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足利殿 大江山を 打ち越す事 尊氏は 戦わずして 丹波に 赴く 追手(正面)の合戦いは今朝の辰の刻(午前八時)から始まって、馬煙(馬が駆けてゆく時に立つ塵埃)が東西に靡き、鬨の声が天地を響かして攻め合ったのだが、搦手の大将足利殿は桂川の西の端に下り居て、酒盛りをしてぞおわしける。 かくて数刻を経て後に、大手の合戦に寄せ手が打ち負けて、大将が既に討たれぬと告げたりければ足利殿は、さらば、いざや山を越えよう。とて、各自が馬に打ち乗って山崎の方を遥かな他所に見捨てて、丹波持を西に篠村を指して馬を速められた。 中吉十郎等 尊氏の挙動を 怪しむ 尊氏の離反を知り 両六波羅が 落胆した ここに備前の国の住人中吉(なかぎり)十郎と、摂津の国の住人に奴可(ぬか)の四郎とは両陣の手合わせに依って搦手の勢の中に居たのだが、中吉十郎は大江山の麓で道よりも上手に馬を乗り上げて、奴可四郎を戦隊から呼び離して言ったことには、心得ぬ様かな、大手での合戦は火を散らして今朝の辰の刻から始まったのだが、搦手は芝居の長酒盛りにてそのままで終わってしまうだろう。 結句、名古屋殿は打たれ給いぬと聞こえければ、丹波路を指して馬を速め給うぞ。この人、如何様、野心を差し挟みぬと覚え候。そうである場合には我等はいずくまでか相従うべき。いざや、これより引き返して、六波羅殿にこの由を申さん、と言った所、奴可四郎は「いしく(よい、見事だ、けなげだ)も申しけり、我も事の體怪しくも存じながら、これも又如何なる配立(はいたて、手配り、配置)が有る覧ととかくに案じける間に、早今日の合戦には外れぬることこそ残念であるよ。 但し、この人は敵になったと知りながらただ引き返すのは、余りに言う甲斐がないと覚えるのでいざや、一矢を射てから帰らん」と言う儘に、中差しを取って打ち番え、轟(と泥)懸けて(馬蹄の音を高らかにかさに打って廻さん(敵の行く手に馬を廻さん)としたが、中吉(なかぎり)、如何なる事ぞ、御辺は物に狂ったか。我等僅かにニ三十騎であの大勢に掛け合って犬死にするのは本意であるか。鳴呼(おこ)の高名はせぬに如かず。ただ、事ゆえなくて引き返し、後の合戦の為に命を全うする事こそは忠義を存ずる者であると、後までの名を留めようではないか。と、再往制止したのでげのもと思ったのか、奴可四郎も中吉も大江山から馬を引き返して、六波羅へこそ打ち帰ったのだ。 彼等二人が馳せ参じて事の次第を申しければ、両六波羅は楯桙とも頼みにしていた名越尾張守は打たれてしまった。これぞ骨肉(親子・兄弟の如き血族)の如くであれば、さりとも二心はおわせじと水魚の思いを成していた足利殿でさえ敵になってしまったからには、憑む木の下に雨が漏るような心地がして心細いについても、今まで付き纏っていた兵に対しても又そうであろうかと心が置かれて不安であるよ。 足利殿 御篠村に 着御 則 国人(くにうど)が 馳せ参る 事 久下(くげ)時重 最も早く 尊氏の陣に 馳せ参る事 一番の家紋の由来 近国の勢が集まって 二万三千余騎となる さるほどに、足利殿が篠村に陣を取って近国の勢を催されけるに、当国の住人に久下弥三郎時重と言う者が二百五十騎で真っ先に馳せ参った。 その旗の紋は笠符(かさじるし)に皆一番と言う文字を書いていた。 足利殿はこれを御覧じて怪しく思しければ、高(こうの)右衛門尉師直(もろなお)を召されて、久下の者共が笠璽(しるし)に一番と言う字を書いているのは元来の家の文であるか、又はこれは一番に参ったと言う符(しるし)なのか。と、尋ねられ給えば、師直は畏まって、由緒ある文で御座いまする。彼の先祖は武蔵の国の住人久下二郎重光で、頼朝大将殿、土肥の杉山で御旗を揚げられた際に一番に馳せ参じて候けるを源頼朝殿が御感候て、若し我が天下を持ったならば、一番に恩賞を行うべしと仰せられて、自ら一番と言う文字を書いて与え候けるを、やがて家の紋になして候、と答え申しければ、さては、これが最初に参ったのは、当家の吉例であるぞ、と言って御賞玩は殊に甚だしかった。 元来、高山寺(こうせんじ)に立て籠った足立・荻野・小島・和田・位田(ゐんでん)・本庄・平定(ひらじょう)の者共ばかりこそ、今更に人の下風に立つべきにあらずとて丹波から若狭に打ち越えて北陸道から責め上ろうと企てた。 その外に、久下・長澤・志宇知・山内(やまのうち)・葦田(あしだ)・余田・酒井・波賀野・小山(をやま)・波々伯部(ははかべ)、その他に近国の者共が一人も残らずに馳せ参りたる。 篠村の勢も程も無く集まって、その数は既に二万三千余騎になっていた。 光巌天皇等 北六波羅に 移らせなされた 六波羅ではこれを聞いて、さては今度の合戦は、天下の安否(あんぴ)たるべし。もし、自然に打ち負ける事があれば、主上・上皇を取り奉って関東に下向し、鎌倉に都を立て、重ねて大軍を挙げて凶徒をば追討すべしと評定が有って、去る三月から北方の舘を御所に設え、院内(いんだい、院と内裏、即ち、上皇と光巌天皇)を行幸なし奉った。 梶井二品(にほん)親王は天台座主でいらせられたので、たとえ轉反(てんへん、世の中が移り替わっても)しても御身に於いては何の御怖畏も無きことであるが、当今の御連枝にて坐(ましま)せばしばしは玉體に近づけ参らせて、寶祚(皇位)の長久をも祈り申さんとにや、是も同じく六波羅に入らせなされた。 そかのみならず、国母(こくぼ、皇太后を言う称号。ここは光巌天皇の御母・広義門院)・皇后・女院・北の政所・三台(さんたい、星の名だが三公・太上大臣・左右大臣に象る)・九卿・中国の九卿に准えて、日本の公家を言う)木偏の塊棘(かいきょく、三台九卿の同義語を繰り返した語)・三家の臣(閑家・久我・花山院を英雄の三家と言う。一説に、閑院・花山院・中院を言う)・文武百司(文武に関するあらゆる役所の役人)の官・並びに竹園(皇族)門徒の大衆(たいしゅ)・北面以下諸家の侍・児「ちご、公家・武家・寺院で使われている少年)、女房達に至るまで我も我もと参り集いける間、京中は忽ちにさびかえり(ひっそりと全く静かになり)嵐の後の木の葉の如く己が様々に散り行くので、白河(京都の鴨川以東、東山との間の地域)はいつしか栄えて花一時の盛りを成した。 これも幾程の夢であろうか、移り変わる世の有様、今更に驚かされるのも理(ことわり)であるよ。
2026年04月29日
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尊氏 密使を船上山に遣わし 朝敵追討の 綸旨を 賜る かかる所に、足利殿は京着の翌日から伯耆の船上に密かに密使を参らせて、味方に参るべき由を申されたので、君は殊に叡感有りて、諸国の官軍を相催して朝敵を追討すべき由の綸旨をぞ成し下されける。 両六波羅も名越(なごや)尾張守も足利殿にかかる企てがあるとは思いも寄るべき事ではないから、日々に参会して、八幡・山崎を責められるべき内談評定で一々に真底を残さずに尽くされけるこそ儚い事であった。 大行の路はよく車を砕き、もしも人の心に比すれば平らかなる道である。巫夾の水はよく舟を覆す、もし人の心に比すれば、是は安らかなる流れである。人心の好悪は甚だ常ならず。(大行は険を以て有名な山の名。河南・山西二省の堺を南北に縦走する。大行の山は路が険難でよく旅人の車を砕くと言うけれども、もし人心の険難なのに比べれば平坦な道である。巫夾揚子江の上流である三峡の一つ。水流が迅急で往々舟を覆すと言うが、人心の険難さに比すれば、まだしも安流と言うべきである。人の愛憎の心は常に変じて定まらない。人心の険を山川の険に比した物) そうは言うけれども、足利殿は代々相州(そうしゅう、相模入道高塒)の恩を戴き、徳を担う(御蔭を蒙)って一家の繁昌は恐らくは天下の人は肩を並べるべくもなかった。 その上に、赤橋前相模守の縁になって君達が数多くい出来給いぬれば、この人はよも二心は持たないだろうと、相模入道はひたすらに頼みにしたのも道理である。 武家方 と 官軍 との部署 四月に十七日には八幡・山崎の合戦とかねてより定められて、名越尾張守が大手の大将として七千六百余騎を鳥羽の作道から向かわせられ、足利治部大輔高氏は搦手の大将として五千余騎、西岡(にしのおか)から向かわれた。 八幡・山崎の官軍がこれを聞いて、されば難所に出で合って不慮(不意)に戦いを決せしめよと、千種頭中将忠顯朝臣は、五百余騎で大渡の橋を打ち渡り赤井河原に控えられた。 結城九郎左衛門尉光近は三百余騎で狐河の辺に向った。 赤松入道圓心は三千余騎で淀・古河・久我畷の南北三か所に陣を張った。これ皆、強敵を取り拉ぐ氣が天を廻らし、地を傾けると言うとも、機を解き(心の働きを緩め)勢いを呑まれようとも、今上りの東国勢の一万余騎に対して対して戦うとは見えなかった。 足利殿は、兼ねて内通の仔細ありけれども、もしや謀りやし給う覧と、坊門の少将雅忠朝臣は寺戸と西岡の野伏共五六百人を狩り催して岩蔵辺りに向われた。 名越尾張守 の 武装 人目を眩ず さる程に、搦手の大将足利殿は、未明に京都を立ちなされたとの披露(知らせ)があったので、大手の大将名越尾張守は、さては早や、人に先を駆けられた。と、不安に思い、さしも深い久我畷の馬の足も立たない泥土の中に、馬を打ち入れて、我先にとぞ進みける。尾張守は元より気早の若武者であるから今度の合戦、人の耳目を驚かすようにして名を揚げようものをと、兼ねてありましの事であるからその日の馬・物の具・笠符に至るまで辺りを輝かして、立ち出でた。 花緞子の濃い紅に染めた鎧直垂れに、紫糸の鎧金物を繁く打ったものを隙間もなく着下して、白星の五枚甲の吹き返しに、日光・月光のに天子を金と銀とにて彫透かし打ったものを猪頸に着成し、当家累代重宝に鬼丸と言う金造りの丸鞘の太刀に、三尺六寸の太刀を佩き添えて、高うすべの尾の矢三十六指したのを筈高に負成(おいな)し、黄瓦毛(黄色がちの河原毛・白馬で鬣が黒いもの)の馬の太く逞しいのに三本唐笠を金具・蒔絵に張り付ける金・銀・銅・鈴などの薄片で黒い漆地に磨き出したもの の鞍を置いて、厚房の革に秋(しりがい・馬の尾から鞍にかける組緒)の燃え立つばかりの物を懸けて、朝日の影に輝かして光渡って見えるのがややもすれば軍勢より先に立って進み出て、辺りを払って(威勢が立派な事)懸けられければ(馬を駆け進める)、馬・物の具の體軍立ちの様、今日の大手の大将はこれであろうと知らぬ敵は射なかった。 されば敵も自余の葉武者(はむしゃ、詰まらぬ武士)共にはめもかけずに、ここに開き合わせ、かしこに攻め合って是一人を討とうとしたけれども、鎧がよいので裏をかかする(裏まで射抜かさせる)矢もない。 打ち物達者(刀槍の名人)であるから近づく敵を切って落とす。その勢いが参然(さんぜん、群がりたつさま、盛んな様)たるに辟易して(恐れ退いて)官軍の数万の士卒は既に開き靡びいたと見えた。 佐用範家 尾張守を 射殺する 官軍の 勝利 ここに赤松の一族に佐用(さよ)左衛門三郎範家(のりいえ)とて強弓(つよゆみ)で矢継ぎ早で、野伏し軍(山野に潜伏して落ち武者を襲う軍)に心が利いて(気が利いて)卓宣公が秘した所をわが物と体得した兵がいた。 態と物の具を脱いで、徒歩立ちの射手となり、畔(くろ)を伝い藪をくぐってとある畔の蔭に隠れ臥して大将に近づき、一矢を狙らわんとぞ待ったりける。 尾張守は三方の敵を追いまくり、鬼丸に付いた血を笠符で押し拭い、扇を開き使って思う事もなげに控えている所を、範家が近ぢかと狙い寄って、引き詰めて丁と射た。 その矢は思う矢坪を違えずに尾張守の冑の真甲の外れ眉間の真ん中に当たって、脳を砕き骨を破って頸の骨のはずれに矢先が白く射出した。さしもの猛将ではあるが、この矢の一隻に弱って馬から真っ逆さまにどうと落ちた。 範家は胡籙(えびら、矢を盛って背負う道具)を叩いて矢呼び(矢を物に射当てた時に、その射手が上げる叫び声)をなし、寄せ手の大将名越尾張守を範家がただ一矢で射殺したるぞ、続けや、人々と呼ばわりければ、引き色(負け色、逃げ色)になっていた官軍共はこれで機を直し、三方から勝鬨を作って攻め合わせた。 尾張守の郎従七千余騎、師泥(秩序なく乱れた様)になって引いたのだが、或いは大将を打たせて何処にか帰るべきと引き返して、討ち死にするもあり、或いは深田に馬を馳せ込んでしまい叶わずに自害するもあり。 されば、狐河の端から鳥羽の今在家町まで、その道五十余町が間に死人が尺地も無く臥したのだ。
