストは少なくないようだ。酒と男で普段の憂さを晴らしにくるお客さんのお相手を仕事にするなど普通の会社員の常識にはまるで当てはまらない内容で話の中身なんてチンプンカンプンそれが日本語であること自体が信じられなく感じることだろう。この記者君の人を小ばかにしたような質問ぐらいでキレていては仕事にならないだろうし、ましてや毎日呪文のように愚痴をはきにくる女性客の相手など出来ないだう。またどきどきしながらも興味がわくこともある。「仕事に疲れたサラリーマンが家路を急ぎ家に帰れば家内の愚痴をきき」なんてレベルの愚痴は聞いてもしょうがないが愚痴聞きのプロが語る愚痴なら聞いてみたいものだ。
2005.01.21
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サラリーマン時代、ダ○ーポだったと思うが取材協力してくれと編プロ(編集プロダクション=頼まれて記事を書く方々)か?社員(出版元の記者、契約社員の場合もある)の方か?未確認人物から連絡があったと瀬良のディスクに置手紙がのっていた。当時の瀬良は首が曲がらないぐらいのノルマ(記者と営業を兼任していた)に追われていてよそ様のお仕事の手伝いなど出来ない状態だった。よく出入りする業者にまる投げ(電話一本入れてその後は知らん顔する、失敗も手柄も全部やったもの勝ち)する予定だったのだが、臆病者でしかも責任能力のない自分がそんなことを出来るはずもなかった。そこで、未確認人物がどんな人なのかの確認といっそのことその取材風景を貰ってきて自分の記事にしてしまおうということにした。歌舞伎町のありがちな喫茶店で待ち合わせた。馬鹿高いだけのアイスコーヒーなど飲みながらその人物にあった。記者とか編集とか自分も人に教わりながらやっていたが、この仕事に携わる人たちはよほど色々なことを考えているのか何時も口の端を引き上げて笑う癖があるようだ。何かと比較したような表情に見えてなんだかとっても嫌な気分になる。時間的な余裕もないまま自分の保身のためしかたがないとはいえ探りを入れにきて、案の定つまらない気分にさせる人物に出会うと普段の何倍も疲れてしまう。それどころか金も優雅さも無い人種がこれから遊びのプロで大金持ちのお宅にお邪魔するのだ。開き直って「変なやつ連れてきましたが宜しくお願いします」という感じであっていただくしかない。さらに取材中どんなくだらないことを言ってお客さんを怒らせないようにするか全神経を集中させていなくてはならない。あらかじめ話してはおいたがクラブフロントに電話をすると二号店で社長と会ってくれとの指示をいただいた。常に確認したら5分で行動するをモットーにその何とか君を社長に紹介する。ラッキーなことに社長は、なぜかパジャマ姿だった、「おお天のめぐみ、社長様はくつろいでいらっしゃる」以前ご自宅でお会いしたときは指輪とネクタイピンでフェラーリが買えますと聞いたことがあったので本日のスタイルから察して多少外してもおこらないなぁと勝手に思った瀬良だった。男がお酒を飲んで儲かる仕事などよく考えついたものである、今でもお酒を飲めばお金を払うのが世の中の常識である。常識をくつがえすホストの社長に話を聞いてみたいとは誰もがおもうことだろう。
2005.01.20
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「結果的に面白おかしくあればそれでいい」、取材記者と編集者の意見はこの壁にぶち当たらない日は無い。自分の担当している取材には主観が入ってはいけない上に、ジャーナリズムだとか個人のアイデンティティだとかを取材の基本に置かなくてはいけないながらも、内容的にはそんなもの程度の価値しかない。本来ならば最重要視されるはずの真意とか本質なども存在しないに等しい悲しい要素だ。取材対象として素材選びという事もあるがホストなど内面が軽視されやすい業界だけに表面的な面白さやありもしない嘘で塗り固めた部分を最大限強調できればいいわけだ。媒体による特質にそぐわない記者はおのずと仕事がもらえないが、商売だけを重視して仕事を引き受けているわけではない。取材の面白いところはなぜそうなってしまったかという部分が一番力を入れるべきもので、瀬良本人が仕事を続けるモチベーションにつながってくる。今回も次回も記事にならないことがあるが、編集作業により割愛される部分が一番楽しい興味深いところなのだ。クソ面白くもないこの○○アイドルが接近したホストの事実は、瀬良の知らないタレントの勝手な思い込みで、瀬良が知らないだけのタレントの発した言葉はつまらないスポーツ新聞紙面に華を添えた素晴らしい仕事内容なのだろうが、そんなものは何の役にも立たないどころか業界に対する偏見の子種をまきちらしたにすぎない。今後、現ホスト業界の没落振りをこと細かく表現していくつもりだが、それは業界復活のためになくてはならないことでもある。取材の終わりに垣間見た最重要な出来事を切り取ってみたが、そればかりをホスト営業で推奨するつもりはない。先ほどまで取材を受けていたホストが店の外である客と会っていたのが車窓からチラリと見えた、○○タレントがそれに気づき「あ、プレゼントもらってるぅ~」と自分が見つけたことを早く皆に知らせなくてはとおもっている女学生のような声をだして言った。ホストで一番重要なことは現実にいたるプロセスかと思われるがどうだろう。
2005.01.19
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今回起用の某タレントは深夜枠のちょっとエッチな内容の番組にレギュラー出演しているので誰デモが知っているはずだが瀬良は全く知らなかった。以前にも書いたがただ普通に仕事が回ってきただけで、一緒に行動をともにできることで幸せを感じることはない。簡単に言ってしまえばファンとして抱く感情も余裕も無いといったところだし、今後の励みになどなるわけもなかったというところだ。もっとも仕事は感情を外して取組まないと主観が先行してろくなことが無い。こちらに仕事をまわしてきた担当は興奮気味に今回取材枠を取ることはあらゆる場面でメリットがありデメリットは考えられないと息巻いていた。しかしながら瀬良に言わせれば編集内容やそれに伴ったクライアントのちょうちん記事(広告を貰っているお客さんに対してその店が目立つように流行るようにありもしない内容でも平気に書き並べ、見る人に良い印象が伝わればよいだけの駄文)が書けないほうが売上げ的にデメリットで取材を通して真実なんか伝えてしまってお客さんの虫の居所が悪くなり売上げが下がったらどうやって責任を取るのだというのが正直な意見だ。ほとんど強引に段取りを組まれて仕方なくやっているのが今回の流れだけに余裕もなくなるのも当たり前だが、この某タレントに間違ってか気になってしまった。さすがと言えるところは自分をアピールすることのうまさだ、さりげなく気にしてもらえるように計らう言動が様になっている。「瀬良さん少し寒いの車内を暖かくしてくださる。」