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熊野に向われる 道行文 切目の王子の示現 戸津川に御到着 かくては南都辺の御隠れ家は暫くも適い難ければ、則、般若寺を御出でありて、熊野の方へと落ちさせ給う。 御供の衆には、光林坊玄尊・赤松律師則祐・木寺相模・岡本三河房・武蔵坊・村上彦四郎・片岡八郎・矢田彦七・平賀三郎・彼此以上の九人。 宮を始め奉りて、御供の者までもが皆柿の衣に笈をかけて、頭巾を眉まで責めて、その中の年長者を先達として作り立て、田舎山伏が熊野詣でをする體(てい)にぞ見せたのだ。 この君、元から龍楼鳳闕(りゅうろうほうけつ、王宮と宮門。皇居)の内に人とならせられたので、華軒香車(かけんこうしゃ、立派な車)の外を出でさせたまわざれば、長途の御歩行は定めて叶わせたまわじと兼ねて御供の人々は心苦しく思いけるが、案に相違して何時習わせ給いし御事ではないけれども、怪しげなる単皮(たび、皮製の足袋)・脚巾(はばき、脚絆)・草鞋(わらじ)を召して少しも草臥れたる御気色もなく、社々(やしろやしろ)の奉幣、宿々(やどやど)の御勤め怠りなさらないので、路次に行き合いたる道者(仏道修行者)も勤修(ごんじゅ、修行)を積んだ先達も見咎める事も無かった。 由良の湊をも渡せば、沖を漕ぐ舟の梶を絶え浦の濵木綿(はまゆう)幾重とも知らぬ浪路に鳴く千鳥、紀伊(き)の路の遠山目と少々(はるばると)、藤代の松の根を洗うようにかかる磯の浪、和歌(わか)・吹上(ふきあげ)を外(他所)に見て、月に磨ける(月の光に照らし出されて美しい)玉津島光も今はさらでだに、長汀曲浦(ちょうていきょくほ)の旅の路、心を砕く習いであうのに、雨を含める孤村の樹、夕べを送る遠寺の鐘、哀れを催す時しもあれ、切り目の王子(五体王子神社。熊野神社の末社の第一)に着いたのだ。 その夜は、叢祀(そうし、茂みの中にあるほこら)の露に御袖を片敷いて通夜(よもすがら)祈り申させ給うたのは、南無帰命頂礼三所権現・満山護法・十万の眷属・八万の金剛童子、垂迹和光の月明らかに、分段同居(ぶんだんどうご、人や畜などというように分断・区別ある世界で、かつ同居土・凡夫と聖者が同じく居住する世界。即ち、この衆生界、娑婆)の闇を照らせば、逆臣(げきしん)忽ちに滅んで、朝廷は再び輝く事を得させしめ給え。 傳え承る、両所権現(熊野の本宮と新宮)は伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)の應作(おうさ、諸仏・諸神・諸菩薩が様々に応現する作用)である。 我が君はその苗裔として、朝日が忽ちに浮雲の為に隠されて冥闇たり。あに、傷まざらんや。玄鑒(げんかん)空しきに似たり(神仏の御照覧が今はないかの如くだ)。 神もし神たらば、君はけだし君たらざらん。と、五体を大地に投じて一心に誠を致してぞ、祈り申させ給う。丹誠(たんぜい)無二の御勤め、感応がどうしてないだろうと、神慮も暗に計られた。 終夜(よもすがら)の礼拝に御窮屈があったので、御肘を曲げて枕として、しばらく御まどろみなされた御夢で、髷(びんずら)を結った童子が一人来りて、熊野三山の間は猶も人の心が不和であって大儀がなり難い。これより十津川の方にお渡りなさえて時が至るのをお待ち候え。 両所権現から案内者として付け参らせられ候えば、御道しるべを仕るべき候。と、申すと御覧ぜられた御夢は則ち醒めたのだ。 これは権現の御告げであると頼もしく思召されたので、未明に御悦びの御幣を捧げて、やがて十津河を尋ねて分け入らせ給いける。 その道の程、三十余里の間には絶えて人里も無かったので、或いは高尾の雲に枕をそばだて、苔の筵に袖を敷いて、或いは岩を漏れる水に渇を忍んで、くちたる橋に肝を消す。 山路にはもともと雨は無くて、空翠(くうすい、深山の木立の翠の間に立ち籠める山気)山気が湿り気をおび常に衣を潤す。 向上と見上げれば、萬仭の青壁は劔に削り、直下と見下ろせば千丈の碧潭を藍に染めている。 数日の間、このように険難を経させ給いて、御身もくたびれ果てなされて、流れる汗が水の如く御足は欠け損じて草鞋は皆血に染まっている。 御伴の人々も、その身は鉄石ではないので、皆飢え疲れ果ててはかばかしく歩く事も得ない。が、宮の御腰を押し、御手を引いて道の程十三日で十津河に着かせ給いける。 戸野兵衛 竹原八郎の 忠勤 宮をば、とある辻堂(路傍に建ててある仏堂)の内に据え奉りて、御伴の人々は在家(田舎家)に行きて、熊野参詣の山伏共が道に迷って来た由を言った所、在家の者共は哀れを垂れて、粟の飯、橡の粥を取り出だして、その飢えを相扶けたのだ。 宮にもこれらを進め参らせて、二三日は過ぎた。 これでは結局どうしたらよいのか分からなかったので、光林坊玄尊、とある在家の、これはさもあるべき人ならんと思しき所に行って、童部(わらんべ)がいたので家の主の名を問えば、これは竹原八郎入道殿の甥で戸野の兵衛殿と申す人の許であると言ったので、さてはこれこそは弓矢を取って去る者と聞き及ぶ者であるよ。 如何にもして、これを頼みにしようと思ったので、門の中に入って事の様を見聞くと、内に病者があると覚えて、哀れ、尊からん山伏が出現して欲しい物だ。祈らせ参らせんと、言う声がした。 玄尊はすはや、究土偏なしの境(究竟)の事こそあれと思いければ、声を高らかに挙げて、是は三重の瀧に七日打たれ、那智に千日籠って三十三か所の巡礼の為に、罷り出でたる山伏共、路を踏み迷ってこの里に出でて候、一夜の宿を貸し一日の飢えをも休めたまえ、と言ったりければ、内より怪しげなる下女が一人い出合い、これこそは、然るべき仏神の御計らいと覚え候。これの主の女房が物の怪に病(やま)せ給い候。祈って治療して下さり給え、とと申したので、玄尊は、我等は夫(ぶ、平の)山伏で候間、叶うまじ。あれに見え候辻堂に足を休めておられる先達こそは効験(こうげん、祈祷の効き目)第一の人にて候。この様を申すならば仔細は候わじ、わけなく祈って下さろう。 そう申すと、女は大いに喜んで、さらばその先達の御坊をこれへ入れ参らせ候え、と言って、悦び合えることは限りもなし。 玄尊は走り帰ってこの由を申しければ、宮を始め奉りてお供の人々も皆かの舘に入らせ給う。
2026年02月27日
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熊野に向われる 道行文 切目の王子の示現 戸津川に御到着 かくては南都辺の御隠れ家は暫くも適い難ければ、則、般若寺を御出でありて、熊野の方へと落ちさせ給う。 御供の衆には、光林坊玄尊・赤松律師則祐・木寺相模・岡本三河房・武蔵坊・村上彦四郎・片岡八郎・矢田彦七・平賀三郎・彼此以上の九人。 宮を始め奉りて、御供の者までもが皆柿の衣に笈をかけて、頭巾を眉まで責めて、その中の年長者を先達として作り立て、田舎山伏が熊野詣でをする體(てい)にぞ見せたのだ。 この君、元から龍楼鳳闕(りゅうろうほうけつ、王宮と宮門。皇居)の内に人とならせられたので、華軒香車(かけんこうしゃ、立派な車)の外を出でさせたまわざれば、長途の御歩行は定めて叶わせたまわじと兼ねて御供の人々は心苦しく思いけるが、案に相違して何時習わせ給いし御事ではないけれども、怪しげなる単皮(たび、皮製の足袋)・脚巾(はばき、脚絆)・草鞋(わらじ)を召して少しも草臥れたる御気色もなく、社々(やしろやしろ)の奉幣、宿々(やどやど)の御勤め怠りなさらないので、路次に行き合いたる道者(仏道修行者)も勤修(ごんじゅ、修行)を積んだ先達も見咎める事も無かった。 由良の湊をも渡せば、沖を漕ぐ舟の梶を絶え浦の濵木綿(はまゆう)幾重とも知らぬ浪路に鳴く千鳥、紀伊(き)の路の遠山目と少々(はるばると)、藤代の松の根を洗うようにかかる磯の浪、和歌(わか)・吹上(ふきあげ)を外(他所)に見て、月に磨ける(月の光に照らし出されて美しい)玉津島光も今はさらでだに、長汀曲浦(ちょうていきょくほ)の旅の路、心を砕く習いであうのに、雨を含める孤村の樹、夕べを送る遠寺の鐘、哀れを催す時しもあれ、切り目の王子(五体王子神社。熊野神社の末社の第一)に着いたのだ。 その夜は、叢祀(そうし、茂みの中にあるほこら)の露に御袖を片敷いて通夜(よもすがら)祈り申させ給うたのは、南無帰命頂礼三所権現・満山護法・十万の眷属・八万の金剛童子、垂迹和光の月明らかに、分段同居(ぶんだんどうご、人や畜などというように分断・区別ある世界で、かつ同居土・凡夫と聖者が同じく居住する世界。即ち、この衆生界、娑婆)の闇を照らせば、逆臣(げきしん)忽ちに滅んで、朝廷は再び輝く事を得させしめ給え。 傳え承る、両所権現(熊野の本宮と新宮)は伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)の應作(おうさ、諸仏・諸神・諸菩薩が様々に応現する作用)である。 我が君はその苗裔として、朝日が忽ちに浮雲の為に隠されて冥闇たり。あに、傷まざらんや。玄鑒(げんかん)空しきに似たり(神仏の御照覧が今はないかの如くだ)。 神もし神たらば、君はけだし君たらざらん。と、五体を大地に投じて一心に誠を致してぞ、祈り申させ給う。丹誠(たんぜい)無二の御勤め、感応がどうしてないだろうと、神慮も暗に計られた。 終夜(よもすがら)の礼拝に御窮屈があったので、御肘を曲げて枕として、しばらく御まどろみなされた御夢で、髷(びんずら)を結った童子が一人来りて、熊野三山の間は猶も人の心が不和であって大儀がなり難い。これより十津川の方にお渡りなさえて時が至るのをお待ち候え。 両所権現から案内者として付け参らせられ候えば、御道しるべを仕るべき候。と、申すと御覧ぜられた御夢は則ち醒めたのだ。 これは権現の御告げであると頼もしく思召されたので、未明に御悦びの御幣を捧げて、やがて十津河を尋ねて分け入らせ給いける。 その道の程、三十余里の間には絶えて人里も無かったので、或いは高尾の雲に枕をそばだて、苔の筵に袖を敷いて、或いは岩を漏れる水に渇を忍んで、くちたる橋に肝を消す。 山路にはもともと雨は無くて、空翠(くうすい、深山の木立の翠の間に立ち籠める山気)山気が湿り気をおび常に衣を潤す。 向上と見上げれば、萬仭の青壁は劔に削り、直下と見下ろせば千丈の碧潭を藍に染めている。 数日の間、このように険難を経させ給いて、御身もくたびれ果てなされて、流れる汗が水の如く御足は欠け損じて草鞋は皆血に染まっている。 御伴の人々も、その身は鉄石ではないので、皆飢え疲れ果ててはかばかしく歩く事も得ない。