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東京芸大を出ている物故画家(それほど有名な画家ではない)の絵が気になって買ってしまった。なぜ気になったかというと1980年ごろのパリ近郊、ロンシャン競馬場の風景だったという事と、少しゴッホの様な点描の描き方によってとても明るい画面構成だったから。あと、私は海外の競馬場はカナダしか行ったことが無いけど、長男が3年前この競馬場に行った事があるから、長男にプレゼントしてもいいなと思った。長男は14年前の車をあげると言っても、いいの?ありがとう!と喜んで新潟で乗っている。息子に車をあげるなんて誰もが簡単に出来る事ではないよ。何でも喜んで貰ってくれるのは嬉しい事だ。この絵の中の人馬は、丁度いま返し馬を終えて歩いている様に見える。フランスの競馬場は森をうまく活かしてコースを作るので、芝コースの両側に樹木が配されている場所も多い。そういう場面だと思う。何とも言えない明るい情緒的な絵だと思う。
2023.09.03
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これは西安で500円ぐらいで買った曹操の詩、観蒼海、の軸。500円とはいえ、当時西安ではラーメンが100円ぐらいで食べられるレートだったけど。日本の書道教室を運営している方のレベル、または、師範の免状を持っている方のレベル、よりは高いかもしくは匹敵するするぐらいだと思う。西安のまじめに書法を勉強している中学生と、日本の書道教室を運営している人の平均レベルは同じぐらいだと思う。この書を書いている人は、100円ぐらいで書いていると想像するが、日本の書道の教師よりレベルは高い。以上
2022.10.15
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9/29 偉大な方にお会いした。一本の途をブレずにひたすら真っ直ぐ歩いている求道者であり、そのお方が自ら書いた色紙を頂戴した。雅人深致~~がじんしんち、がじんのしんち世俗を超越した風雅風情を理解する才能のある人物が持っている高尚な趣きのこと書法研究家、書道の大家、大変な能書でかつ大先生でもあるこの方は、何故会ってもいないうちから20歳も若年の私が持つ本質を既に見抜いて、お会いしたその日にこの色紙を用意して下さっていたのだろうか?いやそれは冗談としても、お互いに琴線に触れたと思いたい。ほんのこの刹那に師と仰ぎたくなる人物はなかなか居ないものだ。がじんのしんち を目指しなさい、又はがじんのしんちの素養が少しあるよ と認めて頂いたのだろうか?雅人深致 〜〜 私が望む最高の理想の姿である。応援しているよ、という意味であると受け取る。高みを目指して俺はブレずに生きて行く。この偉大な方の書に励まされながら生きて行く。
2022.10.01
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鈴木マサハルの絵を買うのは5作品目。これまでヴェネツィア、サントロペ、ニース、ナザレの風景画を入手したが、今回再度のヴェネツィア風景=10号、となる。下の写真の、右の3号のヴェネツィア風景とは同じ場所を描いているが色合いが全く異なる。鈴木マサハルは原色の画家である。一見するととても幼稚な感じもするが、とてもとても素人には描けない計算された色彩である。この絵も赤、黄、白、青、黒? 絵の具のみで描かれている。奥行き、水面の様子、陽の光、何よりエネルギーに満ち、ギラギラしている。頑張ろう!という気持ちになる。鈴木マサハルはもう亡くなったが、現役のときのコメントに画家になったからにはトップを目指したい!という台詞があった。強く心に残っている。このような所謂、油彩画、とか日本画とか、これまで正に絵と思い浮かべる絵、をファインアートと呼ぶが、世界の嗜好としてファインアートは今どちらかというと廃れつつあるようだ。もっと現代アートの、中でもポップアートやデジタルアートなどが注目されており、より高価に取り引きされていく世界になりつつある様だ。需給の関係でファインアートを好む年代層が高齢化して若い人が欲しいアートの形が変わってくれば当然そうなるものだが、自分は自分で好きな物に囲まれたい。私はブレずに生きて行く。
2022.08.19
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先日買ったこの絵には、描かれた1960年当時の古いボロボロの額が付いていた。ので、数万円かけて額を新調してみた。古い額からクギを数十本も抜いて絵画を取り出し、新しい額に嵌め込むとき、何か新しい生命を吹き込んだ様な気持ちになれる。クギをすぐに捨てて、古い額はすぐさま区の粗大ゴミで300円で引き取ってもらう。古い絵の痕跡を無くしてしまうのだ。味は無くなったかもしれないが、絵そのものが現代的に益々若返った気がする。この絵が1960年という、今から62年前の途方もなく昔に描かれたように見えるだろうか。とてもカッコイイ!
2022.07.04
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コロナウイルスまん延によってさまざまな娯楽や旅行、飲食が制約され、お金が溜まってしまった。そこで、1960年に描かれた12号の油彩画を購入、ついでにもう一枚、10号のヴェネツィアを描いた油彩も買った。そう言えば、2015年に西村計雄のカルカソンヌという絵を買ったが、その絵も1960年の絵であり、西村計雄も2000年に亡くなっている。この絵の画家も2000年に88歳で他界している。この画家の作品は東京国立近代美術館にも多数収蔵されている。シュールレアリスムの巨匠である。この絵は12号。好き嫌いのはっきり分かれる絵だと思うが、1960年に描かれたとはとても思えない斬新でクールな印象、画面の女性の圧倒的な存在感と目力に惹き込まれる。 画面の女性の右耳あたりに蛇が口を開けており、蛇の尻尾は女性の左の脇から見えている。女性の前髪は樹木となり枝分かれしているが、枝の先から雨だか何かの水滴がしたたっている。良く見ると左上の方も女性の髪の毛の先が木の枝になっていき、その先は暴風雨になっている。。その暴風雨のせいでは人々が逃げ惑う光景が描かれている。洞窟の上には獣の目の様な物が描かれており、洞窟がその獣の口の様に見える。洞窟の奥には人が天を仰いでおり、遠くに街と山が見えている。そもそも、この女性は女性なのか、どこか中性的でもあり、日本人かもしれないが日本人でもない様な不思議な面相である。この絵の解釈は長い時間をかけて行うべきであり、楽しみが増えた気がしている。
2022.06.16
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ほぼ全ての日本人が漢字を使っている。漢字とは、古代中国の漢の時代に成立した文字だから漢字という。漢字の前は、象形文字の様な文字だったのかもしれないし、詳しくはわからない。メソポタミアでは楔形文字という表語文字がおよそ3000年も使われていた。漢字とは、簡単に言うと表意文字である。一つひとつの文字に意味がある。例えば月の文字には、天体の月或いはマンスの意味があり、日には天体の太陽或いはデイという意味がある。しかし、月の文字はゲツ、又はツキという音読み、訓読みの音を発する=音を限定する意味もあるため、表意文字であるだけではなく表音文字の意味もあるとの認識から、正確には表語文字とするのが正しいらしい。表意文字に反して、平仮名、片仮名、アルファベットなどは表音文字であり、その文字自体には意味は無い。英語では、d.a.y のそれぞれの文字には意味は無いが3文字の組み合わせで、1日という意味がやっと出来上がる。また、数字の、1.2.3 ...は完全に表意文字である。細かいことはさて置き、漢字は広義には表意文字であり、一文字に一つ或いは複数の意味があるその事が非常に興味深い。会という文字には 会う とか、集い サークル の意味があるわけだ。またその形状の美しさで言えば、漢字の中でも楷書が最も美しい(断言)。長くなったが、楷書が完成したのは中国の西晋、東晋から439年に華北を統一した北魏時代から唐の初唐時代にかけてであろう。そして、長くなったが、北魏の最も洗練された楷書の碑の一つがこの高貞碑であるといわれている。523年に26歳で早逝した高貞という人物の事が書かれている。
