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ほとんどの日本人、そして多くの中国人が、日本の近代化は明治維新から始まったと思っているのではないだろか。中国の近代化は、1864年に曽国藩・李鴻章が太平天国の乱を鎮圧する少し前頃、洋務運動として始まります。日本では、一般的に明治維新(明治改元1868年10月)頃と考えられていますが、そうすると近代化を早くはじめた中国よりも日本の方が早く近代化が成し遂げられた事になります。このように考えると日本が大変優秀であったように思えます。そして、この事が中国人に劣等感をいだかせ、日本人に優越感をいだかせるのです。私は、日本はもっと前の江戸時代からすでに近代化は始まっていたのではないかと考えております。考えているというより、そう考えた方が歴史的事実に辻褄が合ってくるのです。横井小楠「国是三論」という文章をご存じでしょうか。横井小楠(1809-1869)は、熊本藩士ですが、熊本藩ではあまり待遇がよくなかったようで、松平春嶽の政治顧問として福井藩にまねかれ「国是三論」を書いています。まず世界の形勢のうちで、航海が盛大となり、それよりして海軍が専要になってきた事から説明しよう。本邦の事はしばしおくとして、五大州の内アジアの中の中国は東面を海に臨んだ巨邦である。文物は早くから開け、稲、麦、稗をはじめとして人類の生活に何不足するものはない。その他知巧・技芸・百貨・玩好に及ぶまですべて内地で生み出され足らないものはないほど豊饒の国である。それ故、上朝廷より下庶民に至るまで誇大驕傲の風習が生まれ、来航した海外諸国には貿易は許可するが、中国自身で海外へ出向き事物を求めようとする積極性はない。これが中国の兵力を衰弱させ、世界各国から凌辱されるゆえんである。ヨーロッパは中国と違い、その領土は当面のみアジアの地に接し、他の三面は海に面している。地球の西北に位置し、アジアに比べれば最も小さな領域であり、事物には欠けるものがあって他に求めなければならない。それ故、ヨーロッパ州内の諸国が各々航海を主としなければならないのは自然の勢いである。百般の貿易はもちろん、時としては、軍艦の威力をもって互いに掠略刧奪し領土属地を開拓するのを努めとしている。ポルトガルがアフリカの南端喜望峰を周ってインド洋へ航海し、イスパニアのコロンブスが北アメリカの東辺に行き着き、アメリゴ=ヴェスプッチが南アメリカを発見した事等をはじめとして、競って航海遠略を求めている状況である。なかでもイギリスはヨーロッパ州の西辺に属する孤島で海に囲まれた国であるから、最大限に航海に努め植民地を広めてもっぱら富強を国策としている。わが国の文禄年間オランダがはじめてインドに通商して大利を得てから、そえを羨んだイギリスがついで侵入し、その他フランス・アメリカ・ルソン・ポルトガル等もまた相継いで商館を設け販売を行った。インドはアジア南部の広大な地域で、東・西・南・北・中の五つに分かれている。土地はよく肥え、物産は豊饒で各国にまさっている。それ故イギリスは遂に多数の軍艦を率いて侵略し、数戦の後その王を放逐し国土を奪い、現在では南・東・中の三部は既に英国の属地となり、西・北の二部のみ各々自立の国王が存在するばかりだ。西洋人はかつてインドの豊饒な産物が万国に冠絶するのをみて「世界の中の宝物蔵」と称したが、イギリス一国がその利を専有した。それゆえ英国は本国以上にインドを重視し、駐屯兵備を最も厳重にしている。英国は世界の強国でヨーロッパ・アジア・アメリカ・アフリカ・オーストラリアの諸州で併呑した植民地が三十五あり、世界の人口の五分の一を有し強大無比とするのも、その基礎は印度の富庫を掌握することでその勢力を伸長させることができたのである。すべて西洋諸国は古より今に至るまで大小の戦乱やむ時なく、なかでも文化年間におけるフランスのナポレオン・ボナパルトの乱を古今未曾有と称し、ヨーロッパ諸州の陸軍の制はこの時以降一変した。しかし近年ロシアとトルコ・イギリス・フランスとのクリミア戦争はそれ以上の戦乱であったという。そもそもロシアの領土は東アジアより西ヨーロッパにわたり、東西南北四百五十万里の領域でその強勢は諸州に冠たるものである。しかしその地勢は、北は氷海面し、南は黒海・トルコに至り、東はアジアの藩属国接し、西はヨーロッパの諸州に連なり、ほぼ東西に長く南北に狭い。このように広大で、黒海のオデッサ・白海のアルハンゲリスク・バルト海のタリン・リガの諸港と、東北偶にカムチャッカがあるが、ともに海運には便ならず遠略を計画するのに不利な場所である。それ故裏海に沿って陸路から西北の西インドを侵略し、遂に東・南・中のインド三地域を奪って英国の富庫インド植民地の一片をそぎ、インド洋に向かって大いに海路を開き雄図を世界にほしいままにしようとし、コーカサスの大山脈を隔てて英国とアフガニスタンを争い、戦乱は数年続いている。ロシアがもし勝利すれば英国は必ず衰亡する事が目に見えており、英国も全力を尽くしてロシアと対峙する。これが英・魯が仇讎たる原因である。近年、ロシアはまだトルコに侵入し地中海から大西洋に至る航路を開こうとしたが、英・仏がトルコを助けてロシアと対戦し、黒海および地中海で開戦した。紀元前以来海戦の大規模なものはこのクリミア戦争以上のものはなく、海軍の制は一変し、英国は新規にカノン砲装備の軍艦を建造しロシアのセヴァストポール要塞を攻撃しその鋭気を砕いた。戦いは数年にわたり、戦闘の死傷者は数十万人。和約成立し、魯国軍艦が地中海を航海しないことを約して相互に停戦した。しかし大志をくじかれたのに激したロシアは、なおスパイをインドにはなって各地域の国王を慫慂し戦乱を引き起こさせ、その混乱に乗じて英国の植民地を略取しようと策謀した。さらに満州と条約を結び黒竜江の地を租借し、ウラジヲストックを開き、日本海に向かって大いに航路を通じ、宿志を朝鮮海より南大洋に遂げようとしている。すでに議は決して黒竜江から首都ペテスブルグ迄七千余里にわたる鉄道を設置しおわったという。「国是三論」の一部です。いかがでしょう。すでに19世紀中頃には、これだけ世界の情勢に精通している人がいたのです。どれだけの欧米の本が翻訳されていたのでしょう。
2009.06.17
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5月16日テレビでの報道は、新型インフルエンザ一色に変わる。休みが終わり18日に通勤が始まると大阪の地下鉄の電車内でのマスク姿が一気に跳ね上がった。そしてどこに行ってもマスクは売り切れ状態で、手に入れる事ができなくなる。残念ながら、マスクを手に入れる事ができなかった私は、多くの人がマスクをしている、ちょっと不思議な感覚の車内で、少し肩身が狭い想いをしなければならなかった。そんな中、欧米では、マスクを余りしてないとの報道もあった。新型インフルエンザがこれだけ世界に蔓延しているにもかかわらず、なぜ欧米ではマスク姿の人がいないのか。新型インフルエンザに詳しい元小樽市保健所長の外岡立人さんは「インフルエンザ予防のため、マスクをするのは日本とアジアの一部の国で定着している衛生習慣」と指摘する。 その理由として、外岡さんは「欧米では、自分への感染がマスクで防げるかどうかについてはっきりとした効果があるとされておらず、マスクは病原体を持っている人が第三者にうつさないために使用されている」と説明。欧米では、手にウイルスがつくことが考えられるため手洗いをしたり、人込みに入らないようにしたりする教育が徹底的に行われている。今回、マスク購入の為に少し調べてみると「N95」という規格があることに気付いた。米国 NIOSH(National Institute of Occupational Safety and Health)が定めた基準の中で最も低いものだそうである。最初の「N」は、耐油性が無い(Not resistant to oil)ことを表しており、耐油性があるものは、医療用以外の用途であるようである。数字「95」は、試験粒子を95%以上捕集できることを表している。その他にも、N99、N100という製品がある。日本では、産業用の使い捨て式防じんマスクで、国家検定が行われているそうで「DS2」というクラスのものが「N95」と理論上は同様の効果があるそうである。しかし、私が大阪で目にするマスクは、限りなく0%に近く「N95」ではない。なぜ分かるかというと、「N95」の表示がはいっているマスクは、形状が大変異様であるからすぐに判断できる。今回の新型インフルエンザは、早くから弱毒性である事が報道されていたので、私もそんなにインフルエンザに対する恐怖心はなかった。しかし、毒性の強い鳥インフルエンザが流行したら、と思うとゾッとする。今回の新型インフルエンザの流行は、実際にインフルエンザの流行が起こるとどのような問題が発生するのか検証する良い経験になったのではないだろうか。報道では、マスクの有効性が議論されているが、果たして我々日本人がマスクをする理由は、感染を防止するとう理由だけだったのであろうか。今回の大阪の状況を感覚的に考えると、マスクをしている人は、企業に属するひとが多かったのではないかと思えた。私自身、自分自身の感染防止という理由だけだったら、なかなか手に入らないマスクを探す事はしなかったような気もする。私にマスクをさせたもう一つの強い理由は、会社や社会に迷惑をかけたくないという心理ではなかったか。もし自分が感染したかもしれないという疑いが出た場合、当然それまで通っていた会社の皆さんにも疑いの目が向けられるであろうし、全員が出勤停止などといいう事態に陥るかもしれない。私の住んでいるマンションは、大型の施設であるので、もしそのマンションで消毒しなければならないなんていう事態になったらと思うと、背筋が寒くなる。マスクをしていた人達に、共通するのは、こういった心理ではないだろうか。中国人の社会を見ていると、こういった心理状態にはおちいらないように感じる。中国人がそういった心理状態にならないというのではなく、中国の社会がそういった心理状態をつくらない構造になっていると見る方が正確ではないだろうか。中国人がそういった責任感や義務感を感じるのは、家族や友達に対してであろう。石井良介氏の書かれた「江戸の刑罰」という著書の巻末に犯罪と刑罰の対照がある。鋸挽 主殺磔 古主殺、親殺、師匠殺、主人傷つけ、関所をよけて山越えした者など獄門 追剥、主人の妻と密通した男、毒薬売、贋秤・枡の製造をした者など火罪 火付死罪 十両以上の盗み、他人の妻との密通など以下省略江戸時代いかに組織のトップが大切にされていたのかがわかる。我々日本人にとって、自分の属する組織、そのトップを守るという事は、最優先事項なのであり、それが形式で個人的には無意味であると考えていたとしても従わなければいけないという暗黙の了解が存在するのではなかろうか。その意識は、日本社会をよい方向に導いているように個人的には、感じているので嫌いではないのであるが、時として部外者に対する排他的攻撃になる事があるように感じるのが残念である。
2009.05.31
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読み始めたばかりの井上光貞氏「日本の歴史-1神話から歴史へ」の冒頭部分にこんな言葉が書かれている。「歴史は書き換えられる」という有名な言葉には、大きく2つの意味がある。その一つは、それまで知られていなかった重要な事実が明らかになって、歴史の常識が大きく打ち破られる場合である。中略歴史が書き換えれれるもう一つの場合は、国家や宗教が歴史をどのように利用してきたか、という厳しい問題と関わってくる。歴史をまとめる場合、過去の事を記録しておきたいというすなおな動機も確かにあるだろう。しかし国家や宗教の支配に属する公の機関が歴史をまとめる場合、そこに自分たちの支配体制を歴史的に肯定しようと言う意図がしばしば一本の筋となって貫かれている。つまり自分たちが君臨しているのは偶然の事ではなく、本来、当然そうあるべきだったのだ、ということを自他共にしめしたい動機がひそんでいるのである。とすれば、どうしても、自分たちに都合のわるいことはタブーとしてなるべく書かないし、実際にはなかった事でも書きたくなるであろう。したがって、自分たちに都合の悪い事実を明らかにする者がでてくると、世を惑わす者として処罰するといった事も起こってくる。そしてこれらの支配体制が変革をうけると、たちまち歴史が書き換えられるのである。日本の歴史を眺めていると、なんとなく腑に落ちない事実に突き当たる。縄文式土器と弥生式土器の明らかなちがい。同じ国土の中で発展してきたのであれば、縄文土器から弥生式土器に移り変わる過程の土器がありそうなものであるが、その中間にあたるような土器を見たことがない。縄文式土器と弥生式土器は明らかに違うのである。足利義輝は、幕府の重臣である大舘晴光を派遣。景虎・晴信・氏康の三者の和睦を斡旋、三好長慶の勢力を駆逐するために協力するよう説得した。この計画は結局うまくはいかなかったのであるが、もともと敵対している三者をわざわざ和睦させ、なぜ三好の勢力に当たらせなければ、ならなかったのだろうか。豊臣秀吉は、全国を制圧した後、朝鮮出兵を計画する。国内の戦乱が収まったばかりの時、まだ政権としても安定してなかったであろう時に、わざわざさらなる出費と政権の不安定要素を作り出す朝鮮出兵をしなくてはならなかったのだろうか。私がこれまで学んできた日本の歴史では、これらの矛盾に答えを出すことはできなかった。そして網野氏の「東と西の語る日本史」にその答えが隠されているとは、全く考えもしなかったのである。小山修三氏の推計によると縄文時代中期の北海道をのぞく日本列島の人口は約26万余人。その大部分は東北南部から関東、中部地方内陸部に分布。西日本はわずかに2万人程度、全人口の7.7%しか住んでいなかったそうである。そのころは、東日本が先進的で、西日本は遅れていたそうである。しかし、紀元前二百年、もしくは紀元前三世紀後半の時期に始まると言われている弥生時代。華北から朝鮮を経て流入して来たとする説、華中、華南を起源とする説などいろいろな説があり、定説をまだ見ていないそうであるが、北九州を初めとして、数十年という短期間に西日本一帯に伝播したそうである。そうした弥生文化の伝播は、名古屋、丹後半島で止まってしまう。その理由は、稲の品種であるという説も有るらしいが、もともと東に存在した縄文文化の影響は否定できないであろう。こうして、日本は、東の縄文と西の弥生文化を基礎とした対立の中で発展を始めるのである。こういう見方をしていくといろいろな日本史の矛盾に納得のいく説明を加えることができる。また、江戸時代以前、朝鮮半島や中国大陸との往来についても新しい見方を提案しておられる。私たちはこれまで日本という範囲の中でしか歴史を見てこなかったように思うが、よく考えてみると九州と朝鮮半島は大変近く、国という概念がまだはっきりしていなかった中世に、九州や中国地方と朝鮮、中国大陸との往来が無かった、もしくは少なかったと考える方が不自然である事に改めて気付かされる。江戸時代以前の歴史は、現在の日本という国の概念にしばられて考えては、おかしな事になりそうである。日本人論を考えるとき、「日本人はずっと単一民族であった」「明治にはいるまで日本は、海外との往来や交流がほとんどなかった」という間違った思いこみが私たちの民族感を歪めているのであり、もっと大きな範囲で日本人といいうものをみなおさない限り真の日本人には、行き当たらないのではないだろうか。
2009.05.29
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中国には「江湖」という言葉がある。一般には「広い世界」というような意味で使うようである。日本は、海に囲まれているからであろうか、「海に乗り出す。」というような言葉を使うが、同じようなニュアンスでは無かろうか。yu陽著「江湖中国」によると、「江湖」は一般に使われる「広い世界」というだけの意味ではないようです。東晋の時代の白蓮社という念仏結社にはじまり、元の「白蓮教」、明中期から清中期に、その流れを組む「羅教」「黄天教」「聞香教」「弘陽教」「園頓教」「天地会」等へ変貌した組織も含むようです。孫文の革命組織もこの流れの中にあり、上海のマフィア青bangは、有名です。また、1930年代に書かれた連huo如著「江湖」によると地方を流れ歩く商人達もこの「江湖」に含まれます。かれらは、生きるためにいろいろな詐欺まがいの商法を身につけます。いずれも社会体制からはずれた人達が生きるために作り上げた、裏社会なのです。「江湖中国」の著者であるyu陽氏とひょんな事から連絡を取れるようになった。ある日、彼から日本には、「江湖」のような歴史はないのかと質問を受けた。いろいろと考えを巡らしてみるがそれらしい歴史は、日本には見あたらないとおもっていたが、網野善彦氏の「無縁・公界・楽」を読んで、まさにこれこそが日本の「江湖」であろうという想いに駆られた。網野氏によると、こういう社会は、ヨーロッパで起こったアジールに類似しているそうである。ヨーロッパのアジール、日本の「無縁・公界・楽」は、体制内にできた腫瘍のようなものであり、中国に外国がつくった租界のような組織である。それらは、あくまでも体制側が仕方なく許容した治外法権的な場所であり、組織であるが、中国の江湖は、体制外に発生しており、全く当時の政府の管理外だったところが大きく違う。しかしその中身は大変酷似している。網野氏は、「無縁・公界・楽」を一緒にタイトルにされているが、それぞれ独立した概念である。ただ、網野氏の研究では、それらを明確に分けるところまでは示されておらず、それぞれ類似点があり、同種の概念であろうというところにとどまっている。江戸時代、女性には離婚権はなかった。夫の方に非があっても、三行半を書き離縁するのは、夫の方であった。ただ、妻が実家にかえって、それを夫が3,4年放置していれば、離婚は認められたそうである。もう一つ妻が積極的に離婚をする方法が縁切寺への駆け込みであった。縁切寺は、女性の救済場所だけだった訳ではないそうである。駆け落ちをした農民、博奕の禁制を犯したものなどもこの寺に駆け込めば、一般社会との縁が切れ、その罪に問われなかったそうである。近年、中国で起こった北朝鮮人の日本大使館駆け込みともよく似ている。また、寺に入った貸銭・貸米も一切追求を許されていなかったそうで、寄進された土地などについても一度寺に入れば、俗世間との縁が切れ、その土地の子孫であろうとも干渉することはできなかったようである。縁切寺が示す無縁の原理は、社会の一部の例外でしかないようであるが、縁切寺と同じような意味の言葉に「公界」という言葉がある。防長を中心に、中国・北九州に勢威を振るった大内氏の法令、「大内氏掟書」のなかには、主君の怒りにふれ、その咎めをうけて、家人としての縁を切られたものは、殺害、刃傷されたり、恥辱を加えられ、思いがけぬ災難にあうなど、たとえいかなる事があろうとも、すでに「公界往来人」と同様なものであるから、その加害者については、なんの罪にも問わない、と定められているそうである。主従の関係を切られた無縁の者は、公界という体制外の世界に放り出され、往来(道路)をさまよう芸人、商人などのように義務も無ければ、権利もない身分になってしまうのであろう。江戸時代の刑罰に、遠島、追放などがあった事を考えても、主従の関係を切られる、百姓がその土地から追い出されるという事は、現代とはちがい餓死への道でもあったのであろう。しかし、公界で生きる術を身につければ、自由を享受する事ができた。体制に縛れていないので、大名とも対等につきあえたようである。千利休が秀吉と対等であったことをみても納得がいく。しかし、体制外で永延と生き延びた中国の江湖とはちがい、日本の場合こうした公界は、だんだんと政権の管理下に組み込まれ、千利休が切腹を命じられたように、その魔力は消えてしまうのである。戦国時代、三重県の桑名、美濃の加納楽市場、自治都市博多、堺なども公界であった。それらの都市は、諸役、年貢などを免除されている。中国の江湖と同じような厳しく自由(無法)な空間が、戦国時代の日本には存在したのである。それは、体制からはみ出した人々を吸収する調節弁であり、社会人から一匹オオカミへの登竜門であった。しかし、江戸時代にはいると、その調節弁をも政権が管理下においてしまう。日本人の精神はそれから強烈に内向的になり、研ぎ澄まされていったのではないだろうか。万に一つの間違いも許されない厳しい社会が日本人を鍛え、内部的な矛盾を非常なまでの処置で解決してきたように思えるのである。
2009.05.06