が、宮の御腰を押し、御手を引いて道の程十三日で十津河に着かせ給いける。 戸野兵衛 竹原八郎の 忠勤 宮をば、とある辻堂(路傍に建ててある仏堂)の内に据え奉りて、御伴の人々は在家(田舎家)に行きて、熊野参詣の山伏共が道に迷って来た由を言った所、在家の者共は哀れを垂れて、粟の飯、橡の粥を取り出だして、その飢えを相扶けたのだ。 宮にもこれらを進め参らせて、二三日は過ぎた。 これでは結局どうしたらよいのか分からなかったので、光林坊玄尊、とある在家の、これはさもあるべき人ならんと思しき所に行って、童部(わらんべ)がいたので家の主の名を問えば、これは竹原八郎入道殿の甥で戸野の兵衛殿と申す人の許であると言ったので、さてはこれこそは弓矢を取って去る者と聞き及ぶ者であるよ。 如何にもして、これを頼みにしようと思ったので、門の中に入って事の様を見聞くと、内に病者があると覚えて、哀れ、尊からん山伏が出現して欲しい物だ。祈らせ参らせんと、言う声がした。 玄尊はすはや、究土偏なしの境(究竟)の事こそあれと思いければ、声を高らかに挙げて、是は三重の瀧に七日打たれ、那智に千日籠って三十三か所の巡礼の為に、罷り出でたる山伏共、路を踏み迷ってこの里に出でて候、一夜の宿を貸し一日の飢えをも休めたまえ、と言ったりければ、内より怪しげなる下女が一人い出合い、これこそは、然るべき仏神の御計らいと覚え候。これの主の女房が物の怪に病(やま)せ給い候。祈って治療して下さり給え、とと申したので、玄尊は、我等は夫(ぶ、平の)山伏で候間、叶うまじ。あれに見え候辻堂に足を休めておられる先達こそは効験(こうげん、祈祷の効き目)第一の人にて候。この様を申すならば仔細は候わじ、わけなく祈って下さろう。 そう申すと、女は大いに喜んで、さらばその先達の御坊をこれへ入れ参らせ候え、と言って、悦び合えることは限りもなし。 玄尊は走り帰ってこの由を申しければ、宮を始め奉りてお供の人々も皆かの舘に入らせ給う。
2026年02月27日
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その費えは甚だ多い。 輿に乗せて路次を過ぎる日は、道を急ぐ行人も馬から下りてこれに跪き、農を勤める里民も夫に取られてこれを舁き、かくの如く賞玩が軽くなかったので、肉に飽き錦を着た奇犬が鎌倉中に充満して、四五千匹に及んだ。 月に十二度を犬合わせの日とて定められしかば、一族大名御内外様の人々、或いは堂上に坐を連ね、或いは庭前に膝を屈して見物する。 時に両陣の犬共を一二百疋(ひき)づつ放して合わせたりければ、入り違い、追い合わせて、上になり下になって、噛み合う声が天にまで響き、地を動かす。 心なきひとはこれを見て、あら面白や、ただ戦いに雌雄を決する事ならずと思い、智ある人はこれを聞いて、あな忌々しや、偏に郊原(こうげん、のはら)に尸(かばね)を爭うに似ていると悲しむ。 見聞の准える所、耳目が異なると言えども、(今見たり聞いたりすることは、事実上の人間の闘争死亡とは違うが、見聞の似たものを例に取って考えれば、悉く人間の闘争と死亡とを前兆するものであって、呆れた行為である。 時政 参籠 榎嶋の事 北条氏が九代を保った理由 時は既にさんずいの堯季(ぎょうき、人情の薄い末世)に及んで、武家が天下の権を執ること源平両家の間に落ちて度々に及んでいる。 然れども、天道は必ず盈(みちる)を缺く故に、或いは一代にして滅び、或いは一世をも待たずに失せてしまう。 今、相模入道の一家は天下を保つことは既に九代に及んでいる。この事には故がある。 江島霊験譚 三鱗形の家紋の由来 昔、鎌倉草創の始めに、北條四郎時政が榎嶋に参籠して子孫の繁昌を祈願した。三七日(二十一日目」に当たる夜に、赤い袴に柳裏(柳色・青くて白ばんだ色の裏地を付けた衣)を着た女房で、端厳美麗なるが時政の前に来て、告げて言うには、汝の前生は箱根法師(箱根権現に仕える僧)であった。六十六部の法華経を書写して、全国六十六か国の霊地に奉納したる善根により、再びこの地に生まれる事を得た。 されば子孫は長く日本の主となって栄花に誇るであろう。但し、その挙動に違う所が有れば七代を過ぎる事はないだろう。吾の言う所に不審があるならば、国々に納めた霊地を見よ、と言い捨てて帰り給う。その姿を見れば、あれほどに厳めしくあった女房が忽ちに伏し長二十丈ばかりの大蛇となって海中に入ったのだ。 その跡を見ると、大きな鱗を三っつ残していた。時政は所願が成就したと悦んで、則その鱗を取って旗の文(もん)に押したのだ。今の三鱗形の文がこれである。 その後、弁財天の御示現に任せて国々の霊地に人を遣わして法華経奉納の所を見させたところ、俗名の時政を法師の名に替えて奉納筒の上に大法師時政と書いてあるのが不思議である。 されば、相模入道が七代を過ぎて天下を保っているのも江嶋の弁財天が御利生(ごりしょう)、又は過去の善因(善根と同じ)に感じられたものあるよ。 今の高塒禅門は既に七代を過ぎて、九代に及んでいる。されば滅びる時が到来して、かかる不思議の振る舞いをもなされるのかと覚えける。 大塔宮 熊野落ちの事 按察法眼好専 宮を般若寺に攻める 経箱に隠れ 危難を遁れさせらる 大塔二品親王は笠置の城の安否を聞き召されん為に暫く南都の般若寺に忍びで御座有りけるが、笠置の城は既に落ちて、主上は囚われさせ給いぬと聞こえしかば、虎の尾を踏む恐れ(危険を冒す譬え)が御身の上に迫り、天地は広いとは言え御身を隠すべきところはない。 日月は明らかではあるが長夜(冥途の闇)に迷っている心地がして、昼は野原の草に隠れ、露に臥して鶉の床(すなわち、叢・くさむら)に御涙を爭う。 夜は、孤村(人里離れた村)の辻に佇み、人を咎める里の犬に御心を悩まされ、何処であっても御心が安かるべき所がないので、暫しの間だけでも安心できる場所があればよいと思し召されている所に、一乗院(奈良の興福寺の内にある)の候人(そうろうびち、門迹家に仕えた僧形妻帯の侍者)按察法眼好専(こうせん)がどのようにして聞いたのか、五百余騎を率っして未明に般若寺にぞ寄せたりける。 折節、宮についていた人が一人もなかったので、一防ぎ防いで落ちさせ給うべき様もない上に、隙間もなく兵が寺内に既に打ち入っているので、紛れて御出でなさるべき方法もない。 さらばよし自害をしようと思召して、すでに推し膚を脱ぎなされたが、事が叶わなかった期(ご)に臨んで、腹を切ることは非常に簡単だ。 もしやと思し召し返して、仏殿の方を御覧なさると人が読みかけて置いた大般若経の唐櫃が三つある。二つの櫃はいまだ蓋を開けず、一つは御経を半分ほど取り出して、蓋をもしていない。この蓋を開いた櫃の中に御身を縮めて臥せさせたまいて、その上にお経を引きかずいて隠形(いんぎょう、身を隠す呪文。摩利支天経にある、真言秘密修法の一つとして行う)の呪(じゅ)を御心の中で唱えてぞ坐(おわ)しける。もしも探し出せれたならば、直ぐに突き立てようと氷のような刀を抜いて御腹にさし当てて、兵がこの中であると言う一言をお待ちなさる御心の中は、推量するのも猶浅かるべし。 さる程に兵は仏殿に乱れ入って、仏壇の下、天上の上まで余すところもなく探したが、余りに求め兼ねて、この様な物が怪しいぞと、あの大般若経の櫃を開いて見よとて、蓋をした櫃を二つ開いて御経を取り出し、底を翻して見たのだが、いない。 蓋を開いてある櫃は見るまでもないとて兵が皆寺中を出で去った。 宮は不思議の御命を継がせ給い、夢に道を行く心地がして、猶も櫃の中におわしましけるが、もし兵が再び立ち帰り委しく探す事も有るかも知れないと、御思案あって、前に兵が探した櫃に移り変わっておわしましけり。 案の如く兵共が仏殿に立ち帰り、前には蓋が開いていたのを見なかったが、覚束ないぞ。そう言ってお経を皆引き移して見たのだが、からからと打ち笑って、大般若経の唐櫃の中をよくよく探したれば、大塔の宮はいらせらないで大唐の玄奘三蔵がおわしたぞ、と戯れければ皆一同に笑って、門外へと出てしまった。 これは偏に、摩利支天の冥應(みょうおう、神仏が祈願に応じて守護すること)、又は十六善神の擁護(おうご)に依る命であると、信心肝に銘じ、感涙はお袖を潤したのだ。
2026年02月25日
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就中(なかんずく)、武家がかくの如くに許容の上は、賢息二人の流罪もいかでか赦免の沙汰がないであろうか。 それ、伯夷・叔斉は飢えて何の益があったか。 許由・巣父(きょゆう送付)は逃れて用いるに足らず。 そもそも身を隠して長く来葉の一跡を絶つ。朝に仕えて前祖の無窮(ぶきゅう)を遠く輝かさんと、是非得失はいずれの所にかあらん。鳥獣と群(ぐん)を同じくするのは孔子の取らざる所なりと、資明興は理を尽くして責められければ、宣房卿は顔色誠に屈服して、罪を以て生(しょう)を棄てる時は、則ち古賢は夕べに改めてこの勧めに違う。辱を忍んで、苟も全うする時は、則ち詩人なんの顔(かんばせ)あぅてこの謗りを犯すであろうか。と、魏の曹子建が詩を献じた表(議論や祝辞などの意味を書き表して君主に上げる書)に書いたのも理(ことわり)とこそ存ずるとて、遂に参仕(さんじ)の勅答を申されたのだ。 中堂の新常灯が消える事 山鳩が新常灯を消し、鼬(いたち)に食い殺された その頃、都鄙(とひ)の間に希代(きたい)の不思議共が多かった。 山門の根本中堂の内陣に山鳩が一番(ひとつがい)飛び来って、新常灯の油錠(あぶらつき、油皿)の中に飛び込んで騒ぎ立てている間に、燈明が忽ちに消えてしまった。 この山鳩は堂中が暗いので行き方に迷って、仏壇の上で翼を垂れていた所、承塵(しょうじん、鴨居の上または敷居の下に横に長く渡した木)の方から、その色は朱をさしたる如き鼬が一匹走り出てこの鳩をふたつながら食い殺して姿を消した。 そもそもこの常灯と申すのは、先帝が山門にお成りなされた際に、古に桓武天皇が自ら掲げさせなされた常灯に準えて、御手づから百ニ十筋の燈心を束ねて御油錠(おんあぶらつき)に油を入れて、ご自身で掻き立てなされた燈明であったのだ。 これは偏(ひとえ)に皇統の無窮を輝かさん為の御願、兼ねては六趣の群類の溟暗を照らす、慧光法燈の明らかなのに思し召し準えて、始め置かれてた常燈であるから、未来永劫に消える事はない筈なのに山鳩が飛来して打ち消したのは不思議であるよ。それを鼬が食い殺したのも不思議である。 相模入道 田楽を弄び 併せて 闘犬の事 高塒 新座・本座の田楽を愛玩する またこの頃に洛中で田楽を弄ぶ事が盛んであり、貴賤がこぞって着した(執着した、熱中した)。 