そうかよしよしかわいい○○が寒がっているのだ此処はいいところを見せるチャンスだ思いっきり暖かくして恩を売っておこう、などと瀬良は思わないただ空調を調整しただけだったがそのタレント○○はありがとうございましたとかわいく礼を言ってきた。何を考えているかわからないところなど「どうしたの」と声をかけてみたくなる。アイドルだとかタレントだとかいう人種は色んな誰かに相手にしてもらわないと商売にならないわけだから恥もなく当たり前のように目立とうとできるのだろう。じっと見ていると自分のものにしてしまいたくなるような所有欲を抱かせる完成度と頼りなさを兼ね備え自分がいなくてはこの娘はだめになるとか守ってあげなくてはなどと勝手な妄想にふけったりし判断力を鈍らせる。そんな危険な気持ちを抱きながら取材原稿の締め切りとその内容について打ち合わせをするが、結局がお店に対してマイナスになるようなことは書かないで下さいというのと、校正(印刷される前に瀬良が見て直すこと)の段階で打ち合わせの内容に該当し考えられるマイナス要因あれば却下して瀬良が書き直すハズだったが、その原稿は瀬良の手には一度も渡ってくることなく印刷されてしまった。瀬良の現場に対する気持ちは編集者にとってはどうでもいいことで永遠に理解してもらうことの出来ない難しい内容のようだ。人気blogランキング
2005.01.18
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取材は順調に終わった。もっとも最初から取材内容などあってもなくてもどうでもいいことで写真と取材された人物のプロフィールがあればいくらでもそれらしい記事は書ける。何年何月何処生まれ好きな食べ物は何とかと何とか、欲しいもの、趣味、その他適当。水商売に携わる人たちはホステスだろうがホストだろうがお客さんに気に入られて印象に残ればほとんど仕事はお終いになる。その後一生懸命に営業電話をかけるのだが「わたし、人一倍貴方に興味があってまた会いたいです、お店でまってます」という内容の話がだらだらと続く。お店の都合のよいように適当に勘違いしてくれる人がいるのが商売のコツのようだ。そもそもお店で出てくる酒の価値などたかが知れているだろうし、その場の雰囲気が酒の価値を高めているというのが店側の主張なので従業員たちにはせいぜい営業してもらってお店にお客を呼んでもらわないと商売にならないというのが本当のところだ。また、一所懸命に営業してくれる愛らしいホストやホステスに恋心を抱いてしまうお客さんも多いことは確かなことだし、目をハートマークに輝かせクラブ何とかの誰が待っているから私行かなくっちゃと半ば義務感を抱いて限りなく皆勤賞に近いくらいの勢いで通う人たちがいる事も本当の話なのだ。しかしながら人気があって沢山の人たちに愛されてこそ仕事が出来るホステス、ホストなわけだから常にお客とのさじ加減が重要になってくる。もちろん建前上一人一人、貴方だけのスペシャルサービスを奉仕していることを強調することを忘れない。だから仕事といっても平等ではなく人によってある程度はその調子を変えてやることでとんでもない売上げにつなげたりすることは騙しではなく才能ということになる。しかしながらやはり商売はここまでと割り切ってやら無いととんでもないことになる場合もあるようだ、とりあえずえげつない話はおって話すことにしよう。人気blogランキング
2005.01.17
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もともと適当にちやほやされてお金を貰っている人種だけにたいした取材は期待していなかった。こちらは仕事として締め切りだってあるわけだし、いちいちマネージャーがどうだとかプロダクションがどうだとか一人歩きの出来ない小娘が原稿なんて書けるわけが無いと思っていた。本人にとって取材だとか言えれば、第三者的にはとても聞こえはいいがこうなったのも「瓢箪から駒」で、この某アイドルもどきがおエラいさんに営業をかけるネタに使われただけでその尻拭いが現場の仕事になっているわけだから、下っ端としては仕事がもらえて結構です「はい自分で何でもやります」という心構えでやらないと全く終わる目処が立たない。だから原稿なんか最初から書いてもらわなくても後で自分で何とでも適当に書いて間に合わせようと思っていた事には間違いない。ただし問題なのは現場担当としてお得意さんに一銭にもならない得体の知れない人物を紹介しなくてはならないということだ。ただでさえも生きるか死ぬかの瀬戸際で商売しているような方の前にいつも頭は春のような馬鹿小娘を案内しなくてはならないのだ、「ウチにはただで飲ませる酒はねえ」と逆上したオーナーが契約を打ち切ったり、最悪なことにどつかれて放り出されたら瀬良は泣き面に蜂でプロダクションからも訴えら生活は無収入の真っ暗人生になってしまうだろう。しかしながらそんな瀬良の心配も無縁のようで、某タレントを紹介すれば社長は愛想よく引き受けてくれた。しかも見るからに楽しそうで普段見ることの無い媚を含んだ表情で挨拶してきた「瀬良君今日はありがとね」だそうだ。お客商売を取材していて「損して得取れ」という言葉をよく耳にする。確かに得体の知れない広告に月に何万も使うわけだから、実際に目の前で取材してくれるほうが解りやすいというものだ。むしろこの光景が気に入らないのはお店にいる一般客のようだ、「こっちはお金を払って飲みに来ているのよ!ただ酒くらうんなら隅にいきな」なんともお下品なお言葉をはっきりと聞こえるように言うのだ。ホストクラブなど女性がお酒を飲む場所はこの女性の気性と付き合わなくてはならない。男の場合は飲んで酔っ払ってしまったらいくら使っていくらの価値があったなんてあまり考えないほうだと思うが、このホストに来ている女性客は酒を飲むのも真剣勝負で元を取るぐらいの勢いだ。あるていど予想していたしいちいち覚悟を決めていたのでは疲労しすぎて仕事にならない、瀬良的にも少し緊張したが、この某タレントもなかなか人使いがうまく飄々として肝っ玉が据わっているのか、にっこり笑ってじゃここら辺の隅にお邪魔させていただいてなどといいながら仕事を進めていく。瀬良の期待を裏切るように仕事上手だったので出来レースを見ているようだった。人気blogランキング
2005.01.15