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呉邦国:西側法律体系で中国法律体系を構成してはいけない3月9日、十一届全国人大二次会議は、人民大会堂で第二次全体会議を挙行、全国人大常委会委員長呉邦国の全国人大常委会報告に耳を傾けた。今後一年の主要任務2009年は新中国の成立60周年を迎える。国際的国内的環境変化への重大な挑戦の年である。国家の各事業の新しい発展実現に向けての鍵となる一年である。常委会の全体的な要求は、十七大十七届三中全会と中央経済会議精神の徹底。それは、トウ小平理論と三つの代表の重要な思想によるものである。科学的発展観、党員指導の堅持、人民を主とし、法治による統一である。党を中心とした国家がその職権をもって行い、中国独自の社会主義法律体系の強化、安定した速やかな経済促進と社会の安定した協調、憲法及び法律の実施保障、人大の仕事をさらに新しいレベルまで高める事である。一、中国独自の社会主義法律体系における決定速度を速める党中央は、はっきりと2010年までに中国独特の社会主義法律体系を完成させる。今年は、この目標の鍵となる一年である。我々は、党十七大精神に基づき、立法の質を向上させる事を条件に、法律の制定を進め、法律の整理を行う。中国独自の社会主義法律体系における決定速度を上げる事に努力する。まず、制定と修正は、法律体系を支える重要な法律である。社会立法を強化し、経済、政治、文化の立法を改善する。今年は、下記の主要な立法項目について検討する。= 社会保険法、社会救助法、侵権責任法、行政強制法、農村土地請負経営紛糾仲裁法、精神衛生法、国防動員法等。修正は、国家賠償法、保守国家機密法、選挙法、村民委員会組織法、土地管理法、郵政法、統計法律法等。 =立法の組織協調強化、科学立法の積極推進、民主立法、公民の立法参加の拡大、立法の調査研究、科学論証の強化、広く知識を集め、立法の質を高める。次に、現法律の整理。我が国には、現在有効な法律が231件存在する。一部の法律は、改善が必要である。その内、3つの状況が考えられる。1.一部の法律は、80年代、90年代初期に制定され、現在明らかに社会主義市場経済に適合しないものがある。2.法律制定の時期により前の法律と後の法律に矛盾が存在する場合がある。3.一部の法律は、有効性を欠いており、国家が強制的に実施しなくてはいけないものがある。このような問題に対し、昨年常委の組織部署が法律整理を開始した。今年は、その仕事を完成させる。以下省略
2009.04.29
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以前、吉川幸次郎先生が、日本は、文化を純粋培養するといわれたと書いたことがありました。しかし、今回先生の本に目を通し直し、その箇所を探しましたが、その箇所が見つからない。私の勘違いであったかもしれません。しかし、先生が言っておられないのなら、これ幸い僭越ながら私が発言者となりたい。日本は文化の純粋培養国である。純粋培養とは、微生物学の最も基本的な手法であり、文化についていうのは、当然比喩としてである。しかし日本の文化をみていると外国文化を取り入れ、純粋培養しているといっても過言ではないと思える。山本七平さんが「人望の研究」の中で、京大の矢野暢教授の「掘り起こし共鳴現象」について書いておられる。われわれは、意識しなくても、さまざまな文化的蓄積を持っている。そして外国から新しい思想やイデオロギーが来ると、文化の蓄積の中でそれと似たものを掘り起こして共鳴する。この現象は、どの国にでも起こりうる。ただ1つ、文化の輸入が前提である。なぜ日本が外国に比べて特殊であるかのように見えるのかは、この現象で説明がつくように思う。日本の歴史を見るとき、その発展は中国と比べるとかなり遅れていた。そして現在は、中国を凌いでいると言っても間違いは無いであろう。最初の内は、中国から文化の輸入で急速な社会発展を遂げ、江戸末期からは、西欧の文化、文明を急速に取り入れて工業化を続けてきた。日本以外にこのような文化、文明輸入を続けてきたが国があったのであろうか。残念ながら現在の私に答えは出せない。しかし、その急速な文化輸入によって、日本は常に文化、文明の「掘り起こし共鳴現象」が発生し続けていたであろう事は想像に難くない。日本は、文化、文明の輸入時に自分の文化、文明に理想的なエキスだけ享受し続けた。自らがその努力をせずとも輸入側には、そういう現象が起こるものなのである。一般の環境下では様々な種類の微生物同士が種間相互作用を行っており、ある微生物について研究する為には、多種多様な微生物の中から培養する微生物だけを取り出す必要がある。この「掘り起こし共鳴現象」が引き起こすのは、純粋培養の単一微生物の抽出の部分だけである「掘り起こし共鳴現象」で抽出された文化エキスはどうやって培養されたのであろうか。日本は、海に囲まれ、近代化が進むまでは、海外に出ることは容易ではなかった。さらに前回ご説明したように、小さな単位での管理社会ができあがっていた。ペットボトルに詰め込んだ空気のようにどんなに熱を加えられ膨張しようとしても、ペットボトルがその外形を破裂せんばかりにふくらんでもそこから逃れることはゆるされなかった。自ずとその精神的指向性は、内側へ向かわざるを得ない。破裂しそうになっても内部で何とか処理しなくては生きていけないのである。「俤(おもかげ)や姥(うば)ひとり泣(なく)月の友」芭蕉はこんな句を詠んでいる。うば捨て山の話などは、まさにそういった隔離された環境下で日本の村々が取った究極の内向きな解決方法であったように思える。歌舞伎に「寺子屋」という演目があるそうである。1907年ドイツのケルンでこの「寺子屋」が上演されます。1904年-1905年に起こった日露戦争の直後です。武部源蔵は、菅原道真が失脚、流罪された後、その子供を預かり寺子屋を営んでおります。そこへ道真の政敵である藤原時平から、その子の首を差し出すよう命令がきます。武部は、思案の末、寺子屋に入ったばかりの新入生を身代わりにする事にします。その新入生は、その首検分を言いつけられた松王の息子だったのです。松王は、以前道真に世話になっていたのです。この物語の中で、武部は、「せまじきものは宮仕え」という言葉を発します。「瑠璃の島」の最終回で、おばちゃんが足を水で洗っている場面で、瑠璃にこう語る。なに?珍しい?まだね、これからこれも洗うんだよ。この島にはね、昔水道がなかったから水は宝物だったんだよ。なにもない島だからね。全部が宝ものなの。全部がね。全部。こうやって日本は、夏目漱石や太宰治を悩ませた「世間」を形成していったのではないだろうか。1億玉砕などという発想は、こうした内向思考から生まれるのではないだろうか。村々が平和なとき、この考え方は大変有効に働く、みんなが外部の目を気にしながら、勤勉に清く正しく生きてゆける、しかし、いったん形勢が悪くなると、外に発散できない歪みが、その生け贄を探し求めるのである。260年にも及ぶ江戸時代は、日本人の思考を徹底的に内向きに変えてしまったように思える。こうした日本人の徹底した内向き思考は、受け入れた文化エキスを純粋培養しているように思える。日本人の内向きな思考は、日本刀のように洗練され美しい。しかし、その研ぎ澄まされた切れ味が外に向かうとき、恐ろしい威力を発揮し、人々を傷つける事に日本自身が気付いていないのではないのだろうか。完
2009.04.25
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1588年秀吉の刀狩令がだされた。1592年初冬、炎天下の続いたその夏、摂津の鳴尾村と瓦林村(兵庫県西宮市)が用水をめぐって激しく争い、大がかりな合戦のあげく、八三人もの百姓たちが、秀吉によって磔の刑に処せられた。それは「天下ことごとく喧嘩御停止」の法に背いたからだ、と噂された。中略日照りの夏に用水を争う二つの村は、それぞれ近隣の村々に応援を求めた。すると、武庫川下流域の東側の村はすべて鳴尾村に、川の西側の村々は瓦林村に味方した。数多くの村々は、たがいに弓・鎧をそろえ、馬に乗って合戦を交え、あげくは、双方ともに数多くの死傷者を出した。刀狩り後の村にも、それだけの武器があり、戦いの体験も豊かに蓄えられていた。この大がかりな「村の戦争」が、秀吉の知るところとなった。すべての村々から代表一人ずつが京都に呼び出され、秀吉奉行人による糺明のあげく、牢に入れられ、処刑された。鳴尾村からは十三人が、また反対側からは二六人が、それぞれ処刑されたという。中略なお、先に噂のあった身代わりの処刑については、意外な伝えが現地の村々に遺されていた。合戦に参加した六つの村では、それぞれ庄屋の身代わりに乞食をだした、という。いくつもの村が、村の犠牲に乞食を身代わりにしていた。もともと武装を日常とした中世の村は、予期される身代わりの犠牲として、ふだんから、村として乞食を養っていた。藤木久志著「刀狩り」には、こんな物語が書かれている。明治元年の次の年、1869年、特権のある百姓・町人の帯刀「一切廃止」令がだされる。翌1870年には、太政官布告は、一般の百姓・町人の刀について「百姓・町人ども、襠・高袴・割羽織を着し、長脇差を帯し、士列に紛らわしき風体にて通行いたし候儀、相成らず候事」と規制していた。戦国時代に刀狩りが行われた後も明治まで、かなり多くの百姓・町人が帯刀をしていた事を物語っている。一般に現代日本の社会は、武士社会から発展してきたと考えられているようであるが、私は常々不思議であった。わずか人口の数パーセントであった武士社会が現代日本社会の原型となりえたのだろうか。全く武士社会が現代に影響を与えてないとは言い難いが、村人達の行動をみているとそこにはもっとはっきりと現代日本社会の原型を見ることができるように思う。村人達は、鳥獣の狩猟、害獣の駆除、犯罪者との対決の為にも武装が必要であったようであるが、隣村との争い、戦争からの防衛という直接戦争の目的でも武装していた。時には、戦争をしている武将達から、敵の落人狩りを命じられる事もあったようである。その命令に反すれば、その武将の敵と見なされ、村が焼かれてしまう事もあったであろう。彼らにとっても、どの武将に味方するのかは、生存をかけた決定であったようである。村人や一般民衆が強かったのかは、福島正則、加藤清正、石田三成が物語っているのではないだろうか。彼らは、秀吉の子飼いの武将達であり、姻戚関係にある者もいる。秀吉自らが半農半兵の出身であるのと同様に彼らもまた一般民衆の出身なのであった。とはいっても残念ながら専門の戦闘集団として発達した武士や僧兵などにはかなわなかった。彼らは生き残る為には、いろいろな手段を講じたようである。上の引用にもあるが、各村々は、乞食や他村からのあぶれ者を養っていたようである。それは、いざというときの犠牲者達であった。乞食やあぶれ者達は、いざと言うとき、自分の子孫の優遇を条件に死んでいったのである太平洋戦争末期、若者達が自分たちの家族のために特攻にいったのと同じ構図が見えてくる。現代においても国のため、大企業の為と言って不景気になると派遣社員達は家畜のように放り出される。日本社会というのは、平和なときには大変いい面がでてくるが、困難に直面すると弱い者を生け贄にする社会構造ができているのではないかと不安になる。このように日本の村々には、厳しく恐ろしい掟が存在する。それは、日本に限ったことではない。中国においても家族や友達などの親近者に対しては、不道徳な要求であろうともその要求の答えなければ、恐ろしい制裁がまっているという慣習が存在する。そしてその慣習が腐敗を助長してしまうのである。団結すると言うことは、そのしわ寄せをどこかで吸収もしくは放出する必要があるのであろう。その吸収、放出の仕方によって、各社会の悪い面がでてきているように感じる。ただ、日本社会と中国社会の大きな違いは、その管理体制にあるのではないか。中国社会は、皇帝を中心とした大きな Hierarchy を構成する。そして末端と中央をつなぐ管理体制は大変緩やかなようである。一方日本においては、武士社会が農村から発達してきたという面が有るせいか大変細やかである。各村々には、その村を支配する富農が存在し、その富農達と地方の豪族が結びつく。豪族達は集団で、武士集団を作り上げ、さらに権力争いで、トップの武士集団がきまるのである。トップが決まったからと言って、すべての村々を直轄するのではなく、武士集団をトップが管理しているにすぎない。260年ほど続いた江戸時代でさえ、この構成は変わっていないのである。戦国時代の地図を見てみると、中国の管理体制との大きな違いがわかる。日本の国土面積の25倍、26倍とも言われる中国を一人の皇帝が統治するのと比べると壮大な違いである。つづく
2009.04.18
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大阪駅からJR阪和線、関空快速に乗ると、日根野という駅で和歌山行きと関西国際空港行きに分かれます。丁度この駅が大阪と和歌山の境であることを象徴しているようです。戦国時代、この辺に日根荘という荘園がありました。少し下って和歌山との県境を越えると根来寺があります。1501年関白までつとめた領主の九条政基が殺人事件を起こして、この九条家の荘園に下ってきます。かれは、四年間ここに滞在。その間「旅引付」という日記を残します。彼が去った後、根来寺がここを支配します。しかし、その根来寺も1585年に豊臣秀吉に滅ぼされます。このはげしい戦乱の世を、村人達は、どうやって生き抜いたのでしょう。藤木久志「戦国の村を行く」には、九条政基の「旅引付」を元に村人達の生き様が描かれております。日根荘には、"入山田四ヶ村"と呼びならわされた「土丸」「大木」「菖蒲」「船淵」という地域がありました。それぞれの村には、契約があり1つの村で争いが起こると、他の村も加勢する習わしがあったようです。この守護と根来寺に挟まれた地域は、戦争になると家財や牛馬が奪われ、家を焼かれ、人が斬り殺されたといいます。さらに当時の村人達は、敵の兵士達に生け捕りにされ、奴隷として売られていたそうです。その数十年後に起こる大阪夏の陣の様子を大阪城に展示されている屏風は克明に伝えております。戦乱の中で、人々は、略奪され、捕らえられ、奴隷として売り払われたのです。当時兵士達は恩賞にあずかるためには、首を持ち帰る必要がありました。そこで、兵士達は一般市民を殺し、その首(偽首)を持ち帰ったともいわれております。現代の我々が考えると恐ろし世の中で、お百姓さん達は、さぞ苦しめられたのであろうと想像してしまいます。しかし、当時のお百姓もなかなか強かったようです。守護の細川方が攻めてくるという噂に、この日、村では人々に「鹿狩りだ」と言いふらして、狩りの支度をして武装した村人を集め、夜明け前に山にこもって、こっそり敵軍を待ち伏せます。「戦国の村をゆく」に書かれた一節です。彼らがこもった山というのは、土丸の東南にある雨山と思われ、その頂上には、早くから土丸城があったそうです。※この模型は、土丸城ではありません。戦闘に集まる村人を絵がいたものです。根来寺の年表には、このような記述もありました。根来衆とは、僧兵だと思うのですが、村人達が彼らを拒否できるくらいの力をもっていた事を示しています。では、彼ら村人達の力とはどこからきたのでしょうか。それは、彼らの団結力だったのではないかと思います。つづく
2009.04.16
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先週末から花を開きだした桜は、あっという間に満開になり、今日は、花びらを空気の中にとけ込ませるかのように散り始めています。風に溶けてしまいそうなその花を、かよわく儚いものと捉えます。少女の恥じらいのようなその色を、清らかで純粋な心と感じます。桜の幹は、醜く細く頼りなさげです。しかし、血管のようにのびたその細い枝からあふれ出すかのように花を咲かせます。貧しく細々とした幹は長い寒さの中を無言で耐えつづけ、冬の寒さをあざ笑うかのように、春を告げるのです。本居宣長は「敷島の大和心を人問わば、朝日に匂ふ山桜花」と詠みました。それは、決して弱々しい心ではなかったように思います。根来寺は、鳥羽上皇に庇護された覚鑁(かくばん 1095年7月21日-1144年1月18日)が、高野山との対立から逃れて移って来たのがはじまりです。彼の死後の室町時代末期、その最盛期には坊舎450を数え一大宗教都市を形成します。寺領72万石は数え、根来衆とよばれる僧兵1万余の一大軍事集団を擁したそうです。また、鉄砲を種子島より根来に伝えたといわれる津田監物は、日本最古の砲術、津田流を始めたともいわれているようです。1585年3月豊臣秀吉は紀州根来に攻め入ります。その戦火を生き延びた大塔は、1480年頃から建築が始まり、1547年頃に竣工したと考えられているそうです。その造りは、分厚い床板と頑強な扉で密封できるようにできており、江戸時代以前の建造といわれる松江城を思い出させます。外観も少し他の寺院とは違いますが、中にはいると数体の仏像がその中心に曼荼羅風に安置され日本ではないかのような錯覚に陥ります。現在は、山間にひっそりと影を潜めている小さな寺院は、戦国の世の逞しく太い線の日本を私たちに思い起こさせてくれるのです。つづく
2009.04.11
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最初に文藝春秋の引用で、日本人は「海外発展民族」ではかかったかという話を載せました。しかし、一般的な日本人論を読むと決して海外発展民族であったというような印象はありません。そこで、さらに岡本太郎さんの文章の一部を引用させていただきました。江戸時代から現在までの歴史を振り返るとき、日清戦争から終戦までの時代だけが浮き上がってしまうように思えます。現在でもその戦争が侵略戦争であったという事実を認めたがらない人が多くいるように思います。確かに、江戸時代と現代の狭間にあった戦争は、異様であり、日本ではなかった。もしくは、日本がそんなことをするはずが無いと思いこみたい気持ちは、私自身わからなくもありません。しかし、江戸時代から以前に目を向けたとき、そこには、日本人にとって戦争、殺し合いと言う悲劇がかなり平然と行われていた事実を示しています。一般的に私たちが習う歴史というのは、公家や武士といった上層階級の歴史です。そして、おもしろおかしく編集されております。しかし、それは日本の数パーセントの歴史であり、その他の庶民の歴史とは無縁なのです。我々の文化は、上層階級の一部の裕福な人達が作り出し、広めたという事実は否定できません。文化的な歴史は、上層階級の歴史と一致していてもおかしくないのですが、昭和に行われた戦争を考えるとき、それは全日本人が参加もしくは強制参加させられた歴史なのです。戦争時代の歴史的違和感は、上層階級の歴史と一般庶民を含めた全日本的な歴史の差なのかもしれません。明治以降の日本人は、いろいろな間違った思いこみをしているのではないかという不安に駆られる事があります。単純な例をご紹介すると「日本が小国」であると思いこまれている人が多いのではないか。日本は、国土面積こそ61位ですが、世界に192カ国存在することを考えると、国土面積だけをとっても小国とは言い難い。そして、経済規模、人口を考慮すると間違いなく大国です。自国が小国といいながら、アメリカや中国と対等につきあえなどという人が後を絶ちません。我々は、歴史で小藩がいかに生き延びてきたかを学んでいるにもかかわらず。江戸時代を支配した徳川家康が戦国末期どのように生き延びたかを多くの日本人が知っているのにです。日本は、間違いなく大国ですが、アメリカや中国、ロシアは、超大国です。日本が世界を相手に起こした戦争は、今考えると負けて当然でした。太平洋戦争末期、日本の占領地をみると極限にまで膨張している姿が見えます。日本人には、なぜ自分たちが「海外発展民族」であるという自覚がないのでしょうか。それは、日本の歴史が、膨張とその膨張のエネルギーをため込む圧縮期を交互に繰り返しているからではないかと思えます。日本人論の難しさは、この繰り返される歴史によって、日本人自身その時代その時代で、違った面を見せるためにわかりづらくなっているのではと思えるのです。つづく
2009.04.04