相模入道がこの事を聞き及び、新座・本座(田楽の家元の名。京の白川田楽を本座、その他の流派を新座と言う)の田楽を呼び下して、日夜朝暮に弄ぶ事は他事なかった。 入興の余りに、宗との大名連に田楽法師を一人づつ預けて、装束を飾らせたのだ。これは誰がし殿の田楽、彼は誰がし殿の田楽、なんどと言って金銀宝玉を逞しくして、陵羅錦繡を飾った。 宴に臨んで、一曲を奏すれば、相模入道を始めとして一族大名、吾劣らじと垂直(したたれ)・大口(大口袴)を解(と)いで投げ出す。 これを集めて積むに、山の如し。その費え(費用)は幾千万とも知らず。 ヨウレボシの怪異、儒者仲範の批判 ある夜に一獻があったのだが、相模入道は数杯を傾けて、酔いに和(か)して(なごんで)立って舞う事がやや久しい。若輩の興を勧める舞でもてなし、又狂者の言葉を巧みにする戯れにもあらず。 四十有余の古入道、酔狂のあまりに舞を蒙のであるから、風情が有るとも覚えなかったのだが、何処から来たとも知れない新座・本座の田楽共が十四人、忽然として座席に列してぞ舞歌いける。その興は甚だ尋常を越えていた。 暫くしてから拍子(元は楽器の類で、木で作り、笏のような形であった)を替えて歌う声を聞けば、天王寺のやよヨウレボシとぞ、拍子ける。 或る官女がこの声を聴いて、余りの面白さに障子(ふすま、唐紙)を開けてこれを見ると、新座・本座の田楽共と見えた者は一人(いちにん)も人間ではなかった。或るものは嘴が鉤(かぎ)のようで鳶のようなるものがいる。或る者は身に翼があって、その形は山伏のようなものもある。 異類・異形の化け物共が姿を人に変じたものである。官女はこれを見て、余りに不思議に思ったので、人を走らせて城入道(じょうにゅうどう、秋田城介安達時頼。宗顯の子。高塒の外祖父)に知らせた。 入道は取る物も取り敢えずに太刀を取って、その酒宴の席に臨んだ。中門を荒らかに歩みける足音を聞いて化け物はかき消すように姿を消した。相模入道は前後も知らずに酔い臥している。 燈火を掲げさせて遊宴の座席を見ると、誠に天狗が集まったと覚えて、踏み汚した座敷の上には禽獣の足跡が多い。 城入道は暫く虚空を睨んで立っていたが、敢えて眼(まなこ)を遮る物もいない。 やや久しくして相模入道が驚き目覚めて、起きたのだが、立心偏に罔然(ぼうぜん)として更に知る所なし。 後日に、南家の儒者・刑部少輔仲範(中の利)がこのことを伝え聞いて、天下が正に乱れようとする時に妖霊星と言う悪星(あくしょう)が下って、災いを為すと言う。 聖徳太子がみずから日本一州(全国)の未来記を留められた。されば、あの妖怪が天王寺の妖霊星と謳ったのが怪しい。 如何様、天王寺辺から天下の動乱が出てきて、国家が敗亡すると覚える。哀れ、国主が得を治め、武家が徳を施して妖を消す謀を致されよかし。と、言ったのだが果たして、思い知られる世になってしまった。 かの仲範、実に未然の凶を鑑みた博覧の程こそ有難けれ。 高塒 闘犬に 沈溺する 相模入道はこのような妖怪にも驚かず、益々、奇物を愛することは止む時がない。 或る時に、庭前に犬どもが集まって嚙み合うのを見て、この禅門(仏門に入った男。禅尼に対する。此処は相模入道高時を指す)面白いものと見て、これを愛することは骨髄に入った。 即ち、諸国に相触れて、或いは正税((しょうぜい、税金、年貢)・官物(かんぶつ、官の所有物として募って、犬を尋ねて、或いは権門・高家に仰いでこれを求めける間に、国々の守護・国司、所々の一族大名が十ッ匹、二十匹と飼い立てて、鎌倉に引き参らす。 これを飼うのに魚鳥を以ってして、これを維持するのに金銀を以てする。その費えは甚だ多かった。
2026年02月23日
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日が暮れれば芦岸の煙に船を繋ぎ、明ければ松江(すんごう)の風に帆を揚げて、浪路に日を重ねれば都を御出でありて後二十六日と申すのに、御船は隠岐の国に着いたのだ。 佐々木隠岐の判官貞清は府の嶋と言う所に、黒木の御所を作って皇居とした。 玉扆(ぎょくい、王座)に咫尺して召し使われる人には、六条少将忠顯、頭大夫行房、女房には三位(さんみ)殿の御局だけである。 昔の玉楼金殿に引き換えて、憂き節茂き竹椽(たるき、屋根を支える為に家の棟から軒に渡す材)、涙隙ない松の垣、一夜も隔てる程も無くて耐え忍ぶ御心地もなく、鶏人(けいじん、中国周の制度で、鶏冠型の帽子をかぶり時刻を知らせる人)が暁を唱える声、警護の武士が番(宿直者が定刻に時々氏名を奏する声)を催す声ばかりが御枕の上に近いので夜のおとどに入らせられても露まどろみなさらない。 萩戸(はぎのと、清涼殿の室の名で夜の御殿の北。障子に萩が描いてあった)を開ける夜明けを待って、朝まつりごとはなけれども巫山(ぶざん、男女の情交が細やかな事。楚の懐王が夢で巫山・四川省にある)の神女と契った故事)雲雨が御夢に入らせられる時にも、まことに暁ごとの御勤め、北辰(ほくしん、北極星のことだが、ここは天御中主・あめのみなかぬしの神を指す)の御拝も怠らず、今年は如何なる年であるからか、百官が罪なくして愁いの泪(なんだ)を配所の月に滴(しただ)らせ、一人(いちじん、天子)位を易えて宸襟を他郷の風に悩まし給うのであろうか。 天地開闢以来このかた、かかる不思議を聞かず。されば天にかかる日月も誰の為に明らかなることを恥じざらん。 心なき草木もこれを悲しんで、花開く事を忘れるであろう。 巻 第 五 持明院殿 御即位の事 光巌天皇の御即位 当今奉公の 人々 元弘二年三月、二十二日に、後伏見院の第一御子(おんこ)、御年十九にして天子の位に就き給う。御母は竹内左大臣公衡(きんひら)の御娘、後には廣義門院と申せし御事である。 同(同じ木)年十月二十八日に、河原の御祓いがあって十一月十三日に、大嘗会を遂げ行われた。 関白は鷹司の左大臣冬教(ふゆのり)公、別當は日野中納言資名(すけな)の卿にてぞおわしける。 いつしか當今奉公の人々は皆一時に望みを達して、門前に市をなし、堂上は花の如し。 中にも、梶井二品親王は天台座主ならせ給いて、大塔・梨本・の両門跡を併せて、御管領(ごかんりょう、支配領有)有りければ、御門徒の大衆が群集して御拝堂(座主が登山して中堂の本尊に礼拝する事)の儀式は厳重である。 しかのみならず、御室の二品親王法守、仁和寺の御門迹にお移りあって、東寺一流の法水を湛えて北極(天子)万歳の聖運を祈り給う。 これ皆、後伏見院の御子、今上皇帝の御連枝(御兄弟)である。 宣房卿 二君に奉公 の事 光巌天皇、日野資明を使いとして 万里小路宣房を召される 宣房の返答と参仕 萬里小路(までのこうじ)大納言宣房卿は元来(もとより)前朝旧労(古くから功労のあるお気に入りの臣)であられる上に、子息の藤房・季房(すえふさ)が笠置の城で生け捕られ、遠流されてしまったので、父の宣房卿も罪科深い人であるべきなのを、賢才の聞こえが有ると言うので関東は別儀を以てその罪を宥め、当今に召し仕わせらるべき由を奏し申したのだ。 これに依って、日野中納言資明卿を勅使としてこの旨を仰せ下されければ、宣房卿は勅使に対して申されたのは、臣は不肖の身であるとは言えども、多年奉公の労を以て君の恩寵を蒙り、官禄が共に進んで、あまつさえ政道輔佐の名を汚す。 君に仕えるの礼、その罪あるに値する。厳顔を犯して、道を以て諫め言偏の爭う。三度諫して入れられざる時は身を奉じて以て退く、匡正の忠があって阿順(あじゅん、おもねり随う)の従はない。これが良臣の節である。 もしも諫めるべきを見て諫めざるは、これを尸位(しい、尸は空しく位にあってその実がない事。禄盗人)と言う、退くべきを見て退かざるをこれを懐寵(かいちょう、君寵を頼む意、官を辞するべきであるのに、その地位に恋々たること)と言う。 懐寵と尸位とは国の奸人(かんじん、悪人)であると、言った。 君に今不義の行いがあったならば、武臣の為に辱め賜えり。これはあらかじめ知らざる所によって諫言を献ぜずと言えども。世人あに罪なきことを許せるや。 なかんずく、長子二人が遠流の罪に処せられ、我は既に七旬の齢(七十歳)に傾いている。後栄(後日の繁栄)は誰の為に期(ご)せん。前非を何でまた恥じないでいようか。二君の朝(ちょう)に仕えて、辱を衰労の後に抱かんよりは、伯夷(はくい)の行いを学んで、飢えを首陽の下に忍ぶのにはしかない。と、涙を流して宣いければ、資明卿は感涙を抑えかねて暫くは言をも宣わず、ややあってから宣いけるには、忠臣は必ずしも主を選ばず。仕えて治まるべきかを見るだけである。と、言った。 されば、百里奚は再び秦の穆公に仕えて、永く覇業を致さしめ、管夷吾は翻って斉の桓公を佐(たす)けて、九(ここのたび)諸侯を朝せしむ。 主以て鉤(かご)を射るの罪を言う事ない。世皆皮を鬻(ひさ)ぐ恥を如何ともせずと、言っている。
2026年02月19日
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忠臣が諫めを納れるけれども、呉王はかつて用い給わざりしかば、余りに諫め兼ねて、ままよ、身を殺して危うきを助けようと思ったのか、伍子胥は又或時に、ただ今新たに砥(と)から出た(研ぎ立ての)青蛇(剣の名)を持ってまいりたり。 抜いて呉王の前に拉(とりひし)いで申したのは、臣はこの剣を研ぐこと邪を退け、敵を払うためであります。つらつらと国が傾くこうとするその基を尋ねると、みな西施から出ている。これに過ぎる敵はあるべからず。願わくは西施の首を刎ねて社稷の危うきを助けん、と。 そう言って、牙を噛んで立ったのだが、忠言は耳に逆らう時に、君は非を犯さずと言う事がないので、呉王は大いに怒って伍子胥を誅しようとした。 伍子胥は敢えてこれを悲しまず、爭い諫めて節に死するのは、これは臣下の則(のり)である。我は正に越の兵の手で死ぬよりはむしろ君王の手で死ぬことは恨みの中の喜びです。但し、君王臣の忠諌に怒り吾に死を賜うこと、これは既に君を棄てたのでありまする。 君は越王の為に亡ぼされて、刑剹の罪に伏さんことは三年を過ぎないでありましょう。願わんに臣の両眼をくり抜いて呉の東門に掛けられ、その後に首を刎ねられよ。一双の眼(まなこ)がまだ涸れない前(さき)に、君は勾践に滅ぼされて死刑に赴くのを見て、一笑を快くしよう。と、申したところが、呉王は益々忿って、即ち伍子胥を誅せられ、その両眼を穿って呉の東門の幡(はたほこ)の上に掛けられた。 范蠡 呉王を撃って これを殺す この後では、君が悪を積めども臣は口をつぐみ、万人は目を以てした(目配せして非難した)。 