ひたすら本を読む少年の小説コミュニティ

2006.02.27
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世界は回る。

血が流れようが世界は回る。

人が死のうが世界は回る。

僕が悲しくても世界は回る。

貴方が悲しくても世界は回る。

雨が降っても雪が降っても風が吹いても。



この銀河系は時速何百キロというスピードで動いている。

終着点はブラックホール。

とても大きなブラックホール。

ブラックホールは球体。

脱出速度がもの凄くて光さえ脱出できない。

だから暗いんだ。

宇宙の構造は網の目状になっていて、80パーセントがダークマター。

ダークマターは暗黒物質。

では僕らの目はどういう経過を経て光と言うものを認識したのだろう。

眼球があるから、瞼を閉じても光を感じられるわけで、始めから眼球が無ければ光は感じられない。

もちろん、ニュートリノ等の透過性の高い光ならば何か感じられるかもしれないけれど、「見る」という機関では無に近い。

これらのことをふまえて考えられるのは、僕らは始めから眼球を持っていたのか、あるいは、以後誰かの意志によって眼球が突如として出現したか、ということ。

始めから、と言うのは生物が誕生した瞬間だ。

その時既に意志を持ち、眼球を欲していたのだとすれば、単細胞と言うのはどれだけ切れ者なのだろうか。

「誰かの意志」だとすれば、その「誰か」は誰だろう。

物質を組み合わせることができたって、それを機能として使うのはもの凄く難しい。

ぼくの考えとしては、後者だと思う。

だけれど、僕らを作ったのはやはり誰なのだろう。

眼球と言う一つの機能を持たせたのは誰なのだろう。

そこに景色があり、光があり、物があり、地面があり、空があり、雲があることを彼らはどのようにして知ったのだろう。



知ってから気付いたのか。

気付いてから知ったのか。



ややこしいことは抜きにして、これらは不思議。

そして、ほとんどが闇で覆われているこの宇宙で、光を生み出す、あるいはそれを認識する、と言うことは奇跡に近い。




存在するものは存在する。

存在しないものは存在しない。



何故存在しないものは存在しないのか。

存在するものは存在した瞬間、終わりを約束される。

無は永遠だ。

始まりのある永遠なんてものは無いんだよ。


だから昔の人は考えた。

循環説。

輪廻転生。

地動説。

全ては回っている。

この宇宙が膨張宇宙で、いつか終ることになってしまっても、永遠の流れの中にあるのなら永遠に存在する。

生と死。

善と悪。

楽と悲。

愛と哀。

相対的と絶対的。

普遍と特殊。

全てはぐるぐる回っている。

昨日と今日と明日も同じ。

去年も今年も来年も同じ。

変わっているのは人間だけ。

自然は回る。

世界は回る。

宇宙は回る。

時間は回る。




僕達は止まる。





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Last updated  2006.02.27 18:07:24
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