日記はこれから書かれるところです。

日記はこれから書かれるところです。

2005.10.24
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先般、自分の書いたものが多くなってきたことに気付き、分類を試みた。この試み自体は、「分類」よりも自らの「同一性=複数性発見の物語」として機能し、結果的に失敗に終わったのではあるが、しかしながら、予想しなかった効果として、俺自らの「外」に気付かせるという契機になった。

現在義務的にこなしているロールプレイングゲームの登場キャラクターの言葉に、「答えは○○の外にある。○○の内がわかれば○○の外がわかる」というようなものがあったが、つまりそういうことだ。


■ブログは所詮日記である

ブログというのは所詮日記であって、その人と形以上のものは出ないということは以前から考えているところだ。情報の伝達には、必ず、「編集」という「解釈行為」が内在し、伝達者=編集者の<身体>を必要とするものだからに他ならない。

恐らく、同じような認識地平からであろうか、richstyles!さんのは以前からこの問題意識を繰り返していたように思う。

「進歩のない人間がいくらブログを書いても何も出てこない」( 参照

という言には俺も耳が痛いが、恐らく絶えざる自己鍛錬として、自分にも語りかけているのであろうrichstyles!さんの問題意識に、勝手に与ってみようというのが、今回の企てである。


■<身体>という「世界」あるいは「物語」

ジャン=フィリップ・トゥーサンの作品は、80年代の、フランス国内におけるポストモダンの華麗なる隆盛や、アメリカ圏におけるコミュニタリアニズムによるリベラルズへの異議申し立て等の思想界の流れに、文学の側からも応答した結果と捉えることもできると思う。

それは、フランツ=カフカやロラン=バルトとは違い、前衛としてではなく、思想界の殿として表れたという意味である。なんとなれば、トゥーサンは、何よりもまず、フランス国内の学生にウケたのであり、輸入先のこの国にあっても、「若者」が<身体>的に理解する作品だったからだ。

そのなかでも最もオヤジにも読みやすい『カメラ』は、「偶然」あるいは「全く繋がりようのないパラレルな事象」同士を、主人公の<身体>において軽やかに繋いだものとして俺には読める。作中最後においてカメラに写ったものこそが、まさにこの「作品」なのだといえるのではなかろうか(未読者のためにこれくらいで)。


■<身体>の希薄?

日記を公開するという大胆な試みは、コミュニティへのある種の憧憬に根ざしている可能性が高いんじゃないかと疑っている。

<身体>という、コミュニティに内在して意味をなすものから「言語」が切り離されて、ある種の私的言語となりつつあった状況への危機感というのは、ヴィトゲンシュタインを持ち出すまでもなく、感じられていたのだと思われる。

そうであれば、ブログを批判的に検証しつつも、肯定的に捉えることのできる観点も出てくるかもしれない。


■<失恋>という機制

今からみれば一昔前の恋愛形態がわかるという意味で文献的価値も高い『大失恋。』という本があった(過去形なのは、どうももう在庫僅少らしいから)。当時の女性の失恋話を集めたものである。

<失恋>という<身体>言語は、その特殊性において最も個人的なもののはずである。しかし、<失恋>は「物語」という行為が似合う。

それはつまり、最も「他者に理解され難い事柄」という<経験>だからこそ、その「他者には理解できない」という共通点において、逆に、共感可能性を保持しているものなのだということなんだ。

もちろん、その共感には「擬制」があり、「権力」の契機がある。ゆえに、これを利用した「新興宗教」も可能であろうし、また卑近な例で言えば、失恋者というのはモノにしやすい(らしい)。


■共同体―権力

言語共同体に属する以上は、言語に根源的な問題として、「擬制」があり、「権力」が生じる。

つまり、「俺の言葉」と「お前の言葉」の差延の問題だ。「経験宇宙」はそれぞれ違うのだから絶対に一致し得ないはずの事柄が、多くの言葉の消費によって「跳躍」する。その「跳躍」の間だけ人は自由を感じ、その運動全体は一つの「擬制」(理解という擬制)となって、人々を繋ぐ。これが「権力」の根源である。