2026年04月28日
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高塒 足利尊氏の上洛を 促す 尊氏は妻 及び子息を質として 起請文を奉る 高塒は喜悦して 尊氏を餞(はなむけ)す その中に、足利治部大輔高氏は所労(病気)の事があって、起居がいまだ快からざるに、又上洛のその数に入って、催促が度々に及んだ。 足利殿はこの事に依って心中で憤り思ったのは、我は父の喪に居て三月を過ぎていないのに、悲嘆の涙がいまだに乾かず、又病気が身を侵して負薪(ふしん、自分の病気を謙遜して言う語。薪・たきぎを負う事も出来ない心配)の愁いが未だ止まない所に、征伐の役に随えとの催促があるのは遺恨である。 時移り、事が変じて、貴賤が位を変えると言えども、彼は北條四郎時政の末孫(ばっそん)である。人臣の身に下ってから年が久しい。吾は源家累葉(代々の一族)の族(やから)である。王氏(おうし、皇族。尊氏は清和天皇から十六代目、義家からは十代目)を出でて遠くはない。この理を知るならば一度は君臣の儀を存ずるべきであるのに、これまでの沙汰に及ぶのは、偏(ひとえ)に身の不肖に依る故である。所詮、重ねて上洛の催促を加えるよりは一家を尽くして上洛し、先帝の味方に参って六波羅を責め落し、家の安否を定めるべきであろう。と、心中に思い立たれたのだが、日とは更に知ることはなかった。 相模入道はこの様な事とは思い寄らずに、工藤左衛門の尉を使にたてて、御上洛の延引は心得られず、と一日に二度も責められた。 足利殿は反逆の企てを既に心中に思い定められていたので、却って異議を申さず、不日(すじつ、日ならず、近日)に上洛仕り候、と返答せられた。 則ち、夜を日に継いで打ち立て(出発)られけるは、御一族・郎従は申すに及ばず、女性・幼稚の君達までも残さずに皆上洛あるべしと聞こえければ、長崎入道圓喜が怪しく思って、急ぎ相模入道の所に参って申したのは、誠にて候やらん、足利殿こそ、御台、君達まで皆引き具し参らせて、御上洛なされましたぞ。事の體怪しく存知候。斯様の時には御一門の疎かならぬ(近親者)にも御心を置かれ候べし。況や、源家の貴族として天下の権平を捨て給える事年久しいので、思召す事も候覧。異国より我が朝に至るまで、世が乱れたる時には覇王が諸侯を集めて牲(牲)を殺して血を啜り、二心がない事を盟(ちか)う。今の世の起請文がそれである。 或いは、その子を質に出し、野心の疑いを散ずる。木曾殿(義仲、源義賢の子)の御子(おんこ)、清水冠者を大将殿の方に出だされた。 斯様の例を存知候にも、如何様、足利殿の御子息と御台とを鎌倉に留め置かれて、一紙の起請文を書かせ参らせられるべしとこそ存知候、と申した所、相模入道はげにもとや思われたのか、やがて使者を以て申し遣わされた事には、東国は未だ世閑(静)であり、御心安く思われるでありましょう。幼きご子息をば皆鎌倉に留め置かれ参らせ候べし。次に、両家の體は一つであり、水魚の思いをなされ候上、赤橋相州(平氏、名は守時。越後の守久時の子、北條時政七代目の子孫。妹の登子が尊氏に嫁したので尊氏の義兄に当たる)ご縁に成り候。かれこれと何の不審もないけれども、諸人の疑いを散ぜん為にであるので、恐れながら一紙の誓言を留め置かれ候わんこと、公私につきてしかるべしと存じ候、とおおせた所、足利殿は鬱胸(うっきょう、心中の不快)が益々深くなったのだが、憤りを抑えて気色にも出だされず、これから御返事を申し上げるでありましょう、と使者を御帰しなされた。 その後に、舎弟兵部大輔殿を呼び参らせて、この事は如何あるべきであろうか、と意見を問うたところ、暫く案じてから申されたのは、今この一大事を思し召し立たれて事は、全く、御身の為ではありません。ただ天に代わって無道を誅し、君の御為に不義を退かんとする。その上、誓言は神も受けずとこそ申し習わしてこそ候。譬え偽って起請の言葉を載せられ候とも、仏神がどうして忠烈の志を守らせ給わざらん。就中(なかんずく)、御子息と御台所とを鎌倉に留め置き候事は大儀の中の小事であり、あながちに御心を煩わされるには及ばないでありましょう。君達はまだ御幼稚であられるので、自然の事(万一の時)がある場合には、その為に少々残し置かれる郎従共が、いずかたへ也と抱きかかえて隠し候わん。御台の御事は、又、赤橋殿とてもおわし候故に、何のお労しきことが候べし。 大行は細勤を顧みず(大事業を成そうとする者は、細かい慎みには頓着しない)とこそ申します。 これ等ほどの小事に猶予あるべきにあらず。兎も角も、相模入道の申すままに随って、その不振を散ぜしめ、御上洛候て後に、大儀の御計略を廻らされるべく候とこそ存じ候。と申されければ、足利殿はこの道理に服して、御子息の千壽王殿と御台所赤松相州の御妹とをば鎌倉に留め置き奉りて一紙の起請文を書いて相模入道に遣わされた。 相模入道はこれに不審を散じて喜悦の思いをなし、高氏を招請あって、様々に賞翫(褒めそやす)どもありけるが、御先祖累代の白旗がある。これは八幡殿より代々の家督に伝えられて執せられる重宝で候が、故頼朝卿の後室(身分の高い家の未亡人)、二位の禅尼が相伝して当家に今まで所持候ものである。 希代の重寶であるとは申せ、他家に於いては詮無きものであるよ。これを今度の饌送(はなむけ)に進ぜ候。この旗をささせて凶徒を急ぎ御退治候え。とて、錦の袋に入れながら、自らこれを贈呈したのだ。その外に乗り換えの御為だと言って飼育していた馬に白い鞍を置いて、十匹、白輻輪の鎧を十領、金作(こがねつくり)の太刀一つ副えて引き出物として贈られた。 尊氏 の 出発 足利殿の御兄弟・吉良・上杉・仁木(にっき)・細川・今河・荒河、以下一族三十二人、高家(こうけ、家柄の良い者、名族)の一類四十三人、都合その勢は三千余騎、元弘三年三月二十七日に鎌倉を立ち、大手(城の表門)の大将と定められて、名越尾張守高家に三日先だって、四月十六日に京都に着き給う。 山崎攻め の 事 付 久我畷(なわて、田の間の径、あぜ道) 合戦の事 京都の武家方は 援軍が来たのを 悦ぶ 両六波羅は、度々の合戦に打ち勝ったので、西国の敵は恐れるに足らないと侮りながらも、宗徒の勇士と頼まれた結城九郎左衛門尉、敵になって山崎の勢に加わった。 その外に、国々の勢共が五騎、十騎と或いは転送に疲れて国々に帰り、或いは時の運を謀って敵に属したので、宮方は負けても勢は益々重なって、武家は勝っても兵は日々に減じた。 かくては如何にあるべきと、世を危ぶむ人が多かったところに、足利・名越の両勢がまた雲霞の如くに上洛したので、いつしか人の心が入れ替わって、今は何事かあるべきと色(顔色)を直して勇み合ったのだ。
2026年04月24日
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千種(ちくさ)殿は小嶋に言い恥しめられて、しばしは峰の堂に居られたのだが、もしかすると敵が夜討ちを懸けて来るやもしれない、と言った言葉に驚かれて、益々臆病心が募ったのか、夜半過ぎ頃に宮(第四宮聖護院静尊)を御馬に乗せ奉りて葉室の前を筋違い(斜め)に、八幡を指してぞ落ちられける。 備後(びんごの)三郎はこのような事とは思いも寄らずに、夜深方に峯の堂を見遣れば、星の如くに見えていた篝火が次第に數消えて、所々に焼き捨てている。 これは、哀れ、大将が落ちさせ給いぬるかと怪しんで、事の様を見る為に葉室大路から峯の堂に上がる所に、荻野彦六朝忠と淨住寺の前で行き遇って、大将は既に昨夜の子の刻(午前零時)に落ちさせ給う間、力なく我らも丹波の方へと志して罷り下り候。いざ、御伴し御一緒致しましょう。と言った所、備後三郎は大いに怒って、かかる臆病者を大将と仰ぎ頼みけるこそ落度であった。さりながらも直接に事の様を見なくては後難もあるであろう。早、お通り候え。高徳はなにさま峯の堂に上って、宮の御迹を見奉り、追いつき奉るであろう。と言って、手の者をば麓に留めてただ独りで落ちて行く兵を掻き分け、掻き分けして、峰の堂にぞ上ったのだ。 大将がおわした本堂に入って見れば、よきもまあ、慌てて落ちたりと見えて、錦の御旗、鎧下垂れまでもが捨てられてある。 備後三郎は腹を立てて、哀れ、この大将は如何なる堀、崖にでも落ちて死んでしまうがよい。と、独り言して、暫くは堂の縁に歯嚙みをして立っていたが、今は、さこそ手の者共も待ちかねているだろう、と思ったので、錦の御旗だけを捲いて下人の持たせ、急ぎ淨住寺の前に走り下り、手の者打ち連れてうまを速めたので、追分の宿の辺りで荻野彦六に追いついた。 荻野は、丹波・丹後・出雲・伯耆へ落ちける勢が、篠村・稗田(ひえだ)辺に打ち集まって三千余騎がいたのを相伴い、路次の野伏共を追い払って、丹波の国高山寺(こうせんじ)の城にぞ立てこもったのだ。 谷の堂 炎上の事 京中の軍勢が谷堂に 火を放つ 千種頭中将は西山の陣を落ち給うと聞こえたので、翌日の四月九日、京中の軍勢が谷の堂・峯の堂以下(いげ)、浄住寺・松の尾・萬石大慈(まんこくおおち)・葉室・衣笠に乱入して仏閣・神殿を打ちこわし、僧坊民屋を追補(ついふ、取り上げ占領する事、没収)し、財宝を悉く運び取った後で在家に火をかけたので、時節に魔風が烈しく吹いて、浄住寺・最福寺・葉室・衣笠・三尊院、総じて堂舎三百余箇所、在家五千余宇を一時に灰燼となして仏像・神体・経論・聖教は忽ちにして寂滅の煙となって立ち上った。 谷堂(たにのどう) の 縁起 かの谷堂と申すのは、八幡殿(八幡太郎義家。義家は七歳で石清水八幡宮で元服したので八幡太郎と言う。安倍貞任等が武威に感じて八幡太郎と名付けた)の嫡男對馬の守義親(よしちか)の嫡孫、延朗上人造立(ぞうりゅう)の霊地である。 この上人は幼稚の昔から武略累代の家を離れて、偏に寂寞無人(物淋しくひとの居らない室を占める事。俗塵を脱して仏門に入った事)の室を卜し給いし後に、戒定慧(禁慧・罪悪防止の戒め、禅定・静かに一心に考える事)、智慧の三學を兼備して、六根清浄の功徳を得給いしかば、法華読誦の窓の前には松尾の明神が列座して耳を傾け、真言秘密の扉(とぼそ)の中には、総角(そうかく、幼童の髪の形)の護法(護法童子のことで、仏法守護の為に使役させられる童子姿の鬼神)が手を束(つか)ねて奉仕(ぶし)し給う。 かかる有智高行の上人(しょうにん、知徳を具備して、専念仏道を修する僧の尊称)草創sられた砌であるから、五百余歳の星霜を経て末世澆漓(澆薄、世が末になって道徳が衰え、人情が浮薄となること)の今に至るまで智水の流れが清く、法灯は光明である。 三間四面(さんげんしめん)の輪藏(自在に旋転するように作られた一切経を蔵する庫)には転法輪の相を表して、七千余巻の経論を納め奉られた。 奇樹怪石の池上には都卒の内院を移して、四十九院の楼閣を並べている。十二の欄干珠玉を天に捧げて五重の塔婆は金銀月を引く。恰も、極楽浄土の七寶荘厳の有様も、かくやと覚えるばかりである。 淨住寺 の 縁起 又、淨住寺と申すのは、戒法流布の地、律宗作業の砌(みぎり、場所)である。 釈尊が入寂の刻(きざ)み、金棺をまだ閉じない時に、捷疾鬼と言う鬼神が密かに雙林の下に近づいて御牙(犬歯)を一つ引き欠いて、これを取った。 四集の仏弟子は驚き見て、これを留めようとし給いけるが、片時の間に四万由旬を飛び越えて、須弥の半(なかば)四王天に逃げ上った。 韋駄天が追い攻め、奪い取ってこれを得、その後に漢土の道宣律師に与えられた。 そうしてから相承して我が朝に渡ったが、嵯峨天皇の御宇に始めてこの寺に安置し奉らる。大いなるかな大聖世尊滅後の二千三百余年の以後、仏肉(仏の神体、仏経が行われたのを言ったもの)猶留まりて、広く天下に流布する事あまねし。 武家滅亡の 前表 かかる異瑞奇特の大伽藍を咎なくして亡ぼしたのは、偏に武運の尽きるべき前表であるよと、人々は皆唇を翻したのだが、果たして幾程もあらずして、六波羅は皆番馬(ばんば、滋賀県の一駅)にて滅び、一類は悉く鎌倉にて失せぬる事ことそ不思議であるよ。 積悪の家には必ず餘殃(様々な禍)が有る、とはかようの事を申すのだと思わぬ人は無かったのだ。 巻 第 九 足利殿 御上洛の事 高塒 名越尾張守 以下 軍勢を催した 先朝は船上の御座ありて、討っ手を差し上らさせ、京都を攻められる由、六波羅の早馬が頻りに打って、事は既に難儀に及ぶ由、関東に聞こえければ、相模入道は大いに驚いて、さらば重ねて大勢を差し上させて、半ばは京都を警護し、宗徒は船上を責めるべしとの評定があって、名越尾張守を大将として外様の大名の二十人を催したのだ。