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某タレントを起用して六本木に取材に行った。そのタレントはプライベートでホストクラブを利用していて詳しかったのだが、あえて答えを知っている人物に体験取材をさせても面白く無いなぁというのが瀬良の本音だった。瀬良はかつて某粗悪スポーツ新聞の営業記者をしていたので深夜営業の秘密クラブのような雰囲気漂う六本木のホストクラブなどしばし特集した経験もある。今のキャバクラの男版さながらのホストクラブよりも当時のものはそれ独特の雰囲気があって瀬良としても嫌いではなかった。特に男が好きなわけではないと思うが六本木に来る人間たちは刺激になることを平気で露出して楽しむ傾向があったのか、上品なクラブホステスを連れてホストクラブにアフターするとか言うわけでもなく、連日一人で某ホストクラブで将棋をさしている姿を見かける男性客と思わしき人物に出会う事もしばしばあった。そして、その某タレントは言ったものだった「六本木って空気が違うね」。子供かクソガキが世の中のたしなみを知った風を装って旅先で空気がうまいなどとほざく場面に苦笑する事もたびたびあるが、それとは違うようだ。確かに六本木には開放させてくれる田舎くささがある。遠く離れた故郷に思いをはせ、日夜働く六本木人は多い。そんな人間たちが作り上げた父ちゃん母ちゃんおらは東京でビックになっかんよという信念が泥臭いエネルギーを生み出し、誰でもが楽しめるオープンな街のカラーを作り上げたとも思える。その某タレントはなおも語ったのだ、六本木って居心地がいいんだよね。つまり、彼女にとっては遊び場ではなく部屋なのだ、多忙な彼女たちには自分の部屋を自分なりにくつろげるように装う時間などは存在しない。既存のくつろげる生まれ育ったところに近い環境が整っている六本木でなくてはならないのだ。「ヘイ、メーン、トップレスボトムレス」突然感傷とは関係の無い呼び込みブラックが徒党をなして向かってきた。こんなところまで来てはたらかなくてもいいだろ、もう日本を汚すんじゃなっよガッテムブラック、暗がりで目だけが白く目立つ真っ黒人間たちははっきり言って見栄えが怖い、見ただけで数年寿命が縮まる。そんな怖い犯罪分子予備軍的な存在もそれ以上の現実も含んだ街でしかくつろげ無い人種がいること自体が理解できない、感覚と言語が合わないことは恐怖といわずして何と呼ぶのだろうか?ということで某タレントは某ホストクラブで初回体験レポートを書くことになるわけだが冒頭述べたように初回では無い内容の濃いレポートを書き上げてくれる予定だ。
2005.01.14
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ボンテージ=特殊な人という認識は現代ではだいぶ薄れ、ボンテージ=着こなしのアクセント、アクセサリーで一部取り入れるおしゃれなイメージに取って代わられた。自由を剥奪された奴隷や家畜にもっとも似合うボンテージは飼い主の奴隷に対する愛情表現の一つで余裕のある飼い主はその奴隷や家畜を自慢しあうサロンを開き多忙な日々のくつろぎのひと時として楽しんだという経緯から発展してきた。そもそも奴隷や家畜には自由があってはならないが自ら進んで奴隷になるのは人間くらいのものだろうか?人間に上下関係をつけるカースト制度や士農工商のような政治的な統制は日本人として知っていなくてはならないものだろうが、具体的に体験することのなくなった現代ではイメージもリアルには膨らんでこないものだ。西洋文化到来以前の日本のちょんまげも形によりその人間の生まれや育ちそしてその能力すらも表現していたものだったそうだ。時として今流行の小林薫のような人間が犯罪を犯しても生きれたとしたらちょんまげによりこいつはとんでもない性犯罪者で近寄ったらいけないということを表現しながら町内を引き回しされたに違いない。もっともそんなレッテルを頭に載せて社会復帰も出来るわけ無いだろうから、当時のお侍さんはお仕置きとして最後のお慈悲に死刑を宣告しただろう。今はその性犯罪者予備軍にメーガン法を導入する是非を説いているが犯罪者がちょっとした工夫で地域社会に貢献することが法律や刑罰によって可能であるのならばその罪の意識は前科者の心にしまわせ寛大な気持ちで社会は迎え入れてあげるべきだとも思うが、かえってメーガン法のように後ろ指を指され続ける状況を導入してしまうことにより、寄り付く場所をなくしてしまった前科者はさらに凶悪な犯罪者に育成してしまうことにならないだろうか?場合によりセクハラだ何だと簡単に流行語を吐き出すように言う馬鹿がいるが、それが誤った判断によるもので正常な一社会人の生活を大きく狂わせる根源だった場合が多々報告されているし、一度犯罪者記録として必ずIDに刻まれてしまい取り消せない場合は立場として談判に及んだ当事者はどう責任をとるのだ?裁く人間が狂っている場合はどうなるのだ?ボンテージによりもともとあった考えも理性も全て縛る。考えることが出来ない状況を楽しむ。今は奴隷や家畜の市民権も高くなってきた。奴隷であること縛られることを自ら選ぶことが出来るのは住みにくい社会のひずみから派生した精神崩壊者に他ならない。お犬様など家畜が服をきて街を散歩する時代だ、犬の公然わいせつ罪もそろそろ導入されることだろう。
2005.01.13
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どこがよいといったら埃が立たないこと、清潔感とは対照的に生皮をまとうイメージは正気の沙汰じゃない猟奇的なものを感じる。死体を自分のイメージどおりに作品にしたエド・ゲインの影響力はいまだ衰えることをしらないが、彼のやった所業は悪魔ですら逃げ出す万物の常識を逸脱したものだ。その破壊的なイメージは聞く人の頭蓋骨にこだまし続け消し去ることの出来ないしこりとなる。物心付いた子供に見せたり聞かせたりした場合、思考判断力に亀裂を生じることはまず間違いない。映画にもなったのであえて語ることも無いだろうが、革ジャンをまとうように人の皮をまとい満月の夜に踊る様は何に対して歓喜しているのだろうか?地味で保守的な環境は繊細で些細な出来事も人の歴史を大きく不思議なものにするのだろうか?当然そのインパクトの強さは最初の数秒が芸能生活の要であるロックミュージシャンに継承されているようだ。革ジャンをまといドクロの首飾りをこよなく愛し、一皮向けば人間皆同じと非人間的な名言を吐いたキースリチャードもドクロの良く合う尊敬すべきミュージシャンだ。死んだものから得られるエネルギーは負のエネルギーとなるだろうがあえて不吉な数字を守り神のようにたたえ仲間のために集まり続けるヘルスエンジェルスも輝くドクロとおそらく皮に対しての慟哭は常人のはるかに上を行く。皮とドクロ、疾走してこそ分かり合える爽快感と連帯感をハーレーが作り出してくれるというのは信仰に他ならないだろう。疾走するための皮というよりもコミュニティー形成の目的での皮のイメージは日常という大気を切り裂くために皮で武装するミュージシャンとは違うようだが、強くなるために武装する必要性を感じないはちきれそうな肉体が皮を寄せ付けないのが彼らのスタイルなのだろうか大体が皮ベストだ。永遠の共通言語と独立国家をイメージした皮ベストの説得力はインパクトとはちがうエネルギーを発散している。自分の葬式代と革ジャンがあれば人間は生きていけるんだ、といったかどうかは解らないが、「革ジャンを着せて葬ってくれ」と走り書きしたシドビシャスも死と皮の良く合うミュージシャンだ。おそらく彼の音としての歴史はどこにも見当たらないが、その生き様がメロディーを奏でるのはなぜだろう。天才的な死のイメージを創造し誰も寄せ付けない、死に様で作品を完成させる。皮を着こなすスピリチャルは永遠に腐らないものなのだろう。
