羊の墓場

羊の墓場

2004.02.23
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人は連続性の生き物であると言った人が居る。
ではその連続性の証とは何かと考えるに、それは記憶である。
記憶こそが我々が人間たる証である。
ならば記憶喪失の患者は人間でないのかと問われれば、条件付きでYESと言おう。
条件とは患者が生まれてから一切の記憶を失っており尚且つ一切の事象を覚える事が出来ない事である。則ち、若し患者に言語知識を与えた所で会話等は勿論成り立たない。
人が連続性の上に成り立つというのは間違い無く事実のようだ。

ところで貴方は産まれた時の記憶を持っているか。
恐らくそんな頃の記憶を持つ者は世界に十人も居るまい。
私の最も古い記憶は三歳の頃のものだ。少々の改竄はあるやもしれぬが大方は当時見たままであろう。
それ以前の記憶は無い。人は平均的に一歳六ヶ月にもなれば物を見られるらしいが、私が一歳の時に物を指差し名前を言い始めたように、それが何か認識するのもその頃だろう。耳だって目よりは早く使い物にはなるだろう。

では覚えていないのは何故か。

理由は一つしか考えられない。
その頃の私は、否、ソレは“私”ではなかったのだ。外見等は確かに今の私へ変わり行く兆候くらいは見せていただろうが、その生命体を私と呼ぶのは憚られる。
連続が成立し、また途切れ、それが繰り返され、いつしかその連続が途切れぬようになり、私が出来た。
それが私の結論だ。
可笑しい事だが、そう考えると“私”という存在が酷く脆く壊れ易く感じる。
眠りに就き、目が覚める時には“私”はもう居ない。
それが幻想では無く超現実では無く、現実として有り得るような気さえしてくる。
それに比べたら“死”のなんと市民権を得ている事だろう。
未知の部分で在るから、想像の域を勿論出ないが、それは肉体の連続性の途切れだろう。しかし、精神が肉体中の脳により定義されるにあたり、精神の連続性もそこで途切れるのだろう。
それはより確定的なだけで、日常の何処にでも在りそうな蓋の開いたマンホール程度の事象だ。
途切れる事、それを人は本能的に恐れるのだろう。眠る事を恐れるのはとても理に叶っている。

生きることが問題ではない。
この連続を続けねばならない事が問題なのだ。





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Last updated  2004.02.23 21:18:07
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