日記はこれから書かれるところです。

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2005.11.22
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カテゴリ: 今日の言葉
君主の物理的強制力は、行為に対して発動するが、意思にまでは及びえない。しかし、多数は物理的であるとともに精神的な力を身にまとっており、それによって行為と同様に意思に対しても影響を及ぼし、作為と同時に作為の欲望も禁圧されるのである。
・・・
絶対君主制は専制を不名誉にした。民主的共和政がそれを復権させ、少数の人々にはこれを重い負担とする一方、大多数の眼には、その忌むべき堕落の様相をおおいかくす。そんなことにならぬよう注意しよう。――フランシス・ド・トクヴィル『アメリカにおけるデモクラシー』


19世紀にトクヴィルがアメリカの民主政から学ぼうとしたものはたくさんあるが、上に挙げた危険もその一つだった。この章(第7章)のトクヴィルは面白い。「アメリカほど、自主独立の精神と真の言論の自由の少ない国を私は知らない」とまで述べている。その理由が、上の「多数による意思への影響」であることは言うまでもない。この民主政への警句は現代なお輝き続けていないか?

ところで、先日の「 多数の専制 」において問題だったのは、最後の多数決への強権的誘導よりも、それ以前にフィクシャスな共同体ができてしまっていたことではなかろうか。あの場面ですでに、登場人物のDは、そう簡単には拒否できない状況にまで追い込まれていたはずだ。君には自由があるという言葉の裏に、権力者に従うならばという条件節が紛れ込んでいる事実は、学校生活を過ごしたことのある人間なら誰でも知っていよう。その権力者が多数であるときが本当の厄介だということは容易に想像できるのじゃなかろうか。権力が見えなくされている社会は怖い。

俺は、(これ以上語るのは、蛇足もいいところだが)それゆえにこそ、立憲主義の精神が絶対的に肝要なように考えている。司法過程は、統治の一機関によるものであることは間違いない。だが、権力側だからといってこれを忌避するのはおかしい。というのは、権力分立が説かれる本当の理由は、権力が必要だからに他ならないからだ。権力が無い状態で、友愛に頼ろうなどという言は、それこそアメリカのネオコンには馬鹿にされるだけだろう。俺は権力の必要性を認め、その上で、その危険に意識的に臨もうという意志こそ、立憲主義の本義だと考える。司法の場における<解釈>行為の保障こそが、「多数の専制」へのカウンターになりうる装置なわけだ。民主主義という政治過程だけに自浄作用を求めようとするのは、自分が権力側に立つ可能性があるということを知らない蒙昧な意見に過ぎないように思う(既存の左翼政党は注意せよ!)。


バナーは掲げるもの

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「自作自演」もいいところっていう文になってしまいました。すみません。

さて、お願いです。先日紹介したアリジャンへの署名は 24日(明日!)が最終〆切 のようです。
アリジャン応援サイト( こちら )をご確認のうえ、署名をご検討ください。署名のお願いではなく、検討をお願いします。
アリジャンの『母さん、ぼくは生きてます』は本としてお薦めします。





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Last updated  2005.11.23 02:43:20
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