2022.06.16
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表紙?に民国22年と書かれているので、1933年、昭和8年に製本されたのだろうか。中には亜農敬題と書かれている。亜農という人が題を書いたよ、という意味だろうか。民念4年と書かれている。1915年に採拓されたのだろうか??。わからない。現在の漢中市から西北およそ100キロぐらいの場所にあるようだ。紀元170年ごろ、街道を整備して往来を楽にした。その功績やこの出来事を崖に記し、彫った。それがコレ。1850年前の文字である。書道はわからないので、この文字の良さとか趣きは私にはわからない。無知である。(私は知ったかぶりを絶対にしないと決めている。知ったかぶりをした瞬間に教えて貰える筈のものが教えて貰えなくなるからだ。)無知を知れば知るほど探究心や研究心が湧く。そして無知のまま死んでいくのだろうな。。私にはこの文字は分からないが、価値はかなりの確度で分かる。大袈裟に言えば博物館級の価値である。博物館級の価値とは一体どれだけかと言えば、金額ではなかろう。博物館にあってもおかしくない級である。お金を出せば車でも飛行機でも何でも、現行の物は買えるだろう。しかしこの様なものは、もうそんじょそこらには売っていないから、手に入りにくいのですよ。日本では欲しいと思う人も極少ないだろうけど。。作者:仇靖(きゅうせい)時代:後漢・建寧4年(171年)現存:甘粛省成県書体:隷書(八分) 甘粛省武都郡の太守であった李翕(りきゅう)が、郡内の西狭の険路を改修した功績を讃えた頌文を岩壁に刻した摩崖*。全名は『武都太守李翕西狭頌』(ぶとたいしゅりきゅう-)で、『李翕頌』ともよばれる。 碑の左側に「従史位、下弁仇靖、字漢徳書文」と小字題名に刻され、文字は彼の下役の仇靖(きゅうせい)が書いたことがことがわかる。書丹者の名が明らかに刻されている碑としては最古のものである。 1文字は約8~9㎝四方あり、一字の欠損もない。また、碑の右側にはかつて李翕の徳業のために現れた瑞兆を示す、龍や鹿などのめでたいものの絵が刻され「五端図」と称されている。
2022.06.03
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この拓本は西安で入手したもの。紙を畳んでいた角が擦り切れて穴が開き紙がボロボロなので、採拓してかなりの時間が経ったのか、保存状態が良くなかったのか?。どうやって修繕すれば良いか分からないが、他の拓本にも痛みがあるのもあり、、定年してからのんびりやる事が増えた。内容も非常にマニアックであり歴史の面白みに満ち溢れている。司空 上柱国 というのはとても官位が高い人物で、邠王=読みは、ヒン或いはビン、ビン王、というのは現在の陝西省、咸陽市の北部一帯を治めていた王という意味であり、守禮というのは、李守禮 のことで、高宗と則天武后の子で皇太子だった「李賢」の第二子、つまり高宗と武則天の孫=李守禮のことであると判明。李賢は皇太子であったが、則天武后に実の子でありながら追い落とされ流配され、最後は自死させられた。その子{守禮}も連座して幽閉されていたが、咸陽北部の地域の「王」を復活されて名誉を回復したらしい。つまり、本来ならば唐の第5代皇帝になる可能性すらあった本流の王族である李守禮が、細人(=さいじん、とは本妻ではない側室のことを指すと思われる)、つまり自分の妾の死に際して自らが墓誌銘を書丹したものであり、王族が書したと思うそのハロー効果から、とても品格を感じる楷書なのである。また、この拓本の撰文者は李守礼ではない。幼少期に幽閉されていたことから、特に唐代以降の近体詩は1句2句4句で韻を踏む、これを押韻(おういん)と言い「韻」とは発音した時耳に残る音の響きのこと、押韻は同じ響きを持つ語を句の終わりに置くことで、音声的な美しさを作るのだが、こういう作詞の能力が欠けるのではないかという推測もある、(7言絶句なのかどうかもわからないが)。この拓本を篆刻した者の名が最後に李センキ、と記されている。彫った者の名が残っている拓本は見たことが無い。開元24年とあるが、これは736年であって、玄宗皇帝時代の「開元の治」といわれる唐絶頂期の頃である。李守礼は672年に生まれ、741年に死去しているから、李守礼はこの人物が無くなってから5年後に69歳の天寿を全うしたようである。物凄い歴史スペクタクルなのである。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~^全文)大唐邠王故細人渤海郡高氏墓誌之銘誌蓋、司空上柱國邠王守禮書洛陽縣鄉貢進士王蕃奉教撰監於春秋,寅酌詁訓,楙擇邦媛,精求淑女,樹彼風化。是以國君之制,有三歸焉。損益異宜,不相沿襲。略其同之選,跡其所由,細人即姪娣之謂也。諱淑嬐,字□奴,渤海蓨人。唐分四岳,肇洪源於濫觴;齊委二卿,擢脩幹於合抱,代濟其美,不隕其名。曾祖裕,皇任澄州刺史;當無爲之朝,處共理之地,每推誠以徇物,豈役智以矜功。慕長者於劉昆,狹中孚於郭伋。祖智惠,皇任汝州司法參軍;正以閑邪,直以馭枉,循三尺之律,不爲摧移,按五刑之科,亟聞陰德。父思業,吏部常選;負廊廟之材,恥居常調;輕州縣之職,且樂田園。高門之慶,歸於細人矣。銀漢降靈,綵雲孕質,雅漸胎教,天生麗容,保傳無所施其能,粉黛不足增其美,膏沐箴誠,狎玩組訓,葛覃之詠既彰,關雎之思何遠。邠國大王,位尊齊楚,德邁閒平,託媒氏而委禽,備少姜之盛典。年十八,開元五年七月廿七日歸於我。自結褵朱邸,甫豔青春,一偶坐於筐牀,便假詞於同輦。乃退而稱曰:女謁上僭,則粢盛不修;冒寵專房,則胤嗣不廣。於是奉元妃以肅敬,睦諸下以柔謙,淑慎其身,先人後己,演貫魚之序,陳授環之儀,喜愠忘懷,與物無競。隨珠耀掌,方欣母貴之榮;夭桃在顏,遄興愛□之誠。固辭恩幸,退處幽閑,悟泡幻之有爲,遂虔誠於妙觀。縈針緝縷,錯綜真容,日居月諸,服勤無倦。姊婿萊州昌陽縣丞王玄悅。細人以天倫至重,孝友情深,義雖爽於歸寧,理或申於同氣,企子之望,實獲我心。覲伯姊於萊夷,別愛男於都輦。留歡已滯,迴靶未從,目蜃樓而骨驚,歌式微以竊歎。嗚琴罷曲,怨將鶵而思盈;落日沈輝,嗟倚門而不見。因玆遘疾,奄棄生涯,憂能傷人,意可悲者。開廿三十一月七日,終於昌陽縣之公館也,春秋三十有六。海隅僻壤,山川幾重,寢疾薨聞,臨喪靡救。倍切安仁之思,彌傷奉蒨之神。至若繞梁之聲,馬上之曲,朱脣微動,超北方而更新;玉手纔揮,遇西施而知美。絕廣陵於昭代,閟陽春於夜臺。人琴兩亡,見於斯矣。即以開元廿四年八月廿三日,歸葬於東都偃師縣首陽之原,禮也。哀子承寬,初家人未之告也,振綵衣而陟屺,方悅親還;詠自華以慰懷,佇申孝養。及靈軒委戶,旅櫬充堂,殞躃崇朝,蘇而不寤。雖高柴泣血,曾子絕漿,徒列孔門,詎齊純至。且銘以誄德,書以飾終。德俟銘而美彰,銘待書而善發。長卿何幸,過聽梁園,下慚能誄之才,上辱天人之翰,辭不獲命,敢述銘云:傳稱嘉偶,詩美齊姜。宗卿錫胤,弈葉其昌。爰誕令淑,作嬪於王。夢蘭襲慶,懸弧表祥。曰我伯姊,在天一方。孝思罔極,情深陟崗。吉凶迴手,神理微茫。雲消巫嶺,雨散高塘。新聲掩抑,妙曲摧藏。永懷穠李,翻恨韶光。河南府河南縣感德鄉人李仙琦奉教鎸。開元廿四年歲次景平八月戊申朔廿三日庚午,營送終安葬之禮也。
2022.06.02
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馬振拝造像記(ばしんぱいぞうぞうき)龍門二十品の一つ。前の持ち主様が軸装になさっていた。この軸をするすると広げると、あら不思議、部屋の温度が下がり、部屋の空気が北魏時代になる。読み:邑子像。馬振拝。意味:邑子像。邑主である馬振拝。馬振拝造像記は、景明4年(503)、信仰団体の主である馬振拝と張子成ら許興族34人が皇帝のために石像一区を造ったことを記したもの。これが現存する、世界遺産 龍門石窟 を訪れた時のことは、カテゴリー海外旅行の中の、西安一人旅2019-3 に記してある。とにかく暑い日だった。