范蠡はこれを聞いて、時は既に到来した。と悦び、自ら二十万騎(ぎ)の兵を率っして、呉国に押し寄せたのだ。 呉王の夫差は折節晋国が呉に背いたと聞いて、晋国に向った隙であっあので、防ぐ兵は一人も無かった。 范蠡は先ず西施を取り返して、越王の宮に帰し入れ奉り、姑蘇臺を焼き払った。 斉・楚の両国(りょうごく)も越王に志を通じさせたので、三十万騎(ぎ)を出して范蠡に力を戮(あわ)せた。 呉王はこれを聞いて、先ず晋国との軍をさしおいて、呉国に引き返し、越に戦いを挑もうとすると前には呉・越・斉・楚の兵が雲霞の如くに待ち懸けた。 後ろには又、晋国の兵が勝ちに乗じて追いかけた。呉王は大敵に前後を挟まれて、逃れるべき方もなくて死を軽んじて戦う事三日三夜、范蠡は新手を入れ替えて息をつがせずに攻めたので、呉の兵は僅かに三百騎になってしまった。 呉王は自らあい当たる事、三十二か度、夜半に囲みを解いて六十七騎を従えて姑蘇山に取り上り、越王に使者を立てて曰く、君王、昔、会稽山に苦しみし時に、臣夫差がこれを助けた。願うのは、吾は今より後は越の下臣となって君王の玉足偏の沚(ぎょくし、御足)を戴きましょう。君がもしも会稽山の恩を忘れないのであれば、臣の今日の死を救い給え、と、言葉を卑しくし、礼を厚くして降参することを請われたのだ。 越王はこれを聞いて、古の自分の思いに今人(こんじん)の悲しみはさこそと思い知りなされているので、呉王を殺すに忍びずにその死を救おうと思われた。 范蠡はこれを聞いて、越王の御前に参りて面を犯し(面前も憚らずに)、申したのは、木偏に可(か)を伐るのにその則(のり)は遠からず(木偏の可は斧の柄、木を伐るのに現在もちいている斧の柄が手本である、則ち手本は身近にある)。会稽の古は天が越を呉に与えたり。 然るを越王は取ることなくして忽ちにこの害に遇えり。今却って天は越に呉を与えたり。取ることがなければ越は又この様な害に遇うであろう。 君臣共に肺肝を砕いて呉を謀る事二十一年、一朝にして棄てる事あに悲しからざらんや。君が非を行って時に顧みざるは臣の忠である。と、言って、呉王の使者がまだ帰らない前(さき)に范蠡みずからが攻め皷を打って兵を勧め、遂に呉王を生け捕って軍門の前に引き出した。 呉王は既に面縛(めんばく、手を背で縛られて、面を前に向ける事)せられて、呉の東門を過ぎる時に、忠臣伍子胥の諫めに依って、首を刎ねられるときに籏鉾の上に掛けた一双の眼(まなこ)h三年(みとせ)まで涸れずにあったのだが、その眦(まなじり)が明らかに開いて笑う気色であるのを呉王はさすがにこれに相まみえるのが恥ずかしく思われたのか、袖を顔に押し当てて首を低(た)れて過ぎ給う。数万の兵はこれを見て、涙を流さない者はいなかった。 即ち呉王を典獄の官に下されて、会稽山の麓で遂に首を刎ね奉る。 古来より俗の諺に曰く、会稽の恥を雪(きよ)めるとはこの事を言うのであろう。 范蠡は 万戸侯たることを辞して、五湖に遁(のが)れる これより越王は呉を併合しただけではなくて、晋・楚・斉・秦を平(たいら」げて、覇者(はしゃ、徳に依らずに武力で政治をとる諸侯の頭)となったので、その功を賞して范蠡を満戸侯(ばんここう、一万の戸数の在る土地を有する大名)封(ほう)じようとしたが、范蠡はかつてその禄を承けずに、大名の下には久しく居るべからず、功なり名を遂げるは身退くのは天の道である、と言って遂に姓名を替えて、陶朱公(とうしゅこう)と呼ばわりて五湖(ごこ、江蘇・浙江の二省にまたがる太湖)に身を隠し、世を遁れてぞ居たりける。 釣りをして芦花の岸に宿すれば、半蓑(はんさ)に雪を止めて(蘆の花が雪の如く蓑の半面を彩り、歌って楓葉の陰を過ぎれば、孤舟に秋を載せたり。一蓬の月、満頃(ばんきょう)の天、紅塵の外に遊び、白頭の翁となったのだ。 高徳(たけのり)はこの事を思い准えて、一句の詩に千般(せんぱん)の思いを述べ、密かに叡聞に達したのだ。 天皇 隠岐の国に 御到着、配所における御動静 太平記著者の 批評 されほどに先帝は、出雲の三尾(みを)の湊に十余日間御逗留なされてから、順風になったので、舟人共が纜(ともづな)を解いて、御艤(みふなよそい)して、兵船三百余艘を前後左右に漕ぎ並べて、萬里の雲に寄り添って進む。 時に滄海沈沈として(青海原が静かに暮れてゆき)日は西北の浪に没して、雲山しんにゅうの超々(雲や山が遥かで)として月が東南の天に出ると漁舟の帰るのが見えて、一灯が柳岸に幽かである。
2026年02月18日
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句践の帰国 西施を呉王に獻ず 西施と句践との別離 越王は既に車の轅を廻らして、越の国に帰り給う所に、蛙がその数を知らざるほどに車の前に跳び来った。句践はこれを見て、これは勇士を得て素懐(兼ねてからの目的)を達する瑞相であるとして、車から降りてこれを拝し給う。 かくて越の国に帰って、住來故宮(すみよしこきゅう)を見給うと、いつしか三年で荒れ果て、梟(ふくろう)が松桂の枝に鳴き、狐は蘭菊の叢に隠れて住む。 払う人が無くて、閑庭(静かな庭)に落葉が満ちていて蕭蕭(しょうしょう、淋しい様)たり。 越王は死を免れて、帰り給いぬと聞いて、范蠡は王子の王喜と石輿を王宮に入れ奉った。 越王の后に西施と言う美人がいた。容色が世に勝れて、嬋娟(せんけん、美好貌、美しいこと)類が無かったので、越王は殊に寵愛が甚だしくて、暫くも傍を離し給わざる。 越王が呉二囚われた間はその難を遁れる為に身を側によけて隠居しておられたが、越王が帰りなされたと聞いて、即ち後宮に返り参りなされた。 年の三年は待ちわびて、堪えぬ思いに沈みなされておられたので、髪も梳らずに膚の色艶も衰えた御姿は、この上もなく気品が高く、梨花一枝が春雨に綻びた如くで、譬えようもなく美しい。 公卿(こうけい)・大夫・文武百司(はくし)がここ、彼処から馳せ参じて集まった。 軽軒(けいけん、軽くて迅速な車)紫陌塵(しはくのちり)に馳せ、冠珮(かんぱい、冠や玉の帯び物)丹土に犀(たんさい、丹朱で地を塗った階上の庭、宮庭を言う)の月にさざめいて、堂上堂下再び開く花の如くである。 こうした折に、呉国から使者が着た。越王が驚いて范蠡に事の仔細を問わしめた所、使者が答えて曰く、我が君呉王大王淫を好み、色を重んじて、美人を尋ねて給う事は天下に編まねし。 しかれども、未だ西施が如き顔色を見ず。越王は会稽山の囲みを出る時に、一言の約があった。早くかの西施を呉の後宮にかしづき入れ奉り、后妃の位に備えようとの使いである、 越王はこれを御聞きなされて、我呉王の夫差の陣に下って、恥を忘れて石琳を嘗めて命を助かったことは、全く国を保ち身を栄えさせよう為ではなかった。ただ西施と偕老の契りを結ぼうとの思いであった。 生前に一度別れて、死して後に再会を期(ご)すならば萬乗の国(天子の国)を保っても、何に成ろうか。さればたとえ呉越の會盟が破れて、再び我呉王の夫差の為に擒(とりこ)になったとしても、西施を他国に送ることはあるべからずと、宣いける。 范蠡が涙を流して申した事には、誠に君が展轉(てんてん、伏しまろび物を思う事)の思いを計るに臣は悲しまざるに非ずと言えども、今西施を惜しみ給えば、呉越の軍は再び敗れて、呉王は又兵を発するでありましょう。 そうなれば、越の国を呉に合わされるだけではなく、西施をも奪われるでありましょう。社稷をも傾けられるでありましょう。臣がつらつらと計るに、呉王が淫を好み色に迷う事は甚だしい。 西施が呉の後宮に入る程であれば、呉王は彼女に迷って政治を失う事は疑いない事でありましょう。 国は費え(衰弱する)民が離反するに及んだ際に、兵を挙げて呉を攻めるならば、勝つことを立ちどころに得るでありましょう。 これは子孫が万歳に及んで夫人(天子の妾、夫は扶けるで良人を助ける人の義)連理の御契(おんちぎり)は久しかるべき道となるでありましょうと、一度は泣き、一度は諫めて、理を尽くして申しければ、越王は理に折れて西施を呉国に送られたのだ。 西施は小鹿の角の束の間も別れてあるべき物かはと、思う仲を割けられて、未だ幼(いとき)ない太子王喜と石輿(おうせきよ)を言い知らず思い置きて、習わない旅に出で成されたので、別れを慕う涙さえしばしの程も止め兼ねて、袂が乾く隙もない。 越王はまた、これが最後の別れになるだろうと、堪えぬ思いに臥し沈んで、其方の空を遥々と詠め遣りなされると、遅々たる暮山の雲は益々涙を誘って、雨の如くに流れ落ち、空しい床に一人寝て夢でもせめては相逢いたいと枕をそばだてて臥しなされると、添う甲斐もない俤に仕方も無く歎きなされるのもげに理(ことわり)である。 呉王は西施の色に迷い 国が乱れる 呉子胥の 忠死 かの西施と申すのは天下第一の美人である。装いを為して一度微笑めば百(もも)の媚は君の眼(まなこ)を迷わせ、次第に宮中の地上には花がないのかと疑いだす。美しく艶のある姿を隠してちらりと見ると、千態のあでやかな姿が人の心を蕩かして本心を失わせ、忽ちに雲間に月を失うかと怪しまれる。 されば一度宮中に入り、君の傍らに侍るようになると呉王の心は浮かれて、夜は夜もすがら淫樂をのみ嗜み、世の政(まつりごと)をお聞きなさらず、昼は尽日遊宴だけを事として、国の危ういのも顧みずに金殿雲を差しはさんで、四辺百里の間、山河を枕の間に見下ろして、西施が宴する夢の中に興を催そうとなさる。 輦路(れんろ、天子の通る道)に花がない春の日には麝(じゃ、麝と言う獣の腹部に塊状のものがあって香気を貯える)臍(せい)を埋めて履(くつ)を匂わし、行宮(天子が都の外にいる時の居所」に月の無い夏の夜には、蛍火(けいか)を集めて燭(ともしび)に易えた。 淫乱は日を重ね、更に止む時がなかった。上が荒(須佐)み下が廃れる。 佞臣はおもねって諫めず、呉王は万事を酔って忘れたが如し。 呉子胥がこれを見て諫めて呉王に申し上げた事には、君は見ないのでしょうか、殷の紂王が妲妃(だっき)に迷い世を乱し、周の幽王は褒似(ほうじ)を愛して国を傾けた事を。君今、西施を淫し給う事はこれらに過ぎておられる。国の傾敗(けいはい、衰え敗れること)は遠くにはありません。願わくは、君、これを止め給え。と、巌顔(げんがん、厳格な顔)を侵して諫め申したのだが、呉王は敢えてお聞きにならない。 或る時に、又呉王が西施の為に宴を催おそうと群臣を召して、南殿の花に酔う事を勧めている所に伍子胥が威儀を正しくして参ったのだが、さしも玉を敷き、金をちりばめた瑶階(ようかい、美しい階段」を上るとと言うので、その裾を高く掲げたのはまるで水を渡る時の如くである。 その様子が怪しいので問うと、伍子胥が答えて申したのは、この姑蘇臺は越王によって滅ぼされて草深く、露深い地となることは遠くにはない。臣がもしも命を長らえてそれまでいたならば、すんで来た昔の跡だと言って尋ねて見る際に、さこそは袖から余る荊棘(けいきょく、茨)の露もさんずいの襄々(じょうじょう、露があまねく置く様)として深いだろうと行く末の秋を想像して身を習わそうと裳裾を掲げているのだと、申した。