2026年04月23日
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あら、不思議、今日は仏生日(釈迦の誕生日)とて、心有るも心なきも灌仏の水に心を澄まし、供花(ぐげ)焼香に経を翻して、捨悪修善を事とする習いなのに、時日も多いのに齎日(さいじつ、精進・身を清め心を慎む すべき一定の日)にして合戦を始め、天魔波旬の道を学ぶ條は心得難しと人々は舌を翻した(非難した)。 さて、敵味方の士卒、源平が互いに交わっている。笠符(かさしるし)が無くては同士討ちもあるだろうと白絹を一尺づつ切って風と言う文字を書いて、鎧の袖に付けさせられた。 これは孔子の言葉に、君子の徳は風である。小人の徳は草せある。草に風を加える時には、靡かずと言う事はない、と言う心であろう。 六波羅では敵を西に待ちける故に、三条から九条まで大宮面(大宮通りに面したところ)に塀を塗り、櫓を掻いて射手を上げて、小路々々に兵を千騎二千騎と控えさせて魚鱗に進み、鶴翼に囲む様をぞ謀(はか)ったのだ。 寄せ手の大将は誰であるか、と問うと、前帝の第六の若宮、副将軍は千種頭中将忠顯の朝臣と聞こえければ、さては軍の成敗、心憎からず。源は同じ流れであるとは言え、江南の橘、江北に移されて、枳(からたち)となる習いである。弓馬の道を守る武家の輩と風月の才を事とする、朝廷の臣とが戦いを決すれば武家がかたずと言うことは有るべからず。と、各々が勇み進んで、七千余騎が大宮面に打ち寄せて、寄せ手は遅いぞと待ち懸けたのだ。 忠顯の軍勢 破れて引き退く 名和次郎 児島高徳の 力戦 さる程に、忠顯朝臣は神祇官の前に控えて兵を分け、上は大舎人から下は七条まで、小路毎に千余騎づつを差し向けて、責めさせなされた。 武士は要害を拵えて、射打ちを面に立て、馬武者を後ろに置いたので、敵の疼(ひる)むところを見ては駆け出で、懸け出でして追い立てたのだ。 官軍は二重三重に荒手を立てていたので、一陣が引けば二陣が入れ替わり、二陣が打ち負ければ三陣が入れ替わって人馬に息を継がせて、煙塵天を掠めて(砂塵が天を覆って)責め戦った。 官軍も武士も諸共に、義に依って命を軽んじ、名を惜しんで死を爭ったので味方を助けて進むのはあるが、敵に遇って退くのはなかったのだ。 かくては勝負は何時つくのか見えない所に、但馬・丹波の勢共の中から兼ねて京中に人を忍んで入れ置いたので、此処かしこに火をかけたのだ。 折節に風が烈しく吹いて猛煙が後ろに立ち覆いければ、一陣で支えていた武士共は大宮面を引き退いて、尚京中に控えていた。 六波羅はこれを聞いて、弱いであろうと思われる場所に向けようと用意の残し留めたのだ。 佐々木判官時信・隅田(すだ)・高橋・南部・下山・河野・陶山(すやま)・富樫・小早川等に五千騎を差し副えて、一条・二条の口に向けらる。この荒手に懸け合って但馬の守護太田三郎左衛門が打たれてしまった。 丹波の国の住人・荻野彦六と足立三郎は五百余騎にて四条油小路まで攻め入りたるに、備前の国の住人・薬師寺八郎・中吉(なかぎりの)十郎・丹・児玉の勢共、七百余騎が相支え合って戦ったのだが二条にてが破られると見えたので、荻野・足立も諸共に味方の負けと一緒に引き返した。 金持(かなぢ)三郎は七百騎にて七条東洞院まで責め云ったのだが、深手(重傷)を負って引きかねていたのを播磨の国の住人・肥塚(こいづか)の一族、三百余騎が中に取り籠めて、出し抜いて(他の軍勢の隙を伺って先んじ)生捕りにしてしまった。 丹波の国神池(みいけ)の衆徒は八十余騎で五条西の洞院まで責め入って、味方が引くのも知らずに戦ったのだ。それを備中の国の住人・庄(しょうの)三郎・真壁四郎、三百余騎で取り籠めて、一人も残さずに討ち果たした。 方々の寄せ手は、或いは打たれ、或いは破られて、皆が桂川の辺まで引いたのだが、名和小次郎と小嶋備後三郎とが向かいたりける一条の寄せ手はいまだに引かずに、懸けつ返しつ時が移るまで戦ったのだ。 防ぐのは陶山と河野で、責めるのは名和と小嶋である。河野と小嶋は一族であり、名和と陶山とは知人である。 日頃の詞を恥じたのだろうか、後日の難を思ったのか、死しては尸を曝すとも、逃げて名をば失うまいと互いに命を惜しまずに喚き叫んで戦ったのだ。 大将の頭中将は内野まで引いたのであるが、一条の手がなお相支えて戦いが半ばであると聞こえたので、又神祇官の前に引き返して、使いを立て、小嶋と名和とを呼び返されたのだ。 彼等二人は陶山と河野とに向って、今日は既に日が暮れてしまった。後日にこそまた見参に入るであろう、と色代(しきだい、挨拶)して両陣共に引き別れておのおの東西に去りにけり。 忠顯 京都を退き 再挙を図らんとする 高徳がこれを諫めた 忠顯は遂に京都を落ちた 高徳は これに続いた 夕陽に及んで軍が散じたので、千種(ちくさ)殿は本陣の峯の堂に帰って、味方の手負い、討ち死にを註(しる)されるに七千人に余った。 その内に、宗と頼んでいた太田・金持の一族以下(いげ)数百人が打たれてしまっていた。よって一方の侍大将ともなるべき者とや思われたのか、小嶋備後三郎高徳を呼び寄せて、敗軍の士は力疲れて再び戦い難し。都に近い陣は都合が悪いと覚えるので、少し国境を隔てて陣を取り、重ねて近国の勢を集め、又京都を攻めようと思うのだ。どう致すつもりであるか、と宣えば、小嶋三郎は聞きもあえずに、軍の勝負は鬨の運によることで候ゆえに、負けるのも必ずしも恥ではない。ただ引くまじき所を引き、懸けるべき所を駆けないのは大将の不覚とは申すのでありまする。いかなれば赤松入道は僅かに千余騎の勢を以て三箇度まで京都に攻め入り、叶わなければ引き退いて遂には八幡・山崎の陣を去らないのでありましょうか。 御勢がたとえ過半打たれて候えども、残る所の兵はまだ六波羅の勢よりは多いでありましょう。この御陣は後ろが深山であり、前は大河でありまする。敵がもし寄せて来たならば好む所の砦(好都合の要害堅固の城砦」でありましょうに。 あな、畏(かしこ)。この陣を引こうと思召す事はしかるべからず候。但しは、御方の疲れたる弊(ついえ)に乗って敵が夜討ちに寄せる事もあるかもしれませぬ。高徳は七条の橋爪に陣を取って相待ち候べし。御心安くある(信頼できる)兵共を四五百騎程、梅津・法輪に差し向けて警固なされて下さいませ、と申し置いて、即ち小嶋三郎高徳は三百余騎で七条の橋から西に陣を固めたのだ。
2026年04月22日
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島津は元から物馴れたる馬上の達者、矢継ぎ早の手利きであるから、少しも騒がずに、田中が進んで懸れば、あいの鞭を打って(敵が切りつける間に馬に鞭を打って)、押しもじりにはたと射る。 田中が妻手(めて、右手)に廻れば、弓手を越えて丁と射る。 西国名誉の打ち物の上手と北国無双の馬上の達者とが、追いつ、返しつ駆け違い、人混ぜもしないで戦いける。前代未聞の見物である。 さる程に、嶋津の矢種も尽きて、打ち物にならんとするのを見て、かくては叶わないとや思ったのか、朱雀の地蔵堂より北に控えたる小早河、二百騎にておめいて(叫んで)懸った所に田中の後ろにいた勢がぱっと引き退きければ、田中兄弟・頓宮(はやみ)父子、かれこれ四人の鎧の透間内冑に各自が矢を二三十筋、射立てられて太刀を逆さまについて皆立ち竦み(立ったままで動かず)にぞ死んだのだ。 見る人聞く人は皆、後までも惜しまない者はなかった。 美作国菅家の一族 有元兄弟の戦死 美作国(岡山県の管轄)の住人、管(かん)家の一族は三百余騎にて四条猪熊まで攻め入って、武田兵庫助・糟谷・高橋が一千余騎の勢と懸け合って(騎馬戦をして)時が移るまで戦ったのだが、後方の味方が引き退いた體を見て、元来引くまいと思っていたのか、又、向かう敵に後ろを見せまいと恥じたのか、 有元菅四郎佐弘(すけひろ)・同五郎佐光(すけみつ)・同又三郎佐吉(すけよし)兄弟の三騎が近づく敵に馳せ並べて引き組んで臥した。 佐弘は今朝の軍に膝口を切られて、力が弱ったのか、武田七郎に頸を掻き切られて、佐光は武田二郎の首を取った。佐吉は武田の郎党と刺し違えて共に死んだ。 敵の二人も共に兄弟、味方の二人も兄弟であるから、死に残ってもどうしようか、いざや、共に勝負をしようと、佐光と武田七郎とが持っていた頸を両方に投げ捨てて又もや引き組んで差し違えた。 これを見て、福光彦次郎佐長・殖月(うえつきの)彦五郎重佐・原田彦三郎佐秀・鷹取彦三郎種佐・鷹取彦二郎種佐が同時に馬を引き返してむず組んではどうと落ち、引き組んでは差し違え、二十七人の者が皆、一所にて討たれてしまったので、その陣の軍は破れてしまった。 妻鹿長宗の勇力 鎧武者を人磔に取る 播磨の国(兵庫県の管轄)の住人・妻鹿(めが)孫三郎長宗と申す者は薩摩氏長の末(子孫)で、力が人に勝れ、器量(きりょう、人物度量のことだが、ここは人品骨柄のこと)は世間を越えていた。 生年十二の春の頃から、好んで相撲を取ったのだが、日本六十余州の中には遂に片手にもかかる者はいなかった。人は類を以て集まる習いである故に、相伴う一族の十七人皆がこれ世の人には越えていた。 されば他人の手を交えずに一陣に進み、六条坊門大宮まで攻め入りたりけるが、東寺・竹田から勝ち戦をして帰った六波羅の勢三千余騎に取り巻かれて、十七人は打たれて孫三郎一人が残ったのだ。 生きていても甲斐の無い命であるが、君の御大事、これに限るまい。一人なりとも生き残って後に御用にこそ立ちたいものだと、独り言してからただ一騎西朱雀を指して引いたのだが、印具(いぐ)駿河守の勢五十余騎がこれを追いかけたのだ。 その中に、年の頃二十ばかりなる若武者がただ一騎で馳せ寄って、引いて帰る妻鹿孫三郎に組み付こうと近づき、鎧の袖に組み付いた所を、孫三郎はこれをものともせずに長い臂をさしのべて鎧の総角(鎧の胴の背の二枚目の板に環を打って付けた揚巻結びの太い組緒で房を大きく長くしたもの)を引っ掴んで宙に引っ提げて馬にのったままで三町ばかり行ったのだ。 