1949年 5月23日 、英米仏の西側統治諸州にボンを首府とする 連邦共和国臨時政府 が発足( ホイス 大統領、 コンラート・アデナウアー 首相)、 10月7日 にソ連統治諸州にドイツ民主共和国( ピーク 大統領)が成立して、東西に二つの 共和国 が並び立つ事態となった。四カ国共同占領地だったベルリンも分断され、後には 1961年 に ベルリンの壁 建設が行われた。
西ドイツは 1955年 5月5日 に 主権 の完全な回復を宣言し、 ドイツ連邦軍 を編成して 再軍備 を行い、 北大西洋条約機構 (NATO)に加盟した。ただし大規模なソ連軍が駐留し続ける東ドイツを喉元に突きつけられたかたちの西ドイツは冷戦の最前線となったことから、西ドイツにも米英仏の軍がドイツ再統一の直後まで駐留し続けた。
1957年
1月1日
には住民投票でドイツ復帰を選んだ フランス保護領ザール
を ザールラント州
として併合した。
ボン ( Bonn )は、 ジーベンゲビルゲ山脈 の北部にある ライン川 沿いの ケルン の南約20 km に位置する、 ノルトライン=ヴェストファーレン州 に属する ドイツ連邦共和国 の(19番目に大きい) 都市 である。人口318,809人(2015年現在)。
分断時代の 1949年 から 1990年 まで 西ドイツ の 首都 であり、 ドイツ再統一 後も首都機能を分担する。
1288年
から 1803年
まで ケルン大司教
の在所であり、 1818年
に ボン大学
が設置された後は小さな文教都市という位置づけであった。 作曲家
ベートーヴェン
の生誕地・ シューマン
の終焉の地としても知られている。
ドイツ国 の首都であった ベルリン は、大戦後には 東ドイツ 内の 飛地 と化し、連合国軍の占領下でもある 西ベルリン が 西ドイツ の首都たることは事実上不可能であった。ボンが暫定首都に選ばれたのは、初代首相 コンラート・アデナウアー の意向が大きく影響を与えたとされる。アデナウアーら主要政治家は、将来東西ドイツが統一された暁にはベルリンが再び首都になるべきだと考えており、 フランクフルト・アム・マイン や ハンブルク といった大都市では、首都としての発展がいずれ恒久的な既成事実・既得権益として定着し、ベルリンへの遷都が困難になりかねないという恐れが予見された。そこで小規模な古くからの文教都市で、なおかつ地理的にも西ドイツの中央部に位置していたボンに白羽の矢が立った。
1969年
には バート・ゴーデスベルク
(Bad Godesberg)と合併している。この頃より、早期の東西ドイツ統一は期待できないとの認識が強まり、恒久的な首都機能の整備が行われるようになった。
ところで今時、旧・東GermanyをThemeにしても
ご拝読してくださる方って、いるのでしょうか
姉妹Blogのほうも、どうかよろしくお頼み申し上
げまぁす。
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