2005.01.12
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テーマに新規登録がうまく出来ない。そもそも解りにくいのは自分が馬鹿だからと一蹴してしまいたいのだが、瀬良には時間も金も人脈も奪われて今は無い。そういうわけで精神的にも経済的にも追い込まれながら時間を見つけて書き込んでいるのだ、もっととっつき合いやすい流れにのりたいものだ。社会主義国家における管理と統制を日常の労働から睡眠までも生産プログラムに組み込むための抑圧ファッションをブルジョアに率先して体験させるために仕掛けたパンク。ボンテージファッションに身を包んだセレブをみてマルコムは大笑いしたに違いない。瀬良も笑いたい、仕掛けたとおり風船が膨らみ膨張が限界に達し自然暴発することは必死と思われても、あえて新たな仕掛けをして針を突き刺す快感を瀬良も自ら体験したい。そのためには馬鹿で結構乗りに乗りまくるイケイケいけちゃんを育成することは必要不可欠なことなのだ。自分では恥ずかしくて出来ないよんだから誰か僕のために踊ってくれないか!捨て駒になってくれないか?ついでに死んでくれないか?ロックの歌詞にもよくあるよね。やるだけやらせて口封じ。いつの時代も羊の皮をかぶった狼とか堅気のふりする根っからのヤクザはいるもんだし、そういうやつらが歴史を作ったなどとほざくのは今の時代横目で見ていて腹立たしい。少しぐらいは経済の雲行きも霞が晴れて少しは何かやるにもやりやすい世の中ならば、少しは太ってもいいかなって思うことも出来るが、人の成功は妬みの対象であら捜しが思考の中心と化している今現代に皆で仲良くなんてあるわけ無いだろう。さて、この上パンクファッションの歴史をあえてぶちるつもりは無いが、最先端の名の下に全く機能性を無視しながら法外な利益率をだしたセックスの商品群を例に考えれば当然のようにセックスピストルズという広告塔があってこそ仕掛けたプロデューサーが大もうけしたのだし、ピストルズが解散しようが自爆しようがマルコムには全く関係なかったわけだろうし、捨て駒がこれだけ歴史に名を残せたことをありがたく思えぐらいは何かの拍子に特集されても自分で言うことも無いぐらいのご身分にまでなった。そのコンセプトを髣髴とさせるデザインは街を歩けばたたみつけることが出来るが、戦略と一致しているかという部分ではまだ単独勝負が関の山だろう。商品はよいものを作っては儲からない、仕掛けたとおりに馬鹿が踊るのがファッションの真骨頂なのだ。人前に出たがりの馬鹿諸君、やっぱり俺のためにちょっと逝ってくれないか、捨て駒になってくれないか?ロックでいいじゃん死んでよお願い。
2005.01.11
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いつの時代も特集されるファッション、裸で歩くことのほうがまだましと思えるような恥ずかしいファッションから生活臭丸出しの寝間着風ファッション。全て含めてファッションなんだがなぁ。瀬良としては裏原ブランドのような持ってて凄いでもバリューじゃないような代物には諸手をあげて賞賛できない。時代はリメイク、古着風新品と推移しつつあるようだからその流れの中にはデザイナーから直に買える独占商品んのような感じと雰囲気がするので、会員制クラブのような特殊なノリを楽しむ意味では、面白い。ところでファッションデザイナーって量産できるものをデザインしてそれがバランスよく価格帯と流行を掴んで売れればラッキーの話なんじゃないのか?一部閉鎖的なマニアが集うファッションショーでお抱えのデザイナーは集まりがなくならない限り失業しないだろうけど。だいたいは工業生産品規格を守れないデザイナーが生き残れる時代じゃないからね。サロン的に展開し俺様は客を選ぶんだっていったって作るものは作らないといけないしそれがどこでも手に入るレベルのものだったら頭の悪いガキ意外はなんだかなぁって寄り付かなくなるのが関の山だろう。場所、価格、デザイン。どれをとっても完璧と思っていた人は沢山いただろう今回のSKKIN瀬良は大好きだったが、一目ぼれはするけど買えない着れない、百歩譲って無理やり着てしまうと頭がくらくらする。瀬良にとってのファッションは頭がくらくらするものなのだ、何度も言うが頭の悪いガキは子供だましの適当商品で頭がくらくらするだろうが、スゲーいい素材、手間隙かけすぎの各パーツ、着てみて初めて意味を理解することができる商品をもってはじめて頭はくらくらする。なにもコスプレしなくてもファッショントランスは出来るんですよ、ただし商品に魂がこもっていてのはなしだけどね。しかし残念、都内某所で片思いでお目にかかれるSKKINも消滅、○井とかで最近のラインを展開しているびょんCOOLであつかっている商品はお前なぁまじめに仕事しろよハゲって感じでレベルが低いじゃないか。細部にわたって病気のような素材選び、かなり無理と自信を喪失させる着心地。チャイニーズシルクの美しさを楽しむもその高級素材を惜しげもなく微妙な首筋に頭部のフードに使ってしまう馬鹿ぶり。上げたらきりのなにエゴイストなコンセプトが買いだったのに今のSKKINはそれが商品に生きていない。マーケットの展開が下手なのか意識してそうしているのかわからないが流通商品が極端に少ない。値段が高騰し幻の商品になる魂の商品を世に出し数年でヤル気、勢いが失速してしまう自爆系のファッションデザイナー、ジャウニに敬意を払いたい。肉体を感じさせる魂の服をありがとう。
2005.01.10
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夢に出てきたのはそのボロさ加減だった。ファッション流行的にはそろそろきたか新品古着という感じだった。なぜ夢なのかというとエドウィンのCMでブラピが着てるなんだか汚い服というイメージと汚いブラピが自分のファッションリーダーだからなのだろう。思えばカルフォルニアに始まった感のある汚いブラピは身近の変質者信号が黄色ぐらいの時代を象徴する一直線アイコンだった。その演技力は作風ごとに頓珍漢な役柄を見事にこなしていると誰もが周知することだし、セレブ関係では最強と思っている。映画なんてオファーがかかれば適当に沢山出ておこうかな、やることそれしかないんでぇ~。という作品ごとにその投げやり感を見事に表現しているデニーロにとは比較にはならないが。魂なしの自動人形としてのデニーロに対し魂の入りの自動人形でたぶん違う世界から来た自分の分身も使っているんじゃないかと思われるブラピはポストビリーミリガンかと思わざるを得ない多重面格俳優であろう。話がそれたのでファッションに戻ろう。スナッチやファイトクラブでみる彼のこれも頓珍漢な着こなしもファッションリーダーとしては欠かせない要素だ、ミリタリーパンツにテラージャケット、ついでに着古しのスエッパーカーをあわせるなどはつぎはぎのアップリケの微妙なバランス構成を楽しむ手芸的な発想を感じる。