2022.04.05
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この拓本は或る高名な書家・篆刻家さまから譲って頂いたもの(購得)。調べたらたいそうな人物の妻の墓誌銘だった。長い中華の歴史の中で名君は誰か?という問いに必ず名前があがるのが、唐の太宗「李世民」である。その他、後漢の光武帝「劉秀」、北宋の太祖「趙巨胤」、清の聖祖「愛新覚羅玄燁」(康熙帝)等は、同様に必ずあがるらしい。同じく、中華最強は誰か!?という問いも目にする。三国志で有名な「関羽」、「張飛」の義兄弟コンビ、楚の覇王「項羽」、北魏の車輪眼「楊大眼」、抗金の英雄で万人敵こと「韓世忠」、救国の英雄「岳飛」などの名前がよくあがる。その最強を決める問いで先にあげた英雄たちに負けず劣らずの大豪傑が、「尉遅敬徳」うっちけいとく、である。敬徳 は、字名で本名は恭 きょう、という。敬徳の妻の蘇娬(そぶ、589年 - 613年)は、24歳の若さで亡くなり、鄂国公夫人を追贈された。この拓本は彼女の墓誌銘であり、李世民の墓である昭陵に陪葬された200人の中の1人である。尉遅敬徳(うっち けいとく、中国語 尉遲敬德、尉迟敬德 Yùchí Jìngdé、585年 - 658年11月26日)、尉遅恭(うっち きょう、尉遲恭、尉迟恭、Yùchí Gōng)は、中国の唐の軍人。 唐の統一に貢献した二十四功臣のひとり。 [経歴] 隋の儀同の尉遅羅迦の子として生まれた。 大業末年、高陽で従軍して、翟松柏・劉宝強らを討伐して功績を挙げ、朝散大夫となった。 ある時敵将が隋の皇帝の馬をこれ見よがしに乗っていた。李世民は部下に対し「誰かとるにやあらんか」と聞くと尉遲敬德はたったの2騎を連れて敵将を見事撃破し皇帝の馬を李世民に献上したという。また劉黒闥という武将が唐に反乱を起こした際に完全なる奇襲だったため李世民は完全に包囲されてしまい絶体絶命の危機に陥ったのだが、尉遲敬德はたちまちにその囲みを破り李世民の命を救ったというエピソードもある。たった1人で呂布や項羽や趙雲などの豪傑のエピソードを合体させたような武将である。唐代の多くの墓誌の4周に12支が刻されているが、昭陵博物館に現存する尉遲敬徳墓誌とその夫人の蘇氏墓誌の12支は、造型的にも、細工の技法的にも石刻芸術の珍品といえるらしい。確かにペルシャ絨毯と間違えるような細密な紋様である。
2022.03.20
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石門銘は509年に開通したいわゆる隊道すいどう=トンネルの様な道路を記念して、功労者を讃えた磨崖碑だと思われる。このトンネルが無ければ、長安から成都方面に行くためには、険しい山道とか危険な断崖絶壁を通らなければならなかったという。湿度が低い良い天気なので広げて干してみた。凄い大きさである。 六朝楷書の一つとされているらしいが、私は書道はかじるだけでほぼ出来ないし何にも分かんない。詳しいことは何も知らない。 しかし広げた拓本を見て、509年にこれを崖に書いて、その字を忠実に崖に彫り込んだ人が居た。。険しい山の崖にだよ。その労苦を想ってその歴史的遺物が我が家にある、有るんだよっ!と感動する事は出来る。何しろ大化の改新より136年前ですぜ。日本はまだ伝説の世界。1970年に磨崖碑がダムに沈む計画となり、漢中市博物館に岩ごと収蔵されたらしい。前の持ち主は北京の瑠璃廠で購入したようだ。
2021.05.31
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遂に欧陽詢の美しい碑(装本)をコレクションした。自分で西安で見つけて買った九成宮碑は全体がやや痛みが激しいのでこれは嬉しい。状態の良い欧陽詢の書を見てやっぱり世界で一番楷書の上手な人なのではないかと思った。それか褚遂良でしょうね。よくわからないが、欧陽詢は晩年になるほど線が細く右上がりの字になり鋭さが増したとかいう。皇甫誕は隋時代の忠臣。皇甫誕が名前である。子の無逸ムイツが碑を建てた。皇甫誕が名前なのに、書道をやっている人でも時々、皇甫誕生碑、と、誕生を記念したみたいに間違えて言うのは、碑の内容を全く考えずに書道のお手本としか見ていない表れだろう。誕生を記念して碑は建てないよ。〜〜〜解説)欧陽詢晩年の書で、九成宮醴泉銘や化度寺碑よりさらにきびしさが加わり、最後に到達した孤高の境地を示す傑作。右肩上がりと背勢という文字の内側を引き締める構え方が強調され、険しく勁さのある字姿。
2021.04.05
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晴れているので拓本を干している。臧懐亮(ぞう かいりょう?)という人物の墓誌銘の拓本で、蓋、墓誌銘ともに2枚ずつ、計4枚の拓本がある。1985年に陝西省で出土した。開元16年(728年)76歳で長安の自宅で亡くなっている。上柱国、というのは唐代では正従二品に相当する散官である。そういう高位な人物は、亡くなるとまず墓誌銘が彫られて埋葬され、奥様が亡くなってから夫婦でセットで埋葬し直される事があり、その時に、奥様と合わせた2個目の墓誌銘が作られることがあった。写真上から1.2が最初に埋葬された時の墓誌銘、3.4が妻と合祀された時の墓誌銘。(と、思われるが。。)この人物は、727年から現在の北朝鮮の平壌にあった安東都護府(北朝鮮・韓国・満州などを収めた長官)を務めたというから、都護府になってすぐに没した。それまでは辺境の防衛に軍功のあった軍人であり、節度使も務めている。1枚目の拓本は行書で書丹されており、李よう の撰文だという。書丹者は書いていないが、李よう だと勝手に信じている。そして再度埋葬された楷書の拓本には、顔真卿選(選文した)と書かれている。この拓本には天宝10年に墓誌の主が埋葬し直されたようなことが記述されている。天宝10年と言えば751年にあたるので、妻は22年間存命してから亡くなり、遺族は、亡くなっていた夫の墓誌銘を作り直す際に、顔真卿に撰文を依頼した(という事になるだろう)。顔真卿は42歳だった年である。顔真卿はこのほかにも臧家の墓誌を書丹しているので、両家はつながりが深かったと思われる。顔真卿が作り直しの2回目の拓本の選文をしても全く不思議ではない。顔真卿の散官は朝議郎となっているが、正六位の位だったと思われる。そして侍御史となっているが、これは弾劾、告発を担当する役所である。顔真卿が郭虚巳墓誌銘を記したのは749年となっているが、この郭虚巳墓誌銘の顔真卿の散官も朝議郎行殿中侍御史となっている(→下の写真が郭虚巳墓誌銘、乞う参照! )から、その2年後の751年にまだ同じ役職に居たのだろう。751年の、この墓誌の2枚目の楷書の拓本は、顔真卿選となっているが、顔真卿が書丹したとは書かれていない。しかし墓誌の文章だけを作文して書丹しないなんて事があるだろうか?顔真卿の書なのではないかな??小さい楷書で、文字もどことなく覇気が無く普通に見える。しかし、中国ではこの拓本がお手本の「本として出版」されている。751年といえば、唐とアッバース朝が中央アジアの覇権を争って戦い、高仙芝が率いる唐軍が大敗した、タラス河畔の戦い、が起きた年である。この戦いで、製紙法が西洋に伝播したと言われる。顔真卿はそんな激動の年に中央の御史台に居たという事だ。そしてタラス河畔の戦いが起きた年の、その年に顔真卿が選文した墓誌の主は戦に功績の大きい有名な軍人であった。その軍人の墓誌の拓本が我が家に有るっ!!これは凄いことなのではないか?!歴史ロマンなのではないか?!アッパース朝に敗れた唐は次第に求心力を失って行く。それから間もなく節度使の安禄山が反乱を起こし、何とかこれを食い止めるものの、更に唐は弱体化して行くのだ。
2020.08.02