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中国人が日本を形容するときに、よく「細?」「細節」という言葉をよく使う。繊細、正確、細かいという意味である。中国の作家「余華」さんは、日本にはじめてきた印象を自身のブログで下記のように語っている。20数年前、川端康成の小説を読み始めたとき、彼の叙述の細かさに引きつけられ、その後、他の日本の作家からも同じような繊細さが読み取れました。日本の文学作品の細かい描写には、伝えがたい豊富な色彩と微妙な感情の変化がうかがえます。これが日本文学特有の性質です。20数年日本文学を読んできて、やっと日本に来る機会が巡ってきました。そして私はやっと何でこんな細かい、そして繊細で、このような多彩な日本文学が生まれるのか、分かったような気がします。細かい事に執着するのが、日本民族独特の気質のようです。私の心には、日本は、すばらしい繊細さが満ちあふれた国であり、私の日本での旅は、すばらしい繊細さを旅するかのようにうつりました。鎌倉では、川端康成のお墓に行きました。そこは、大変大きな墓園で、どれくらいの人がそこに眠っているのか見当が付かないくらいでした。私たちは、炎天下、静かな盤山に沿って墓園の端まできました。川端康成の墓地の前で、一つの秘密を発見しました。それは、私の周りの全ての墓石の傍らに、石で作られた名刺入れが置いてあることでした。現世の人が、亡くなった人を訪ねるとき、自分の名刺を入れていくのです。なんて素晴らしい計らいなのでしょう。生と死が一度に融合し、名刺箱の存在が生存者と死者の継続的な交流を実現しているようです。私は晴れわたった空の下、無数の墓石を順次見ていくと、きらめく光の筋に、一瞬、私は、墓園があたかも広場のように見えました。そびえ立つ墓石の一つ一つが生き返って、そして一段一段すでに終わった人生を無言で語っているようでした。私は彼らを見ていると、私と彼らは、同じ空間で暮らしているような錯覚におちいりました。過ごした時間が違うだけでなのです。日本の製品と海外の製品、特に中国の製品を比べたとき、私は日本の製品が売れる理由は「日本人の繊細さ、細やかさに起因している」と考えずにはいられない。日本の製品は、壊れにくく長持ちする。そして販売価格も割と安い大衆向けの価格である。そこには、松下幸之助氏が提唱された「水道の理論」が見え隠れするように感じる。「水道の理論」という考え方は、松下幸之助氏が広められたのは間違いないであろうが、それは、決して松下氏独自の考え方ではなく、日本人が一般的にもっている考え方なのではないだろうか。日本の製品の根底には、日本人のこだわりが見え隠れする。日本人として誇らしい事ではあるのだが、時としてこのこだわりが行きすぎる事がある。2005年4月25日福知山線尼崎駅 - 塚口駅間で福知山線脱線事故が発生、107名の死者を出した。いろいろな原因が考えられるようであるが、その原因の1つにダイヤの乱れがあげられる。電車の遅れを取り戻すために、カーブでスピードを出しすぎたのではないかとの報道がなされた。日本のバス、電車のダイヤは大変正確であると世界的に評判が高い。大変いいことではあるのだが、残念な事に遊びがないのではないだろうか。自分の仕事を振り返っても、日本では、遅刻、ミスが数回起こると駄目な社員のレッテルを貼られかねない。山本七平さんは、日本人のこの細やかさについてこのように書いておられる。聖書学者の塚本虎二先生は、「日本人の親切」という非常に面白い随想を書いておられる。氏が若い頃、下宿をしておられた家の老人は、大変に親切な人で、寒中にあまりに寒かろうと思って、ヒヨコにお湯を飲ませた。そしてヒヨコを全部殺してしまった。そして塚本先生は「君、笑ってはいけない、日本人の親切とはこういうものだ」と記されている。良きにつけ悪しきにつけ、日本人の細やかさは、我々日本人を特徴ずける性質である事は間違いないと思えます。つづく
2009.03.31
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岡本氏が述べられているように日本は、その時代時代で様々な素顔をみせてきたようである。現在いろいろな形で書かれている日本人論は、明治以降に書かれたもので、それは、明治以降の日本人のいろいろな一面を書いた物であって、日本史の全時代に適応させるのは、無理があるのは、みなさん賛同していただけるのではないだろうか。ただ、日本という国、日本人という民族が長い歴史の中で培ってきた基本的な、考え方、慣習などというものもいろいろな変遷は有ったとしても現実に存在するというのも事実だと思う。日本人論のようなかなり抽象的な問題に取り組むと日本人でも中国人でもいろいろな人がいて、そのような大きな括りでその性格を述べるのは不適切だという人もおられるけれど、私は中国で数年暮らし、中国人といろいろな形でつきあってきて、日本人と中国人から確かに違う何かを感じとる事ができる。最近は、中国人が日本を訪れる機会が増え、その感想などをブログなどで見ることができるようになりました。さらに私が最初に中国に駐在した20数年前には、中国人の発言は、中国政府の監視下にあり、あまり率直な意見を聞くことは不可能でした。しかし近年、有る程度の情報統制が取られているのは間違いない事実でありましょうが、その程度はかなり限られており、共産党批判でなければ、基本的に問題ないように感じております。少し前に、中国の学生が修学旅行で日本を訪れた際の感想をご紹介しました。最後の方には、下記のように書かれております。汪中求先生(《細節決定成敗》の作者、精華大学教授)が、中国とアメリカと日本の大学で長年働かれたある中国人教授の話を引用されております。「中国は日本と同じ道を歩いている。我々は、まだ日本に追いついていない。国民の素養は30年の開きがある。」私は、30年の差がどのように算出されたのか分かりません。しかし、その差があることは認めない訳にはいきません。その原因は、我々の心に中に一種の新しい恨みを抱かせます。この種の恨みは、他人に対して或いは、富む者にに対する恨みや妬みとは、違います。自己の努力に対する恨みです。鉄から鉄鋼を作り出せない恨みなのです。認めたくないけど、現実には認めざるを得ない、どうしようもない恨みなのです。日本人に向かったとき、なぜあんなに意地を張るのでしょう。あのような歴史があったからでしょうか。以前彼らに屈辱を受けたからでしょうか。私が日本を訪問した時に、味わった独特の心理過程。これは、弱小であるが故に味わう屈辱、毎日雪辱を夢見ながら、夢からさめると、相手は、自己より強大であることに気づく。そんな恨みの感覚がますます強くなります。他にも皆さんに訳してご紹介しようと思いながら訳せていないブログがあります。私の主観で、一部だけご紹介します。私は、得意になった。ほら見てみろ、現在の我が中国を。現在の上海を。何がないと言うんだ。活気に満ちた大通り、乱立するビル群、美しい公園、一流の地下鉄、広大な景観、何でもあるじゃないか、無い物なんてあり得ない。私の目には、日本より遅れたものは見いだせなかった。さらに多くは、日本以上でさえある。金茂大厦のような建築が日本にあるか?外灘のような万国建築群が日本にはあるか?九寨溝、張家界、黄果樹などの仙境が日本にあるのか?オリンピックを開いた代々木競技場は、我々の「水立方」「鳥巣」と比較できるのか?北京オリンピックで獲得したメダルの数は、我々と比較できるのか?小日本?小日本!小日本!。私は得意になり何度も叫んだ。小市民的心理は、私の心の中で歪められた。しかし、細部を観察し、いろいろと考えてみると、私の心は暗く落ち込んでしまう。観察すればするほど、客観的に考えれば考えるほど、心から認めざるを得ない。我々はまだまだ日本との間に大きな差があることを。物質文明的な距離もさることながら、精神文明的な距離は、我々の心をさらにおもくする。それは、人としての素質の差であり、理念上の差なのである。まず、公衆道徳意識の差について述べたい。日本人は、大変公衆道徳を守る。今回時間は短かったが、日本側が手配してくれた内容は大変豊富であった。沖縄と北海道以外のいくつかの都市を訪れることができた。私の印象は、日本の普通の国民は大変冷静で、優しく、礼儀正しいという事である。外で道を聞くと、男性、女性、老人、子供にかかわらず、みんな親切に教えてくれる。決して白い目で見られることは無かった。他に2つ深く印象に残ったことがある。1つは我々が大阪に行ったときの事で、心斎橋の商店街を参観していたとき、どこを見渡してもトイレが見あたらなかった。そこで思い切って日本人の接客というのを試してみることにした。そばにあった料理屋にはいって「WC」と聞いた。(日本では、多くの人が英語がわかる)一人の若い女性が対応してくれた。彼女は丁寧にお辞儀をし、トイレに連れて行ってくれた。用がすんで外にでると、思いもかけず彼女が待っていてくれたのである。そして出口まで送ってくれ、優しく「さよなら」と声をかけてくれたのである。この旅行のこの小さな一コマが私に大きな感動を与えた。中国で、我々の従業員がこんな事をするであろうか?貴方は、その店でなにも買わないのである。彼女たちは、こんなサービスを提供できるであろうか。私は心から日本人の素質と商売に敬意を払わざるを得ないのである。もう一つは、道を渡ろうとしたときの事である。道を渡りかけて数歩、信号が赤に変わり、引き返そうとしたとき、ふと振り返ると私のそばにゆっくりと車が止まるのが見えた。私はとっさに申し訳なくなり、手振りで車を先に行かせようとした。しかし、思いもかけずドライバーはずっと頭を振りながら手を振っている。私は彼が好意で私を先に行かせようとしているのに気づいた。その後で、彼はゆっくりと発信したのである。素質が違う。中国国内でこんな光景がみられるだろうか。私の知人のすべてではないが、一部の人達は、生活条件がよく、名車と呼ばれる車を持ち、得意げである。彼らは、日本の国民のようであろうか?彼らは車を高速で運転し、シューと貴方のそばを通り抜けていく。貴方は冷や汗をかかなければならない。人によっては、クラクションを鬼のように鳴らし、人をいらいらさせる。「どけ!どけ!なんで道をふさいでいるんだ。」こんな叫び声は、まだ気の利いた方である。貴方のそばを通り抜ける時に「長生きがすぎたか。死にたいのか。」などと叫んで行く人もいる。つづく
2009.03.29
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先週末、那智勝浦にいってきました。紀伊半島の西海岸を走る阪和自動車道を通らず、奈良県の山の中を通る169号線を選びました。かなり前の話ですが、以前阪和道を通ったとき、一車線のところが多く、途中で事故や故障した車があるとそれだけで長い渋滞ができ、予想以上に時間がかかったのを記憶しております。さらに、ナビで検索すると大阪から那智勝浦へ行くには、169号線の方が距離はありません。まだ桜の本格的な季節にもなっていませんので、この道を通る車もすくなく、多少曲がりくねっている山道をのぞけば大変快適なドライブができました。車から見える山々の所々に心細げに山桜が花を開かせてました。帰りは、瀞峡(どろきょう)をみたいと、168号線を北に上りました。瀞峡に着くまでの道は、熊野川沿いにのびており、大変風光明媚な道路です。瀞峡近くのパーキングには、山桜が咲いており、熊野川の川縁まで降りることができました。水は深緑色なのですが、透明感があります。雪解け水なのか、1分と足をつけておれませんでした。しかし、瀞峡を超えて大阪に入るまでの道は、カーブが多い上に、所々対向車とのすれ違いができないくらい幅が狭まっており、かなり疲れます。まっすぐな道路を建設中のようで、途中に建設現場がありましたが、かなり長い道なので、完成はまだまだ先のことになるのではないかと思います。さて、最近ネットの記事でみつけたのですが、日本の三大桜ってご存じでしたか。私も以前に聞いたことがあったような記憶は有るのですが、すっかり忘れておりました。三春滝桜山高神代桜根尾谷の淡墨桜西日本で生まれ育った私にとって、すべて中部以北になるのが少し悔しい気がします。これから日本は、桜の季節にはいります。今年は、桜を満喫したいと張り切っております。
2009.03.28
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中国人と話をしているとたまに、徐福は日本人の先祖か?と聞かれてる事が多々あります。中国の学校では、正式に教えているようで、中には、徐福が日本人の先祖だと思いこんでいる人もいるようです。史記に、「秦の始皇帝の命令で、不老不死の薬を探すために3000人の童男童女と東方に船出し、平原広沢を得て王となり戻らなかった」と書かれているそうです。日本では学校で教えられてなので、あまり深く知ろうともしなかったのですが、今回の連休で和歌山にいって、その徐福の墓があるのを知り興味津々訪ねてみました。帰宅して調べてみると、日本全国に上陸の地というのがあるようです。
2009.03.22
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人生で私たちが突き当たるいろいろな問題は、非常に複雑な物だから、それをただ、そのままながめて解決しようとしても難しい。それよりも、この複雑なものの中で何が一番簡単で、はっきりと、だれにもほんとうだとうなずけるようなものかをみわけ、この簡単なもの、だれにでもわかるようなものから、どのような関係で複雑なものができあがっているのかを知ることが大切だ。だから私たちには、複雑でちょっと見極めが付かない問題の中から、一番はっきりしたものを見つけ出し、これからだんだんに複雑なものを組み立て、もとのものに戻っていくならば、初めにぼんやりとして、よくわからなかったものもはっきりと知ることができる。フランスの哲学者、デカルト文藝春秋「教科書が教えない昭和史ーあの戦争は侵略だったのか? 」半藤氏:(前略)日本民族は農耕民族だというのが一種の定説とされていますね。ところが、私は最近、疑問をもっていまして、本当は日本民族は海外発展民族ではなかったか、と思うようになった。つまり遣隋使、遣唐使の昔から室町、戦国時代の和冦や山田長政に至るまで、日本人は海外に進出し発展してきたのに、徳川政権二百六十年の鎖国政策によって国民を押さえつけて農耕民族にしてしまったという面があったのではないか。それが明治6(1873)年には早くも征韓論争が起こり、翌七年には朝鮮に軍艦を派遣し武力衝突に発展した江華島事件を起こしている。つまり明治天皇の「五箇条の御誓文」にある「大いに皇基を振起すべし」です。秦氏:私も同感ですね。こうした日本民族の対外膨張路線というのは、幕末の吉田松陰ですら唱えているのです。日本はアジア大陸はもちろんのことオーストラリアまで征服すきだという文章を残している。征韓論も明治維新の前からあるし、幕末の思想的指導者であった橋本左内や佐藤信淵なども対外発展論者でした。ただ、これは後の侵略主義とは少し別物で、もっと素朴な膨張欲だったと思います。あえていえば、高度経済成長を果たした戦後日本が、事業規模をどんどん拡大し海外に進出していったのに似ているかもしれません。半藤氏:いずれにせよ、明治十五(1882)年には日本はすでに清国との軍備競争を始めて、対清国戦争の準備にはいっています。山県有朋が第一回の帝国議会で、有名な「主権線(国境)と利益線(朝鮮半島)」と共に防衛する必要があると演説したのは明治二十三年の事です。岡本太郎著氏「日本の伝統」東大寺の大仏を考えてご覧なさい。あのまだ生産力の発達していない時代に、五丈何尺という、今日でさえ度肝を抜かれるスケールの金色の仏像を鋳造したその度胸、その神経。今では黄金の箔は落ち、千年の埃をかぶってどす黒くなっていますが、あれが真新しくて、あら金の色に燦然と輝いていた時代ーその周囲には、佐保山から掘り出した五色の土を塗ったという、極彩色の七堂伽藍がそびえ立ち、風鐸が風になり、前庭では奇怪な仮面をつけた、原色、金ピカの舞楽を奏して、唐風俗の文武百官がどよめいていた。このこってりとした壮大なスペクタクルを思うと、息がつまるようです。だいたい、"青丹よし寧楽の都"と言いますが、あの時代の青丹の色というのは、やや緑がかった濁色で、奇妙に浮いた、いやったらしい色調です。それに暗い朱と、桃色、さらに金がはいったその毒々しい取り合わせ、不協和なえげつなさなんというものは、かく言う私でさえ、いささかコレハと思います。この時代の人は、おそらく今日つきあったらやりきれないくらい無邪気だったに違いない。とてつもなく大きなもの、極彩色で光ったものを、すなお、単純に喜んだでしょう。てらいとか、ひねりとかいうような近世風な繊弱な神経は、影も見られません。さらにわが民族のもっとも古い文化である、縄文土器の美観はどうでしょうか。これについては、つぎの章で、くわしくお話ししますが、その強烈さと空間性の緊張は空前絶後であり、以後の日本文化のあらゆる時代を通じて、あの圧倒的な盛り上がりは見ることができません。また、安土・桃山から元禄の光琳にいたる伝統も、われわれにとって豪華な夢です。このようにはげしく生き、爛漫と開いた文化の一方に、それとまったく反対な相貌をもった系列もあります。中世以降のわび・さびの文化です。鎌倉から室町にかけて、時代の精神的なバックボーンになった禅宗は、無を媒介として大乗的に現実を肯定する、当時きわめて斬新で積極的な哲学だった。そういう思想にのっとって芸術革命が行われました。繊細な表現はとっていますが、これも時代としての積極性があったのです。今日では、枯淡・厳粛の見本みたいに考えられている能にしても、下賤な民衆娯楽であった田楽・猿楽を真正面から芸術として取り上げ、「乞食の所行也」とののしられながら、花伝書などにみられるような、高度な芸術的自覚、理論にまで高めた、能楽師らの積極性と現実的たくましさ。また、お茶にしても、貴族のハイカラなすさび、遊技にすぎなかった闘茶を飛躍的に発展させ、「只湯を沸かし、茶をたてて呑むばかり」(利休)のお茶を中心に生活全体を芸術として盛り上げてゆくという、まったく思いもかけないところに新しい芸術を発見し、血なまぐさい戦乱の渦まく荒々しい時代の現実にぶつけ、確立した茶人のほろくはげしい意欲とその知性。(中略)不幸な事に中世文化の積極性は徳川三百年の閉ざされた封建世界においてしだいにゆがめられ、押さえつけられてしまった。芸術家の強靱な、逆説的な自己主張であった方法もようやく形式となり、観念化されてくるのです。そして素町人的、エゴイスティクな、現実逃避の雰囲気にすりかえられてゆきます。すべての人間の表側よりも裏側だけに神経を集中し、強烈な生命力の奔出よりも繊細なひねりを「通」とする。芸術は洒落や、味や、型の世界に堕落してゆきます。つづく
2009.03.18
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本屋で何気なく本を物色していると文藝春秋に、「あの戦争は侵略だったのか?」という文章を発見。さらに興味深い事に、本ブログでご紹介していた林思雲さんも参加されております。林思雲さんは、北村稔氏と共著で「日中戦争ー戦争を望んだ中国 望まなかった日本」(PHP研究所)という本を出版されたそうです。日中戦争国学から征韓論、そして大東亜共栄圏という思想の流れに関連性があるのではないかと興味をもっている私にとって、吉田松陰が対外膨張路線を唱えていたという事実と、山県有朋が明治23年第一回帝国議会で「主権線(国境)と利益線(朝鮮半島)」をともに防衛する必要があると演説した事実は、大変興味深い話です。ここでは、国際法を元に日中戦争を肯定的にとらえられているようですが、中国や朝鮮が日本を非難する理由は、決してそのような理論的な事ではなく、同じアジア人としての感情論であろうと思います。戦争の是非を論じるのではなく、相手の痛みを理解してあげる方が大切なのではないでしょうか。そして、決して日本人がそれによって自虐的になる必要もないのだと思います。
2009.03.16