サイズの合わない超高級ブランドにたとえそれが本物でもパチモノにしか見えない超高級アクセサリーを全身に身につけメッセージ性のかけらも無いようなタトゥーをアクセサリー同様、全身に刻み込む自虐的で節操の無い生き方を見事に表現したワルファッション、その精神を支えるものが家族の愛だとか友情だとか皆を守るために日々ウエートトレーニングに励む女王様募集のマザコンだったり、なにか青臭いところを残す危なさに拍車をかけているエッジファッションに流行の先端を見た。今後ストリートよりもお家で展開するパジャマ的な適当さに注目したい。またまた話がそれているようだ。その夢にまで見たブラピ的ぼろさの象徴アバクロ関係だがかなり沸騰しているようだ。ミリタリー系の汎用性の強さにアバクロのブランドテイストとその価値が高まりそうな勢いを感じる。製品的な力強さはGAPに感じるものが漂うがコスト的にはワンオフが量産されるということに商品の完成度の高さがある。年明け早々、アバクロのトラックジャケットを購入した。ハーフジップアップが期待を裏切らないことを願いつつも、期待を裏切ってくれてこそその商品がワンオフである。フルジップのパーカーなどは試着の段階ですでに不安にさせるものがあるが、使いかたにより壊れていくことを新品の段階で楽しむことが出来る。愛着をわかせ所有欲をみたし気持ち的にリラックスできることを計算したうえで作られている商品。これらの微妙アイテムが今後の古着市場を拡大させる起爆剤になっていくことには違いないだろう。
2005.01.09
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気分的に休日ではない。いつもは一人でいることが無い休日、今日に限っては一人なのだから休日らしからぬというのもうなずける。今ひとつ行動力が出ないとうのも気分的な要素だろうし、原因がわかっているだけに何かやろうとするためには何が必要で何が不必要であるかは解る。普段どおりのことを休日には出来ないが今から会社なり事務所に戻り昨日までやっていた仕事の続きをやってみれば普段よりはかどってみたりするだろう。但しそうすることを望んでいればの話だ。休日に何か面白いことをしよう。子供の頃は無限にあると思われた時間の中で何をやってみても面白かったような記憶がある。直に飽きてしまっても夢中になってやれた。今になって何か面白いことを作ろうと思っても一つ興味の対象になるものは数少なくなってしまった。余生、これからの人生というものを指折り数えてすごすための面白いこと。そんなものは無いのだ。これからを生きる勢いのなくなった人生を奮い立たせる面白いことなどあるわけが無い。それこそ気分的に嫌なことが起きるのを避けるための刺激は簡単に人を奮い立たせるだろうが、仮に体験することが可能な場合現実をはるかに超える事件を除いてだが。人生などの長期計画も考えすぎだがとりあえず、今数分にわたって直面することで面白いことを考えた場合、思いつくことがない。やるべきことが皿洗い、部屋の掃除、風呂掃除、洗濯。日常的なものはあまり考えてやるものでも無いしむしろ自動的に自分でありながら自分以外の精神が行うもののような気もする。気が付いたときに出来ている事柄は面白いという分野のものでは無いだろう。それでは今出来る面白いことは何だろう、自分の気持ちを総動員して行った後の感傷に浸る。あくまでも個人的でその詳細は万人向けではない何か。異邦人でありふれた街中で突如起きた殺人という惨劇に犯人が「太陽がまぶしかったから」という名文句を吐いた。その名文句のために人の命が奪われてしまうのが許せるのかといったら社会的には許せない、しかしながら精神的には許せることだろう。自分を維持するために必要な諸行が悪と称され人間らしからぬ鬼畜のしわざと談判されても。本人にとっては心のために必要だったということだ。楽しむための気持ちや心までは法律で取り締まることが出来ないというのが人間の過ちの一つだ。取り締まるのならば見えないところや夢ですら取り締まってこそ安全な社会ではないのか?
2005.01.08
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忘年会はやらなかったというよりも出席したくなかった。新年会は出席してしまった。酒を飲んでいる場合ではないだろうというのが本音だがかなりの量を飲んでしまい。二日酔い気味になってしまった。というよりも新年会で出された料理は直になくなり酒のつまみにもならない。なぜ居酒屋で瞬時になくなるほど空腹でいるのか解らない。新年会と称して経費を使って普段食わないぐらい食べているという感じなのだ。だから飲んでいるしかない人と食べているだけの人に分かれてしまったのだ。新年会をするのは結構だがどんな会でも意味があるだろうし飯を食いまくっている姿は雰囲気を壊す以外の何物でもないだろう。所詮は生まれ育った環境が人よりも先にとらないとなくなってしまうという所だったのだろう。食事にありつけないのは自分が悪い他の皿と同様に盛り分けられたものには不平不満をあらわにする。自分が食べたいものを食べたいだけ頼めば場の雰囲気は悪くならないしそれを見ている者の気分も害さないだろう。たしなみという言葉も知らないしこれから学習するにしても遅すぎるのだ。自分はそんなやつらとの付き合いを考えなくてはならない時期に来ている。そいつらは自分勝手にやりたいのだから一人でラーメン屋にいって思う存分食べる道を選べばよい。その場には誘ってもらいたくないのだ。また、そんな様を高みの見物のように構えてみているものも一緒にいる。本音もたまに聞くことがあるが、生まれながらの嘘つきに出来ているようでやはり前者同様にお育ちが悪いようだ。金は払わなくても飯は食うという感じの表現がふさわしい。自分だけが利口だと思っているのか、答えを知っていてその結果予想は常に的中するわけではないのだが予想に対しては責任も追わない。相するように言われましたから行ったとおりにしているだけです。そんなことは言っていないそんな風にやってくれと頼んだ事もない。結果が都合の悪いものになったときには責任を負ってあげることをしたくない人物だ。常に高みの見物をきめていたいようだ。そんな人物とどうして一緒に仕事が出来るか?本音で話さなくてもいいが任せてくれという信頼感があればまだしも一緒にやる意義がある。調子に乗らせればどこまでも付上がるようだ、呼ばれたから来ただけです自分の意思では在りません。貴方が呼んだんですから、この場は貴方が責任を持ってくださいとでも言いたいのだろう。近寄っていて得のない人たちであり、近寄っただけ気分的に損をする人物だ。
2005.01.07