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唐故涼國夫人王氏墓誌銘。 セーラーどこでもシート透明を2枚重ねで壁に静電気で吸い付け固定。 朝請大夫とは従五品上の散官。散官とは称号のこと。 筆者の張少悌は朝議大夫とあるので、この散官は正五品下を意味している。 いずれにしても五品は唐時代では上級貴族であるから、それらの人々が選文、書丹した立派な墓誌銘だということ。 僕は書道に精通しているわけではないので、この行書体がどれだけ素晴らしい書体なのかわからないけど、多分現在日本に同じ様に書写出来る人はそうざらには居ないはず。 玄関が締まったー! と悦に入ってたら、妻が「不気味だなー、何でそんなもの貼るんだ??」だって。。
2020.07.27
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金仙公主 689-732 は唐の第5代皇帝、そして8代皇帝も努めた、睿宗の娘。且つ、高宗の孫、そして玄宗皇帝の姉でもある。そして墓誌には太宗のひ孫、曽孫とまで書かれている。太宗とは李世民のことであるからどれだけ高貴な血筋かが分かる。 この墓誌の書丹者は同じく睿宗の娘、玉眞公主 691-762 となっている。つまり金仙公主の妹であり、玄宗皇帝の妹でもある玉眞公主が墓石に書丹したということになる。 最後の写真、欧陽詢の書風を学んだとも考えられる素晴らしい文字である。金仙公主は43才で亡くなったから、この時玉眞公主は41歳位か、この時代、女性であっても皇帝の娘ともなれば書が能く出来て当たり前だったのかもしれない。 蓋は無いが非常に大きな堂々とした墓誌銘である。西安で購入した。 この勅撰の墓誌の撰文者は、集賢院学士の徐コウ=山へんに高 ジョコウ と記されている。徐コウ は、顔真卿が書いた王淋墓誌銘の王淋の夫であり、妻の方が先に亡くなったから墓誌銘を注文した人物であるらしい。
2019.08.24
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北宋の皇帝 徽宗が書丹した碑。徽宗は書画に優れ、また国内の書画を集めさせて記録・編纂させるなど文人として非常に抜きん出た人物で、大きな功績を残した。書では「痩金体」と呼ばれる文字を生み出した。この拓本の文字も痩金体である。 金に征服されて北宋は滅亡。自身は捕虜となり幽閉された先で亡くなるなど政治家としては無能だったと言われている。 1008年に、科挙の変更や法改定について皇帝自らが記して中国の各地に建てさせた碑がこの大観聖作之碑である。この拓本は大きな剥落がある。国内に何か所か建碑されていると思うので、西安碑林第3室にもこの碑があるが、剥落はないので、西安碑林の碑石の拓本ではないようだ。どこに建てられた碑の拓本なのかは不明。。西安で購入。
2019.08.22
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鮮卑の拓跋氏が華北を統一して建国した北魏の第四代皇帝 文成帝の子、拓跋簡 の墓誌。この頃、北魏で最も安定した治世を行った孝文帝が拓跋という氏を廃止して、漢化政策の一環として国氏を 元 げん に変えたため、拓跋簡 も、元簡 = げんかん となった。元簡は孝文帝の叔父にあたるが、酒に飲まれてほぼほぼ、ろくでなし だったもよう。この墓誌は、左半分が欠けている。墓石が半分欠損して出土したようで、西安碑林にもこの碑は半分だけが壁に掲出されていた。(下の写真)この拓本は、叩きが均一ではなくムラが見られる。何か大急ぎで墨を叩きつけて採択したようだ。
2019.08.18
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紀元前219年から、秦始皇帝 政は、始皇帝の功績を讃える碑を各地に7基建碑した。始皇七刻石と呼ばれるこれらの多くは失われ現在は2基しか残っておらず、それらの文字は判読可能なものは10-20字程度しか無いという。この拓本は始皇七刻石の中で最も古く建碑された、エキ(山へんに目を横にして幸)山刻石。ほぼ完全に文字が読み取れる。何故、鮮明に文字が残っているかというと、993年に宋の鄭文寶という官僚が、徐鉉(じょげん 916-991)という大変博識な文官が所有していた、エキ山刻石の、唐時代の拓本を元にして彫らせた(復元させた)つまり重刻の碑だからである。徐鉉は呉の国に生まれ、10歳で天才として登用され、呉王朝に仕えた。その後、南唐が興り、南唐が北宋に滅ぼされたが、その際忠臣として北宋の皇帝に認められ、北宋に任官したという。現在の西安碑林第5室にその碑が残っており、これはその碑から採られたと考えられる精品の拓本である。2枚組。1枚目には、宋時代 淳化四年(993)八月一五日に鄭文寶がこの碑を再建したと書かれている。重刻とはいえ、993年といえば日本では紫式部が源氏物語を書いていた平安時代の頃で、ほぼ伝説の世界である。。。2019年に西安で入手。日本円換算だと5万円ぐらいした。この値段が妥当かわからないが、李斯が書いたかもしれない篆書の歴史上非常に重要な始皇七刻石が、東京の我が家に有る、在る! あるんだよ!!!これは物凄いことではないかっ??何故西安碑林の碑から拓本が採られるのか? それはわからない。。職員が隠れて取ったり、職員の友達が取ったり、館長の友達が取ったりするのかもしれない。昔は取って良かったのかもしれない。それが残ってるのかもしれないし、わからない。とにかく、李斯が書いたかもしれない篆書文字の大型拓本なのだ。
2019.08.11
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西安で拓本屋のオヤジから買った拓本。かなり高価だった。随時代に造営された離宮=九成宮を唐の太宗皇帝が再利用する際、杖の先で示した地面を掘るときれいな湧水が出たという。泉が湧いたことを賞賛した文を魏徴が記し、それを晩年の欧陽詢が事丹したということだが、内容はほぼ知らない。それよりも書道をする人で、この九成宮を知らない人は多分居ないというほどの、楷書の最高峰クラスとして知られた書である。あまり状態は良くないと思案したけど、なかなかマクリの九成宮を手に入れる機会は無いと思い切って購入。1960年代の拓本だという。
2019.07.20
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唐故太尉兼中書令西平郡王贈太師李公神道碑。李晟碑ともいう。829年に建立されたと史実にあるようだ。唐の大将軍、李晟=りせい を讃える碑である。撰文者の裴度(はいど または はいたく)は、中国・唐の時代に宰相を勤めた程の有能な政治家である。そして楷書の四大家 柳公権の書による石碑。李晟は大変な豪傑だったという。徳宗の治世に朱泚の大反乱を鎮圧したり何度も大きな武功を上げたらしい。徳宗は安史の乱で唐帝国が傾いてきた時代に節度使を締め付けて却って反乱を招いてしまったという。李せいは常に唐帝国側で戦い、大いに武功を得て、名声を得るに至った。最終的には西平郡王、鳳翔・隴右、の節度使となった。李晟は793年に67歳で死んだ。829年に建碑されたなら没後35年後.それでもなお人気のあった人物だったのだろう。この拓本はまくりで非常に大きくて、狭い拙宅では拡げる事は出来ないため、部分的な写真のみの掲載になってしまった。この碑は高さ4.35m、幅1.48m、厚さ46センチ、だそうで、下の亀🐢は当然に拓本に写らないからその分を除くと拓本の高さは3.35mぐらいなのかな? 今度測ってみたい。土中に埋もれていた訳ではない唐の石碑拓本としてはしっかりと文字が出ている部類なのではないだろうか。拓本屋で、この拓本を10000元と言われ、その時10000元も持ってなかったけど、日本円で持ってた全額10万円を見せて、これで6000元に相当するからこれで買う!!と言ったが、そんな値引きには応じなかった。最終的に8000元まで下げて貰った。とはいえですが、8000元つったらそん時のレートで約135000円ですぜ!!!こんなしわくちゃな紙に13.5万円出すキチ※イが他にいるかね??ねこまんまねこ氏の所有拓本で、当時はダントツに高価(今はそうでもない)なのだが、価値はともかくとして、これだけ大きな原拓で、唐で人気のあった将軍の功績が刻まれた謂わば 「歴史そのもの」 が、2018年の東京都の我が家に在る、その事が素晴らしいのではないか!??793年の没年ってこたあー日本は平安京に遷都する前でっせ!