この武者は然るべき者の子であろう。あれを討たすな、とて五十余騎の武者が後について追ったのだが孫三郎は尻目にかけてはったと睨み、敵も敵によるぞ。一騎だからとて我に近づいて過ちをするでない、欲しいのであればそれ、是を取らせよう、受け取れ、と言い、左の手に引っ提げた鎧武者を右手に持ち替えて、えいっと投げたところ追撃していた六騎の頭上を越えて深田の泥の中に姿が見えなくなるほどに打ち込んだ。 これを見て、五十騎の者共は同時に馬を引き返して遠足(素早く走る事)を出だしてぞ逃げたのだった。 赤松入道は殊更に、今日の軍に頼み切りたる一族の兵共、所々にて八百余騎が討たれたので、気が疲れ力が落ち果てて八幡・山崎にまた引き返したのだ。 主上 自ら令修金輪法 給事 付 千種殿 京合戦の事 船上山の皇居に於ける 御手法とその効験 京都での数箇度の合戦で、官軍は毎度打ち負けて、八幡・山崎の陣も既に小勢となってしまったと聞こえたので、主上は天下の安危は如何にあるかと宸襟を悩まされ、船上の皇居に壇を立てられて天子自ら金輪の法(金輪仏頂尊を本尊として、天変災異や所望産生の為に祈ること)を行わせ給う。 その七箇日に当たる日の夜に、三光天子(日天子・月天子・星天子のこと。一に三光天とも名付ける。即ち、日・月・星のこと)が光を並べて壇上に現じ給えば、御願は忽ちに成就するであろうと頼もしく思召されける。 千種忠顯 大軍を率いて 京都に入り 六波羅に推寄する 六波羅勢の 対陣 さらばやがて大将を差し上せて赤松入道に力を合わせ、六波羅を攻めるべしとて六条の少将忠顯朝臣を頭の中将として、山陽・山陰両道の兵の大将となして、京都に差し向けらる。 その勢が伯耆の国を立った時には僅かに千余騎と聞こえたが、因幡・伯耆・出雲・美作・但馬・丹後・丹波・若狭の勢共が馳せ加わって、程も無く二十万七千余騎になりにける。 又、第六の若宮は、元弘の乱の始め、武家に囚われさせ給いて、但馬の国に流されさせ給いしをその国の守護・大田三郎左衛門尉が取り立て奉り給いて、近国の勢を相催し、則ち丹波の篠村に参会した。 大将の殿中将は斜めならず喜んで、則ち錦の御旗を立てて、この宮を上将軍と仰ぎ奉りて、軍勢催促の令旨を成し下されける。 四月二日に宮は篠村を御立ち成されて、西山の峯堂を御陣に召され、相従う二十万騎、谷の堂・葉室・萬石(まんこく)大路(おほみち)・松尾・桂里に居余って、半ばは野宿に充満した。 殿法印良忠は八幡に陣を取った。 赤松入道圓心は山崎に屯(たむろ、陣営)を張った。 その陣と千種殿の殿の陣との距離は僅かに五十町程なので、方々牒じ合わせてこそ京都に寄せらるべきであるのに、千種頭中将は吾軍の多いのを頼みにしたのか、密かに日を定めて、四月八日の卯の刻(午前六時)に六波羅へぞ寄せられた。
2026年04月21日
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山門、今は武家に志を通じているとは言え、又如何なる野心を存じているだろうか。油断すべきにあらずとて、佐々木判官時信・常陸前司時朝・長井縫殿(ぬい)秀正に三千余騎を指し添えて糺(ただす)河原に向けられた。 去月十二日の合戦も、その方から勝ったので、吉例であると言うので河野と陶山とに五千騎を相副えて法性寺大路に差し向けられた。 富樫・林の一族・島津・小早河の両勢に国々の兵六千余騎を相副えて八条東寺辺に差し向けられた。厚東加賀守・加治源太左衛門尉・隅田(すだ)・高橋・糟谷・土屋・小笠原に七千余騎を相副えて、西七條口に向けられた。 自余の兵千余騎を悪手(あくて、まだ戦わない元気のよい軍隊として)残し、いまだ六波羅に並びいた。 その日の巳の刻(午前十時)から三方ながらに同時に軍を始めて、入れ替え入れ替え責め戦った。 寄せ手は騎馬の兵が少なくて徒歩立ちの射手が多いので、小路小路を塞ぎ、鏃を揃えて散々に射た。六波羅勢は徒歩立ちは少なくて騎馬の兵が多いので、駆け違い駆け違いして敵を中に取り籠めようとした。 孫氏(春秋時代の呉の兵法家)の千反(せんべん、千変万化)の謀(はかりごと)、呉氏(春秋戦国の兵法家)の八陣の法(陣立ての八つの形式。車箱・車軒・車輪・曲・鋭・直・卦・衡・鵝鸛)などは互いに知っている道であるから、共に破られず囲まれずに命を際の戦いにて、更に勝負も無かったのだ。 終日戦って、既に夕陽に及んだ時に、河野と陶山とが一手になって三百余騎が轡を並べて懸った所、木幡の寄せ手は足をもためずに、懸け立てられて宇治路を指して引き退いた。 陶山と河野は逃げる敵をば打ち捨てて、竹田河原を筋交いに鳥羽殿の北門打ちまわり作道へと駈け出して、東寺の前の寄せ手を取り籠めようとする。 作道の十八町に、充満している寄せ手れを見て、叶わないとや思ったのか、羅城門の西を横切って寺戸を指して引き返した。 小早河と島津安芸前司とは東寺の敵に向って、追いつ返しつ戦いけるが、己の陣の敵を陶山と河野に打ち払われて、味方が負けている事だと無念に思ったので、西の七條に寄せている敵に逢い、華やかなるひと軍をしよう、と言って、西八条を上って西朱雀へと出たのだった。 ここに赤松入道は屈強の兵をすぐって三千余騎にて控えているので、左右なく破られるべき様のなかった。されども島津・小早河が横合いに懸けるのを見て、戦い疲れたる六波羅勢は力を得て、三方から攻め合わせたので、赤松の勢は忽ちに開き靡いて三所に控えた。 赤松勢中の 四勇士 進んで敵を招く 島津安芸前司 父子 これと闘う 四勇士の 討ち死に ここに赤松の勢の中から兵が四人進み出て、数千騎が控えている中に是非なく打ちかかったのだ。その勢は決然として、あたかも樊噲・項羽が忿(いか)れる形のも過ぎていた。 近づくにしたがってこれを見れば、長(たけ)七尺ばかりの男で、髭を両方に生(お)い分けて眦(まなじり)が逆さに避けている者が、鎖(くさりかたびら、小さな鎖を繋ぎ合わせて襦袢のようにしたもの)の上に鎧を重ねて着て、大立挙げの脛当てに膝鎧を懸けて、龍頭の冑を猪頸(仰向けに、敵を恐れない事を示す)に着なして五尺余りの太刀を帯(は)き、八尺余りのかなさい(鉄撮)棒で八角形のものを手元の二尺ばかりに丸めて、実に軽そうに引っ提げている。 数千騎が控えている六波羅勢は、彼等四人の有様を見て、いまだ戦わざる先に三方に分かれて引き退いた。 敵を招いて彼等四人は大音声を挙げて名乗ったのは、備中の国の住人、頓宮(はやみ・とんぐう)又次郎入道・子息孫三郎(員利)・田中藤九郎盛兼・同舎弟弥九郎盛泰と言う者である。我等父子兄弟は少年の昔より勅勘(ちょっかん、天子の御咎め)武敵(ぶてき、乱暴で法を犯す事。無法と同じ)の身となって山賊を業として一生を楽しんだ。 然るに今、幸いにこの乱が出来(しゅったい)して忝くも万乗の君の御味方に参じた。しかるを先度の合戦ではさしたる軍もせずに見方が負けしたることは、我らが恥と存ずる間今日においてはたとえ御味方が負けを引いて引いたとしても、我等は引くまいと思う。敵が強いとしてもそれにはよるまい。敵の中を破って通り、六波羅殿に直に対面申さんと存ずる。と、広言を吐いて仁王立ちにぞ立ったのだ。 島津安芸前司はこれを聞いて、子息二人と手の者に向って言ったのは、日頃に聞き及んだ西国一の大力とはこれである。彼等を討つことは大勢では叶うまい。御辺達は暫く外にて控えて、自余(それ以外)と戦うべし。我等父子三人が相近づいて、進んだり退いたりして敵を悩ましたならばどうして相手を討てない事があろうか。 たとえ力こそは強いとしても、身に矢を立て得ない事はないであろうよ。たとえ走る事が速いとしても馬にはよも追いつけないであろう。多年稽古の犬笠懸(犬追い物と笠懸・射場に高く綾藺笠を懸けて遠矢を射るもの)、今の用に立たないならば何時をか期(ご)するべし。 いで、いで、不思議のひと軍をして、人に見せてやろう、と言うままに、ただ三騎打ち抜けて四人の敵に相近づいた。 田中藤九郎はこれを見て、その名は未だ知らないが、猛(たけく)も思える志かな。同じくは御辺を生け捕って味方にして、軍をさせて見せようと、嘲笑って件の金棒を打ち振って閑に歩み近づいた。 島津も馬を静々(しずしず)と歩ませて寄り、矢頃(矢の当たる距離)になったので先ず、安芸前司が三人張りに十二束三伏(みつぶせ)を暫し狙いを定めてから丁と放った。その矢は過たずに田中の右の頬前を兜の菱縫いの板にかけて箆中(のなか)ばかりを射通したのだ。急所の痛手に弱って、さしもの大力ではあるが目が眩んで先には進めない。 舎弟の弥九郎が走り寄り、その矢を抜いて打ち捨て、君(後醍醐天皇)の御敵は六波羅である。兄の敵は御辺であるよ。余すまじ(皆殺しにするぞ)と言うままに兄の金棒を押っ取って振って懸れば頓宮父子はそれぞれに五尺二寸の太刀を引き側(そば)めて、小躍りして続いたのだ。
2026年04月17日
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その勢を見渡せば、今路・西坂・古塔下(ふるとうげ)・八瀬・藪里・下松(さがりまつ)・赤山口(せきさんぐち)に支えて、前陣は既に法性寺・眞如堂(京都市左京区浄土町小山にある天台宗の極楽寺)につけば、後陣(ごじん)はいまだ山上・坂本に充満(じゅういつ)している。 甲冑に映じる朝日は電光が激するに異ならず。旌旗(せいき)を靡かす山風は龍蛇が動くのに相似ている。 山上と洛中との勢との多少を見合わせるに、武家の勢は十分の一にも及ばない。げにも、この勢にては容易く破り得る、と六波羅を見下ろした山法師達の心の程を思えば、大様(大雑把)ではあるが尤もなり。 衆徒は大敗して 山上に帰る 豪鑒(ごうかん)・豪仙の討ち死に さる程に、前陣の大衆はしばらくは法性寺につき、後陣の勢を待っていた所に六波羅勢が七千余騎で三方から押し寄せて、鬨をどっと作った。 大衆は鬨の声に驚いて、物の具・太刀よ・長刀よとひしめいて取る物も取り敢えずに僅かに千人余りにて法性寺の西門(さいもん)の前に出で合い、近づく敵に抜いてかかった。 武士は兼ねてから巧んだことであるから、敵が懸かる時には馬を馬を引き返してぱっと引き、敵が留まれば開き合わせて後ろに駆けまわる。 かくの如くに六、七度懸け悩ましける間、山徒は皆徒歩立ちである上に、重い鎧で肩を押さえつけられて次第に疲れたる様子に見えた。 武士は、これに利を得て射手を揃えて散々に射た。 大衆はこれに射たてられて平場での合戦は叶わないと思ったのか、またもや法性寺の中に引きこもろうとした所を、丹波の国の住人佐治(さちの)孫五郎と言う兵が西門の前に馬を横たえて、その頃にはかつてなかった五尺三寸の太刀を以て敵の三人をひっかける事もなく胴斬りにして、太刀が少し反り返ったのを門の扉に当てて推し直して、猶も敵を相待って西頭にして馬を控えさせた。 山徒はこれを見て、その勢いに辟易したのか、又、法性寺にも敵が有ると思ったのか、法性寺には入らずに西門の前を北に向かって、眞如堂の前の神楽岡の後ろを二つに分かれて、ただ山上へと引き返したのだ。 ここに、東塔の南谷の善智房の同宿に豪鑒・豪仙とて、三塔名誉の悪僧が居た。味方の大勢に引き立てられて心ならず北白川を指して引いたのだが、豪鑒が豪仙を呼び止めて、軍の習いとして勝つ時もあり負ける時もある。鬨の運に依る事であるから恥にして恥ではない。 然りと言えども、今日の合戦の體は山門の恥辱であり、天下の嘲弄するところならん。いざや、御辺、相共に返し合わせて討ち死にして、二人の命を捨てて三塔の恥を雪(きよ)めん。と、言いければ、豪仙は、言うにや及ぶ、尤も庶幾(こいねがう)する所である。