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1,地図はそれが代表する現地ではない。言葉は物ではない。2,言葉の意味は、言葉の中に有るのではない。意味は我々の内にある。3,文脈が意味を決定する。4,「である」という語の正体を知れ。単なる助詞として使われるのではない場合、それは評価錯誤を定着させる事がある。5,まだかけられていない橋を渡ろうとするな。指令的叙述と情報的叙述を区別せよ。6,「真」という語にある少なくとも四つの意義を見分けること。7,「火に火を以て戦おう」としたくなった時は、消防夫はたいてい水をもって戦うものだという事をもいだせ。8,2値的考え方は、考えの初まりにはなるが舵取りの用具にはならない。9,定義に用心せよ。それは言葉についての言葉である。できるだけ、定義で考えるよりも、実例で考えよ。10,見出し番号と日付を使え、いかなる語も正確には2度と同じ意味を持たないという事を思い出すために。我々は、物心ついたときから言葉を少しずつ覚える。そして、自在に言葉を使えるようになると、まるで物質や事象と言葉が関連性を持っているような錯覚に陥っている。しかし、本来言葉と物質や事象との間には、まったくなんの関連性もないのである。我々が関連性があると思い込んでいるのは、我々自身が言葉と物質や事象とを意識的に関連づけて使うからに他ならない。言葉と物質や事象に食い違いがあるとき、我々は「嘘をいう」といって、非難する。「嘘をいう」と言葉が正常に機能しないからである。「嘘も方便」という言葉がある。物質や事象を正しく表現しなくても許される例外である。我々の言葉は、それを使う人の意志や習慣、能力によって、物事や事象を正確に伝えたり、美しく伝えたり、歪めて伝えたりするのである。また、我々の言葉には多くの抽象的な言葉が存在する。そして、その抽象的な言葉には、いろいろな抽象度を持つ言葉がある。しかし、我々は、それらの抽象度の異なる言葉をまるで同じ言葉であるかのように使い、区別できないでいる。例えば、日本人や中国人という言葉。この言葉には、それぞれの国の人々が大勢含まれている。日本人であれば、鈴木さんや木村さん、佐藤さんに伊藤さん。正確に言おうとするなら、1億数千万の人の名前を挙げなくてはいけない。多くの鈴木さんがいたら、東京の鈴木さん、福岡の鈴木さんと呼び分けてもすべての鈴木さんを区別する事は不可能であろう。日本人という言葉がなければ、「日本人は勤勉である。」という簡単な一文も表現できない。では、日本人とは?と定義しようとすると、なかなか難しい問題に突き当たる。「日本に住んでいる人」では不都合であろう。「日本のパスポートをもっている人」「日本のパスポートを申請できる人」「日本語をしゃべる人」「日本で生まれた人」どれをとっても、例外が生じて完璧な定義をするのは、難しい。我々は、言葉の定義が曖昧なまま、便利に使っている事に気づかされる。「嘘を言ってはいけません」という教えは、言葉を有効なもにするために必要なのであり、「嘘も方便」は、言葉によってうまく物事を解決しようとする方法であり、対立する概念ではない。仕事柄、日本語を話す中国人と接する機会が多くある。日本語をうまくしゃべる中国人は、態度や考え方が大変日本的である。日本語を習い始めた中国人は、しゃべり方や考え方が中国的で有るために、意味が通じない事が多い。語学を勉強するとき、日本語の「ありがとう」は、中国語の「謝謝」であるというように単純に対応させて覚える。その学習方法は、間違いとは言えないであろうが、正しいとも言いにくい。日本語の「ありがとう」に対応する中国が「謝謝」以外にあるのかと問われれば、それ以外には考えられない。しかし、日本人が「ありがとう」を連発するように、中国人は「謝謝」という言葉を使わない。日本人と中国人の人間関係に対する根本的な考え方が違うからである。そのことだけを一般的に考えると、日本人は礼儀正しいと思いがちであるが、決して中国人の礼儀がなってないという事ではない。中国人は人間関係を日本人よりも親密に考えているようである。ちょっと知り合いになると中国人は、すぐに「老朋友」と言い出す。社交辞令でもあるので、真に受けると落胆する事もあるが、それにしても中国人は、日本人よりも人間関係を大切にするし、日本人同士のような表面的なつきあいはあまりしないようである。日本人同士の親密さは、表面的な事が多く、内的にはそんなに信じてない場合が多い。対して中国人は、関係の無い人には、恐ろしいほど冷たいが、一度なにがしかの関係ができると一気に親しくなる。「ありがとう」「すみません」というと彼らは違和感(他人行儀)を感じるようである。そういう関係ができるとお互いに許し合う事が求められる。裏切るような行為をすると犯罪者のような扱いになる。日本人の外的なつながりに対して、中国人は内的なつながりをもっており暗黙の掟があるのである。例が悪いが、日本のヤクザの義理人情という感覚によく似ている。外国語を学ぶ醍醐味や難しさは、言葉がその国の文化や習慣によって物質や事象とつながっている事による。さらに、注意したいのが、先ほど例として使った「日本人は、勤勉である。」という一文。この文は、日本人という対象が曖昧であるというだけにとどまらない。多くの人は、この文の不合理さにすぐに気づかれるであろう。日本人にも勤勉でない人もいれば、勤勉な人もいる。日本人に勤勉な人が多くいるという事実があったとしても、日本人全体を勤勉であると断定していいのであろうか。しかし、日本人の特質を説明するのに、他によい表現の仕方がないのも事実なのではなかろうか。
2009.03.08
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仕事の関係で、普段はあまり手にしない本を読むことになった。佐々木俊尚著「グーグル」。グーグルの検索技術を基本とした社会の変化が書かれている。パレートの法則は、世の中の80%は、20%によって支配されているという理論。そして、その理論は普遍的な法則として、販売促進、品質管理などに応用され、その正しさを実証済みである。グーグルにより、その普遍的な法則が覆されようとしている。これまでは、テレビなどに広告をだせる大企業の製品だけが世の中の中心であった。そしてグローバル化と共に、大企業は国内だけではなく、世界の中心にも成り上がり、その競争の為に合弁が行われ、さらなる大型化を進めてきた。今回の不景気は、そのような行きすぎた社会構造に対する反動ではないのだろうかという思いをもたらす。その流れをかえようとしているのがグーグルであるという。コンピュータやインターネットによる社会のネットワーク化は、今まで無視されていた人々や企業が大企業と対等な立場で宣伝や販売をする事を可能にしだした。私が書く文章をこれまでの社会では、誰も目にする事がなかったであろうが、今では、数十人の人が目にしてくれている。ブログを書いている人達の中には、有名になる人もでてくるであろう。全く個人に力で、ほとんど経費をかけずにである。こういった、ロングテールに属していた人達や企業が製品が世の中に出る機会を与えられているのは、画期的な事である。しかしながら、これまで大量生産でコストを下げ、販売を促進してきた大企業にとって流れは逆行していると言っていいであろう。人々の多様なニーズに対応するには、一極化した生産体制や販売体制では対応しきれないからである。もしかすると現在の不景気は、さらなる富の分散をもたらし、公平な世の中を実現してくれるのかもしれない。
2009.03.07
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柔道する目的は、オリンピックで金メダルと取る事じゃない!金メダルを取っても、約1年。銀なら三ヶ月。銅だと3日くらいしか、覚えてもらえない。日本には、道というすばらしい教育制度がある。段級制がそれである。柔道だと初段から10段までに分かれており、10段が取れるのは、お迎えが来る前。人によっては、お迎えが来た後に取られる方もおられるとか。生涯かけてその道を究める。日本のすばらしい教育制度です。本日ある企業主催の講演会にいってきました。講師は、山口香さん。山口さんの教育感は、子供に考えさせる事を教えるというもの。どんなに、山口さんが指導しても、本人に考える力がないと一流にはなれない。それは、勝つという定説がないから、トップに立つには、どこかで賭をしないといけないから。どんなに山口さんの勝てる方法を教えたところで、本人にやる気がなく、考える力が無く、土壇場で自分の力を信じて、おそれずに賭にでなければ、勝てない。そして、頂点に立つことが最終目標ではなく、オリンピック出場を経験すること自体が大きな自分の経験になる。よく、経験の大切さを語る人がいますが、山口さんは、具体的に「上がる」という事例を用いて説明してくれました。運動選手にとって、「上がる」という人間の性質はかなり致命的な結果をもたらす。だから自分で「上がる」という状況を考えてみた。山口さんが「上がった」という経験をしたのは、一生に一回。最初の国際大会で、アメリカに行ったとこの事だそうです。全く英語が話せないアメリカで、自分の名前を呼ばれても、自分が呼ばれているのかよくわからない。そんな環境で、金髪の対戦相手に向かったとき、その金髪の外人に対し、自分の無知から生まれるとまどいであった。しかし、金髪になれれば、「上がる」という状態にはならない。つまり、「上がる」という状態は、経験の無い事や物に接したときに起こる状態だと説明されます。「上がって」しまったら自分の実力を発揮できない。そういう状態にならないためには、いろいろな経験が必要である。そのためにも、どこにでも、なんにでもでかけて自分の経験を増やしておく必要がある。一流の選手は、その運動能力だけでなく、その競技以外の知識や経験も一流でないとそうはなれない。結局、トップに立つと言うことは、人間性の問題だと言われていました。私は、山口さんの話の内容にも関心しましたが、それよりも20代で、柔道のトップに立ち、それからまたこうして講師としてもその実力を発揮されている。その姿にも感動しました。山口さんは決して、柔道やめて講師に転身したのではなく、柔道の経験を自分なりに分析し、聴講者を感心させたり、笑わせたり、涙ぐませたりする話術を身につけられたのです。まさに山口さんの道なのでしょう。若い人を教育すると言いますが、言葉で言ってもなかなか聞いてくれない。それよりも、我々大人が正しい事をしていれば、それを見ている子供達は、いずれそうするようになるのだと私は思います。何を如何に言葉で伝えるのかではなく、我々がどう活きるかが一番の教育なのではないでしょうか。
2009.03.05
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■6.「企業は社員の共同体」■合併により企業規模を拡大し、また行き過ぎた多角経営を改めるなど、日本企業はバブル崩壊後に着実な変革を進めてきたわけだが、こと人に関わる部分については、頑固に終身雇用制を維持してきた。アベグレン氏は言う。・・・日本の経営システムを特徴づけているのは、人間にかかわる部分であり、日本企業の文化はこの部分に基づいている・・・ 日本企業は何よりも社会組織である。企業を構成する人間が経営システムの中心に位置している。会社ではたらく社員が利害関係者の中心である。会社という共同体を構成しているのは、社員なのだ。[1,p27]もっとも、企業を従業員の共同体と考えるのは、日本だけではない。経営学者のピーター・ドラッカーは、こう指摘する。アメリカとイギリスを除けば、先進国の中で会社が株主のためにあると考えている国はない。これはまったく異質の考え方である。ほとんどの国は、会社は社会の調和のために、雇用のためにある。日本では社会の現実をみれば、雇用が最優先されている。ドイツでもそうだ。[1,p217] 当のアメリカにおいても、ビジネス・ウィーク誌の調査によれば、大企業500社のうち、177社が同族経営となっている。そしてこれら同族企業は、他の企業に比べて、収益性も成長性もはるかに高い。同誌はその理由をこう分析している。団結心が強い一族のリーダーが指揮をとっているので、意思決定は容易だし早く、ふつうの企業なら逃すような機会をうまく活かすことができる。家族主義の企業文化になっていることが多いので、従業員の回転が少なく、経営を引き継ぐ人材を育成できる。一族のCEO(最高経営責任者)は外部から招聘されたCEOとは違って、一族が将来にわたって会社に関与していくことを知っているので、事業への投資を積極的に行う可能性が高い。[1,p224]■7.終身雇用制は強い武器■日本企業が先端技術商品や高付加価値製品で勝負する上でも、終身雇用制は強い武器となる。高度な製品開発を行うためには、様々な分野の専門技術者が集まって、緊密なチームワークを行う必要がある。こうした専門技術者を育成するためにも、終身雇用制においては、社員が長年、自社のために働いてくれる事を前提に、教育・育成にじっくりと金と時間をかけることができる。またお互いに長年、一緒に仕事をやっているので、チームワークも容易である。製造現場においても、作業員は高度な設備を使いこなすために、常に技能を磨き、作業ミスやムダをなくすための改善活動を展開する。一人当たりの平均改善提案件数が年間数十件という企業は珍しくない。小売業においても、商品知識を蓄えたり、仕入れ方法や展示方法を工夫するなど、熟練と創意工夫が求められる。こうした店員を育てるためにも、終身雇用制は有効である。平成18(2006)年にアパレル大手のワールドが販売子会社のパートやアルバイト約5千人を正社員化するなど、ここ数年、多くの産業分野で正社員化の動きが広がっていたが、これも派遣・パート・アルバイトなどで低賃金化を図るよりも、正社員化して意欲を高め、生産性や業務品質を高めた方が良いという判断からである。終身雇用制は、我が国のような高度な産業社会によくマッチした制度である。100社中の88社もが「終身雇用制を維持する」と回答しているのは、この点を多くの企業が認識しているからであろう。■8.終身雇用制は厳しい道■一方、ここ数ヶ月の急激な大不況で、派遣切りが大きな社会問題になっている。マスコミのセンセーショナルな取り上げ方には問題があるが、終身雇用制になじんだ日本人の感覚からして、ドライな派遣切りには抵抗を感じるのも事実であろう。高付加価値商品でグローバルな競争に打ち勝っていこうとする企業なら、派遣社員利用による人件費削減などという安易な逃げ道に走らず、正社員の終身雇用により、人材育成と技術開発に取り組む事が正攻法だろう。単純な作業は自動化するか、低賃金国に移せばよい。一方、従業員の方も、終身雇用制においては、何年も外国に単身赴任したり、気に入った仕事につけなかったり、という厳しさがあることを自覚しければならない。派遣社員のようにいつでも好きなときに辞めて「自分探しの旅」に出る、などという気ままさは許されない。企業という共同体の中で生きるには、全体のために自分を犠牲にしなければならない場合もあるのである。終身雇用制とは、企業にとっても、社員にとっても、ある意味では逃げ道のない厳しい仕組みである。そして退路を断って、人材育成と技術開発という正攻法で変革の道を歩み、立派な業績を残してきたのが、多くの日本企業であった。■9.「日本人はいつも将来を悲観的に、現状を否定的にみており」■こうした分析をもとに、氏は言う。(日本の)過去50年の実績と、今後の100年の見通しは、海外で称賛を受け、国内で誇りにするに値するものである。[1,p45]それなのに、この点を自覚していないのが、最も問題だと氏は指摘する。21世紀に日本が直面している問題のもっとも深刻な点は、この自信のなさ、とくに若者の無気力だといえる。日本人はいつも将来を悲観的に、現状を否定的にみており、事実を客観的に分析すれば根拠がないことがはっきりしていても、こうした見方が根強いのがたしかな現実である。[1,p16]悲観的・否定的なニュースばかり流す一部の偏向マスコミに流されることなく、我々は「過去50年の実績」に誇りと自信を持ち、「今後の100年」に向けて、我々の強みをさらに磨いていかなければならない。 (文責:伊勢雅臣)完
2009.02.28
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進化する日本的経営-日本企業は終身雇用制を武器に、バブル崩壊後も力強い進化を続けてきた。■1.「失われた10年」ではなく「再設計の10年」■1958(昭和33)年に『日本の経営』を出版し、日本的経営の強さの秘密を解明したジェームス・アベグレン氏が、半世紀を経て、その続編とも言うべき『新・日本の経営』を世に問うた。そこではこの50年の日本企業と日本経済のダイナミックな躍進ぶりが、豊富なデータや実例をもとに描かれている。それらのデータは、日本人自身が描いている、「バブルに踊らされ、『失われた10年』に低迷した日本経済」という自画像は、まったくの誤りだということを示している。アベグレン氏は、こう指摘する。「失われた10年」という言葉が不用意に使われることが少なくないが、1995年から2004年までの10年間をそのように表現することはできない。この言葉はまったく馬鹿げている。この10年は失われたどころか、じつに活発に効果的に使われてきた。・・・この10年は日本企業が戦略と構造を再編する決定的な動きをとってきた時期であった。きわめて重要な再設計の10年であり、停滞していたどころか、緊急に必要だった新しい制度をつぎつぎに確立した10年であった。[1,p25]アベグレン氏がどのような事実から、「失われた10年」という言い方が「まったく馬鹿げている」と言うのか、見てみよう。■2.鉄鋼業界復活の奇跡■ 「再設計の10年」に見事な進化を遂げた分野の一つが、鉄鋼業界である。鉄鋼業界は長年にわたって、総合メーカーが、新日鉄、日本鋼管、川崎製鉄、住友金属、神戸製鋼所と5社もあり、過当競争の状態になっていた。しかも先進国においては、鉄鋼産業は衰退していくものと思われていた。イギリスの鉄鋼産業は崩壊したし、アメリカの主要鉄鋼メーカーが次々と倒産していた。1980年代半ばにバブル経済が始まると、各社は新規分野に活路を見出すべく、猛烈な事業多角化に乗り出した。エレクトロニクス、情報通信、バイオテクノロジー、都市開発等々。しかし、バブル崩壊とともに、これらの新規事業は大部分が苦境に陥り、平成5(1993)年には、5社が揃って赤字となった。それから10年。鉄鋼業界は見事な変身ぶりを見せた。平成16(2004)年の国内生産高は1億1千万トンと、利益ピーク時の平成2(1990)年度の1億2千万トンに近い水準に復帰した。しかも、これを9万2千人と、ピーク時の13万8千人の三分の二の人員で達成している。労働生産性が3割ほども向上したわけだ。■3.奇跡の秘密■日本の鉄鋼業界は「先進国では鉄鋼業のような成熟産業は衰退していく」という従来の定説を見事に覆した。どうして、こんな奇跡が起こりえたのか。まず日本鋼管と川崎製鉄は、鉄鋼事業を統合してJFEスチールを発足させ、また新日鉄、住友金属、神戸製鋼所は提携を深めていった。企業統合により、生産・経営・研究開発の効率を飛躍的に高めたのである。さらに新規事業を大幅に整理し、本業に経営資源を集中していった。そして研究開発に巨額な投資をした結果、国内のエレクトロニクス産業や自動車産業向けの高付加価値の鋼材に重点を移した。国内の先進的産業への高付加価値商品の供給が中心となり、輸出比率は低下を続け3割となっている。輸出の最大の向け先は韓国で、ここには生産コストが世界最低と言われる鉄鋼メーカー・ポスコがあるが、高付加価値製品においては日本企業が圧倒的な競争力を維持しているのである。 ■4.終身雇用は維持■鉄鋼業界の復活の陰には、もう一つの奇跡がある。大量解雇を行わずに、復活を遂げたことだ。行き過ぎた多角経営を整理したり、本業の鉄鋼生産での効率化のためには当然、人員を縮小する必要があったが、それを新規採用を絞り、定年による自然減や関連会社への出向など、終身雇用を維持したまま実現してきた。それだけ業績的には苦しい期間が長引くが、それに耐えてやってきた。福利厚生も高い水準で維持されてきた。新日鉄では1万4千戸の社宅があり、5千人分の独身寮がある。持ち家融資制度、子女の教育支援融資制度がある。さらに勤続年数が15年を超えると、15万円の旅行引換券と10日間の特別休暇が与えられる。バブル後の苦しい中でも、こうした高水準の福利厚生を維持したまま、終身雇用制が守られてきた事は、特筆に値する。「終身雇用制」という用語は、アベグレン氏が日本企業の雇用慣行を分析して、「終身の関係(lifetime commitment)」と名付けたところから、広まったようだ。その後、「終身雇用制は終わった」と繰り返し主張されてきたが、事実はそうではない。平成4(1992)年と平成12(2000)年を比較すると、日本企業の平均勤続年数は10.9年から11.6年と伸びている。また労働人口の中で勤続年数10年以上の比率も、42.9%から43.2%と上昇している。バブル崩壊も含んだ期間だが、日本企業全体で終身雇用制は維持されてきたのである。朝日新聞が平成15(2003)年7月に広範囲な産業の大手百社を対象にした調査でも、88社が終身雇用制を維持する、と回答している。最近は、派遣という新しい雇用形態が導入され、現在の経済危機で派遣斬りが社会的に問題とされているが、これについては後で触れる。 ■5.「事業は整理しても、人員は整理しない」■日本企業はバブル崩壊後の苦しい時期にも関わらず、終身雇用制を維持してきたわけだが、逆に、終身雇用制があればこそ、バブル崩壊後の事業再構築に果敢に取り組むことができた、と言えるのではないか。たとえば、赤字になった新規事業を店仕舞いしようとすれば、アメリカ企業なら、その部門の従業員を解雇してしまえる。当然、従業員からの強い抵抗があるだろう。「まだ打つ手がある」などと理由をつけて事業整理に反対し、それをトップが強引に押し切っても、翌日からみな新しい仕事探しに奔走して、店仕舞いの処理などは手を抜くだろう。はた迷惑を受けるのは顧客の方で、当然その企業全体に悪い印象を持つ。また他の部門の社員も、次は自分たちの番かと、戦々恐々としていなければならない。こうした形で赤字部門を斬り捨てれば、財務的には短期間でV字回復を実現できるが、社内の志気や顧客の評判という精神的な面では、長期的な悪影響を残す。一方、日本企業の終身雇用制では、赤字事業を閉じるにしても、人の方は最後まで面倒を見る。社内の他部門に異動させるか、あるいはその事業を他社に売却する場合は、人もそのまま転籍させることで雇用は確保する。これなら、従業員の抵抗も少なく、店仕舞いも最後までちゃんとやる。そして顧客に迷惑がかからないよう、細心の注意を払うだろう。また撤退する事業から余剰人員を受け入れた部門は、人件費増をカバーすべく、さらなる生産性向上や売上拡大を目指す。「事業は整理しても、人員は整理しない」終身雇用制のやり方では、業績の短期的なV字回復は望めないが、顧客との関係や社員の志気を大事にすることで、中期的にはより強い企業体質を作るアプローチである。外部から見れば、派手なV字回復などないだけに、「失われた10年」に見えるだろうが、多くの日本企業はその10年をかけて着実に強い体質を作ってきた。鉄鋼業界の奇跡は、その見事な一例である。づつく