2018.08.03
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まったくの謎の拓本。銅鏡の拓本なのか、瓦とうの拓本なのかも分からない。醸し出す雰囲気が良かったので、結構良い値段したが買ってしまった。誰かこの良さとか意味が分かる方教えて下さい。
2018.07.17
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北周の楊文端という人の墓誌。弘農華陰楊氏、そのなかでも越公房と呼ばれる楊氏の系統に属す。有名な人は楊素。建徳二年というのは北周の年号で573年だから、この年に生まれ、大業三年(607年)亡くなったのだろうか。府記とは宮中の記録を付けたり書記を司る役職らしい。室が付けばさらに上の位と思われる。衛王とは皇族が王に封じられた時に使う呼称らしい。43センチの正方形で23行、各行24文字の520文字で、小型だが非常に品格がある墓誌だ。文字は小型だが素晴らしく美しい。藩玄墓誌が571年か572年の北周の墓誌だからそこから30年下った時期の楷書として、この墓誌はかなり洗練された文字に見える。
2018.07.17
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楊素の墓誌を買うと言ったら拓本屋の親父が楊素と夫婦だからセットで買わなきゃだよ、と言ったのでよく知らないがこれも買った。小さいので400元にさせた。薄いが綺麗な文字だ。
2018.07.08
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虞世基撰。楊素墓は潼関県重点文物保護単位(1986 年 6 月指定)に指定されている。楊素 は隋の将軍兼政治家で、煬帝と共に陳を撃破した英雄。隋の文帝(楊堅)が避暑用の離宮として楊素に命じて造営させたのがあの有名な九成宮(仁寿宮)で593年から2年で完成したという。同じ楊という姓だが、楊堅と同じ嫡流ではないらしい。606年に作られたこの墓誌は、1975年に鐘関県で発見されたらしい。楊素が有名人なのは辛うじて知ってたから、多少高いかなと思ったが、700か800元で買ったもの。何枚も勝ったので個々の価格を正確に覚えてはいない。楊素は代表的な「門閥」である弘農華陰楊氏,そのなかでも越公房と呼ばれる系統の中心人物であり、彼らは隋朝政権下で繁栄を極めて絶大な権勢を振るった。近年、越公房楊氏の墓誌は続々と出土しているという。越公房楊氏は,北魏後期に活躍した漢人門閥官僚の楊鈞を始祖とする。その子の中でも楊暄・楊穆・楊倹・楊寛の系統は西魏・北周・隋・唐に仕えて代々高官を輩出して,弘農楊氏の本宗とみなされた。彼らは隋代に最盛期を迎えたが,それを導いたのが,楊鈞の嫡曽孫にして家長格の楊素であった。彼は江南平定の武功を契機にして宰相職の内史令・尚書左右僕射・尚書令を歴任して権勢を振るい,その一族もまた三省長官・六部尚書・大州の総管・刺史などの要職を歴任した。また,楊素は晋王楊広(煬帝)の立太子と皇帝即位に大きな貢献を果たした。
2018.07.08
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大周使持節驃騎大将軍開府儀同三司大都督青洛ニ州刺史故潘玄墓誌銘 天和五年に亡くなったかなり高貴な人物らしい。 この年号は北周のもので西暦570年にあたる。墓誌銘が制作されたのは天和六年だから571年かもしれない。 墓誌の盤面は小さいのだが、蓋の文字がとても特徴的で芸術的な印象だったし、ヒビ割れや欠けも無く美しい拓本だったので西安で購入した次第。よく見ると文字も非常に流麗な楷書。
2018.07.07
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唐故涼國夫人王氏墓誌銘 蓋の拓本とセットで700元ぐらいで西安で購入した。張少悌という唐時代では重要な能書家の書丹による、皇帝が勅撰した、堂々とした大文字の墓誌銘である。蓋の周囲にある紋様も非常に洗練されている。高力士の墓誌銘の書丹者も張少悌だが、高力士墓誌銘の方は字が小さくて多文字である。ただこの墓誌の主人はよくわからない。
2018.07.06
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韋渠牟(749年-801年9月6日)は唐朝中期の文人で、左諫議大夫、太府卿、太常卿まで上り、刑部尚書を追贈された。 墓誌の撰文は権徳興と記されているが、「独酌」などを詠んだある程度有名な詩人だそうだ。墓誌に書丹者は記されていないようにみえるが、浙江大学の墓誌石碑ページに掲載されているこの墓誌名のページには書丹者は房次卿と書かれている。房次卿は進士に合格していたというからあながち間違いでもなさそうだ。文字は小型楷書だが非常に達筆(に見える)。蓋の周囲には龍の彫刻が施されていて人物の格が高かったのかもしれないなと思わせる。
2018.07.06
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小型の墓誌銘拓本。西安で購入。蓋はなかった。 隋時代に活躍した刺史のようである。そう の文字が現代ではないので曹を当てている。 通常の墓誌銘は最終的な役位階名や、生まれや出自、家族構成、どういう功績でどういう拝領をしてどんな仕事をしたか、などビッシリ書かれているが、この墓誌はとてもシンプルで、箇条書きに、出世の過程が記され、いつ亡くなったか、何処に葬られたか、と記されている。
2018.07.06
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西安で買った拓本。 威厳と風格を感じる墓誌銘。 一辺が85センチぐらいありかなりの大きさ。 ただし罅割れなどで判別不能な箇所が多く謎の拓本。要研究。 撰文は、周思茂 しゅうしぼう、となっている。周思茂は武則天に才能を見出されて崇文館学士となった。臣軌を編纂し北門学士と呼ばれたとウィキペディアにはある。周思茂は688年に亡くなっているから、撰文したのだからこの墓誌の主は688年より前に亡くなっている筈。 盧厭書となっているが、漢字がはっきり判別出来ない。かなりの能書家だと思われる楷書だが。。
2018.07.02
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高力士の本名は馮元一と言い、五胡十六時代において短期間だけ存在した北燕の王族馮氏の血を引いているという。馮一族は唐の時代に入ってその勢力を強めており、祖父である馮盎の時代には潘州(現在の広東省)の長官を務めるまでになっていたが、父である馮君衡が罪を犯し一族は財産没収、戸籍はく奪という厳しい処分に下され、一族は離散、高力士は幼くして家を失い、奴隷商人に捕まって去勢されて売り飛ばされたようである。高力士が15歳になったころ、広東省で小さな反乱があり、これを李千里という将軍が鎮圧する。その際に則天武后に対しての手土産として高力士を選び長安に送ったという。則天武后に仕えた高力士は宦官である高延福という人物の養子になったらしく、馮元一から高力士へと名を変えた。この間どのような経緯があったかは不明だが、高力士は則天武后の孫である李隆基に仕えるようになり、彼はやがて皇太子に、そして玄宗皇帝として即位した。玄宗皇帝の側には常に高力士がいて、細かいことは高力士が決めていたという。その墓誌拓本が自宅にあるということはやはり歴史ロマンだと思うのである。墓誌銘は「勅撰」となっている。皇帝が指示して作らせたという意味ではないか?張少悌という人が書丹している。この人は、涼国夫人王氏墓誌銘も勅撰で書丹している。
2018.07.02
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元遥妻梁氏墓誌 は519年の建碑で、西安碑林の墓誌銘展示コーナーの壁に在る中の1つ。 絶対に原拓とのことで、1000元で購入した。 以下は西安碑林の墓誌銘原石。
2018.07.02
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この墓誌は西安碑林の近くで600元で買ったもの。1元17円だから日本円で約1万円だが、日本の1万円は西安の物価水準では西安の体感値2〜3万円に相当する。 蓋は付属してないが美しい文字で彫られている。この墓誌は太宗(李世民)治世下の643年に作成された。関西大学の論文「突厥有力者と李世民唐太宗期の突厥羈縻支配について」によれば、「この人物は近年墓誌拓本が公表されたことでにわかに注目が高まった。」とある。 論文には、墓誌自体は西安市長安区から出土したが現在は洛陽の個人が所蔵している、と書かれている。個人で所有している方が、知り合いに何枚か何十枚か採拓の許可を与えたのだろうか。その中の1枚がこれだろうか。 史善應(しぜんおう)は北方騎馬民族「突厥」出身の有力者だったようだ。もとの姓は阿史那氏で、祖父は第六代の沙鉢略可汗であり、父は隋に従い、史善應も史姓を与えられたものという。唐建国後まもない620年に李世民に従って「東夏」討伐に出向きこれを撃破、平定した。「東夏」は洛州を拠点とした群雄、竇建徳の集団で最大10万の軍勢を誇ったといわれているらしい。638(貞観十二)年には左衛将軍に就任し北撫州の都督に任命されており、この墓誌の下りは編纂史料の記述と合致しているそうだ。その後、史善應は642(貞観十六)年に死去している。史善應の子、史崇禮の墓誌も発見されているが、彼が都督に就任した形跡はないらしい。う~ん、歴史に名を馳せた凄すぎる英雄である。 ひとりで西安に行き必死で拓本を探して持ち帰り、その中に初唐の治世に尽力した突厥人の正に生々しい歴史が刻まれていた。この壮大な歴史ロマン! 君たちに分かるかな? まっ、 歴史上いかにエポックな人物であったとしても、余程有名人でなければ墓誌拓本の価値とは相関関係はあまり認められないけどね。