と、言って二人で踏みとどまり法性寺の北の門の前に立ち並び、大音声を挙げて名乗ったのは、これ程に引き立てたる(逃げ輿になった)大勢の中からただ二人が返し合わせるのを以て、三塔一の剛の者とは知るべし。その名をば定めて聞き及びつらん。東塔の南谷・善智房の同宿で、豪鑒・豪仙とて一山に名を知られた者どもである。 我と思わん武士共は寄れや、打ち物して自余の輩(ともがら)に見物をさせようぞ。と、言うままに四尺余りの大長刀を水車に廻して躍りかかり、躍り懸かりして火花を散らしてぞ切ったのだ。 これを討ちとらんと相近づける武士共、多くは馬の足を薙ぎられ、兜の鉢を破られて、討たれてしまった。彼等二人は此処にて半時ばかり支えて戦ったのだが、続く大衆は一人もいない。 敵が雨が降る如くに射た矢で二人ながらに十余箇所じ傷を蒙って、今は所存はこれまでぞ(おもう所はこれが最後だ)、いざや、冥途まで同道しよう、と約束をして、鎧を脱ぎ捨てて押し膚を脱いで腹を十文字に掻き切って、同じ枕にこそ臥したのだ。 これを見る武士共は、あわれ、日本一の剛の者共かな。と、惜しまない者とてなかった。 前陣の軍が破れて引き返したので、後陣の大勢は軍場をさえ見ないで道から山門に引き返した。ただ、豪鑒と豪仙の振る舞いにこそ山門の名を揚げたのだ。 四月三日合戦の事 付 妻鹿(めが)孫三郎 勇力の事 山門の離反 官軍の兵数 減少する 去月(きょげつ)十二日に赤松は合戦に利なくして引き退いた後は、武家が常に勝ちに乗って、敵を討つこと数千人なりと言えども、四海はいまだ静かならず、あまつさえ山門がまた武家に敵して大嶽に篝火を焼き、坂本に勢を集めて、尚も六波羅に寄せるべしと聞こえたので、衆徒の心を取る為に武家から大庄十三か所の寄進が山門にあった。 その外に宗徒の衆徒に便宜(びんぎ)の地を一二か所充祈祷の為にとて恩賞を行われける。 さてこそ、衆議は心々になして、武家に心を寄せる衆徒も多く出来にければ、八幡・山崎の官軍は先途京都の合戦に或いは討たれ、或るは傷を蒙むる者が多かったので、その勢は大半を減じて、今は僅かに一万騎に足らざりけり。 官軍は二手に分かれて 武家を攻める 武家も軍を進めて 合戦する されども武家の軍立ち(軍勢の配置)、京都の形勢恐れるに足らずと見通していたので、七千余騎を二手に分けて、四月三日の卯の刻(午前六時)に又京に押し寄せたのだ。 その一方には殿法印良忠(りょうちゅう)・中院定平を両大将として、伊東・松田・頓宮・富田(とんだ)の判官の一党、並びに眞木・葛葉の溢れ者(無法者、ならず者)共を加えてその勢は都合三千余騎が伏見・木幡(きばた)に火をかけて、鳥羽・伏見から押し寄せた。 又、一方には赤松入道圓心を始めとして、宇野・柏原・佐用(さよ)・眞嶋・得平・衣笠、菅家の一党都合その勢三千五百余騎、河嶋・桂の里に火を懸けて、西の七条から押し寄せた。 両六波羅は度々の合戦で、打ち勝って兵が皆気を挙げている上に、その勢を数えると三万余騎に余る間、敵は既に近づいたと告げけれども、仰天の)気色もない。 六条河原に勢ぞろえをして閑(しずか)に手分けをせられたのだ。
2026年04月15日
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寄せ手の兵共はこれを見て、馬の鼻を並べて駈け散らそうとすれば、山が険しいので上り得ずに広い場所におびき出して打とうとすると、敵はこれを心得て懸らず。 よしや(ええ、ままよ)人々、はかばかしからぬ野伏共に目をかけて骨を折っては何かはせん。ここをば打ち捨てて山崎に打ち通れ。と、議して西岡(にしのおか)を南に打ち過ぎた所に、坊城左衛門が五十余騎で思いも寄らない日向明神の小松原から駆け出でて、大勢の中に切って入った。 敵を小勢と侮って真ん中に取り籠め余さないと戦う所に、田中・小寺・八木・神澤(かんざわ)等がここかしこから百騎二百騎と、思い思いに駆け出でて魚鱗に進み、鶴翼に囲まんとした。 これを見て狐河に控えたる勢の五百余騎、六波羅勢の跡を切ろうと縄手を伝い、道を横切って打ち廻るのを見て、京勢は叶わないと思ったのか、捨て鞭を打って引き返した。 片時(へんじ、暫時)の戦であるったから、京勢は多くを討たれてはいな)・深 田に陥って馬・物の具みな取る所も無く汚れたので、白昼に京中を打ち通るのに見物している人毎に、哀れ、さりとも陶山・河野を向けられたのであればこれ程に穢い負けは喫さなかったであろうにと、笑わぬ人はいなかったのだ。 されば京勢は此の度は討ち負けて、向かわないで京に残った河野と陶山の手柄の程が非常に高くなったのだ。 山徒 京都に寄せる 事 大塔の宮 山門を 語らわる 衆徒の決議 賛同 京都に合戦が始まって、官軍はややもすれば利を失う由、その聞こえありしかば、大塔の宮から牒使(牒状・回状まわしぶみを持ち廻る使い)を立てられて、山門の衆徒を語らわれた。 これに依って三月二十六日に一山(全山)の衆徒が大講堂の庭に会合して、それ、我が山は七社(滋賀県大津市坂本にある比叡山の守護神を日吉神社・山王神社と言い、その本宮・摂社・末社を合わせた二十一社を上中下に三区分して言う称)應化(おうけ、仏が人を救うために姿を変えて出現すること)の霊地として百王(百代の王)鎮護の潘籬(はんり、垣。皇室を守護するもの)となる。高祖大師(我が天台宗の開祖、伝教大師)が開基を占めた始めに、止観(天台宗で、散乱を止め明了の心を以て法を観照することの行を修する道場の雅称)の窓の前に天眞獨朗の夜の月を翫ぶと言えども、慈恵僧正(良源の謚号)が貫頂(天台座主の異称)たるの後に忍辱(にんにく、袈裟の異称)の衣の上に忽ちに魔障降伏の秋の霜を帯びる。然りしより(それ以来)このかた妖孼(ようげつ、災い)が天に現れる時は、則ち法威を振ってこれを払う。逆暴が国を乱す際には則ち神力を借りてこれを退ける。かるがゆえに神を山王と號する。すべからく非三非(山王の二字を仏法に当てて言うと、山の字は横の一点と縦の三点である。王の字は横の三点と縦の一点である。三蹄さんたい、蹄は真理の意。空蹄・仮蹄・中蹄、又は空蹄・色蹄・心蹄は一蹄であり、三の異を立てない。一蹄不思議の妙法であるが、しかも三蹄の実はおのずからに備わっている。例えば鏡と明と像の三つはその差はあるが、暫くも離れる時がない。三にもあらず、一にもあらず、これを非三非一の深理と言う。即ち、山王の二字に三蹄即是・三蹄は本来融通無一である事の理があるのを言う)の深理があるべし。山を比叡と言い、仏法王法が相比するべき所以である。しかるに今四海まさに乱れ、一人(天子)は安からず。武臣積悪のあまりに果たして天正に誅を下さんとする。その前兆は賢愚なきにあらず、共に世間の知る所となる。王事は脆(もろ)い事なし(帝王の事業は堅牢でなければならないから)、釈門(仏門、僧侶)たとい出塵の徒(世の中を捨てた者)となったとしてもこの時に如何ぞ報国の忠を尽くす事なからんや。早く武家合体の前非を翻して、朝廷扶危の忠膽を宜しく専らにすべし。と、詮議したところ三千一同に尤も尤もと同じて、院々谷々に帰り、則ち武家追討の外は他事がない。 六波羅勢の 発向と 対陣 山門は既に、来る二十八日に六波羅に寄せるべしと定めたので、末寺・末社の輩(やから)は申すに及ばず所縁(縁故)に随って近国の兵を集めた事は雲霞の如くである。 二十七日に、大宮(日吉・ひえ七社の一つ)の前で着倒を付けていた所、十万六千余騎と注した。 大衆(だいしゅう)の習いで、大逸り極まりなき所存であるから、この勢が京に寄せたならば六波羅はひとたまりもなく敗れてしまうであろう。 聞き落ちにぞせんずらんと(噂を聞いただけで逃げようとするだろう)思い侮って、八幡・山崎の味方にも牒(しめ)し合わせずに二十八日の卯の刻(午前六時)に、法性寺にて勢揃えあるべしと触れたりければ、物の具もせずに兵粮をもいまだ食べないで、或いは今路から向かい、或いは西坂から降り下る。 両六波羅はこれを聞いて、思うに、山徒がたとい大勢であるとは言えども騎馬の一人も有るべからず。こなたには馬上の射手を揃えて、三条河原に待ち承けさせて、懸け開き懸け合わせて弓手・妻手に追い物射に射たならば、山徒は心は勇とも徒歩立ちに力疲れて、重い鎧に肩を引かれて片時の間に疲れてしまうだろう。 これが小を以て大を砕き、弱(よわき)を以て剛を拉(ひし)ぐの行いである。とて、七千余騎を七手に分けて、三条河原の東西に陣を張り、待ちかけたのだ。 大衆はこうであるとは思いもかけずに、我先にと京へと入り、よいと思われる宿を取って財宝をも管領しようと志して、宿札(門などに掲げて、その人の宿であることを知らせる札)共を面々に二三十づつ持たせて、先ず法性寺へぞ集まった。
2026年04月14日
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西八条の寺の前を南に打ち出でければ、信濃の守貞範三百余騎、羅城門の前にある水の潺(せせらぎ、水の浅瀬)で馬の足を冷やし、敗軍の兵を集めようと、旗を打ち立てて控えたり。 則祐がこれを見つけて、諸鐙(もろあぶみ)を合わせて(両鐙を同時に使って、急いで)駆け入りければ、追いかけていた八騎の敵共、善き敵と見ていたものを遂に打ち漏らしてしまったぞ。癪なことであるよ。という声が聞こえて、馬の鼻を引き返したのだ。 暫くありければ、七条河原・西朱雀にて駈け散らされたる兵共、ここかしこから馳せ集まって、また千余騎になった。 赤松はその兵を東西の小路から進ませて、七条辺で又鬨の声をあげたところ、六波羅勢の七千余騎六条院を後ろに当て、追い返しつつ二時余りぞ責め合いたる。 かくては軍の勝負は何時あるべしとも覚えざる所に、河野と陶山の勢五百余騎が大宮を下りに打って出て、後ろを裏(つつま)んと廻りける勢いに後陣を破られて、寄せ手が若干討たれたので、赤松は僅かの勢になって、山崎を指して引き返したのだ。 河野、陶山の凱陣、臨時の宣下 敵の首を六条川原に 曝す 河野と陶山とは勝ちに乗じて作道の辺まで追いかけたのだが、赤松はややもすれば取って返さんとする勢いを見て、軍はこれまでである、そんなに長追いをするでない。とて、鳥羽殿の前から引き返し、生捕り二十余人、首を七十三取って切っ先に貫いて、朱になって(血まみれになって)六波羅へと馳せ参った。 主上は御簾を捲かせて叡覧なされた。 両六波羅は敷き皮に座して、これを検知した。両人の振る舞いはいつもの事であるが、殊更今夜の合戦に旁々(かたがた)手を下し、命を捨てる覚悟でなかったならば、叶わなかったであろうと見え候ぞ、と再三感じて賞玩された。 その夜にやがて臨時の宣下があって、河野九郎をば對馬の守になされて御剣を下され、陶山次郎を備中の守になされて、寮(馬領・めりょうで飼養した馬、馬寮とは御牧及び諸国の牧場から貢する官馬の調習・飼養及び供御の乗具などのことを掌った役所)の御馬を下されければ、これを見聞した武士達は、あわれ、弓矢の面目であるよ、と、或いは羨み、或いは嫉み、その名は天下に知られたのだ。 軍が散じて翌日に、隅田と高橋が京中を馳せ廻って、ここかしこの堀や溝い倒れていた手負いや死人共の首共を取り集めて、六条川原に懸け並べたのだが、その数は八百七十三あった。 敵はこれ程までは多く討たれなかったのだが、軍もしない六波羅勢共は「我は高名したり」と言おうとして洛中・邊土の在家人(ざいけにん、田舎家の人)の頸を似せ首にして様々の名を書きつけて出した頸どもが多く入っていたのだ。 その中には、赤松入道圓心と札を付けた首が五つあった。いずれも見知りたる人がないので同じようにぞ懸けたのだ。 京わらんべはこれを見て、首を借りたる人は利子を付けて返すべし、赤松入道は分身して、敵の尽きない相をしているぞ、口々にぞ笑ったのだ。 