2009.02.28
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経済危機が来たのに、なぜ日本は安定しているのか?日本の奇跡は、経済だけではない。社会保障もそうである。前世紀70年代日本経済は急速な発展に突入し、80年代バブルの崩壊が始まる前、現在の社会保障制度は完成した。それは経済衰退に対応する力を持っているのである。現在日本の奇跡を語る時ではないようである。この2,3日、日本経済は世界メディアの関心の的になっている。世界で第2の経済体は2桁の下げ幅を記録した。昨年第4期のGDPから12.7%も下げたのである。多くの国の人は、少なからず驚いているであろう。日本は「第二の敗戦」を迎えたという人もいる。そんな話を聞いたら、多くの中国人は日本の民衆が今かなりの苦境に立たされていると想像するであろう。家計は赤字で、衣服は買えず、食事も満足にできないのではないかと。多くの人が貧困の為に騒いでいるのではないかと。現在日本で働いている友達の林さんに電話し、いくつかの質問をしてみた。林さんは、日本の大学で教鞭をとっておられ、日本人と結婚された。日本での生活は10数年になる。私の質問を聞いて、笑ってこたえてくれた。経済危機が日本人に大きな影響を与えているのは、間違いありません。一番問題なのは、失業の心配です。多くの人は昨年末のボーナスを手にできず、解雇の危険にさらされている人達もいます。しかし、失業したからといってすぐに谷底に落ちるわけではありません。一定の失業保険を受ける事ができるからです。日本に行ったことのある人達はみんな同じ感想をもつ。前世紀90年代10年以上に及んだ経済の低迷期においてさえ日本の生活は相当安定していた。表面上はなんの変化も見られなかったのである。日本社会の安定はこのような失業保険を含む社会保障制度に支えられている。林さんの話では、日本は1947年に「失業保険法」が施行され、その後も修正が継続されている。現在の失業保険は強制的なもので、労働者、雇い主、国家の3者の負担により失業後半年間は給付が受け取れる。もともとの給料の20ー30%で、もし仕事が見つからなければ、半年間は、社会保障が受けられる。我々が言うところの「低保」である。日本では、住所さえ一定していれば、「低保」が申請できる。金額は多くないが、食事の心配はいらないのである。多少は住所不定で「低保」を受けられない人達もいる。政府は安価な住宅を提供したり、家賃を貸したりしている。仕事が見つかったら、返済するのである。日本の社会保障体系はいかなる公民の生活需要も確保している。通院と子供教育は心配しなくてよい。日本の医療は全国民保険であり、学校は中学までは無料である。街角の浮浪者であろうが、億万長者であろうが、すべての国民が同じ医療サービス、一定の年金、失業保険を享受できる。こんな社会で動乱が起こることは考えられない。株式は暴落し、失業が増加しても、給料はかわらず、最悪でも少し減るだけである。ここ数年ほとんどの西洋国家で大規模な経済危機が発生、日本もそれを免れる事はなかった。時には、経済危機は他の国よりも長引いたかもしれない。しかし日本は立ち上がれない事はなかった。これも我々が探求しなければならない日本の奇跡である。わずか30年、日本経済は猛烈に発展し、世界第2の経済体になった。日本国民の裕福さは世界の知るところとなった。多くの専門学者が日本の成功の謎を研究するとき、日本経済、企業管理制度、意識創造、困難に立ち向かう団結力などに目を向ける。それらも我々が改革開放政策以来、日本から学んだ点でる。経済危機に臨んだ今日、日本を観察すると、我々は、これまでの日本はその一面にすぎず、もう一面には完成された社会保障制度があった事を発見するのである。考えても見てください。もし社会保障が完備されてなかったら、日本の分配体制はこうも公平にいくでしょうか?日本人があのように団結し、奮闘するでしょうか?多数の日本人が、自分は「平等な社会」「無階層社会」にいると考えているのでしょうか?日本の社会は平穏に前世紀80年代の数回にわたる経済危機を乗り越えて来れたでしょうか?日本の成功は奇跡であったかもしれません。しかし、この奇跡は経済だけがもたらしたものではありません。社会保障も関係があります。その成功は、前世紀70年代に日本経済が高度成長期以降、80年代バブル崩壊以前に基礎的な社会保障制度を完成させた事にも関係があります。経済の急速な発展期に、ずっと蓄積されていたのです。のちの重大で長期にわたるな経済衰退に立ち向かう力として。我々が見過ごしていた側面は大変重要です。もっとも重要なのかもしれません。もっとも我々が鏡として見習わなくてはいけない事でしょう。
2009.02.26
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日本財務長官辞職? G7会上泥酔の疑い 日本の財務相が酔っぱらわなければ、ならなかった5つの理由 訳文:私は、日本の中川昭一財務相がG7で、どんな風邪薬を飲んだのかは知らないけれど、もし私が日本政府の一員だったら、私も風邪薬でも飲んで自分を麻痺させたくなるであろう。民衆が怒っているのは、中川昭一氏の不明瞭な発言ではなく、質問に対し、遅々として答えられなかった事であろう。人々はその状態を推測するしかない。これが日本の麻生政権がアジアで最大の経済体になれない原因であろう。回転ドア政治(政権が頻繁に入れ替わる)の産物であろう。この2年で5度も入れ替えがあった。 もし私がこのように急速に滑り落ちる国家を任されたとしたら、昨年第四期GDPが年12.7%の速度で降下したなら、私も酔っぱらいたくなるであろう。しかし、気をつけなくてはいけないのは、アルコールで酔っぱらっても、そう長くはもたないという事だ。ただ、一時の憂さ晴らしをしてくれるだけである。日本の現状は、日本の役人の目をさまさせのではなく、彼らに酔っぱらう原因をつくっているだけである。 其の一:経済の状況は最悪。お分かりの通り、日本の輸出型経済は、これまでにない困難な状況に遭遇している。昨年第4期、日本の輸出は13.9%の下落を見せ、記録を塗り替えた。製造業も多大な影響を被り、世界的にトヨタカローラとソニーのBraviaテレビの需要は霧のように消え去った。各国の予測では、世界経済の早急な復活の望めず2009年は間違いなく不景気がつづき、2010年まで引きずる可能性さえあるという。さらに恐ろしいのは、トヨタ、ソニー、日立などは千人、万人単位のリストラをしている事である。もともと弱まっていたマーケットは急速に悪化しており、さらなる危機をもたらす可能性がある。本期の経済指数が発表されると驚きがひろがるであろう。バーテンダー! 酒もう一本其の二:誰が、彼の後を継ぐのか?中川昭一氏は、左右に首を振り、その寝ぼけたような表情は、ネットのヒット率を逐次更新した。日本の酔っぱらいが世界の笑いものになった。さらに頭が痛いのは、彼の後継者、与謝野馨氏がすぐに引き受けるかどうかである。4月のロンドンで開かれる20カ国会議で質疑に答えられるのか?各界は彼が2ヶ月後なにも成果を出せないと予測する。日本の首相麻生太郎は、現在9.7%の支持率しか持たない。日本の報道の調査発表によると麻生の支持率は下がり続けている。辞職の時を指折り数えている状態だ。ヒラリー・クリントン米国務長官は彼を惑わせる。自分から反対政党の小沢一郎に会った。もし毎月財務大臣が替わるのであれば、誰も日本政府を相手にしなくなるであろう。 バーテンダーのお兄さん! もっと強いのをください。其の三:各党の重要人物はみんな貴方に矛先を向けてます。前首相小泉純一郎は、公の場で麻生太郎を馬鹿にした。その発言は、冷酷でメディアでさえ、戦慄を覚えた。小泉は、2001年から2006年までの執政期間、日本のビジネス界を震撼させた大規模な郵政改革を行っている。最近彼は、1.27億の日本人の前で「人を驚かす、笑止な失策」などと麻生を攻撃した。さらに自民は今年間違いなく落選すると断言した。バーテンダー、ボトルね。 其の四:一人の女性が、貴方のお尻を蹴り上げます。自民党内で専門に出生率向上を担当している女部長小渕優子もそうである。現在彼女は2人目の妊娠で忙しい。小渕は、確実に人口減少に歯止めをかけ、実績を上げている。しかし、国家人口及び社会保障研究院は、2005年に日本の人口は26%縮小すると言っている。現在、執政をとっている男達に比べると、小渕の評価は良いようである。おい、ウェーター、アルコールのないのちょうだい! 其の五:状況はさらに悪く、日本円も継続的に高くなっている。10年来超低金利で資金は海外の市場に流れ込んだ。日本企業と投資家は高配当に迷い込んだ。外国での危険もます中、こえらのお金は、日本へ戻ってきた。米ドルも弱くなって、この問題に拍車をかける。経済に限って言うと、為替レートは、今回の危機の生存につながる。日本財政部と中央銀行は、経済対策に置いて無策である。外国為替市場に介入して日本円を守る事すらしなかった。為替レートは、経済の予兆であり指標である。しかし日本は、指標に背いている。その意味するところは、経済の急速な衰退であろう。寝る前に一杯飲んでおいてください。日本の役人が、この憂鬱な時をやり過ごせるように。
2009.02.22
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トヨタのSUVが、売れてます。トヨタ自動車は20日、1月19日に発表した高級車「レクサス」ブランドで初のスポーツタイプ多目的車(SUV)「RX350」と「RX450h」の1カ月間の受注台数が合計で約2500台になったと発表した。650台の月間販売目標に対し、4倍近くと好調な受注状況だ。景気回復のきっかけになるといいのですが。
2009.02.20
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宇佐見定行がひょっこりと栃尾に遊びに来た。わずかに数人のともを連れただけの微行姿であった。予告もなく来たので、驚きながらも影虎はよろこんで迎えた。「不思議な物が手に入りましたので、献上したいと存じて持参しました。」と定行は言って、家来どもにになわして来た箱を取り寄せて、取り出しにかかった。「鉄砲というものだな」黒い布でていねいに包んだそれを定行が出したのを見ただけで、影虎はさけんだ。海音寺潮五郎著「天と地と」で語られる天文十六年(1547年)頃の話である。鉄砲の伝来は、天文十二年(1543年)8月に種子島に漂着したポルトガル人からとなっているから、わずか4年で複製品が東北地方まで出回ったことになる。種子島についた鉄砲は、種子島島主である種子島恵時・時尭親子が大金で2挺を購入。刀鍛冶の八板金兵衛が複製する。それを堺の橘屋又三郎と、紀州根来寺の僧津田算長が本土へ持ち帰った。日本の刀は、世界でもっとも切れ味がよい武器だそうです。その技術を持ってすれば、鉄砲の複製も難しい事ではなかったのでしょう。ただ初期の鉄砲は、あまり実用的ではなかったようです。1,雨の日には使えない。2,正確に当たるのは二十間(36m)3,一回撃つための時間で、15本以上の弓矢を射る事ができた。4,6回くらい撃つと熱くてもてなくなる。5,その当時一挺5百両磯田道史氏「武士の家計簿」に幕末1両は30万円相当であると書いてある。時代がかなり違うので参考までであるが、一挺1億5千万することになる。最初に鉄砲を有効に使った戦いといわれるのが、天正三年(1575年)長篠の戦い。信長は、3000挺を用意したそうである。鉄砲伝来から30数年後の事である。滋賀県の長浜市に国友の里鉄砲資料館がある。他には余り記述がないが、長浜でも鉄砲が種子島に伝わった次の年から生産が始められたとある。そして、江戸時代に入るとそこの職人達は、地方の大名に抱えられたようである。先日行った堺市博物館で、堺鉄砲という本を買った。その中に堺の鉄砲生産量の推移という表があったので、グラフにしてみた。鉄砲は伝来と共に、すぐに複製され大量生産された。当時、日本が戦国時代であった影響は大きい。すぐに、世界でもトップの生産数量、保有数を誇ったようである。さらに「鉄砲を捨てた日本人」によると当時の日本の人口の影響も無視できない。日本の人口は、2千五百万。フランスは、千六百万、スペイン七百万、イギリス四百五十万、アメリカには、百万人しかいなかったそうである。しかし、そのように爆発的に生産された鉄砲も江戸時代に入り、18世紀に入るととだんだんと生産量が少なくなってきます。元禄八年(1695年)鉄砲鍛冶は67人いたそうですが、最盛期に30軒有った鉄砲鍛冶は、宝暦7年(1757年)には22軒になっているそうです。文化10年(1813年)には、20軒。文政3年(1820年)には、15,6軒。明治4年(1871年)には、17軒。当然、平和になって高価な鉄砲のを購入する必要がなくなったのが最大の原因であるとは思いますが、欧米ではその後も鉄砲の生産が続けられ、現在でも大きなマーケットを形成している事をおもうと、それだけの理由とも思いがたいのです。日本刀は、美しく、朝廷や幕府では、褒美や献上の一等品として贈られました。「菊と刀」、太平洋戦争後ルーズベネディクトが見た物は、技術を芸術の域にまで発展させる日本の心だったのかもしれません。
2009.02.11
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そして最後に、私は 「On demand 社会」というスタイルを提案したい。日本のようなかなり高度なインフラ整備ができていないと無理であろうと思われるスタイルである。マルクスが資本主義の次にくるのは、社会主義と言ったが、彼の時代にこのような事は想像ができるわけもなく、彼が本当に望んだのは、このスタイルでは無かったのかと私は想像してしまう。かなり無理があるように思われるかもしれないが、私はこの形態の商売はすでに始まっていると思うし、経済の形態として認識されていないだけで、かなり日本の社会システムに浸透し始めている。私が良く利用するブックオフも、かなりいいシステムだと思う。ブックオフでどれだけの紙がインクが節約されているだろう。そして読みを終わって不要になった本が、必要な人のところに即座に届くのである。それも新刊を買うより安価な値段で。ネットショップもこの形態の一種と考えていいのではなかろうか?トイレでも手をかざすと水が出るところが増えているが、これも On demand である。ライトも人が通ると電気がつくようになっているところがある。On demand というとマーケティング的な要素が強いように思われるかもしれないが、私はこれこそ究極のゼロロス社会を実現できる手法だと考える。これまで会社の中で如何にロスをなくすか、在庫リスクを減らすかという問題解決を目的として考えられてきたのであろうが、これが社会全般に及ぶとき、そこには、これまでにない新しい社会が見えてくる。On demand という考え方はこれから我々の近未来を形作っていく、大切な考え方ではなかろうか。必要な物だけ、必要な時に即座に生産し、流通させる。最低限の資源で、みんなが不自由なく暮らしていく能力は日本人の得意とするところである。そして、その根本をなすところは、テレビドラマ「瑠璃の島」で巻末に語られた短い会話に集約されているのではないだろうか。なに?珍しい?まだね、これからこれも洗うんだよ。この島にはね、昔水道がなかったから水は宝物だったんだよ。なにもない島だからね。全部が宝ものなの。全部がね。全部。完
2009.02.09
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安田喜憲氏は、学者であるから「森が亡びると文明も亡びる」「森が無くなると多神教の概念がなくなる」というのは正いのであろうが、だからといって多神教が世界を救えるというわけでもないであろう。私たちが、、宮崎駿氏の映画にみるものは、自然と文明の対立ではなく、共存する社会であり、循環型の社会ではなかろうか。現代の私たちが「循環型の社会」といって思いつくのは、リサイクルである。しかし、現在のリサイクルの概念はあまりにも部分的なものでしかない。循環型の社会とは、もっと広範なものでなければ、実現できないのではないか。社会主義という概念に、計画経済という考え方があるが、この考え方の大きな問題点は、つくることだけを考え循環する事が抜け落ちている事だと思う。完全なる社会を作り上げるためには、廃棄物をどう利用していくかという問題もさることながら、金持ちから如何にして貧困層にその富を回すのか、先進国家から発展途上国に如何に資金や技術の支援をするのかというところまでも考えないといけないのではないのだろうか。安田喜憲氏は、「日本が新しい社会をつくる」と言われる。その結論に、私は大賛成である。ただ、その理由は違うところにある。日本は、高度に発達した通信技術、物流システム、生産システムを持つ。それは、高度に発達した循環型社会をつくる上に置いて大変重要な意味をもつと私は思う。現在の社会が問題があるからといって後戻りすることはできない。なぜなら、今の問題よりも昔の問題の方が深刻であったからである。現在は、過去の問題解決の上になりたっており、現在の問題を解決するために過去へ戻ることは全くナンセンスな考え方であろう。さらに日本が早急に取り組まなくてはいけないのは、エネルギー問題と食糧問題である。明治以後日本が戦争に突き進んだ大きな問題は、石油であったようである。石油の枯渇が叫ばれて久しいが、未だに石油に大きく依存した経済体質から脱却していない。まず、日本は石油依存の経済体質から脱却しないといけない。資源のない我が国にとって、死活問題である。次に食料の問題。江戸の人口が3000万と言われている。現在は、かなり技術が発達しているので、3000万以上の人口を養えるとは思うが、それでも現在の人口を養うのはかなり難しいように思う。人口は増やすのではなく、むしろ減らしていかなければ、近い将来悲惨な光景を我々は目にしなくてはいけないと不安を感じ得ない。完全に輸入をしてはいけないという事ではないにしろ、もっと食料の輸入を減し、国内の食料生産を増やす必要があるのは間違いない。日本人が食糧不足で餓死しなくても、外国の貧しい国の人々から餓死が始まるのである。以上、日本の欠点を補った上で、日本が目指す社会は、江戸時代のように閉鎖されていても成り立つ循環型社会だと思う。閉鎖された社会を目指そうという事ではない。自力でエネルギーと食料をまかなえるという意味で、外国との貿易をやめてしまうという意味でもない。江戸時代の鎖国ではなく、新しい時代の自立型社会といった方がいいかもしれない。孔子は「君子の交わりは淡きこと水の如し、小人の交わりは甘きこと醴の如し」と言いました。国際関係においても同じ事がいえるかもしれません。現在の国と国との関係は、依存し合いすぎているのかもしれない。本当に困ったときに助け合う関係が一番望ましいのではないのでしょうか。そしてその上で、日本が技術によって得た富は、貧しい国に還元する工夫が必要であろう。原材料を提供してもらい製品を売ってあげるなんていう方法も検討してみたらどうか。中国では一時期、加工貿易なるものが主流でした。中国は、安価な低賃金によってそれを行っていました。日本は、高い技術力でそれをやってはどうでしょう。日本が軍事力増強で原材料を確保しなくても、相手から提供してくれる訳です。そして、感謝されても、輸出が多すぎると恨まれることはないでしょう。日本の軍備費も最低限に抑えられるのではないだろか。金持ちが、貧しい人達を支援をする仕組みも必要であろう。国内の治安が不安定になることもないであろう。輸出競争力ばかりにとらわれすぎて、国内の治安が悪くなれば、輸出競争力どころではなくなるのである。つづく
2009.02.08
