草加の爺の親世代へ対するボヤキ

草加の爺の親世代へ対するボヤキ

PR

×

プロフィール

草加の爺(じじ)

草加の爺(じじ)

サイド自由欄

カレンダー

フリーページ

2026年05月12日
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
道の程、事故もなく関東に着いたならば、やがて御迎えに人を参らすべし。もしまた、我等が道に

て討たれたと聞いたならば、如何なる人にも相馴れて、松壽を人となして、心がついたならば僧に

して我の後世を問わせ給え、と心細げに言い置いて涙を流して立ち給う。

 北の方は越後守の鎧の袖を控え(抑え)て、どうして、そのようなうたてしき(薄情な)言葉で仰る

のでしょう。この折節に幼き者などを引き具して知らぬ辺りにやすらう(休息する、立ち止まる)な

らば誰が落人のその様方と思わないでしょうか。また日頃から知りたる人の傍らに立ち宿るなら

ば、敵に探し出だされて、わが身の恥を見るだけではなく、幼き者の命さえも失うであろう事の悲

しさよ。道にても思いの外の事があれば、そこにてこそ共に兎も角も成り果てましょう。頼む陰の

無い木の下(もと)に世を秋風の露の間も捨て置き参らせては、長らえる心地も致しませぬ、と泣き

悲しみ給いければ、越後守も心は猛(たけし)と言えども、流石に岩木のみではないので、慕う別れ

を捨てかねて遥かに時をぞ、移されたのだ。

 昔、漢の高祖と楚の項羽と戦う事七十余度であったが、項羽は遂に高祖に囲まれて夜が明けたな

らば討ち死にしようとした際に、漢の兵が四面にして皆楚歌をするのを聞いて、項羽は即ち帳(垂

れ幕)中に入り、その夫人の虞氏(ぐし)に向って別れを慕い悲しみを含み、みずから歌を作ってい

わく、 力は山を抜き 気は世を蓋う 時に利あらず 馬に隹(すい)は逝かず すい逝かず 如何

にすべき 呉氏 呉氏 汝を如何せん  と悲歌慷慨して項羽が涙を流したので、呉氏は悲しみに

堪えかねて自ら剱の上に伏して、項羽に先だって死んだのだ。

 項羽はあくる日の戦いに二十八騎を伴って漢の軍四十萬を懸け破り、自ら漢の将軍三人の頸を取

り、討ち遺されたる兵に向って、我遂に漢の高祖の為に滅ばされぬることは軍の罪(戦いが拙い)に

はあらず。天が我を亡ぼしたのだ。と、自ら運を計って遂に烏江(をうごう、中国華東区安徽省安

慶道和県の東北の町。揚子江に通じる小運河に沿う)の辺にして自害したのだが、かくやと思い知

られて涙を流さぬ武士はない。

 南の方、左近将監時益(ときます)は行幸の御前を仕り、打ちけるが(馬に乗り進む)、馬に乗りな

がら北方越後守の中門際まで打ち寄せて、主上、早寮の御馬に召されて候に、などや長々しく打ち

立ちなさらぬぞ。と、言い捨てて打ち出でければ、仲時は力なく鎧の袖に取り付いた北の方と幼い

者を引き離して、縁側から馬に打ち乗り、北の門を東に打ち出で給えば、捨て置かれ給える人々は

泣く泣く左右に分かれて、東の門から遁れ出で給う。

 行く行く泣き悲しむ声を遥かに耳に留めて、離れもやらぬ悲しさに、落ち行く先の路暮れて馬に

任せて歩ませ行く。

 これを限りの別れとは互いに知らぬのが哀れであるよ。十四五町を打ち伸びて跡を顧みれば、早

くも両六波羅の舘に火がかけられていて、一片の煙と焼き上げている。

         北条時益 の戦死 糟谷七郎が これに殉ずる

 五月闇の頃であるから、前後も見えずに暗いのに、苦集滅道(くずめぢ)の辺には野伏らが充満し

て十方から射る矢で左近将監時益は頸の骨を射られて、馬から逆様に落ちた。そしてその矢を抜け

ば忽ちに息が止まってしまった。

 敵は何処に居るとも知れずに、懸け合わせて敵を討つ様もない。又、忍びて落ちる道もないの

で、朋輩に知らせて返し合わせるべき事も出来ない。ただ同じ枕に自害して、後世までも主従の義

を重んずるより他のことはないだろうと、思いければ、糟谷は泣く泣く主の頸を取って錦の直垂の

袖に包み、道の傍らの田の中に深く隠して、則ち腹掻き切って主人の亡骸の上に重なって、抱きつ

いてぞ伏したりける。

           光巌天皇 六波羅を出御 
            流れ矢が 左の肱に 当たる

 龍駕(天皇の乗り物)遥かに四宮河原を過ぎさせ給う所に、落人が通るぞ、打ちとどめて物の具を

剥げ、と呼ばわる声が前後に聞こえて、矢を射る事雨が降るが如し。

 かくては行く末とても如何あるべきとて、東宮を始め奉りて供奉の卿相雲客は方々に落ち散りな

されていたので、今は僅かに日野大納言資名(すけな)・勧修寺中納言経顯(つねあき)・綾小路中納

言重資(しげすけ)・禅林寺宰相有光ばかりが龍駕の前後には供奉(ぐぶ)されていた。

 都を一片の暁の雲に隔てられて、思いを万里の東の道に傾けさせ給えば、剱閣(唐の玄宗皇帝が

天宝十五年・756に安禄山の乱によって長安の都を出て蜀との境にある剱閣と言う険難な地を通

り蜀に逃れたこと)の遠い昔に思し召し合わせられて、寿永の乱れたる世もかくてこそと叡襟を悩

ましめ賜い、主上・上皇も御涙をさらにせきあえず。

 五月の短夜が明けきらずに、逢坂の関のこちら側も暗いので杉の木陰に駒を留めて、暫くやすら

い給う所に、何処から射たとも知れない流れ矢が主上の左の御肱に立ったのだ。

 陶山備中守急いで馬から飛び降りて、矢を抜いて御肱を吸うが、流れる血が雪の肌に沁みて、見

参らするに目も当たられず。

 忝くも万乗の主、卑しき匹夫の矢先に傷をつけられて、神龍が忽ちに釣者の網にかかれる事は浅

ましかりける世の中であるよ。

 さる程に東雲漸くに明け初めて朝霧が僅かに残っているのに、北の山を見渡せば野伏共と覚え

て、五六百人が程が楯を突き、鏃を支えて待ち懸けたのだ。

 是を見て、面々は度を失って呆れたのだ。

          中吉弥八 奇計を以て 野伏の襲来を退ける

 ここに備前国に住人で中吉(なかぎりの)弥八は行幸の御前に候けるが、敵近くに馬を駆け寄せ

て、忝くも一天の君、関東への臨幸がなるところに、何者であるからか斯様の狼藉をば仕るぞ。心

有る者ならば、弓を伏せ、甲を脱いで通し奉りべきを、礼儀を知らぬ奴ばらなれば一々に召し取っ

て頸を切り懸けて通るべしと、言った所、野伏共はからからと笑って、如何なる一天の君に渡らせ

給え御運は既に尽きて、落ちさせ給わんずるを、通し参らせんとは申すまい。容易く通りたいと思

召すならば、御伴の武士の馬・物の具を皆捨てさせて、御心安く落ちさせ給え。と、言いも果てぬ

のに同音に鬨をどっと作った。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2026年05月12日 19時32分48秒
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: