日記はこれから書かれるところです。

日記はこれから書かれるところです。

2005.10.24
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最近、わかりにくい文が多かったので、また論調を戻そうと思う。保坂和志は、書き手も読み手も成長できるのが小説だという。簡単な伝達知識としてではなく、その文章に内在し格闘するなかで、世界への違った眼差しを獲得できるものが小説だという。まあしかし、小説家はそれでも読み手を意識しているはずで、最近の俺の文とはそこが違うところだった。俺の場合は、単に読みにくいだけなわけだ。

しかし、わかりやすさというものには、いくつかの要件があるように思うのだが、恐らく、最も重要なものは<世界>の共有なのではないかと思う。
つまり、俺が「象」というとき、「象」がイメージできるのは、同じく「象」がいる<世界>にいる人間だからである。「象」を知らない人間には、どんなに言葉を用いようとも、言葉だけではわかることはあり得まい。

保坂の言う「内在」というのは、そういうイメージなんじゃないだろうか。

一つの結論を宣言しよう。

具体的イメージ無いところに、理解は無い。


■ポピュリズム

そんなわけで、(比較的にでも)わかりやすい文章のためには、題材選びが大切なわけだ。今回もそういうわけで、重要性・興味関心・<世界>の共有という部分において、現状の政治舞台を眺めることにする。

ポピュリズムというのは、大衆迎合だとか、正しさよりも人気を取る政治姿勢だとか訳される。基本的に間違った定義ではないだろうと思う。

しかし、だからといって、ポピュリズム政治家を軽んじて、その「凄さ」をわかろうとしないならば問題である。定義からイメージできるアホさとは別に、やはりポピュリズム政治家には、 ポピュリズム政治家としての凄さ がある。


■まずは正論で行ってみよう

例えば、石原慎太郎は「これだけをやる」くらいに横田基地のことを公約して出てきたはずだったが、最近はおくびにも出さない。「軽信症と健忘症」の都民は、日頃は忘れていて、選挙のときだけ思い出したようにテレビに食い入るわけで、争点を変えられて、容易にまた信じることとなるわけだ。

また、「郵政」を言うときには、「政治家が一部の票の代表になってはならない」といっていた小泉という奴のほうは、ある種の集票団体で、しかも自身の総裁選では支援をもらった「遺族会」になると、もちろん何も言わなくなる。

この点に関しては俺はどちらがどうとか言いたいんじゃない。結論への賛成反対の前に、その態度が政治家としてどうかと聞きたいわけだ。

しかし、この記事において確認したいのは、そういうことではなく、 ポピュリズム政治家には、論理を言っても始まらない ということなのである。


■ポピュリストの凄み

ポピュリズム政治家の凄みは、以前「 政治家になりたいなら磨くべきスキル(2) 」で語ったようなスキルを体で覚えているということだ。
そこでは「騙す技術」だと述べたが、それは実は二つのことを含意する。

・ひとつは、少数派の選別眼を持つこと。

これは以前も述べてあるので難しくないと思うが、今回の小泉を例に採ってもう少し詳しく言えば、大衆の多数派の意見をとっているということがポイントだ。
つまり、「遺族会」と「特定郵便局員」の差ではなく、より大きな層を形成している大衆が、どちらに心情的に近いかがポイントになっている。

・もうひとつは、大衆の暗黙の不安を読み取れること。

さてさらに重要なのはこちらだ。ここにこそポピュリストの凄みが表れている。小泉にしても石原にしても自分というものが無い。
これには、「えっ?」と思うかもしれないが、彼らには実は「我」が無い。その都度、周りの反応に合わせて、自らの心情さえ変えることができるわけだ。自分さえも騙す域にまで達した詐欺師政治家のことをポピュリストと呼ぶわけだ。だから、悲しくも無いのに涙が流せるし、よくわかってもいないのに、真面目に考えている風を装えるのである。

ポピュリストについて知りたければ、石原について書かれたノンフィクションである佐野眞一の『てっぺん野郎』がお薦めだ。

下手に論理を振りかざす前原に、今の土俵では勝ち目が無い。支持層等に関して違う戦略を立てないことには、民主党はきついだろう。


■小泉が危険なのか?

以上のような理由からはっきりわかるし、歴史的にも証明できることがある。
それは、 ポピュリズムは「保守」からしか生まれない ということだ。

どんなに「つくる会」が詭弁を弄そうと、歴史的に全体主義は「保守」のものなのである。

理由は簡単で、 ポピュリズム政治家は、民衆多数派の「感覚」を読み取るがゆえに、多数派の保守的感情を必ず飲む からだ。
ひどい財政的緊迫状況にありながら「消費税増税」を任期中にはしないと言い、「改憲」も任期中には行わない、と述べるのは、大衆の世論というものを察知する「直感」が優れているからに他ならない。

日本という国にとって良いか悪いかは全く別として、小泉にしても石原にしても、こうした勘働きは、凄いものだと認めざるを得ない。
ここを認めて、初めて対策が考えられるもののはずだ。

だからこそ、俺は、小泉が危険というよりも、そうしたポピュリズム政治家を選出しているこの国の状況こそが危険だと思えるわけだ。
「改革」は必要だ、でも、自分の生活は変わりたくない。というある種の矛盾した大衆の心情を、小泉は見事に体現しているわけである。


■有難いと思うのは、ときに危険なこと

この国では、昔から、自分のことをわかってくれる「お上」が人気だったように思う。
「お上」という時点で、見えない権力関係があるのだが、そこを深く掘り下げずに、よくしてくれるように見える「お上」にコロッといってしまう

いや、これはこの国のみならず、ビスマルクからがそうであるように、近代国家という危うい形態では当然なのかもしれない。
まさに「アメとムチ」だ。

つまり、今そこに見える善意に有難がってしまい、毎度有難がらなくちゃいけないという問題構造に対して全く目が開かれていない状況におかれているわけだ。


■愛しているからこそ、切り分けて疑う

俺は「靖国」を語るときも、遺族のケアの問題と、「靖国」自体の構造の問題を切り分けて語ってきたつもりだ。
だが、権力に絡み取られている人間にはそれができない。
靖国神社が自らの考えから勝手にA級戦犯を合祀し、「靖国」自体が明らかに政治上の問題であると公言するのと同様のことをはじめたにも関わらず、そうした 難しい問題よりも、とにかく目先の感情で結論を急いでしまう

そして、さらに問題なのは、ポピュリズム政治家は、そうした「感情」を汲み取って、涙が流せるし、逆説的だが心が無いからこそ嘘ではない表情ができる。それはある種の本物の「善意」なのである。

「国を思って」特攻志願した人も「善意」だっただろう。これを「愛国心」と呼びたがる気持ちはわからなくない。
だが、問題は、明らかに情報の非対称性がある状況での「善意」だったことなのである。
「信じる」というのは、崇高なものであることは認める。だが、それで他者を不幸にする場合もあることを考えないといけない。

カルトと呼ばれる宗教に入信した若者の信仰と選ぶところがあるだろうか?

地獄への道は善意で敷き詰められている。俺は愛しているからこそ、切り分けて疑う。


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Last updated  2005.10.25 03:52:18
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