2026年02月17日
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臣、平生将軍と交わりを結ぶ事、膠漆(こうしつ、膠と漆、友情が厚いこと事に譬える)よりも堅い。生前の芳恩はただこの事の為にあり。 将軍早くこの事を、呉王に奏して、臣の胸中の安否を存命の裏に知らしめ給え。と、一度は怒り、一度は歎き、言葉を尽くして申しければ、太宰喜否は顔色誠に解けて、事以て難じず、我必ず越王の罪をば申し宥めるであろう。とて、やがて呉王の陣へと参った。 太宰喜と否は呉王の玉座に近づき、事の仔細を奏したところ、呉王は大いに怒って、そもそも呉と越とが国を爭い、兵をあげる事は今日だけの事ではないぞよ。然るに、句践運が極まって呉の虜となった。これは天が予に与えたものではないか。汝は是を知りながら句践の命をいた。と、喜ばぬ人もなかった。 越王は既に降旗を建てられたので、会稽の囲みを解いて呉の兵は呉に帰り、越の兵は越に帰った、 句践 姑蘇城に 禁獄される、范蠡 魚書を送る 句践は即ち、太子王喜に石與をば大夫種に付けて本国に帰し遣わして、わが身は白馬素車(白い馬の白木の車、一切の飾りがない、人を弔い、叉神に祈り罪の赦しを乞う時などに用いる)に乗って、璽糸偏の授(天子の印とそれを帯びる組紐)を懸けて、自ら呉の下臣と称して呉の軍門に下り給う。 そうではあるが、呉王はそれでも心赦しは無かったのであろう、君子は刑人には近づかないと言って句践に面を見せ給わず、あまつさえ句践を天獄の官(役人)に預けて、一日に行く事は一駅駆けさせて呉の姑蘇城(呉の都城、姑蘇山の側に夫差の父閾盧が三百丈の高台を築かせて姑蘇台と言う)に入らせた。 その有様を見る人は、涙が懸からない袖はない。 日を経て姑蘇城にお着きなされたので、即座に木偏の丑械(手かせ足かせ)を入れて、土の牢に入れ奉る。 夜明け、日暮共に月日の光を見なさらないので、一生を溟暗の中に向って歳月の遷り易わりをも知り給わねば泪が浮かぶ床の上、さこそは露も深かったであろう。 さる程に范蠡は、越の国にあって、この事を聞くにつけても恨みは骨髄に達して、忍び難く、哀れ如何なることをしてでも越王の命を助け、本国に帰らしめたい、と諸共に謀を廻らして会稽山の恥を雪(きよ)めようと、肺肝を砕いて思ったので、身を疲れさせて形を替え、竹冠に責(あじか、竹・葦などで編んだ籠、土・草・野菜などを入れて運搬する)に魚(うお)を入れて自ら是を担い、魚を売る商人の真似をして、呉国に行ったのだ。 姑蘇城の辺に安らい、句践がいらっしゃる所を尋ねた所、ある人が委しく教え知らせてくれた。范蠡は嬉しく思って、かの獄の辺(ほとり)に言った所、禁門の警護は隙が無くて一行の書を魚の腹に入れて獄の中へぞ投げ入れた。 句践は怪しく思われて、魚の腹を開いて御覧なされると、 西伯囚羊の下に久里 重耳走翟 皆以為王覇 莫死許敵(殷の紂王が崇侯虎の讒により西伯・周の文王を美里で捕らえたが、西伯の臣が美女・奇物等を献じたので西伯は許され、遂に王業を為した。故に、君よ、死を敵に許しなさるな)と、書かれている。 筆の勢い、文章の体はまがうべきも無く范蠡の仕業と見給いければ、彼はまだ憂き世に長らえて、我がために肺肝を尽くしていると、その志を哀れとも、叉頼もしいとも覚えたので、一日片時も生きるのが憂しとかこたれていたわが身であったが、命が却って惜しいと思われたのだった。 句践は 石琳(せきりん、腎臓、又は膀胱に砂石が生ずる病)を嘗め 国に帰ることを許された かかるところに、呉王の夫差が俄かに石琳という病を受けて、心身がとこしなえに悩乱して、巫覡(ぶげき、神に仕え、舞楽を奏して神おろしを行う人。男を覡・おかんなぎ、女を巫・めかんなぎと言う)が祈ったが共に験がなかった。医師が治療したが治らない。 露命(儚い命)が既に危うく見えた時に、他国から名医が来りて申しけるには、 御病気は実に重いのですが、医師の術が及ばないわけではありません。石琳の味を嘗めて、五味の味を知らせる人が有れば容易く療治を奉るべしとぞ、申しける。 さらば、誰かこの石琳を嘗めて、その味わいを知らせる人が有れば容易く療治奉るべしと、問えば左右の近臣が相顧みて、これを嘗める者は更になかった。 句践はこれを伝え聞いて、泪を抑えながら宣わく、我は会稽の囲みに遇った際に罰せられるべきなのを、今に命を助け置かれて天下の赦しを待つ事、ひとえに君王の慈彗の下に心の厚恩である。いま我これを以て報じなければいつの日を期(ご)そうか。と言って、潜に是を取りて嘗め、その味わいを医師に伝えられた。 医師は味わいを聞いて治療を加え、呉王の病は忽ちに平癒した。 呉王は大いに喜んで、人に心が有ってわが命を助けた。我にどうしてこれに謝する心がないだろうか。越王を牢から出しただけではなく、あまつさえ越の国を返し与えて、本国に返り去るべしとぞ宣下された。 ここに呉王の臣・伍子胥と申す者、呉王を諫めて申しけるは、天が与えたるを取らざるは却ってその咎を得る、と言った。 この時に、越の地を取らずに句践を返し遣わされた事は、千里の野辺に虎を放つが如し。禍は近くにあるべしと申しけるが、呉王はこれを御聞きなされずに、遂に句践を本国に帰されたのだった。
2026年02月13日
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頃は二月上旬の事なので、余寒がまだ激しくて、河水は氷に連なっている。 兵は手が凍えて弓が引けない。馬は雪に泥(なづ)んで懸け引きも自由ではない。 されども越王は責鼓(せきこ、敵に攻めかかる合図に鳴らす皷)を打って兵を前にと進ませた。 越の兵は我先にと矕(くつばみ、馬の口輪)を並べて駆け入ったのだ。 呉国の兵は兼ねてより敵を難所に誘(おび)き入れて、中に取り込めて討とうと議していた事なので、わざと一軍(ひといくさ)もせずに夫椒縣(ふしょうけん)の陣を引き退いて会稽山に引きこもった。 越の兵は勝ちに乗じて、逃げるのを追撃すること三十余里、四隊の陣を一陣に合わせて、左右を顧みずに馬の息が切れる程に、思い思いに追いかけたのだ。 日が既に昏なんとするに、呉兵の二十万騎が思う図に敵を難所におびき入れて、四方の山から打ち出でて越王の句践を中に取り込めて、人も漏らさないと責め戦う。 越の兵は今朝の軍に遠駈けをして人馬共に疲れた上に、無勢である。呉の大勢に囲まれて、一所に打ち寄って控えたのだ。 進んで前なる敵にかからんとすれば、敵は険阻に支えて鏃(やじり)を調えて待ち懸けている。 引き返して、後ろにいる敵を払おうとすると敵は大勢で越兵は疲労した。進退がここに谷(きわ)まって敗亡は既に極まった。 されども越王句践は堅(かたき)を破り、利(時)を摧(くだ)くことは項王(こうおう)の勢いを呑み(楚王項羽の蓋世の気を一飲みにする程の勢いで)にする程に気力に溢れ、范會(はんかい、漢の高祖の勇臣)の勇にも過ぎたので、大勢の中に駈け行って十文字に懸け破り、巴の字に追い廻らした。 一所に合って三つ所に別れ、四方を払って八面に当たる。傾刻(けいこく、暫時の間)に変化して百度戦うと言えども、越王は遂に打ち負けて、七万余騎が討たれてしまった。 句践は堪えかねて会稽山に打ち上り、越の兵を数えたところが打ち遺された兵は僅かに三万余騎である。それも半ばは手を負い、悉く箭は尽きて、鉾先は折れている。 勝負を呉越に伺って、いまだどちらにも味方しない隣国の諸侯は多くが呉王の方に馳せ加わりければ、呉の兵はますます数を増やして三十万騎、会稽山の四面を囲む事は稲麻竹葦(とうまちくい、大勢が群がり寄せる形容)如し。 越王は帷幕の内に入り、兵を集めて宣いけるは、我は運命が既に尽きて、今この囲みに遇っている。これは全く軍の咎ではない。天が我を亡ぼしたのだ。そうであるから我は明日、士と共に敵の囲みを出て、呉王の陣に懸け入り、尸(かばね)を軍門に晒し、恨みを再生(再びこの世に生まれる事)に報ずる覚悟である。と言い、越の重器(宝物)を集めて悉く焼き捨てようとした。又、王喜に石輿(おうせきよ)とて今年八歳になり給う最愛の太子は越王に随って同じくこの陣に座(おわし)けるを呼び寄せ奉りて、汝は未だ幼稚ではあるので、わが死に遅れて敵に捕らわれ、憂き目に遭う事も心憂くあるだろう。 もし又我が敵に捕らわれて、我が汝より先にたつならば、生前の思いは忍び難い。如かず、汝を先立てて心安く思い切り、明日の戦で討ち死にして九泉の苔の下、三途の露の底までも父子の恩愛を捨てまいと思うのだ。 と言い、左の袖で涙をぬぐい、右の手に剣を引っ提げて、太子に自害を勧め賜った時に、越王の左将軍に大夫種と言う者がいた。 越王の御前に進み出て申したのは、生を全くして命を待つ(自然の死を待つ)ことは遠くして難し。死を軽くして節に随う事は近くして易し(死を軽んじて義務を守ることは卑近で容易でる)。君暫く越の重器を焼棄て、太子を殺す事を止め給え。 臣は不敏ではるが、呉王を欺いて君王の死を救い、本国に帰して再び大軍を起こし、この恥を濯がんと思う。今この山を囲んで一陣を張る呉の上将軍の太宰喜と否(だざいひ)は私の古くからの友人でありまする。久しく相馴れて彼の心を察してみたのですが、これは真に血気の勇者であえると言えども、飽くまでその心に欲があって後の禍を顧みず、又、かの呉王夫差の行跡(こうせき、行動、振舞)を語るのを聞いた所、智は浅くして、謀(はかりごと)は短く、色に淫して道に暗い。 君臣共に欺くに安い所であるよ。そもそも今越の軍は利がなくて、呉の為に囲こまれてしまったことも君が范蠡の諫めを用い給わざりし故ではありませんか。願わくば君王、臣の尺寸の謀を許されて、敗軍数万の死を救い給え、と諫め申しければ、越王は理に折れて、敗軍の将は再び謀(はか)らずと言った。今から後の事は凡てを大夫種に任せるべしと宣いて、重器を焼かれることを御やめになった。そして太子の自害をも止められた。 大夫種は則ち君の命を請けて、兜を脱ぎ旗を巻いて、会稽山から馳せ下り、越王は勢いが尽きて呉の軍門に降る、と呼ばわりければ呉の兵三十萬騎は皆勝鬨の声を挙げて万歳を唱えた。 大夫種は則呉の轅門(えんもん、軍門、陣営の門)に入って、君王の倍臣(ばいしん、陪の当て字で臣の臣)越句践の従者・小臣の種が謹んで呉の上将軍の下執事に属(しょく)す(つき従う、服従する)と言って膝行頓首して(膝で這って歩き、首を地に着ける)太宰喜と否(ひ)の前に平服した。 太宰喜と否は床の上に座して帷幕を挙げさせて大夫種に謁(えっ)した。 大夫種は敢えて平視せず、面を低(た)れ涙を流して申しける。寡君(かくん、私の主君、徳が少ない意、謙遜して言う)句践は運が極まり、勢いが尽きて呉の兵に囲まれてしまいました。よって今小臣種をして、越王長く呉王の臣となり一畝(ぽ、田地の面積の単位。古くは六尺四方を歩と言い、百歩を畝と言った。僅かばかりの地の民を一畝の民と言う)の民とならん事を請(こ)わしむ。願わくは先日の罪を許され、今日の死を助け給え。 将軍がもし句践の死を救いなさるならば越の国を呉王に献じて、湯沐地(とうもくち、沐浴の料に備える地、領地)となし、その重器を将軍に奉り、美人西施(せいし)を洒掃(せいそう、拭き掃除)の為の妾に致し、一日の歡娯の備えるでありましょう。 もしもそれ、望む所を叶えないで句践を罰するのであれば、越の重機を焼却して、士卒の心を一つにして呉王の堅陣に懸け入り軍門に屍を止める覚悟です。