禁裏(きんり、宮中)・仙洞(せんとう、上皇の御所) 御修法の事 付 山崎合戦の事 諸社寺に於いて 祈禱を行うのだが 効験はなし この頃は四海が大いに乱れて、兵火が天を掠めた。 聖主(天子、ここは光巌天皇)扆(い、中国で玉座の後ろに立てた屏風で、斧の形を赤地の絹のに刺繍したもので、天子が諸侯に対面する時に用いた)を負いて春秋に安きときなし。武臣は矛を建てて旌旗閑日なし。これ法威を以て逆臣を鎮めなければ静謐その期あるべからずと、諸社諸寺に課して大法秘法をぞ修せられける。 梶井宮(尊胤法親王)は聖主の連枝(兄弟)、山門の座主にて御坐(おわ)しましければ禁裏に壇を立てて佛眼(息災の為に佛眼尊を本尊として修する法)の法を行わせ給う。 裏辻の慈什僧正は仙洞にて薬師の法を行われる。 武門また山門・南都・園城寺の衆徒の心を取り、霊鑑(神仏の霊妙な照覧)の加護を仰がん為に所々の荘園を寄進して、種々の神寶を奉り、祈願を致されしかども公家(朝廷)の政道正しからず、武家の積悪が禍を招いてしまったので、祈るとも神は非礼を承けず、語らえども人は利欲に耽らないのか、只日を追って国々から急を告げる事隙がなかった。 赤松は 中院貞能を立てて 聖護院宮と称す 六波羅と戦い これに勝つ 去る三月十二日の合戦に赤松は討ち負けて、山崎を指して落ちて行ったが、今は何事か有るべきとて油断なされたので、敗軍の兵がここかしこから馳せ集まり、程も無く大勢になぅたので、赤松は中院の中将貞能を取り立てて、聖護院の宮と號して、山崎・八幡に陣を取り、河尻(川口、鴨・桂・宇治・木津の諸川が合流して淀川となる地点で、此処を扼くすると水陸共に西国との交通を断ち得る)を差し塞ぎ、西国往反の道を打ちとどめた。 これによって洛中の商売は止められて、士卒は皆転漕(陸と海から兵糧を運ぶ事)の助けに苦しんだ。両六波羅がこれを聞いて、赤松一人に洛中を悩まされて今士卒を苦しめる事は安心ではない。さる十二日の合戦の體を見るに、敵はそれほどに大勢ではなかったのに、言う甲斐ない聞き怖じをして敵を辺境の間に差置くこそは、武家後代の恥辱である。 所詮は今度に於いては官軍を遮って敵陣に押し寄せ、八幡・山崎の両陣を攻め落とし、賊徒を河に追い嵌め、その首を取って六条の河原に曝すべし、と下知せられければ、四十八か所の篝、並びに在京人、その勢は五千余騎、五条河原に勢ぞろいして三月十五日の卯の刻に、山崎へとぞ向かったのだ。 この勢、始めは二手に分けていたが、久我縄手は路は細くて深田なので馬の駆け引きが自在には行かないだろうと、八条から一手になって桂川を渡り、河嶋の南を経て物集女(もずめ)・大原野の前から寄せたのだった。 赤松はこれを聞いて三千余騎を三手に分けた。一手には足軽の射手を選って五百余人、小塩山に廻した。一手をば野武士(落ち武者を脅迫して甲冑などを剝ぎ取った土民又は武士の集団)に騎馬の兵を少し交えて千余人を狐河の辺に控えさす。 一手をば専ら打ち物(打ち鍛えた武器、即ち槍や刀の類)の衆八百余騎を揃えて向日(むかうの)明神の後ろにある松原の陰に隠し置いた。 六波羅勢は敵がそこまで出で合っているとは思い寄らずに、そぞろに(何の気もなく)深入りして寺戸の在家(ざいけ、田舎家)に火をつけて、先駆け(先頭に立つ者)が既に向日(むかうの)明神の前をを打ち過ぎた所を、善峰(よしみね)・岩蔵(いわくら)の上から足軽の射手が一枚楯をてんでに引っ提げて麓まで降り下って散々に射た。
2026年04月13日
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資名(すけな)・資明(すけあきら)の二人が御前に参じて、官軍は戦いが弱くして逆徒が期せざるに洛中に襲い来り候。斯様にて御座候えば賊徒が差し違えて御所中にも乱入仕ると覚え候。急ぎ三種の神器を先立て六波羅に行幸なされ候え。 と、申されければ、主上はやがて瑶輿(ようよ、玉で飾った意で、御輿)に召されて、二条川原から六波羅に臨幸なされた。 その後、堀河大納言・三条源大納言・鷲尾中納言・坊城宰相以下(以下)月卿雲客の二十余人が路次に参着して(臨幸の途中に追いついて)供奉(ぐぶ)し奉る。 これを聞き召し及んで、院・法王・東宮・皇后・梶井の二品親王まで皆が、六波羅迄御奉成る間、供奉の卿相雲客が軍勢の中に混じって警蹕(けいひつ、先払い)の声が頻りであるので、これさえ六波羅の仰天は一方ならず。 俄かに六波羅の北方を空けて、仙院・皇居となした。事の體は騒がしかりし有様である。 河野、陶山の軍勢が 蓮華王院の敵を破る やがて、両六波羅は七条河原に打ち立てて、近づく敵を相待った。 この大勢を見ては敵もさすがにあぐんで(嫌気がさす、うんざりする)や思いけん、ただ此処彼処に走り散って、火を懸け、鬨の声を挙げるだけで、同じ陣で控えている。 両六波羅はこれを見て、如何様、敵は小勢であると覚えるぞ、向かって追い散らせと、隅田(すだ)・高橋に三千余騎を相添えて八条口に差し向けられた。 河野九郎左衛門尉・陶山(すやま)次郎に二千余騎をさし副えて蓮華王院に向けられた。 陶山が河野に向って言ったことには、何ともない取り集め勢に交わって軍をすれば、なまじいに足手纏になり駆け引きも自由にはなるまい。いざや、六波羅殿から指し添えられた勢を八条河原に控えさせて、鬨の声を挙げさせ、我等は手勢を引きすぐって蓮華王院の東から敵の中に駆け入り、蜘手十文字に駆け破り、弓手妻手(ゆんでめて)に相付けて追い物(犬追い物、竹垣で方百メートルほどの馬場を囲い十二騎の武士が三手に分かれ、百五十匹の犬を追いかけて射る)射に射てくれよう、と言った所、河野は、もっともにて候、然るべし、と同じて、外様の勢の二千余騎を塩小路の道場前に差し置いて、河野の勢三百余騎と陶山の勢百五十余騎を引き分けて、蓮華王院の東に廻ったのだ。 相図の程になったので、八条河原の勢は鬨の声を挙げたのだが、敵はこれに立ち合わせんと馬を西頭に立てて、相待つ所に、陶山・河野四百余騎で思いも寄らぬ後ろから鬨をどっと作って、大勢の中に駆け入り、東西南北に駆け破って敵を一所に打ち寄せずに、追い立て追立責め戦った。 河野と陶山は一所に合っては両所に別れ、両所に分かれては又一所に合う。七八度程は揉みあったのだ。長途に疲れた徒歩立ちの武者は駿馬の兵に懸け悩まされて、討たれる者はその数を知らず。手負いを捨てて、道を横切り、散々になって引き返す。 陶山と河野は逃げる敵には目もくれず、西七条辺の合戦はどんな風であろうか、心もとなしとて又七条川原を筋違いに西に打って、七条大宮に控え、朱雀の方を見遣りければ、隅田(すだ)・高橋が三千余騎で、高倉左衛門佐・小寺・衣笠が二千余騎で懸け立てられ、馬の足を立て兼ねている(騎馬の陣容を整え兼ねている)。 河野がこれを見て、このままでは見方が討たれてしまうだろう。いざや、打ってかかろうぞ、と言ったのを、陶山が「しばらく」と制したのだ。その故は、この陣の軍は未だ雌雄を決しないのに力を合わせて味方を助けたとしても、隅田・高橋の口の悪さは、恐らくは自分達の手柄だと言うであろう。暫くはこのままで、事の成り行きを見てみよう。敵がたとえ勝ちに乗ったとしても何ほどの事があろうか。そう言って見物していたのだった。 西七条辺の寄せ手も 河野・陶山の為に破られ 引き退く さるほどに、隅田・高橋の大勢は小寺・衣笠の小勢に追い立てられ、返さんとするのだが叶わず、朱雀を上りに内野を指して引くのもある。七条を東に向かって逃げるのもある。馬に離れたる者は心ならずも返し合って闘い死ぬもあり。 陶山がこれを見て、余りに長居していては味方が弱ってしまい由無し。いざや、今は懸け合わせようぞ、と言えば、河野は「仔細には及ぶ(異議は全くない)」と言うままに、両勢を一手になして大勢の中に駆け入り、時が移るまで戦ったのだ。 四武の衝陣(四方の武者を同時に疾く敵陣に突貫させる兵法)守りの堅いのを砕いて、百戦の勇力は変に応じたので、寄せ手はこの陣でも軍に打ち負けて、寺戸を西に引き返したのだ。 赤松兄弟の奮戦 と赤松勢の敗北 筑前守貞範・律師則祐の兄弟は、最初に桂川を渡った際の合戦に、逃げる敵を追い立て、跡に続く味方がないのも知らずに、ただ主従の六騎だけで、竹田を上りに法性寺大路に懸け通り、六条川原に打ち出でて、六波羅の舘に駆け入らんとして待ったのだ。 東寺から寄った味方ははや打ち負けて、引き返しけりと覚えて、東西南北にてきより外はない。 さらば暫くは敵に紛れて味方を待たんと、六騎の人々は皆笠符をかなぐり捨て、一所に控えたる所に隅田・高橋が打ち廻って、如何様、赤松の勢共はなお味方に紛れてこの中にあると覚えるぞ。河を渡った敵であるから、馬・物の具が濡れていない物はない。 それを目印にして、組討ちに撃て。と、呼ばわったので、貞範も則祐もなかなか敵に紛れようとすれば都合が悪いだろうと、兄弟郎党の僅かに六騎で轡を並べわっと呼ばわって敵の二千騎の中に懸け入って、ここに名乗り、かしこに紛れて相戦ったのだ。 敵は、これ程の小勢とは思い寄るべきことではないから、東西南北に入り乱れて、同士討ちをうること数刻である。 大敵を謀るには勢いは久しくないので、郎党の四人はみな所々で討たれてしまった。 筑前守は押し隔てられて、則祐は只一騎になって、七条を西へ大宮を下りに落ち行く所に、印具(いぐ)尾張守の郎従の八騎が追いかけて、敵ながら優しく覚え候(立派だ、けなげだ)ものかな。誰人にておわするぞ、御名乗り候え。と、言った所、則祐は馬を閑(しずか)に打って(馬を御して)、身は不肖にて候えば名乗り申す事はあるべからずと存じ候。ただ頸を取って人に見せられ候え、と言うままに敵が近づけば打ち合わせて、敵が引けば馬を歩ませて二十余町の間を敵の八騎と打ち連れて心閑に落ちて行ったのだ。
2026年04月09日
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三月十二日の合戦の事 赤松勢が 京都に入る 六波羅勢の発向 六波羅ではかかる事とは夢にも知らず、摩耶の城には大勢を下したので、敵を攻め落とす事は日を過ごさないだろうと、心易く思っていた。 その左右を今か今かと待っていた所に、寄せ手が打ち負けて逃げ上る由を披露あって、実説はいまだ聞かず。何とあることやらんと、不審が端多い所に、三月十二日、申の刻(午後四時)ばかりに淀・赤井・山崎・西岡邊の三十余箇所に火を懸けた。 こは、何事ぞ、と問うに、西国の勢は既に三万で寄せて来た。とて、京中が上を下へと返して騒動する。 両六波羅は驚いて、地蔵堂の鐘を鳴らし、洛中の勢を集められけれども、宗徒の勢は摩耶の城から追い立てられ右往左往に逃げ隠れた。 その外は奉行・頭人(引き付け頭人、引き付け衆の首席)なんどと言われて肥え膨れていた者どもが馬に舁き乗られて四五百騎馳せ集まったけれども、皆ただ呆れ迷うばかりであり、さしたる義勢(気力、意気込み、見せかけの勇気)も無かったのだ。 六波羅の北の方(北丁の長官)、左将監仲時は事の軆を見ると、何様、居ながら京都にて敵を待つことは武略が足りない事に似ている。 洛外に、馳せ向かって防ぐべし。とて、両検断の隅田と高橋に在京の武士二万余騎を相添えて、今在家・作道・西の朱雀・西八条辺へ差し向けられ、これはこの頃南風に雪が解けて河水が岸に余る時であるから、桂川を隔てて戦いを致さん謀である。 両陣は桂川を隔てて 対陣す 赤松則祐は川を渡す 六波羅勢の退却 さるほどに赤松円心は三千余騎を二手に分けて、久我縄手・西の七條から押し寄せた。 大手の勢は桂川の西の岸に打ちならんで、川向うなる六波羅勢を見渡せば、鳥羽の秋山風に家々の旗が翩翻(へんぽん、ひるがえる様)として城南の離宮の西門から作道・四塚(よつづか)・羅城門の東西、西の七條口まで支えて雲霞の如くに充満したのだ。 