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年の頭に限って抱負だとかいいたがるか自分にとっても他人様であっても抱負なんか最初っから変わることなんかない。出来ることすら出来ない世の中なのは周りを見回してみたり時報ニュースに耳を傾けてみれば解ることだ。具体的なことをいちいちあげていたらきりがないがそういう時代なのだから、抱負なんてものをあえて言ったり聞いたりすることが馬鹿らしいことなのかよく解るだろう。平和な時代を取り戻したかったらルールを良く見直してみればいいことだ、今の世の中なりふりかまっていたら生活が出来ないだろう、だから今まで考えもしなかったとんでもないことをしでかすやつが現れるのだ。とんでもない仕事でうまくいったらとんでもない仕打ちでそれを奪おうとする。こんなことを考えているんだけどとか言った時点で目を付けられ、こんなことをやっているのだけどといった時点で待ったがかかる、それでもはじめてしまったらやり続けるしかないだろう、色んなやつらが群がって貪られるのがおちだ。だまって静かに嵐が過ぎ去るのを待つか、閉じこもって仕事をこなし外の様子を伺うときだけ普通を装って外出するのが世渡りの基本だろう。これをやらないようにというルール、それをやったら犯罪者にしますという法律でがんじがらめに縛りつけ世の中がうまく機能し自動的に国際社会の仲間入りが出来たらラッキーだぐらいしか考えられない学者や政治家先生のお言葉をびくびくして聞きながら生きているのも釈然としない。言われていることを全てこなすほど聞き覚えが良くない。あまりにも多くのことを普通の人が考えてしなくてはならない。誰でも出来ることが多すぎて人間の限界を超えてしまう日も近い。今年の抱負は平和、来年の抱負も平和、これからの抱負も平和。常に変わらない食事と生活を望むのが国民だ、しかし人は一瞬一瞬違うものだから全てに当てはまるものは平和しかないのだ。平和を維持できないのだから平和にするための道元が必要だ平和のために払われる労力と場合によってはさせないための圧力。鎮圧すべき行動も平和に見られなくても必要だ。平和に平和を楽しみ、平和な生活によいしれ平和に飽きたら平和に刺激をもとめる。平和な暴力、平和な感動、全て平和を維持してこそ平和な精神を持ち続けることが出来るのだ。そのためには統制を実行する、升目に当てはまるように割り当てられた平等が余計な行動と思想を束縛するのだ。行動と精神の隔離、これを今年の要とするがよい。何をやっているかわからない悪の縮図を市民の中にはぐくんでしまうような経済構造を持ちながら国際社会のリーダー的存在を気取るような愚考を行使するのが日本であるのならば今後は日本人であることの誇りを持って日本を再建もしくは終焉のための行進を開始すべきである。
2005.01.06
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食事をするときに人間に値札が付くような気がした。場所は牛丼の吉野家、もうすでに10年以上も利用しているのだが吉野家が悪いというわけではない。吉野家に客として行き席に着くと店員は注文を聞きに来るそしてどんぶりに入った食事を運んできてくれるのだがそのどんぶりは席に割り振られた番号を目印にやってくるのだ。お客様と商品の管理はどこの店も同じように解りやすくしているだろうしそうしなくてはならない、またどんなに商品的に金額が高い物でも食事でも皆同じように最終的には会計をしなくてはならないのだから当たり前のことをして儲けているにすぎない。しかしだ吉野家の店内はお客が店員の通る通路を囲むように座るように出来ている。全てのお客に対して従業員は即座に対応できるようになっている。素晴らしいことだが吉野屋に来る人間は瀬良を初め食事は一人で500円以内でもよくとにかく時間をかけない無駄話はしないということで利用する。決して吉野家で時間をかけて酒を飲んだり重要な話はしない、いやしてもよいしかしながらその本来の目的と利用する目的内容にふさわしくはない。スピードを重視した配置はお客の回転率、従業員の稼働率を計算している。それに逆らってまで無理に利用する人間の根性がわからない。本日も吉野家を利用した。瀬良の目前にはやはり瀬良と同じ目的をもって食事を待つことが数秒と考えているお客が座っている。そしてその目の前を店員が通り抜けていく。当然、吉野家では不自然ではない。が、それを一般家庭でやってみたら不自然になる。今は新年会のシーズンだそれを会社の上司の前でやってみたまえやはり気分が悪い。吉野屋だからこそ完成された流れなのだ。それを崩すことがいかに吉野家的には馬鹿で愚かしいことであるかは誰でもがわかるはずだ。ましてや一般世間様の常識としても噛み合わない、利用するものの徳は吉野家ですらもっていかないといけないのだ。それが解らない利用者は永遠に吉野家を卒業できない。吉野家にこれからも人生のマナーを学ばなければならない。いくら吉野屋で食事をしようとしても立ったまま食べるやつは居ないだろうしまた数分の時間も食事に割けない人間が仕事が出来るはずはないだろう。人生のピンチこそ食事をしないと力が出ない。吉野家に来てお弁当にしていくのは上司が働く部下のために数個まとめて買っていくというのが正しい利用の仕方ではないのか!!誰もが振り向く巨体のデブが吉野家にきてお弁当を一個持って帰るという心理状態は自分が人前でどんぶりめしをかき込んでいる様を恥ずかしいと思う羞恥心からお弁当を注文するとしかおもえん。人前で食事が出来ないほど恥ずかしい人生を送っているようなやつが公共の食堂を利用することが社会のためにならないことは子供でもわかる。吉野家の弁当を持ち帰るデブは吉野家に来てはいけないのだ。改めて吉野家を利用する人間にの作法を教えるべきだ。吉野家会員制計画、をもってまず日本国を立て直すべし。
2005.01.05
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一月は誕生日の重なる月のためプレゼント選びで年が始まる。しかしながら今年は毎年続いたプレゼントも一人減ってしまった。その代わり八月が増えた。結果的にはプレゼント出費は変わらないのだが一月はお金がない中の出費なので一人へって幾分は気持ち的に楽なところがある。他人に対する感情など所詮その程度のものなのだろうが身内になるといっても血のつながりがない分、別れはあっさりとしたものだった。この先もそんなことは多く訪れるだろうが、心の痛手は慣れてあまり痛みを感じなくなってしまうところが人として成長するということなのだろうか?痛みは嫌なものだから避けようとするのは当然のことだろうし、感じている痛みもいちいち感じていたら気持ちもそれに伴う体も持たないということなのだろう。自己防衛のためにい被害が多大に及ばないように出来ているようだ。弟はでかいバイクに乗っている日本製の何とか言うバイクだがかなり自慢できる代物で話のネタには必ずでてくる。バイク関係のプレゼントなら大歓迎の単純な男だが、毎年同じような代物だとプレゼントするほうも飽きてくる。昨年あまり会話がなかったのでイメージ的なものが沸いてこないが瀬良自身の豊富を象徴づけるものでもいいとは思う。そしてその豊富とはいかなるものか?本日も実はここにいる必要はないのだが来ている。