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我々日本人が森から受ける影響、そこから生まれる多神教。その自然を畏怖する気持ちからどうやって今の社会を発展させていけるのだろうか。残念ながら、安田喜憲氏の提案はあまりにも漠然としている。以前、安倍晋三氏がほんの一時期語った「美しい国」のように。現在の資本主義の根底には、発展がある。しかし、限られた地球の中で人類はすでに飽和状態に近づいている。それでも日本政府は、人口が減ることを危惧している。中国の人口が多いとは言うが、日本の人口密度の方が多いことは決して言わない。円高になると輸出競争力がなくなると、円安を望み、そのために、日本人の労働条件は悪くなっても仕方ないという。戦国時代、豪族達は争い、勢力を拡大し続けた。そして日本を統一した秀吉は、朝鮮へ出兵した。明治維新後、日本は中国に勝ち、ロシアに勝ち、そして太平洋戦争に突っ走った。現在、またしても産業という分野で拡大路線が取られている。トヨ●が秀吉の豊臣家に見えてくる。日本は、人口を抑制すべきではないのか。輸出に頼っている経済を、改善すべきではないのか。輸出をするために、交換条件のように輸入している食料を減らすべきではないのか。私にとって明白の理であると思えることが、政府や経済学者が考えると正反対の政策になってしまう。中国では、貧富の差が社会問題になっている。日本においてもだんだんと貧富の差がついてきているように感じる。パレートの法則や正規分布を考えれば、なんの不思議もない。中国は底辺が13億であり、日本も海外進出で底辺がだんだんと広くなっている。当然、貧富の差が大きくなって当然なのである。戦国時代が終わって、江戸時代に入り、平和な時代が2百数十年続いた。世界的に見てもかなりまれな事であるという。日本の発展は、明治維新後に始まったという認識をしていたが、いろいろと調べてみると、江戸時代以前からはじまっていたようである。最近読んだノエル・ペリン著「鉄砲を捨てた日本人」にこのような記述がある。日本の銅は、当時のヨーロッパのよりも良質であったと見られるし、間違いなくその価格は安かった。中略鉄の価格も、日本鉄はイギリス鉄よりも安かった。そのイギリスはヨーロッパ随一の鉄生産国であった。中略日本は原料生産国であったばかりではない。今日もそうだが、日本は当時もすぐれた工業国であった。イエスズ会の一宣教師は、当時日本には紙の種類がヨーロッパの十倍はあろうと推定している。中略しかし、日本でもっとも大量に製造されていた物が何かというと、それは武器であって二百年間ぐらい日本は世界有数の武器輸出国であった。中略一四八三年、この年は例外であったのせよ、中国向けだけで六万七千に及ぶ日本刀が輸出されている。鎖国をした江戸時代の日本は、自給自足の体制を堅持しながらちゃんと発展をつづけていたのである。つづく
2009.02.07
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“森の国”の思想が次の経済システムを作る日経PBで興味深い記事を見つけた。「こんな禿げ山のところで文明が発展するはずがない」。そして、「木を切り尽くしたために、文明が崩壊した」。そう直感しました。その当時、文明の衰退を森林の変遷や環境破壊の関係で論じた人はいませんでしたが、僕は禿げ山を見た瞬間に、森を破壊したためにギリシャ文明が崩壊したと思った。中略禿げ山になると、表土が露出します。そうすると、雨によって浸食された表土が下流に運ばれてきて、内湾や海、湖などを埋めていく。すると、湿地になりますよね。私たちのような稲作農民はそういう湿地を水田にできるけれど、ギリシャは畑で麦を栽培し、羊や山羊を飼う人々。じめじめした湿地には何の意味もないからほったらかしにしてしまう。 その湿地で蚊が発生し、マラリアが広がるようになった。実際、ギリシャ文明の末期にはマラリアは風土病になっている。そして、ギリシャ人たちは力を喪失させていった。花粉分析をしてみると、こうしたシナリオが見えてきました。中略ローマ神話を見ても分かる通り、森がある時のローマは多神教の国でした。もちろん、ギリシャ文明も八百万の神々がいる国です。ところが、文明が発展する中で森が破壊され、禿げ山になった。そして、砂漠化が進行し、砂漠の民の間で誕生した一神教が広がりました。実際、ローマ文明が衰亡の坂道を下り始めたのはキリスト教を国教にした391年以降。これが、ローマ文明が衰退した端緒になったと言われている。こう語られるのは押し込めでご紹介しました笠谷和比古さんと同じ国際日本文化研究センター教授をされている安田喜憲氏です。そしてさらに、森がある文明は多神教を生むが、森が破壊されると一神教になると書かれれております。森があるからいろいろなところに生命を感じる。森が無くなると、人間は自然と対峙しているような感覚に陥ってしまうのかもしれません。この文章を読んで私の頭をよぎったのは、宮崎駿氏の「風の谷のナウシカ」や「もののけ姫」のシーンでした。つづく
2009.02.06
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魯豫一家親的QQ空間日本の会社で働く1999年大学を卒業後、僕は国営の外貿公司(輸出入商社)に就職しました。毎月情けない5,6百元の給料ではやりきれない。思い切って退職した。退職して日本の会社へ就職した。その会社は、規模はそんなに大きくない。社員も百人に満たない。しかし、噂では、日本の本社は有名な会社らしい。業務は貿易で、上司の中国語は驚くほどうまい。時には、広東語で「嘛嘛 地」なんて言う。日本の会社に勤めだして変わった事といえば、まず服装。Tシャツとジーパンは、お蔵入り。毎日、スーツに革靴を穿き、びしっときめる。世界を駆け回る保険のセールスマンのように。次は、遅刻しなくなった。出張から午前2,3時に帰宅しても、次の日はちゃんと9時には机についている。前の国営企業の時は、定時に出勤した事はない。どうせ、タイムカードもないし、十数分遅れてもどうって事はない。みんな同じようなものだった。上司も片目をつぶって見逃してくれた。外資企業は違う。タイムカードがなくても、給料を引かれなくても、遅刻はしない。もし一分でも遅れたら、上司の顔色が変わる。会社にある財務の女性がいた。毎朝、6時に家を出てバスで2時間かけて出勤する。彼女は、一度も遅刻したことがない。聞いた話では、上司はそれに感動し彼女だけには交通費が支払われているらしい。昔よく「日本の鬼」と厳しそうな呼び方を聞いた。今僕は、身を以て体験している。会社の管理も非常に細かい。それぞれの仕事は整然としている。私が打つFAXも一枚ごとに上司が目を通す。上司のサインがないと無効である。商売が決まると、課長、室長、部長、取締役にサインをもらわないといけない。日本人は、報告を大変重視する。大きい事件が起こると、社員に書面で詳細な資料を要求する。最初、私の報告はいつも上司に全部直されていた。今は、上司もさっと目を通すだけである。結局私も彼に2年以上教育されたわけである。当然、しっかりと覚えている。上司から叱られたとき、まず自分の間違いを認めなければいけない事を。それから湾曲に意見を述べる。絶対服従が会社に対する忠誠の表現である。上司を見て、私は「日本の鬼」がなぜ世界を股にかけて活躍しているのか理解できた。日本の社員は、みんな真面目に働く。理解できないほどにである。例えば、上司は会社のすべての費用を厳格に管理している。ある時、同僚が駅からホテルまで往復し、40元のタクシー代の領収書を請求した。上司は、厳しく言った。「片道15,6元で、20元もいらない、丁度20元なんてあり得るわけがない。」そんなに多く請求できるか!その同僚はでシュンとなり、後で「日本の鬼は、ドケチだ!」とわめいていた。しかし、私は上司が社員に対してだけでなく、自分でも会社の電話で家族と話をしたら、どんなに短くても、費用が多くても少なくても、ちゃんと明細と突き合わせ自分で支払っているのを知っている。私と一緒に朝まで残業しても残業代をもらってないのも知っている。日本の本社からもらう給料が高いのであろう。しかし、偉くなればだらけるもので、残業代をもらったからといって本社ではわからないであろう。上司は何事も自分でするのが好きで、いつも部下と一緒にマーケットの研究に余念がない。お客さんの生産能力、経営状況、信用度などを分析している。それから、取引するかどうかを決定するのである。彼は、各社員の業務進行状況を注意深く把握しており、会社の利益に影響がでるのを防いでいる。日本の会社は、人的資産の管理方法が欧米とは違う。日本の会社は、学歴を重視する。給料を上げる時にも、これまでの仕事の仕方を考慮する。簡単に人を雇ったり、解雇したりせず、仕事は比較的安定している。仕事に励めば、年々給料も増えてくる。しかし、増え方は、人によって違いがある。しかし、仕事時間は長く、きつい。高速で動く機械のようである。体が丈夫でないともたない。サラリーマンになってから、ガールフレンドもすぐに妻に変身した。家に帰ったら、暖かいスープが待っている。とりあえず、僕の給料は、サラリーマンの人並みで中級程度であろう。ただ、日本語だけは上司から言われているレベルには及ばない。上司は、一度酒の席で残念そうにこう話した。「日本専攻だったら、すぐに1000元給料あげてやるのにな~」生き霊である。会社の仕事はすべて英語でやりとりされる。しかし、東京本社の業務主任は英語があまりうまくない。電話でのトラブルも絶えない。しかしどうしようもない。日本人の為に働いている間、この言語蔑視に耐えなくてはならない。私は、日本の会社で働いたことは、私の人生の宝となるであろう。しかし、まだ日本語を勉強する気にはならない。一生ここで働くつもりはないからである。私の目標は、自分の為に働けるようになる事である。
2009.01.27
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アメリカ資本が清国で投資するよい方法がありますか?1896年8月から9月アメリカを訪問していた李鴻章に、Newyorktimes の記者がこのような質問をした。大日本帝国憲法が1889年2月に公布された7年半後の事である。お金と労働力、土地の結合によって財富というものは生まれてくる。清国政府はいかなる資本の投資も歓迎する。親しい友人であるグラント将軍は「貴方達は、欧米資本を清国に取り入れて近代化された工業企業を興すべきである。以て清国人民が豊かな自然資源を利用できるように。しかし、それらの企業の管理権は清国人民が握っておく必要がある。」といってました。我々は、あなた方の投資を歓迎します。資金と技術を貴方達が提供してください。しかし、鉄道、通信は自分たちでコントロールします。我々は国家主権を手放すわけにはいきません。いかなる人であろうと我々の精神的権力に危害を加えることはゆるされません。私は、彼の言葉を決して忘れません。すべての資本、それがアメリカからであろうが、ヨーロッパからであろうが自由です。中国には「中共十一届三中全会以来」という言葉がある。「三中全会以来」と略して使ってもその意味は通じる。あまりにも影響力が大きく有名なその会議は、1978年12月22日北京で挙行された。そこでは、文化大革命の終焉、、トウ小平の復権、改革・解放路線が提案され、中国の舵が大きく切られた会議であった。李鴻章がアメリカで語った話から80数年。トウ小平がそれを現実のものとする事になるのである。江戸時代を研究されている笠谷氏は、この本の巻末でヨーロッパと日本の組織の対比して見せてくれる。ヨーロッパ社会も日本とほぼ時期を等しくしながら、中世の封建社会から近世・近代への移行を始めていた。日本の応仁の乱、戦国時代に相当する十五、十六世紀の頃の事である。ヨーロッパの封建制は中世から近世への移行の中で、大きくは次の三つの国制的形態が継起的に出現するとされている。すなわち、封建制、等族制、絶対制の三種の国制である。封建制、等族制については、長くなるので割愛させていただき、ここでの本論に必要な絶対制についてその説明を明記したい。絶対制、すなわち絶対王制と呼ばれる制度である。ヨーロッパ諸国は、絶対王政に移行する過程で、それまで軍事を担っていた封建領主を軍事から切り離し、傭兵制、常備軍というような形で軍隊の近代化を図る。ヨーロッパ世界における国家統合および行政官僚制の形成は、国王ないし領邦君主の主導の下に進められたが、その行政官僚制の形成過程は日本の場合と大きく異なっていた。ここでは行政機構を構成している役人、行政官とは、それぞれの分野における専門家であった。財政長官は、経済や財務に堪能な商人や銀行家であり、建設長官は建築・土木の専門技術者であり、司法長官は当時大きな影響力をもって復活してきたローマ法を習得した法律の専門家といった具合である。一方日本は、以前に江戸時代の組織と日本の政治家」でご紹介しましたように、江戸時代にはいるとそれまでの軍事組織が行政組織にそのままスライドします。元々の軍事組織は、大きな戦略は事前に決めていても、戦争状態では、突発的な変化に対応しなければならず、それぞれの家臣が備を作り、その備毎に状況を見て判断をくだしていたようです。その組織がそのままスライドして行政組織になったのですから、各備えをつくる単位での判断というものは、重視されたようです。こう見てくるとヨーロッパの組織がトップダウン式であり、日本がボトムアップ式であり現場主義であるというものうなずけます。ヨーロッパが専門的な知識にすぐれ、日本が現場からの技術革新で日本の製品が世界を席巻しているというのも偶然ではないのでしょう。明治にはいり、日本が狂い始めたのは、日本の伝統的組織を無視してヨーロッパの制度を取り入れ近代化を進めた為に何かが抜け落ちてしまったのではないだろうか。近代化がすすんだのは、ヨーロッパの技術を取り入れたからというのは間違いない事実ではあるが、日本がヨーロッパになることは、不可能である。ヨーロッパはヨーロッパで長い歴史を通してできあがった社会であって、そのすべてを違った歴史を持つ我が国に取り入れてもうまくいくとは思えない。日本の組織は、専門家では構成されていない。ではなぜ、欧米に匹敵する技術力を持ち得たのか?それは、年功序列、終身雇用制による職業の固定から生まれる専門知識だったのではないのだろうか。それは、ヨーロッパの数少ない学者よりも、日本の大勢の労働者による現場経験主義の勝利だと言える。少し考えると専門家を育てるといっても大学の4年間机上で、どれだけの専門家が育てられるであろう。さらに大学院に行ったとしても大同小異である。日本の労働者による現場主義なら、すべての労働者が数十年同じ仕事を通していろいろな専門身につけ発展させる事が可能である。それも広範なすべての職業においておこるのであるから、優秀な技術が生まれる確率も格段に高くなるはずである。ヨーロッパ式の専門家養成が不要といっている訳ではない。当然、それはそれで進める必要は大いにあると思う。しかし、日本がこれまでの発展を遂げてきた本当の理由が労働者の職業固定制にあるのであれば、それを放棄することは、資源を持たない我が国日本にとって全く不利であるといわざるを得ない。笠谷氏は、最後に中国の科挙制度にも触れられている。科挙の制度は、大変整った制度ではあったが、目指すところがまったく西欧や日本とは異なっていた。それは、優れた文人を作り出す事にあり、世の中を如何に治めるかだけが主眼であった。そこには技術革新や社会の発展は少しも考慮されていなかったのである。なぜ現代中国は、多くの問題を抱えているのか?資本を外国から取り入れるのはいいとしても、技術や運営管理まで外国任せにしてしまっているからだと私には思える。自分たちでなにも考えない。安価な労働力と広大な土地を提供する事によってのみ現在の発展を成し遂げたからでは無かろうか?日本も明治以降、欧米の技術を取り入れる事で発展をしてきた。一見すべて外国の技術のおかげのように思いがちであるが、本当にそうであるならば、日本の製品が世界で売れるはずはない。欧米の技術によってのみ日本が発展したのであれば、欧米の製品の方が優れていなければならない。日本が経済大国になれたのは、伝統的な日本の良さがあったのは間違いない事実であろう。最近の政治家や企業は、それに気づかずに欧米の物であれば何でもいいように勘違いしているように思えてならない。日本も中国のように外国の考え方を取り入れるだけで、社会は発展すると思いこんではいけない。自分たちの伝統的考え方をもう一度見つめ直し、自分の頭で考え、自分の体で経験し正しい方法を選択していかなくてはいけない。「ヨーロッパでは」とか、「アメリカでは」という魔法の言葉に惑わされる事はもうやめにしなくてはいけない。
2009.01.26
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20日に中国の国防白書が発表された。そのニュースの中興味深いデータを見つけたのでご紹介したい。中国国防費総額、及び1人均平均防衛費は、主要大国の平均に及ばず
2009.01.25
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髪の毛を逆立てて、オレンジの手提げを持っている男の子がバスの座席の前でつり革につかまっている。その座席には、2人分の空席がある。お年寄りの為に席を空けているのかなっと眺めていた。だんだんとバスは混み合ってきた。もう乗れないんじゃないかなと思うのだが、それでも必死で乗り込んでくる人たちがいる。その男の子の前の座席は、それでも空いたままだった。日本は、これから高齢化社会を迎える。若い人たちの税金が高くなるといって、本当は年金生活に入るべき高齢者にも働いてもらう。働く意志のある高齢者は、雇わなくてはいけなくなった。不景気になって、若者は職に就けなくなった。それでなくても職が少ないのに、高齢者を雇わなくてはいけない。あと20年ほどしたら、私も高齢者の仲間入りをする。そのとき、今の若者が社会を支えているのだろうか。
2009.01.23
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中国と日本の関係を良くしていきたいと願っている私のとって、大東亜共栄圏と秀吉の朝鮮出兵は大変興味のある問題です。これまでずっと考えたり本を探したりしていたが、なかなかその詳細について書いてある本はありません。、大東亜共栄圏については、まだ輪郭くらいしか分かっていませんが、朝鮮出兵についてこの本にかなり詳しい説明がありました。豊臣秀吉の朝鮮侵略、いわゆる「唐入り」の理由については諸説がある。第一は秀吉は日明勘合貿易の復活を要求したという説だ。朝鮮を通じて明の国に紹介させ、室町時代の勘合(符)の制を復活して、官船商舶の往来を開かそうとしたものだろうという。第二は秀吉の功名心による海外征服説だ。自分の名を唐・天竺まで広めたかったというのだ。「予の願いは他に無く、只、佳名を三国(日本・明・朝鮮)に顕すのみ」と朝鮮王国に書いた文章がその論拠になっている。第三は秀吉の領土拡張説である。これは天正二十年五月首都漢城(ソウル)陥落した時、秀吉が明・朝鮮を含めた征服地国割り方針を出した事を論拠としている。第四は秀吉の専制的な性格にその理由を求める説だ。日本国内における土一揆以来の農民の力をはぐらかそうとする封建領土の望みと、ポルトガルの商業資本に対抗しようとする日本の豪商の要求の上に乗って、秀吉自身が専制化し、その鉾先を近隣諸国に向けたというのだ。どの説にも相応の論拠があり、もっとものように聞こえる。秀吉がこのような考え方を持つに至った時期は、一番古い記録が天正十三年からあるという。天正十四年には対馬の宗議調に、朝鮮王国を日本の内裏へ参洛させるように命じている。つまりは日本への服属させようというのだ。ここには、秀吉の事実に対する大きな誤認がある。秀吉は朝鮮が対馬に服属しているものと信じていたのだ。事実は全く逆で、朝鮮側では対馬が朝鮮の属島だと思っていた。これらの説では、なんとなく納得がいきません。戦国も末期とはいえ、まだ国内が非常に不安定な時期に、わざわざ未知の世界に出兵を考えるでしょうか?私には、秀吉がどうしても朝鮮に出兵しなければならない事情が有ったとしか思えないのです。秀吉は、成り上がり者でした。信長や家康は、もともと確乎とした地盤の上に成り立っておりました。そして、その地盤の上ではじめて信長はカリスマ性で、家康は指導力で勢力を伸ばしてきたように思います。しかし、何も地盤のない秀吉は利で各武将を引きつけたように見受けられます。当時の武将達は、それぞれ強大な軍事力を誇り独立していました。それらの武将達を率いるために秀吉は、過分の報償を与え続けたようです。対する家康の家臣に対する報償は微々たるものでした。それは、性格によるものではなく、もともとの地盤に起因しているのだと私は考えます。秀吉は、過分の報償を与え続ける必要があった。そして自分が天下をとった時、戦争がなくなり、報償を与え続ける事ができなくなったとき、彼はその目を日本以外に向けるしかなかったのではないでしょうか。
2009.01.20
