草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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草加の爺(じじ)

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2026年05月05日
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さては当家が尊崇の霊神にて御坐(おわし)ましけり。機感(こんき、凡夫の根機、よく神仏を感動

すること)最も相応している。宜しきに従いて(よい機会であるから)一紙の願書を奉らばや。と

ければ、疋壇妙玄が鎧の引き合わせから矢立の硯を取り出して、筆を控えてこれを書いた。

 その詞に曰く、敬白(うやまってもうす)、祈願の事、それおもんみるに八幡大菩薩は、聖代前列

の宗廟、源家中興の霊神である。本地(ほんち、仏・菩薩が衆生済度の為に仮の姿をとって現れの

に対してその真実身たる仏・菩薩を言う)内證(他の教示を待たずに自己の心証のよって宗教的な真

理を体得する事)の月が十万億土(極楽)の天に高く懸って、垂迹(すいじゃく、本地の仏が衆生済度

の為に神祇となって身を表す事)外融(げゆう、仏・菩薩が衆生済度の為に神通を現わして教え導く

事)の光、明らかに七千余座(座は祭神の数。照り輝いて、七千余の祭神を覆う)の上に冠たり。縁

に触れて化を分かつと言えども(仏縁によって徳化を区別するが)ついにいまだ非礼の奠(まつり)

享け給わず。慈(あわれみ)を垂れて生を利すると言えども、偏に正直の頭に宿ることを期(ご)し賜

う。

 偉(おおい)なるかなその徳たること、世をこぞって誠を尽くすゆえんであるよ。ここに承久以来

當棘(とうきょく、当家)累祖(るいそ、祖先代々)の家臣、平氏末裔の辺鄙をほしいままに四海の権

柄を執りて、横(よこ)しまに九代の猛威を振るう。

 あまつさえ今、聖主を西海の浪に遷して、貫頂(延暦寺の長、即ち大塔の宮)を南山(比叡山を北

山と言うのに対して高野山を言う。ここは高野山を目指して十津川を放浪された事)の雲に苦しま

しめて悪逆の甚だしき事は前代未聞。これは朝敵の最たるもの。臣たる道に命を致さざらんや。又

神敵の先であるよ。天たるの道は誅を下さないであろうか。

 尊氏はいやしくも彼の積悪を見て、いまだ匪躬(ひきゅう、私一身の遺恨)を顧みる遑なく、まさ

に魚肉の薄いのを(尊氏自らを卑下している言葉)以て偏に刀俎の利(とき)に当てる(貧弱な身を以

て威力有る北条氏と戦う)。義卒力を合わせ旅(たむろ、軍旅)を西南にはる。

 上将(上将軍、前軍の首将)は鳩の峰(石清水八幡宮のある男山)に軍立ちをして下臣(尊氏自身の

卑称)は篠村に軍する。共に瑞籬(みずかき)の影に在って同じく擁護(おうご)の懐に出る。函蓋(か

んがい、箱と蓋・ふた)相應ず(彼と是が相会して同一体に帰する事)。

 誅戮をどうして疑う必要があろうか。仰ぐ所は百王鎮護(百代の帝王をお守りくださる天照大御

神の御約束)の神約である。勇んで石馬(石で刻んだ馬。社頭の高麗犬の類)の汗に懸ける。憑無

所は累代帰依の家運である。奇を金鼠の嚙むに寄せる(唐の玄宗の時に、天竺の不空三蔵を尊崇し

て国師としたが、天宝中、西蕃が西涼府を囲んだ時に不空が示した奇瑞で、敵陣に金色の鼠があら

われて弓弩の弦を嚙み切ったこと)。

 神は正に義戦にくみして霊威を輝かし、徳風(とくふう、君子が徳を以て小人を靡かせること)