2018.06.28
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これは↑ 2017年に訪問した西安碑林の入り口。これまで私はその乏しい知識の中で、墓誌銘の中でも西安碑林という中国最大の石碑博物館に所蔵されている墓誌銘こそが素晴らしい文字が刻された墓誌碑群なのだ、と考えていた。西安碑林に収蔵されている墓誌銘は、最初は、1964年に台湾で死去した于右任が所有していた300基余りが先ずは西安碑林に収まったらしい。清末に西安北部で生まれた于右任(う ゆうじん)は、国民政府に参加し国共内戦で劣勢となって台湾に逃れ、蒋介石らと台湾=中華民国を築いた政治家である。政治家として活動する一方、書・漢詩などで優れた作品を残しただけではなく、趣味では西安洛陽周辺で出土した膨大な数の墓誌銘を収集した。しかし集めた墓誌碑はごたごたの中で台湾に持って行かれず、彼の死後西安碑林に収蔵されることとなったらしい。(「西安碑林全集」より)こんな訳で西安碑林にある墓誌銘は于右任が力を持ち始めた1920年ごろから1940年代ごろまでに発掘されたり発見されたりした石碑が多く残っているのだろう。つまり優れた文字であるから選別されて西安碑林に収蔵されたとことさらそういう訳ではないらしい。ただし、書家でもある于右任は、自分の鑑識眼にかかった墓誌銘のみを集めただろうから、それだけで選別された石碑であるとも言えるだろう。では1964年以降発見された墓誌銘は西安碑林に収蔵されてはいないのかというと、例えば李寿墓誌銘は1973年に発掘されているように、その後に発見された墓誌銘も相当な数が収まっているみたいである。しかし各省各県にもその土地の威信を懸けた博物館がどんどん出来ているから、基本的には墓碑は発掘された場所の近くにある博物館に収まるのではないだろうか?と思う。いや、普通は、発見された墓誌の所有者はまずは土地の所有者になるのかもしれないが、中国では土地の所有権は国のみで市民は所有権は無いと聞いた事があるから、見つけた人、つまりパワーショベルなどを操作していた工事人が所有者になるのかもしれない。すると墓誌碑石の奪い合いになるのかもしれない。工事人は墓誌に興味は無いから金になるなら闇市場に流す。すると墓誌を探している人が争って買う。争っている人とは、正確には人だけでは無く、企業や大学や古物商や博物館も個人と争って買うのである。とすると、西安碑林の墓誌銘よりも芸術性の高い文字が刻された墓誌銘が最近になって発見されたとしても、他の博物館所蔵や個人所有になっている例も当然に在るだろう。そんな隠れた逸品の墓誌銘やら碑から採られた拓本を何とかして手に入れたいと思う今日この頃である。ま、そんなわけで、西安や洛陽近郊の土中に以前としてまだ埋没している墓誌銘も1000や2000はあるだろうし、とすると顔真卿・欧陽詢・虞世南らが書丹した墓誌銘やら石碑が今後発見されてもおかしくはない。
2018.06.07
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上部に碑額の付いたやや大きめのこの石碑拓本は、西安で1200元 と言われたが、スーパー値引き交渉により和照墓誌銘と会わせて二つで1100元で買った。。(1100元は当時17000円程度)唐故郭君之碑 と、碑額に6文字が描かれている。書き出しの行は、唐故朝散大夫上儀同郭君・・・切れている・・・序。 ヨミは、とうこちょうさんだいぶじょうぎどうかくくん・・・・じょ。かな?普通は、郭君の後は、墓誌銘 とか 神道碑とかが来るかと思うのだが、石が欠けておりわからない。朝散ちょうさん太夫だいぶとは、支那唐朝の制にて従じゅ五品下ほんげの雅称、我国にて従五位下の唐名とうめいとある。 太夫とは、支那周代の朝廷及諸侯の、国の官吏の階級の一、卿けいの下、士の上に位くらいすとある。もっと博学らしく書きたてると、支那唐代の官職に依る貴族の階級中、従二品より従五品下までの名目めいもくだった語で、従二品が光禄こうろく太夫、正三品が金紫光禄太夫、従三品銀青光禄太夫、正四品上が正議せいぎ太夫、正四品下が通儀太夫、従四品上が大中太夫、同下が中太夫、正五品上が中散太夫、下が朝議太夫、従五品上が朝請太夫、下が朝散太夫ナリである。神道碑とは、墓の前とか周辺に故人を慕って建てたりする碑??のようなものだが。謎だ。しかし、楷書がまあまあ綺麗に出ている。貞観3年、開耀元年、という年が出てくる。後ろに出てくる開耀元年は、西暦では、681年。その年に亡くなった方なのだろうか。
2018.04.11
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この墓誌銘は3枚組み。珍しいのではないか。 西安で拓本屋のオヤジがなかなか安くしてくれなかったもの。確か800元ぐらいと言ってたが、郭君の碑と2つで、ねこまんまねこ氏お得意のスーパーウルトラ値引き交渉術を用いて1100元、約18200円ぐらいで買った。私の場合、外国の商売人と価格交渉するのが楽しみで実は何かを買う事よりも価格交渉する事にお金を使いたい気持ちが強い。言っちまえば必要無いものまで買ってしまうケースもある。 今城昭二氏のブログにも同じ拓本が掲載されている。 大統八年とあるが、北魏が東西に分裂したのが534年ごろ、西魏の大統という年号があるから、地理的には洛陽などが含まれる西魏の側に住んでた人物なのだろう。ちなみに大統八年は542年、その年亡くなった方だろうか?? 通常、死者の一生を説明する墓誌本文の碑石があり、その上に、蓋の碑石が載っているから、本文と蓋の2枚組の拓本が完璧形と思われる。蓋がどっかに行ってしまって墓誌部分しか発掘されなければ一枚だし、蓋の石だけ見つかるものもあろう。 しかしこの墓誌銘は3枚組みで、やや小さな面である。何故か?? → 分かるわけなし。 強いて言えば狭い墓に収めたかったんだろうな。 古いからか現在使われていない漢字が多数見受けられる。
2018.04.10
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謎の拓本。西安で購入した蓋と二枚組の墓誌銘。価格はまとめて買ったので個々の価格は覚えて無いけど大体700元ぐらいと言っていた様にうろ覚えてる。劉府君とあるので姓が 劉、諱は 文 或いは 文褘 だろう。劉文褘という人物なのだろうか。字名 あざな の部分の二文字が消されてしまっている。碑石を後から削ったのだろうか。昔の中国では、即位した皇帝や偉人と同じ字名などはしばしば畏れ多いとして、消されたり削り取られたりしたというから、この人物の字名もそんな理由で消されてしまったのだろうか。わからない。左驍衛将軍とは唐の初期では軍人の位であって、さほど高い位では無かったらしい。永昌元年(689年)に亡くなったのだろうか。文字は結構美しい小文字楷書で書かれ、大型で存在感のある拓本だと思うのだが。詳しいことは一切わからない。
2018.04.10
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http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/20070831上記の賢人のブログによると、、1990年秋に河南省偃師県城関鎮杏元村で出土した墓誌だという。現在は偃師商城博物館に所蔵され、出土状況は『考古』1993年第5期に掲載されているとのこと。墓誌によると、染華は465年生まれ、北魏の鎮遠将軍・射声校尉まで累進し、524年に洛陽で没した。注目点は高祖父にあたる冉閔についてである。冉閔は、五胡十六国の後趙石氏につかえ、後趙の後をうけて冉魏を建国した人物。羯族二十万人を虐殺したとされ、悪名高い。本書『〜墓誌疏証』は、墓誌中の「西華王」を「西華侯」の誤りと指摘する。また冉閔の諡を平帝とするのは、史書に見えないと指摘する。また『晋書』には、冉閔の子として智・胤・明・裕が見えるが、叡は見えないと指摘する。と記している。正直言ってさっぱりピーマンである。西安で800元と言っていたが525元にまけて貰った拓本です。店のオヤジの図録に出ていたからまあまあ謂われのあるものではないだろうか??