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米沢藩の第一期改革は、竹俣美作綱吉を中心とし、明和・安永期(1760-1770年)に行われます。1. 倹約2. 農民管理による年貢の確保。そして最後に、収入を倍増する為に、3. 漆、桑、楮を各百万本植える。これらの木からとれる原料を、専売化し藩の収入を増やそうという訳です。調べてみると専売制というのは、特別に目新しいことでもなかったようですが、米沢藩にとっては、画期的な事だったのかもしれません。しかし、この目論見は、うまくいかなかった。米沢藩でとれる漆蝋よりも西南諸藩でとれる櫨蝋の方が品質がよかったようです。 漆の若葉 櫨の木 蝋栽培と精蝋技術を最初に確立したのは薩摩藩だが、その後久留米藩、熊本藩、福岡黒田藩、萩藩、紀州藩などが、薩摩藩からあるいは種子を譲り受け、あるはいは苗木を買い受けて藩内で栽培を奨励した。その普及の流れの中で、福岡藩はことに櫨の品質改良に力を入れ、竹下直道による優良品種松山櫨の発見、内山伊吉による伊吉櫨の発見などが、木蝋の品質を高める基礎になった。 それに加えて西南諸藩の多くが積極的に晒蝋の技術に取り組んだことが、米沢蝋との間に決定的な品質の差を生み出す事になったのである。 晒蝋の原理は、一言で言えば生蝋を天日漂白して白蝋をつくると言うことだが、筑後晒しと呼ばれる晒にしても、灰汁を加えて大釜で煮る、固まったものをさらに削って粗片にして天日で漂白する。そのあとふたたび釜にもどして煮直して灰分をのぞき、ふたたび斧、カンナなどで削ったものを天日漂白するという、幾工程かの手間をかけて白蝋を作り上げる。 櫨栽培と晒蝋の技術は、大洲藩や松山藩、宇和島藩などの伊予諸藩にも伝えられて行ったが、注目されるのは大洲藩で始まった晒法で、宝暦年間に芳我弥三左衛門がはじめた、筑後晒法に対抗する伊予晒法は、ついにこの後文政期に完成して、筑後晒法を上回る品質すぐれた白蝋を生産する事に成功するのである。 正月に行った島根県の松江城天守閣で、「松江藩の財政危機を救え」という小冊子を手に入れました。(500円税抜)松江藩でも財政危機に際し「趣向方」(企画部)というような部署を設けて、新しい産業育成をはかったようです。櫨蝋を「木実方」という役所が取り扱い専売制にしていたようです。その他にもタタラ製鉄でつくられた鉄を管理する「鉄方」朝鮮人参を扱う「人参方」などがあげられます。こういう風に書くと、改革がスムーズにいったような印象もたれるかもしれませんが、実際には、うまく軌道にのるまでには、こんな事も行われたようです。1. リストラ 軍事では、番頭、物頭など指揮官級を削減。 行政では大勢いた奉行を兼務させ奉行職と役所を整理統合。 藩営事業では不採算部門の切り捨て。 こうして御徒身分以下968人を失職。2. 借金の踏み倒し 闕年(けつねん)といって「出雲国内すべての個人法人の間に結ばれた債権債務関係をすべて無効」にしたそうです。リストラなんて今に始まったことではないのですね。そして、いつの日か、また闕年が行われるのかもしれません。
2009.01.18
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正月は、出雲大社に初詣に行ってきました。 大阪から「のぞみ」で岡山まで行き、岡山で「やくも」に乗り換えます。出雲に近づくにつれ、だんだんと空が黒ずみ、冷たい空気に包まれていくのが分かります。 元旦から大粒の雹が天罰でも下すかのように降ってはやみ、降ってはやみ。時折雲のあいまから降りてくる日光は、神々が本当にすんでいるのではないかと思えるような山々だけを映し出します。 偶然にも昨年末に読んだ丸山眞男氏の文章「歴史意識の古層」が思い浮かびます。 まだ、仏教にも儒教にもそして近代文明にも浴していない純粋な日本の姿をのぞけたような気がしました。日本の神聖な原点を感じると共に、それ以降、いろいろな文化や文明を取り入れ、千数百年という短い時間のなかで、現代を作り上げてきた我々日本人の祖先は、いかに勤勉であったのだろうという思いにかられます。 昨年後半から、世界的な金融の問題が取り上げられ、テレビでは連日社会の終わりのような報道がなされておりますが、日本の歴史を眺めるとき、そんなにたいした問題では無いことに気づかされます。我々の祖先は、もっと深刻な問題を経験し今日の我々が有るのです。 新年に、祖先からの授かった送り物は、そんな勇気だった気がします。
2009.01.04
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今でも文武両道という言葉はよく使う。江戸時代も、現代と同じく、文武両道を旨としていたようである。中国では、文は文であり、武との混同はしない。そこら辺が、日本と中国の違いであるような気がしている。さて、江戸時代の文武と現代の文武は同じなのであろうか。江戸時代、文というと、儒教で有ったようである。つまり、道徳と考えてもいいかもしれない。徳を積む、人間を修練する為の学習が文だったのではないだろうか。今でも文といった場合、儒教的な感じを持つのは私だけであろうか。しかし、実際に論語などは読まないし、文=勉強という事になるのであろう。では、現代の勉強とは、なんであるかというと。英語、数学、国語、社会、歴史、理科という事になる。同じ「文」とは言っているが、全く違ったものである。さらに、武は、どうであろう。江戸時代の武とは、剣道。剣道といっても現代の剣道とは訳が違う。最終目的は、敵を切ることである。強盗や殺人犯のように、なにも持ってない相手をきるのではない。相手も刀を持ち、訓練をしている人間を切るのである。切るといっても、切られるかもしれないという不安がつきまとう。現在の武といえば、スポーツである。その目的は、体を作る、健全な精神をそだてる。チーム精神を学ばせる。といろいろ考えられる。しかし、江戸時代とは重みが違う。現在我々が受けている教育は、文ではなく、技といった方がしっくりくるように感じる。江戸時代の武士は、文で、徳というものをいつも考え続け、武で、死というものをいつも見つめ続けてきたのだろう。今更、我々は、そういう風にはなれそうもないが、せめて徳という事は、我々も考え続けた方がいいのではないだろうか。ならば、現代は、文武両道ではなく、= 文技武三道 =であるべきなのかもしれない。
2008.12.30
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以前から疑問をもっている<征韓論> 。なかなか納得できる答えがでない。どうも、水戸の国学。吉田松陰、西郷隆盛と思想的なつながりがあるようなのであるが、その内容が釈然としない。古代日本が朝鮮半島に支配権を持っていたと『古事記』・『日本書紀』に記述されていると唱えられており、こうしたことを論拠として朝鮮進出を唱え、尊王攘夷運動の政治的主張にも取り入れられた。と説明されている事が多いが、出兵する理由が「古事記や日本書紀に朝鮮支配していた記述がある」だけとは思えない。また、こういう説明しかないのが、不思議で仕方がない。それに、西郷隆盛が辞任する「明治六年政変」。これがまたよく分からない。論争に敗れ、自分の意見が通らなかったといって、辞職するのであろうか?それまでの西郷隆盛の態度を見ていると、西郷自身は、ほとんど自己主張をしていないようである。なぜ、征韓論(西郷は、遣韓論であったとも言われる)に固執したのであろう。なにか、他に理由があるように思えるのである。最近読んだ「征韓論政変の謎」には、大久保利通が西郷隆盛を政権中枢から引きずりおろす陰謀で有った可能性があると書かれている。そう考えると多少辻褄はあってくるのであるが、それでもまだまだ謎の部分が多すぎる。その後に西南戦争が起こるのであるが、征韓論論争で下野するまでの西郷とそれ以後の西郷の人格がなんとなく一致しないのは、なぜなのだろう。私には、全くの別人格としか思えないのである。その本の中に下記のような記述がある。大日本帝国憲法の調査・起草にあたった金子堅太郎が、憲法発布後、欧米の議会制度の調査をして帰朝してから、国史編纂の必要を痛感し、明治23年7月、時の内閣総理大臣山県有朋と宮内大臣土方久元に対して、宮内省内に国史編纂局を設けることを建議した。宮内省では国史編纂は時期尚早として、まず維新史料の蒐集を行う事に決したが、宮中顧問官伊藤博文が強く反対した為中止になった。中略それから20年たった明治44年5月に、ようやく文部省内に維新史料編纂会が開設された。中略史料編纂所の前身の修史局は明治8年に開設され、明治13年以降は、伊地知貞馨が副総裁として修史編集の責任者となった。このことに関してお茶の水女子大学名誉教授で、幕末維新史について造詣が深い勝部真長氏は、次のような見方をされている。「伊地知貞馨は大久保利通の腹臣であり、(略) 明治20年頃までに時の薩長政府に都合のよいように史料が書き換えられた形跡は皆無ではないのである。明治政府に都合のよい資料を、今日そのまま鵜呑みにする必要がどこに有ろう。「復古記」などについても明治以来資料批判が行われていないと言うことは、日本史学会の怠慢を示すものであろう。」勝部真長氏は、先日読んだ「山岡鉄舟の武士道」の編纂者である。
2008.12.22
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彼は、天保7年6月10日(1836年7月23日)に産まれ、明治21年(1888年)7月19日)に亡くなっている。まさに、幕末から明治の激動の時代と共に生きた人である。彼はその晩年、宮内省で侍従についていた。ここに書かれている武士道は、その時に彼が講話した内容を記録したものであり、それに勝海舟が評論をしている大変興味深い内容である。彼が書いている「武士道」は、明治の武士道的精神と言い直した方がいいように思う。そこには、天皇を中心とした新しい社会における日本人としての武士道的精神論がかかれており、明治になってから本来の武士道が変化していく経過を示しているように感じる。考え方としては、理解できるのであるが、すこし違和感を感じてしまう。巻末には、お茶の水女子大学名誉教授であった勝部真長氏(1916年3月30日-2005年6月19日・日本の倫理学者)の「文武両道の思想」という文章が全体の3分の1ほどに載せてある。本題の「武士道」よりもさらに大変興味深く読ませてもらった。夏目漱石は、「三四郎」の中で、ある男に「(日本は)亡びるね」と言わせる。渋沢栄一は、日露戦争が終った当時の酒宴で、「日本もあるいは、今度あたり、ロシアから一本うちのめされた方が、かえって後々のためだったかもしれぬ。」と語っている。伊藤博文は、「大和民族の将来」という談話記の中で、「大和民族なるものは、人類盛衰の原則以外にたっている一種特別の人種のごとく心得、他国の正当なる権利と利益とを無視して傍若無人の行為に出るならば、国を誤るは火を見るよりも明らかである。」と言っている。江戸時代の武士が、だんだんと軍人に変化し、世の中が新しい技術に目を奪われ、儒教や仏教の教えを忘れた時、我々日本人は自分たちをコントロールする術を無くしてしまったのかもしれない。第2次世界大戦の悲劇は、我々の内面に潜んでいたのかもしれない事を気づかせてくれる。
2008.12.20
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明清以降の数百年、多くの中国人は乱世の野心家たちに頭を地につけてお願いした。それらの崇拝の英雄は正規の英雄ではなかった。たとえば、秦始皇帝、岳飛、文天祥、威継光、林則徐、韋小宝、令狐冲、燕子李三、黄金栄、杜月笙、張大師、許大馬棒、座山雕・・・彼らはみんな体制外の常態のない江湖大狭、ごろつき匪賊なのである。彼らは、体制外にその身を置き、わずかに体制内の者も体制外の江湖のしきたりで行動するのである。彼らは、勇敢であり、その手段は残酷である。一銭の創造もせず、盗みをはたらき、分け前にあずかり、窃盗に誇りさえ感じる。あなたが耕せば、彼らは奪い。あなたが商売を始めれば、彼らは所場代を要求する。道を歩けば、恐喝に合う。あなたが何かしようとすると、うまくだまされる。真面目に仕事をすれば、いじめられる。賄賂を拒めば、刀で一突き。真面目に働くことは、強盗に劣り、規則を守ることは、武器を振り回し喧嘩することに及ばない。だんだんと法律や秩序を凌ぐ現実が現れる。天子様でもどうしようもない。そうなると世の中は、どうしようもない。良い人も堕落し、良民は、梁山へ追いやられる。活きるために、だんだんとみんなが盗みをはたらくのである。ついには、社会が奇妙な寄生形態に変化していく。まったく悲しい陳述である。大きい魚が、小魚を食べ。小魚は、エビを食べ。エビは、水を飲み。水が石をを洗い出す。民国のころ、上層は、その下層へ懸賞をかけた。しかし今まで下層へ対立するものはいない。技術の問題ではなく、ただ内に存在する悲哀によるものである。そしてその悲哀は、極限に達している。乱世には、ただ一つの本質がある。それ以外には、何もない。上層があるのみで、下層は、存在しないのである。現在、武狭の弊害がいかに多いことか。適当に本屋、文学ホームページをのぞいてみる。テレビのチャンネルを適当に変えてみる。その氾濫は、述べるまでもない。テレビメディア、専門家が講義をするときも武侠の人物を比喩につかう。新人類は、武狭を読んで成長する。金庸、古龍たちは、中国のシェークスピアを掘り起こす。言語、文学から文化までその影響は絶大である。ヒーロー文化は繁栄し、まるで5千年の文明からの脱皮のようである。だから、喧嘩以外に、中国人は、公平な社会を作ることができないのか。大狭は、人々に慕われ、働かず裕福である。この背後には、みんなの心の奥底では分かっている秘密がある。5千年文明古老大国の人々は、ついに労働しない「大狭」を模倣し、悪知恵で、奪い取ることしかできないのであろうか。
2008.12.13
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其の二は、「誠実な人は、損をする。」両親は、世に出た子供に対して「人と接する時は、あまり堅い事をいってはだめよ。真面目すぎると損をするよ。」と教える。子供が物事がわかるようになった時、若い両親は、こんな困惑に陥る。子供がもめ事に巻き込まれたとき、礼儀をもって譲歩するように教えるのか、牙には牙をもって対抗させるのか。もし同級生と喧嘩になったとき、やり返させるのか、先生に訴えるのか。それは、人生のゲームにおける囚人的心境であろう。子供を教育するのは、囚人が法廷で裁かれているのに似ている。真面目に喧嘩をさせて、まけて頭から血を流して帰ってくる我が子をみるか、喧嘩をさせてぐれさせてしまうか、人の子供を傷つけるのか。それぞれの家庭で、それぞれのやり方があるであろう。平均的な教育をする事は難しく、子供もいろいろに育っていく。真面目な人は、損をする。公共の場所で何かをするとき、真面目に並んでたら損をしかねない。小狡い輩は、狡猾に列に入り込み得をする。職場では、一生懸命仕事をしたら損をする。お世辞をいったり、接待をしたりした方が有利である。心ある商人は、本物を売ってもうけがない。悪徳商人は、偽物や不良品を売って大儲け。教授たちに本当の学問があっても無駄骨、盗作、文章の購買、少し頭を使った方が楽である。学生は真面目にテストを受けると損をする。試験場での不正、身代わり受験の方が得をする。真面目な人が損をする現象は、基本的人類の社会の原則や秩序に違反する。しかし、なぜ真面目な人は、いつも損をするのか?真面目な人は、馬鹿ではない。IQは高いのである。清廉潔白で、融通がきかないのである。真面目な人は良民であり、秩序を維持する人である。秩序を守ろうとする行為が損をさせるのである。規則を守らない事が有利であるという事である。おかしい話で、本末転倒であろう。
2008.12.11
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第一章 清朝末期、中国の半植民地、半封建社会への没落中国という東洋の文明古国は、長い長い歳月をかけて世界に飛び出した。17世紀中期から18世紀末まで西洋のイギリス、アメリカ、フランスなどの国家は、相次いで資本主義社会に突入。中国は、そのころ封建主義の道をゆっくりと登っていた。19世紀30年代、イギリスは産業革命を終え、資本主義国家の強国として君臨。海外植民地、商品市場の拡大の為、中国の開放を力ずくで要求していた。1840年中国侵略の契機となるアヘン戦争を引き起こす。清政府は、イギリス侵略者との史上初の不平等条約である<南京条約>を迫られる。中国の半植民地、半封建社会への没落の始まりであった。中国の歴史は、ここから旧民主主義革命の時期に突入する。アヘン戦争により先進的な中国人たちは目を覚ます。彼らは目を世界に向け、「西洋に技術を学び西洋を制する」というスローガンを叫ぶ。アヘン戦争により、民族対立と階級矛盾がさらに激しくなる。19世紀中期洪秀全は、太平洋天国の乱を起こす。初めての半封建反侵略闘争であった。中国農民が起こした闘争でもあったのである。それは、残念ながら失敗に終わるが、中外反動勢力に多大な被害をもたらした。さらなる中国での権益侵略の為、1856年イギリス、フランス連合軍は、第二次アヘン戦争を起こす。ソ連も便乗して中国の領土を侵食し始める。中国の半植民地、半封建化は、さらに深刻化するのであった。
2008.12.10
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祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。有名な平家物語の冒頭。最近、中国の作家余華さんの「兄弟」という小説が日本で発刊されました。私は、中国語で読みましたので、日本語訳本がどのように訳されているのか、知りません。原文で読むと、かなり汚い言葉が出てきます。主人公の李光頭。その村で一番かわいい女の子"林紅"がトイレに入っているところを、男子トイレの穴からのぞきます。その行為がすぐに見つかって、当然罪に問われますが、すぐに彼は村の男たちの英雄になります。多くの男たちが彼に、そのお尻の具合を聞きたがるのです。李光頭は、それをいいことに、普段では高くて食べれない、ラーメンを要求します。日本人に言わせると文学的でないわけです。読み進むにつれ、私も少し気分が悪くなりそうな感じを受けました。しかし、このような汚い表現が、中国らしさを表現している事実は、間違いありません。では、日本人は、気高く、中国人は汚いのでしょうか。私が上述の事実から受ける印象というのは、日本人は、物事を美化してしまう傾向があるという事です。よく言うと、日本人の思考は、文学的であるともいえるかもしれません。しかし、このことは、歴史を見ていく上においては、大変大きな障害になっているのではないでしょうか。山本七平さんが、「日本人の人生観」という本の中でこのように述べられております。終戦の年の二学期になると教科書を墨で塗った。いわば「現在」に不都合な事は墨で抹殺をしたわけです。この抹殺をするという事は、分からなくなるという事ですが、本当をいいますと歴史というものは、それを絶対してはならないのでありまして、あるものをそのままにしておく、そのあとに、ただしこの点はここが間違っていると、そういう注釈をかいていく事が実は人間が過去を正確に知る方法であります。中略墨で塗って消してしまうと言うことは、考えようによりましては、環境の変化に一番適合できる生き方であります。いわば「思想の衣がえ」のようなことですが、しかし、これをしますと、逆に、わからなくなった過去に呪縛されるような形になり、自己の内実は無意識の無変化を持続するという形になります。と申しますのは、教科書には墨で消しても、教えられたことは人々の心に残りますので、その人たちは、自分の基本的発想が何に由来するかが分からなくなりますので、逆にそれから脱却できなくなるわけです。日本人は、「汚いものには蓋を」してしまう性質があるように感じます。こういうことを書きますと、私が日本人を批判していると勘違いをされる方がおられますが、決してそうではありません。日本の社会が道徳心を維持している背景には、こういう性質が大きく貢献しているとも考えております。人間が生まれた時には、まだ考えることができないようです。そしていろいろなことを学び、経験してだんだんと考えることができる訳ですが、その情報が道徳的であれば、あるほどそのような判断をくだしていくでしょう。しかし、中国のように歴史的な事実を正確につたえようとすれば、いいことも悪いことも吸収し、かならずしも道徳的な判断をするようにはならないのではないかと思います。以前ご紹介しましたが、中国には、「東郭氏と狼」という寓話があります。小さいころからこういう話をよみ、そして、江湖中国という本に書いてありましたが、「まじめな人は、損をする。」というようなことを親から教えられる。中国社会の厳しさにまけない強い人間をつくるには、こういう教えも必要なのでしょう。我々の文学的思考は、住みよい日本社会を形作ってきたのだと私は思います。しかし、この先グローバル化が進み、だんだんと日本社会も厳しく変化する状況において、疑問に思うことがあります。
2008.12.07