2026年02月12日
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警固の武士共、朝(あした)にこれを見付けて、何事をか如何なる者が書いたのであろうか、とて読みかねて、則ち上聞(じょうぶん)に達したのだ。 主上はやがて詩の意味を御悟りなされて龍願殊に御快く笑わせたまえども、武士共は敢えてその来歴を知らず思い咎める事もなかった。 詩の来歴 呉越両国の爭い そもそもこの詩の心は、昔異朝に呉越と言って並んだ二つの国があった。この二つの国の諸侯皆王道を行わず、覇業を務めとしていたので、呉は越を伐(う)って取ろうとし、越は呉を亡ぼして併合しようとした。 このように相争う事が累年に及んだ。呉越が互いに勝負を易(か)えたので、親の敵となり子の仇となって共に天を戴くことを恥じた。 越王句践 范蠡の諌を聞かずに 呉国を撃つ 周の季(すえ)の世に当たって、呉国の主をば呉王夫差(ふさ)と言い、越国の主を越王句践と申された。 或時にこの句践が范蠡と言う大臣を召されて宣いけるには、呉はこれ父祖の敵である。我いまだこれを撃たないで徒に年を送っている事、嘲りを天下の人から受けているだけではなくて、かねては父祖の尸(かばね、屍)を九泉(きゅうせん、墓場)の苔の下に辱めている恨みが有る。 しかれば我今国の兵(つわもの)を召し集めて、自らが呉国に打ち越えて呉王の夫差を亡ぼし、父祖の恨みを散ぜんと思う。汝は暫くこの国に留まって社稷(しゃしょく、社は土地の神、稷は穀物の神、君主が居城を建てる時にこの二神を王宮の右に祭り、宗廟を左に祭る。転じて宗廟または国家の意味に用いる)を守るべしと宣いける。 范蠡が諫めて申したのは、臣が密かに事の仔細を計りけるに、今の越の力を以って呉を亡ぼそうとするのは非常に難しいことでありましょう。その故は、まず両国の兵を数えると呉は二十万、越は僅かに十万騎でありまする。 誠に小は以って大に敵しないでありましょう。これが呉が越を亡ぼし難いひとつであります。次には、時を以って計るに春夏は陽の時で(萬物が発生の時で)忠賞を行い、秋冬は陰の時で、刑罰を専らにする。 時は今、春の始めであり、これは征伐を行う時ではありません。これが呉を亡ぼし難い理由の二つ目です。次に、賢人の帰する所はすなわちその国の強さでありまする。臣が聞く所では、呉王夫差の臣下に伍子胥(ごししょ)と言う者がおります。智が深くて人を懐け、慮(おもんぱか)り遠くして主を諫める。彼が呉国にいる間は呉国を亡ぼす事は難しく、これが理由の三つ目でありまする。麒麟(きりん、中国で聖人が出現する前に姿を現すと言う想像上の動物)は角に肉が有って猛き形を現さず。潜龍は三冬(さんとう、冬の三か月、孟冬・陰暦十月、仲冬・陰暦十一月、季冬・陰暦十二月)に蟄(ちっ、隠れる)して一陽来復(いちようらいふく、陰暦十一月。冬至の日を言うがここでは冬が去り春が来る義)の天を待つ。 君が呉越を合わせられ、中国に臨んで南面(天子の位について)にして孤称(孤とは徳がないことで、諸侯が臣下に対する自称。帝王となる意)しようと言うのであれば、暫くは兵を伏せて、武を隠し、時を待ち給うべきでありましょう、と申した所が、その時に越王が大いに怒って宣いける。 礼記(らいき、儒教の最も基本的な教典である経書のひとつで、周礼・しゅらい儀礼・ぎらいとあわせて三礼・さんらいと言う)に父の讎(あだ、敵)とは共に天を戴かずと言っている。我は既に壮年に及んでいる。が、呉を亡ぼさずにいる。共に日月の光を戴くのは人が辱める所ではないだろうか。 これを以て兵を集める所に、汝は三つの不可を挙げて我を止める事、その義一つも道に叶わず。先ず兵の多少を数えて戦いを致すべからずんば、越は誠に呉に対しがたい。 しかれども、軍の勝負は必ずしも勢の多少には依らない。ただ時の運に依る。又は将の謀に依るあろう。されば呉と越が戦う事が度々に及び、雌雄は度毎に易(か)わっている。これは汝が皆知る所である。今更にどうして越の小勢を以って呉の大敵に戦う事は叶わないと我を諫めるのであるか。汝の武略が足りない所の一つである。次に、時節を以って軍の勝負を計るのであれば、天下の人は皆時を知っているぞ。誰が軍に勝たないだろうか。 もし春夏が陽の時で、罰を行わないというのであれば、殷の湯王(とうおう)が桀(けつ)を討ったのは春である。周の武王が紂(ちゅう)を討ったのも春だ。周の武王が紂を討ったのも春である。されば天の時は地の利に如かず。地の利は人の和に如かずと言っている。 しかるに汝は今、征伐を行う時では無いと我を諫めている。これは汝に知慮の淺い所の二、次に、呉国に伍子胥なる者が有る間は、呉を亡ぼす事は叶わないと言うのは、我遂に父祖の敵を討って恨みを泉下に報ずることはあるべからず。 ただ徒に伍子胥が死ぬことを待っていれば死生に命あり、又は老小前後する。伍子胥と我といずれを先とするか。この理を弁えずに、我は征伐を止めるべきであるか。これが汝の愚の三である。 そもそも我、多日(たじつ)に及んで兵を召す事は定めて呉国にも聞こえているであろう。事が遅滞して却って呉王に寄せられるならば、悔いた所で益が有る筈はない。先んずればすなわち人を制し、遅れる時には人に制せられる、と言う。事は既に決している、しばらくも止むべからず。 と言って、越王は十一月二月の上旬に句践自らが十万余騎の兵を率いて、呉国へと寄せられた。 呉王の夫差はこれを聞いて、小敵をば欺くべからず。とて、自ら二十萬騎の兵を率して呉と越の境の夫木偏の升県(ふしょうけん)と言う所へと馳せ向かい、後ろに会稽山を当て、前には大河を隔てて陣を取った。 わざと敵を計る為に三万余騎を出して、十七万騎の兵を後ろの山蔭に深く隠して置いたのだ。 越王句践は 会稽山に囲まれて 呉王に下る さるほどに越王は夫木偏の升県に打ち望んで呉の兵を見た所、その勢は僅かに二三萬騎には過ぎないと思われて、所々に馬を控えている。 呉王がこれを見て思ったのは、相手に似ずに小勢である。と侮って十万余騎の兵を同時に馬を川水に打ち入らせて、馬筏(いかだ)を組んで打ち渡した。
2026年02月10日
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中宮 御歎きの事 中宮 六波羅の御所に 行啓 天皇との御対面 その御和歌 三月七日、既に先帝は隠岐国に遷され給うと聞こえければ、中宮(禧子)は夜に紛れて六波羅の御所に行啓ならせ給う。中門に御車を差し寄せたれば、主上が出御なされて御車の簾を掲げられた。 君は中宮を都に留め置き奉りて、旅泊の波、長汀の月に足偏の令足偏お倂(さすらい)給わんずる行く末の事を思召し連ね、中宮は又主上を遠外にはるばると想像(おもいやり)奉りて、何の頼みと言ってない、明けぬ長夜の心が迷って長襟(ながいものおもい)になるだろうと共に語りつくさせ給ったので、秋の夜の千夜(地よ夜に準えるとも、なお言葉が残って夜が明けるであろうから、御心の中の憂き程は、その言の葉も及ばないので、なかなか言い出でなさる一節もない。 ただ御泪にのみかきくれて、つれなく見えた有明月も傾くほどになってしまった。夜が既に開けようとするので、中宮は御車を廻らして還御なされたのだが、御泪の中に、 このうえの 思ひはあらじ つれなさの 命をされば いつを限りぞ とばかり聞こえて、臥し沈ませ給いながら、帰り車の別れ路に廻り逢う世の憑(たの)みない、御心の中こそ悲しけれ。 先帝 遷幸の事 讃岐国への 御出発 明ければ三月七日、千葉介貞胤(さだたね)、小山五郎左衛門、佐々木佐渡判官入道道誉等、五百余騎で路次を警固し仕りて、先帝を隠岐国に遷し奉る。 供奉の人とては、一条頭大夫(とうだいぶ)行房、六条少将忠顯、御假借(介錯の当て字、お世話する人)は三位殿御局ばかり。 その外は皆、甲冑を鎧(よろい)て弓箭を帯した武士共、前後左右に打ち囲み奉りて、七条通りを西に、東の洞院通りを南に下って、御車をきしませれば、京中の貴賤男女が小路に立ち並んで、正しく一天の主を下として流し奉る事の浅ましさよ。武家の運命も今に尽きるだろうよ。とぞ、憚る所なく言う声が巷に満ちて、ただ赤子が母を慕うが如くに鳴き悲しみけらば、聞くに哀れを催して警固の武士も皆鎧の袖を濡らしたのだ。 道中における御感懐 見尾の湊に御到着 桜井の関を過ぎさせ給いける時に、八幡を伏し拝み、御輿を舁き据えさせて、二度(ふたたび)帝都に還幸の事をぞ御祈念有りけり。 八幡大菩薩と申すのは、應神天皇(仲哀天皇の皇子)が應化(おうげ)百王鎮護の御誓いが新であるので、天子行在の外までも定めて擁護(おうご)の御眦(まなじり)をぞ廻らすらんと頼もしくこそ思召す。 湊川を過ぎさせなさる時に、福原の京を御覧ぜなされても、平相国清盛が四海を掌に握って、平安京をこの卑湿の地に遷したので、幾程も無く滅んだのも、ひとえに上を犯さんとせし奢りの末、果たして天の為に罰せられたのであるよ。と、思し召し慰める端とはなりにける。 印南野(いなの)を御覧じて、須磨の浦を過ぎさせ給えば、昔に源氏の大将が朧月夜に名を立ててこの裏に流され、三年の秋を送ったのだが、波はただここ元に立ち寄る心地がして、涙が落ちるとも覚えないのに、枕は浮くばかりになりにけりと、旅寝の秋を悲しんだのも理なりと思召さる。 