2018.04.07
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州という姓の墓誌銘だろうか。 諱が何と書かれているのか?欠けているので不明。 開皇2年とあるので582年に亡くなった貴族なのだろうか。書も彫りも一流を感じさせないどことなく投げやり気味の文字と感じてしまう。また、最後の一行に、急に長女が誰で次女が誰で、、とか書き足している。何とも、請け負った書家だか篆刻師がやっつけ仕事をした様な感がある。しかしそれだからこその人間味とか味もある。
2018.04.07
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大周少师开府恒州刺史豊利成公故宇文君(贞)墓志铭》天和六年 571年。中国の王朝 北周 は鮮卑族の 宇文氏が築いた国家であるが、この墓誌銘の主人は宇文貞と読んで取れる。しかし、宇文氏は漢民族ではないため、少人数の鮮卑人が多くの漢民族を支配していたと思われ、一族の宇文関係者をどしどし登用したと思われる。だから宇文貞といってもどこの誰かさっぱりわからない。誰か詳しい人、教えてください。蓋の碑拓と本文で2枚組、1000元ぐらいだったような。。。記憶。。今考えれば、、悔やんでも始まらないのだが、、この本文の文字はあまり美しいとはいえない。だから1000元も出して買うほどの事はあったのかどうか?いやまあ~、ある程度は美しい楷書だとは思うのだが、際キワが甘いというか、文字と碑面の境がなんとなくブワブワしていて、(中段写真の真ん中 自 の文字とか、、)エッジが効いていない気がする。素人だけど言わせて貰う。「彫りが甘い」
2018.04.02
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唐故朝議鄖行太府寺承上柱国史公墓誌 朝議 の後ろに続く文字が常用漢字ではないため、はたして 鄖 で当たっているのかどうか不明。また史公 で氏は 史 で正解だと思うのだが、諱=いみな が 従 の漢字に見えるのだがこれも正解かどうかは不明。誰か教えてください。碑面の中央部分に傷が付いてしまったようで、薄くなっている部分があるものの、黒い部分が非常にくっきり採拓されているので、漢字文字の形状がとても綺麗に写っている。楷書ではない、隷書かな? 何書なんだろうか?? とても綺麗な文字ではある。詔唐玄序書併せて篆刻、とあるが、書家の名は 詔唐玄なのか 玄だけなのか不明だ。蓋と墓誌銘とで2枚セットだったので、値切っても800~1000元ぐらいだったと記憶している。というか海外旅行のカテゴリーに詳細を記してあるが、西安では2時間ぐらい掛けて色んな拓本を値切り倒したから、どれとどれが幾らだったのか分からない。中国元で現金5万円ぐらい、物々交換6万円ぐらい行った。上柱国とは二品に相当する官職なのでかなりの大物ではないだろうか?唐時代の会昌という年号が見て取れる。会昌二年は 842年ごろ亡くなった方だろうか?会昌の廃仏という仏教やゾロアスター教が弾圧された事件があった頃らしい。話しは逸れるが、中国には仏教寺院は当然多いが、道教寺院も多い。また、西安にはイスラム教のモスク寺院も多いし、マニ教や景教の寺院も多い。いわゆる「神社」は無い。果たして市井の人々は何を信仰しているのであろうか? 多分日本と同じで、ほぼ無宗教=拝金主義 なんだろうな。。
2018.04.02
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邵說 という750~760年前後に活躍した唐時代の能書家、政治家の撰文、書丹の碑らしい。私の貧弱な知識では隷書体ではないかと思われる。750年といえば盛唐で楷書が一般的な普通の書体だっただろうから、隷書で彫る(書く)碑石というのは極度にデザイン性が高かった碑だっただろうと思われる。今でも店の看板を作るとか、ポスターの大見出しを考える際には、人の目を惹く変わった、それでいて美しい書体で書きたいものだろう。当時、それだけ凝った事が好きな、つまり文化人だったその家族が作ったものなのだろう。この拓本と同じ大きさ幅、同じ書体の拓本がもう一枚あり、それが上の5枚の写真なのだが、幅は同じ大きさなので、おそらく表面と裏面、碑の陰陽の二枚組、又は同時に建てられた碑なのではないか??西安で2000元まで値切って、金針の水晶ブレスレットと物々交換した拓本達の中にあった2枚。表が2000元で、裏面が1500元と言っていた様な気もするし、両方で2000元だったような気もする。多分2枚合わせて2000元。沢山一気に買っているため記憶が曖昧なのだ。2017年6月の2000中国元は、円換算で37000円以上のレートだった。現地貨幣の購買力から考えると西安の物価は、物にもよるが、日本の1/4から1/5ぐらいだったから、2000元の価値は15万円ぐらいの中国人の体感価値と思われる。これ以上まける事は出来ないところまで粘り切ったから、ぼったくられたとは思えないんだよな。ただし、この碑がどこに建っているとか、何が書かれているとか、詳しいことは謎のままだ。裏面の最後の方に、撰:顔真卿とか書かれている。確かにこの年代に顔真卿は刑部尚書にいたらしい。誰か教えてください。(全文)唐故同州河西县丞赠虢州刺史太常卿天水赵公神道碑(并序)惟天水赵公讳睿冲,公惟隋员外散骑常侍平东将军渭源公显和之元孙,开府仪同三司博州刺史世立之曾孙,皇朝监察御史君煦之孙,虢王府法曹参军征之子。自渭源四代,咸著清德,洎公纂承,嘉闻益彰。志业贞简,形仪朗异,以孝友谨敬,协柔昆弟;以义礼诚纯,接奉朋交。文蔚行茂,显于当世。天后时应明堂大礼科,上异茯对,授陕州陕县尉,转汾州平遥尉,嚣剧之地,以干敏称。秩满,秩满,从调吏部,侍郎萧至忠以公所试超等,授大理评事。公迫于禄养,请署同州河西丞,赞贰其政。辑吏肃,剧贼遁逋,伏奸不兴,县六百石郡二千石皆受成仰办而已。道长运速,奄忽迁殂,以景云二年冬十月二旬有一日,终于县馆,享年五十二。及夫人平阳敬氏卒,以开元廿四年四月廿一日,合祔于虞乡县五老原。初公寝疾,告其二子良器、良弼曰:“吾祖成季宣孟,忠勋炳著,迨汉吏部尚书融,晋黄门侍郎允,亦能剿攘寇难,捍衡王室,二祖皆为河东守,子孙因徙家焉。由魏历隋,位与时升,乐后仕唐三叶,而未登吉禄,以吾祖宗之福丰庆演,固不当湮抑沦废,意尔曹尔嗣,其将必有远人。”洎公即世,适三十岁,而良器官至中书舍人,未五十岁,而良弼官至陕华等七州刺史御史中丞浙东岭南两道节度使太子宾客。元宗朝,以嗣子参掌纶诰,追赠公虢州刺史,夫人平阳郡太夫人。肃宗朝,以次子节制方面,累赠公太常卿。今圣践极,嗣孙密邕薰复纵衮等,咸擅才业,宦成三署,竟如公畴昔之所识。於戏!赵氏再世昌茂,克大其门,皆虢州祗奉先轨,贻裕后续,仁积训深之所致也。宜其诞受光饰,享兹徽章,敢篆石立表,纪旌风烈。铭曰:德积于微,业成而彰。先时蹇舛,允羡其昌。于烈赵公亶惟贞良。砥修行学,显茂家邦。施子及孙,再世以光。登朝就烈,佩玉锵锵。泽洊本根,沃润黄肠。有遗风,久逾声香。于斯篆刻,裕美无疆。
2018.03.30
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この人物の名は 竇師綸 とうしろん と読むのだと思う。一辺が1メートル以上ある大型の拓本で、蓋の拓本もあるので、2枚組。 墓誌銘は縦44文字、横40文字。合計のマス目は1760文字分あり、ほぼぎっしりだから1700文字は彫られている。気が遠くなる作業だったろう。 上柱国という官職は唐では正二品に相当するそうだからかなりの貴族か官僚で、秦府諮議とか大府少卿とも三州刺史ともあるので大蔵官僚の様な事をしていたのかもしれない。この辺りわかる方教えて下さい。 多分この墓誌銘は最近の西安の開発で発掘されたものだ。 西安の拓本店、文書斎の親父は掛け値なしに1200元=約2万円!!ぐらいのことを言っていたが、その時腕に着けていた水晶とか金針ルチルブレスレット3個とまとめて7枚ぐらいを物々交換した拓本の中にあったので正確な価格はわからない。そのときは文字の美しさからかなりの価値を感じた。とう の漢字が読めなくて、誰の墓誌かわからなかったが、アイフォンの中国語入力の手書き入力でやっと出てきた文字を検索したら、小林堂さんのページとか中国国内の研究者のページがヒットしたのでようやくこの墓誌の主人について判明しつつある。この様にようやく墓誌などに書かれた古代の謎が解けてくる瞬間のワクワク感は唐の時代に旅している様で半端なく楽しいぞっ!!竇師綸 とうしろん 唐の太宗に仕えた画家かなんか、とも書かれている。高官は優れた芸術家でもある場合が多いのでそういう事もあるだろう。墓誌は高宗の時代に入っての咸亨年(673)の刻らしい。出土場所時期など不明なのだが、小字楷書としてとても能く書けているのではないか。 いや〜、しかし日本でこの文を読んで何人が共感するかな??俺もニッチな世界にハマっちまったもんだぜ。
2018.03.04