されどもこの勢は桂川を前にして防げと下知されている、その趣を守って川をば誰も越えなかったのだ。寄せ手は又、思いの外に敵が大勢であることを思惟して、左右なく打ちかかろうともしなかった。 只、両陣は川を隔てて矢軍にぞ時をぞ移したのだ。 中にも、帥律師則祐は馬を踏み離して、徒歩立ちになり、矢を束ね解いて、押し寛げ、一枚楯の陰から引き攻め、引き攻め、散々に射ったのだが、矢軍だけでは勝負は決しようがない、と独り言を言って脱ぎ置いた鎧を肩にかけて、兜の緒を締め、馬の腹帯を固めて、只一騎で岸から下に打ち下ろして手縄をかいくり渡らんとした。 父の入道が遥かにこれを見て、馬を打ち寄せて、面に塞がって制したのは、昔、佐々木三郎が藤戸を渡し、足利又太郎が宇治川を渡ったのは、兼ねて澪印を立てて案内を見置き、敵の無勢(ぶせい)を目に掛けて先を懸けた(先駆け、先に立って敵陣に攻め込む)ものだ。川上の雪が消えて、水が勝り、渕瀬も見えない大河を嘗て案内も知らずに渡るならば、渡れるものであろうか。たとえ馬が強くして渡ることを得たとしても、あの大勢の中にただ一騎で駆け入ったならば、討たれずと言う事は有るべからず。 天下の安危は必ずしもこの一戦に限るべからず。暫く命を全うして、君の御代(ごよ)を待たんとする心はないのか。と、再三、強いて止めた所、則祐は馬を立て直して抜いていた太刀を収めて、申したのは、味方と敵と對揚(匹敵)すべき程の勢にてだに候ならば、我と手を下さずとも、運を合戦の勝負に任せて見候べきを、味方は僅かに三千余騎、敵はこれに百倍している。 急に戦いを決しないならば、敵に無勢の程を見透かさてしまったならば、戦うと言えども利はあるまいと思われまする。されば太公の兵道の詞(ことば)に、兵勝之術、密察敵人之機、而速乗其利、疾撃其不意、と言っている。是以我困兵、敗敵強陣の謀(はかりごと)にて候わぬや。と、言い捨てて駿馬に鞭を進め、みなぎりて流れる瀬枕(川の早瀬の波が物に激して水面より高くなった所。川底を寝床と見ると、その所は枕に当たるから言う)に逆波を立てながら泳がせたのだ。 これを見て、飽間黒羽左衛門尉・伊東大輔・川原林二郎・木寺相模・宇野能登守國頼の五騎が続いて颯と打ち入った。 宇野と伊東は馬が強いので真一文字に流れを切って渡る。木寺相模は逆巻く波に馬を放されて兜の手反(てへん、兜の頂上の辺り)だけが僅かに浮かんで見えていたが、浪の上を泳いだのだろう、或いは水の底を潜ったのか人よりも先に渡りついて、川の向こうの流れ洲に鎧の滴らせてぞ立ったのだ。 彼等五人の振る舞いを見て、尋常(よのつね)ならぬ者とや思いけん、六波羅の二万余騎は人馬が東西に辟易して敢えて駆け合わせようとする者はない。 あまつさえ楯の端がしどろになって色めき渡るのを見て、先駆けの味方を打たすな、続けや、とて、信濃守範資・筑前守貞範が真っ先に進めば、佐用・上月の兵三千余騎の兵共が一度に颯と打ち入って馬筏で流れを堰き上げたので、逆水が岸に余り、流れが十方に分かれて元の淵瀬は中々に陸地を行くが如し。 三千余騎の戸は向こうの岸に打ちあがり、死を一挙の中に軽くしようと進み勇める勢いを見て、六波羅勢は叶わないと思ったのか、いまだ戦わぬ前(さき)に楯を棄て、旗を引いて、作道を北へ東寺を指して引くもあり、竹田川原を上って法性寺大路へ落ちるのもある。その道の二三十町の間は捨てられた物の具が地に満ちて、馬蹄の塵に埋没した。 京中の 合戦 さる程に、西七條の手、高倉少将の子息左衛門佐、小寺・衣笠の兵共、早京の中に攻め入ったと見えて、大宮・猪熊・堀川・油小路の辺、五十余箇所に火をかけたのだ。 又、八条、九条の間にも戦いがあると覚えて、汗馬東西に馳せ違い、鬨の声が天地を響かせた。 只、大三災が一時に起こり、世界が悉く劫火の為に焼け失うかと疑われる。 京中の合戦は、夜半ばかりのことであるから、目指すとも知れない暗い夜に鬨の声がここかしこに聞こえて、勢の多少も、軍建ての様も見分けられないので、何処へ、何を目指して軍をなすべきとも覚えずに、京中の勢は先ずただ六条川原に馳せ集まって、呆れたるていで控えている。 持明院殿 行幸 六波羅 の事 光巌天皇 六波羅に 臨幸 日野中納言資名(すけな)・同左大弁宰相資明(すけあきら)の二名が同車して、内裏に参り給いければ、東西南北四方の門が徒に開いて、警護の武士は一人もいない。 主上が南殿に出御なされて、誰にて候ぞ、と御尋ねであったが、衛府諸司の官、蘭臺金馬(らんだいきんめ、弁官の唐名)の司もどへか行ってしまい、勾當(こうとう、掌侍・内侍司の三等官四人の中の首位の者)の内侍と上童の二人の外は御前に侯する者は無かった。
2026年04月08日
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この山に登るのに、七曲りとて険しく細い道がある。 この所に至りて、寄せ手は矢を射られて少し勢いを挫かれ、上り兼ねてそのままの状態を保っている間に、赤松律師則祐(そうゆう)・飽間(あくま)九郎左衛門尉光泰の二人が南の尾崎に下降(おりくだ)って矢種を惜しまずに散々に射ったので、寄せ手は少し勢いをそがれて互いに人を楯になして、その陰に隠れようと、敗色が見え隠れしている。 その気配を見て取り、赤松入道の子息・信濃守範資(のりすけ)・筑前守貞範(さだのり)。佐用(さよ)・上月(こうつき)・小寺・頓宮(とみや、とんぐう)の一党五百余人、峰(きっさき)を揃えて大山が崩れるが如くに二の尾から打ち出たので、寄せ手は後から引き立てて、返せ、と言うけれども、耳にも聞き入れず、我先にと引いた。 その道は、或いは深田にして馬の蹄が膝を過ぎ、或いは荊棘が生い茂って行く先はいよいよ狭いので、返さんとするも叶わず、防がんとするも便りがない。 されば城の麓から武庫河(むこがわ)の西の縁(はた)まで道の三里の間は、人馬がいやが上にも重なり死して、行人は路を去り敢えず、向かう時に七千余騎と聞こえた六波羅の勢は僅かに千余騎にだにも足らずに足らずに引き返しければ、京中で六波羅の周章斜めならず、然りと言えども敵は近国から起こって属順(つきしたが)った勢はそれほどには多いとは聞こえないので、たとえ一度や二度勝ちに乗る事があっても、何ほどの事があるべき。と、敵の分限を推し計って引けども機(き、心の働き)を失わない。 六波羅勢は 再び摩耶山に向う 赤松父子 危難に遇い 僅かに遁れる かかる所に、備前の国の地頭・御家人も大略が敵になったと聞こえていたので、摩耶城に勢が重ならない先に討っ手を下せと言って、同(おなじき)二十八日、又一万余騎の勢を指し下された。 赤松入道はこれを聞いて、勝ち戦の利は謀を不意に出て、大敵の気を凌いで須臾に(忽ちに)変化して先んずるに如かず。とて、三千余騎を率っして摩耶の城を出て久々智(くくち)・酒部に陣を取って待ち懸けた。 三月十日に六波羅勢は既に瀬河(大阪府)に着いたと聞こえたので、合戦は明日になるだろうと赤松は少し油断をして、ひと村雨が過ぎる程を物の具の露を干そうとして、僅かなる在家に込み入って雨の晴れ間を待っている間に、尼崎から船を止めて上がった阿波の小笠原、三千余騎で押し寄せたのだ。 赤松は僅かに五十余騎で大勢の中に駆け入り、面も振らずに(一心に、まっしぐらに)戦ったのだが、大敵を凌ぐのに叶わないので四十七騎は討たれ、父子の六騎だけになってしまった。 六騎の兵は皆、揆(しるし、軍隊の印に兜の前、或いは後ろに付けた小旗)をかなぐり捨て、大勢の中に颯と交わり懸かりければ、敵はこれを知らないのであろうか、又、天運にかかったのか、いずれも恙無くして、味方の勢の小屋野の宿の西に三千余騎にて控えたるその中に、馳せ入って虎口に死を遁れたのであった。 六波羅勢は昨日の戦で敵の勇鋭を見ると、小勢とは言えども欺きがたいと思っていたので、瀬河の宿に控えて進み得ない。 赤松勢が 六波羅勢を 破る 赤松は又、敗軍の勢を集めて遅れたる勢を待ち調える為に、軍を仕掛けないで互いに陣を隔てていまだに雌雄を決しようとしない。 丁壯(士卒)そぞろに軍旅(戦争)に就くならば敵に気を奪われるだろうと、同十一日に赤松は三千余騎で敵の陣に押し寄せて、先ず事の軆(てい)を伺い見るに、瀬河の宿の東西に家々の旗二三百流れが梢の風に翻って、その勢は二三萬騎もあるかと疑われる。 味方をこれに合わせて見れば、相手の百に対して一二にも比べることは出来ないと見えるが、戦わなくては勝つ道はないので、ひとえに唯討ち死にと志して、筑前の守貞範・佐用兵庫の助範家・宇野能登守國頼・中山五郎左衛門尉光能(みつよし)・飽間(あくま)九郎左衛門尉光泰は、郎党共と七期にて竹の陰から南の山に打ち上がって進み出たのだ。 敵はこれを見て、楯の端が少し動いてかかるのかと思えばそうではなくて、色めきたる(敗色が表われた)気色に見えたので、七騎の人々は馬から飛び降りて、竹が一叢繁っている所を間に合わせの楯にとって、差し攻め、引き攻め(矢を弓弦にしっかりとつがえては十分に引き絞り)散々に(したたかに)射たのだった。 瀬川の宿の南北三十余町に沓(くつ)の子を打ったる様に(沓の底に打った鋲、多くの人が立ち並ぶ様に譬える)控えている敵であるから、どうして狙いが外れるであろうか、外れる筈がない。矢頃(矢を射る距離)に近い敵二十五騎が真っ逆さまに打ち落されたので、矢面にいる人を楯にして、馬を射させまいと陣容を整え兼ねた。 平野伊勢前司・佐用・上月・田中・小寺・八木・衣笠の若者共は、すはや、敵は色めきたるは(敗色があらわれたぞよ)と、箙(えびら、矢を盛って背に負う道具)を叩き、勝鬨を作って七百余騎が轡(くつばみ、馬のくつわ、金属製の具で、馬の口に含ませて馬を御するのに使用する)を並べてぞ駆けたのだ。 大軍が靡く癖であるから、六波羅勢は前軍が返っても後陣が続かない。行く先は狭まいぞ、閑(しずか)に引け、と言っても耳には入らず、子は親を棄て、郎党は主を知らず。我先にと落ち行くのでその勢の大半が討たれて僅かに京へと帰ったのだ。 赤松の勢が 六波羅勢を 追う 赤松は、手負い・生捕りの頸三百余、縮河原に切り懸けさせて、又摩耶の城に引き返そうとしたのだが、圓心の子息帥律師則祐(そくゆう)が進み出て申したのは、軍の利は勝ちに乗じて逃げるのを追うのには如かず。今度、寄せ手の名字を聞くに、京都の勢は数を尽くして向かって候なる。 この勢共は今四五日は、長度の負け戦に草臥れて、人馬共に物の役に立つはずもありませんでしょう。臆病神が醒めない先に、続いて責めるのならば、などかは六波羅を一戦の中に攻め落さないでいられましょうか。 これ、太公(周代の斉の始祖、太公望呂尚。武王を助けて殷を滅し、天下を平定した)の兵書に出ていて、子房(しぼう、漢の高祖に仕えた張良。字は子房。一老父・黄石公から兵法の書を与えられた)が心底に秘めていた所ではありませんでしょうか。と、言った所、諸人が皆この義に同じて、その夜やがて宿川原を立って、路次(ろし)の在家(道筋の田舎家)に火を懸け、その光を手松(たいまつ)にして逃げる敵に追い縋って、責め上ったのだ。
2026年04月07日