何をするのかは自身の中では決まっていたのだが別段普通と変わらないことしかしていない。それではいけないのだいけないことに気が付くために今日はここにいる。明日あさってから昨年と同じような日常が繰り返されるだろう。裏切りでも放棄でもいいから毎年ではない事が必要なのだ、誰を信じるという事も今となってはわからない。冷静になればなるほど自分が誰と何かをするということの前に自分が準備しなくてはならないものがあるはずなのだ。瀬良は自暴自棄になり視野狭窄がおこっているのかもしれない。しかし、一度は何かに訴えかけられてそのことに対してはちゃんと供養したのだが、今一度何かが訴えかけている。信頼を寄せた人物も商売上の何かをイメージして語りかけてきているような気がするし、その後言われるままに出来るという自分なりのビジョンが描きにくいのだ。結局は今自分を守れるのは守るために幾らかの金銭的な準備と使用するに当っての決断しかないだろう。年末感じた何かは昨年自分を悩ませたそれとは違うもののようだった。足元がふらつきバランスを崩す。それが嫌がらせを意図しているかのように頻繁に起こる。もう好きなようにするがいいとも思う。付き合わせるのも大概にしてもらいたいという本音が漏れている。やれるようにやるだけだしそんなに簡単にくたばるわけにもいかないが、言いなりになるのもごめんこうむる。これを豊富としたい。
2005.01.04
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昨年はどうだったとか言っている最中に近所で火事があった、全焼の大火事だった。原因の大体が寝タバコ等で片付けられてしまうそうだ。地元民として30年間も同じ場所に住んではいるが家の前の消火栓が開くのを始めてみた。事件は突然やってくるが事件に対して地域の準備はしていても自分の準備は全くされていないことに気が付いた。火事になったらという問いかけに対しては火事にならないように注意するとか自分で出来ることをもっともらしく言うことは出来るが、もらい火の場合はどうする事もでないだろう、そして何を持って逃げるとの心の準備も出来ないまま飛び出し、命があれば燃え盛る自分の家を見つめるだけというのが関の山だ。火事は火の元が特定されていて被害が広まったとしても、加害者にはならないという。刑事事件にはならないと聞いたことがある。火が出るのは不注意だろうが気が狂っていようが、火を出したものは犯罪者にはならない。その被害が死傷に至ったとしてもだ。そうは言っても普通の人は火を出して隣の嫌な隣人を焼き殺してやろうとは思わないし、だいたいが罪悪感で同じ場所に住んでいることは出来ないだろう。また、同じ考えをもって火をつけた場合は当然犯罪になる、放火は非常に罪が重いらしい、どのぐらい重いのかは調べていないが殺人と肩を並べるぐらいの重さとみていいだろう。ドンキホーテの火災も犯人の逮捕にはまだいったっていないようだが、さっさと捕まえてもらいたいものだ。三人もの人が恨みつらみか何かはしらないが、個人の気まぐれで殺されてしまったわけだから、世論としてはそれなりの罪をとわれ遺族には気の済むような結論をもって解決してもらいたいものだ。
2005.01.03
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今年は初日の出が拝めそうだ、かなり冷え込んで夜空がさえてきた。今年の年の瀬は毎年と違った趣がある。たしかに、世の中の見え方が変わってきたのが社会人デビューの会社からアメリカに旅立ったときだった。社会の枠から外れる惨めさも体験した、そして初めて体験する困難超えも若さゆえある程度クリアした。そして思った、瀬良たちは普通に飼われている。ドロップアウトギリギリをじりじりと進みながら今日に至る道のりのなかには、飼われたことのない人種との付き合いがあった。虎穴にはいらずんば孤児を得ずの例えのようにルールを守りさえすれば無害普通の一般社会と変わらない経済がそこにはあった。一部特殊な生態系とも呼べる生簀のような町、繁華街に生きる人種の弱肉強食にして欲望の食物連鎖が人間社会のふりをして維持されている架空の世界とも思える異空間。そこに人を見ようとしたのがまだ青臭い理想論を押し通そうと学生気分のまま会社の乳を吸っている大きな赤ん坊に怪我は得た程度の感覚で一般社会からかけ離れた独自の文化思想で生きている生簀の人種にはまったく当てはまらないことに気が付いただけだった。そこに人との付き合いはなかった、人としての価値は特殊な価値観が生み出す幻想を追い求めることのようらしい。そして何を信じるか誰を選ぶかでその身の振り方と自身の価値が決定ずけられてしまうことになるのだ。人として道理をわきまえそして、地域の社会に貢献すべし。全く役に立たない長物である、またお笑い種である。自分のみの狭い領域でうごめく微小国家が唯一命綱としてつながっているところは地獄のようである。生きても地獄、死んでも地獄という無縁地獄にはまって血をすすって生きる生き様を夢や希望、そして将来の栄光につなげようとしても絶対に無理だろうと改めて確認したのが昨年だったのだ。今年は青臭い過去のせらを鎮魂するための重要な年にしたい。それは迷い多き若さを落ち着け、霞の中に漂う邪悪さと永遠に浮かばれる事のない無限の苦痛からの開放を哀れみをもって実行し世界を現実のものとして鎮めることであろう。あと数分で清浄の光がさまよいうごめくものを焦がし、成仏させてくれることだろう。
2005.01.01
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ついに年を越すことが出来た、思い返せば一時はどうなるか心配だった2004年だった。というのも信頼していたアシスタントには社内告発され情報ソースをリークされた。それを入手したチンピラが激怒し瀬良は袋叩きにされてしまった。会社になりかけていた仕事も壊滅状態に信用を失い廃業を検討した時期もあった。様々な戦いと事後処理に追われたが結果的には現状を維持するような流れにはまとまったが、すでに心傷ついていた瀬良としてはうつ状態に陥り仕事の作業は始終停止したままだった。仕事に対しての情熱は常に地域社会に貢献というのが世間の大儀だが関心にもこの名文はどんな世界にも通用する常套句なだけに、どんなにやる気がなかろうが鬱になろうが瀬良としては肝に銘じて実行していたのだった。それが名目上地域社会と所用する現実が地に落ち、その場でうごめく分子どもが瀬良の目には汚物にも劣る嫌悪匂を漂わせるようになってしまった。
2004.12.31