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魏から北周にかけて活躍した官僚・武将の楊敷(ようふ)という人物の夫人の「妙瑜」という女性の墓誌銘と蓋の拓本2枚組み。 妙の本名は、蕭妙瑜=しょうみょうゆ という。父親は簫紀、梁の国の初代皇帝である武帝の第8子である。つまり妙は、楊敷の婦人となる以前は梁の皇帝の孫という極めて位の高い貴族だった。これは2行目に 「梁高祖武皇帝之孫,丞相武陵貞獻王之女也」 つまり、梁の初代皇帝武帝の孫で武稜王の娘なり、と書かれていることから明らかだ。夫の楊敷が亡くなった後もかなり長命で607年に隋の時代にこの墓石が彫られている。西安碑林前の古書店で購入した。価格はオヤジからまとめて買ったので細かくは覚えていないが、大体2枚で800元ぐらい(約13,500円)だった。この程度で古代中国南北朝時代の皇帝の孫の墓誌銘原拓本が入手でき、古代ロマンを味わえるのなら極めて安価であろう。 この拓本の文字は極めて美しい楷書で、やや文字線が細い印象を受ける。蘇孝慈墓誌銘と同じ書丹者が書いたのではないかという推測もあるようだ。書家や篆刻家が誰かは記されていないので明らかにはならないのだろうが。父の簫紀(しょうき)については、父の武帝亡き後の混乱時代に自ら「梁の皇帝」を名乗ったが、これは僭称皇帝と云われて通史の上は皇帝ではない。http://csid.zju.edu.cn/tomb/stone/detail?id=8a8fbda74ca22703014ca22a4f2e1545&rubbingId=8a8fbda74d093780014d270117bc1558中国のせっこう省の大学ページからは、1996年に陝西潼關縣亢家寨出土。とある。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%8A%E6%95%B7 ウィキにも 夫 楊敷=ようふ の事は詳細に出ているが、ウィキは正確なのか疑わしいという。 http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/20070622/p2 この↑「枕流亭のブログ」さん には、夫の楊敷=ようふ の事が詳しく書かれている。相当な歴史家。夫の楊敷 ようふ の墓誌銘が発見されていればもっと詳しいことがわるのだが、夫の墓誌は未発見らしく。
2018.02.18
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この拓本は西安碑林博物館の門前町にある拓本専門店で購入したもの。楊椿 ようちん は、北魏の政治家。どうやら政治家、将軍としてかなり有能で皇帝に信頼された素晴らしい人物らしいのだが、531年に77歳で爾朱天光(じしゅ てんこう)によって殺害された。とある。中国の王朝が入れ替わる様は貴族とか王族の骨肉の争い、そして裏切り、それに伴う一族皆殺しの連鎖、この辺りになると人がどんどん死ぬし複雑だし全く歴史がわからない。わからない事だらけ。『魏書』巻58 列伝第46『北史』巻41 列伝第29魏故使持節督洛州諸軍事安南将軍洛州刺史弘農楊簡公第二子婦清河崔氏墓誌銘(楊椿妻崔氏墓誌)
2018.02.15
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砥部焼 は愛媛県伊予郡砥部町で発達した焼き物だという。砥部焼という名を聞いた事も無かったけど、青を下地にオパールみたいな虹色が現れていて素晴らしい、ので急に買った。そもそも伊予という国は関東から見て最果ての場所だし、目立たない。その地の果てで、砥部焼が生まれたのは江戸時代中期と焼き物の世界では最近の事だ。焼き物の世界ではかなりマイナーな場所で特異性も無さそう。でもこの器の持つ風合い「落ち着き」をくれる気がする。
2018.02.11
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魏故建威将軍扶風太守清河張君墓誌銘。北魏王朝の時代、建威将軍となった。扶風 ブフウの街の太守であった。張氏の墓誌銘。この人の諱イミナは永 と云い、字名 アザナは 長命 と云ふ。と読める。亡くなったのが延昌二年とあるので513年、北魏の宣武帝の治世に亡くなっている。建威将軍とは四品の一位の位という事だから、極端に高い役職ではないが、五品までの官職にあれば唐の時代は墓に石碑を建てても良かったそうだから、相当な貴族だ。扶風は、現在の西安の西に広がる県だった。清河は街を意味している。つまり官位が建威将軍で扶風の太守というから扶風知事の様な事を務めた貴族だったのであろう。張永は513年に亡くなっている。この拓本の文字は六朝時代の楷書である点は、以前に書いた 皮演墓誌 516年と同じで、時もほぼ同じだが、文字は全く異なり、龍門二十品に見られるような鋭利な荒々しい楷書である。一見すると汚いというか乱暴に書かれた文字に見えてしまうが、そうではない。やはり真似の出来ない気品のある文字なのだ。中国では文字手本として製本されているほどの墓誌らしい↓。http://tl.zxhsd.com/kgsm/ts/big5/2017/01/05/3718422.shtml 折り畳んで和風の額に納めたら途端に格が上がった気がする。
2018.01.23
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西安で買った書の掛け軸。横使いなので掛けようもなく、仕方なく階段の壁に無理矢理掲示中。 このブログの自由記入欄に気に入っている名言的なモノを記している。読者はこれにより生きるための十分な知恵を得ているはず。その中でもシンプルで好きな熟語だ。諸葛亮孔明が弟子に残した詩の一部というが、明の康煕帝の言葉との説もある。長い詩の中から切り取ったものなので、本来の意味は前後の文脈から考えるべきだが、 心身の平静を保てなければ遠大な境地に辿り着けない とか、転じて 誠実にコツコツ努力を続けないと遠くにある目標に辿り着けない という意味でもあるという。いずれにしても良い意味の教訓である。 元の詩の一部は7文字で 、非寧静無以致遠 、である。それを四字熟語として寧静致遠。 この掛け軸の字は客観的に上手く書けているのかどうか正直わからんのだが、個人的には上手いと思う。 西安で千円位だった。西安の千円は日本の4〜5千円の体感価値があるから、まあ表装して千円でも利益が出るのだろう。書家さんは300円ぐらい貰えるのかな??300円で1500円位の等価価値ではあるが。となるとアルバイト感覚の大した書家さんではないのだろう。西安にはバカ高い書が山程売られているが、まあ最初だからこのようなお土産品からで良いのだ。掛け軸3本と拓本20枚、よくも持ち帰ったものだ。
2017.10.18
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西安で買ってきた掛け軸。横使いの掛け軸は日本に馴染まない形状なので、掛けにくいし、掛ける場所も無いので車庫にシールフックで掲示している。この掛け軸は、海外旅行編の西安旅行の中で、日本人に写真を撮って貰おうとしたらノーサンキュー!と物売りに間違われた時に持っていた土産の中の1本。正直、この書がどの程度上手いのか下手なのかわからない。しかし、西安という古代から続く書画の街にあって、安物とはいえ売り物だったのだから下手ではないのではないか?。同じような大きさの書で7〜10万円とか現地では法外な値が付いた掛け軸も沢山売っていた。曹操(後155~後220)は劉備などと並んで後漢末に現れた三国志の英雄で魏の基盤をつくった実質建国の祖である。曹操は優れた軍略家であり武人であり、また優れた文人、詩人であったという。この観滄海(かんそうかい:蒼海を観る)という詩は、曹操が初めて海を観たときに書いた詩である。滄海とは、現在の渤海のことで、天津の北にある秦皇島あたりから渤海を眺めたときの心情とのこと。内容は直訳すると、 東に碣石を臨み、以て大海原をみる。悠々と広がる大海原、傍らには断壁がそびえ立ち、その上には樹木百草が生い茂る。秋風がさびしく吹けば、その水面に波のざわめき湧き起こる。日月の出入、星河の輝き、まるで大海原より出づるが如し。幸いなるの至りというべし。志を歌にして詠ぜん。 となるそうだ。曹操は、人材を登用するにあたり、性格的に難があっても才能があればどんどん登用したし、敵に仕えていた人物や、我が子を殺した張本人であっても才能があれば重用したといわれた。いわゆる「人材登用オタク」だったらしい。この詩の内容は普通に読めば、多分、海は広いな大きいな~的な他愛もない内容だと思われるのだが、解釈する人によれば、人材バカだった事もあり、海のような包容力で人材を受け入れよう、となるそうだ。しかし私は無理にそういう解釈をしなくても良い気がしている。
2017.10.02
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西安で元や物々交換計16万円を使って手に入れた拓本14枚の、墓誌の意味や神道碑の意味がわかったら順次掲載して行きたいと考えている。 さて、この楊公墓誌は、横約67センチ、盾は約69センチぐらいのほぼ正方形の堂々とした墓碑で、楊津=ようしん 469-531 という北魏の官僚の墓誌銘の拓本と判明した。 B1のポスターフレームに収めてみた。 文字はほぼ楷書体で篆刻されており、531年にこのような美しい楷書が書かれていた事に驚く。 墓誌銘が彫られる様な人はとても高貴な人や位の高い軍人などだが、楊津は孝文帝に仕え、厚い信頼を得ていた重臣らしい。北魏といえば古代中国の大帝国であり、その国政に関わる重要な人物の墓石の拓本が東京都の我が家にある事が少し不思議に思う。 それほど貴重な拓本が何故売られているかといえば、西安ならではの事情がある。西安の周辺は、北魏、北周、隋、唐などの都であった長安や洛陽があった場所。1900年代はじめから現在まで、地下鉄やビル建設工事中に沢山の墓碑が土中から出てきている。墓碑は土中にあると風化せず亀裂も無いため状態が良いという。だから墓碑に書かれたその貴族や軍人の歴史が中国史を補完したり、新事実として認定されたりしているのである。 土中から墓誌銘が発見されると、だいたい近くの博物館に収蔵される。少し前まで博物館にあっても拓本が取られていたが、現在は法律で博物館に収蔵されると拓本が採れなくなってしまうので、博物館に行く前に何らかのコネルートで拓本が取られて、それがまたコネのある拓本販売店に収まると考えられるのだ。この時代の墓誌銘は国の中心であった長安や洛陽周辺からしか出てこないから、西安は特別な場所なのである。
2017.07.15
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