が風に加えて、敵を千里の外になびかし、神光は劒に代わって勝つことを一戦の中に得しめ給え。

丹精(たんせい、赤心、真心)は誠に有り。玄鑒(げんかん、神仏の照覧)誤ることなかれ。 敬白

(うやまいてもうす) 元弘三年五月七日 源朝臣高氏敬白 とぞ、読み上げたのだ。

 文章は玉を綴りて詞は明きらかに、理は濃やかであるので神も定めて受納し御坐(おわし)ますら

んと聞く人は皆信を凝らし、士卒は悉く頼みを懸け奉った。

 足利殿が自ら筆を執って判を据え賜う。上差しの鏑一筋を副えて宝殿に納められければ、舎弟の

直義(ただよし)朝臣を始めとして、吉良・石塔・仁木(にっき)・細川・今河・荒川・高(こう)・上

杉、以下相従う人々、我も我もと上矢を一つづつ獻りける間、その箭が社壇に充ち満ちて、塚の如

くに積みあがったのだ。

           奇瑞があり 尊氏の軍勢 強大となる

 夜が既に明けてしまったので、前陣は進んで後を待った。

 大将は大江山の峠を打ち越え給いける際に、山鳩が一番(つがい)飛び来りて白旗の上に扁に羽翻

(へんぼん、ひらひら)とした。

 これは八幡大菩薩が立ち翔けって守らせ給う験(しるし)である。この鳩が飛んで行く通りに向う

べし、と下知せられたので、旗差し(大将の旗を持つ騎馬兵)が馬を速めて鳩の跡を付いて行く程

に、この鳩は閑に飛んで、大内(だいだい、大内裏、皇居)の旧跡、神祇官(じんぎかん、大宝令で

定められた官庁。太政官の上に位し神祇の祭祀を掌り、諸国の官社を総管した)の前にある樗(お

うち)の木に止まったのだ。

 官軍はこの奇瑞に勇んで、内野(京都市上京区の西部。大内裏の跡)を指して馳せ向かう道すがら

敵が五騎、十騎と旗を捲き甲を脱いで降参した。

 足利殿は篠村をい出給いし時には、僅かに二万余騎有ったのが、右近馬場を過ぎた時にはその勢

五万余騎に及んでいた。

            六波羅攻め の事
           六波羅勢は 三手に分かれて 官軍を責める

 さるほどに六波羅では、六万余騎を三手に分け、一手をば神祇官の前に控えさせて、足利殿を防

がせられた。

 一手をば東寺に差し向けられ、赤松(次郎入道圓心)を防がせられた。

 一手をば伏見の上に向けて、千種(頭中将忠顯)殿が寄せられる竹田・伏見を支えられた。

 巳の刻(午前十時)の始めから大手搦手同時に軍が始まって、馬煙が南北に靡いて、鬨の声が天地

を響かせた。

          内野方面 の 合戦 設樂五郎左衛門 と
          斎藤玄基 との 一騎打ち
           大高重成 河野通遠 を討つ

 内野には陶山と河野とに宗徒の勇士二万騎を副えて向わされければ、官軍も左右(そう)なく駆け

入らず敵も容易くは懸け出でずに両軍が互いに支えて、ただ矢軍にぞ時を移したのだ。

 ここに官軍の中から、櫨匂い(はぜが紅葉した色。匂とは袖や草摺の上の方を濃くし、だんだん

薄くなるように縅・おどし・鎧の札・さねを紐や革で結びつける事 たもの)の鎧に薄紫の母衣

(ほろ、矢を防ぐために背負う具、布帛で作った嚢状のもの)を懸けた武者がただ一騎で敵の前に

馬を駆け据えて、高声に名乗ったのは、その身は人の数ではないので名を知る人もいないであろ

う。是は足利殿の御内で設楽(しだら)五郎左衛門と申す者である。六波羅殿の御内に我と思わん人

が有るならば懸け合わせて手柄の程を御覧ぜよ、と言うままに三尺五寸の太刀を抜いて、兜の真向

に差しかざし、誠に矢所も少なく馬を控えたのだった。





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最終更新日  2026年05月05日 11時03分17秒
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