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今年の仕事が終わった。厳密に言うと仕事ではない。パンのために生きるか仕事のために生きるかというと。パンは欠かせないし仕事もパンを買うことが出来るが仕事をしないで恵んでもらうこともできる。仕事をしてもいなくても生きていることには変わりない。インターネットでの生活も不安なところだらけだが自分が存在するサーバーにデーターさえあればサーバーが壊れない限り永遠に自分はそこに存在することになる。理屈的には生きていることになるが、自分が存在していながらサーバーが壊れてしまえば自分は死んでしまうことになるのだろうか。誰かに任せられている何かの摂理に準じて存在しているという意味を理解すれば今自分が生きている事も不確かなことだ、地球というインフラがなくなってしまえば自分は存在しなくなる。ネットは自分たちの手のひらなのだろうが自分たちは神ではない。例えば自分たちの影もひょっとしたら意識があるのではないかとも思うが、自分たちがいなくなってしまえば影の存在もなくなってしまうのだ。光の粒子がなくなってしまえば光が作り出す世界も消滅する。大昔から決まっていたことを繰り返すだけで、知らないのは自分だけもしくは人類だけということになるのだ。第九は天才の創造物だが音という波長がなくなってしまえば聴くことが出来ない、聴覚、振動がなくなってしまえば細胞に訴えかけるものがなくなってしまうのだ。天才は10という数字を怖がったのか、完成は終末でありそれは死の象徴として恐れ訪れるのを拒んだかもしれない。年の終わりに終わる前の数字9が奏でられるのは天才が望んだことなのだろうか。人間は完成を恐れる、どんな天才だろうが完成はしないことが人類の唯一のすくいなのだ、それを知っているから天才と呼ぶにふさわしい。
2004.12.30
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雨が似合う人がいる。阿部薫と鈴木いずみがBOONに特集されていた。出会う人に雨が似合うと思わせることが出来るのは、雨に打たれるにふさわしい生き様だという意味合いなのだろうか。いずれにしろ惨めな様が目に浮かぶ。雨に打たれても気にしないという投げやりな感じが伝わってくる。この二人は結局が自殺という結論を選んだ。人生80年の現代に20代や30代で自殺を選択するとは命をずいぶんと贅沢に使う生き方だとは思うが、生命力にあふれ毎日を完全燃焼で駆け抜けている人にかぎってあっさり死んでしまうものだ本人たちも死ぬということに関しては無縁のものであり、世の中で言われているような死ぬようなことをしても自分は死なないと思い込んでいるほうが多いと思う。がむしゃらなスピードを持った人生のスピード狂は自分の置かれている死の領域すら居心地の良い場所として少しでも長い間底に居座りたいと感じているだろうし、誰かに言われても危険に気が付くわけでもない。当人の感じるものが寄り付かせる危険は他人が判断できる範囲では偽善にすぎず、自分の見ている前で悲劇が起こるのを黙ってみていたのかと非難が集中することをおそれての保険に過ぎない。むしろ黙って生き様を見ていられる人のほうが真のやさしさをもっているはずだ。俺死んじゃったのという一言は色々と解釈されるに値するのかは全く本人には関係の無いものだろうが、見つめる目が優しければ優しいほど生きていたら聞いてみたなぁと色んなことを思い浮かべるだろう。若松監督のエンドレスワルツはずっと意識の片隅にはあったのだが、結局見ることが出来なかった。阿部薫に激似の町田町蔵もスピードは鈍いものの阿部薫と同様の表現者だとも思う。表現の一手段に映画なり音楽なり文章なりが存在している町田氏と阿部氏の違いは時間の経過を受け止めることが出来たか出来なかったかだけだろう。山本監督の南方熊楠もどうなったのか完成したのかいまだその後を聞いていないが。どうしても監督として撮りたいテーマを追求するも追い詰めるまでの集中力は日常生活を無気力にしてしまうほどのエネルギーを要するだろうし、それが普通の人の生活に該当しないことは普通の人ほど良くわかるから理解しがたいという防衛の言葉で自分自身を武装する普通の人であるべき戦いがある。何かはそれぞれが持ちえるもので多くはない、何かを追求するに当って色々な人が使う時間は的を得て外すことなど出来ないぐらいの真剣勝負だろうし、所詮一個人で出来ることは詰まっている物をさらけ出すことぐらいしか無い。
2004.12.29
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付き合ってよい人、悪い人。一応、外見は同じように人間に見えるが、影響力として瀬良を含む全ての人間は自分以外の影響を受けざるをえない。人付き合いの中でだんだん判ってくるのであるが波長の会わない人や一緒にいて楽しく無い人、何をやってもその人とはうまくいかない人。勿論、その逆もありうるわけだが、付き合ってみないとわからない。以前、抽選や賭け事をする際に連れて行くと必ず当る儲かる人物がいた。なぜか性格も生活もまるで違うのにひょんなことから知合いになり、一緒にいる時間を多く作るようになった。容姿も瀬良とは似てもにつかないうえ肌と肌が触れ合うときには、彼女の皮膚は瀬良の何倍も強いようで触れるところが痛かった。結局、彼女とは生活の面でうまくいきそうもなく、彼女の本命の彼氏であるランディーという飛行機乗りのオヤジとくっついてコロラドまでいってしまった。その後、彼女との通信はまったくないが、その驚異的な勝負運はいまだ例に出して語っている。今の時分うまい話を持ちかけてくるやつは注意して近づかないといけないとは思うが、うまい話を持ってきてくれた上で話も実際の儲けも人生最大、生活も大いにかわってばら色の生活という方もいるだろう。しかし、そのときはよくてもあとでとんでもないツケがまわってくるかもしれない。一本の電話からいま売れに売れている商品があるのだけど一口載らないかとの話が舞い込んだ。貯金、株、商売、とりあえず低迷しているので金が金を生むなんて調子のいい話よりも地道なことのほうが現状を壊すことはない。しかしながらいつも財布のお金しか使わない瀬良は財布の金を出資してみることにしたのだ、数ヶ月前も知合いに金を貸したばかりだったしそれも帰ってくる保証は無い。瀬良自身が生活する分の金銭的余裕は無いが将来の安全を金で帰るとも思えないので、余った金を貸したりすることにはあまり抵抗が無かった。確かに個人でも何らかの在庫を売りさばくことが容易な時代でもある、商品が手元にあればなんとかなるという算段もあった。しかしその心配も必要はなかった、話を持ちかけたやつが全部処理してくれた、つまり増えた金を受け取っただけだった。何度かそんな話があったが、そいつから音信が不通になってしまった。増えた金もどのぐらい生活に影響を与えてくれたのかもわからない、前と全く同じような生活しかしていない。ただ、うまい話のわくわくするような興奮もなくなってしまったし、使った時間も無駄になってしまったようだ。普通のやつが手を出す話ではなかったのだろうし、そいつは見るからに普通だった。今となってはその当時のことはなんとでもいえるのだが、今そいつがいないということは明らかな事実だ。
2004.12.28
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