明石の浦の朝霧に遠くなり行く淡路島、寄り来る浪も高砂の、尾上の松に吹く嵐、迹に幾重の山坂を杉坂越えて美作(みまさか)や、久米の佐羅山さらさらに今はあるべき時ではないのに、雲間の山に雪見えて、遥かに遠い峯がある。 御警固の武士を召して、山の名をお尋ねあるに、 これは伯耆の大山(第千)と申す山で御座います。と、申されければ暫く御輿を留めさせなされて、内證甚深の法施(ほうせ、仏に法文を献唱sること。心中に深く悟り深く信じ奉ったの意)を奉らせ給う。 或る時は、鶏唱抹過茅店月、或る時は馬蹄蹈破板橋霜(鶏の暁を告げる声で起き、田舎家に照る月光を踏んで通り過ぎ馬の蹄で板橋に置く霜を力強く踏んで行って)、航路に日を極めたので都を御出でなされて十三日と言うのに、出雲の見尾の湊に着かせ給う。 ここで御船を艤(ふなよそい)して、渡海の順風をぞ待たれける。 備後三郎高徳(たかのり)が事 付 呉越軍の事 高徳の計画ならず 院庄において櫻樹を削って詩を題し志を述べる その頃、備前の国に児島備後三郎高徳と言う者がいた。 主上が笠置にござありし時に味方に参じて義兵をあげたが、事をいまだ成さぬ先に笠置も落とされ、楠も自害したと聞こえたので、力を失って黙(裳だ)したのだが、主上が隠岐国に遷されさせ給うと聞いて、二心のない一族共を集めて、評定したのは、志士仁人は生を求めて、以て仁を害することなく。身を殺して仁をなす、と言った。 されば昔、衛の懿公が北狄の為に殺されてありしを見て、その臣に弘演と言う者がこれを見るに忍びずに自ら腹をかき切って、懿公の肝を己の胸の中に収めて、先君の恩を死後に報じてから失せたのだった。 義を見てせざるは勇なきなり。いざや臨幸の路次(ろし)に参り会い、君を奪い取り奉りてから大軍を起こし、たとえ屍(かばね)を戦場に晒すとも、名をば子孫に伝えよう、と申しければ、心有る一族共は皆この義に同じた。 さらば路次の難所に相待って、その隙を伺うべし。とて、備前と播磨との境にある舟坂山の嶺に隠れ臥して、今か今かと待ち設けていた。 臨幸が余りに遅かったので、人を走らせてこれを見に遣った所、警護の武士は山陽道を経ずに、播磨の今宿(いまじゅく)から山陰道にかかり臨幸を為し奉りしかば、高徳の支度が相違したのだ。 さらば美作(みまさか)の杉坂こそ究竟(くっきょう、最上の)の深山である。 これにて待ち奉らんとて三石(みついし)の山から筋違いに、道もない山の雲を凌いで、杉坂に着いた所で主上は早くも院の庄に入らせ給いぬと申しける間、力なくこれより散々になってしまったが、せめてもこの所存を上聞に達したと思っている間に、微服潜行(卑しい服装をして、忍んでいく)して時分を伺いけるに、しかるべき隙もなくて主上が御座有る宿の庭に大いなる桜の木があるのを押し削って、大文字で一句の詩をぞ書きつけたのだ。 天莫空句践、時非無范蠡。(天は姑蘇城に幽囚された越王句践のような囚われの後醍醐天皇を空しく殺しなされてはいけない。時に越王を助け参らせて会稽の恥を雪(そそ)いだ范蠡・はんれいのような忠臣がいないわけでもない)
2026年02月09日
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一宮 並びに 妙法院二品(にほん)親王 の御事 尊良親王 土佐に遷させられる 三月八日一宮中務卿親王をば、佐々木大夫判官時信を路次(ろし、途中)の御警固にて、土佐の畑に流し奉る。 今まではたとい秋刑(しゅうけい、厳しい刑罰、秋が草木を枯らす如く厳正な意)の下に死して龍門原上(りゅうもんげんじょう、墓地の苔の下に)の苔に埋められても都の辺りでともかくもせめてならばやと、天を仰ぎ地に伏して、御祈念ありけり。しかし、昨日既に先帝をも流し奉ると警固の武士共が申し合っているのを御聞き召されて、御祈念の御頼みも無くいと心細く思召す所に武士共が数多く参りて、中門に御輿を差し寄せたので、抑え兼ねたる御涙の中に、 せきとむる 柵(しがらみ)ぞなき 泪川(涙が覇) いかに流るる 憂き身なるらん 尊澄法親王、讃岐に遷させらる 尊良親王と 和歌の御贈答 同(おなじき)日、妙法院二品親王をも長井左近大夫将監高廣を御警固にて、讃岐の国に流し奉る。 昨日は主上御遷幸の由を承り、今日は一の宮が流されさせ給いぬと聞し召されて御心を傷(いた)ましめ給いける。憂き名も替わらぬ同じ道に、しかも別かれて赴き給いぬる御心の中こそ悲しけれ。 初めの内こそは別々(べちべち)にて御下り在りけるが、十一日の暮程には、一の宮も妙法院も諸共に兵庫に着かせ給いたれば、一の宮はこれより御舟に召して土佐の畑に御下り為される由を聞こえければ御文を参らせ給いけるに、 今までは おなじ宿りを 尋ね来て 跡なき波と 聞くぞ悲しき 一の宮の御返事、 明日よりは 跡亡き波に 迷うとも 通う心よ 知るべともなれ 配所への ご到着 配所は同じ四国と聞いているので、せめては同じ国にてあって欲しい。 事問い(物を言う)風の便(たより)にも、憂きを慰める一筋とも念じて、思召しけるも叶わ出一之宮はたゆたう波に漕がれ行く。身を浮舟に任せつつ、土佐の畑へ赴かせ給えば、有井三郎左衛門尉の舘の傍らに一室を構えて置き奉る。 かの畑と申すのは、南は山の側で高く、北は海辺でさがっている。松の下露扉(とぼそ)にかかって、いとど御袖の泪を添え、磯打つ波の音が枕の下に聞こえて、夢でなければ故郷に通えない、その夢路さえも遠くなってしまった。 妙法院は此処から引き別かれて、備前の国までは陸地を経て、児嶋の吹上から舟を召して、讃岐の宅間に着かせ給う。 ここも海辺に近い所であるから、毒霧(どくむ、体に害のある霧)御身を侵して瘴海(しょうかい、熱病をもたらす海の気)の気が凄まじく淋しい。 漁歌牧笛(ぎょかぼくてき、漁夫の歌う歌や、牛飼いの吹く笛)の夕べの声、嶺雲海月の秋の色凡て耳に触れて、眼(まなこ)を遮ることの、哀れを催し、御涙を添える媒(なかだち)とならないと言う事ないのだった。 御醍醐天皇を 隠岐国に 遷し奉らんとす 先皇(せんこう、後醍醐天皇)を承久の例に任せ、隠岐の国に流し参らすべしと、定まりける。 臣として君をないがしろにし奉ることは、関東もさすがに恐れある事と思いけん、この為に後伏見院の第一の御子(おこ)を御位に就け奉りて、先帝の御遷幸の宣旨(せんじ、公文書の一つ、勅宣を伝宣する事で、詔勅が表向きであるのに対して内輪の者)をなさるべきとぞ計らい申しける。 天下の事においては、今は重祚(ちょうそ、再び位に就く事)の望みがあるべくもないので、遷幸以前に先帝をば法皇に成したてまつるべしとて、香染め(丁子を濃く煎じ出してその汁で染めたもの。薄紅に黄を帯びたもの)の着物を武家から調進したのだが、御法体の御事はしばらくは御あるまじき由を仰せられて、袞龍(こんりゅう、天子の礼服)を御脱ぎなさらない。 毎朝の御行水をめされて、仮の皇居を清めて、石灰の壇(清涼殿の東廂の南遇にあって石灰を固めて築いた壇。天皇が毎朝皇大神宮・内宮と豊受大神・外宮を遥拝する所)の壇に准えて、太神宮の御拝があったので、天には二つの日はないけれど、国に二人の王がおわします心地がして、武家も持て扱いてぞ(処置に苦しむ意、当惑して、持てあまして)覚えたのだ。 これも叡慮に憑(たのみ)思召すことありける故である。 俊明極(しゅんみんき) 参内の事 俊明極との御法談 天皇に対する俊明極の予言 去りぬる元亨元年の春頃に、元朝から俊明極と言う得智の(知徳の高い)禅師が来朝した。 天子が直接に異朝の僧と相看のことは前々(さきさき)には更になかったが、この君は禅の宗旨に傾(かたむ)きなされて、諸方参徳の(諸方面で徳智の僧の話を聞く事)御志が御有りであられたので御法談の為にこの禅師を禁中にぞ召されたのだ。 事の儀式が余りに微々(びび、佐々やか)であるのは吾が朝の恥であるとて、三公公卿も出仕の装いを正して、蘭臺(らんだい、弁官の唐名)金馬(きんば、朝廷に仕える学士)も守禦の備えを厳しくした。 夜半に蝋燭を立てて禅師が参内された。 主上は紫宸殿に出御なされて、玉座に席を進めなされた。禅師は三拝の礼を終えて、香を拈じて萬歳(ばんせい)を祝した。 時に、勅問があって曰く、山に架け橋を懸けて、海を航海して得々(とくとく)として参られた。和尚は何を以て済度利生いつかと。 禅師が答えて言う、仏法緊要の所を以て度生(どせい)せん。 重ねて曰く、正當恁麼の時は如何(まさにこれはどうであるか)、と。 答て曰く、天上に星あり、皆北に拱(きょう、手を組み合わせて北に向かって礼拝する)する。人間は水として東に朝せずということなし、と。 御法談が終わって、禅師拝揖(はいゆう、手をこまねいて上下し、或いは左右にする礼)して退出さる。 翌日に、別當の實世卿を勅使にして禅師の號を下せた。 時に禅師は勅使に向って、この君は亢龍(こうりゅう、あまり高く上り詰めた龍は下降の悔いがある)悔いありと言えども再び帝位を足偏の戔(ふま)せ給うべき御相が有る、とぞ申されける。 今は君は武臣の為に囚われて亢龍の悔いに会わせらておられるが、かの禅師が相したまいける事であるから、再び九五(天子の位)の帝位を足偏の戔(ふ)ませられる事は疑いなしと、思召すに依って法體の御事は暫くあるまじき由を、強いて仰せいだされたのだ。
2026年02月06日
