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米沢藩の第一期改革は、竹俣美作綱吉を中心とし、明和・安永期(1760-1770年)に行われます。
1. 倹約2. 農民管理による年貢の確保。
そして最後に、収入を倍増する為に、
3. 漆、桑、楮を各百万本植える。
これらの木からとれる原料を、専売化し藩の収入を増やそうという訳です。調べてみると専売制というのは、特別に目新しいことでもなかったようですが、米沢藩にとっては、画期的な事だったのかもしれません。
しかし、この目論見は、うまくいかなかった。米沢藩でとれる漆蝋よりも西南諸藩でとれる櫨蝋の方が品質がよかったようです。
漆の若葉
櫨の木
蝋栽培と精蝋技術を最初に確立したのは薩摩藩だが、その後久留米藩、熊本藩、福岡黒田藩、萩藩、紀州藩などが、薩摩藩からあるいは種子を譲り受け、あるはいは苗木を買い受けて藩内で栽培を奨励した。その普及の流れの中で、福岡藩はことに櫨の品質改良に力を入れ、竹下直道による優良品種松山櫨の発見、内山伊吉による伊吉櫨の発見などが、木蝋の品質を高める基礎になった。
それに加えて西南諸藩の多くが積極的に晒蝋の技術に取り組んだことが、米沢蝋との間に決定的な品質の差を生み出す事になったのである。
晒蝋の原理は、一言で言えば生蝋を天日漂白して白蝋をつくると言うことだが、筑後晒しと呼ばれる晒にしても、灰汁を加えて大釜で煮る、固まったものをさらに削って粗片にして天日で漂白する。そのあとふたたび釜にもどして煮直して灰分をのぞき、ふたたび斧、カンナなどで削ったものを天日漂白するという、幾工程かの手間をかけて白蝋を作り上げる。
櫨栽培と晒蝋の技術は、大洲藩や松山藩、宇和島藩などの伊予諸藩にも伝えられて行ったが、注目されるのは大洲藩で始まった晒法で、宝暦年間に芳我弥三左衛門がはじめた、筑後晒法に対抗する伊予晒法は、ついにこの後文政期に完成して、筑後晒法を上回る品質すぐれた白蝋を生産する事に成功するのである。
正月に行った島根県の松江城天守閣で、「松江藩の財政危機を救え」という小冊子を手に入れました。(500円税抜)松江藩でも財政危機に際し「趣向方」(企画部)というような部署を設けて、新しい産業育成をはかったようです。櫨蝋を「木実方」という役所が取り扱い専売制にしていたようです。その他にもタタラ製鉄でつくられた鉄を管理する「鉄方」朝鮮人参を扱う「人参方」などがあげられます。
こういう風に書くと、改革がスムーズにいったような印象もたれるかもしれませんが、実際には、うまく軌道にのるまでには、こんな事も行われたようです。
1. リストラ
軍事では、番頭、物頭など指揮官級を削減。
行政では大勢いた奉行を兼務させ奉行職と役所を整理統合。
藩営事業では不採算部門の切り捨て。
こうして御徒身分以下968人を失職。
2. 借金の踏み倒し
闕年(けつねん)といって「出雲国内すべての個人法人の間に結ばれた債権債務関係をすべて無効」にしたそうです。
リストラなんて今に始まったことではないのですね。そして、いつの日か、また闕年が行われるのかもしれません。
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