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一日の内に兵粮を五千余石を運んだのだ。 その後、家中の財宝を悉く人民百姓に与えて、己の館に火をかけて、その勢は百五十騎にて船上に馳せ参り、皇居を警護仕る。 長年の一族で、名和の七郎と言う者、武勇の謀があったので、白布五百反(たん)あったのを旗に拵え、松の葉を焼いて煙にふすべ、近国の武士共の家々の紋を描いて、この木の本、かしこの峯にぞ立て置いたのだ。この旗共が峰の嵐に吹かれて、陣々に翻った様は山中に大勢が充満していると見えて夥しい。 船上(ふなのうえ)の 合戦の事 佐々木清高等が 船上山を 攻める さるほどに、同じく二十九日に隠岐判官・佐々木弾正左衛門がその勢三千余騎にて南北から押し寄せたのだ。 この舟上と申すのは北は大山(だいせん)に続き岨立ち、三方は地が下がって峰にかかっている白雲が腰に廻っている。 似赤に拵えた城であるから、まだ堀の一所も掘らず、塀の一重も塗らず、ただ大木の少々を所々に切り倒して逆茂木に引き、坊舎(僧の住む家)の甍(いらか)を破って、掻き楯として並べただけである。 寄せ手の三千余騎は坂中まで駆け上がって、城中をきっと見上げたれば、松柏が生い繁って、非常に深い木陰に軍勢の多少は知らね共、家々の旗が四五百流れ、雲に翻り、日に映じて見えたのだ。 さては早や、近国の勢共が悉く馳せ参じていたのか。 この勢ばかりでは攻め難いとや思ったのか、寄せ手が皆心に危ぶんで、進み得ず、城中の勢共は敵に勢の分際を見せまいと、木陰にぬはれ(ここかしと隠れ)伏して時々射手を出して遠矢を射させて日を暮らす。 寄せ手敗北する 清高の末路 かかる所に、一方の寄せ手なりける佐々木弾左衛門尉は遥かの麓に控えていたのだが、いずかたより射れるとも知れぬ遠矢に右の眼を射抜かれて、矢庭に伏して死んでしまった。 これに依りて、その手の兵五百余騎は色を失いて軍をもせず。 佐渡前司は八百余騎で搦手に向っていたが、俄かに旗を巻き甲を脱いで降参した。 隠岐判官は猶、斯様の事も知らずに、搦手の勢は定めて今は責め近づいているだろうと心得て、一の木戸口に支えて、新手を入れ替え入れ替えして時が移るまで攻めたのだ。 日は既に西山に隠れなんとしける時に、俄かに天が書き曇り、風が吹き雨が降ることは車軸(車の太い心棒の様な垂直に降る雨」の如くである。雷が鳴ることは山を崩すかと感じられる。 寄せ手はこれに怖じわなないて、ここかしこの木陰に立ち寄りて群がりいたる所に、名和又太郎長年、舎弟の太郎左衛門長重、小次郎長生(ながかた)が射手を左右に進めて、散々に射させ、敵の楯の端が揺るぐ所を得たりや賢しと刀を抜き連れて打ってかかった。 大手の寄せ手千余騎は谷底にみなまくり(追い払われて)落されて、己の太刀・長刀に貫かれて命を落す者数を知らず。 隠岐判官ばかりが辛くも命を助かって、小舟一艘に取り乗り、本国に逃げ帰ったのだが国人は何時の間にか心変わりをして、津々浦々を堅め防ぎける間、風に任せ波に随いて越前の敦賀に漂い寄ったのだが、幾程もなくして六波羅が没落の時に、江州(ごうしゅう、近江国)番馬(旧中山道の一駅)の辻堂で腹をかき切って失せたのだ。 世は澆季(ぎょうき、道徳や風俗が軽薄になった末世の時代)に成ったとは言え、天理はまだ残っていたのか、余りに君を悩まし続けた隠岐判官が三十余日の間に滅び果てて、首を軍門の幢(はたほこ、小さな旗を上に付けた鉾)に懸けられたのは不思議であるよ。 諸国の軍勢が船上山に 馳せ集まる 主上は隠岐の国から還幸なって、船上に御座有ると聞こえしかば、国々の兵共が馳せ参る事は引きも切らず。 先ず一番に、出雲守護塩谷判官高貞、富士名(佐々木の分家)の判官と打ち連れて千余騎で馳せ参る。その後、浅山二郎が八百余騎、金持(かねぢ)の一党が三百余騎、大山衆徒七百余騎、凡て出雲・伯耆・因幡、三箇国の間に弓矢に携わる程の者が参らぬ者はなかったのである。 これのみならず、石見(いはみ)の国には澤・三角の一族、安芸の国に熊谷・小早川(こばいわ)、美作(みまさか)の国には菅家の一族・江見・方賀(はが)・渋谷・南三郷(さんごう)、備後の国では江田・廣澤・宮・三吉、備中に新見・成合・那須・三村・小坂・河村・庄・真壁、備前に今木・大富太郎幸範・和田備後の二郎範長・知間の二郎近經・藤井・射越(いのこし)五郎左衛門範貞・小嶋・中吉(なかぎり)・美濃権の介・和氣弥次郎季經・石生(おしこ)彦三郎、この他に四国・九州の兵までも聞き伝え、聞き伝えして我先にと馳せ参じたので、その勢は舟上山に居余りて、四方の麓の二三里は木の下、草の陰までもひとがいない所はなかった。 巻 第 八 摩耶 合戦 の事に付き 酒部・瀬河 合戦の事 佐々木時信、常陸前司時知、摩耶山に向かい 破れて京都に帰る 先帝は既に船上に着御なり、隠岐判官清高は合戦に打ち負けた後、近国の武士ども皆馳せ参る由、出雲・伯耆の早馬が頻並(しきなみ)に打って、六波羅に告げたので、事は既に珍事に及びぬと聞く人は色を失った。 これにつけても、京近い所に、敵の足を止めさせては叶うまい。 先ずは摂津の国の摩耶の城に押し寄せて、赤松を退治すべしとて、佐々木判官時信・常陸の前司時知に四十八か所の篝、在京人、並びに三井寺法師三百余人を相添えて、以上五千余騎を摩耶城に向かわせた。 その勢、閏二月五日に京都を立って、同(おなじき)十一日の卯の刻(午前六時)に摩耶の城の南の麓、求塚・八幡林から攻めたのだ。 赤松入道はこれを見て、態と敵を難所におびき寄せる為に、足軽の射手一二百人を麓に降ろして、遠矢を少々射させてから、城に引きあがったのだ。 寄せ手は勝ちに乗じて五千余騎、さしも険しい南の坂を人馬に息もつがせずに揉みに揉んでぞ上がったのだ。
2026年04月03日
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ここで時を打つ皷の声を聞けば、夜はまだ五更(午前四時から六時までを五更と言う)その初め(四時頃)である。 この道の案内者を仕った男は、甲斐甲斐しく湊中を走り回って、伯耆の国に漕ぎ戻る商人の舟が有ったのを、兎角に語らいて、主上を屋形の中に乗せ参らせ、その後で暇を申して止まったのだ。 この男は実にただ人にはあらずして、君御一統(天下を平定する)の御時に、尤も忠賞あるべしと国中を尋ねられたのだが、我こそはそれにて候と申す者は遂に現れ出なかったのだ。 佐々木清高の追跡 危難を遁れて 名和湊に御着 夜も既に明けたので、舟人は纜(ともづな)を解いて順風に帆を揚げて、湊の外に漕ぎ出した。 船頭は主上の御有様を見奉りて、ただ人にては渡らせ賜わじとや思ったのか、館の前に畏まって申したのは、かようの時に御舟を仕り候は我らが生涯の面目にて候。何処の国の浦に寄せよと御諚あらばそれに随いて、御舟の梶をば仕り候べし。と、申して、実に他事もなげな気色である。 忠顯朝臣はこの言葉を聞き給いて、隠しては中々に悪しかるべしと思われたのであろうか、この船頭を近くに呼び寄せて、これ程に推し当てられては何をか隠すべき。屋形の中に御座あるのは日本国の主(あるじ)、忝くも十善の君にて入らせ給う。 汝らも定めて聞き及んでいるであろうが、去年より隠岐判官の舘に押し込められて御座有られたが忠顯が盗み出だし参らせたのだ。 出雲・伯耆の間に何処であっても適当と思われる泊りに、急いで御舟を着けて降ろし参らせよ。御運が開けたならば、必ず汝らを侍に申しなさせて、所領一所の主となさせるであろう。と、仰せられければ船頭は実に悦ばし気なる気色にて、取り舵(船主を左に向ける時の梶の切り方」・面梶(右に向けるときの梶の取り方)を取り合わせて、片帆(帆を片法に寄せて斜めに風を受ける事)にかけてぞ馳せたのだ。 今は海上二三十里も過ぎたかと思われる所に、同じ追い風に帆を懸けてる舟が十ッ艘ばかり、出雲・伯耆を指して馳せ来る。 筑紫舟(九州方面に航海する舟)か商人舟(あきんどが用いて商品を運搬する舟)かとみれど、そうではなくて隠岐判官清高が主上を追い奉る舟である。 船頭はこれを見て、かくては叶い候まじ、此処に御隠れ候え、と申して主上と忠顯朝臣を船底に御座所を移し参らせて、その上にあひ物(塩魚類の総称)と言って干した魚が入った俵を積みて、水手(すいしゅ、船頭)・舵取り(かんどり、櫓や櫂で船を漕ぐ人)がその上に立ち並び、櫓をぞ押したのだ。 さるほどに追っ手の舟一艘、御座舟(主上の居ます舟)に追いついて、屋形の中に乗り移り、ここかしこと探したが、見出だし奉らず。 さては、この舟には召されなかったようだ。もしや、怪しい舟は通らなかったか、と問いけるに、船頭は、今夜の子(ね」の刻(午後十二時)ばかりに千波(ちぶり)湊を出で候つる舟にこそ京上臈と思しくて、冠とやらん着た人と、立て烏帽子を着た人と、二人を乗せ給いける。その船は今は五六里も先立ち候つらん、と申しければ、さては疑いも無き事である、早く舟を押せ、と言って帆を引き梶を直せば、この舟はやがて隔たったのだ。 いまはこうと心安く覚えて、跡の浪路を顧みれば、又、一里ばかり下がって追っ手の舟が百余艘が御座船を目に掛けて、鳥が飛ぶかのように追いかけた。 船頭はこれを見て、帆の下に櫓を立て、万里を一時に渡ろうと声を帆に挙げて(帆を高く上げるように声を張り上げて)押したけれども、時節に風が弛(たゆ)み塩向けて(潮の流れが舟の進む方向と逆に流れて)御舟は更に進まない。水手・舵取りはどうしようかと慌て騒いでいる間に、主上は船を底から御出でなされて、膚の御守りから仏舎利を一粒取出させ給いて、御畳紙の上に乗せて浪の上にぞ浮かべられた。 龍神がこれにぞ納受なされたのか、海上は俄かに風が変わって御座船を東に送り、追っ手の舟を西に吹き戻した。 さてこそ主上は虎口の難を御遁れ有りて、御舟は伯耆の国名和湊に倒着したのだ。 勅使を 名和長年に派遣 長年の決意 主上を奉戴して 船上山に籠る 六条少将忠顯朝臣ただ一人が先ず船から下り給いて、この辺には如何なる者か弓矢を執って人に知られているかと問いなされたところ、道行く人が立ちやすらいて、この辺には名和又太郎長年と申す者が、その身は指して名のある武士で候わねども、家が冨み一族が広くして心嵩(こころがさ、思慮に富む事)有る者で候、とぞ語ったのだ。 忠顯朝臣はよくよくその仔細を尋ね聞いて、やがて勅使を立てて仰せられけるのは、主所は隠岐判官の舘を御遁れ有って今この湊に御座有る。長年の武勇を兼ねて上聞に達せし間、御頼み有るべき由を仰せ出でられける。御依頼に応じるか否か、速やかに勅答申すべし、と仰せられたのだ。名和又太郎は折節に一族共を呼び集めて酒を飲んでいたのだが、この由を聞いて案じ煩いたる気色であり、兎も角申し得ざるのを、舎弟の小太郎左衛門尉長重が進み出て、申しけるは、古より今に至るまで人が望む所は名と利とのふたつでありまする。我等は忝くも十善の君に頼まれ参らせて、屍(壁ね)を軍門に曝すとも名を後代に残さん事は生前(しょうぜん)の思い出で、死後の名誉足るべし。ただ一筋に思い定めさせ給うより外の義あるべしとも存じ候わず、と申しければ、又太郎を始めとして一座に候ける一族共の二十余人、皆がこの義に同じたのだ。 さらばやがて合戦の用意候べし。定めて追っ手も跡から懸かって候らん。長年は主上の御迎えに参ってただに船上山に入れ参らせん。かたがたは直ぐに出発して、船上(ふねのうえ)に御参候べし。と、言い捨てて、鎧を一縮して(鎧を着ること)走り出た。一族の五人も腹巻を取って投げかけ投げかけして皆が高紐(たかしぼ)を締めて、共に御迎えにぞ参じたのだ。 俄かの事で御輿なども無かったので、長重が着ていた鎧の上に荒薦を巻いて、主上を負い参らせ鳥が飛ぶが如くに舟上(ふなのうえ、船上山の上にある家)に入れ奉る。 長年は近辺の在家(田舎の家)に人を廻して、思う事があって、舟上に兵粮を上げる事がある。我が倉の内にある所の米穀を、一荷を持って運び来らん者には銭を五百づつ取らすべし。と、触れたりける間、十方から人夫が五六千人が出で来たりて、我劣らじと持ち送ったのだ。
2026年04月02日
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