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東宮大進(東宮房・皇太子の御用万端を執り行う役所の三等官である判官・じょう)季房(すえふさ)をば常陸の国に流して、長沼駿河の守に預けらる。 藤房を常陸の国に 流す 左衛門佐局 との別離 中納言藤房をば同国に流し、小田民部大輔に預けられた。 左遷遠流の悲しみは、いずれも劣らぬ涙ではるが、殊にこの卿の心の中を推量するのも猶哀れである。 近来、中宮の御方に、左衛門佐局(自分の局を持つ女房)と言う容色が世に勝れた女房がおわしましけり。去りぬる元亨(げんこう)の頃であったが、主上が北山殿(中宮禧子の父、西園寺實兼の邸)に行幸なされ御賀の舞があった時に、堂下の立部(楽人、唐代の楽人に立部と坐部があり、堂上は坐し堂下は立つ)が袖を翻して、梨園(俳優)の弟子に曲を奏せさせた。 繁弦急管(弦楽器や笛・笙などの調子が急な事)いずれも金玉の声玲瓏なり(金や玉のような響きが明朗である)。 この女房が琵琶の役に召され、青海波を弾じたが、間関たる(鳥の声が和らいで滑らかな様)鶯の語りは花の下になめらかで、幽咽せる泉の流れは氷の底に悩んでいる。 適怨清和節に随って移る。四弦一聲如裂帛(はくをさくがごとく)撥(はら)っては復挑(かか)げる。一曲の清音(せいいん)梁上に燕飛び、水中に魚が躍るばかりである。 中納言は仄かにこれを見給いしより、人に知られず思いを染めてける心の色は日に添いて深くのみなりゆくとも、言い知らすべき便りもないので、心に込めて歎き明し思い暮らして、三年(みとせ)を過ごし給いけるこそ久しいのだった。 如何なる人目の紛れであったか、露のかごと(怨みごと、ここは浅い契りの事)を結ばれたのか、一夜の夢の幻(うつつ)に定かではない枕の契りを交わしなされたのだった。 その次の夜のことであったが、主上が俄かに笠置に落ちさせなされたので、藤房は衣冠を脱いで戎衣に替えて供奉(ぐぶ)致そうとなさったのだが、この女房に廻り逢う末の契りも知り難くて、一夜の夢の面影も名残があり、今一度見もし見られたいと思われたので、かの女房が住んでいる西の對に行って見給うに、時しもこそあれ今朝、中宮の召しが有って北山殿に参り給うと申したので、中納言は鬢の髪を少し切って歌を書き留めて置かれたのだ。 黒髪の 乱れん世まで ながらへば これをいまはの 形見とも見よ この女房が立ち帰って、形見の髪と歌とを見て、読んでは泣き、泣きては読む。千度(ちたび)百廻り巻返せども心が乱れて詮方もなし。懸る涙に文字が消えて、いとど思いに堪えかねたのだ。 せめてその人の所在をだに知るならば、虎が臥す野辺、鯨が寄せる浜辺であろうがあこがれるべき心地がしたのだが、その行く末がいずことも聞き定めず、また逢うべき世もいさ知らないのであまりの思いに堪えかねて、 書きおきし 君が文章(たまづさ) 身に副(そ)へて 後の世あでの 形見とやせん 先の歌に一首を書きそえて、形見の髪を袖に入れ、大井川(保津川)の深い淵に身を投げたのは哀れであるよ。 君の一日の恩の為に、妾の百年の身を誤った。とは、この様な事を言うのであろうよ。 按察大納言公敏(きみとし)等の 処刑 按察大納言公敏卿は、上総の国、東南院僧正聖尋(しょうじん)は下総の国、峯僧正俊雅は対馬の国と聞こえたが、俄かにその議を改めて、長門の国へと流されなされた。 第四の宮は但馬の国に流され奉りて、その国の守護大田判官に預けられた。 八歳宮 御歌の事 第九の宮と中御門宣明との問答 その御和歌が人々を感動せしめたること 第九の宮(恒良親王か)は未だ幼稚におわしますので、中御門中納言宣明卿に預けられて、都のうちにぞ御座ありけり。 この宮は今年八歳にならせられけるが、常の人よりも御心様がさかさかしくおわしましければ、常は、主上は既に人も通わない隠岐の国とやらに流されなされた上は、我一人が都の内に留まりてもどうしようか。哀れ我も主上がいらっしゃる国の辺りに流して遣わせかし。 せめては他所ながらも御行く末を承(うけたま)わらん。と、かき口説き(繰り返し言い)打ち萎れて、御涙は更にせき合えない。 さても君が押し込められなされている白河(京都の鴨川以東、東山との間の地域」は京に近い所と聞くが、宣明はどうして我を具足して御所(かしこ)には参らぬのだ、と仰せありければ、御涙を抑えながら、皇居が程近き所にてだに候わば、御伴仕りて参ずることは仔細あるまじく候が、白河(福島県にある)と申し候は都から数百里を経て下る道で御座いまする。されば能因法師が、 都をば 霞とともに いでしかど 秋風ぞ吹く 白川の関と詠んで候し歌で道が遠い事、人を通さぬ事を思し知りなされよ。と、申されると、宮は御涙を抑えなされて、暫くも仰せ出だされることもなし。 ややあってから、さては宣明は我を具足して参らじと思えるゆえに、かように申すのであるな。白川の関を詠んだのは全く洛陽(らくよう、中国周の都の名)渭水(ゐすい、洛陽の近くを流れる川)に白川ではない、この関は奥州の名所である。近来、津守國夏がこれを本歌として詠んだ歌に、 東路(あづまじ)の 関までゆかぬ 白川も 日数經(ひかずへ)ぬれば 秋風ぞ吹く又、最勝寺の懸かりの桜が枯れたのを、植え替えると言うので、藤原雅經(まさつね)朝臣、 馴れなれて 見しは名残の 春ぞとも など白川の 花の下陰(したかげ) これは皆名は同じであるが所は変わっている證歌(証拠になる歌)である。 よしや、今は心に込めて言い出ださない、と宣明を恨んで仰せられ、その後には垣絶えて恋しいとだに仰せられずに、萬に物憂い御気色にて中門(宸殿・正殿と外門の間にある門」に御立なされる折節には遠寺の晩鐘が幽かに聞こえければ、 つくづくと 思い暮らして 入相(いりあひ)の 鐘を聞くにも 君ぞ恋しき 情が中に動いて言葉が外(ほか)に顕れた。 御歌のおさおさしさ(大人びた事)があわれに聞こえたので、その頃京中の僧俗男女がこれを畳紙・扇に書付けて、これこそは八歳の宮が詠じられた御歌であるよと、翫(もたあそ)ばぬ者はいまかった。
2026年02月04日
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誠にその事に候、この間の儀をば後世までも忘れ難きこそ候え。命の際の事は万乗の君は既に外土(がいど、本州を離れた土地)遠島(伊豆・佐渡・隠岐などを指す)に御遷幸の由聞こえ候上は、その以下のの事共はなかなかに力及ばず、殊更この程の情の色は存命するとも謝し難く候、とばかりにてその後は物も仰せられずに、硯と紙とを取り寄せて、辞世の頌(じゅ)をぞ書かれける、 逍遥(しょうようす)生死(しょうじ)に、四十二年、山河一革(さんがいちかく)、天地洞然(てんちとうねん)(天地自然の理によって生まれて死ぬが、その間は僅かに四十二年、山河が全く改まって天地は広々として明朗である。即ち、一切萬物何れも残り無く空である) 六月十九日、某(なにがし)と書いて、筆を擲(なげう)って手指を組み合わせて、座を直されたと見えた。 田兒六郎左衛門の尉、後ろに回るかと見えたが御首は前に落ちていた。哀れと言うのも愚かであるよ。 入道は泣く泣くその遺骸を煙となし、様々な作善(さぜん、仏像・堂塔を造営して経を読むなどの善亊を行い、功徳を積む事)を致してぞ菩提を祈り奉りける。愛おしきかな(不憫なことだ、可哀そうだ]。 この卿は先帝(後醍醐天皇)が帥(そち、大宰府の長官)の宮(帥である親王、実際には任地である大宰府には赴任しないのが通例である)と申され奉りし頃から近侍して朝夕の拝礼を怠らず、昼夜の勤厚は他に異なっていた。そうであるから次第に昇進も滞ることもなく、君の恩寵も深かったのだ。今こして失われたと叡聞に達したので、どれほどに哀れと思召されたであろうかと覚えるのであった。 殿法印良忠を 六波羅に 尋問する 六波羅の 評定 同(おなじく)二十一日、殿法印良忠をば大炊(おおゐ、京都市大炊御門と油小路通りとの辻を固めた市中警備の武士)御門と油小路の篝、小串(おぐし)五郎兵衛秀信召し取りて六波羅にい出したりければ、越後の守仲時(なかとき、相模の守平基時の子、時政七世の孫)が斎藤十郎兵衛を使いにして申されたのは、この頃は一天の君でさえ叶わせ給わぬ御謀反を、御身なんどが思し召し立たん事は一方では恐れ多く、一方では軽はずみとこそ覚え候。 先帝を奪い参らせん為に、当所の絵図なんどを持ち廻られ、候ける条は武敵の至り重科並びなく、隠謀の企ては罪責余りが有る。 謀の条々を一々に述べ候え、具(つぶさ)に関東に注進致すべしとぞ、宣べられける。 法印が返事せられたのは、普天の下に王土にあらずと言う所なし。率土(そつと、世界中)の人は王民でないと言う事はない。誰か先帝の宸襟を歎き奉らざらん。 人たる者がこれを悦ぶべきであろうか。叡慮に替わりて玉體を奪い奉らんと企てる事はどうして止めてよいだろうか。無道を誅せられん為に、隠謀を企てる事は決して粗忽の事ではない。 しかるを、仮初(かりそめ)に京を出て、城郭を固めることなく官軍が敗北の間に力なくも本意を失った。 その間に具行(ともゆき)卿は相談して、綸旨を申し下し、諸国の兵に配った条は勿論である。有る程の事は是等である。とぞ、返答為された。 これに依って六波羅の評定が様々であったのだが、二階堂信濃入道が進み出て申しけるには、かの罪責がも勿論である上は是非なく誅せらるべきであるが、與党の人などをなお尋ねて、沙汰有りて(調べて)重ねて関東に申さるべきかとこそ存知候。と、申しければ、長井右馬助が、この儀尤も然るべく候、これ程の大事をば関東に申されてこそ、と申しければ、面々の意見が一致したので、法印を五條京極の篝(かがり)、加賀前司に預けられて、禁籠して重ねて関東に注進せられたのだ。 平成輔等の 処刑 平(へい)宰相成輔をば、河越参河(みかわ)入道圓重が具足し奉りて、これを関東にきこえさせたが、鎌倉までも下りつけ奉らないで、相模の早河尻で失い奉る。 侍従中納言公明(きみあきら)卿・別當實世(さねよ)卿の二人を赦免の由にてありしkども、な精霊おも心赦しがなかったのであろうか、波多野上野介宣通(のぶみち)・佐々木三郎左衛門尉に預けて、なおも本の宿所には帰し給わず。 師賢を 下総の国に 流す 伊(ゐんの)大納言師賢(もろかた)卿を、下総の国に流して、千葉の介に預けられた。 この人は志學の年(十五歳)の昔から和漢の才を事として、栄辱の中に心を止めなされなかったので、今遠流の刑にあうことは露ばかりも心にとめて思われずに、盛唐の詩人・杜少陵(杜甫)天寶の末の乱に遇って、路經、さんずいの艶さんずいの預雙逢鬢(みちをへてえんよをそうほうのびん)、天は滄浪に落ちて、一釣舟(いちちょうのふね)と天涯の恨みを詠じ尽くして、我が朝の歌仙・小野篁(たかむら)は隠岐の国い流されて、海原八十嶋かけて漕ぎ出でぬ、と釣りする海士に言伝て旅泊の思いを詠じられた。 これ皆時の難易を知りて歎くべきを歎かずに、運の窮達を見て悲しみあるを悲しまず。 況や、主憂うるときには即ち臣は辱めらる。主が辱められる時には臣は死す。と、言えり。譬え骨を塩漬けるにされても、身を車裂きにされても、傷むべき道ではないと言って、少しも悲しみなさらず、ただ、時によりて興に触れると、諷詠等閑(なをざり)に日を渡る。 今は浮世の望みが絶えての出、出家の志しがあるのをしきりに申されければ、相模入道は仔細はないと許されたので、年がまだ満たないのに、強仕に翠の黒髪を剃り落して、桑門人になり給いしが、幾程も無くて元弘の乱が出で来た始めに、俄かに病に侵されて圓寂なされたとか。
2026年02月02日
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