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中国の高校の歴史の教科書を手に入れました。江湖中国だけを訳すと、あまりにも単調になりそうですので、この教科書も自分の勉強をかねて訳して皆さんにご紹介したいと思います。一般に中国では、抗日の歴史を特別に教育していると言われます。しかし、この教科書を見る限り特に日本について特別に書かれているとも思われません。すこし、概略について見ていきたいと思います。まず、この教科書は、上下2冊に分かれております。上冊は、アヘン戦争(1840年)から国民党の北伐(1927年)の約87年間。総ページ数138ページ。そのうち、日本の事が書かれているのは、日清戦争の6ページ。イギリスやアメリカの行為も侵略と書かれております。下冊は、国共対立(1927年)から現代(1999年)までの72年間。総ページ数165ページ。内日本の事が書かれているのは、「中華民族の抗日戦争」と題した20ページ。抗日戦争が8年間続いたことを考えると、比率からいっても適当ではないかと思えます。以前の教科書がどうだったのかは、わかりません。しかし、少なくても現在の歴史教科書はかなりまともな教科書だと私は感じております。
2008.12.06
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著者である于陽氏の了解もいただきましたので、いよいよ江湖中国の翻訳に取りかかろうと思います。どれくらい時間がかかるのか自分でも全く予想ができませんが、私の一生の仕事として取り組んでいきたいと思います。この本は、私がこれまで読んできた中国関係の本の中で、現在の中国を理解するために最適の本であると確信しております。また、外国とのつきあいには、お互いの正しい理解が不可欠と考えております。ただ単なる相手国の賞賛でもなく、非難でもない。そして、その正しい理解は、相手国からの尊敬も受けることになるでしょう。1,理解できない昔からの問題5つの疑惑まず、いくつかの民間にある諺、社会現象の背景にある屈折した問題から始めましょう。其の一「社会のことは、本では学べない、本に載っていることは、社会では役に立たない。」小さいころからよく耳にするこの言葉には、作者が身を置いている中国社会が産んだ計り知れない深淵な神秘感がある。繰り返し原則を探しても社会の真相は霧のなかに迷い込み、たとえようもない湿り気と暗闇を発散する。一方で、その霧は、永遠に本の虫のものであり、別の種の人たちには、透明な視界をもたらす。それらの人たちは、武道で身を鍛え、自己の能力を超越する。濃い霧の中に身を置いても、水を得た魚のように刀を操り、余裕を見せる。これらの人々を我々は現在「老江湖」と呼ぶ。すべてを理解し、人情に通じ、何事をもうまくやってのける。人の能力は、それぞれであり、うまく出世する人、世の中の流れにのれない人がいることは普通である。この社会で霧に迷い込みそうな気分は、疑いを生み出す。それは、人生の成敗に関わるからではなく、その原因が口にだせないからでもない。ある集団によって無意識に容赦なく覆われてしまうのである。結果、書籍のなかで学生には学べないものになってしまう。これは、世界の常識なのであろうか。中国だけの現象なのであろうか。ほんとに中国の国情?、国情という言い訳のもとに行われる堕落?どう理解してよいのか分からないのである。しかし、本と社会を分けて考えると、それは本とは言わず、学問とも言わないのである。たとえば、社会学とは社会の道理を研究する学問であり、社会現象を反映しているべきである。反対に考えると、社会現象を反映してなければ、社会学とは言えないのである。一般的に社会の道理は、本で学べるものである。本に書いてあることも社会の中で通用するはずである。そうであれば、本は本であり、そうでなければ、本は、本の価値がなくなる。中国の社会には、現実と本の間に溝が存在するのであろうか。この溝はなんななのであろう。なぜ本が入り込む余地がないのであろう。
2008.12.04
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大変参考になった本であったが、一番印象に残ったのは、巻末に載せられた何清漣さんの文章<トウ小平「経済改革神話」の破綻>である。何清漣さんは、1956年湖南省にうまれ、湖南師範大学卒。上海の復旦大学で経済学修士号取得。中共深川市委員会宣伝部勤務の後、中国社会科学院公共政策センターの特約研究員となった。中国の病弊、腐敗などを書いて出版。国家安全当局の監視を受け、2001年渡米。現在、プリンストン大学、ニューヨーク市立大学で研究活動に従事。そこにかかれている内容は、大変過激であり、日本の新聞記者の中国批判などは比べものにならない。その文章から感じるのは、中国の路上でけたたましい叫び声を上げながら言い争う中国人の姿である。彼女は、中国政府を「盗賊型政権」とまで言い切る。そして、世界での盗賊型政権の例を挙げ、そのすべての要素を中国政府が持っていると放言する。1. 炭鉱や金鉱の採掘認可制度を利用した賄賂。乱掘により起こる環境汚染。それによる死亡事故。中国の石炭生産量は世界の35%であるが、炭鉱死亡者数は、世界の80%。2. 役人による土地転がし。彼らはまるで不動産ブローカー。3. 国有企業の私有化による国有資産の流出。04年に検察機関が立案・捜索した国有企業の職員数は、1万4百7名。中国人は、現在の社会問題を共産党の性にしたがる。しかし、本当に共産党の問題なのだろうか。共産党が政権を取る前の中国の状況を見てみると今起こっている問題と同じような問題をすでに抱えている。果たして現在の社会問題が共産党に起因するのか、私には、はなはだ疑問である。中華人民共和国が成立した後、強力な毛沢東独裁政権のもとで、これらの悪習はなりを潜めていた。それは、社会主義という徹底した抑圧によるものであったように感じる。毛沢東が全く人権を無視した文革という政策をとった理由が、本当は、そこにあったのでは無いかと肯定したくなるくらいである。少し目先を変えて、台湾を見てみると、つい最近、陳水扁前総統の機密費流用が報道された。私には、中国で起こる様々な問題が、中国人が持っている民族性に起因するのではないかと考えざるを得ないのである。そして、それは、先日訳した「中国からの修学旅行」の中に書かれている国民精神と深い関わりがあるように感じるのである。
2008.11.30
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天安門事件からはじまり、南巡講話、文化大革命と時間をさかのぼって、今まで闇に包まれていた中国共産党内部を我々に見せてくれる。一般的に中国共産党というと、ひとまとめにして、報道管制、自由抑圧、腐敗政治という印象を持ちがちであるが、その構成員が一人一人それぞれの考え方をもっており、お互いの権力争いのなかで、その政策がきまっている事に気づかされる。毛沢東氏独裁の文革という異常な時代においても、トウ小平氏がいかにまともな考え方を持ち、そして、闘争のなかので何度か失脚しながらも、中国人独特のしたたかさで、その志を貫徹した勇気ある人だったことがわかる。巻末に中国人の石平氏が「私の見たトウ小平、トウ小平の時代と中国」という文章を書かれている。この石平さんは、私と同じ年に中国四川省で生まれ、1988年に日本に来られている。私は、1985年に中国に初めて駐在しているので、逆のパターンを経験しているという点において、大変興味深い。1977年トウ小平氏が文革後の失脚から復活し、大学入学試験の再開を決定。その年、かれは、高校に入る直前だったとある。トウ小平氏の決定によって、彼は大学に進学する事ができたそうである。この本には書かれていないが、毛沢東氏が亡くなった後、四人組逮捕の手はずを整えたのもトウ小平氏であった。= 白猫黒猫論 =「白猫でも黒猫でもネズミを捕る猫はいい猫だ。」= 先富論 =「我々の政策は、一部の人一定の地区に先ず豊かになってもらい、遅れている地区を助けさせる。先進地区の人が遅れた地区を助けるのは義務である。」トウ小平氏の経歴を見てくると毛沢東という異常な独裁者を崇拝していたようでもあるが、大躍進以後一貫して、経済発展を優先しようと、毛沢東に批判され失脚している。しかし、それでもなお復活し、また、失脚するのである。失脚した時には、毛沢東にご機嫌を伺い、復活すると巧妙に毛沢東の意に反して経済発展の手はずをとるのである。こう書いてくるととてもいい人に見えるトウ小平氏であるが、1点疑問がのこるのが、天安門事件。人民解放軍による武力弾圧を決断したといわれている。かれは、なぜ、武力弾圧に踏み切ったのか?答えは、= 経済発展 =であろう。私には、彼の決断が間違ってないように思える。アヘン戦争以後、中国は、混乱に混乱を極める。ほとんどすべての戦争において、まけるのである。なぜ、そんなに弱かったのか?== 経済的な疲弊 ==== 中国人同士の分裂 ==彼は、それを身にしみて知っていたのだと思う。豊かにならなければ、そして、中国は一つにまとまっていなければ、私には、彼のその想いが伝わってくるようである。
2008.11.23
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汪中求先生(の作者、精華大学教授)が、中国とアメリカと日本の大学で長年働かれたある中国人教授の話を引用されております。「中国は日本と同じ道を歩いている。我々は、まだ日本に追いついていない。国民の素養は30年の開きがある。」私は、30年の差がどのように算出されたのか分かりません。しかし、その差があることは認めない訳にはいきません。その原因は、我々の心に中に一種の新しい恨みを抱かせます。この種の恨みは、他人に対して或いは、富む者にに対する恨みや妬みとは、違います。自己の努力に対する恨みです。鉄から鉄鋼を作り出せない恨みなのです。認めたくないけど、現実には認めざるを得ない、どうしようもない恨みなのです。日本人に向かったとき、なぜあんなに意地を張るのでしょう。あのような歴史があったからでしょうか。以前彼らに屈辱を受けたからでしょうか。私が日本を訪問した時に、味わった独特の心理過程。これは、弱小であるが故に味わう屈辱、毎日雪辱を夢見ながら、夢からさめると、相手は、自己より強大であることに気づく。そんな恨みの感覚がますます強くなります。特に最近耳する「三鹿nai粉」「黒煉瓦窟」「黒煤窟」、豆腐カスの工程など、このような国人の顔をなくすようなニュースを聞くと、この種の恨みは抑制できなくなりそうです。この恨みは、良知がまだ存在し、民族の憂慮からくる感情です。この恨みがあるからこそ、自覚が生まれ、動力となり、希望があります。もちろん日本を理解する目的は、青年世代に恨みの種を植え付ける事ではありません。彼らには、徹底的に前の恨みであろうが、後の恨みであろうが、取り除いてもらわないといけません。「青春の力をもって、世界和平」を実現してもらわないといけません。過去の100年、人類は自然を操り物質の力を強大にしてきました。しかし、自己には、安全と幸福はもたらせませんでした。むしろ、人類の暴虐は極地に達しました。未来世界の安定と進歩は、我々の次の世代が友達になれるかどうかにかかっております。和平のつきあい、理性的な交流、人類が共同で制定する規則を尊重し合えるかどうか。次の世代の知恵と文明素養にかかっているのです。以前の恨みをなくすには、理智が必要です。歴史は忘れません。しかし、恨みを放棄する事はできます。恨みは、進歩と平和をもたらしません。国家の強盛を、世界の協調をもたらしません。恨みは、むしろ理智を失わせ、良知をチャンスを失わせます。我々の進歩の速度を遅らせます。後の恨みを放棄することは、私たちをさらに冷静にさせ、平和と虚心を与え、実務的にしてくれます。恥を知る勇気が必要なのです。他人に怒りにまかせて吐く暴言を慎み、自分で実際の行動を起こすようにしましょう。国家の現代化を実現する鍵は、国民意識の現代化です。民族の振興の鍵は民族文化と民族精神の振興です。もし国民意識の覚醒がなければ、国民精神が我々の中に深く根付かなければ、中華民族は、本当の意味の振興を実現する事はできないでしょう。現代化の実現は永遠に夢に終わるでしょう。ただのスローガンに、そして空論に帰してしまいます。私たち一人一人が公徳をを遵守する事から始め、誠実に信を守り、職責を尽くし、社会に関心を持つことから始めなくてはいけません。人に優しくし、環境を護り、社会の協調を守って国家の発展を推し進め、民族のイメージを作り上げなくてはなりません。そして初めて、世界の大家族の中で尊敬される成員となれるのです。世界の民族と肩を並べることができるのです。そのとき、我々が感じるのは、恨みではなく、自尊心であり、自信や誇り、博愛と幸福でしょう。完
2008.11.21
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その訪問で、私が受けた印象は忘れがたい物です。大変多く考えさせられる事柄がありました。この文章を書き出す為に私は学生の論文と作文を読みました。そこで、私と学生、私が知っている多くの日本へ渡航した中国人が感じる恨みから尊敬、そしてさらに恨みへと戻る心理変化を発見したからです。このような心理変化は、他の国を訪問しても起こりえない心理変化なのです。それは、日中間の特殊な歴史に起因しているからでしょう。日中間の戦争が終わってかなりの時間がたちましたが、しかし、それが中国人民の心と感情に残した傷は、消せるものではありません。だからこそ、我々は日本の歴史教科書問題や靖国神社参拝の問題に対して、あのような強烈な反応を示すのでしょう。我々は、この国家の過去を恨んでいるからです。日本からの訪問者を接待する毎に、私は彼らに構内の史料館にある抗日に関する文字や写真を見せないようにする事はできません。彼らは、いつも子細に眺めて、時には黙り込みます。時には、やましさを表される事もあります。私は、四中にこのような歴史と交友があることによって、彼らが四中にを尊重し、彼らが四中と交流をする。これが日本という民族の性格でしょう。しかし、あなたがもう一歩日本を理解すれば、この民族に心から敬服せざる得なくなります。はっきり申し上げますと、私は日本人が中国人より聡明だとは思いません。日本人が思いつくことを中国人が思いつかないとは思いません。しかし、私は、日本人ができる事を中国人ができないという事は認めない訳にはいかないのです。そして、その差は、甚だしい。いったい何故なのでしょう。この弾丸の国は、こんなにも光輝く奇跡を作りました。これは、我々世代、そしてそれ以降の数世代が真剣に考えないといけない問題です。もし、20年前に日本に来ることができたら、我々は、日本のそびえ立つビル群の都市、発達した交通、精巧な電気製品、美しい自動車に圧倒されたでしょう。当時我々は貧しかった。我々は、見識がなかった。しかし、現在、我々は、これらの物質的な物には無関心です。今日我々が目を引かれるのは、日本人と交流するときに、彼らから感じるあるものなのです。一種の特質。あるいは、一種の元素。私は心を痛めながらもこの元素が我々には少なく、全く見られない人もいるという事を認めざるを得ません。しかし、日本では、多くの事柄からそれを感じる事ができます。正確にいうとその存在を感じる事ができます。私はそれを「国民精神」と呼びます。この国民精神は彼らの行動を通して国家形成を可能にします。この国民精神は、彼らに自発的に企業と国家の利益を守らせます。そしてその国民精神は、彼らに自発的に社会の秩序と環境を良好に保たせ、それぞれの人に「自己管理をさせ、社会への弊害を減らす。」事を自己の行動規範たらしめるのです。この国民精神が、この民族をしっかりと結びつけているのです。私は、国民の素養はこのような精神によってのみ具現化できるものだと思います。私は、この国民精神は、日本立国の根本であり、日本が作り上げた奇跡の原因であると思います。国家にこのような国民がいて、このような精神があり、文化があれば、みんなが敬服するでしょう。つづく
2008.11.19
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中国の高校生が日本に修学旅行にきたそうです。そこの校長先生が、日本に学ぶべきであるとブログに書き込み反響を呼んでいるようです。日本にきた中国人は、日本びいきになってかえって行くようです。中国人が裕福になって、どんどん日本を見てくれれば、日本と中国の関係は大きくかわりそうな気がします。原文訳:2008年夏、北京四中高2年400名余名の生徒と先生が大型修学旅行で日本を訪問した。今回の修学活動の大きな目的は「青春の力、世界平和」である。いち学校が組織するこの規模の修学活動は、中国の歴史においても初めての事である。そういう経緯もあり、今回の活動は、日本の各方面の注目を集めた。日本の駐中副大使は、自ら学校にこられ講演をされた。生徒と教師に対し、日本の国情、文化を紹介された。日本にいる間は、日本の報道機関に全行程つきまとわれた。学生たちも今回の修学では得るところが多かったようである。我々は、彼らの修学記録を編纂して本にする事にした。彼らの高校生活の記念にする為である。中国と日本の間には、恩義や怨念などの感情が絶えず存在する。私は、世界中探しても中国と日本の関係のような2カ国は存在しないのではないかと思っている。お互いに大きく深刻な影響を及ぼしているのである。千年前頃、随唐の時代、日本は使者を中国の送り、文化を学んだ。日本は、この頃から文字の使用が開始されたようである。百年前頃になると中国の清政府は日本に留学生を派遣した。それ以外にも多くの中国青年が日本へ自費留学した。その中には、反封建帝国制の志士たちも混じっていました。30年前、トウ小平が日本を訪問し新幹線の中で、「我々も急がなければ」と感じたといいます。自動化の進んだ自動車生産ラインを見て、「現代化とは何かが分かった。」と言ったそうです。彼がこう言った60日後、十一届三中全会が北京で招集され、中国の新しい歴史の一ページが開かれたのです。30年日中両国の関係は紆余曲折がありました。関係が冷え込んだとき、お互いに気持ちが温かくなったとき、30年後の現在、北京四中の400数名が、改革開放後に生まれた青年が日本の修学旅行に行きました。その国家の文化を感じ、その国の人々と友情を結びました。それは学生個人だけではなく、四中や国家にとっても大きな意義のあることです。我々は、間違いなく日本に学ぶ必要があります。それは、多くの人々が認識していると思います。今回の目的の一つは、学生の社会現象の観察能力と社会問題を考える能力の育成でした。学生の作文の中から彼らの観察の細かさ、考えの深さを読み取る事ができました。たとえば、学生が日本の茶道に言及し、日本の茶道と中国の茶の味わい方を対比させ、中国の茶は、その味にあり、日本の複雑な茶道の手順はお茶の歴史と文化、お茶を飲む人への尊敬を表していると書いておりました。これこそが文化の違いであります。ある生徒は、「音姫」の事を書いておりました。これについては、私も以前ガイドさんと論議した事があります。私の友達が礼儀に関する本を書いた事があります。その中で接客の礼儀についての記述があります。人の家を訪問した際、できるだけトイレを使わない。その訪問が長時間に及ぶ場合は仕方がない。そのお宅でトイレを使う場合、水を2回流す。最初は、水の音でその音を消す訳である。こういう動作には、大変高い素養を感じるわけであるが、同時に水の無駄使いであるようにも感じるのです。細かい気遣いをする日本人は、(日本人の発明かどうかは分からないが)音姫を使う。音姫が社会文明の産物である事は間違いない。みんなが、自分が用を足すときの音が恥ずかしいと感じるようになったら、公衆トイレで、大声で怒鳴ったりする事も恥ずかしく感じるのであろう。どうしたら音姫のような文明の産物がでてくるのか?地理的原因なのか、文化上の問題なのか、歴史的な原因なのか、経済発展の相互依存のと関係であるのか、一衣帯水の日中関係は、いつもとぎれなく、そして乱れているのである。私は、四中で、日本の先生や生徒の歓迎式に何度も参加しました。その都度戦争の話になると、いつも謝罪があります。時には、深くお辞儀をされます。2年前長崎東高校などの学校の訪問団を迎えたとき、私は戦争の話はしませんでした。改革開放の発展と和平の話をし、日中関係が両国および世界にとって重要である、歴史と未来の責任は教育者の責任と使命である。それには、日中の青年が友達になるとこにかかっていると話をしました。長崎東の校長の話がはじまると、彼も戦争の話はしませんでした。長崎は中国に一番近い半島であり、中国は、竜のふるさとである。中国との交流では長い歴史があり中国の文化影響が一番大きい場所でもある。と話されました。その活動から100日たたない内に北京四中の歴史上初めての訪問団が日本を訪れる事になったのです。長崎東高等学校で確かに彼が言った竜を見ることができました。竜の鱗にところどころ文字が書かれておりました。つづく
2008.11.16
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