俺が「傘」といったとき、その名指しする<もの>は、聞いた奴の受け取る<もの>とは違う。「愛」や<感情>になればなおさらだろう。
それを同一性を保持するものとして繋ぐのが、ある種の「権力」なわけだ。

言語共同体に属する以上「権力」は遍在する。
あるいは、「権力」は必要なものである。しかし、その「権力」は人を食らう。

ルソーが著作横断的に提起したように、「権力」を避けられない状況にあっては、それを<可視化>することこそが最高唯一の方策なのである。立憲主義が動態としてしか存在しえない理由なわけだ。

コミュニティはコミュニケーションに先行する。ここではこれがわかればいい。


■小泉純一郎=杉村太蔵の人気の秘密

軽やかとはとてもいえない重量感で、俺の論は飛躍するのだが、小泉=杉村の人気は、実はこのコミュニティと絡む。

言葉の差延は高度な螺旋階段を上るわけで、あらゆる「機関」に、議論の作法というものが生じる。国会などはその一つの例で、素人お断りの雰囲気がある。ルールを明示もせずに、新しく入ってきたものに緊張を強いる。「女子供」を嗤って遠ざける雰囲気は、「国民の代表」という名目に相応しくなく、気持ちの良いものではない。

そうしたことを、多かれ少なかれ、国民は感じている。
そこには、確かにそれなりの理由もあるのだろうが、一般人にはわかるわけもない暗黙の了解があって、そうしたものが<可視化>されずに、何やらよくわからない「権威」を帯びている。選挙時は土下座までする国会議員が「先生」と呼ばれる機制がここにはある。

小泉=杉村はそうした硬直した場所に素人の言葉を臆することなく持ち込む(小林よりのりなどもそうだ)わけだ。
この国の人たちは、堂々としたバカを好む。それは、以上のような状況への鬱憤から来ているとも言える。自分も難しい話のわからないバカだから、「バカでなんで悪いか」と主張したくなるわけだ。

人気の秘密はここにある。


■「バカとして」の戦術を回避せよ!

言うまでもなく、ルールが暗黙化し、外と内を分かつような硬直化が好ましいわけはない。しかし、それを「バカとして」しか解決できないところに、この国の不幸がある。

それは小さな問題を解決しながら、ずっと大きな悲劇を呼び寄せていることに他ならない。せっかく積み上げたものを、壊すことによってしか解決できないのだから、まともな<保守>や<リベラル>が、両翼から批判したくなるのもわかる。

しっかりとそうした硬直化の「権力」を<可視化>し、知的体力を蓄える方向を目指すことを、俺は諦めたくない。


■Deliberationの契機としてのブログの可能性

「共感」や「感動」と簡単に呼ばれるところには、確実に「権力」が内在している。俺がこれらの語に距離感をおくのは、自己中心的で自分勝手な奴等の「傷の舐め合い」が感じられるからだ。

そうしたオナニズム的ブログ状況に対して、richstyles!さんのように、ブログの質を問うのは大変根源的批判だと思う。

そうした問いに答えるために、これだけの回り道を経たが、俺はブログの機能に、それでも可能性を感じる。

つまり、所詮日記だが、それは開かれた日記だということだ。

記事は、確かに書き手のインプットによるのだが、それは固定されたものではなく、その書き手個人が新たな地平に到達する手段として、あるいは、そのコミュニティ「化」作用における、討論の契機として、つまりは、「熟慮」と「討論」という意味を併せ持つ「Deliberation」の契機として、捉えることができるのではないか。

何よりも、自らの成長のために書くもの。そして、それが自ずと他者と関わってしまうもの。それが、「所詮日記、されど日記」としてのブログなんじゃないかと、また、俺は螺旋階段を上り続けるわけだ。


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Last updated  2005.10.25 03:52:35
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